村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2011年12月

ダーウィンの進化論によって、人間は初めて自然界の中に正しく位置づけられました。日本人にすれば、「生きとし生けるものいずれか歌を詠まざりける」という歌があるように、人間と動物を同一視する発想がありますから、人間はサルの仲間だといわれてもたいした抵抗感はありません。しかし、欧米人にすれば相当ショックだったようです。今でもアメリカには進化論を認めない人がいっぱいいます。
もちろん聖書に人間や動物は神によって創造されたと書いてあるからですが、それだけではありません。動物は獰猛で貪欲な存在ですが、人間は神に似せてつくられたゆえに道徳的な存在で、人間と動物は根本的に違うものだと考えられていたからです。
 
人間がサルから進化したものだとすれば、道徳は神から与えられたものではなく、人間がみずからつくりだしたものだということになります。人間はどのようにして道徳をつくりだしたのでしょうか。
ダーウィンはそのこともいち早く考えました。
ダーウィンは、社会性動物には親が子の世話をしたり、仲間を助けたりする利他的性質があり、当然人間にもより進化した利他的性質があり、人間はその利他的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えたのです。
このダーウィンの道徳起源説は、とくに批判されることもなく現在にいたっています。「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンスもダーウィンの道徳起源説を採用しています。
 
ダーウィンは確かに真実の扉を開きました。しかし、観音開きの片方を開けただけで、もう片方を開けるのを失敗してしまいました。道徳の起源を間違ってしまったからです。
そのため、人文科学や社会科学はダーウィン以降も旧態依然で、根本的にデタラメなままです。
 
私はダーウィンとは別の道徳起源説を思いつきました。
ダーウィンがいうように社会性動物や人間に利他的性質があるのは事実ですが、利己的性質もあり、どちらかといえば利己的性質のほうが根底にあります。
ですから私は、人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えたのです。
 
私が思いついたのはたったこれだけです。
思想や哲学というのはやたらむずかしいものですが、私の思想はあまりにも単純です。小学生でもわかるでしょう。
 
問題は、私の説が正しいか、ダーウィンの説が正しいか(それとも第三の説があるか)です。
 
私の説では、人間は道徳をつくりだしたために動物よりも利己的になり、単になわ張り争いをするだけでなく帝国をつくったり、奴隷制度をつくったり格差社会をつくったりしています。
 
もっとも、道徳観を転換するということは、生き方を転換するということでもあります。人間は急に生き方を変えられるものではありませんから、道徳観の転換も容易ではないということになります。
 
しかし、ダーウィン説が正しいか私の説が正しいかは、どちらが論理的でかつ現実に適合しているかで判断できますから、最終的に決着するのは時間の問題です。
 
 
私の道徳起源説については、私のホームページでより詳しく説明しています。
「思想から科学へ」村田基(作家)のホームページ

コペルニクスは地動説を思いついたからといって、一般の人々に向かって、「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と言ったりはしませんでした。そんなことを言えば、狂人扱いされ、教会からも迫害されるのが目に見えていたからです。コペルニクスは友人の天文学者にだけ手紙で自分のアイデアを伝えました。天文学者ならそのアイデアの価値がわかります。友人の天文学者は手紙を書き写して仲間の天文学者に伝え、そうして天文学界にそのアイデアは広まりました。
あるとき、コペルニクスのもとに若い天文学者がやってきて、そのアイデアをぜひ本にするべきだと力説したので、コペルニクスもその気になり、「天球回転論」という本を書きます。
しかし、コペルニクスは70歳で亡くなりますが、コペルニクスは本の完成を見なかったとされます。本を書き始めるのが遅かったということもありますが、自分の死後に出版するようにと言っていたという説もあります。それぐらい教会から迫害されるのを恐れていたのです。
実際、のちにガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられることになりましたが、コペルニクス自身は平穏な人生を全うしました。
 
ダーウィンが進化論のもとになるアイデアを思いついたのは29歳ごろだったとされます。それから考えを発展させ、「種の起源」の執筆にとりかかりますが、20年かけて、書いた原稿は膨大な量になっても、なかなか完成しません。
私が思うに、進化論を発表すると教会を初めとする多くの人々の反対にあうことがわかっていたので、先延ばしにしていたのでしょう。もしかしてコペルニクスのように、晩年か自分の死後ぐらいに出版してもいいと思っていたかもしれません。
しかし、そこにウォレスから手紙がきて、ウォレスも同じようなことを考えていることを知ります。とりあえず2人の連名で小論文を発表し、それからあわてて「種の起源」を書き上げますが、これは本来書くはずだったもののダイジェスト版みたいなものでした。
「種の起源」を出版した結果、ダーウィンは学界の論争の渦中におかれ、また新聞にサルの姿をした似顔絵を書かれるなど、一般の人々からも反発を買いました。ダーウィンは学究肌の人で、病弱でもありましたから、こうした状況に置かれることは私たちの想像以上につらかったでしょう。
 
