村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに


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私がスーパーで買い物をするときによく思うのは、夫婦で買い物をする人をほとんど見かけないなということです。
夫が会社勤めをしているにしても、土日なら夫婦で買い物に行けるはずです。
私の場合、妻が会社勤めなので、土日はいつもいっしょに買い物に行きます。
ずっと家にいるよりも散歩がてら買い物に行ったほうが気分転換にもなります。

もう定年退職したような老夫婦はときどきスーパーで見かけます。
しかし、二人が会話していることはめったにありません。
たまに言葉を発しているのを聞くと、たいてい不機嫌なダメ出しの言葉で、会話になっていません。
なんのために二人でスーパーにきているのかと思ってしまいます。

そうした疑問を持っていたところ、『店員「レジで奥様を手伝わず突っ立ってるだけの人、なぜ?」意図が不明な謎行動に「本当に邪魔」「見かねて声をかけた」』という記事を見つけて、やはりそうなんだと思いました。

その記事を簡単に紹介すると、「スーパーに一緒に買い物に来て、奥さんが会計をしている時にぼーっとレジの横に立ったままの人が多い。邪魔なので、手伝わないのなら別の場所にいてほしい」というSNSの投稿がきっかけで、店員経験のある人などから「ほんとうによく見かける」「奥さんが重いカゴを移動させてるのに、横か後ろにくっついて動かない人がいる」「レジもそうだけど、サッカー台で何もせずに突っ立ってる人も多い」といった声が上がりました。
客からも「腕組みして見てるだけの人、本当に邪魔」「運転のために来ているのだとしても、車の中で待ってるか、普通に手伝えばいいのに」「ついてきているだけの人って無意識で通路をとうせんぼしがち」などの声がありました。

夫婦で買い物にきていても、夫は荷物持ち要員としてついてきているだけで、買い物には関与していないようです。
性別役割分業が徹底した夫婦だと思われます。
こういう夫婦は会話も乏しくなるでしょう。


一般論として夫婦はどんな会話をしているのでしょうか。
あるテレビ番組で新婚の男性が毎日会社帰りの電車の中で今日は妻とどんな会話をするか考えていると言っていて、それを聞いたスタジオの女性が「やさしい」とほめていました。
初めてのデートのときなどはどんな会話をするかあらかじめ考えた人も多いでしょう。しかし、そんなことは長くは続けられません。

新婚しばらくは、相手のことをよく知らないので、お互いに自分のことをしゃべっていれば意味のある会話になります。
それに、各家庭で生活習慣が違うので、掃除や洗濯のやり方、料理の味付けなどさまざまなことで“文化摩擦”が生じ、それも会話のネタになります。出身地が違うと地域の文化の違いもあります。
新婚の妻が初めておでんをつくったら、夫が「豆腐が入っていない」と文句を言って喧嘩になったという話を聞いたことがあります(豆腐は長く煮込むと固くなるので入れないこともあります)。
昔、大根がすごく高値になったとき、妻が迷った末にサンマの塩焼きに大根おろしをつけなかったら、夫が激怒したという話もあります。
こういう行き違いを防ぐためにも会話が必要になります。

何年かたつと会話もマンネリになってきますが、子どもができると、今度は子どものことでしゃべることがいっぱい出てきます。そうして多くの夫婦は会話を続けていくのでしょう。

私たち夫婦には子どもがいませんが、結婚してしばらくして猫を飼い始めました。
そうすると猫について話すことがけっこうあります。うちの猫は自由に戸外に出ていたので、しばしばネズミやスズメやセミなどを捕って家に持ち帰ってきて、そのたびに大騒ぎになります。
ペットは家族の会話を活発にさせる機能があります。

しかし、やがて子どもも巣立っていきます。そうすると夫婦に会話することはほとんどなくなります。
子どものいない夫婦はその前から会話することはないわけです。
「メシ、フロ、ネル」しか言わない戯画化された夫というのは、けっこう現実ではないかと思われます。


そもそも人間はなんのために会話をするのでしょうか。
イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーは『ことばの起源 -猿の毛づくろい、人のゴシップ』という本で、人間の会話はサルの毛づくろいと同じであるという説を述べました。
サルは互いに毛づくろいをすることで親しさを確認し、群れの結束を強めます。人間は毛がないので毛づくろいの代わりに会話をし、そのために人間は言語能力を発達させたというのです。
ですから、会話することそのものに意味があって、会話の内容にはたいして意味がないことになります。

人間の会話の内容を調べると7割はゴシップだといわれます。つまり周りの人間についての根拠のない噂話をしているのです。
私たちの日常会話も、近所の人についての噂話や、芸能人の不倫の話、石破首相やトランプ大統領の話などです。
SNSでも根拠のない話がどんどん広がっています。話を通じて誰かと共感することが目的なので、その話に根拠があるかどうかはあまり関係がないからです。
必要な情報の伝達とか、認識を深めるための議論などもありますが、それらは会話全体からみればごくわずかです。
夫婦でいえば、家計のこととか親の介護のこととか、まじめに話し合わないといけないこともありますが、それも全体から見ればごくわずかです。


夫婦は同じ家で暮らしているからといって、いつもいっしょにいるのはよくないのではないかと思います。
この前、ある女性芸能人(誰だったか忘れた)がテレビで「仲のよい夫婦は寝室をいっしょにしていない」と語っているのを聞いて、そういうこともあるかもしれないと思いました。
長くやっている漫才師はたいてい楽屋でもほとんど言葉を交わさないといいます。
いくら仲がよくても、同じ人間といつも顔を合わせていると嫌気がさすものです。

