村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2011年04月

一時、給食費未納問題というのが騒がれました。お金があるのに給食費を払わない親がふえているということが話題になり、それに対して、実際は経済苦で払えないのだとか、そもそも未納はふえていないのだとかいう反論があり、結局うやむやになりました。
この問題に完全に決着をつけるには、学校給食はサービスなのか教育の一環なのかということをはっきりさせないといけないと思います。これをあいまいにしていれば、また問題が蒸し返されるかもしれません。
 
学校給食がサービスであれば、給食費を払わない親はサービスの対価を払わないわけですから、問題なく悪いことになります。
しかし、学校給食が教育の一環であれば、話は違います。親は教育のあり方に抗議するために、給食費不払いという実力行使をしているかもしれないのです。
 
おそらくほとんどの教育現場で給食は教育の一環と考えられ、残さず食べなさい、好き嫌いをいわず食べなさい、時間内に食べなさい、おとなしく食べなさい、正しいマナーで食べなさいという指導が行われてきたと思います。そうすると、少食な子ども、好き嫌いの多い子どもにとってはつらいことになります。中には、全部食べるまで1人だけ居残りさせられたという話もあります。給食が教育の一環と考えられたために、少なからぬ子どもが給食の時間を苦痛に感じてきたのです。
 
そうした子どもが大人になり、自分の子どもの給食費を払うとき、素直な気持ちで払えるでしょうか。このお金で給食がつくられ、自分の子どもがまたそれをむりやり食べさせられるのかと思えば、払いたくないという気持ちになってもおかしくないでしょう。
とはいっても、たいていの親は払うでしょう。給食がサービスという面を持っていることは明らかだからです。
しかし、給食に恨みを持っている親がかなり存在していることは多くの人が認めるでしょう。だからこそ、お金があるのに給食費を払わない親がいるということが一時的にせよ広く信じられたのです。
 
今後、給食費を問題なく徴収していこうとすれば、給食を教育と切り離し、あくまでサービスとして位置づけることが必要だと思います。
そして、そうすることにより給食の時間を苦痛に感じる子どもをなくすこともできるのです。
 

年寄りの決まり文句といえば、「昔はよかった」と「近ごろの若い者はなってない」のふたつです。若い者にとって困るのは、これに対するうまい反論がないことです。
年寄りは今と昔のふたつの時代を知っていますが、若い者は今しか知りません。年寄りがふたつの時代を比較して、「昔はよかった」と結論を出せば、今しか知らない若い者は反論ができないのです。
「近ごろの若い者はなってない」についても同じことがいえます。年寄りは「昔の若い者」(つまり自分たちのこと)と「今の若い者」と両方知っているのに、若者は片方しか知らないわけです。
 
しかし、「近ごろの若い者はなってない」については必殺の反撃があります。
「近ごろの若い者はなってない」といわれたら、「へえー、そうですか。じゃあ近ごろの赤ん坊はどうですか?」と聞き返すのです。
おそらくたいていの人は答えに詰まると思うのですが、まともに答えてくれる人なら、「いや、赤ん坊は今も昔も同じだよ」というでしょう。
そうすると、「じゃあ、近ごろの幼稚園児はどうですか?」というのです。もちろん、「近ごろの小学生はどうですか?」「近ごろの中学生はどうですか?」という二の矢、三の矢も用意しています。
赤ん坊は今も昔も同じなのに、今の若者はだめになったとすれば、それは若者の育った環境に問題があるということであり、その環境をつくった年寄りに問題があるということです。いやおうなしにその結論へ導かれるはずです。
「いや、環境のせいではなくて、近ごろの若者の心がけが悪いからだ」という人もいるかもしれません。その場合も、「近ごろの赤ん坊も心がけが悪いんですか?」と聞けばよいでしょう。
 
生まれたばかりの赤ん坊は今も昔も同じです。長谷川真理子という進化生物学者は、「現代人はラップトップを持った原始人だ」といっています。原始の時代から人間はほとんど変わっていないということです。
赤ん坊を基準にして人間を考えるといろんなことがわかってきます。これは「科学的倫理学」の基本でもあります。

