村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2012年04月

名前がついて初めて実態が見えてくるということがあります。たとえば「ストーカー」がそうです。「ストーカー」という言葉がないときは、男につきまとわれて困っている女性はなかなか周りに理解してもらえませんでした。
最近のヒットは「ブラック企業(会社)」でしょう。この言葉ができてやっと、人を使い捨てにするひどい企業がいっぱいあるという現実が見えてきました。
「ブラック企業」という言葉がないときは、若い人が会社を辞めたいというと、たいてい「近ごろの若い者は辛抱が足りない」と説教されたものです。
 
ブラック企業の定義については「はてなキーワード」から引用しておきます。
 
従業員に対して、劣悪な環境での労働を強いる企業のこと。広義には入社を勧められない企業のこと。
1.労働法やその他の法令に抵触、またはその可能性があるグレーゾーンな条件での労働を、意図的・恣意的に従業員に強いる
2.関係諸法に抵触する可能性がある営業行為や従業員の健康面を無視した極端な長時間労働(サービス残業)・労災隠しを従業員に強いる
3.パワーハラスメントという暴力的強制を常套手段としながら本来の業務とは無関係な部分で非合理的負担を与える労働を従業員に強いる
コーポレートガバナンス(企業統治)の欠如やコンプライアンス(法令遵守)の軽視などが要因。従業員や元従業員とのトラブルだけでなく、近隣住民とのトラブルを抱えた企業が多い。
 
就職活動をしている人は、ブラック企業に引っかからないようにしなければなりません。とりわけ新卒で引っかかってしまっては悲劇です。
そこで、ブラック企業を外部から見分けることが重要になってきます。見分け方にはいろいろあるでしょうが、結局のところ決め手は離職率です。
上場企業については「四季報」で離職率がわかりますし、ある程度の大企業なら離職率について報道されたり噂があったりするでしょうが、小さい企業の場合はそうはいきません。そのため、たとえば求人広告を年中打っているなどで判断するしかないというのが現状です。
 
厚生労働省は雇用・離職について調査しており、事業所ごとの離職者の数も把握しているはずですから、これを公表してくれるといちばんいいわけです。しかし、厚生労働省はブラック企業に引っかかる若者よりもブラック企業を守りたいのか、公表しません。
厚生労働省に限らず、日本は企業に甘い風土なのかもしれません。
 
「教えて!goo」に「離職率の低い会社、業界の調べ方を教えてください」という質問がありました。「No.1」の回答は、「その会社の従業員数を、新規の募集人数で割ってみれば、それに近い値が求められる」というものです。「No.2」の回答は、企業の現役人事担当者からで、離職率を気にするのは意味がないと主張するものですが、この企業がかなりブラックなようで、上から目線の物言いには笑わせられます。とくに、甲子園の優勝常連校は、たくさん部員が入り、そのほとんどがやめていくが、それでとんでもない野球部だといえるか、というところは妙な説得力があります。
 
確かに離職率というのは業種によって違い、職種によっても違いますし、都会と地方によっても違います(都会は転職先が多いので離職率が高い)。ですから、単純に比較すると間違ってしまいます。また、ワーストランキングなどを発表すると、その企業は文句を言ってくるでしょう。
 
というような理由で厚生労働省は各企業の離職率を発表しないのだろうと思っていたら、たまたま読んでいた本で、介護業界ではすべての事業所の年間の離職者数が公表されていることがわかりました。従業員数も公表されていますから、簡単に離職率が計算できます。
つまり介護業界では各事業所の離職率が公表されているわけです。介護業界でできるならほかの業界でもできるはずです。
 
介護業界ですべての事業所の離職者数が公表されているということは、案外知られていないのではないでしょうか。
これは厚生労働省の「介護サービス情報公表システム」といって、都道府県ごとにサイトがつくられています。しかし、これはあらゆる情報が網羅的に公表されていて、しかも役所用語と役所の都合による分類になっていて、利用者の利便を考えていないということで悪名高いサイトです。
たとえば東京都世田谷区だけで1400余りの事業所が載っていますし、サービスの種類は訪問介護、介護予防訪問介護、夜間対応型訪問介護、訪問看護、介護予防訪問看護……などと50種に分類されているので、なにをどうやって調べたらいいかわかりません。
 
とにかく離職率がわかるということを証明するために、有料老人ホーム業界で比較的大手の「株式会社ベストライフ」を東京都で検索し、いちばん上に表示されたところの事業所のサイトを紹介します。これはあくまで一例ということで、この事業所を選んだことにとくに意味はありません。
 
「ベストライフ南東京」
(直接表示ができないので、トップページから「ベストライフ」をキーワードに検索してください)
 
わけのわからないことがずらずらと羅列されていますが、「3.事業所において介護サービスに従事する従業者に関する事項」のいちばん上のところに常勤と非常勤の従業員数が書かれていますので、合計すれば従業員数がわかります。そして、その少し下のほうの「従業者の当該報告に係る介護サービスの業務に従事した経験年数等」の「前年度1年間の退職者数」に年間の離職者数が書かれています(平成22年度は計7名ということになります)
 
これまで厚生労働省が各企業の離職率を公表しなかったのは、企業にもプライバシーがあるとか(もちろんありません)、公表されると誤解を招くとか、事業活動がしにくくなるとか、そんなことが理由にされていたのでしょうが、介護業界で公表されているとなると、ほかの業界で公表しない理由はないことになります。「アリの一穴」という言葉がありますが、介護業界での公表は「アリの一穴」になるはずです(とりあえず介護業界に就職したい人は役立ててください)
 
世の中は、上の立場ほど有利で、下の立場ほど不利にできています。企業と労働者を比較すれば、企業が上で、労働者が下ということになります。その中でブラック企業がのさばってきたのです。
 
