村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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自民党総裁に大方の予想に反して高市早苗氏が選ばれました。党員票を予想以上に獲得したことが議員票も動かしました。
ここでも参政党を押し上げたのと同じ草の根の保守パワーがありました。

保守、右派、極右といわれる勢力がヨーロッパで急速に伸長しています。アメリカのトランプ政権はそれに先行していました。日本は少し遅れて追随しているわけです。

こうした勢力はナショナリズム、排外主義などを掲げていて、これらの主張は衆愚に受けるので、右派ポピュリズムとも呼ばれます。
この調子で各国で右派ポピュリズム勢力が伸びて政権を取るようになると、世界は破滅に向かいます。
ナショナリズム、愛国主義、自国ファースト、排外主義は、要するに国家規模の利己主義ですから、利己主義と利己主義は当然ぶつかります。
これは子どもでもわかる理屈です。

アメリカは自国ファーストでやっていますが、これはアメリカが世界一の大国だからできることです(とはいえ各国は不満なので、水面下でアメリカ離れをしつつあります)。
小国は自国ファーストの外交なんかできません。そうすると、国内の支持者が離反して、政権は長く持たないでしょう。
国内の支持者の期待に応えようとすると、他国と衝突します。


自国ファーストはうまくいかないということがなぜわからないかというと、視野が狭くて国内のことしか見ていないからです。
実際、毎日のニュースのほとんどは国内のことです。海外のニュースもありますが、興味がない人には頭の中を通り抜けていきます。

それから、先ほど「子どもでもわかる理屈」といいましたが、子どもはいつも「自分さえよければいいというのはだめだ」とか「利己主義はよくない」とか言われているので、わかるはずです。

しかし、実はここに問題があります。
「利己主義はよくない」と説くおとな自身が利己主義者です。人間は基本的に利己主義者だからです。
そうすると、「利己主義はよくないと利己主義者は言った」ということになり、これは「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」という有名なパラドックスと同じです。
「利己主義はよくない」という言葉には偽善があり、人はみな子どものときからこの偽善にうんざりしています。
そうしたところに「自国ファースト」の主張に出会うと、これまで抑えていた自分の中の利己主義が引き出されてしまうのです。
「自国ファースト」は、国内に限定すれば利他主義に見えるので、本人は自分は利他的な主張をしていると思って、どんどん主張を強めていきます。


人間は基本的に利己的です。
公平の基準を越えて利己的にふるまう傾向があります。
いつもなわばり争いをしている動物と同じです。
ただ、動物のなわばり争いは本能の歯止めがあるのでほどほどのところで止まりますが、人間はそうはいきません。
そこで人間は、争いを回避するために「法の支配」という方法を考え出しました。法律によって公平の基準を客観的に決めれば、争うことはかなり回避できます。
しかし、まだ国際社会には法の支配が行き届いていないので、ここでの争いは深刻化し、戦争になる可能性があります。
そういうことを考えると、「自国ファースト」の主張はあまりにも無神経です。


しかし、「人間は利己的である」ということは常識になっていません。
人間は自分は利己的であると認めたくないようです。
しかし、他人についてはしばしば利己的だと非難します。
つまり「自分は利己的でないが他人は利己的だ」ということになります。
私はこれを「天動説的倫理学」と呼んでいます。
「天動説的倫理学」はまったく非論理的なので、「ナショナリズムは国家規模の利己主義である」ということすらはっきりとは認識されていません。

自分も含めて「人間は少し利己的である」というのが正しい認識です。
したがって、自分の判断を少し利他的な方向に補正すれば、公平な判断ができることになり、むだな争いは避けられます。


結局のところたいせつなのは、私がかねて主張しているように、自分中心の発想から抜け出すことです。
安全保障についても、自国の安全ばかり考えていてはだめです。
習近平主席や金正恩委員長の立場になって考え、そして日本の立場になって考え、そうして第三者の視点から日本の安全保障や国益を考えればうまくいきます。

