村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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7月20日投票の参院選の争点に「外国人問題」が急浮上しています。
参政党が「日本人ファースト」を掲げたのに対抗したのか、自民党は「違法外国人ゼロ」を掲げました。日本維新の会は「外国人受け入れ総量規制」、日本保守党は「移民政策の是正」です。
その背景には「外国人が過度に優遇されている」ということと「外国人犯罪で治安が悪化している」という認識があるようです。

私は「外国人が過度に優遇されている」と聞いたとき、昔2ちゃんねるで盛んに言われた「在日特権」を思い出しました。在日の人は税金の優遇を受けるなどさまざまな特権を持っていると言われたのですが、結局のところはことごとくがデマでした。今ではまったく言われなくなっています。
「外国人の過度な優遇」もデマに決まっています。外国人は選挙権もなく政治力もないからです。

NHKNEWSの『「外国人優遇」「こども家庭庁解体」広がる情報を検証すると…』という記事が割と詳しく「外国人優遇」がデマであることを検証していました。


「外国人犯罪で治安悪化」については、ネットで犯罪のデータを調べるだけでデマだとわかります。
外国人の犯罪件数は減少しているからです。

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令和4年版「犯罪白書」より

外国人の数は増えているのに犯罪件数はへっています(来日外国人検挙人員は微増する時期もありました)。
ただ、このグラフは令和3年までしかありません。
このあとを数字で示すと、こうなります。

【来日外国人による刑法犯の検挙人数と前年比増減率】
令和4年 5,014人 -10.0%
令和5年 5,735人 +14.4%
令和6年 6,435人 +12.2%

ここ2年は増加しています。
コロナ禍が収束したことによる反動と、インバウンド客の急増などが原因ではないかと思われます。

ともかく、「外国人犯罪増加」ということがいえるのは直近の2年間についてだけです。
それまで約20年間、外国人犯罪はへり続けていました。


「外国人は怖い」とか「外国人は犯罪的だ」というイメージがあるかもしれません。
外国人の犯罪率と日本人の犯罪率を比較してみました。

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外国人の犯罪率は日本人の2倍強です。
しかし、日本人は高齢者が多く、外国人は貧困者が多いという事情があり、外国人は日本のコミュニティになじんでいないことなどを考えると、それほど大きくは違わないと思われます。
もともと日本人の犯罪率はひじょうに低いので、日本にくる外国人もなかなか“優秀”だといえます。


治安が悪化しているか否かは、外国人犯罪だけでなく日本全体の犯罪件数で判断する必要があります。

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2002年をピークに犯罪件数はへり続けています。
2022年と23年は増加しています。これもコロナ禍の反動と思われますが、それだけでは説明できないかもしれません。
2024年は、刑法犯認知件数が約728,000件、前年比+3.5%でした。


全犯罪件数も外国人犯罪件数もへり続けています。
ここ2、3年に関しては少し増えていますが、あくまで少しであり、今のところ「治安が悪化した」とまではいえないでしょう。


「川口市クルド人問題」というのがあります。川口市在住のトルコ国籍のクルド人が治安を悪化させているというのです。
しかし、6月13日、川口市議会において市側は県警の統計として「昨年の外国籍の刑法犯の検挙数が178人で、中国とトルコ国籍が54人ずつ、ベトナムが27人」と答弁しました。
川口市の人口は約60万人で、うち外国人は約4万人とされるので、川口市の外国人の犯罪率は約0.44%です。全国平均の約0.33%より少し高い程度です。
それにトルコ国籍の人が54人ですから、人口60万人の川口市で絶対数が少なすぎます。
「川口市クルド人問題」は完全に捏造されたものです。

捏造したのは産経新聞です。
トルコは日本の友好国ですから、トルコ人を悪くいうわけにいきませんが、トルコ内のクルド人はクルド労働者党をつくって独立運動をし、トルコ政府はクルド労働者党をテロ組織に認定しました。ですから、クルド人を批判する限りはトルコ政府も許容しそうです。
2023年7月、クルド人同士の喧嘩があり、川口市立医療センター周辺に100人ほどのクルド人が集まり、7人が逮捕されるという騒ぎがありました(全員不起訴)。これをきっかけに産経新聞はクルド人をヘイトの対象にすることにしたようです。
ねらい通りに「川口市クルド人問題」は燃え上がり、Xには「クルド人の犯罪」と称する映像や動画が多数投稿されましたが、映像ではそれがクルド人かどうかわかりませんし、犯罪かどうかもわかりません。