金融業界では返済滞納者の情報をブラックリストとして共有していますし、不動産業界でも家賃滞納者のブラックリストをつくろうという動きがあります。個人はこのようにブラックリストにされてしまいますが、企業はブラックであってもブラックリストにされないわけです。
ブラック企業リストこそ世の中に必要なものです。

4月26日、政治資金規正法違反で強制起訴されていた小沢一郎氏に無罪判決が下りました。この裁判のためにどれだけのエネルギーと時間が費やされたかと思うと、むなしい気持ちになります。
この裁判で見えてきたのは、検察の横暴と腐敗でしょう。強引な捜査だけでなく、嘘の捜査報告書をでっちあげていたことまで発覚しました。厚生労働省の村木厚子局長が起訴された事件でも、フロッピーディスク改ざんなどさまざまな不祥事が発覚しています。
「鯛は頭から腐る」という言葉がありますが、社会や組織は上層部ほど腐敗堕落しているものです。検察や裁判所は社会のもっとも上層に位置していますから、いちばん腐敗堕落しているということになります。
 
たとえば、同じ4月26日の「朝日新聞」朝刊は、裁判所と検察に関する記事が1面トップでした。もちろんこれは小沢裁判の判決の日を意識してトップ記事にしたものでしょう。
 
検事・判事の人事交流廃止 刑事裁判の公正に配慮
 検察官が刑事事件の裁判官になったり、刑事裁判官が検察官になったりする人事交流が今年度から廃止されたことがわかった。裁判官と検察官の距離の近さが「裁判の公正さをゆがめかねない」との批判を受け、法務省が「誤解を生むような制度は続けるべきではない」と判断した。
 裁判官(判事・判事補)と検察官(検事)が互いの職務を経験する仕組みは「判検交流」と呼ばれ、裁判所と法務省が合意して続けている。このうち刑事分野の交流は、刑事事件を担当する裁判官と、捜査・公判を担当する検察官が入れ替わる形が中心で、主に東京地裁と東京地検の間で行われてきた。
 
検事が判事になったり、判事が検事になったりしていては、刑事裁判の公平が保証されるわけがありません。こういうことを平気で続けてきたということは、判事や検事には根本的に倫理感が欠けているということです。
検事はともかく裁判官はまともだと思っている人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。裁判官になるのは頭がよくて優秀な人ですが、人間性がよくてなるわけではありませんし、おかしな判決はいっぱいあります(マスコミが批判しないだけです)
 
ところで、私は検察や裁判所を批判しているからといって、小沢一郎氏が正しいと思っているわけではありません。小沢氏も社会の上層部にいる人ですから、やはり腐敗堕落していると考えています。
対立関係にある一方が悪ければ、もう一方は正しいと考えがちですが、現実はそんなことはありません。暴力団同士が抗争している場合を考えればわかるでしょう。どこかの国の内戦も同じです。
悪い人間同士も対立抗争します。というか、世の中の対立抗争のほとんどは悪い人間同士がやっています。
 
小沢氏は無罪になっても「政治とカネ」についての問題はまだ残っているとマスコミは主張しています。確かに小沢氏には「政治とカネ」の問題があるかもしれませんが、ほかの政治家に「政治とカネ」の問題がないわけではありません。自民党で派閥のトップに立つような人であれば同じ問題をかかえているはずですし、一般の議員にしてもさまざまなところから献金を受けているわけで、なんらかの問題をかかえている可能性はあります。
マスコミは「政治とカネ」の問題を追及したいのなら、小沢氏1人に限定せずに追及するべきでしょう。
 
誰か1人を悪と規定すると、ほかの人間は悪でないように錯覚するのが私たちの愚かなところです(こうした愚かさは道徳の欠陥に由来しています)
 
 
26日には天皇陛下に関するニュースもあり、私はこれにも注目しました。
 
天皇・皇后の火葬を検討 宮内庁、両陛下が希望
 宮内庁の羽毛田信吾長官は26日、天皇、皇后両陛下が逝去された際は、江戸時代から続く土葬ではなく、両陛下が望む火葬にする方向で検討を進めると発表した。宮内庁は同じ陵(墓)にお二人を合葬することも視野に、陵の規模や形式、葬送に伴う諸儀式の在り方も併せて考えたいとしている。
  羽毛田長官は「葬送の在り方は以前からの懸案だった。心臓のバイパス手術を受けた陛下の回復を待ち、今回の発表になった」と話した。今後1年をめどに検討する。
  宮内庁によると、現代の日本社会で火葬が普及し、江戸時代より前は多くの天皇、皇后が火葬されていたことから、両陛下は自分たちも火葬が望ましいと考え、羽毛田長官に意向を伝えていた。さらに、葬送全体が国民生活に極力影響が少ないものになるよう望んでいるという。
  ただ、どこで火葬をするのか、諸儀式の場所や内容をどうするのかなどが大きな課題となる。
  天皇の葬送は、江戸時代初期の後光明天皇から昭和天皇まで土葬が続き、天皇と皇后は別々の陵に葬られるのが通例。
  大正時代に制定された皇室喪儀令は、天皇や皇族の葬送について土葬を前提としていたが、1947年に廃止され、現在は明確な規定はない。秩父宮、高松宮ら戦後亡くなった皇族は火葬されている。
 
このニュースを読んで、昭和天皇は土葬だったのかとか、いろいろな感想があるでしょうが、私が思ったのは、天皇陛下は自分の埋葬方法や葬式のことですら自分で決められないのかということでした。
 
天皇陛下が火葬にしてほしいといえば、宮内庁の役人たちはただちにそれに従いそうなものですが、そうではないのですね。役人たちは自分たちで検討し、自分たちで決めるのです(最終的には大臣や内閣の決定という形になるのかもしれませんが)
 