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人間は自分中心に社会を見ています。天文学の天動説と同じなので、ものごとを深く考えていくとわけがわからなくなります(むずかしい哲学がそれです)。
自分中心を脱した正しい視点から社会を見ていくブログです。


世の中にはさまざまな対立軸があります。
保守対リベラル、男性対女性、富裕層対貧困層、知識人対大衆、先進国対途上国などです。
このほかに、きわめて重要なのにほとんど認識されていない対立軸があります。
それは「おとな対子ども」です。

おとなと子どもはそんな対立する関係ではないと思う人もいるでしょう。
しかし、男性対女性も昔はそう思われていました。フェミニズムが登場して初めて男性対女性という対立が可視化されたのです。

世代間対立があることは誰もが認めるでしょう。
今ならZ世代、氷河期世代、バブル世代、団塊世代などに分かれて対立しています。
しかし、世代をいう場合は20歳前後の「若者」までです。それ以下の年齢の「子ども」世代は無視されています。

日本では1946年の総選挙において女性参政権が認められ、初めての「普通選挙」が行われたとされています。
しかし、このときは20歳以下に参政権はなかったので、実際は年齢制限選挙でした。年齢制限選挙を普通選挙と偽ったのです。

同じことは前にもありました。
1925年に選挙権の納税要件を撤廃した「普通選挙法案」が成立しました。男子のみの制限選挙であったのに普通選挙と偽ったのです。女性は無視されていました。
今は18歳以下に投票権のない年齢制限選挙ですが、メディアは「年齢制限選挙」という言葉を使わずに普通選挙に見せかけています。


どんなに高度に発達した文明社会でも、生まれてくる赤ん坊は原始時代と同じです。
原始時代にはおとなも子どもも似たような意識状態だったでしょう。
しかし、文明社会では、文明化したおとなの意識と子どもの意識が乖離します。
共感性の乏しい親は子どもに愛情を持ちにくくなるかもしれません。
文明社会では礼儀や行儀が重視されるので、親は小さな子どもにむりやり礼儀や行儀を教えなければなりません。これが「しつけ」ですが、このときにしばしば暴力が伴います。
子どもは文明社会に適応するために多くのことを学習しなければなりません。
江戸時代には寺子屋に通わない子どもも十分に生きていけましたが、近代になると社会が急速に複雑化するので、中学までが義務教育になり、高校を出るのは最低限のことになり、大学、さらには大学院に行くことが求められるようになりました。
そうすると、子どもは小さいときから勉強しなければなりません。人間には好奇心や学習意欲が備わっていますが、それだけでは足りないと考えられていて、家庭でも学校でも勉強が強制されます。

つまり文明社会では、子どもに強制的・暴力的な教育としつけが行われているのです。
このようなおとなと子どもの関係は「対立」というのが当然です。
強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは傷つきます。つまり子どもはみな被虐待児です。
これはおとなになっても尾を引くので、おとなはみなアダルトチルドレンです。DV、依存症、自傷行為、自殺につながることもあります。

このような強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは、おとなになると子どもに対して同じことをするので、そのやり方は次の世代に受け継がれていきます。学校の運動部で上級生から暴力的な指導を受けた一年生が、二年生になると一年生に対して同じような暴力的な指導をするのと同じです。


大人と子どもの対立関係はその他の対立関係にも影響します。
たとえば古代ローマ帝国や近代列強は、文明の遅れた地域を植民地化し、そこの人間を奴隷化しました。子どもを暴力的に支配する人間は、文明の遅れた人間を暴力的に支配することが平気でできるからです。
男性が女性を暴力的に支配することも同様です。

私はおとなが子どもを暴力的に支配することを「子ども差別」と呼んでいます。
そうすると、子ども差別、性差別、人種差別が三大差別ということになります。
今は性差別と人種差別をなくそうと努力していますが、子ども差別を放置しているのでうまくいきません。