私たちの場合、妻は会社勤めですが、私は文筆業で昼ごろ起きるので、必然的に寝室は最初から別でした。
夫婦がいっしょにすごすのは、夕方妻が会社から帰ってきてから食事の片づけをするまでの間で、そのあとはそれぞれの部屋ですごします。
寝る前に二人いっしょに紅茶を飲むこともあります。そのときはテレビのニュース番組やトーク番組を見て、それをもとに会話します。テレビを見なければ会話のきっかけがありません。

夫婦の会話などなんの意味もなくて当たり前です。
ただ、意味のある会話もあります。それは家事についてです。サラリーマンが同僚と仕事の話をするのと同じで、これは夫婦にとって必要な会話です。

私たち夫婦の場合、掃除は平等に分担しています。洗濯は妻がやって、私は洗濯物を干したり取り込んだりするのを手伝う程度です。料理は基本的に妻がやりますが、私はご飯を炊くのとみそ汁をつくるのを担当し、ときどき一品をつくり、妻が残業のときは私が全部つくります。
家事分担の割合としては、6対4とまではいきませんが、7対3よりはやっているはずです。

なお、買い物は、妻が帰宅前にしますが、私も昼間することがあります。
いつも別々ですから、土日にいっしょに「キャベツが安くなってきたね」とか「コーヒー豆がまた高くなった」などと話し合いながら買い物するのは楽しいことです。
ですから、冒頭でも書いたように、いっしょに買い物をする夫婦をほとんど見かけないのが不思議です。
おそらく多くの夫婦は妻だけが料理をしているのでしょう。いっしょに料理をしていればいっしょに買い物もするはずです。

誕生日や結婚記念日などに夫婦で外食をすることがありますが、そんなときどんな会話をしているかというと、半分ぐらいは料理のことです。というか、それ以外にあまり話すことがないというのが実際です。
そうすると、ほかの夫婦は外食のときにテーブルで向かい合ってどんな話をしているのでしょうか。黙って食べていたのではせっかくの外食が楽しくありません。

会話のない夫婦は、二人で家事をするようにすれば会話が増えるはずです。



ともかく、夫婦の会話というのはどうせ価値のないものなので、楽しくバカ話をしていればいいというのが私の考えです。
逆に価値のある会話をしようとするのはたいへん危険です。

たとえば相手になにかを教えて知的に向上させようという人がいます。
これは相手を見下した行為ですから、教えられる側は不愉快です。
これを男がやるのは「マンスプレイニング」といわれます。

相手を道徳的に向上させようというのも夫婦関係を破壊します。
以前、妻が冷凍餃子を食卓に出したところ夫から「冷凍餃子は手抜きだ」と言われたというツイッターの投稿が話題になったことがありました。この夫は手抜きをする妻を手抜きをしない立派な妻にしようとしたのでしょう。
夫が妻を「だらしない」「気が利かない」と言ったり、妻が夫を「思いやりがない」「自分勝手」と言ったりするのも、相手を道徳的に向上させようとしているわけです。ですから、言うほうはいいことを言っているつもりです。
しかし、言われるほうは不愉快です。
こうしたことが繰り返されると、会話自体がなくなってしまいます。
その結果、離婚に至るか仮面夫婦になるしかありません。

なぜこういうことが起こるかというと、道徳について根本的な勘違いをしているからです。
今、小中学校では道徳の授業が行われていますが、これが可能なのは、子どもが弱いためにおとなしく聞いているからです。
配偶者に対して道徳を説いたら、うまくいかないに決まっています。
そのことを理解せず、夫婦関係に道徳を持ち込んで、そのために多くの夫婦の関係が冷え切っているのは悲しいことです。
家庭に道徳を持ち込まないようにすれば楽しい夫婦関係になると思います。


道徳についての根本的な勘違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。


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トランプ大統領は周りをイエスマンで固め、独裁者への道をひた走っています。
プーチン大統領、習近平主席もどんどん独裁色を強めています。
国家のリーダーは独裁色を強めるほど国民に人気となります。
なぜ国家の指導者は独裁者になり、国民は独裁者を支持するのでしょうか。

独裁者の中の独裁者、アドルフ・ヒトラーはどうして独裁者になり、当時のドイツ国民はどうしてヒトラーを熱狂的に支持したのでしょうか。
ドイツでは何冊もヒトラーの伝記が出ていますが、ヒトラーの子ども時代については、どれもヒトラーは普通の家庭で育ったというふうに書かれているようです。
そんなはずがありません。

猟奇殺人のような凶悪犯罪をした人間は、決まって異常な家庭で育ち、親から虐待を受けています。ところが、メディアはそうしたことはほとんど報じません(最近ようやく週刊誌が報じるようになってきました)。それと同じことがヒトラーの伝記にもあります。

心理学界で最初に幼児虐待を発見したのはフロイトです。
フロイトは1896年に『ヒステリー病因論』を出版し、自分の扱った18の症例すべてにおいて子ども時代に性的暴行の体験があったと記しました。
つまり幼児虐待の中でももっとも認識しにくい性的虐待の存在を認めたのです。
ところが、フロイトは1年後に、性的暴行の体験はすべて患者の幻想だったとして、『ヒステリー病因論』の内容を全面否定しました。フロイト心理学は、幼児虐待をいったん認めたあとで否定するというふたつの土台の上に築かれたのです(これについては「『性加害隠蔽』の心理学史」で述べました)。