また、天皇陛下が火葬を望んでおられるということは、これまでまったく伝わってきませんでした。天皇陛下の意思は宮内庁経由でなければまったく報道されないということも、このニュースで感じたことです。
 
雅子さまのことがいろいろと問題になっています。しかし、天皇陛下ですら自分の埋葬や葬式のことを決められないのですから、雅子さまの決定権など無も同然ではないでしょうか。
雅子さまにかかわることを宮内庁の役人がどう扱っているか知りたいものです。
 
検察、裁判所、宮内庁は日本の最上層部です。ここがいちばん腐っているから日本はだめなのだと私は思っています。

石原慎太郎都知事は尖閣諸島を東京都が購入する計画があると発言しましたが、これはもちろん外交問題ではなく国内問題です。日本人の個人が所有している島を東京都が買う買わない、あるいは日本政府が買う買わないということですから。石原知事も「これで政府にほえづらかかせてやろう」と言っています。
ですから、中国政府は報道官が簡単なコメントを発表しただけですし、中国のマスコミも抑制的な報道のようです。
日経ビジネスオンラインにおけるジャーナリスト福島香織氏の記事から引用しておきます。
 
18日の外交部会見での報道官による公式発表は次の通りだ。
 「釣魚島および付属の島嶼は古来、中国固有の領土であり、中国の主権に議論の余地はない。日本側のいかなる一方的な挙動も、違法であり無効であり、これら島嶼が中国領土であるという事実は変えようがない。日本の一人の政治屋の無責任な言動は、中国の主権を侵害するだけでなく、中日関係の大局を損なう」
 
 フェニックステレビでは、東京在住の中国人学者、朱建栄・東洋学園大学教授が次のようにコメントしていた。
 「彼(石原)はなぜ米国でこの発表をしたのか。思うに、中国の台頭に対する米国の不安を利用し、米国を東海(東シナ海)問題に引き込んで中国をけん制する狙いだろう。…しかし、このような大きな買い物は、必ず都議会の審議を通過せねばならず、実際のところ、一方通行の思いで、米国はこの火中に飛び込むことはないだろう。…日本のいくつかの大新聞は、釣魚島の問題は国家的な問題であり、地方自治体の首脳がどうこういうべきではない、と言っている。日本のテレビコメンテーターたちも彼個人の国内的目的だと言っている。今年夏には消費税をめぐって国会は解散するかもしれない。こういう形で中国を刺激し、民主主義を利用し、日本主義を掲げ、民主党政権を攻撃している。しかし、彼のこういったやり方は、率直に言って、日本外交に不利益をもたらし、この点、多くの日本人が憂慮している…」
 
ところが、石原知事の発言をもって日本が中国に対して力強さを示したというふうに理解して喜んでいる人がけっこういます。なにかの勘違いでしょう。
尖閣諸島で中国漁船が日本の巡視艇に衝突した事件のときも、日本人は中国政府に抗議するよりも、ビデオを公開しない民主党政権批判に熱心でした。民主党政権を批判することがなにか外交的なことをしていると勘違いしていたのかもしれません。
日本人は外交問題についてもすっかり内向きです。
 
戦後の日本はずっと外交が苦手で、アメリカ追随でない独自の外交をしたのはわずかしかありません。
 
数少ない独自外交のひとつをしたのは田中角栄内閣です。田中内閣は日中国交回復を実現し、さらにオイルショック時にはエネルギー確保のために独自の資源外交を展開しました。これがアメリカの怒りを買い、田中角栄失脚につながったという説があります。
たまたま同じ日経ビジネスオンラインにそのことを書いた記事があったので張っておきます。
 
そんな米国主導の体制に田中は限界を感じ、自主外交で資源獲得に乗り出す。
 「川上から攻めろ」が角栄の口癖だった。選挙は企業や団体といった川下の組織に頼るのではなく、有権者一人ひとりという川上を狙え、と弟子の小沢一郎らに説いた。エネルギー資源の確保においても、世界の川上に照準を絞った。
  そこには、多国籍化した欧米の石油メジャーやユダヤ系の国際資源資本がどっしりと構えていた。かれらは帝国主義の時代から数百年に及ぶ植民地経営を通して、資源の探査と獲得、流通をコントロールするノウハウを蓄積している。
  欧米の富の源泉を握る者たちに、田中は各国政府首脳との膝詰談判を通じてアプローチしようとした。石油については、戦後賠償の利権が絡むインドネシア、北海油田を抱える英国、シベリアのチュメニ油田開発を望むソ連などに直接、掛け合った。田中の行動は、従来の秩序を重んじる米国をいたく刺激した。
 
 
田中角栄の弟子である小沢一郎氏は、「米軍のプレゼンスは第七艦隊だけで十分」との発言でわかるように、アメリカ依存がまったくない政治家です。中国は小沢氏が訪中したとき、きわめて厚遇しました。そのためかどうか、ずっと失脚の危機にありました。
 
鈴木宗男氏は議員時代、独自の対ソ外交を行い、北方領土の二島返還を実現直前のところまでもっていきました。当時、二島返還論は批判されましたが、対ソ外交がまったく停滞して北方領土返還がはるか遠のいてしまった現在、鈴木氏の外交を見直す人も多いでしょう。鈴木氏はすでに失脚しました。
 
鳩山由紀夫氏は普天間基地問題で、県外国外移設を追求し、最近ではイラン訪問で話題になるなど、独自の外交ができる人です。そのためにさんざん批判され、また力不足でもありましたが、目指した方向が正しかったことは明らかです。アメリカが軍事費を大幅に削減し、沖縄の部隊をグアムに移動させるというとき、辺野古に新しい滑走路を建設するという日米合意が正しいわけがありません。
 