どうでもいいことですけど、街のそこここに「警察官立寄所」と書かれた場所があります。しかし、私は一度も「警察官立寄所」に警察官が立ち寄っているのを見たことがありません。
うそつきは泥棒の始まり。
 

きわめて不人気な菅総理。どうすれば人気回復ができるでしょうか。それには小泉元総理や石原都知事のやり方に学ぶ必要があります。
小泉元総理は、構造改革に対する抵抗勢力を設定し、抵抗勢力をバッシングすることで人気を得ました。石原都知事はディーゼル車排ガスやマンガ・アニメやカラスや歌舞伎町やパチンコや自販機を敵として設定し、それらをバッシングすることで人気を得ています。
エンターテインメントの映画やドラマや小説も同じです。テロリストやギャングなどの悪役を設定し、悪役をやっつけることで観客や読者の人気を得ているのです。
 
では、菅総理はどういう悪役を設定するべきでしょうか。官僚組織でしょうか。自民党でしょうか。いや、それでは漠然としすぎて、ヒールとしては魅力不足です。
私のお勧めは、原発推進勢力です。原発推進勢力こそが今日の原発事故の惨状を招いた張本人であり、国民もバッシングしたくてたまらない相手です。
 
原発を推進してきたのは、官僚組織と電力会社と自民党のタカ派政治家です。
そもそも被爆国である日本では、核武装はもちろん原子力発電に対しても抵抗感がありました。その抵抗感を「核アレルギー」と病気呼ばわりしたのが、ほかならない石原慎太郎です。「核アレルギー」とは石原慎太郎の造語なのです。
官僚組織は石原らタカ派政治家の支援をうけやすいような原発政策を推進しました。つまり、高速増殖炉などプルトニウムを多くつくれるタイプの原発をつくり、一方で人工衛星を打ち上げるロケットを開発しました。これによって日本はいつでもその気になれば大量のICBMを保有する核大国になれるというわけです。
また、今ではほとんど忘れられた原子力船「むつ」もつくりました。原子力船は商用船としては採算に合うわけがないので、次に原子力潜水艦か原子力空母をつくるつもりだったのでしょう。少なくともそういう構えでタカ派政治家の力を借りて予算を獲得したのだと思います。
そうして原発推進派は巨大な利権集団になりました。彼らは事故が起こるたびに隠蔽し、マスコミを懐柔し、原発安全神話をつくり、そして自分たちは利益を得てきました。そうした手口をあばいてバッシングすれば、国民は快哉を叫ぶでしょう。
また、つい最近、東電役員がそろって自民党に政治献金していたというニュースもありました。こんなおいしいネタを利用しないなんて、まったく信じられません。
 
菅さんは市民運動家のときから権力と戦ってきた政治家です。その戦う姿勢で人気を得てきました。ところが、自分が権力の座についてしまったため、戦う相手を見失ってしまったのでしょう。
今こそ戦う相手を設定し、戦う姿勢を見せてほしいものです。
 
 
ところで、「菅総理やめろ」と叫んでいる人たちは、どんな総理大臣を求めているのでしょうか。安倍、福田、麻生、鳩山とだめで、また菅もだめで、次こそ「当たり」の総理大臣が転がり出てくると思っているのでしょうか。
総理大臣なんて有権者が育てていくものです。その点、権力の椅子に座り慣れていない菅総理ほど育てがいのある総理はいません。「菅総理育成シミュレーションゲーム」だと思って育てていきましょう。
 
 

幸福について考えるとき、絶対幸福と相対幸福(あるいは絶対不幸と相対不幸)に分けて考えるとうまくいくように思います。
食べ物が十分にある状態は幸福ですが、食べ物がなくて飢えた状態は不幸です。これは絶対幸福及び絶対不幸です。
ところが、周りの人は食べ物があるのに、自分だけ食べ物がなくて飢えているという状態があります。これは絶対不幸に相対不幸が加わった状態です。早い話が、みんなが飢えているときの飢えは耐えやすいですが、自分だけ飢えているときはみじめで耐えがたいということです。
 