アリス・ミラーはフロイト派の精神分析家でしたが、フロイト心理学の欠陥に気づき、批判者に転じました。
ミラーは『魂の殺人』において、ヒトラーの子ども時代について書かれた多くの文章を比較し分析しました。一部ウィキペディアで補足しながらミラーの説を紹介したいと思います。


1837年、オーストリアのシュトローネ村で未婚の娘マリア・アンナ・シックルグルーバーは男児を出産し、その子はアロイスと名づけられました。このアロイスがアドルフ・ヒトラーの父親です。
村役場の出生簿にはアロイスの父親の欄は空白のままです。
マリアはアロイス出産後5年たって粉ひき職人ヨーハン・ゲオルク・ヒートラーと結婚し、同年にアロイスを夫の弟の農夫ヨーハン・ネポムク・ヒュットラーに譲り渡しました(兄弟で名字が異なるのは読み方の違いだという)。
この兄弟のどちらかがアロイスの父親ではないかと見られています。
しかし、第三の説もあります。マリアはフランケンベルガーというユダヤ人の家に奉公していたことがあり、そのときにアロイスを身ごもったという話があるのです。
ヒトラーは1930年に異母兄からゆすりめいた手紙を受け取り、そこにヒトラー家の来歴について「かなりはっきりした事情」のあることがほのめかしてあったということで、ヒトラーは弁護士のハンス・フランクに調べさせたことがあります。しかし、はっきりした証拠はなかったようです。
その後、この説についてはさまざまに調べられましたが、今ではほとんど否定されています。
しかし、ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人かもしれないという疑惑を持っていたに違いありません。


ヒトラーの父アロイスは小学校を出ると靴職人になりましたが、その境遇に満足せず、独学で勉強して19歳で税務署の採用試験に合格して公務員になり、そして、順調に昇進を重ね、最終的に彼の学歴でなれる最高位の上級税関事務官になりました。好んで官憲の代表となり、公式の会合などにもよく姿を現し、正式な官名で呼びかけられることを好みました。
彼は昇進のたびに肖像写真を撮らせ、どの写真も尊大で気むずかしそうな顔をした男が写っています。
彼は3度結婚し、8人の子どもをもうけましたが、多くは早死にしました。

ある伝記によると、アロイスは喧嘩好きで怒りっぽく、長男とよく争いました。長男は「情容赦もなく河馬皮の鞭で殴られた」と証言しています。長男が玩具の船をつくるのに夢中になって3日間学校をサボったときなど、それをつくるように勧めたのは父親であったにもかかわらず、父親は息子に鞭を食らわせ、息子が意識を失って倒れるまで殴り続けたといいます。アドルフも兄ほどではなかったにせよ、鞭でしつけられました。犬もこの一家の主人の手で打たれ続けて、「とうとう体をくねらせて床を汚してしまった」ことがあるそうです。長男の証言によれば、父親の暴力は妻クララにまで及んでいました。

アドルフの妹パウラは、父親の暴力にさらされたのは長男よりもアドルフだと証言しています。
その証言は次の通りです。
「アドルフ兄は誰よりも父に叱られることが多く、毎日相当ぶたれていました。兄はなんというかちょっと汚らしいいたずら小僧といったところで、父親がいくら躍起になって性悪根性を鞭で叩き出し、国家公務員の職に就くようにさせようとしても、全部無駄でした」

これらの証言から、ヒトラー家は父親の暴力が吹き荒れる家庭で、中でもアドルフは被害にあっていたと思われます。
しかし、伝記作家などはこうした証言を疑い、しばしば嘘と決めつけます。

アドルフの姉アンゲラは「アドルフ、考えてごらんなさい、お父さんがあんたをぶとうとした時お母さんと私がお父さんの制服の上着にしがみついて止めたじゃないの」と言ったという記録があります。父親が暴力的であったことを示す証拠です。
しかし、ある伝記作家は、その当時父親は制服を着ていなかったのでこれはつくり話だと決めつけました。
しかし、これは当時父親が制服を着ていなかったというのが正しいとしても、アンゲラが上着について思い違いをしていただけでしょう。上着が違うから全部が嘘だとするのはむりがあります。

また、「総統」は女秘書たちに、父親は自分の背をピンと伸ばさせておいてそこに30発鞭を食らわせたと語ったことがあります。
これについても伝記作家は、彼は女秘書たちにバカ話をするのが好きで、彼の話したことであとで正しくないことが証明されたことも多いので、この話の信憑性は薄いと判断しました。
このような判断の繰り返しで、父親の暴力は当時の常識の範囲内のもので、ヒトラー家は普通の家庭であったという印象に導かれます。


親が子どもを虐待することはあまりにも悲惨なので、虐待の存在そのものを認めたくないという心理が誰においても働きます。そのためにフロイトの『ヒステリー病因論』は世の中の圧倒的な反発を招き、フロイトはその説を捨ててしまいました。
同じ力学は今も働いています。幼児虐待の通報があって児相や警察がその家庭を訪問しても、親の言い分を真に受けて子どもの保護をせず、その後子どもが殺されて、児相や警察の対応が非難されるということがよくありますが、児相や警察の人間も虐待を認めたくない心理があるのです。


