村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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世の中に争いが絶えないのは、ほとんど倫理学のせいです。
善と悪には定義がなく、客観的な基準もないので、誰もが自分中心に善悪の判断をします。
ネタニヤフ首相はハマスを悪と見なしますが、ハマスはネタニヤフ首相を悪と見ています。
トランプ大統領は極左勢力を悪と見なしていますが、極左勢力とされた人にとってはトランプ大統領が悪です。
夫婦喧嘩は互いに相手を悪と見なして行われます。
私はこのように自己中心的に善悪を判断することを「天動説的倫理学」と名づけています。

つまり善悪という概念があるために、かえって争いが激化しているのです。
そうすると、善悪という概念を使用禁止にすればいいのではないかということが考えられます。
しかし、善悪はあまりにも生活になじんでいるために、それはむずかしそうです。

そこで、人間は「法の支配」という方法を考え出しました。
あらかじめ法律をつくっておき、それを善悪の基準(の代わり)とするのです。これは客観的な基準なので、混乱はかなりの程度避けられます。恣意的に罰される恐れもなくなり、安心して生活できます。
もっとも、国際社会と家庭内にはほとんど法の支配は及ばないので、国際社会と家庭内では深刻な争いが生じますが、一応法の支配によって社会の秩序は保たれてきました。

しかし、このところ急速に法の支配が崩れています。
その理由はインターネット、SNSの普及です。
それまでは学者とジャーナリストが世論を導いていましたが、インターネットが普及してからは大衆が世論を導くようになりました。
知識人にとっては法の支配の重要さは常識ですが、大衆にとっては必ずしもそうではありません。

法の支配は、手間と時間がかかります。
日本では現行犯逮捕を別にすれば、警察が捜査して、逮捕状を執行して初めてその人間を容疑者と認定して、メディアがバッシングします。しかし、推定無罪という原則があるので、これはメディアが先走りしすぎです。本来は有罪判決が確定してから犯罪者ないし「悪人」と認定するべきです。
しかし、人を攻撃するのは欲求不満の解消になります。相手が悪人なら世の中のためという名分も立つので、みんなが先走ります。
ネットでは法の裁きを待たずに、写真や動画などを“証拠”として、誰かを悪人に仕立てて攻撃するということが盛んに行われています。
こういうことに慣れてしまうと、法の支配なんていうものは面倒くさくなります。
正義のヒーローが活躍するハリウッド映画も、法の裁きを待たずに悪人をやっつけるものばかりです。

こうした風潮を利用してのし上がったのがトランプ大統領です。
利用しただけではなく、この風潮をあおりました。そのためアメリカでは法の支配は崩壊寸前です。


法の支配がたいせつなのは、倫理学が機能していないからですが、一般の人は倫理学が機能していないということをほとんど知りません。
アリストテレス、カント、ヒュームは代表的な倫理思想家ですが、その著作を読んだという人はめったにいません。ひじょうに難解だからですし、がんばって読んだところでほとんど役に立たないからです。
ただ、倫理学は権威があります。倫理学は哲学とほとんど一体なので、哲学の権威がそのまま倫理学の権威になっています。
そのため、誰も倫理学に向かって「王様は裸だ」とは言わないのです。


20世紀の初め、ジョージ・E・ムーアは『倫理学原理』という著作において「善は分割不能な単純概念だから定義できない」と主張しました。それに対して誰も善の定義を示すことができませんでした。
善の定義がないということは悪の定義もないということです。さらにいうと正義の定義もありません。
こうなると道徳とはなにかということも問題になります。
そうして倫理学者は、善悪とはなにか、正義とはなにか、道徳とはなにかという根本的な疑問に向き合わなければならなくなりました。
こうしたことを研究をする分野をメタ倫理学といいます。
いわば倫理学は「自分は何者か」ということに悩んでいる若者みたいなものです。当然、社会に役立つことはできません。

メタ倫理学が存在することによって、倫理学がまったく役に立たない学問であることが明らかになりました。
しかし、知識人はそのことを知ってか知らずか、倫理学について語ることはありません。
知識人にとって倫理学の実態を語ることは、“身内の恥”を語るようなものなのでしょうか。

倫理学について語らずに法の支配のたいせつさを説いても、まったく説得力がありません。
倫理学がだめな学問であることを説けば、おのずと法の支配のたいせつさもわかり、ある程度争いを避けることができます。




メタ倫理学は倫理学の中でももっとも難解な分野です。
その中でとてもわかりやすい文章でメタ倫理学を解説したサイトがあったので紹介しておきます。

「メタ倫理学」

しかし、これを読んでも、結局は「わからないことがわかった」ということになるでしょう。


私がこれほど倫理学批判をしたのは、正しい倫理学を知っているからです。
正しい倫理学については次を読んでください。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」