 
なぜコペルニクスとダーウィンの話をしたかというと、今の私も同じような心境にあるからです。
私は32歳のころに、人間がどのようにして道徳をつくりだしたかというアイデアを思いつきました。これは、道徳観のコペルニクス的転回というべきもので、人類史においてはコペルニクスやダーウィンにも匹敵する画期的な業績です(自分で言っているのがいかにもあやしいのですが)。私はそれを「道徳の起源」という本にまとめようと書き始めましたが、なかなか完成させられません。もともと浅学非才な上に、これを書くと反発が多くてたいへんなことになるのではないかという恐れがあるからです。私は人と争うことから徹底的に逃げてきた人間ですから、論争などもしたくありません。
ほんとうなら私がもっとビッグな作家になって、あの人が言うのなら正しいのかもしれないと思わせるぐらいになるのがよかったのですが、諸々の事情からそれもかないませんでした。
 
というわけで、とりあえずこのブログを始めて、新しい道徳観に基づいていろいろなことを書いています。こうしたことを通して、世の中の反応を試し、自信をつけ、次の展開を目指そうというわけです。
 
新しい道徳観のことを「科学的倫理学」と名づけていますが、これに基づくと犯罪対策にしてもテロ対策にしてもまともになります。今の犯罪対策やテロ対策がまったくデタラメなのと比べると、どちらが正しいか明白でしょう。また、政治のことから家族関係のことまで正しく把握できるようになります(細かいことで間違うことはありますが)。
 
半信半疑の人もとりあえずこのブログを読み続けて、従来の考え方と私の考え方とどちらが正しいか考えてください。

当時30歳すぎの人気男性ミュージシャンの悩みを聞いて、世の中にはそういう悩みもあるのかと感心した覚えがあります。そのミュージシャンは、政治に関心がなくて困っているというのです。これではいけないと新聞などを読むのですが、政治のことというのは過去の積み重ねで成り立っているので、今のニュースを読んでもわからないそうです。確かに普天間基地問題などは、長い歴史がありますから、それを知らないとわけがわからないでしょう。
そのミュージシャンは作詞作曲もする人ですから、政治についても理解しないといけないと思ったのでしょう。一般の人とは事情が違います。
一般の人で政治に関心がないという人は、悩むこともなく生きています。むしろ政治に関心のある人よりも幸せに生きていると思います。
 
私は中学生のころから新聞を隅々まで読むようになり、政治にも関心がありました。しかし、政治に関心があってよかったかというと、あまりそんな気もしません。政治に関心がないと人にバカにされる恐れがありますから、そういう事態を回避できたことくらいでしょうか。
ちなみに長年新聞を読んでよかったと思うのは、科学欄と家庭欄です。ここで得た知識は蓄積されていきます。政治面と社会面とスポーツ面は、いくら読んでも同じようなことが繰り返されているだけで、果たして時間をかけて読んできた意味があるのか疑問です。
 
そういうことを考えるようになってきて、今では政治に冷静に対することができるようになりました。
昔は左翼でしたから、当然右翼的なものには反対です。反対というのはネガティブな感情ですから、そういう感情を持つだけで不幸です。ずっと自民党政権下で生きてきましたから、ずっと不幸でした。
これは右翼の人も同じでしょう。左翼や中国や韓国に対してネガティブな感情を抱き、その感情に振り回されているわけです。
早くそういう状態から脱出してほしいものです。
 
今、私は自分の政治的立場を、
右でも左でも中道でもない「上」
と称しています。
 
「上」という立場になれば、右翼だ左翼だ、ウヨだサヨだとやり合っている人々を冷静に見ることができますし、なにか政治的な主張をするときも冷静に、論理的にできますから、論争に巻き込まれることもありません。
 
では、どうすれば右や左を脱して「上」という立場に立てるのでしょうか。
それは、自分の親子関係を分析することです。親子関係というのは権力的な関係ですから、親に対するネガティブな感情があり、かつそれを自覚できないでいると、そのネガティブな感情が政治の世界に出てくるわけです。
 