こうした相対幸福(不幸)を感じる性質は群れて暮らす動物には基本的にあるのかもしれませんが、あったところでごく小さいと思います。しかし、人間の場合、相対幸福(不幸)の要素がきわめて大きくなって、絶対幸福を見失うまでになっているような気がします。
 
私の考える基本的な幸福は、好きなことを仕事にしてそこそこの収入を得、愛情のある家庭を築き、よい友人に恵まれることです。これはいわば絶対幸福の追求です。
ところが、多くの人は一流の学校、一流の企業、一流の職業(医者や弁護士など)を目指します。これは相対幸福の追求です。
相対幸福を追求すれば、ある程度絶対幸福もついてきます。たとえば医者になれば、仕事にやりがいがあり、高い収入が得られ、世間からも尊敬され、配偶者を得るにも有利です。しかし、中には医者の仕事が嫌いでたまらないという人もいます。こうなると本末転倒といわざるをえません。
 
なぜそんなことになるのかといえば、自分の人生を自分で決めていないからです。親や教師に決められているのです。
「うちの息子は好きな仕事をして、幸せに暮らしています」といっても、幸せに暮らしているという証拠はないし、自慢になりません。しかし、「うちの息子は医者ですの」といえば、自慢することができます。
そして、本人も人に自慢できる人生が幸福な人生だと誤解してしまったりします。
 
ほんとうに幸福な人生を歩むためにも、幸福には絶対幸福と相対幸福があるということを理解しておく必要があると思います。

統一地方選での民主党の不振で、またぞろ菅下ろしの動きが強まってきました。代わりを誰にするかも考えないで菅下ろしをいっている人が相変わらず多いようです。もしいい人がいれば替えるのもありですが、そんな人がいるのでしょうか。大連立すれば別ですが、民主党内で探すとなると、なかなかむずかしいと思います。
 
これまでは次世代のエースは岡田克也だといわれてきました。しかし、このところ幹事長としての評価がきわめて低く、期待が一気にしぼんでしまいました。原理主義者といわれるだけに、大震災に対応するだけの柔軟性がなかったのでしょうか。
 
前原誠司は、外国人献金問題で外相を辞任したばかりですから、当面はむりでしょう。
 
野田佳彦は財務相を無難にこなしていますが、単に官僚の振り付けに従っているだけのような気もします。実力があるのかどうかよくわからない人ですし、国民の人気もないでしょう。
 
枝野幸男は、もしかしてあるかもしれません。しかし、まだ若いし、背が低い。国際的な場であの背の低さは……いや、それは関係ないかもしれませんが、なにか軽い印象は否めません。
 
あと、可能性があるとすれば仙谷由人でしょう。政策通ですし、タフですし、首相が務まる器です。ただ、あまり国民に人気はないし、健康面の不安もあります。
 
小沢一郎は被告人の立場ですからむりでしょう。小沢系の議員にもたいした人材はいないと思います。
 
つまり、菅さんを辞めさせるとしても、次の人の名前が出てこないというのが現状ではないでしょうか。
異論のある人はいるでしょう。そういう人は「私のイチ押しはこれだ」という人の名前を出して菅下ろしを主張してください。
 
そもそも、今の時期に菅さんを辞めさせたら、日本の政治はどうなっているのかと、国際社会があきれ返ってしまいます。
菅下ろしを主張する人は、国際社会を納得させるような説明も用意してください。
どうせむりだと思いますけど。
 
いやあ、日本の政治って、ほんとにレベルが低いですねえー(水野晴郎調)

ブログを始めて3週間になりました。毎日更新という目標をクリアしつつなんとか続けています。
思うに、このブログを書くという作業は、私にとって一種のリハビリテーションなんですね。
 