この少し前からX上では「犯罪をする外国人」や「マナーの悪い外国人」といった投稿が急増しました。
「悪いやつを攻撃する」というのは確実にインプレッションを稼げます。まさにヘイトビジネスです。

この背景には、欧米で移民排斥運動が高まっているということがあるでしょう。
欧米と日本の動きはきわめて似ています。
たとえばアメリカでは不法移民が犯罪をしているというのが移民排斥の理由になっています。
しかし、不法移民の犯罪率が高いというデータはありません。
日本で「外国人犯罪で治安悪化」と騒いでいるのと同じです。

ただ、欧米では人種差別感情が根強いので、それが移民の犯罪を生むということがあります。
日本人にはそれほどの人種差別感情がないので、移民との共生が比較的うまくいっているということがいえそうです。


ここ2、3年の犯罪増加は気になりますが、「外国人犯罪で治安悪化」というのは完全なデマです。
どうしてこうしたデマが広がったのでしょうか。
SNSでは「外国人犯罪」の動画がいくつもアップされ、一方、「日本人犯罪」の動画はまったくアップされないので、世の中は外国人犯罪だらけだと勘違いする人が出てきます。
こうした勘違いは犯罪の統計データを示せば解消できます。そうしたことをするのはSNSではなくてオールドメディアの役割でしょう。
ところが、オールドメディアはそうした役割をまったく果たしてきませんでした。


「刑法犯認知件数」のグラフを見れば、犯罪件数はピークから3割以下にまで減少し、治安は大幅に改善したことがわかります。ところが、マスコミはそうしたことはほとんど報道しません。
『警察白書』は毎年発表され、新聞はその内容の概略を伝えますが、「犯罪は順調にへっている」みたいなことは書かず、「高齢の被害者が増えた」とか「手口が巧妙化した」とか「ネット犯罪が増加した」といったことを見出しにするので、犯罪は深刻化している印象になります。
なぜマスコミはそうした伝え方をするのでしょうか。

世界的ベストセラーになったハンス・ロスリング著『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』は、人間は間違った思い込みによって世界を見ているということを書いています。その思い込みは10に分類されるのですが、最初のふたつは、

・分断本能「世界は分断されている」という思い込み
・ネガティブ本能「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み

であるといいます。

たとえば「日本人と移民は分断されている」という思い込みは分断本能の典型です。
「犯罪が増加して治安は悪くなっている」というのはネガティブ本能です。
マスコミは人々のこうした思い込みに合わせて報道していると考えられます。

それに、凶悪犯罪の報道というのは、メディアにとっては優良コンテンツです。犯人への憎しみを煽り立て、もう一方で被害者への同情も煽り立てて、人々の感情をゆさぶることができるからです。
そのためマスコミの報道はどうしても犯罪を大げさに描き、治安悪化を印象づけるものになります。
「犯罪は減少して治安は改善している」という主張に対しては、誰かが「体感治安」という言葉を考え出して、「体感治安は悪化している」という反論が行われてきました。
少年犯罪についても同じです。少年犯罪もずっと減少し続けてきたのですが、専門家がいくら「少年犯罪は減少していて、凶悪化はしていない」と力説しても、マスコミは逆のイメージをつくりあげて、そのために少年法が厳罰化される方向に改正されました。

外国人犯罪についても同じです。マスコミが「外国人犯罪は減少している」と指摘するのを聞いたことがありません。そのため外国人犯罪が増加しているというイメージがつくられてきました。


そうした報道の背景には、マスコミと警察の癒着という問題も指摘できます。
マスコミは警察から情報をもらって報道をするので、警察に不都合なことは報道しません。
犯罪件数はピーク時から3割以下にまで減少しているということが広く知られたら、警察の予算をへらせという議論が起きるはずです。
「犯罪の増加・凶悪化」というイメージをつくることは警察とマスコミの両方の利益です。