このブログでは政治のこともよく書きますが、親子関係のこともそれと同じくらい書いていると思います。私の中ではこのふたつは同じようなものなのです。
 
もし世界中の人々が自分自身の親子関係の問題を自覚することができれば、世界中の政治的な対立はなくなり、世界は平和になるはずです。
 

なんとなく今年一年を振り返りながら書いているのですが、政治の状況はまったく変わり映えしません。野田内閣の支持率はどんどん下がっています。このままではまた首相を替えなければなりません。
自民党に期待して野田内閣不支持を言っているのならいいのですが、自民党に期待する人はあまりいないでしょう。ただ目の前の内閣が気に入らないから替わってほしいというのでは、また回転ドアと外国から揶揄されることになってしまいます。
 
菅内閣の末期にも同じようなことをこのブログに書いていました。日本の政治状況はまったく進歩がありません。
 
確かに野田内閣は問題です。マニフェストはほとんど守れず、予算案はバラマキ型になって、しかも増税をいうのですから、わけがわかりません。
問題は、ここからです。
なぜこんなことになるのかという原因を解明し、対策を立てなければなりませ。それがいちばんだいじなところです。
ところが、マスコミはそうしたことはいっさいしません。ただ、民主党政権や野田内閣を批判するだけです。
あまりにも低レベルです。
 
なぜマスコミは政権を批判するだけで終始しているのでしょうか。それはマスコミが官僚と一体化しているからです。
ジャーナリストの上杉隆さんもこう指摘しています。
 
 
相場:日本のマスコミは、ものすごく官僚的ですね。
上杉:そうですね。マスコミと思うからダメで、むしろ彼らのことを「官僚」だと思えばいい。
 相場:なるほど。分かりやすいですね。
 窪田:日本のメディアはジャーナリストではなく、「役人」であれば腹が立たない……ということですね。
 
 
マスコミは官僚と一体化しているので、当然官僚批判は行いません。そのためマスコミだけ見ていると、日本の政治はわけがわからないことになるのです。
 
たとえば、八ツ場ダムの建設が再開されることになりましたが、なぜそうなったかがわかりません。ただ、建設再開がマニフェスト違反であることや、財政赤字をさらに悪化させることが批判されているだけです。
民主党や野田内閣も、建設再開がマニフェスト違反であることや、財政赤字をさらに悪化させることは百も承知です。それでも建設再開を「苦渋の決断」(野田首相)で決めたわけです。なぜ決めたかをマスコミは書くべきですが、書かないのです。
 
政治とは権力を巡る争いであって、その争いもまた力関係によって決まってきます。
八ツ場ダム建設賛成派は、国交省であり、周辺自治体であり、建設会社などです。それらの力が民主党内の建設反対派の力を上回ったために、建設再開が決定されたわけです。そのふたつの力のぶつかり合いをマスコミが実況中継してくれれば、たいへんよくわかるわけです。
しかし、マスコミは官僚の動きというのをいっさい報道しませんから、民主党は1人相撲を取って、1人で転んだように見えるわけです。
となると、国民も民主党はなんてバカなんだと思って、内閣支持率も政党支持率も下がり続けることになります。
 
もちろん、力負けする民主党に問題はあるわけですが、今のマスコミだけ見ていると、そういう問題があることすらわかりません。
このままでは自民党に政権が移っても同じことが繰り返されるだけです。
 
橋下徹大阪市長の「大阪維新の会」に期待する人もいるでしょうが、もうすでにマスコミは反橋下の立場をはっきりさせています。本格的に国政進出となると、官僚とマスコミが一体となった橋下バッシングが行われるでしょう。
 
日本の政治をよくするには、マスコミの問題点を正しく把握することから始めなければなりません。

私は京都生まれで、今では東京に住んでいる期間のほうが長くなりましたが、それでも自分は京都人だという意識があります。
京都人からすれば、天皇が東京に移ってからの日本というのは本来の姿ではありません。少なくとも、明治以降のものを日本の伝統だと思ってありがたがっている人を見ると、それは違うだろうという気になります。
京都人の意識が正しいとは限りませんが、少なくとも京都人は日本の歴史を長いスパンで見ていることは間違いありません。
もちろん京都人がみな同じようなことを考えているわけではありませんし、とりわけ私の発想は特殊かもしれませんが、その発想の根底に京都人的なものがあるのは確かです。
 
明治維新以降、近代化したことによるよさはいっぱいあります。たとえば、衛生思想の普及と医学の進歩によって乳幼児の死亡率が大幅に低下したことひとつとってもすばらしいことです。しかし、近代社会が人間的な社会かといえば、そうではありません。むしろ近代以前の社会のほうが人間にとっては生きやすい社会ではなかったかと思われます。
 