ヒトラーの父親の虐待は暴力だけではありません。
ヒトラーは家出をしようとしたことがありましたが、父親に気づかれ、彼は天井に近い部屋に閉じ込められました。夜になって天窓から逃げ出そうとしましたが、隙間が狭かったので着物を全部脱ぎました。ちょうどそこに父親が階段を上がってくる足音がしたので、彼はテーブルかけで裸の体を隠しました。父親は今回は鞭に手を伸ばさず、大声で妻を呼んで「このローマ人みたいな格好をした子を見てごらん」と言って大笑いしました。このあざけりはヒトラーにとって体罰よりもこたえました。のちに友人に「この出来事を忘れるのにかなり時間がかかった」と打ち明けています。

父親はまた、用があって子どもを呼ぶとき、二本の指で指笛を鳴らしました。

私は子どもを笛で呼ぶということから、映画「サウンド・オブ・ミュージック」を思い出しました。
冒頭で修道女見習いのマリア(ジュリー・アンドリュース)が家庭教師としてトラップ家を訪れると、トラップ大佐が笛を吹いて子どもたちを集め、子どもを軍隊式に整列させて行進させます。この家庭内の軍国教育をマリアが人間教育に変えていく過程と、オーストリア国内でナチスが勃興していく過程とがクロスして物語が進行していきます。

当時、ヨーロッパでは子どもに鞭を使うことが多く、とくにオーストリアやドイツではごく幼いうちから親への服従を教え込むべきだという教育法が蔓延していたとミラーは指摘します。そのためのちにヒステリー症状(今でいうPTSD)を発症する人が多く、それがフロイト心理学の出発点になりました。


ヒトラーが優れた(?)独裁者になれたのは、それなりの資質があったからですが、それに加えて父親に虐待された経験があったからでしょう。
ヒトラーは父親を憎み恐れていましたが、やがて自分を父親と同一化し、権威主義的で暴力的な父親のようにふるまうようになります。国民の目からはそれが優れた国家指導者の姿に見えたのです。
子どもから見た父親と、国民から見た国家指導者は、スライドさせれば重なります。

ほとんどの国民もまた暴力的で権威主義的な父親に育てられてきたので、ヒトラーに父親の姿を見ました。
ヒトラーは怒りや憎しみを込めた激しい演説をしましたが、その一方で笑顔で子どもに話しかけたりなでたりする姿も見せました。
厳父と慈父の両面を見せることで、ヒトラーは国民の圧倒的な支持を得たのです。

ヒトラーは父親から学んだ残忍さで政敵を容赦なく攻撃して権力を掌握しました。
またミラーは、ヒトラーは父親への憎しみをとくにユダヤ人に向けたのではないかと推測しています。


その人がどんな人間かを知るには、幼児期までさかのぼって知ることが重要です。
最近はそのことが少しずつ理解されてきて、たとえばトランプ大統領を描いた映画「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」は、20代のトランプ氏が悪名高い弁護士ロイ・コーンの教えを受けて成功の階段を上っていくという物語です。
しかし、20代では遅すぎます。
重要なのは幼児期です。
不動産業者だった父親とトランプ少年との関係にこそトランプ大統領の人間性を知るカギがあります。

政治は政策論議がたいせつだといわれますが、人間論議のほうがもっとたいせつです。


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このごろなにかとカスハラ(カスタマー・ハラスメント)が話題です。
東京都は全国初のカスハラ防止条例をつくり、4月1日から施行されます。
政府は3月11日、カスハラ対策を企業に義務付ける労働施策総合推進法などの改正案を閣議決定しました。パワハラやセクハラはすでに企業の防止義務がありますが、カスハラに関する法規制はこれまでありませんでした。
カスハラが増えているのかどうかはよくわかりませんが、治安のいい日本で大声で店員を威圧するようなカスハラ行為が悪目立ちすることは確かです。

女性508人を対象にしたネット調査で「デートで最もされたら嫌なことを教えてください」という質問にもっとも多かったのは「店員への態度が悪い」22.8%でした(2位は「時計やスマホばかりを見る」18.7%)(1000人に聞いた「デートでされたら嫌なこと」1位は? | マイナビニュース)。

恋愛カウンセラーの堺屋大地氏は、年間約1500件のペースで恋愛相談を受けてきた経験から「飲食店デートで嫌われる男性」として筆頭に「偉そうな上から目線で店員に横柄な態度を取っている」を挙げ、その次に「料理が遅いなど些細なことで激しくクレームを入れる」を挙げています(「飲食店デートで嫌われる男性」が実はよくやっている10の行動 | 日刊SPA!)。

デートのときにもカスハラ行為をする男がかなりいるようです。


カスハラをするのはどんな人間でしょうか。
カスハラ人間は、自分は相手より上だと思ってやっています。つまり弱い者いじめです。
ですから、デートで店員にカスハラをする男は、デート相手の女性にはそんなことをしなくても、結婚するとパワハラ、モラハラ、DVをする可能性があります。
それから、カスハラ人間は、出発点は正当なクレームを言っている場合が多いと思われますが、その主張のしかたが異常に激しく、しつこいのです。だからカスハラになります。
なぜ激しく主張するかというと、自分は正義だと思っているからです。
ここがカスハラの厄介なところです。