政治家ではなく外務官僚ですが、田中均氏は小泉純一郎首相と金正日との日朝首脳会談をお膳立てした人です。この首脳会談は日本の独自外交として輝かしいものでしたが、田中氏は拉致問題を軽視したということで一部マスコミから大バッシングを受けました。官僚がマスコミからこれほどバッシングされたことはほかにないでしょう。
 
以上、名前を挙げた人は、いずれも独自の外交を行った人ですが、1人の例外もなくマスコミのバッシングを受けています。
しかし、こうした人がいなければ、日本の外交はまったく空虚なものになっていたでしょう。
 
ちなみに石原知事は、国内で発言しているだけで、外交をしているわけではありません。
 
日本の外務・防衛の官僚は、アメリカに追随することが省益と思っていますし、マスコミは官僚と一体となっています。マスコミだけ見ていると、どんな外交が正しいのかまったくわからなくなってしまいます。

「愛国心」は鬼っ子です。「愛国心」はとらえどころがなく、かつ暴走して世の中を混乱させたり、戦争を起こしたりします。
ということは、「愛国心」がわかれば、世の中の混乱や戦争を大幅に回避できるということでもあります。
 
2006年の教育基本法改正によって「愛国心」の教育が行われるようになり、国旗国歌が教育現場に混乱をもたらしています。しかし、教育基本法には「愛国心」という言葉はありません。また、国と郷土が同列に並べられています。条文を挙げておきましょう。
 
教育基本法 第二条の五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
 
この条文にとくに問題があるようには思えないでしょう。というか、単にきれいごとが並べられているだけです。
にもかかわらず、この条文を根拠とする「愛国心」教育がさまざまな議論を呼ぶことになりました。しかし、「郷土愛」教育や「他国を尊重する」教育が問題になることはありません。やはり「愛国心」は特別の存在なのです。
 
「郷土愛」と「愛国心」が異質なものであることは、多くの人が感じているはずです。「郷土愛」は自然のままに置かれていますが、「愛国心」は鼓舞され、義務化され、強要されています。
考えてみれば、郷土と国は別の概念です。
郷土と非郷土には区別がありません。私は京都市生まれで、京都人という意識がありますが、京都市と京都府とはそんなに区別しませんし、関西人という意識もあります。つまり、郷土愛というのは同心円的に薄まりながら広がっています。
しかし、国は国境によって画然と区別されています。「愛国心」も同じです。多くの日本人は韓国人や中国人と同じと見られると反発します。
国境はもちろん人工的なものです。ですから、「愛国心」も人工的なものということになります。
 
いや、そもそも「愛国心」は愛なのかということから考えないといけません。
「愛に国境はない」という言葉があります。これが正しければ、「愛国心」は愛でないことになります。
 
そうなのです。「愛国心」は愛ではないのです。
「愛国心」は実は「周辺国への敵愾心」なのです。それを「愛」という言葉で粉飾しているのです。
いや、粉飾というよりも、まったく逆のものにひっくり返しているのです。
これを正しくとらえるには、まさに認識のコペルニクス的転回が必要です。
 
「周辺国への敵愾心」がないと国の存続が危うくなります。ですから、どの国も歴史的に「周辺国への敵愾心」をつねに鼓舞してきました。
 
これはあくまで「周辺国への敵愾心」です。「外国への敵愾心」ではありません。また、排外主義とも微妙に違います。
たとえば、多くの日本人は中国は共産党の一党支配の国だからけしからんと考えています。しかし、ベトナムも同じく共産党の一党支配の国ですが、ベトナムはけしからんと考える日本人はほとんどいません。なぜならベトナムは周辺国ではないからです。
たとえばイギリス、ケニア、アルゼンチン、ウズベキスタンなどどこでもいいですが、日本の周辺国といえない国に対しては、日本人はまったく敵愾心を持っていません。
しかし、中国、北朝鮮、韓国、ロシア、アメリカなどの周辺国には強い敵愾心を持っています(アメリカについては敵愾心以外にも複雑な感情がありますが)
 
周辺国といざ戦争となったときに国民を動員するために「周辺国への敵愾心」は欠かすことができません。しかし、「周辺国への敵愾心」を露骨に表現すると、周辺国の反発を招いてマイナスになります。そこで、それを「愛国心」と表現しているわけです(仮想敵国を実際は想定していても、言葉では表現しないのと同じようなものです)
これは人類が長年かけて形成してきた文化で、誰もが深く思い込んでいるので、「愛国心」が「周辺国への敵愾心」にほかならないことに気づく人はほとんどいません。
 
ところで、「自国への本当の愛」は「周辺国への敵愾心」とバッティングします。「愛に国境はない」からです。ですから、「周辺国への敵愾心」を鼓舞するときは、「自国へのニセモノの愛」のほうがいいわけです。そこで利用されるのが国旗国歌です。国旗国歌を愛する格好をするのはニセモノの愛でもできます。
 
ここで教育基本法に戻ると、「他国を尊重」とか「国際社会の平和と発展に寄与」とかはきれいごとですが、「周辺国への敵愾心」は国家の存立に直結することですから、これだけが特別に重視されるわけです。
 
しかし、ヨーロッパでは周辺国と戦争をする可能性はほぼゼロになりましたから、そこでは「愛国心」すなわち「周辺国への敵愾心」を鼓舞することもほぼなくなりました。
 
東アジアでも戦争の可能性がなくなれば、「愛国心」を鼓舞することもなくなるでしょう。
もちろん「愛国心」をなくすことで戦争の可能性をなくしていくという戦略もありです。