一例をあげると、おとなと子どもの関係があります。学校制度や近代教育思想がなかったころの日本において、おとなと子どもの関係はきわめて幸福なものでした。
中江和恵著「江戸の子育て」(文春新書)という本の「序にかえて」から引用してみます。
 
明治初期に来日し、東京から北海道まで旅行したイギリス婦人、イサベラ・バードは、日光からの手紙で、「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない」と書いている。常に子どもを抱いたり背負ったりしていて、歩く時には手を引いてやる。子どもの遊んでいる様子をじっと見守り、時に一緒に遊んでやったりもする。いつも何かしら新しい玩具を与え、遠足やお祭りに連れて行き、子どもがいない時は、さみしそうにしている――。
(中略)
あるいはまた秋田県白沢からの手紙では、仕事から帰宅した人々は子どもを見て楽しみ、背に負って歩きまわったり、子どもが遊ぶのを見ている、いかに家は貧しくとも、彼らは自分の家庭生活を楽しんでいる、少なくとも子どもが彼らをひきつけている、と記している。
 (中略)
一方、やはり明治初期に来日し、大森貝塚を発見したアメリカ人モースは次のように記す。
祭りには、大人はいつも子どもと一緒に遊ぶ。提灯や紙人形で飾った山車を、子どもたちが太鼓を叩きながら引っ張って歩くと、大人もその列につき従う。それを真似て、小さな子も小さな車を引いて回る。日本は確かに子どもの天国である――。
(中略)
一方、幕末にイギリスの初代駐日公使として来日したオールコックは、赤ん坊はいつも母親の背中に負ぶわれているが、父親が子どもを抱いて江戸の町や店内を歩いているのもごくありふれた光景だ、と記してその様子を写生し、「ここには捨て子の養育院は必要でないように思われるし、嬰児殺しもなさそうだ」と書いた。
このように幕末・明治初期に来日した欧米人は、日本人の子育てを驚きの目で見、盛んに賞賛したが、彼らの来日の半世紀近く前、文政三年から十二年(一八二〇~二九)まで長崎・出島のオランダ商館に勤務していたフィッセルは、次のような文章を残している。
「私は子供と親の愛こそは、日本人の特質の中に輝く二つの基本的な徳目であるといつも考えている。このことは、日本人が、生まれてからずっと、両親がすべてを子供たちに任せてしまう年齢にいたるまで、子供のために捧げ続ける思いやりの程を見るとはっきりわかるのである」
(日本人は)子供たちの無邪気な行為に関しては寛大すぎるほど寛大であり、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」
 
 
子どもをたいせつにする文化、子どもが遊んでいることに共感する文化が昔からあったことは、平安時代末期の「梁塵秘抄」の歌を見てもわかるでしょう。
 
「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ」
 
『梁塵秘抄』の中でも大変有名な歌です。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのか、遊んでいる子供の声を聞くと、体じゅうがいとおしさで震えがくる。これは乱世の中、庶民の家庭で母が子を思う歌です。
 
 
もっとも、武士階級の子育てはかなり違っていて、子どもをきびしく教育したようです。長州藩士の子どもであった乃木希典大将が幼児虐待ともいえる育てられ方をしたことは「乃木将軍とニンジン」というエントリーで書きました。
 
 
明治政府は、欧米列強に対抗するには、子どもをたいせつにする文化よりも子どもをきびしく育てる文化が必要だと考え、それを奨励しました。
その考え方は今にいたるも受け継がれ、その結果、幼児虐待が横行するようになり、公園で子どもが遊んでいると、その遊ぶ声がうるさいという苦情が寄せられたりします。
 
しかし、子どもや子どもの遊びをたいせつにする文化は今も日本文化の基底にあり、それが日本のマンガ・アニメの隆盛にもつながっていると思われます。
 
今後、日本が進むべき道は、子どもをたいせつにする文化を復活させる方向でしょう。

1225日にNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」最終回がありました。
私は原作を読んでいたこともあって第1部と第2部は見ませんでしたが、戦争シーンがあるということで第3部は見ました(実は戦争映画大好きです)
キャストは豪華だし、CGやロケやセットにすごい金はかけているし、ストーリー運びにも隙はないし、テレビドラマとしては最高級のできでしょう。とくに軍艦同士が大砲を撃ち合う海戦シーンは、今までの戦争映画にはない迫力です。
ところが、視聴率があまりよくありません。なぜよくないのだろうかということが話題になっています。
ちなみに視聴率は、
 
第1部   平均視聴率17.5%
第2部   平均視聴率13.5%
第3部 第10話:「旅順総攻撃」12.7%
11話:「203高地」11.0%
12話:「敵艦見ゆ」11.1%
13話:「日本海海戦」11.4%
 