カスハラ人間は、どうしてそういう人間になったのでしょうか。

この答えはきわめて単純です。
その人間は子どものころ親から(親とは限りませんが)激しく叱られて育ったのです。
親が子どもを叱るというのは弱い者いじめです。しかも、親は悪いことをした子どもを叱るのは正義だと思っています。
そのため、一度叱るだけでなく、しつこく叱って、とことん子どもを追い詰めるような親もいます。
「虐待の連鎖」という言葉があって、虐待されて育った子どもは親になると自分の子どもを虐待することがありますが、虐待が第三者に向かうとカスハラになるわけです。
つまりカスハラ人間は、親からされたことを他人にしているだけなのです。

日常生活で激しく怒っている人を見かけることは、カスハラ以外はめったにありません。
しかし、ひとつ例外があります。親が子どもに対して怒る場合です。これは「しつけ」として社会的に正当化されているので、しばしば見かけます。
家庭内など人目につかないところではもっと頻繁に行われています。
カスハラをする人間が多くなるのは当然です。


子どもに対する暴力・暴言が子どもの脳を萎縮・変形させることは明らかになっています。
今では暴力あるいは体罰を肯定する人はほとんどいません。
しかし、暴言については「叱る」と称して肯定されています。
たとえば公共の場で子どもが騒いでいて迷惑だったという話がネットでよくあります。そういうときは親が叱るべきだという声が圧倒的です。
さらには、よその子どもであっても叱るべきだという声もあります。
叱ることは肯定されているどころか、むしろ義務とされているのです。

子どもを叱っても、子どもが親の思う通りになるとは限りません。
そうするともっと激しく叱ることになります。
子どもが宿題をやっていないということで叱ると、子どもは叱られたくないので、宿題をやったと嘘をつくようになります。そうすると今度は宿題と嘘と叱る対象が増えます。

子育ての悩み相談でよくあるのは、「子どもを叱ってばかりいて、やめられない。こんなに叱っていると悪影響があるのではないか心配だ」というものです。
最近は「叱る依存」という言葉があって、依存症のひとつに数えられたりします。
子どもを叱るととりあえず子どもはやっていたことをやめるので、親は満足感を得ます。
そうすると「叱る→満足感」という脳の回路ができて、親は満足感を得るために、叱る行動を増やしていくという理屈です。

叱られた子どもはその行動をやめても、その行動がよくないことだと理解したわけではないので、親の目のないところでその行動をします。
ですから、親はその行動がよくないことだと理解させるのが本来のやり方です。
しかし、たいてい子どもは幼いのでまだ理解力がありません。ですから親は叱って、その場限りの満足を得ようとするのです。

叱らなくても、子どもは成長すれば自分で判断して適切な行動ができるようになります。
子どもの成長が待てない親、子どもの判断力を信じられない親が子どもを叱るのです。

最近の子育て法の本を見ると、ほとんどが自己肯定感を持たせるためにほめて育てましょうと書いてあります。
ただ、叱ることを100%否定する本はまだそんなに多くありません。今は過渡期というところです。


叱られて育った子どもは、脳と心にダメージを受け、その影響はさまざまな形で出てきます。
カスハラをすることもそのひとつですが、パワハラ、モラハラにもつながっています。
さらに学校でのいじめの原因にもなっているに違いありません。
親が子どもを叱るというのは弱い者いじめですから、子どもは家庭でされたことを学校でもするのです。


親が子どもを叱る習慣というのは社会全体に悪影響を与えています。
今のカスハラ対策というのは、カスハラが起こってからの対策ですが、カスハラが起こる原因にも目を向ける必要があります。

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世界的に貧富の差が拡大しています。
これはトマ・ピケティが著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では「資本収益率>経済成長率」という法則が成立する、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを明らかにした通りです。
共産圏が存在していたときは、資本主義国でも労働者に配慮していましたが、冷戦崩壊後は資本主義が強欲な正体を現し、日本では非正規労働者が増えて労働者の低賃金化が進みました。
アメリカでも富裕層に富が集中し、製造業の労働者には「見捨てられた」という不満が強まり、それがトランプ氏を大統領に押し上げたといわれます。しかし、トランプ政権の閣僚の多くは大富豪で、低所得層のための福祉を削減しようとしています。

トマ・ピケティは、「金持ちはますます金持ちになる」という事実を指摘しただけで、なぜそうなるのかは指摘していません。そのこともあって、格差を巡る議論はつねに迷走します。
たとえば堀江貴文氏はYouTubeチャンネルで、財務省解体デモは無意味であると主張して、「努力しようぜみんな。お前が貧乏なのは財務省のせいじゃねえよ。お前のやる気とか能力が足りねえからだよ」と言いました。
「貧乏なのは努力しないからだ」「能力のある者が高収入なのは当然だ」というのは格差を肯定するお決まりの理屈ですが、「貧乏な家に生まれると高収入になるのはむずかしい」とか「誰でも努力できるわけではない」という反論もあり、議論は堂々巡りになります。


ここは原点にまでさかのぼって考えないといけません。
格差社会を思想の課題として初めて取り上げたのはジャン=ジャック・ルソーです。
ルソーは、人間は自然状態では平等で平和に暮らしていたが、文明とともに不平等が生じたと考えました。
マルクス主義もこれを受け継いでいます。原始共産制では人々は平等に暮らしていたが、豊かになるとともに貧富の差が生じたとしました。
しかし、なぜ文明化したり豊かになったりすると貧富の差が生じるのかは説明されません。