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『結婚帝国』は上野千鶴子氏と信田さよ子氏の対談本です。
2004年に『結婚帝国:女の岐れ道』というタイトルで出版され、2011年に追加対談を足して『結婚帝国』として文庫化されました。

上野千鶴子氏といえば言わずと知れた日本のフェミニズム界の第一人者です。
信田さよ子氏はアダルトチルドレン・ブームを主導したカウンセラーであり、親子関係の問題に関する第一人者です。
男女関係が権力的な支配関係になっていることをフェミニズムは告発してきましたが、親子関係の問題は取り残されてきました。
権威ある心理学者も親子関係の問題を親の側から見がちでした。もっぱら現場のカウンセラーが親子関係が権力的な支配関係になっていることを子どもの側から告発してきたのです。
この二人の対談によって、男女関係というヨコ糸と親子関係というタテ糸が交わることになります。どんな織物ができるでしょうか。

なお、私は親子関係の問題を文明史的観点でとらえてきました。
どんな高度な文明社会でも赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきます。親を初めとするおとなは、その赤ん坊を文明社会に適応させなければなりません。家の中を汚さないよう、高価なものを壊さないよう、道路に飛び出さないようにしつけ、読み書き、数学、歴史など多くのことを教えますが、それらは子どもの意志を無視して強制的に行われ、暴力も伴います。ここに権力的な支配関係があり、これは男女関係の問題よりも(歴史的にも個人史的にも)先行して存在しているというのが私の考えです。


最初のうち対談はあまりかみ合っていない感じがします。
たとえば信田氏が「上野さんは笑うと思うけど、わたしは自分が男の性的欲望の対象になるということを自覚したことはありません」と言うと、上野氏は「カマトトか鈍感か、どちらなんですか?」「男の鼻面引きずり回す女だっているじゃありませんか。やったことはないんですか?」ときびしく問い返し、上野氏自身は「誘惑者としての娘」という位置を3歳のときに父から学んで、若いころは男を試し続けたと語ります。
それから、信田氏が「わたしはルイ・ヴィトンが好きなの」と言うと、上野氏は「わたしは、一点もルイ・ヴィトンやグッチを持たないのが誇りです」と言います。
このときの現場はどんな空気だったのでしょうか。こういう摩擦を恐れない姿勢が今の上野氏をつくったのでしょう。

やがて話がかみ合ってきます。それは男女関係の問題と親子関係の問題がもともとシンクロしているからです。
上野氏は「妻を殴るときは自分が痛いんだ」とか「君を殴るとき、僕の心が泣いているんだ」と言う夫の例を持ち出します。
こうした言葉は、親や教師が子どもを殴るときの常套句です。
ということは、DV男というのは、子どものときに親や教師から殴られた経験が深く刻印されているのではないかと思われます。

暴力にもいろいろな形があります。
信田氏は、「僕はこう思うよ」「でも、私はこう思うわ」などと二人で延々3時間も話し合って、その果てに殴るという夫の例を挙げます。この夫は「話し合いをもって善とする」という家族で育った人なので、夜を徹してでも話し合うのですが、いつも最後には手を出すのです。

上野氏は夫から殴られているにもかかわらず逃げ出さない妻に疑問を呈します。もちろん経済的事情や子どものためなどで別れられないということもありますが、逃げられるのに逃げない妻がいることは上野氏にとって理解できないようです。
信田氏は、別れない妻は「孤独」を理由にするといいます。しかし、実際は妻という座から転がり落ちる恐怖ではないかと信田氏は推測します。夫と別れると自分が社会からこぼれ落ちてしまう。社会的地位があろうと、何億という貯金があろうと、結婚制度から降りたとたんに一人の中年女性になってしまう。それをちょっと考えただけで怖いので、「だって、私が捨てたらあの人はどうなるの」などと理由をつけて別れるのを回避するというのです。

信田氏は「家族は強制収容所である」といいます。子どもは強制的に収容されて、逃げられないからです。
それは妻にとっても同じことで、自分で選んだつもりで入っても、そこは強制収容所だったということになります。

こういうことは隠されてきました。暴力は「愛のムチ」と呼ばれました。
それが「アダルトチルドレン」という言葉が出てきて、人々の認識が変わりつつあります。
「PTSD」という言葉も画期的でした。これはアメリカの精神医学界でも認められたものです。診断マニュアルでは病因を不問にするのが建て前だったのに、PTSDは過去のトラウマ体験が病因であるとするものです。そのため法律や裁判の分野で活用されてきました。

私はこれを読んだとき、最近芸能界などで性加害やセクハラが問題になると、かなりはっきりと被害者寄りの判断が下されるようになったのは、こういう事情だったのかと思いました。
つけ加えると、アメリカでは事情が違います。子ども時代に父親から性的虐待を受けたと娘が父親を裁判に訴えても、記憶は捏造されるというへんな理論があるために娘が敗訴してしまうのです(このことは『アメリカは90年代の「記憶戦争」で道を誤った』という記事に書きました)。