私はもともと引きこもり傾向があります。昔は引きこもりなんていう言葉はありませんから、スチューデント・アパシー(学生無気力症)と呼ばれていました。私はそれで大学を中退しました。
小さな出版社に勤めながら少しずつ社会復帰をし、小説家としてデビューしました。デビュー作である短編小説は、引きこもりの男性が主人公であるものでした(これを書くとネタバレになってしまうのですが)
自分でいうのもなんですが、私はけっこう期待された小説家だったと思います。しかし、諸々の事情から小説を書かなくなり、社会の表面から消えました。ライター稼業で食べていましたから、生活としてはそれほど変わらなかったのですが。
 
そして、今回は思想家として社会復帰を目指しています。
しかし、思想家ってなんでしょうね。すごく偉いようですが、すごくインチキくさくもあります。だから、私は「科学上の理論の広報係ですよ」というスタンスでいきたいのですが、それもなかなか理解されません。
論壇の片隅に地位を得るというような目標なら楽なのですが、そうではありません。思想の世界をすべて覆すような理論なので、この広報係を務めるのもたいへんです。
 
まあ、少しずつ前進していきたいと思います。

私は政権交代の果実を得るまで民主党政権を支えていくべきだと思っていますが、菅さんに首相の資質があるかというと、それはまた別問題です。
私は菅さんに会ったことがあります。会ったといっても、雑誌の1時間ほどの対談にライターとして同席しただけですが、1時間見ていれば、だいたいどんな人間かわかります。
随行の議員が「菅さんは記者のつまらない質問にもいちいち答えるので困る。無視してしまえばいいのに」とこぼしていたのを覚えています。だから、避難所を視察したときも、「無視するんですか」と声をかけられて戻ってきてしまうのです。小沢一郎は記者の質問など平気で無視していますが、あの対極のタイプです。
私は菅さんのほかにも小泉純一郎、麻生太郎、鳩山由紀夫、岡田克也、石原伸晃など多数の政治家を同様に間近に見ていますが、首相にもっとも必要な資質が危機に際して動じない精神の強さだとすれば、菅さんはそれがもっとも欠けている人間です。些事にこだわり、精神的に不安定なのです。
 
ところが、鳩山政権のあと菅政権を組織したとき、少し菅さんを見直しました。官房長官に仙谷由人、幹事長に枝野幸男を起用したところに人事の妙がありました。
鳩山さんは官房長官に、もう名前も思い出したくないへんな人間(平野博文でした)を配して、人事から失敗してしまいましたが、仙谷由人は精神的にひじょうにタフな人間で、菅さんの欠陥を補うのに向いています。仙谷がタフ担当、枝野が能弁担当というところです。
その後、曲折はありましたが、やはり仙谷と枝野が菅さんをささえる形となっています。
 
さて、菅さんは大震災のような危機対応にはもっとも向かない首相でしたが、経産省や原子力安全・保安院をまったく信じず、東電をどなりつけることで、原発事故への対応は、ほかの誰が首相であるよりもうまくやったと思います。
そして現在は、復興への道筋をつける時期になっています(水素爆発の可能性はまだあるようですが)。この時期は、誰が首相であっても務まります。たとえば、9.11のあとバカなブッシュでも務まったのと同じです。この時期に首相を替えるなんて、よけいな時間を使い、混乱を招くだけです。
 
そもそも、今首相交代をいう人は、今の政治状況がまったくわかっていないと思います。
小泉政権のあと、官邸主導の政治ができる首相でないと務まらなくなっているのです。安倍晋三と福田康夫は精神的にひ弱だったので、だめでした。麻生太郎はひ弱ではありませんでしたが、鈍感力だけの人なので、自民党政権を終わらせてしまいました。
鳩山由紀夫も官邸主導をやるには実力不足で、人事の能力もありませんでした。
 
今首相交代をいう人は誰を念頭に置いているのでしょうか。私が思うに、官邸主導ができるだけの精神的なタフさを持っているのは、今の政界には仙谷由人か小沢一郎しかいません。いや、これには異論があるかもしれませんね。しかし、安倍と福田のつまずきを見れば、よほどの人間でないと務まらないのはわかるでしょう。
 