ルソーの『人間不平等起源論』から有名なくだりを引用します。

ある土地に囲いをして「これは俺のものだ」ということを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見出した最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。

持てる者と持たざる者が生じた瞬間を描いています。
もちろんこれは寓話で、実際にそういうことがあったということではありませんが、ここには納得いかないものがあります。
ある土地を「これは俺のものだ」と言うことを初めて思いついた人間はいたかもしれません。しかし、周りの人間がその言葉を受け入れたとは思えません。「それはお前のものじゃない。みんなのものだ」と反論したはずです。そうしないと自分が損をするからです。
では、初めて土地所有を実現した人間はどんな人間だったのでしょう。
ある土地を「これは俺のものだ」ということを思いついた人間は、それを思いつくだけに知的能力の優れた人間だったでしょう。当然弁も立つでしょう。しかし、そんな言葉だけで説得はできません。
ではどうしたかというと、その人間は身体能力にも優れていて、反対する人間を殴りつけて従わせたのです。つまり知的能力と身体的能力ともに優れた人間が初めての土地所有者となったのです。

原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。

人間の能力は一人一人違うので、狩猟で多くの獲物を捕る人間とあまり捕らない人間がいたはずですが、狩猟採集社会ではお互い利他心で結びついていたので、その違いは問題になりませんでした。
しかし、農耕が始まり、社会に富が蓄積され、集団が大きくなり、また集団の外の人間との交流が広がると、利己心と利己心がぶつかり合い、争いが起こります。そうすると能力の優れた人間が争いに勝ち、富を獲得し、より高い社会的地位につきます。
そして、富は相続され、社会的地位は世襲されるので、強者はますます強くなります。つまり「生物学的強者」が「社会的強者」になるのです。
そしてあるとき、強者の一人が「この土地は俺のものだ」と言うことを思いついたのです。そうすると、弱者は従わざるをえません。そうして土地所有制度が始まったというわけです。

いずれにしても、人間には生まれつき能力差があり、能力差から貧富の差が生まれ、貧富の差は文化の中で蓄積されてどんどん拡大してきて、現代の極端な格差社会が生まれたと考えられます。
こう考えると、自然状態と文明が連続的にとらえられます。


「人間の生まれつきの能力差から社会格差が生まれた」というのはきわめて単純なことですが、これまでほとんどいわれてきませんでした。

たいして勉強しなくても東大に入れる人がいる一方、必死に勉強しても東大に入れない人がいます。その違いは生まれつきの頭のよし悪しによるのだということは誰もが認識しています。
しかし、「あの人は頭がよい」とは言っても、「あの人は生まれつき頭がよい」と言うことはめったにありません。
というのは「人間には生まれつき能力差がある」とか「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーだからです。

人間の能力は、遺伝によって決まっている部分と、環境の影響によって決まる部分があります。
両者の割合がどんなものであるかは、昔から「氏か育ちか」といわれ、議論されてきました。
昔は育ち、とりわけ教育で決まる部分が大きいと考えられていました。
しかし、科学的研究が進むと、遺伝によって決まる要素の大きいことがわかってきました。
科学的研究というのはたとえば、生まれてすぐに引き離されて別の環境で育った一卵性双生児を研究するといったやり方です。

遺伝の要素が大きいといっても、環境の要素も重要です。優れた運動能力を持って生まれてきた人でも、なにも鍛えなければ宝の持ち腐れです。あまり生まれつき運動能力のない人は、一生懸命練習すればある程度のところまでは行けますが、一流になるのはむりでしょう。
ここには「運」の要素もあります。優れたピアノの才能のある子どもでも、最初のピアノの先生との相性が悪くて、ピアノ嫌いになってしまうということもあります(これも環境要素のうちです)。

ところが、先にいったように「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーです。
というのは、人間の遺伝について語ると、差別や優生思想と結びついてしまうからです。
たとえば「知能はある程度遺伝で決まる」と言うと、「知能の低い子どもは大学に行ってもむだだ。早いうちから職業教育をするべきだ」という意見が出てくる可能性があります。
そのため「君子危うきに近寄らず」で、誰も人間の遺伝について語らなくなっているのです。

『遺伝子の不都合な真実』という本を書いた行動遺伝学者の安藤寿康氏は、長年にわたり双生児研究をしてきましたが、教育心理学会で研究発表をするといつも会場には閑古鳥が鳴き、論争すら起こらなかったそうです。「おそらく、文系の世界では『遺伝子』に触れてはならなかったのでしょう」と書いています。
学界でもこのありさまですから、一般社会ではなおさらです。
いや、一般社会で人間の遺伝について語られることはけっこうありますが、それは決まって差別や優生思想がらみです。
ですから、タブーはますます強化されます。


格差社会が発生した根本原因は人間の生まれつきの能力差にあるので、格差社会について語るなら人間の生まれつきの能力差から語り始めなければなりません。
ところが、誰もが生まれつきの能力差を避けて語るので、議論はすべてピンボケになります。

たとえば「親ガチャ」という言葉があります。
親が貧乏だと子どもは十分な教育が受けられません。DVをする親もいます。これらは親ガチャの外れです。
逆に両親がいつも知的な会話をしていて、家には本がいっぱいあり、子どもは大学にも行かせてもらえるというのは、親ガチャの当たりです。
子どもの能力はたぶんに親によって左右されるということを「親ガチャ」という言葉は表現していて、これは自己責任論を否定する意味があります。
しかし、子どもの能力と親の関係をいうなら、親の能力が子どもに遺伝するということもいわねばなりません。
しかし、それはタブーなので誰もいいません。