保守対リベラルの対立のもとにも、おとな対子どもの対立があります。
リベラルは社会体制を改革しようという立場なので、親に反抗する子どもと心情的に共通します。
一方、保守は反抗する子どもを力で抑えつける父親と心情的に共通しています。
アメリカで保守対リベラルの対立が先鋭化しているのは、家庭内で親子関係の暴力的な傾向が強まっているからでしょう。


ところが、このようなおとなと子どもの対立関係は、ほとんど認識されてきませんでした。
おとなは子どもに強制的・暴力的な教育としつけをしていても、子どもはそれを喜んで受け入れているとごまかしてきたのです。女性をレイプした男性が、相手も喜んでいたと主張するのと同じです。
レイプのたとえは決して行きすぎではありません。今の世の中、親から虐待されて殺される子どもが毎年何十人もいます。

おとなの視点からだけ見ていては、おとなと子どもの関係は正しく把握できません。
子どもの視点あるいは神の視点から見て初めて全体像が把握できます。
そうした視点を確立するには次の記事が役に立つはずです。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」

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7月に日本版Netflixで配信され、8月に7年ぶりに地上波で放映されたアニメ「火垂るの墓」(高畑勲監督、野坂昭如原作)が、ガザやウクライナの惨状などと重ね合わされて、改めて注目されています。

その中で、9月24日付朝日新聞が「火垂るの墓自己責任論語る若者」という記事で、最近の若者は妹の節子が死んだのは兄の清太のせいだとか、自業自得だとか考える者が多いと書いていました。
昨秋、Netflixで「火垂るの墓」の世界配信が始まったころ、「妹はクズな兄貴のせいで……」という歌詞のラップ曲がティックトックに投稿され、約5万の「いいね」を集めたということです。

「火垂るの墓」のストーリーを簡単に説明しておくと、清太と妹の節子は第二次世界大戦末期、米軍の空襲で神戸の実家が焼失し、母親を亡くします(父親はおそらく戦死)。親戚のおばさん宅に住まわせてもらいますが、食事の量を少なくされたり、「疫病神」などと嫌みを言われたりすることに耐えられず、近くの防空壕で暮らし始めます。当初は自由な生活を楽しんでいましたが、食料が尽き、終戦直後に節子が栄養失調で亡くなり、その後清太も亡くなります。

1988年に公開された当時は、清太に同情的な観客が多かったということです。
しかし、朝日新聞の記事によると、神戸市外国語大学で作品を学生に見せたあと「清太自身の行動に責任があったと思うか」というアンケートを行ったところ、「あった」と「少しあった」が9割超、「あまりなかった」と「なかった」が1割弱でした。
2回生の女性(19)は「おばあさんは意地悪でも、最低限の食事は出していた。清太は見通しが甘く、同情できない」と言いました。中学生で初めて見た際は、かわいそうな兄妹と思いましたが、今回見て「清太の破滅的な無計画さ」にいらだったということです。

このような若者の反応に、新自由主義的な自己責任論の蔓延が感じられます。
しかし、「新自由主義的な自己責任論」という一言で片付けるのも安易です。
「火垂るの墓」という具体例があるので、自己責任論の中身を掘り下げてみたいと思います。


「火垂るの墓」の兄妹に対する評価が変わってきたのは、世の中の子どもに対する評価が変わってきたことが影響していると思われます。
近ごろは赤ん坊の泣き声がうるさいとか、公園で遊ぶ子どもの声がうるさいとか、公共の場で子どもが騒がないように親はしつけをちゃんとするべきだとか、とにかく子どもに対する風当たりが強くなっています。
そのため、「おとな対子ども」という状況では、子どもよりおとなに味方する人が多くなっています。
そうすると、「おとなの責任」は不問にされて、「子どもの責任」ばかりが問われることになります。
このような責任のアンバランスから自己責任論が生まれます。

親を亡くした14歳の清太と4歳の節子は親戚のおばさんの家に引き取られますが、おばさんから受ける仕打ちは虐待です。
食糧難の時代に二人の子どもの世話をするのはたいへんでしょうが、子どもを引き受けた以上は、できる限りの世話をするのが親代わりとしての責任です。
ところが、おばさんの責任を不問にする人がいます。そういう人は清太にすべての責任を負わせ、自己責任論を言います。