谷垣禎一は野党の総裁は務まりますが、とても首相が務まるだけのタフさがあるとは思えません。石原伸晃のひ弱さには定評があります。
 
今の菅体制のままで行くのが当面はベストだと思います。

民主党政権は未熟だからだめだという人がいますが、未熟を否定する人は永遠に成熟を得ることができません。こんな簡単なことがわからないなんて、「どうかしてるぜ!」といいたくなります。
政権交代して、長年野党暮らしの政党が政権の座につけば、未熟なのは当たり前です。それがいけないというなら、政権交代そのものを否定しなければならなくなります。
それに、私の見るところ、菅政権は震災対策をそこそこやっています。それほど批判されるところがあるとは思えません。
もし政権交代がなくて、自民党政権下で大震災が起きていたら、自民党政府は東電のいうことを真に受けて、原発事故はもっと悲惨なことになっていた可能性が高いと思います。
それに、今の民主党政権を批判する人は、自民党の谷垣氏や石原伸晃氏やその他の古い政治家たちがもっとうまくやってくれると思ってるのでしょうか。
 
どうやら日本国民は政権交代を受け止めるには未熟すぎるのかもしれません。

愛のような基本的なことほどよくわからないのが人間の愚かなところであり、また学問の未熟なところです。しかし、「科学的倫理学」は愛をちゃんと解明しているので、その一端をお教えしましょう。
 
私は「2番目に大切なもの」というエントリーで、優先順位としては愛よりもお金が先だと書きました。
しかし、お金は目に見えますが、愛は目に見えないので、愛を得るのはお金を得るよりもむずかしいかもしれません。
 
まず、愛には2種類あります。親子愛と異性愛です。
人間は生まれてすぐ親から愛され、親を愛するという体験をします。
成長すると、異性を愛し、異性から愛されるという体験をします(誰もができるわけではありませんが)
そして、子どもができると、子どもを愛し、子どもから愛されるという体験をします(男と女では差がありますが)
つまり、子どもからの親子愛、異性愛、親からの親子愛を繰り返しながら、世代が交代していくのです(哺乳類はみな同じです)
愛することも喜びですし、愛されることも喜びです。この喜びがきわめて大きく、誰もが強く求めるからこそ、その遺伝子は存続してきたのです。
友情というのは、親子愛と異性愛という基本の愛から派生したもので、重要度がぜんぜん違います。神への愛や芸術への愛やフィギュアへの愛もやはり派生したものですが、これらはむしろ変態というべきでしょう。
 
親子愛と異性愛があるというのは多くの人が納得するでしょうが、親子愛と異性愛の性質の違いを明確に指摘できる人はほとんどいないのではないでしょうか。
親子愛と異性愛の違いは、選択と受容で説明できます。
 
異性愛は、選択から始まります。さまざまな異性の中から、よい異性、自分に合った異性を選択します。しかし、異性のほうからも選択されないと、その選択は成就しません。ですから、選択するよりいかに選択されるかが重要な問題になります。
 
親子愛は受容から始まります。選択はありません。親はどんな子どもでも愛しますし、子どもはどんな親でも愛します。
どんな子でも愛する親の姿を親バカといいますが、最近は事情が変わってきました。子を愛せない親がふえてきたのです。そのため、子は親を愛しているのに、親は子を愛していないという悲劇が発生します。これは文明の病で、きわめて深刻な問題ですが、ここではこれ以上触れません。
 
犬や猫などのペットを愛する人は、まるで自分の子どものように愛します。ところが、ペットを飼う場合、最初に選択をしなければなりません。血統や値段や毛並みや健康状態などを見て、ペットショップで選ぶのです。親子愛に選択が入るわけで、多くの人はここに抵抗を感じます。そこで、「最初に目が合った」などの理由をつけて、選択らしくない選択をしたりします。
 
異性愛は選択から始まりますが、長く続けていこうとすれば受容に変わっていかなければなりません。相手に魅力がなくなっても受容し、相手の性格が自分の望むものでなくても受容するのです。
多くの人がここでつまずきます。相手の性格を受容するべきだということを理解しないのです。そして、「性格の不一致」といって離婚します。
 
愛には選択と受容があるということを理解すれば、離婚や冷え切った夫婦関係を回避することができるはずです。

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