信田氏が「わたしはね、『自立』っていう言葉を、すべて消したほうがいいんじゃないかと思うんです」と言うと、上野氏も大いに同感します。
「自立」はネオリベラリズムの「自己決定・自己責任」に翻訳され、努力と才能で人生の勝ち組になるべきだという考えにつながります。そうすると、摂食障害の女の子たちが「わたしが勉強できないのは、わたしの努力が足りないから」「こんなだめなわたし、でもそれを許してるのもわたし」「ああ、こんなマイナス思考のわたし」という出口のないアリ地獄に落ちることになるといいます。

「自立」を否定するならどうすればいいかというと、信田氏は「依存でもいい」と言います。
上野氏はここは同意しません。自分の限界を知って、「自分にないが、必要なものをよそから調達するスキル」が必要だと言います。これが「自立」に代わるものであるようです。


本書のテーマは「女性と結婚」ということになるでしょう。私は親子関係に焦点を当てたので、本書の全体像は紹介できていません。
そこで、多少修正する意味で、追加対談の中で上野氏が語った結婚についてのデータを紹介しておきます。
(財)家計経済研究所が25歳から35歳までの年齢層の女性を1993年から10年間にわたって追跡調査したところ、シングルだった女性の10年後は、正規雇用者のほうが非正規雇用者よりも結婚確率も出産確率も高かったのです。つまり「妻の側」の安定した経済条件が結婚と出産を高めるのです。そうすると、女性に正規雇用を提供することが少子化対策に有効だということになります。
参政党の神谷宗幣代表は「若い女性に働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因であるようなことを言いましたが、正しくは「非正規で働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因だったのです。

上野氏は結婚確率を高めよと主張しているわけではありません。上野氏はこのところ「おひとりさま」の生き方を追究しているように、結婚にも男にも期待していないようです。
信田氏は既婚者ですが、上野氏ほどではないにしても、同じような立場です。


私は男ですから、そんな考えにくみするわけにいきません。男といってもいろんな男がいます。

最初にいったように、文明社会では子どもに強制的で暴力を伴う教育としつけが行われていますが、そのやり方は一律ではありません。ひどく暴力が行使される場合もあれば、愛情深く育てられる場合もあります。
DV男になるかならないかは、そこである程度決まります。

今の世の中は、とくに男の子に対しては暴力的な子育てが認められています。
「巨人の星」の星飛雄馬が父一徹から受けたようなスパルタ教育は極端だとしても、似たことは広く行われています。私は市民プールやスポーツジムのプールで父親が泣きべそをかいている子どもをむりやり泳がしているのを何度も見てきました。もし星飛雄馬が結婚していたらDV男になっていたでしょう。
しかし、DV男というのは、軍隊に入れば“鬼軍曹”になり、ブラック企業に入れば成績のいい管理職になるので、社会から有用な存在と見なされています。

DV男から逃げない女性も同じことです。親から暴力をふるわれていれば、恋人や配偶者から暴力をふるわれても受け入れてしまいます。
つまり暴力的な子育てがDV男とDV男から逃げない女をつくるのです。


「自立」と「依存」についても、親子関係からとらえるとわかりやすくなります。
赤ん坊は完全に母親に依存しています。成長するとともに少しずつ自立していきますが、不適切な養育があると自立がうまくいきません。親がわざと子どもの自立を妨げ、自分に依存させるということもあります。人間には情緒的な人間関係が必要なので、夫婦関係が形骸化し、友人関係もほとんどないという親は、子どもをいつまでも手元に置いておきたくなるのです。

したがって、成人しても十分に自立していないという人がほとんどです。そういう人に「自立しろ」と言ってもむだなことです。自分の成育歴を振り返り、親子関係を見直し、現在の人間関係の中で親から与えられなかった愛情を補填することで自立ができます。
もっとも、人間は出発点で依存していたのですから、依存するのが本来の姿で、自立は表面的な姿だともいえます。適切な依存関係を持つことが幸せのひとつの条件だと思います。


私は子どもが強制的・暴力的に教育・しつけをされている状況を「子ども差別」と呼んでいます。
この世の中の根底には「子ども差別」と「性差別」というふたつの問題があるわけです。
家父長制も「子ども差別」と「性差別」というふたつの差別で成り立っていると見なすと、わかりやすくなります。

性差別を解消しても自分に利益はないと思う男性が多いので、フェミニズムはあまり男性に支持されません。
しかし、子ども差別は男性自身の問題でもあるので、子ども差別解消の運動は男性を巻き込むことが可能です。
子ども差別をなくし、まともな親子関係で育った男が増えてくれば、上野氏も少しは結婚を肯定的にとらえるようになるのではないでしょうか。