つまりもともとオールドメディアが「外国人犯罪の増加」というイメージづくりをしていて、そこにSNSなどでの外国人へのヘイトスピーチが上乗せされて、外国人問題が参院選の大きな争点になるまでになったのです。
オールドメディアは犯罪報道を過度に娯楽化してきたことを反省し、犯罪件数のような基礎的な情報をきちんと伝えていくべきです。

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「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは名言です。
戦いに勝った者は「自分は正義で、相手は悪だ」と主張し、負けた者はその主張を否定する力がないので、勝った者の主張が社会に広がります。

「勝てば官軍」に当たる言葉は英語にもあります。
「Might is right(力が正義である)」及び
「Losers are always in the wrong(敗者はつねに間違った側になる)」です。
なお、パスカルも「力なき正義は無効である」と言っています。

つまり「正義」というのは、強い者が決めているのです。
最近はそのことが理解されてきて、正義の価値が下落し、正義を主張する人はあまり見かけなくなりました。

そうすると、「悪」の価値も見直されていいはずです。
「悪」も強い者が決めているからです。

さらにいうと、「善」も強い者が決めています。
「善」とはなにかというと、「悪」の対照群です。
テロ行為が「悪」だとすれば、テロ行為をしないのが「善」です。

「正義」も「善」も「悪」もすべて定義がないので、力のある者が恣意的に決めています。
したがって、正義、善、悪で世の中を動かそうとするとうまくいきません。
ハリウッド映画では、正義のヒーローが善人を救うために悪人をやっつけてハッピーエンドになりますが、これはフィクションだからです。

世の中を支配する者は善と悪を恣意的に決めることができます。
そうすると、力のない者はいつ悪人に仕立てられて罰されるかわからないので、安心して暮らせません。
そこで、人を罰することは法律によって厳密に決めることになっています。これが法の支配ないし法治主義といわれるものです。
犯罪者(悪人)と認定するまでの法的手続きは煩雑ですが、どうしても必要な手続きです。
この手続きを省略すると「リンチ」になりますが、リンチが横行すると世の中の秩序が乱れます。


社会は法の支配によって秩序が保たれていますが、法の支配の及ばない領域がふたつあります。
ひとつは国際政治の世界です。ここではロシア、イスラエル、アメリカといった軍事力のある国が好き勝手にふるまっています。
もうひとつは家庭内です。家族は愛情で結びついているので、法律が入り込むべきでないとされてきました。そのためここでも力のある者が好き勝手にふるまっています。


家庭内を見ると、善と悪がどのようにして決められるのかがよくわかります。
小さな子どもは動き回り、大声を出し、物を壊したり、部屋の中を汚したりします。それは子どもとして自然なふるまいですが、親は子どもにおとなしくしてほしい。高度な文明生活と子どもの自然なふるまいはどうしても合わないのです。
そこで、親と子で妥協点を探らねばなりませんが、親は子どもよりも圧倒的な強者です。そのため親は自分勝手にふるまうことができますし、善と悪も自分勝手に決めることができます。
たとえば、おとなしいのは「よい子」で、うるさく騒ぐのは「悪い子」、親の言うことを素直に聞くのは「よい子」で、親の言うことを聞かないのは「悪い子」、好き嫌いを言わないのは「よい子」で、好き嫌いを言うのは「悪い子」、かたづけをするのは「よい子」で、散らかすのは「悪い子」といった具合です。
このように善悪の基準は親の利己心です。したがって、よいとされることが子どもにとってよいこととは限りません。
たとえば親は子どもに「おとなしくしなさい」と言いますが、「おとなしい」を漢字で書くと「大人しい」です。つまり子どもにおとなのようにふるまえと言っているのですが、これは正常な発達の妨げになることは明らかです。

子どもを「よい子」にしつけることは親の義務とされ、しつけを怠る親は非難されます。
こうしたことが幼児虐待を生んでいます。幼児虐待で逮捕された親が判で押したように「しつけのためにやった」と言うのを見てもわかります。