清太が感情的になって家を出て、将来の見通しもなかったことも非難されていますが、14歳なのですから、おとなのように判断できなくて当然です。
子どもにおとなのような判断力を求めることも自己責任論につながります。

それから、自己責任論は戦争という大状況を無視しています。
これは戦争という大きな悲劇の中の物語です。したがって、清太と節子はもちろん、虐待をしたおばさんも戦争の被害者だといえます。
清太の責任を言う人は戦争責任を不問にしています。

戦争責任というと、天皇とか東条英機とか軍部とかが想起されますが、これは子どもの視点の物語ですから、やはり「おとなの戦争責任」ということになるでしょう。
おとなが起こした戦争のために子どもが不幸になったのです。
したがって、このアニメのおとなの観客は、戦争の悲惨さとともにみずからの罪深さについて考えざるをえないはずです。
しかし、みずからの戦争責任について考えたくない人もいます。そういう人は子どもの清太に責任をかぶせます。


高畑勲監督は公開当時に「もし再び時代が逆転したとしたら、果たして私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。(中略)未亡人(親戚のおばさん)以上に清太を指弾することにはならないでしょうか。ぼくはおそろしい気がします」と語っています。
時代は逆転しつつあるのでしょうか。

ともかく、自己責任論は、強者が弱者に責任を押しつけるところに生じるものです。

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世の中に争いが絶えないのは、ほとんど倫理学のせいです。
善と悪には定義がなく、客観的な基準もないので、誰もが自分中心に善悪の判断をします。
ネタニヤフ首相はハマスを悪と見なしますが、ハマスはネタニヤフ首相を悪と見ています。
トランプ大統領は極左勢力を悪と見なしていますが、極左勢力とされた人にとってはトランプ大統領が悪です。
夫婦喧嘩は互いに相手を悪と見なして行われます。
私はこのように自己中心的に善悪を判断することを「天動説的倫理学」と名づけています。

つまり善悪という概念があるために、かえって争いが激化しているのです。
そうすると、善悪という概念を使用禁止にすればいいのではないかということが考えられます。
しかし、善悪はあまりにも生活になじんでいるために、それはむずかしそうです。

そこで、人間は「法の支配」という方法を考え出しました。
あらかじめ法律をつくっておき、それを善悪の基準(の代わり)とするのです。これは客観的な基準なので、混乱はかなりの程度避けられます。恣意的に罰される恐れもなくなり、安心して生活できます。
もっとも、国際社会と家庭内にはほとんど法の支配は及ばないので、国際社会と家庭内では深刻な争いが生じますが、一応法の支配によって社会の秩序は保たれてきました。

しかし、このところ急速に法の支配が崩れています。
その理由はインターネット、SNSの普及です。
それまでは学者とジャーナリストが世論を導いていましたが、インターネットが普及してからは大衆が世論を導くようになりました。
知識人にとっては法の支配の重要さは常識ですが、大衆にとっては必ずしもそうではありません。

法の支配は、手間と時間がかかります。
日本では現行犯逮捕を別にすれば、警察が捜査して、逮捕状を執行して初めてその人間を容疑者と認定して、メディアがバッシングします。しかし、推定無罪という原則があるので、これはメディアが先走りしすぎです。本来は有罪判決が確定してから犯罪者ないし「悪人」と認定するべきです。
しかし、人を攻撃するのは欲求不満の解消になります。相手が悪人なら世の中のためという名分も立つので、みんなが先走ります。
ネットでは法の裁きを待たずに、写真や動画などを“証拠”として、誰かを悪人に仕立てて攻撃するということが盛んに行われています。
こういうことに慣れてしまうと、法の支配なんていうものは面倒くさくなります。
正義のヒーローが活躍するハリウッド映画も、法の裁きを待たずに悪人をやっつけるものばかりです。