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9月10日、アメリカの右派活動家チャーリー・カーク氏がユタ州のユタバレー大学で演説中に銃撃されて死亡し、33時間後にタイラー・ロビンソン容疑者が逮捕されました。

トランプ大統領はまだ犯人の正体もわかっていない時点で、「長年にわたり、極左の人々はチャーリーのような素晴らしいアメリカ人を、ナチスや大量殺人犯、そして世界最悪の犯罪者と比較してきました。こうした言説は、今日我が国で見られるテロリズムの直接的な原因であり、今すぐ止めなければなりません」と語って、極左の言説がテロの原因だと決めつけました。

ユタ州のスペンサー・コックス知事(共和党)は、容疑者の逮捕について報告する記者会見で「33時間、私は祈っていました。もしここでこんなことが起きなければならないのだとしても、それ(容疑者)が私たちの仲間ではありませんように、と。他の州から来た誰か、他の国から来た誰かでありますように、と」と述べました。
こういう心理で犯罪と移民が結びつけられるのだということがよくわかります。


逮捕されたタイラー・ロビンソン容疑者は22歳の白人男性で、今のところ犯行動機については黙秘しています。
両親は共和党員として有権者登録をしていて、ロビンソン容疑者は過去に無党派として有権者登録をしていました。
ロビンソン容疑者は家族との会話でカーク氏について「彼は憎しみに満ち、憎しみを広めている」と非難したと報道されていますが、彼の政治的な傾向を示す報道はそれぐらいしかありません。
犯行に使われたライフル銃に残された銃弾に、反ファシストやLGBT擁護を意味する言葉が刻印されていたと報道されましたが、そのあとの報道では銃弾にはさまざまなネットスラングが刻印されていて、そこから容疑者の思想を読み取ることはできないようです。

それでもトランプ氏は12日のFOXニュースに出演した際、「左派の過激派こそが問題だ。凶暴で、恐ろしく、政治的に狡猾だ」と言い、ロビンソン容疑者を左派の過激派と決めつけました。
右派のカーク氏を銃撃した人間だから左派だろうというのはあくまで推測です。カーク氏の対話を重視するやり方は右派からも批判されていましたし、右派・左派ではない思想からの暗殺ということもありえますが、トランプ氏はとにかく左派への憎しみをあおり立てたいようです。

イーロン・マスク氏もXに「左派は殺人政党だ」と投稿しました。

殺されたカーク氏は銃規制に反対しており、「銃撃による死者がでてもそれは憲法修正第二条(国民が銃を持つ権利)を守るための尊い犠牲だ」と主張していたので、今回の銃撃について「自業自得だ」という声も多くありました。右派はそれを「暗殺を肯定している」として批判しました。
クリストファー・ランドー国務副長官は、カーク氏の暗殺を賛美する投稿をした外国人のビザを剥奪すると警告し、インターネットユーザーに対しそうした投稿の情報を共有するよう呼びかけました。

右派は左派を非難し、左派は右派を非難するという、分断を絵に描いたような状況になっていますが、コックス・ユタ州知事は「SNSはガンである」と言いました。さらに捜査当局からの情報として、ロビンソン容疑者の恋人がトランスジェンダーだったとも言いました。
ロビンソン容疑者の恋人がトランスジェンダーだったという情報が伝わると極右活動家がいっせいに非難の声を上げて、保守系インフルエンサーのローラ・ルーマー氏は「トランス運動をテロリスト運動として指定するよう」呼びかけました。

要するになにが起こっているかというと、みんなして左派のせいにし、右派のせいにし、SNSのせいにし、トランスジェンダーのせいにするということをしているのです。
なぜそんなことをしているかというと、問題の本質から目をそむけるためです。
問題の本質というのは、ロビンソン容疑者がどうしてテロリストになったのかということです。
これがわからなければ次のテロを防ぐこともできません。


ロビンソン容疑者はどんな人間だったのでしょうか。
父親はキッチンカウンターやキャビネットの設置事業を営んでいて、母親は免許を持つソーシャルワーカーで、ロビンソン容疑者は3人兄弟の長男です。ロビンソン一家はモルモン教徒で、教会での活動に熱心に参加していたということです。
SNSにはロビンソン容疑者が家族とともにグランドキャニオンを旅行したり、釣りなどのアウトドア活動をしたりしている写真が投稿されており、父親とともにライフル銃を持った写真もありました。父親といっしょに鹿狩りや射撃練習もしていたということです。
母親はフェイスブックに、ACTという大学入学試験でロビンソン容疑者が36点満点中34点を取ったという写真を掲載していました。これは受験者上位1%に当たる点数だということです。その後、ロビンソン容疑者がユタ州立大学奨学金合格通知書を朗読する動画も掲載されていました。ロビンソン容疑者は母親にとって自慢の息子だったようです。
家族仲がよく、みんな敬虔なキリスト教徒であるという、保守派が理想とするような家庭です。