家父長制家族においては、夫は妻に対して圧倒的な強者ですから、夫が善と悪を決めます。
夫に従うのが「よい妻」で、夫に従わないのは「悪い妻」、家事を完璧にこなすのが「よい妻」で、家事の下手なのが「悪い妻」という具合です。
夫にとって都合のよい妻を「良妻賢母」ともいいます。
妻の側からも「よい夫」と「悪い夫」というように夫を評価したいところですが、妻は弱い立場なので、そうした評価が社会的に認知されることはありません。そのため、「悪妻」という言葉はあっても、「悪夫」という言葉はありません。


「よい子」と「悪い子」、「良妻」と「悪妻」という言葉を思い浮かべれば、善と悪は強者が自分に都合よく決めているということがわかります。
ところが、倫理学は善を絶対的な基準と見なしてきました。
アリストテレスは、人間は「最高善」を目指すべきであるとし、カントも「最高善」について論じています。
「よい子」や「よい妻」の最高の状態を目指すべきだということです。そんなことをしても、本人は少しも幸福ではなく、親や夫が喜ぶだけです。
こんな倫理学が顧みられなくなったのは当然です。


善、悪、正義、「べき」などを総称して道徳というとすると、道徳はすべて人間がつくったものですから、そこに必ず人間の下心があります。
道徳は、人間の心を縛る透明な鎖です。
鎖を断ち切ってこそ自由な生き方ができます。



前回の「一神教の神は怖すぎる」という記事で、エデンの園でアダムとイブが神の言いつけにそむいて善悪の知識の木から食べたために楽園を追放されて不幸になったということを書きました。
人間は善悪の知識を持ったために不幸になったという話は暗示的です。
それまで親子は一体で、子どもはなにをしても親から愛されていましたが、親が「よい子」と「悪い子」という認識を持ったときから子どもは行動を束縛され、愛の楽園から追放されたのです。
子ども時代の不幸は人生全体をおおい、さらに世界全体をおおっています。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」では、善と悪についてさらに詳しく書いています。


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中東で起きている争いはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の争いでもあります。
キリスト教・ユダヤ教勢力がイスラム教勢力圏の真ん中にイスラエルを建国し、以来、何度も戦争を繰り返しながらイスラエルは確固たる足場を築きました。
米軍は中東に20か所以上の基地・施設を有し、4万人以上を駐留させています。
十字軍の時代と同じことをしています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教で、同じヤハウェという神を信仰する宗教です(イスラム教のアッラーはヤハウェのことです)。
当然特徴も似ています。それは闘争的で独善的だということです。

ヤハウェは「人格神」といわれます。
ギリシャ神話の神も日本神話の神もそれぞれに擬人化されているので人格神といえなくもありませんが、一般に人格神といえばヤハウェのことです。神と思えないような、人間のいやな面を持っているために人格神といわれるのだと思います。
ヤハウェの人格が三つの一神教に大きな影響を与えています。

では、ヤハウェはどんな人格なのでしょうか。
『旧約聖書』の『創世記』にはこう書かれています(引用は「口語訳聖書 旧約:1955年版」より)。

主なる神は人をエデンの園に置き、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言いました。
そして、人が一人でいるのはよくないとして、人のあばら骨のひとつを取って、女をつくりました。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
神は二人が禁じられた実を食べたことを知り、へびに対して「おまえはすべての獣のうち最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言いました。
次に女に対して「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言いました。
そして、人に対しては「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」と言いました。

へびは人をだまし、人は神の言いつけにそむいたので神から罰されたということになっています。
しかし、へびは嘘をついていません。嘘をついたのは神です。「善悪を知る木から取って食べると、きっと死ぬであろう」と言ったのに、二人は死にませんでした。
嘘をついた神が真実を言ったへびを罰しました。正しい内部通報者が罰されたみたいなものです。

人は神のいいつけにそむいたので罰されるのは当然のようです。
しかし、善悪を知る木の実を食べた行為に対する罰としては重すぎるのではないでしょうか。神はその人だけでなく子々孫々まで不幸になるように呪いをかけました。