こうした風潮を利用してのし上がったのがトランプ大統領です。
利用しただけではなく、この風潮をあおりました。そのためアメリカでは法の支配は崩壊寸前です。


法の支配がたいせつなのは、倫理学が機能していないからですが、一般の人は倫理学が機能していないということをほとんど知りません。
アリストテレス、カント、ヒュームは代表的な倫理思想家ですが、その著作を読んだという人はめったにいません。ひじょうに難解だからですし、がんばって読んだところでほとんど役に立たないからです。
ただ、倫理学は権威があります。倫理学は哲学とほとんど一体なので、哲学の権威がそのまま倫理学の権威になっています。
そのため、誰も倫理学に向かって「王様は裸だ」とは言わないのです。


20世紀の初め、ジョージ・E・ムーアは『倫理学原理』という著作において「善は分割不能な単純概念だから定義できない」と主張しました。それに対して誰も善の定義を示すことができませんでした。
善の定義がないということは悪の定義もないということです。さらにいうと正義の定義もありません。
こうなると道徳とはなにかということも問題になります。
そうして倫理学者は、善悪とはなにか、正義とはなにか、道徳とはなにかという根本的な疑問に向き合わなければならなくなりました。
こうしたことを研究をする分野をメタ倫理学といいます。
いわば倫理学は「自分は何者か」ということに悩んでいる若者みたいなものです。当然、社会に役立つことはできません。

メタ倫理学が存在することによって、倫理学がまったく役に立たない学問であることが明らかになりました。
しかし、知識人はそのことを知ってか知らずか、倫理学について語ることはありません。
知識人にとって倫理学の実態を語ることは、“身内の恥”を語るようなものなのでしょうか。

倫理学について語らずに法の支配のたいせつさを説いても、まったく説得力がありません。
倫理学がだめな学問であることを説けば、おのずと法の支配のたいせつさもわかり、ある程度争いを避けることができます。




メタ倫理学は倫理学の中でももっとも難解な分野です。
その中でとてもわかりやすい文章でメタ倫理学を解説したサイトがあったので紹介しておきます。

「メタ倫理学」

しかし、これを読んでも、結局は「わからないことがわかった」ということになるでしょう。


私がこれほど倫理学批判をしたのは、正しい倫理学を知っているからです。
正しい倫理学については次を読んでください。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」


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『結婚帝国』は上野千鶴子氏と信田さよ子氏の対談本です。
2004年に『結婚帝国:女の岐れ道』というタイトルで出版され、2011年に追加対談を足して『結婚帝国』として文庫化されました。

上野千鶴子氏といえば言わずと知れた日本のフェミニズム界の第一人者です。
信田さよ子氏はアダルトチルドレン・ブームを主導したカウンセラーであり、親子関係の問題に関する第一人者です。
男女関係が権力的な支配関係になっていることをフェミニズムは告発してきましたが、親子関係の問題は取り残されてきました。
権威ある心理学者も親子関係の問題を親の側から見がちでした。もっぱら現場のカウンセラーが親子関係が権力的な支配関係になっていることを子どもの側から告発してきたのです。
この二人の対談によって、男女関係というヨコ糸と親子関係というタテ糸が交わることになります。どんな織物ができるでしょうか。

なお、私は親子関係の問題を文明史的観点でとらえてきました。
どんな高度な文明社会でも赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきます。親を初めとするおとなは、その赤ん坊を文明社会に適応させなければなりません。家の中を汚さないよう、高価なものを壊さないよう、道路に飛び出さないようにしつけ、読み書き、数学、歴史など多くのことを教えますが、それらは子どもの意志を無視して強制的に行われ、暴力も伴います。ここに権力的な支配関係があり、これは男女関係の問題よりも(歴史的にも個人史的にも)先行して存在しているというのが私の考えです。