ちなみに昨年7月に演説中のトランプ氏が銃撃され耳を負傷する事件があり、犯人であるトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性はその場で射殺されました。
このときの建物の屋上から演説中の人物を狙撃するという手口がロビンソン容疑者の手口とまったく同じです。ロビンソン容疑者もほんとうはトランプ大統領を狙いたかったのかもしれません。しかし、大統領は警備がきびしいためにチャーリー・カーク氏を狙ったということが考えられます。
トーマス・マシュー・クルックスは平凡な家庭の生まれで、両親はリバタリアン党の支持者、彼自身は共和党員として有権者登録をしていました。クラスメートからは「思想的には右寄り」と評されていました。
その場で射殺されたので動機はわかりませんが、ごく平凡な家庭で育った20歳の若者がテロリストになったということで、ロビンソン容疑者と似ています。


平凡な家庭で育った若者が凶悪な犯罪者になるのはなぜでしょうか。
実は平凡な家庭というのは見かけだけで、その内部では子どもへの虐待が行われていたと考えられます。
そうでなければ凶悪な犯罪者にはなりません。

子どもを虐待する親は、当然そのことを隠します。家の中で激しい物音がするとかいつも子どもの泣き声がするとかで警察沙汰にならない限り、虐待は発覚しません。心理的虐待だけならなおさらです。
幼児虐待がニュースになるのは子どもが死ぬか大ケガをした場合だけです。それらはもちろん氷山の一角なので、虐待が行われている家庭は広範囲に存在します。
ちなみに日本で幼児虐待で子どもが死亡する件数は年間100人以下ですが、アメリカでは年間1500人前後です。


ロビンソン家については、母親がロビンソン容疑者の成績のよさを自慢していたことがわかっています。
しかし、ロビンソン容疑者は奨学金付きで入学したユタ州立大学に在籍したのは1学期だけでした。その後、ディキシー工科カレッジで電気技師の課程を受講していて、現在は3年生です。ディキシー工科カレッジというのは職業訓練校みたいなもののようです。
ロビンソン容疑者は母親の決めたレールの上を歩まされていて、それに反発してユタ州立大学を1学期で中退したのではないかと想像されます。つまり“教育虐待”が疑われます。
もちろんこれだけでは虐待があったとは決めつけられませんが、メディアがちゃんと取材すればわかるはずです。

日本では、凶悪事件の犯人の生い立ちについては、ひと昔前はまったく報道されませんでしたが、最近は週刊誌がよく報道するようになりました。その結果、みな悲惨な生い立ちであったことが明らかになっています。
日本では、そういう悲惨な生い立ちの者が犯罪に走る場合、通り魔事件を起こすことがよくありますが、アメリカでは銃乱射事件ということになるでしょう。
ときどきターゲットが政治家になることがあって、それは政治的暗殺、テロということになります。
子どもにとって親は権力者ですから、親への憎悪が政治家に投影されるのはありがちなことです。


ロビンソン容疑者はなにかの組織には属していないようです。こういう個人のテロリストをローンオフェンダーといいます。トランプ氏を狙撃したトーマス・マシュー・クルックスも同じです。
過激派組織を抑え込んだところで、ローンオフェンダーの発生を防ぐことはできません。
したがって、今アメリカがするべきことは、右派と左派がやり合うことではなく、ロビンソン容疑者がどうしてテロリストになったかを解明することです。
そうすると、おのずと家族のあり方にメスを入れることにもなります。

アメリカで犯罪、薬物依存、アルコール依存が深刻なのは、家族関係がゆがんでいるからです。
ところが、多くの人はこの問題から目をそらしています。そのために今回のテロ事件についても右派や左派やSNSやトランスジェンダーのせいにしているのです。

家族関係から目をそらしているのは、左派よりも右派のほうが顕著でしょう。右派は「家族の絆」を重視するので、「家族の絆」が崩壊している現実を認めたくないのです。


トランプ氏は州兵派遣によってワシントンD.C.の犯罪はゼロに等しくなったと主張し、市当局は「『家庭内の出来事』のような些細な事件まで犯罪統計に含め、数字を膨らませている」「夫が妻と軽く口論すると、その場所が犯罪現場になったと言われる」と犯罪統計のあり方を非難しました。
トランプ氏は明らかに家庭内暴力を軽視しています。

アメリカではまた、「マムズ・フォー・リバティ(自由を求める母親)」という名の保守派の団体が草の根で活動を広げ、学校図書館でLGBTやセクシュアリティや人種問題を扱った本を禁書にしようとしています。この団体は「母親の権利」を主張し、子どもの権利を無視するものです。
フロリダ州の保守派のデサンティス知事は、「子どもは子どもらしく」という標語を掲げ、「教育における親の権利法」という州法を成立させました。この州法は、学校でなにを教えるかは学校が決めるのではなく親の権利だとするものです。
このように親の権利を拡大し、子どもの権利を制限するのが保守派の思想です。
単純にいえば、子どもはきびしくしつけるべきだという思想です。
この思想のもとでは幼児虐待が深刻化するのは当然です。