めちゃくちゃ制作費をかけているのにこの数字は情けないものがあります。NHKもがっくりでしょう。
 
とはいえ、このような視聴率はある程度予想されていたことでもありました。というのは、明治もののドラマの視聴率は悪いと昔から決まっているのです。
ですから、民放は明治もののドラマはほとんど手がけません。
明治もののドラマをつくるのは、使命感があるのか、NHKぐらいです。江藤淳原作のドキュメンタリードラマ「明治の群像 海に火輪を」(10)もNHKです。
戦国もの、江戸もの、幕末もののドラマは数え切れないくらいつくられていますから、それと比べると明治ものの不人気は際立ちます。
 
ドラマだけではありません。小説の世界でも明治ものは人気がありません。
明治ものを書く作家といえば、私が思い出せるのは山田風太郎、横田順爾、海渡英祐、高橋義夫ぐらいです。いや、もう少しいると思いますが、ひじょうに少ないことは間違いありません。
司馬遼太郎にしても明治ものはずっと書いていませんでした(幕末から明治につながるものはありますが)。司馬は“男のロマン”を書く作家といわれていますが、明治に“男のロマン”を書くことはむずかしいのでしょう。
司馬が「坂の上の雲」を書いたのは、日露戦争を描きたかったからではないかと思いますが、松山を同郷とする秋山兄弟、正岡子規の視点から書くというのはいいアイデアだったでしょう。しかし、近代国家においては秋山兄弟にしても将棋の駒のような存在で、そこにあまりロマンはありません。
 
明治というと、“明治の気骨”などという言葉もあって、古きよき時代というイメージかもしれませんが、古きよき時代なら江戸時代に負けます。江戸時代には庶民がそれぞれ好き勝手に生きていました。しかし、明治になると誰もが学校に行き、規律を学ばされ、軍隊に行ったり、工場で働いたりするわけで、そこにおもしろみを見いだすのは困難です。
 
「明治は古きよき時代」というのはあくまで表面的なイメージで、
「明治はつまらない時代」というのが誰もが無意識に感じていることです。
 
「坂の上の雲」というタイトルは、近代国家になることは上昇していくことだということからきているのでしょう。
しかし、近代国家になるということは、実際は帝国主義戦争の泥沼へ落ちていくことだったのです。みんなそのことがわかっているので、明治ものは人気がないのでしょう。

メリークリスマス!
 
今夜はクリスマスイブということで、お腹にピラフを詰めた丸鶏をオープンで焼いて、ローストチキンをつくりました。
丸焼きというのは、うまみが逃げないためにおいしいものです。スペインの名物料理に子豚の丸焼きというのがありますが、これもおいしい(1人前で注文すると切ったものが出てきます)。鯛の塩焼きも切り身よりは尾頭つきのほうがおいしいはずです。
小さめの丸鶏は千円ちょっとですから、むしろ安上がりな料理です(夫婦2人ですから、食べきれない分は翌日に、さらにスープにします)
 
スーパーに行くと、ローストチキン、オードブル盛り合わせ、スパークリングワインなどが華やかに並んでいます。独り身の人にはつらい日かもしれません。私も結婚が遅く、ずっと1人暮らしでしたから、クリスマスイブは毎年フジテレビの「明石家サンタ」を見ていました(実は今も見ています。夜型の生活なので)
 
かといって、結婚すれば幸せになれるというものでもありません。私の身近にも離婚した夫婦がいくつもあります。若くして結婚した芸能人も圧倒的な確率で離婚します。
 
ほかに好きな人ができたということで離婚するのはしかたありませんが、夫婦ともに仲良くやっていきたいと思っているのに、ことあるごとに喧嘩し、憎しみが募り、やむなく離婚にいたるか、冷え切った夫婦になるというのは、双方ともにきわめて不幸です。これをなくすことができれば、世の中の幸福量は大幅にアップするはずです。
 
夫婦仲が悪くなる原因は単純です。家庭に道徳を持ち込むことです。
人間は利己的ですから、ことあるごとに衝突しますが、それだけならたいして深刻なことにはなりません。喧嘩するのはお互いに損だとわかりますし、自分が利己的だったかと反省もします。しかし、そこに道徳を持ち込むと、「お前が悪い。自分は正しい」ということになり、自分が譲ると相手の悪を増長させることになるので譲ることができなくなり、際限なく喧嘩が繰り返されるのです。
 
私は、「相手が悪い」という思いが心に生じたときは、それは自分の利己心から生じているのだとわかりますから、その思いはすぐに消滅します。
ですから、ほとんど夫婦喧嘩をするということがありません。
 