最初のうち対談はあまりかみ合っていない感じがします。
たとえば信田氏が「上野さんは笑うと思うけど、わたしは自分が男の性的欲望の対象になるということを自覚したことはありません」と言うと、上野氏は「カマトトか鈍感か、どちらなんですか?」「男の鼻面引きずり回す女だっているじゃありませんか。やったことはないんですか?」ときびしく問い返し、上野氏自身は「誘惑者としての娘」という位置を3歳のときに父から学んで、若いころは男を試し続けたと語ります。
それから、信田氏が「わたしはルイ・ヴィトンが好きなの」と言うと、上野氏は「わたしは、一点もルイ・ヴィトンやグッチを持たないのが誇りです」と言います。
このときの現場はどんな空気だったのでしょうか。こういう摩擦を恐れない姿勢が今の上野氏をつくったのでしょう。

やがて話がかみ合ってきます。それは男女関係の問題と親子関係の問題がもともとシンクロしているからです。
上野氏は「妻を殴るときは自分が痛いんだ」とか「君を殴るとき、僕の心が泣いているんだ」と言う夫の例を持ち出します。
こうした言葉は、親や教師が子どもを殴るときの常套句です。
ということは、DV男というのは、子どものときに親や教師から殴られた経験が深く刻印されているのではないかと思われます。

暴力にもいろいろな形があります。
信田氏は、「僕はこう思うよ」「でも、私はこう思うわ」などと二人で延々3時間も話し合って、その果てに殴るという夫の例を挙げます。この夫は「話し合いをもって善とする」という家族で育った人なので、夜を徹してでも話し合うのですが、いつも最後には手を出すのです。

上野氏は夫から殴られているにもかかわらず逃げ出さない妻に疑問を呈します。もちろん経済的事情や子どものためなどで別れられないということもありますが、逃げられるのに逃げない妻がいることは上野氏にとって理解できないようです。
信田氏は、別れない妻は「孤独」を理由にするといいます。しかし、実際は妻という座から転がり落ちる恐怖ではないかと信田氏は推測します。夫と別れると自分が社会からこぼれ落ちてしまう。社会的地位があろうと、何億という貯金があろうと、結婚制度から降りたとたんに一人の中年女性になってしまう。それをちょっと考えただけで怖いので、「だって、私が捨てたらあの人はどうなるの」などと理由をつけて別れるのを回避するというのです。

信田氏は「家族は強制収容所である」といいます。子どもは強制的に収容されて、逃げられないからです。
それは妻にとっても同じことで、自分で選んだつもりで入っても、そこは強制収容所だったということになります。

こういうことは隠されてきました。暴力は「愛のムチ」と呼ばれました。
それが「アダルトチルドレン」という言葉が出てきて、人々の認識が変わりつつあります。
「PTSD」という言葉も画期的でした。これはアメリカの精神医学界でも認められたものです。診断マニュアルでは病因を不問にするのが建て前だったのに、PTSDは過去のトラウマ体験が病因であるとするものです。そのため法律や裁判の分野で活用されてきました。

私はこれを読んだとき、最近芸能界などで性加害やセクハラが問題になると、かなりはっきりと被害者寄りの判断が下されるようになったのは、こういう事情だったのかと思いました。
つけ加えると、アメリカでは事情が違います。子ども時代に父親から性的虐待を受けたと娘が父親を裁判に訴えても、記憶は捏造されるというへんな理論があるために娘が敗訴してしまうのです(このことは『アメリカは90年代の「記憶戦争」で道を誤った』という記事に書きました)。


信田氏が「わたしはね、『自立』っていう言葉を、すべて消したほうがいいんじゃないかと思うんです」と言うと、上野氏も大いに同感します。
「自立」はネオリベラリズムの「自己決定・自己責任」に翻訳され、努力と才能で人生の勝ち組になるべきだという考えにつながります。そうすると、摂食障害の女の子たちが「わたしが勉強できないのは、わたしの努力が足りないから」「こんなだめなわたし、でもそれを許してるのもわたし」「ああ、こんなマイナス思考のわたし」という出口のないアリ地獄に落ちることになるといいます。