テロを生むのは過激な左翼思想ではなく、どこにでもある保守的な家庭です。

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トランプ大統領の支持層のほとんどは白人であり、白人至上主義者です。
欧州の極右政党も白人至上主義です。欧州は移民や難民を入れすぎてたいへんなことになっているなどという人がいますが、移民や難民を不快に思う白人至上主義者がそういっているだけです。

差別主義の波は日本にもやってきて、参政党のスローガン「日本人ファースト」がその典型です。
参政党の神谷宗幣代表は、これは差別主義ではないし排外主義でもないと言っていますが、あくまで表向きです。

神谷代表は選挙演説のとき、「アホだ、バカだ、チョンだと言われる」と言い、その直後に「あ、『チョン』って言ったらダメだ。ごめんなさい。いまのカット。ああ、また言っちゃった。これ、切り取られるわけですよ。私がちょっとでも差別的なことを言うと、すぐ記事になる」と言いました。
これは明らかにわざと言い間違っています。聴衆の受けを狙うと同時に、マスコミを挑発しているのでしょう。
聴衆も「チョン」という言葉をおもしろがっています。
「差別語はいけない」という常識をバカにしているのです。


差別主義が世界的に勢いづいているのは、もちろんインターネットの普及のせいです。
インターネット以前は、メディアと知識人が言論を支配していて、そこには「差別はいけない」という共通認識がありました。
しかし、インターネットの世界では大衆が言論を支配して、そこでは差別的な言説が横行しています。

差別というのは日常生活の中にあり、人間は幼児期から周りの人々の言動から差別を学びます。
たとえばアメリカの白人にとっては黒人を見下すのは当たり前のことでした。そこに「白人も黒人も同じ人間だ。人種差別はよくない」という新しい考えが脳の表層に植えつけられるので、差別肯定の感情と差別否定の理性に分裂することになります。差別感情がまったくないというのはよほどできた人間だけです。
人々は差別語を使わないようにして差別感情を隠して生きています。これは知識人も大衆もたいして変わりません。
そうしたところにインターネットが普及し、誰でも匿名で発信ができるようになると、隠されていた差別感情が放出されました。昔、ひろゆき氏が管理人をしていたころの2ちゃんねるはヘイトスピーチの巣窟でした。
掲示板の書き込みは「便所の落書き」といわれました。


ネットでは個人に対する誹謗中傷も盛んです。
人は誰でも悪口を言いたくなるときがありますが、あまり悪口ばかり言っていると性格の悪い人間と思われます。そこで少数の人間にだけ悪口を言います。それが「陰口」です。
ネットでは匿名で発信できるので、これまで陰口で言っていたことを公然と言えるようになりました。そのためネットは人の悪口、つまり誹謗中傷であふれることになったのです。
よく若い芸能人が「エゴサをすると悪口ばかりで落ち込む」と言っていますが、そうなるのは当然です。

バイトテロなどといわれましたが、悪ふざけをしたバイト店員の動画がSNSなどにアップされると、非難が集中して炎上するということがひところ相次ぎました。
それから、寿司テロとか飲食店テロなどといわれましたが、客が醤油差しをなめるなどした悪ふざけ動画もよく炎上しました。
悪ふざけの若者を非難してもなんの世直しにもなりませんが、人を非難したい人がネットにはたくさんいるためにこうした炎上が起こります。
私はこれを「ネットテロ」と呼んでいます。悪ふざけしたバイト店員や飲食店の客よりもネットで炎上させる人間のほうがよほど悪質です。

ヘイトスピーチも誹謗中傷も同じことで、人はみなリアルではいい人ぶって生きているので、ネガティブな感情をネットで出して人を非難するのです。
ネット言論の世界は、『ジキル博士とハイド氏』でいえばハイド氏の横行する世界です。


政治の世界ではYouTubeやTikTok のショート動画がよく利用されています。
最初にこれを有効に使ったのは安芸高田市長時代の石丸伸二氏でした。石丸市長が市会議員や記者と議論してやりこめるシーンを切り抜いた動画が再生回数を稼ぎ、石丸氏はその人気で東京都知事選で善戦しました。
その後、兵庫県知事選でも切り抜き動画がよく使われ、最近は参政党や国民民主党がうまく利用しています。
切り抜き動画でも同じことで、誰かを非難するものが人気になるようです。
財務省を非難することから財務省解体デモが起きました。
外国人を非難することから「日本人ファースト」のスローガンができました。
政治の世界では「世のため人のため」という大義名分が立つので、遠慮なく誰かを非難できます。