石原慎太郎都知事がアメリカでの講演で、都は尖閣諸島を購入する交渉を進めていると述べたことが波紋を呼び、ネットの掲示板やブログなどでは賛同の声が相次いでいます。日本の右翼のレベルの低さには、つくづく情けなくなります。
 
都が購入してなにをするのかということがわかりませんが、それは措くとして、まず領土問題のプライオリティーが間違っています。プライオリティーなんて石原知事みたいにカタカナ語を使ってしまいましたが、要するに優先順位です。これは日本の右翼だけでなく世界各国どこの右翼も同じだと思いますが。
 
帝国主義の時代には領土の多寡は国力に直結していました。「満蒙は日本の生命線」なんていう言葉もありました。しかし、それははるか過去の話です。今、各国は金融、物流、通信の緊密なネットワークで結びついていて、シンガポールのような小国でも経済的、政治的に重きをなすことができます。日本にしても資源の少ない小国です。
尖閣だの竹島だの北方領土だのは棚上げにしておいて、たいした不都合はありません。
こういうことは一般の人々は直観的に理解しています。理解していないのは右翼だけです。
 
石原知事は、中国が尖閣の領有権を主張することを「半分宣戦布告みたいなものだ」と述べましたが、「宣戦布告」なんて今や死語です。右翼そのものが時代遅れになっています。
 
しかし、時代遅れになっても、右翼にはそれなりの勢いがあります。なぜ勢いがあるかというと、右翼思想というのは、なわばりを守ろうとする動物的本能に基づいているからです。
領土争いがなわばり本能と直結していることは明らかでしょう。人種差別、外国人差別、在日差別、移民排斥など右翼の主張はみな同じです。ですから、本能によるパワーがあるのです。
思想不在の時代に、動物的本能へ回帰する流れが右翼を勢いづけているともいえます。
 
しかし、やはりこうしたなわばり本能は、今のグローバル経済の時代に合いません。
動物的本能と経済合理性を天秤にかけ、理性によって正しく判断しなければいけません。
 
 
ところで、石原知事は16日に、報道陣に「面白い話だろ。これで政府にほえづらかかせてやろう。何もしなかったんだから、連中」と語ったということです。
 
これはアメリカでの発言です。わざわざアメリカまで行って、日本政府と東京都のみにくい対立を見せているわけです。こういうのは「国辱」といいます。
右翼というのは普通、こういう国辱には敏感なものですが、日本の右翼は違うようです。
 
それにしても、石原知事はなぜ訪米中に尖閣購入の発表を行ったのでしょうか。これは多くの人が疑問に思っているはずです。
 
そして、もうひとつの疑問は、なぜ今発表したのかということです。
というのは、地権者と購入金額で合意したわけではないのです。予想される土地の価格についてはいろいろな報道があります。金額が決まらないのでは、この話はどうなるかわかりません。また、国と地権者との賃借契約が来年3月末まであるので、実際の購入は来年4月以降のことになります。
つまり、どう考えてもこのタイミングで発表することではないはずなのです。
 
では、石原知事はなぜアメリカで、なぜこのタイミングで発表したのでしょうか。
私の考えでは、それは石原知事における対米コンプレックスに理由があります。
 
今回の石原知事の訪米はなにが目的だったのかはっきりわかりませんが、アメリカへ行った以上は、日本とアメリカに関わる問題について発言するのが当然です。
たとえば今の時期なら、北朝鮮がミサイルを発射したのはアメリカ外交の不手際ではないかとか、イランの核問題で原油価格が高騰しているのは日本にとって迷惑だとか、普天間基地問題とか、東京都の横田基地の軍民共用化とか、あるいはアメリカは中国より同盟国である日本をもっと重視するべきだとか、もちろん石原知事の考えは違うかもしれませんが、たとえばそういうことを発言するべきです。
なにか発言はしたのかもしれませんが、報道はありません。少なくとも報道に値する発言はなかったということでしょう。
 
石原知事はかつてソニーの盛田昭夫氏と共著で『「NO」と言える日本』という本を出版しましたが、これは反米的な内容だということで日米双方で大バッシングを受け、そのため石原知事は国政において力を失ってしまいました。それが石原知事のトラウマになり、以降、石原知事はアメリカにものが言えなくなってしまったのです。
 
今回の訪米でも、石原知事はアメリカにものが言えないという国士らしからぬ自分に直面することになりました。そして、それから逃れるために、中国にものを言う自分を打ち出したのです。
つまりこれは、心理学でいう防衛機制の「代償」に当たります。
 
こう考えれば、日中間の問題をアメリカで発表したこともわかりますし、まだ発表するタイミングでないのに発表してしまい、果たして購入が可能なのかもわからないし、金額はいくらなのかもわからないし、購入後になにをするのかもわからないという妙なことになってしまったのもわかります。
 
石原知事は福島の原発事故が起きたとき、自分は原発を推進してきた張本人なのですが、「津波は我欲の張った日本人への天罰」などと発言し、自分のことを日本人にすり替えてしまいました。これは心理学でいう「置換」です。石原知事はこうした心理学的操作が得意なようです。
 
アメリカにものが言えないので代わりに中国にものを言う“国士”と、それを持ち上げる日本の右翼。
日本のだめさを象徴する光景です。

北朝鮮のいわゆるミサイル発射騒動がいまだに尾を引いて、政府発表が遅れたのは政府の対応がまずかったからではないかといった議論が続いています。
私は北朝鮮のミサイル問題には最初からほとんど興味がなかったので、現在行われている議論にも興味が持てません。なぜ興味がないかというと、もちろんたいした問題ではないと思うからです。
 