「道徳とは利己主義の産物である」
「家庭に道徳を持ち込むな」
この考え方が家庭円満の秘訣です。

試写会で「ニューイヤーズ・イブ」を観てきました。1223日から公開です。
監督は「プリティ・ウーマン」のゲイリー・マーシャル。キャストはロバート・デ・ニーロ、ハル・ベリー、ジョン・ボン・ジョビ、サラ・ジェシカ・パーカー、ミシェル・ファイファーなど。
どういう物語かというと、チラシの文面をそのまま引用します。
 
年越しのカウントダウンまで、あと数時間のニューヨーク。
1年の最後の日に、大切な人との絆を取り戻そうとする8組の人々。
果たして彼らは、幸せな新年を迎えることができるのか――?
 
こういうのは群像劇といってもいいのでしょうか。それぞれ別のカップルや親子や患者と看護士やらのストーリーが縦に進展し、少しずつ横にもつながって、新年とともに一斉に結末を迎えます。もちろんハッピーエンドです。
絆を取り戻す物語ということで、今の日本にぴったりでしょう。お正月映画としても最適です。
 
ニューヨークで新年恒例のボールドロップというのがあるということを初めて知りました。こういうものです。
「新年恒例のボールドロップ、米タイムズスクエア」
 
実際にニューヨークの新年の現場で撮影した場面もあるということです(もちろん1年前でしょう)。ニューヨークのブルームバーグ市長というのが出てきますが、これも本物でしょう。
 
 
8組の人々の物語が同時進行していくということですから、観ていてわからなくなるのではないかという心配がありました。実際、最初はちょっとわからない感じがあります。しかし、ひじょうにテンポがよく、会話がしゃれていて、笑いもあるので、ぜんぜん気になりません。観ているうちにだんだんわかってきます。
ひじょうに完成度が高い映画です。欠点が見当たらないといってもいいぐらいです。観終わったあとの満足度も高いです。
 
あえて欠点をいえば、ハッピーエンドの映画であることでしょう。
現実はこんなにうまくいかないよと思うと、子どもだましに見えるかもしれません。
たとえば、エレベーターに閉じ込められた互いに見知らぬ男女がだんだんと打ち解け、恋に発展するなんていうことは、現実にはまずないでしょう。私などトイレは大丈夫かなどと心配してしまいます。「俺、もうがまんできねえ。ここでやらかすぜ」「やらかすって、なによ」「もちろんションベンに決まってるじゃねえか」「こんなとこでやったら床が水びたしじゃない。がまんしなさいよ」「もう限界だ。ごめんよ」「いや! もう最悪!」
現実はこんなものです。
 
私は映画「フィールド・オブ・ドリームス」に感動しましたが、これはファンタジー映画で、最後に幽霊が出てくることでハッピーエンドになります。しかし、現実には幽霊が出てこないので、現実の世界で生きている私たちにこうした幸福は絶対に訪れないことになり、それを思うと複雑な心境になりました。
 
「ニューイヤーズ・イブ」には超常的なものはいっさい出てこないので、ファンタジー映画ではありません(馬車が出てくるのがおかしいという声がありますが、検索してみるとニューヨークに馬車は走っています)。しかし、現実にこんなことはないという意味ではファンタジー映画といってもいいと思います。
私はファンタジー映画と思って楽しみました。

NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」で乃木将軍のことを見ていて、文芸評論家の江藤淳のことを思い出しました。江藤淳も殉死ではありませんが後追い自殺をし、NHKのドキュメンタリードラマ「明治の群像 海に火輪を」(10)の原作者でもありました。この「明治の群像」は維新直後から日露講和までを描いたもので、江藤における「坂の上の雲」ともいえる作品です。
 
私は江藤淳の思想についてはまったく興味がなかったのですが、自殺したときの世の中の反応にひじょうな違和感を覚え、それでいろいろなことを考えさせられました。
 
江藤淳は1999721日、享年66歳で自殺しました。その前年に妻をガンで亡くし、自身も脳梗塞になり、その後遺症に苦しんでいた中での自殺です。その遺書は名文と讃えられたので引用しておきます。
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」
 
私は自殺そのものについては、「まあ、そういうこともあるだろう」程度の感慨しかありませんでしたが(なにしろ一冊も著作を読んだことがないので)、世の中の反応に驚きました。その死を絶賛する人がたくさんいたのです。
たとえばこんな具合です。
 