人間の遺伝について語ることがタブーになったのは、「遺伝」という言葉にも原因があると思われます。
一般の人は「遺伝」という言葉から、親の能力や性格がそのまま子どもに伝わることを想像してしまいます。しかし、実際にはそのまま伝わるということはありません。それは同じ両親から生まれた兄弟が、見た目も性格も能力もかなり違うことを見てもわかるでしょう。親と子を比べてもかなり違います。トンビがタカを生むこともあるし、タカがトンビを生むこともあります。
したがって、私は「遺伝」ではなく「生得」つまり「生まれつき」という言葉を使ったほうがいいと思います。
生まれつきということも、広くとらえれば遺伝になるので、学者はもっぱら遺伝という言葉を使いますが、各個人にとっては、その性質が親から伝わったということより、その性質が変えられるかどうかのほうが重要なので、生まれつきという言葉を使ったほうがいいはずです。
その能力や性格が生まれつきであると思えば、それを変えようというむだな努力をしなくてすみます。
このことは親にとっても重要です。親の役割は子どもをとりあえず全面的に受け入れることです。子どもがうるさいので、おとなしい子どもにしようというのは間違った考えです。子どもがうるさいのは生まれつきの性質だと思えば、受け入れられるはずです。また、あまり成績のよくない子どもをよい学校に入れようとむりに勉強させることもなくなるのではないでしょうか。

また、能力がある程度生まれつきで決まるといっても、鍛えれば伸びることも事実です。能力といっても多様ですから、自分の能力で優れたものはなにかを見つけ(たいていそれは好きなものであることが多いはずです)、早いうちからそれを鍛え、長く続けていれば一流の域に達し、高収入につながることもあるでしょう。


「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーなために、社会にさまざまな混乱が生じています。
学校では、知的障害の子ども以外はみな同じ能力であるという前提で授業をしているので、能力がやや劣った子ども、「境界知能」といわれる子どもは授業から置き去りにされ、社会に不適応になり、犯罪者になったりします。このことは『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口 幸治著)という本によって注目されました。
一方では、頭がよくて授業が退屈だという子どももいるわけで、両方で社会の損失を招いています。

格差社会についての議論が迷走するのも、「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーになっているからです。
そのため「貧乏なのは努力しないからだ」という主張が横行し、生まれつき能力の足りない人が自己責任論で追い詰められています。

人間の生物学的能力差はわずかなのに、社会における収入格差は膨大です。
文明の初めに格差が生じて、拡大してきた軌跡を振り返れば、適正な格差がどんなものであるかについて議論ができます。



なお、「人間の能力は遺伝である程度決まっている」というのは科学的な事実です。科学的事実を言うことがなぜタブーになるのでしょうか。
その原因は、ダーウィンが『種の起源』の12年後に出版した『人間の由来』の間違いにあります。
これについては「道徳観のコペルニクス的転回」で書いています。

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2月28日のアメリカ・ウクライナの首脳会談は思いもかけず決裂しました。
合意のための条件が折り合わなかったのではありません。
メディアの前で両首脳が友好的な姿を見せる演出をしていたところ、「失礼だ」「感謝がない」などという言葉をきっかけに感情的な言い争いになって、決裂したのです。
こんな外交交渉は前代未聞でしょう。

「情報7daysニュースキャスター」(TBS系)で言い争いの部分をノーカットで放送していましたが、私が見たところ、ゼレンスキー氏が「外交ではプーチンの侵略を止められなかった」とプーチン氏の批判をしたところ、バンス副大統領が感情的になり、それがゼレンスキー氏とトランプ氏に伝染していったという感じです。
つまりゼレンスキー氏はどうしてもプーチン氏が許せないし、バンス氏とトランプ氏はどうしてもプーチン批判が許せないということで言い争いになったのです。

会談が決裂したきっかけがなんだったかは別にしても、トランプ氏とプーチン氏が太い絆で結ばれていることは確かです。これがなんとも不思議です。
ロシアは2016年の米大統領選に介入して、トランプ氏当選に貢献したといわれます。トランプ氏は自分の事業が危機に瀕したときロシア人ビジネスマンに助けられ、それからロシアはトランプ氏を「育ててきた」という説があります。
最近のニュースで、元カザフスタン諜報局長のアルヌール・ムサエフ氏がモスクワのKGB第6局に勤務していたとき、資本主義国からビジネスマンをリクルートする仕事をしていて、トランプ氏を「クラスノフ」というコードネームで採用したという話をフェイスブックに投稿したというのもありました。
こんな話はこれまではデマだと一蹴していましたが、トランプ氏のプーチン氏への入れ込み方を見ると、信じたくなってきます。

トランプ氏がこんなにもプーチン氏を支持するのはなぜかということは誰もが疑問に思うはずです。
一応の説明としては、アメリカにとって中国が主要な敵なので、中国とロシアを引き離そうという戦略だというのがあります。
これは理屈としてはありそうですが、もし中国を主要な敵とするなら、トランプ氏は同盟国をたいせつにし、途上国を味方につけなければなりません。
しかし、トランプ氏はまったく逆のことをしているので、トランプ氏は覇権国になるのを諦めたのだということを、私は前回の「トランプ、覇権国やめるってよ」という記事に書きました。