「便所の落書き」といわれたネットの言論が今では政治を動かすまでになりました。
しかし、ネット言論の本質はやはり「便所の落書き」であり、差別発言であり、陰口です。
人間は誰でもいい人の部分を表面に出して、みにくい部分は隠しています。つまり「美しい建前」と「みにくい本音」に分裂しています。
ところが、そのことに気づく人はめったにいません。
その意味で、デルフォイの神託「汝自身を知れ」はまさに金言です。

ネット世論のそうした性質をわきまえず、ネット世論に受ける政策を打ち出そうとする政治家はみんな“闇落ち”していきます。


つけ加えると、多数派の民意は正しいと思っている人がいるかもしれませんが、それは誤解です。
たとえばアメリカのように多数派の白人が少数派の黒人を差別している社会では、多数派の民意は差別的になります。
「日本人ファースト」が多数の日本人に受けたとしても、それが差別的であることに変わりはありません。

なお、多数派といってもそれは日本国内だけのことで、世界から見れば差別的だというのは容易にわかりますし、アメリカで起こっていることも日本から見れば差別的だとわかります。
ただ、日本人はヨーロッパ文化を尊敬しているせいか、ヨーロッパの移民排斥運動が差別的だということに気づかない人が多いかもしれません。

ネット内では、一般的な世論調査の世論を見下し、ネットの世論のほうが優れているみたいな主張がされていますが、これはネット内でしか通用しない意見です。
人々はリアルではいい人としてふるまい、ネットではみにくい感情を吐き出しています。
このことを理解すれば、ネット世論に左右されることはなくなり、逆にネット世論を左右する方法が見えてくるかもしれません。


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人類は法律をつくったときから犯罪対策をしてきたはずですが、犯罪は克服されるどころか、むしろ深刻化しているように見えます。
犯罪対策のやり方が間違っているのではないでしょうか。

トランプ大統領は首都ワシントンの警察を連邦政府の管理下に置くとともに、市内に州兵を派遣しました。首都での犯罪状況が制御不能に陥っているというのが理由です。
しかし、最近のワシントンの犯罪は減少傾向にあります。いつもながらトランプ氏のいうことはでたらめです。
トランプ氏はまた、シカゴやニューヨークやボルティモアへも州兵派遣の意向を表明し、「(メリーランド州知事の)ウェス・ムーアが助けを必要としているなら、ワシントンで行われているように私が『部隊』を派遣して、犯罪をすばやく一掃する」とSNSに投稿しました。
州兵で犯罪を一掃することはできません。犯罪捜査をして犯人を逮捕することは警察の役割です。
ハリウッド映画で正義のヒーローは、最後に悪人を派手にやっつけます。州兵投入はそのイメージでしょう。
トランプ氏は表面的でいいので、“やってる感”を出したいようです。


8月27日、ミネソタ州ミネアポリスの「受胎告知カトリック学校」で銃の乱射事件があり、8歳と10歳の子ども2人が死亡し、17人がけがをしました。23歳の容疑者は現場で自殺しました。銃の弾倉に「ドナルド・トランプを殺せ」という文字が書かれていました。
トランプ氏は昨年7月、ミシガン州で演説しているときに銃撃され、耳を負傷しましたが、その場で射殺された犯人は20歳の白人男性で、共和党員として有権者登録を行っていました。
このような犯人の動機を解明することは犯罪防止にきわめて重要です。とくにトランプ氏にとっては自分の命を守ることにもなります。

ミネアポリスの銃撃犯については、2002年6月17日生まれの女性ということですが、過去に性的自認に合わせて男性名を女性名に変えています。つまりトランスジェンダーでした。
ホワイトハウスのレビット報道官は「混乱したトランスジェンダーが無垢な子どもたちを狙った事件である」と説明し、イーロン・マスク氏も「これは明白な(トランスジェンダーの行動)パターン」と言いました。ある共和党の下院議員は「ジェンダー・ディスフォリア(性別違和)」を「精神疾患」と規定し、「未成年者の性転換手術を重犯罪と規定する法案を通過させなければならない」と主張しました。つまりトランスジェンダーへの憎悪をあおり、犯罪と結びつけたのです。
一方で、「自分をかばってくれたお友だちが撃たれてしまった」と涙ながらに語る少年の映像がメディアで繰り返し流されました。
つまり「凶悪な犯人対英雄的な被害者」というハリウッド映画的な図式でとらえられ、動機の解明に踏み込むいいチャンスなのに、ここでも表面的な対応に終わっています。

こうしたいい加減な犯罪対策によって、アメリカは先進国としてはありえない犯罪大国になっています。
そのため、最近は移民のせいで治安が悪くなったことにされています。


日本でも移民や外国人を犯罪と結びつける人が増えています。
しかし、外国人も日本人も同じ人間です。日本人が外国に行けば外国人になることを考えればわかりますし、日本は南米や合衆国に多くの移民を送り出してきたことを考えてもわかります。