エデンの園を出たアダムは土を耕しました。エバはみごもり、カインを産み、さらにその弟アベルを産みました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」
二人の子どもを持つ親は、二人を平等に愛することはめったになく、たいていえこひいきするものです。主もアベルをえこひいきしたのでしょうか。
それにしても、主の「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう」という言葉は不可解です。
まるでカインが悪いことをしたみたいな言い方で、自分のえこひいきは棚に上げています。
いや、主がカインの供え物を顧みなかったことにはちゃんとした理由があるのかもしれません。だったら、その理由を言えばいいのです。そうすれば、カインもアベルを逆恨みするようなことはなかったはずです。
もちろんカインが弟のアベルを殺したのは、あまりにもひどい罪ですから、カインが主に罰されるのは当然でしょう。
しかし、神が全知全能なら、人間が罪を犯さないように導いてくれてもよさそうなものです。


その後、人は地上にはびこり、同時に人の悪もはびこりました。主は人をつくったことを後悔し、人も獣も、地をはうものも、空の鳥もすべて地表からぬぐい去ることを決心します。ただ、ノアは正しい人だったので、主はノアに箱舟をつくるように命じます。
結局、ノア一家と箱舟に乘れた動物以外のすべての地表の生き物は死んでしまいます。
自然災害で死んだのではありません。主が殺すために洪水を起こしたのです。
地表の生き物をことごとく殺すとはあまりにも残虐です。
しかも、そのときに「正しい人」と「悪い人」を選別しています。
人間はヤハウェの前では安心することができません。


ヤハウェは怒りで人間を罰する神です。
イエス・キリストはそうしたユダヤ教を愛の宗教に改革しようとしました。
キリストの教えといえば「汝の隣人を愛せよ」という言葉が思い浮かぶかもしれませんが、これは誤解です。
「隣人を愛し、敵を憎め」というのは当時の常識でしたが、キリストはそれは当たり前のことで、優れたことをしたことにならないと言いました。
キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言い、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言ったのです。
これがキリストの教えの核心でしょう。
しかし、改革は中途半端でした。今のキリスト教徒の口から「汝の敵を愛せよ」という言葉を聞くことはありません。

(イスラム教については詳しくないので省略します)


神と人間の関係は、平行移動させると親と子の関係に重なります。
ヤハウェはまるで子どもを虐待する父親です。
西洋では一般家庭の親もヤハウェを真似て子どもを虐待しています。
カトリック教会では聖職者による子どもへの性的虐待が広範囲に行われていました。
幕末から維新にかけて日本にきた西洋の宣教師、外交官、商人たちは、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、日本が特別だったわけではなく、世界的に見れば、子どもを虐待する西洋のほうが特別だったのです。
しかし、日本は間違って西洋の文化を取り入れ、親が子どもに体罰をするのが当たり前の国になってしまいました。


最近は体罰はよくないこととされ、親子関係のあり方も変わってきました。
今の日本人ならヤハウェがそうとうにおかしな神であることが理解できるでしょう。

ともかく、今の中東の争いは不合理な宗教的かつ家族的感情によって動いていることを理解しなければなりません。


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ロシアのウクライナ侵攻に続いてイスラエルがガザやイランなどへの攻撃を強め、さらにアメリカも参戦しました。
各国の内政も、右派と左派、保守とリベラルの対立が激化し、移民排斥運動などが高まっています。
こうした動きのもとにあるのは「悪をなくせば世界はよくなる」という考え方です。

プーチン大統領は「ウクライナの非ナチ化」を掲げてウクライナに侵攻しました。つまりナチスという「悪」を排除することが目的です。
イスラエルは「ハマス殲滅」を掲げていました。ハマスはテロリストという「悪」です。
一方、ハマスなどはイスラエルのシオニズムという「悪」を攻撃しています。
トランプ大統領は不法移民のことをテロリスト、殺人者、精神異常者と呼び、「悪い遺伝子が流入している」と主張しました。

こうした考え方は「正義」とも「勧善懲悪」ともいわれますが、もっと広くいうと「道徳」です。
道徳は「悪いことをしてはいけない」ということを教えます。そして、悪いことをする者を罰し、矯正し、矯正できない場合は排除するように教えます。
こうした道徳が対立や争いを激化させ、戦争を起こしているのです。

道徳が世の中を悪くしている――ということは、冷静に世の中を観察すればわかることですが、誰もはっきりとは言いません。
なぜなら道徳はよいものとされているからです。道徳を悪くいうのはタブーです。
しかし、道徳が世の中を悪くしているのはまぎれもない事実です。
具体的に見ていけばわかります。