「自殺サイトなぜ死んではいけないのですか?」より
・奥さんの後を追って死んだんだね。とっても美しい・
 ・美しい限りで、それは、我々が失ったものの大きさをまったく違う次元で十分に贖ってくれるはずではないか。彼から、『諸君よ、これを諒とせられよ』と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことが出来るだろうか(石原慎太郎)
 
・奥さまへのいたわりや、やさしさも生涯、深く貫かれ、本当に後を追うように逝かれたのですね(瀬戸内寂聴)
 
・彼の強さが、単なる自殺ではなく、矜持を保ったままの"自決"を選ばせたが、その本質は、限りない優しさによる、"妻への殉死"だと思う。(浅利慶太)
 
 
とりわけ浅利慶太氏のように、「これは自殺ではなく自決だ」という声が多く聞かれました。
 
これに対して、有名人やマスコミが自殺を美化すると自殺を誘発するとの反対の声が上がりました。また、病気になって苦しい中でも生きようとしている人はいけないのかとか、とりわけ脳梗塞になった人は「形骸」にすぎないのかという声も上がりました。
当然でしょう。自殺を美化するのは間違っています。
 
とはいえ、私は自殺を批判しようとも思いません。
 
江藤淳の場合、前年に奥さんを亡くしたということが精神的に大きかったようです。江藤淳は奥さんを看取った過程を「妻と私」という文章にして「文藝春秋」に発表します。単行本版「妻と私」の「あとがき」にこう書かれています。
「『妻と私』は『文藝春秋』平成十一年五月号に掲載された。私がこれまでに書いて来た文章のなかで、これほど短期間にこれほど大きな反響を生んだものは、ほかに一つもない。友人知己のみならず、多くの未知の読者から次々と読後感が寄せられたからである」
 
「妻と私」を読むと、奥さんの存在がいかに江藤淳にとって大きかったかがわかります。ですから、夫婦愛の物語として大きな反響を呼んだわけです。ただ、私の印象としては、かなり江藤淳が奥さんに依存的であったような気がします。
ですから、奥さんが亡くなったことの精神的なショックはきわめて大きかったでしょう。そこに自身が脳梗塞という病に襲われました。このふたつの出来事で江藤淳は死を選んだものと思われます。
最愛の奥さんを亡くし、自身も病気で不自由な身になる。それゆえに自殺したということを私は少しも批判する気にはなりません。
 
ただ、問題は江藤淳が思想家であったということです。その思想と自殺の関係はどうなのかということが問われます。
江藤淳が日ごろから家族のたいせつさを訴え、健康のたいせつさを訴える思想家だったら、それをなくして自殺したのはある意味当然です。しかし、江藤淳はそうではありませんでした。
江藤淳の業績は多方面にわたり、その思想をひと言でいうのはむずかしいのですが、少なくとも保守主義者であって、日本という国家にこだわり続けたことは間違いありません(戦後の日本よりも明治の日本に本来の国家の姿を見ていたようです)
そういう思想家が、妻を亡くし、体を害したからといって自殺するのでは、その思想はなんだったのかということになります。
ほんとうに日本という国家のことを思うのであれば、妻を亡くし、体が不自由になっても、文章が書ける限り国家のために書き続けるはずです(彼の脳梗塞はそれほど重いものではなかったようで、少なくとも名文とされる遺書を書くだけの文章力はあったわけです)
 
ですから、江藤淳の自殺は、江藤淳の思想の敗北でもあったのです。
江藤淳の信奉者が江藤淳の自殺を美化しようとしたのは、それをごまかしたかったからではないでしょうか。

子どもの嫌いな野菜といえば、今はピーマンが第一位で、第二位がセロリというところでしょうか。しかし、少し前まではニンジンと相場が決まっていました。そして、ニンジン嫌いの子どもは親からむりやりニンジンを食べさせられたものです。これは実は乃木希典将軍のせいでもあります。
 
NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」で、乃木将軍は愚将として描かれました。乃木が旅順要塞や二百三高地を攻めあぐねていたとき、児玉源太郎総参謀長が現地にきて乃木に代わって指揮をとると、たちまち二百三高地を攻め落としたというふうに描かれます。これはもちろん司馬遼太郎の原作がそうなっているのです。
 
司馬は「坂の上の雲」を書いたあと、乃木についてはまだ書きたいことがあったらしく、乃木の人物像だけを描いた「殉死」という小説を書きます。
「殉死」において司馬は乃木をひと言で「スタイリスト」と評します。つまり、人からどう見られているかだけを意識して生きている人間だということです。もちろん中身がないという意味でもあります。明治天皇崩御のときに殉死したのも、そうするのがカッコよかったからでしょう。
しかし、司馬は乃木がなぜそういう人間になったかまでは書いていません。ここがいちばん肝心のところなのですが。
 