国民が飢えているのにミサイルの開発をする北朝鮮はまったく愚かですが、日本にとってのとりあえずの問題は、ミサイルが弾道をそれて日本に落下して被害が生じるのではないかということでした。
もちろんこのいわゆるミサイルには、人工衛星が積まれているはずです。核弾頭や通常弾頭や生物化学兵器が搭載されているかもしれないと主張する人はいませんでした。
一応打ち上げは海上コースです。方向がそれる可能性はありますが、人がいるところに落ちる可能性は相当低いでしょう。2009年にやはりテポドン発射騒動というのがあり、日本は東京に迎撃ミサイルを配備したりしましたが、このときは日本上空を通るコースでしたから、事情が違います。
2011年にドイツの人工衛星が落下するというので少し騒ぎになったことがありましたが、それに近いでしょう(今回のミサイルのほうが大きいですし、燃料を積んでいるという違いはありますが)。つまり、沖縄の誰かの頭上に落ちてくる可能性はあっても、その確率は圧倒的に低いので、誰も対応なんかしていられないというのが実際でした。
 
ところが、日本政府は沖縄一帯と首都圏にPAC-3を配備し、イージス艦3隻を出動させました。万全を期すということでしょうが、弾道をそれたミサイルを撃ち落とせる可能性は低いですし、撃ち落としても破片が落ちてくると被害がかえって大きくなる可能性もあります。
日本の大騒ぎは韓国からも奇異の目で見られるほどでした。
 
マスコミは大げさな迎撃体制を批判しろと言いたいところですが、私がこうして書いているのも、なんの被害もないことがわかってからです。「こんな大げさな迎撃体制は税金のむだ使いだ。責任者出てこい」などと勢いよく批判して、万一、落下してきたミサイルで人が死んだりすると、逆にこちらが批判されることになるかもしれないと思って、今まで書かなかったわけです。ですから、マスコミが批判しにくい事情もわかります。
 
そこで、代わって右翼、保守派、タカ派を批判したいと思います。彼らの対応がこの大騒ぎを生みだしたからです。
 
戦争嫌いの人、軍事的知識のない人がミサイルが落ちてくるかもしれないと思って大騒ぎするのはある意味しかたがありません。しかし、日本では多少は軍事的知識のあるはずの右翼やタカ派が大騒ぎしているのです。むしろ一般国民のほうが冷静でした。
 
もちろんミサイルが落下して被害が生じる可能性はあります。しかし、そんなささいなことは気にするなと国民をなだめるのがタカ派の果たすべき役割です。
なぜなら、この程度のことで大騒ぎしていては、実際の戦争になって何百発のミサイルが日本の都市を狙っているということになれば、大パニックになって戦争などおぼつかないからです。
「皮を切らせて肉を切る。肉を切らせて骨を断つ」というのが戦いの要諦です。自分は無傷でいようとすると、戦いはできません。
 
もっとも、日本人は昔から同じ間違いを犯してきました。
真珠湾攻撃後、日本軍が優勢に展開しているさ中の1942418日、ドゥリットル中佐率いる爆撃隊が東京、名古屋、神戸など日本の主要都市を爆撃しました。その被害は大したものではありませんでしたが、日本人はパニックを起こし、2度と爆撃されないためにとミッドウェー作戦を行い、さらにソロモン諸島の戦いに航空兵力を注ぎ込み、敗勢に陥ってしまったのです。
 
日本は日清、日露から支那事変にいたるまで、本土を攻撃されたことがありません。そのこともあってパニックになってしまったのです。
いや、国民はそれほどのことはありませんでしたが、軍の上層部は2度と爆撃されることがあってはいけないと考えたのです。そのためにのちに絶対国防圏なるものも策定しています。
しかし、ほんとうに戦争に勝とうと思えば、むしろ敵を深く引き込んで、有利な態勢で戦わなければならないはずです。
当時、ソ連にしても中国にしても、国土の主要部分を占領されても戦い続け、結局勝利しています。
 
日本の右翼は、あの戦争を正当化することにやけに熱心で、そのためかほとんど戦争の反省をしてきませんでした。そのツケがこんなところに出てきています。
 
「日本を狙っているわけでもないミサイルなんかでガタガタ騒ぐな」という右翼を見てみたいものです。

「戦後民主主義」という言葉があります。これはどちらかというと否定的な意味で使われることが多いようです。
確かに「戦後民主主義」はアメリカから与えられたもので、日本人がみずから勝ち取ったものではありませんし、あんまりうまく機能しているともいえません。
しかし、「戦後民主主義」の対になる言葉は「戦前民主主義」のはずです。「戦前民主主義」には女性の参政権はありませんでしたし、軍部の暴走を防ぐこともできませんでした。「戦後民主主義」と「戦前民主主義」を天秤にかけて、「戦前民主主義」のほうがよかったという人はいないはずです。
 
では、「戦後民主主義」という言葉を否定的に使う人は、なにを否定しているのでしょうか。
 
ひとつには、戦後より戦前のほうがよかったと考えている人が少なからずいます。戦前の家父長制、天皇制、強力な軍備などにノスタルジーを感じている人たちです。
しかし、「戦後より戦前のほうがよかった」などとあからさまに言うと、圧倒的に反論されてしまいます。そこで、「戦後民主主義はだめだ」というふうに言うと、よりよい民主主義を求めて言っているかのように誤解してくれますし、本人もそういう錯覚に陥って気分がいいというわけです。
 
もうひとつには、民主主義そのものを否定したいという人もいます。民主主義というのは、その国民のレベルの政治になってしまいますから、優秀な人、あるいは自分は一般大衆よりも優秀だと思っている人のほとんどは内心、民主主義が嫌いです。しかし、「民主主義はだめだ」などと言うと圧倒的に反論されてしまうので、「戦後民主主義はだめだ」と言うわけです(「衆愚政治はだめだ」とか「ポピュリズムはだめだ」と言うこともあります)。そうすると、「戦後民主主義」に代わる、よりよい民主主義を求めているように誤解してくれますし、本人もそういう錯覚に陥って気分がいいというわけです。
 