トランプ氏が覇権国になるのを諦めたのはその通りだと思いますが、トランプ氏の外交はそれだけでは説明しきれません。
トランプ外交の謎について考えてみました。


バンス副大統領は2月14日、ミュンヘン安全保障会議で演説し、「欧州が最も懸念すべき脅威はロシアではない。中国でもない。欧州内部だ」と述べ、もっばら欧州批判を展開しました。SNSの偽情報対策を「言論の自由の弾圧」だとして糾弾し、移民排斥を唱える欧州の極右政党の主張に「同意する」と語りました。さらにドイツの主流政党が極右政党AfDとの連立を否定していることは「民主主義の破壊」だと述べ、さらに環境、エネルギー問題なども論じました。
聴衆はバンス氏がウクライナ問題や関税問題についてトランプ政権の立場を説明するのかと思って聞いていたところ、バンス氏が欧州の内政批判ばかりを述べたので、最後のほうでは場内は静まり返ったといいます。
要するにバンス氏は、欧州の政治を保守対リベラルととらえて、米大統領選でバイデン陣営やハリス陣営を批判したのと同じようなことを述べたのです。

イーロン・マスク氏は1月26日、ドイツの極右政党AfDが開いた大規模な選挙集会にオンライン参加し、AfD支持を表明し、さらに欧州の主要国の政権批判をしました。
これも内政干渉で選挙介入だと批判されました。

トランプ氏は2月26日の記者会見で、「EUは米国をだますために設立された」「それがEUの目的であり、これまではうまくやってきた。だが、今は私が大統領だ」などと述べました。
EUはリベラルやWoke(意識高い系)に支配された組織だという認識なのです。
トランプ氏はEUを離脱したイギリスを前から賞賛しています。

トランプ氏やマスク氏やバンス氏は、EUや欧州の主要国がリベラルなのはけしからん、移民排斥、反DEI、反脱炭素、反LGBTQの方向に舵を切るべきだと主張して、保守の立場から欧州の政治に介入しているのです。
アメリカの分断をそのまま欧州に持ち込んだ格好です。

なお、トランプ氏は南アフリカが白人差別の土地政策をしているなどの理由で南アフリカへの経済援助を停止する大統領令に署名しました。
南アフリカは白人支配の政府が倒され、黒人の政権になりました。それがトランプ氏やマスク氏には許せないのでしょう(マスク氏は南アフリカ出身)。
これを見てもトランプ政権が白人至上主義の外交をしていることがわかります。

プーチン氏は保守かリベラルかといえば、もちろん保守です。ロシア国内にほぼリベラル勢力がないので保守らしさが目立たないだけです。
ですから、プーチン氏とトランプ氏が理解し合うのは当然です。
トランプ氏はプーチン氏や欧州の極右政党とともに欧州のリベラルと戦っているわけです。



最近、欧州で極右政党が台頭しているのには、世界の勢力図の変化が影響しています。

トランプ氏は2月13日、G7にロシアを復帰させるべきだと述べました。
主要国首脳会議(サミット)は、1998年にロシアが加わってG8となりましたが、クリミア併合のためにロシアは追放されて、それ以降G7となっています。
G7の内訳は日本、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリアです(それとEU)。
昔はこれで「主要国」と称してもよかったのですが、今は状況が違います。ロシアを加えるなら中国やインドやブラジルも加えるべきだということになります。

2023年のGDPトップ10は次の国です(ロシアは11位)。

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しかも、昔の主要国と新興国の経済成長率が大きく違うので、今後5年、10年たつと世界の勢力図が大きく変わることが予測できます。
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アメリカでは人口における白人の割合が、1960年には89%だったのが2020年には60%にまで低下し、そのうち過半数を割ることは確実です。
オバマ黒人大統領の誕生もあって、白人の危機感が高まり、それがトランプ大統領誕生の原動力になりました。
それと同じことが世界規模で起こっていて、非白人国の経済力、軍事力、政治力がそのうち白人国を凌駕しそうです。
白人至上主義者がそれに対する危機感を深め、それが欧州において移民排斥を訴える極右勢力の台頭につながっています。

ところが、メディアは極右の台頭を欧州内部の政治状況としてしかとらえていないので、なぜ最近になって極右が台頭してきたのかよくわかりません。
極右はレイシストであることを隠しているので、「不法」移民はよくないとか、「移民の犯罪が多い」などと理由をつけますが、移民の犯罪が今になって増えたわけではありません。


非白人国の勢力はグローバルサウスと呼ばれるものとだいたい一致します。
日本ではグローバルサウスの力を軽視して、まだ世界は欧米中心に回っていると考えています。
そのため、ウクライナ戦争が始まってロシアに対する経済制裁が始まったとき、ロシアは長く持たないだろうなどといわれました。
しかし、実際は3年持っていますし、むしろ最近ロシア経済は好調です。
中国、インド、その他グローバルサウスの国がロシア経済をささえているからです。

グローバルサウスが力をつけてきたことに欧米は危機感を持って、そのため内部で保守対リベラル、あるいはレイシズム対反レイシズムの対立が激化しています。
トランプ政権もその中で保守ないしレイシズムの側でプレーしているわけです。
そして、プーチン政権を味方につけることで有利な立場に立とうとしています。
そう考えると、トランプ政権の外交が見えてくるのではないでしょうか。

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