人間が人格を形成するとき、いちばん重要なのは幼児期です。幼児期に人間としての基本的な部分が出来上がります。これは当たり前のことですが、司馬はなぜかそこをスルーします。
 
乃木希典の幼児期はかなり特異です。
Yahoo! JAPAN 知恵袋「人参づくしの食事を作った母は?」より引用します。
 
乃木大将が生まれたのは、あのペリー艦隊が日本にやってくる数年前、嘉永2年(1849)11月11日、江戸麻布日ヶ窪の長州藩の屋敷で生まれた。父は長州藩士の乃木十郎希次、母は常陸土浦藩士の長谷川金太夫の長女寿子で、生まれると「無人」と名づけられました。二人の男の子を亡くした両親が「今度こそは元気に育ってほしい」という願いを込めて、「無人」と命名したわけです。
 
 しかし、幼いときの無人は、両親の期待に反して、近所の子供達から「無人は泣き人」とからかわれるほど、体の弱い、泣き虫な子で、ガキ大将にいじめられた時は、妹のキネに助けてもらうような弱虫でした。「これではとても武士の家を継ぐことはできない」と考えた両親の厳しいしつけを受けました。
 
 悪いことやいくじのないことをしたら、びしびしと容赦なくしかる毎日でした。父は、無人を体の丈夫な立派な武士に育てることが一番の夢でした。このため、無人の着るものは、いつも木綿の粗末な服ばかりで、冬の寒い日でも足袋を履かせてもらえませんでした。少しでも寒がっていようものなら「そんな事で立派な武士になれるか」と父親の恐ろしい声が飛んできて、あたまからザブーンと冷たい水をかけられます。そして、雪の降る中をはだしのままで、荒っぽい剣道の寒稽古が何時間も続きます。夕食が終わると、いつもの赤穂四十七士の義士物語が始まります。無人を赤穂の義士のような人間にしたかったからです。無人も義士物語を聞くのが楽しみでした。
 
 こうした希次の厳しい育て方を、母寿子もまた武家の娘らしく、無人荷は甘い顔一つしないで、いつも夫の希次と一緒になって無人をきたえ、育てたのでした。無人が人参を嫌いだといえば、寿子は毎日人参のおかずを出して、無人は何でも食べられるようになりました。
 
 
次はウィキペディア「乃木希典」の項からの引用です。
 
父・希次は、こうした無人を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた。
 
なお、詳しい時期は不明だが左目を負傷し、これを失明した。一説にはある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」と言い、畳みかけた蚊帳で無人の肩をぶった際、蚊帳の釣手の輪が左目にぶつかってしまったことが原因であるという。しかし乃木は、左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになり、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという。
 
 
ここに描かれているのは、どう見ても幼児虐待です。
乃木希典は虚弱で、繊細な子なのですが、両親はそれを強い子にしようとむりやりの教育を行ったわけです。普通は父親がきびしくても、母親がやさしいものですが、乃木家では両親ともにきびしかったのです。そうした教育の結果、一応立派な軍人になりましたが、それは見かけだけです。中身はぜんぜん違うのです。司馬遼太郎はそれを「スタイリスト」と評したのでしょう。
乃木には文才がありました。本来は文士になるべき人間だったかもしれません。戦争の真っ最中に漢詩を詠んでいます。そんな時間があれば作戦を考えろと突っ込みたくなるところです。
 
ウィキペディアにあるように、寒いときに7歳の子に冷水を浴びせたという話が国定教科書に載っていたわけです。国を挙げて幼児虐待を奨励していたのです。
母親が好き嫌いをなくすために嫌いなものを3度3度の食事に出し続けたというのも国定教科書に載っていました。ニンジンとは書いてなかったのですが、乃木少年の嫌いなものがニンジンであったことは国民だれでもが知っていました。
そのため、どの家庭でも、子どもがニンジンが嫌いだというと、親はむりやりニンジンを食べさせなければならないと考え、ニンジンをめぐるバトルが繰り広げられました。ホウレン草や魚が嫌いな場合は、それほどのバトルにならなかったはずです。
 
ほんとうは軍人になるべきではなかったのに間違った教育によって軍人になってしまった乃木は、結局軍人としての無能のためにたくさんの部下をむだに戦死させました。
愚かな教育は、本人だけでなく周りも不幸にするという例です。

【追記】
同じテーマをもう少し実証的に書いた記事があるのでお知らせします。
「国定教科書『乃木大将の幼年時代』の真実」


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