 
「一国平和主義」という言葉もあります。
これはもちろん否定的に使われます。一国だけ平和にやっていこうとしてもうまくいくものではないし、かりにうまくいっても、他国のことに関心を持たないのはよくないというわけです。
 
「一国平和主義」の対になる言葉は「世界平和主義」のはずです。
「一国平和主義」を否定する人は「世界平和主義」の人なのでしょうか。
いや、私の見るところ、「一国平和主義」を否定する人の中に「世界平和主義」の人はほとんどいません。
 
世の中において戦争はデフォルトとして設定されています。ほんどの国は軍備を持ち、いつでも戦争ができるように準備しています。
「平和主義」という言葉はありますが、「戦争主義」という言葉はありません。戦争するのは当たり前のことですから、「主義」ではないわけです(「好戦主義」という言葉はありますが、これは必要以上に戦争することです)
しかし、戦争するときは、「われわれは平和を望むが、相手があまりにも暴虐なためにやむをえず戦争するのだ」というふうに言います。好戦主義と思われると不利だからです。これは、誰でも金儲けはしたいが、金儲け主義と思われると不利だという事情と同じです。
 
こういう世の中において、平和主義者というのは当然ながら少数派です。ただ、日本はあまりにもバカげた戦争をしたために、世界でも特別に平和主義者の多い国になりました。
ですから、日本においては平和主義を否定するのに一工夫する必要がありました。そこで考えだされたのが「一国平和主義」という言葉だったのでしょう。
日本の平和主義は「一国平和主義」だと規定し、「一国平和主義」を否定する。そうすると、否定する人は「世界平和主義」の人のように誤解されますし、本人もそういう錯覚に陥って気持ちがいいというわけです。
 
「戦後民主主義」も「一国平和主義」も、二つの言葉を組み合わせることで誤解と錯覚をつくりだしています。
そして、誤解と錯覚の中に姿を隠しているのは、民主主義や平和主義が嫌いな人たちです。
この人たちは、誤解と錯覚の中にいるために、自分で自分のことがわかっていません。
「戦後民主主義」や「一国平和主義」という言葉を好んで使う人は警戒したほうがいいと思います。

尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏が4月13日の日本テレビの「アナザースカイ」に出演し、オランダの小学校を視察したときのことを紹介しておられました。
オランダの教育のキーワードは「個別教育」です。オランダの小学校には時間割がありません。学年もありません。11人が別々のことをしているからです。なにをするかは子どもが選びます。
 
入学も日本のように4月に一斉にというのではありません。義務教育は5歳からで、5歳の誕生日の次の月から登校すると決まっていますが、実際は4歳から学校に通うことができます。つまり入学がバラバラなので、そもそも一斉の授業というのは不可能です。
 
オランダでは、子どもを200人集めることができれば学校が自由に設立できます。ですから、学校によって教育方針や教育内容がぜんぜん違います。100の学校があれば100の教育が行われているということです。
日本の場合は、学習指導要領によってこと細かく規定されていますから、実はどの学校を選んでも中身は同じです。ですから、中高一貫か中高別かぐらいしか選択の余地がありません。先生のレベルもほとんど同じですから、日本の学校の違いは、実際は生徒の違いによって決まります。
 
オランダの教育は日本とあまりにも違いすぎて、とても参考にならないと考える人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。私は、オランダの教育はむしろ日本の伝統的な教育のやり方、つまり寺子屋と同じだと思いました。
寺子屋は、入学の時期はバラバラですし、1人1人教材が違うので、まさに「個別教育」が行われていたのです。
寺子屋については次のエントリーでも書きました。
 
「呉智英につける薬その2」
 
一斉教育、つまり子どもがみな同じ姿勢で先生のほうを向いて話を聞くというのは、ただ教える側にとって効率がよいだけで、子どもの生理に反します。また、4月に一斉入学というのも、6歳になったばかりの子とすでに7歳になった子を同じに扱うわけで、これも教える側の都合だけでやっているわけです。
近代学校というのは、兵隊と単純労働の労働者を効率よくつくるためのものです(少数の優秀な者だけがエリートになります)。
 
寺子屋というと、子どもは先生の前で正座して背筋を伸ばし、「論語」などを素読しているようなイメージを持たれるかもしれませんが、これはまったくの誤解です。子どもはそれぞれ好きな格好をして、半分遊びながら勉強していたのです。
寺子屋はあくまで読み書き算盤を教えるところで、行儀などは教えません。
「寺子屋」で画像検索して、いくつかの絵を貼っておきます。
 
 
 
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寺子屋は民間で個々につくられていたので、寺子屋についての記録というのはひじょうに少ないのです。しかし、寺子屋の師匠が亡くなると、教え子たちがお金を出し合ってお墓をつくることがよくありました。これを筆子塚といいます。寺子屋の研究者は全国の筆子塚を調べて、寺子屋が普及していく過程や寺子屋の数を研究しました。
教え子が師匠のお墓をつくるということから、師匠と教え子の関係が推測できます。今の学校にそうした関係があるでしょうか。
 
江戸時代後期の日本は、寺子屋のおかげで世界でもトップクラスの識字率であったといいます。
今の日本では、学習塾が寺子屋の伝統を継いでいると思います。学習塾では「個別指導」が行われていることが多いですし、学力をつけるには学校よりも学習塾のほうが明らかに優れているでしょう。
 