「自立」を否定するならどうすればいいかというと、信田氏は「依存でもいい」と言います。
上野氏はここは同意しません。自分の限界を知って、「自分にないが、必要なものをよそから調達するスキル」が必要だと言います。これが「自立」に代わるものであるようです。


本書のテーマは「女性と結婚」ということになるでしょう。私は親子関係に焦点を当てたので、本書の全体像は紹介できていません。
そこで、多少修正する意味で、追加対談の中で上野氏が語った結婚についてのデータを紹介しておきます。
(財)家計経済研究所が25歳から35歳までの年齢層の女性を1993年から10年間にわたって追跡調査したところ、シングルだった女性の10年後は、正規雇用者のほうが非正規雇用者よりも結婚確率も出産確率も高かったのです。つまり「妻の側」の安定した経済条件が結婚と出産を高めるのです。そうすると、女性に正規雇用を提供することが少子化対策に有効だということになります。
参政党の神谷宗幣代表は「若い女性に働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因であるようなことを言いましたが、正しくは「非正規で働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因だったのです。

上野氏は結婚確率を高めよと主張しているわけではありません。上野氏はこのところ「おひとりさま」の生き方を追究しているように、結婚にも男にも期待していないようです。
信田氏は既婚者ですが、上野氏ほどではないにしても、同じような立場です。


私は男ですから、そんな考えにくみするわけにいきません。男といってもいろんな男がいます。

最初にいったように、文明社会では子どもに強制的で暴力を伴う教育としつけが行われていますが、そのやり方は一律ではありません。ひどく暴力が行使される場合もあれば、愛情深く育てられる場合もあります。
DV男になるかならないかは、そこである程度決まります。

今の世の中は、とくに男の子に対しては暴力的な子育てが認められています。
「巨人の星」の星飛雄馬が父一徹から受けたようなスパルタ教育は極端だとしても、似たことは広く行われています。私は市民プールやスポーツジムのプールで父親が泣きべそをかいている子どもをむりやり泳がしているのを何度も見てきました。もし星飛雄馬が結婚していたらDV男になっていたでしょう。
しかし、DV男というのは、軍隊に入れば“鬼軍曹”になり、ブラック企業に入れば成績のいい管理職になるので、社会から有用な存在と見なされています。

DV男から逃げない女性も同じことです。親から暴力をふるわれていれば、恋人や配偶者から暴力をふるわれても受け入れてしまいます。
つまり暴力的な子育てがDV男とDV男から逃げない女をつくるのです。


「自立」と「依存」についても、親子関係からとらえるとわかりやすくなります。
赤ん坊は完全に母親に依存しています。成長するとともに少しずつ自立していきますが、不適切な養育があると自立がうまくいきません。親がわざと子どもの自立を妨げ、自分に依存させるということもあります。人間には情緒的な人間関係が必要なので、夫婦関係が形骸化し、友人関係もほとんどないという親は、子どもをいつまでも手元に置いておきたくなるのです。

したがって、成人しても十分に自立していないという人がほとんどです。そういう人に「自立しろ」と言ってもむだなことです。自分の成育歴を振り返り、親子関係を見直し、現在の人間関係の中で親から与えられなかった愛情を補填することで自立ができます。
もっとも、人間は出発点で依存していたのですから、依存するのが本来の姿で、自立は表面的な姿だともいえます。適切な依存関係を持つことが幸せのひとつの条件だと思います。


私は子どもが強制的・暴力的に教育・しつけをされている状況を「子ども差別」と呼んでいます。
この世の中の根底には「子ども差別」と「性差別」というふたつの問題があるわけです。
家父長制も「子ども差別」と「性差別」というふたつの差別で成り立っていると見なすと、わかりやすくなります。

性差別を解消しても自分に利益はないと思う男性が多いので、フェミニズムはあまり男性に支持されません。
しかし、子ども差別は男性自身の問題でもあるので、子ども差別解消の運動は男性を巻き込むことが可能です。
子ども差別をなくし、まともな親子関係で育った男が増えてくれば、上野氏も少しは結婚を肯定的にとらえるようになるのではないでしょうか。

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