アルコール依存症になった人は、道徳的な観点からは、過度な飲酒という悪癖に陥った悪い人とされます。実際、本人が健康を害するだけでなく、家族など周りの人に迷惑をかけ、不利益を与えています。
周りの人はアルコール依存症の人を「意志が弱い」とか「家族に迷惑をかけた」とか「約束を破った」とか言って非難します。この非難は、その人を立ち直らせようという善意からのものです。しかし、アルコール依存症の人は非難されて立ち直ることはありません。逆に非難されることがさらなる飲酒の原因になり、症状の悪化を招きます。
覚醒剤などの薬物依存症の人は、犯罪者でもあるので、本物の悪人としてマスメディアからも盛大に非難されます。もちろんこの場合も、非難されて立ち直ることはなく、悪化するだけです。
ただ、ここ数年は、薬物依存症は病気であるという認識が広がってきて、マスメディアは以前のようには薬物依存症の人を非難しなくなりました。

依存症は病気なので、医学的・心理学的な治療が必要です。ところが、人々は道徳的観点からそれを「悪」と見なし、罰したり、矯正しようとしたりして治療を妨げ、症状を悪化させてきました。
道徳が「悪」を生み出しているということがわかるでしょう。


道徳は、子どもが悪いことをしたら叱るべきと教えています。
子どもが行儀の悪いことをしたり、乱暴をしたり、汚い言葉を使ったり、嘘をついたりしたら、親が叱らなければなりませんし、もし叱らないと子どもはどんどん悪くなってしまうとされます。
こういう考え方が幼児虐待を生んでいることは明らかです。
ちなみに未開社会では親が子どもを叱ることはありませんし、動物の世界でも親が子どもを叱ることはありません。

毎日子どもを叱っている親は、自分のしていることは虐待ではないかと悩むことがあります。
そんなとき、子どもは発達障害だったと診断されると親は救われます。子どもを叱らなくてよくなるからです。発達障害は遺伝的なものなので、叱って矯正できるものではありません。
もちろん叱られなくなった子どもも救われます。
ここでも道徳が事態を悪くしていることがわかります。

発達障害は「遺伝」ですが、実は子どもが持っているさまざまな個性も「遺伝」です。
最近は「障害」という言葉を避けて、発達障害といわずに非定型発達と呼ぶことが増えています。
非定型発達と定型発達の間に線を引くことはできません。
発達障害の子を叱ることが無意味なら、発達障害でない普通の子を叱ることも同様に無意味なことです。
そのような認識が広まれば、親は子どもを叱らなくてもよくなり、親子は仲良くなり、もちろん幼児虐待などもなくなります。


もっとも、それに対しては「子どもが悪いことをしたときは叱るべきではないか」という反論があるかもしれません。
そういう反論はまさに道徳が生み出した思考です。

文明がいくら発達しても、赤ん坊はすべてリセットされて、原始時代と同じ状態で生まれてきます。そうすると文明化した親の意識が赤ん坊から乖離し、親は子どもに共感しにくくなり、子どもに対して「こんなことがわからないのか」「こんなことができないのか」という不満を募らせますし、中には子どもがかわいくないという親もいます。また、洗練された文化的な生活をしていると、子どもの自然なふるまいがおとなにとって都合が悪くなります。家の中の高価な品物を壊されては困りますし、家の中を汚されても困ります。また、家の中には子どもにとって危険なものもあります。
そうすると親は子どもに、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと言って、子どもの行動をコントロールせざるをえません。
そのとき子どもがしてはいけないことを「悪いこと」すなわち「悪」と名づけたのです。
一方、子どものするべきことは「よいこと」すなわち「善」と名づけ、親は子どもに「よいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」と主張しました。
親にとって都合の悪いことが「悪」で、都合のいいことが「善」です。つまり善悪の基準は親の利己心です。

子どもは昔と変わらず自然にふるまっているだけです。それが文明の進んだある時点から「悪」とされるようになりました。
「美は見る者の目に宿る」という言葉があるので、それにならっていうと「善悪は見る者の目に宿る」です。
つまり人間は「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、親は子どもの「悪いこと」をやめさせ、「悪い子」を「よい子」にしようとしてきましたが、まったく間違った努力です。
「悪」は子どもの中にあるのではなく、自分の目の中にあるからです。
私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。


