教育界におかしいことはいっぱいありますが、「個性を伸ばす」という表現もそのひとつです。「個性を伸ばす」って、根本的に間違ってるでしょう。
たとえば、無口な子の個性を伸ばすと、もっと無口な子になってしまいます。おしゃべりな子の個性を伸ばすと、もっとおしゃべりになってしまいます。さらにいうと、せっかちな子の個性を伸ばすともっとせっかちに、おっとりした子の個性を伸ばすともっとおっとりした子になってしまいます。神経質な子はもっと神経質に、大ざっぱな子はもっと大ざっぱに……きりがないですね。
個性というのは伸ばすものではないのです。
伸ばすのは才能、技能、学力、実力などです。
つまり才能や学力という言葉にはいい意味が含まれていますが、個性という言葉にはいい意味も悪い意味も含まれていません。ですから、個性を伸ばしてもいいことにはなりません。むしろ本来の個性と違うものになって、よくないことになるでしょう。
ですから、
「才能を伸ばす」
「個性を尊重する」
というふうに使い分けるのが正しい日本語です。
教育界の日本語レベルはこんなものかとイヤミのひとつもいいたくなりますが、これは日本語能力の問題とは違って、教育界の病理の問題だと思います。
昔の教育界は子どもの個性を無視して、画一的な教育をしていました。それはいけないということで、個性重視、個性尊重の教育がいわれるようになりました。
ところが、「個性を尊重する」ということは、教育者は個性に関する部分では子どもに手を出さない、無作為であるということです。言い換えれば、子どものありのままを受け止めるということです。
ところが、教育者というのはこれができない。どうしても手を出してしまいたくなる。子どもをいじり回したくなるのですね。そして、
「私が教育したおかげで子どもはこんなによくなった」
という満足を味わいたいのです。
つまり、教育者は子どもの個性の部分にも手を出したいので、「個性を伸ばす」という表現を好んでするのです。
こうした教育界の病理を私は「過剰教育」と呼んでいます。「過剰教育」の結果、子どもは自主性や自発性が育たず、覇気のない、受身の人間になってしまいます。不登校、引きこもり、オタク、草食系も全部そこにつながっていると思います。
それはともかくとして、少なくとも教育界は今後、「個性を伸ばす」という表現の間違いに気づいて、「個性を尊重する」という表現に変えていただきたいと思います。