日本人も外国人も同じ人間ですから、犯罪をする可能性に差はないはずです。ただ、置かれた状況が違います。
日本人は生まれたときから日本にいますが、外国人は外から日本に来たわけです。すぐに日本に溶け込めば問題はありませんが、そうでないと犯罪をしやすいということはあります。
ただ、外国人が日本に溶け込めないのは、外国人に原因があるのか日本人に原因があるのかを考えないといけません。
日本人は「外国人はマナーが悪い。日本に溶け込む努力をしない」と言いますが、外国人は「日本人に差別され、受け入れてもらえない」と思っているかもしれません。
差別されていると感じると、犯罪のハードルが下がります。
ヨーロッパでは人種差別がひどいので、移民の住む場所はスラム化し、治安の悪い地域になるということがあります。
それと比べると、日本では人種差別はそれほどひどくないので、外国人は比較的社会に溶け込んでいます。外国人の犯罪率は日本人の犯罪率の2倍強ぐらいです。日本人の犯罪率はひじょうに低いので、外国人も日本にいることで犯罪をしなくなったということがあります。
つまり日本が外国人を“善導”しているのです。


漫画家の倉田真由美氏はXに「人口比で日本の何十倍も殺人、強盗、強姦など凶悪犯罪が起きる国から移民入れますといわれたら、怖いし不安になるに決まっているでしょ。ごく自然なそういう感情を、差別とかいわれて封じられたらたまったものじゃないよ」と投稿しました。
「外国人は犯罪的」という考えは明らかにおかしいので、倉田氏は「犯罪の多い国の人間は犯罪的」という説を考え出したようです。
しかし、犯罪の多い国は貧困、格差、政情不安などの原因があって犯罪が多いのです。人間に原因があるのではありません。
ですから、犯罪の多い国からきた人も日本では犯罪をしないということは十分にありえます。労働に正当な報酬が得られて、周りの人間から暖かく受け入れられていれば、犯罪をする必要がありません。


犯罪の遺伝子も悪の遺伝子も発見されていないので、犯罪の原因は人間ではなく環境にあります。
ですから、正しい犯罪対策は犯罪の原因をなくすことです。
イギリスのブレア首相は1993年、犯罪対策の甘さを批判されたとき、「犯罪にきびしく、犯罪の原因にもきびしく」という言葉で反論しました。
しかし、「犯罪の原因にきびしく」ということを実践している国はほとんどないと思われます。
犯罪の原因を追及すると、その国の問題点があぶりだされるからです。


犯罪の最大の原因は貧困ないし格差です。
アメリカは極端な格差社会です。しかし、それが犯罪の原因だとするのは富裕層にとっては“不都合な真実”なので、犯罪者個人に原因があるというように報道されます。

ミネアポリスのトランスジェンダーの銃撃犯は、「受胎告知カトリック学校」の卒業生でした。母親は同校に5年間勤めていたことがあります。
キリスト教学校ですから、おそらくトランスジェンダーにきびしかったでしょうし、家庭でも理解されなかったのかもしれません。
犯罪の原因は、トランスジェンダーであることではなく、トランスジェンダーであるために学校や家庭で迫害されたことだと考えられます(トランスジェンダーが原因で犯罪をすることはないので)。
しかし、学校や家庭に犯罪の原因があるということは多くの人にとって“不都合な真実”ですから、犯罪の原因はすべて犯罪者個人に帰せられます。


法学もこうした状況を肯定します。刑法学では、犯罪の主な原因は個人の「自由意志」によるものとされます。弁護側が環境要因を挙げて情状酌量を訴えても、裁判官は「人間性のかけらもない身勝手な犯行」などと被告個人を断罪するのが常です。
「自由意志」は科学的にはほとんど否定され、文系の学者でも大っぴらに自由意志があるとは言えない状況になっていますが、刑法の世界だけ昔のままです。


対症療法と原因療法という言葉がありますが、今の犯罪対策はすべて対症療法です。犯罪が目についてから犯人を逮捕し、それで一件落着となりますが、犯罪の原因はそのままなので、また犯罪が起こります。
そうして延々と同じことを繰り返しているのです。

犯罪の原因に対処する原因療法を行わなければなりませんが、すでに述べたようにそれをすると“不都合な真実”があらわとなります。
犯罪者はもともとたいてい社会的弱者で、犯罪者になった時点で社会の最弱者になりますから、犯罪者にすべての責任を負わせるのがいちばん安易な方法です。

ということは、今の犯罪対策は貧困層、外国人や移民、トランスジェンダーなどのマイノリティへの差別の上に成り立っているということです。
みんなが正しい人権意識を持てば犯罪対策も変わっていくはずです。

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