40人の生徒がいるクラスで、教師はいつも騒いでいる「悪い子」を排除すれば「よいクラス」になると考え、「悪い子」を排除したとします。しかし、そうしてつくった「よいクラス」の中にも騒がしい子とおとなしい子がいます。騒がしい子は目障りなので、また排除します。こうしたやり方ではどこまでいっても「よいクラス」は実現できません。それに、この教師は排除された子どものことを無視しています。

今の世界も同じ排除の論理で、犯罪者、テロリスト、悪人、不法移民を排除して「よい世界」を実現しようとしていますが、排除された者がおとなしくしているわけがなく、このやり方はうまくいきません。
DEI(多様性、公平性、包括性)の論理でこそ平和で安定した社会をつくることができます。



人間は親(ないしは親の代理人)からたっぷりの愛情を受け、全面的に肯定されることでまともな人間に育ちます。
しかし、文明人の親は子どもの中の「悪」を排除しようとして、暴力や暴言でしつけをするので、排除の論理を身につけた暴力的な人間に育ってしまいます。
そうした人間が互いに争って混乱を招いているのが今の世界です。
世界を改革するには親子関係を見直すことから始めなければなりません。



今回の記事は「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」で述べたことをより具体的に述べたものです。
また、より詳しいことは別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。


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日本の昨年の出生数は初めて70万人を下回り、合計特殊出生率も1.15と過去最低となりました。
政府はあれやこれやと少子化対策をしてきましたが、まったくといっていいほど効果がありません。
それはしかたのないことで、先進国はどこも出生率は低いものです。

アメリカはずっと人口が増え続けてきましたが、それは移民を受け入れてきたからです。
アメリカの白人に限ってはずっと出生率2.0を下回っています。
ヒスパニックの出生率は高いとされてきましたが、最近は急速に低下して2.0を下回りました。
少子化は先進国病なのです。

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ですから、日本が少子化を克服しようというのはむりな話です。出生率をいくらか上げて、少子化の進行を少しでも遅らせることができれば上出来です。

先進国では少子化が進んでも、人類全体では人口は増え続けています。
現在は約80億人で、国連の「世界人口推計」によると2030年に約85億人、2050年に約97億人となり、2100年には約109億人でピークに達すると予測されています。

ですから、人類の存続を心配することはありません。
日本政府も人類のために少子化対策をしているのではありません。
では、なんのためにしているかというと、日本の経済、財政、年金のためです。
しかし、子どもをつくる人は日本の経済、財政、年金のことなど考えていません。自分と子どもの人生のことを考えています。
ここに政府と子づくり世代の齟齬があります。


それにしても、先進国で少子化が進むのはなぜでしょうか。
一応の説明として、先進国では女性の社会進出が進み、結婚や出産のタイミングが遅れること、家族よりも個人の自由や自己実現を優先する価値観が広がることなどが挙げられます。
低収入や雇用の不安定などの経済的理由も挙げられますが、貧しい途上国で出生率が高いのですから、経済的なことは理由にならないのではないでしょうか。
子育てのための補助金などもあまり効果はないはずです。

では、先進国で少子化が進む原因はなにかというと、文明が発達するほど人間が一人前になるのが困難になることです。

狩猟採集社会では、子どもは遊びの中で狩猟や採集のやり方をみずから学んで一人前になりました。ですから、親はなにも教える必要はありませんでした。
しかし、文明が発達して社会が複雑化するとともに一人前になるために学ぶべきことが増えてきますし、親などのおとなが教えるべきことも増えてきます。
人間はしゃべることは自然に覚えますが、読み書きは誰か教える人がいないと覚えることはできません。そのため近代になると義務教育が始まります。
文明の発達は加速度的に速くなり、義務教育の年限は延長され、今では義務教育は中学校までとされますが、高校まで行くのは最低限に必要とされます。大学に行くのも普通となり、より有利な立場を求める人は大学院に行きます。
江戸時代には多くの人は寺子屋にも行かなかったのですから、短期間に大きく変わりました。

子どもに高度な教育を受けさせるにはお金がかかりますが、負担はそれだけではありません。親は子どもに対して「勉強しなさい」などと言って圧力を加えなければなりませんが、その心理的な負担もあります。
子どもにはみずから学ぶ意欲が備わっていますが、自発的な学習だけでは今の社会には適応できないと考えられています。そのため、どこの国でも同じですが、親は子どもに勉強を強制しなければなりません。
勉強させたい親と勉強したくない子どもが争うことになります。
子どもが学校に行きたがらないという事態も起こります。日本では中学までは教育を受けさせる義務が親にありますから、親はむりをしても学校に行かせようとして、ここでも親子が争うことになります。

学校教育以外に、音楽やスポーツなどの習い事というのもあります。今の日本には習い事をまったくやっていない子どもはひじょうに少ないでしょう。
ピアニストになるつもりもないのにピアノを習って意味があるのかと思うのですが、ピアノの技量を伸ばした経験がほかのことをやるときにも役立つと考えられているのでしょう。
しかし、子どもがみずからやりたがっているならいいのですが、やる気がないのにやらされているのでは、子どもにとっても負担ですし、親にとっても負担です。

ともかく、先進国では「一人前」になるためのハードルがひじょうに高いので、親が子どもを一人前に育てるまでの負担がたいへんです。
しかも、先進国は核家族制なので、その負担はほとんど親だけにかかります。
途上国では親族や共同体の人間が周りにいて、子育てを手伝ってくれるので、その違いは大きいといえます。


一人前になることは、子どもにとってもたいへんです。
江戸時代には寺子屋に通っていない子どもは「勉強しなさい」と言われることもなく、親の仕事ぶりを見て覚えるだけで一人前になれました。
今は二十歳前後までずっと勉強の連続です。
どこの国でも学校にいじめがつきものなのは、勉強がストレスだからでしょう。

1972年、ローマクラブは「成長の限界」と題するレポートを出し、資源の枯渇や環境汚染によって人類の経済成長はいずれ限界に達するだろうと警告し、世界に衝撃を与えました。
しかし、人類の経済成長を制約するものは、資源と環境のほかにもうひとつあります。それは「能力の限界」です。
人間の能力は生まれつき決まっています。これは原始時代からほとんど進化していません。
文明が発達して社会が複雑化すると人間の能力が追いつきません。
これまでは教育を強化することで補ってきましたが、それも限界です。
日本の出生率は1.15ですが、韓国は0.75で、中国は1.00(2023年国連推計)です。儒教文化圏は受験競争が激烈です。自分の子どもを受験競争に駆り立てたくないという人が子どもをつくらないのでしょう。


先進国はどこも出生率2.0を下回っているのを見ると、文明の水準はすでに人間の能力を超えてしまっていると思われます。
少子化を克服しようとすれば、文明社会のあり方を根本的に変革するしかありません。
今の社会は知的能力の高い人が勝ち組になって、知的能力の低い人が負け組になる社会です。
自分の子どもが負け組になるのは誰でもいやですから、それも少子化の大きな原因です。
競争社会から転換して、知的能力の低い人もそれなりに幸せになれる社会を目指すべきです。

もっとも、そういう根本的な社会変革はいつできるかわかりません。
手っ取り早い方法もあります。

今の社会はおとな本位の社会で、子どもが不当に迫害されています。
たとえば赤ん坊の泣き声がうるさいと主張するおとなが多くて、赤ん坊を連れた親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがありますが、今のおとなは泣く子に勝とうとしているのです。
公共の場で子どもが騒いだり走り回ったりするのも非難されます。
公共の場にはおとなも老人も子どももいていいはずですが、子どもは排除されているのです。
そして、子どもが騒ぐと、「親のしつけがなっていない」と親が非難されます。
こうした「しつけ」の負担が親に押しつけられていることも少子化の原因です。

そもそも子どもが騒いだり走り回ったりするのは子どもの発達に必要な行為ですから、おとなの身勝手な理由で止めることは許されません。
子どもがもっとたいせつにされる社会になれば、少子化はいくらか改善するはずです。

とはいえ、21世紀中は人類の人口は増え続けるわけですから、日本は少子化対策をしなければならないわけではありません。
少子化を前提に経済、財政、年金を考えるべきです。


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