私は、今の画一的な学校はなくして、学習塾を学校に格上げすれば、今よりもうんといい教育ができるのではないかと考えています。
 

「外人」という言葉と「外国人」という言葉は同じ意味ではありません。私たちはちゃんと使い分けています。
「外国人」というのはもちろん外国人の総称です。そして、その中に「外人」という言葉があります。「外人」というのは欧米系の外国人を指す言葉です。アジア人には決して使いません。
ですから、欧米から来た人は「外国人」とも「外人」とも呼びますが、アジアから来た人は「外国人」と呼ぶだけで、「外人」とは呼びません。
 
もっともこれは、日本が主にアジアと欧米とだけつきあっていたころの言葉づかいです。ですから、日本にくるイラン人がふえてきたとき、「イラン人は外人と呼ぶべきか」という問題が発生したわけですが、結局のところイラン人は「外人」ではなく「外国人」に落ち着いたようです。
また、アフリカからきた人も「外人」ではなく「外国人」となりました。
プロ野球界で黒人選手は「外人選手」と呼ばれますが、これは欧米から来た人だからです。
 
なぜ「外人」と「外国人」という言葉の使い分けがあるのかというと、日本人は欧米人を自分よりも格上と見なし、アジア人は格下と見なしているからです。欧米人には劣等感を持ち、アジア人には優越感を持っているともいえます。
日本人は目上、目下、あるいは先輩、後輩の区別にこだわります。それによって言葉づかい(敬語)もまったく違ってきます。
日本人にとって欧米人とアジア人はまったく違う存在なのです。ですから、言葉での区別も自然とできてきたのでしょう。
 
 
こんな日本人ですから、世界を見るときも、欧米と欧米以外を区別しています。それは当然、言葉づかいにも表れてきます。
たとえば「国際社会」という言葉は「外人」に当たる言葉です。
 
「世界」、「地球」、「海外」、「グローバル」などの言葉と「国際社会」という言葉は、違う意味で使われています。「国際社会」とは実は「(欧米中心の)国際社会」という意味です。
 
たとえば、地球温暖化は「地球的」、「世界的」、「グローバル」な問題です。「国際社会」の問題とはいいません(温暖化対策は「国際社会」の問題ともいいますが)
経済の問題も、今や欧米中心ではとらえられませんから、「世界経済」や「グローバル経済」という言葉が使われます。
ところが、政治的なことになると「国際社会」という言葉がよく使われます。それは世界の政治がまだ欧米中心に動いているからです。
 
ですから、「国際社会に貢献する」つまり「国際貢献」という言葉は、ほとんど「欧米に貢献する」という意味になります。
そもそも「貢献」という言葉は、朝貢、献上という言葉があるように、下から上へ、上の喜ぶことをするときに使う言葉です。
貧しい人や困っている人に対するときは、主に「援助」や「救助」という言葉を使います。
 
ですから、途上国を助けるときは「海外援助」といい、欧米によく思われたいと思ってするときは「国際貢献」というわけです。
 
このことにほとんどの日本人が無自覚です。そのため日本の外交はあやういものになっています。
 
たとえば、イラク戦争やアフガン戦争やテロとの戦いに日本も協力すべきだというとき、「国際貢献」という言葉が使われます。そして、「国際貢献」という以上、全世界に貢献しているような錯覚に陥ってしまいます。
しかし、実際のところ、イラク戦争やアフガン戦争やテロとの戦いは、欧米の価値観によって行われており、イスラム諸国に貢献することにはなりません。むしろ欧米が潜在的に持っている反イスラム主義に加担することになって、多くのイスラム国が持っている親日感情を害することになってしまいます。
 
 
ここで「宇宙人」の話です。
鳩山由紀夫氏は47日から9日にかけてイランを訪問し、同国のサレヒ外相やアフマディネジャド大統領と会談しましたが、このとき「IAEAは二重基準だ」などと発言したということがイラン大統領府のウェブサイトに載りました。鳩山氏は事実と違うと抗議し、その発言はウェブサイトから削除されましたが、大統領府の担当者は「発言は事実だ」と語っているそうです。
 
鳩山氏の今回の行動について、国内では二元外交だなどと圧倒的に批判されています。しかし、私は大いに称賛したいと思います。
 
まずIAEAやアメリカが二重基準なのは実際にその通りです。イランとイスラエルとで二重基準ですし、イランと北朝鮮とでも二重基準です。このことは誰も否定できないはずです。鳩山氏を批判している人たちは、二重基準について自分の意見を言った上で批判しておられるのでしょうか。
とはいえ、日本政府がそれを言ってしまうとアメリカが怒りますから言うわけにいきません。
かといって、アメリカに追随しているだけでは、イスラム国の民衆が反日感情をいだきかねません。
日本が石油の多くを輸入している産油国はたいていがイスラム国です。イスラム国の民衆が親日感情を持ってくれることは、日本の生命線でもあります(政権はいつ転覆するかわかりませんから、民衆の感情がたいせつです)
今回の鳩山氏のことがイスラム諸国でどの程度報道されているのかわかりませんが、ある程度報道されているとすれば、イスラム国の民衆は、日本人はやはりわかってくれていると思い、親日感情を新たにしたでしょう。おおいに国益に貢献したといえます。
 
日本政府とは別に鳩山氏が個人でイスラムの人々にアピールする発言をしたのは、ひじょうに巧みな外交です。アメリカの機嫌をそこねないようにしつつ、イスラム国の民衆の心をつかんだのですから。
 
しかし、日本のマスコミや知識人のほとんどはアメリカ追随一辺倒ですから、鳩山氏の行動を評価することができません。
 
文藝春秋の「日本の論点PLUS」というサイトには、「国際社会」という言葉が典型的な使い方で用いられていました。この論者は欧米だけが国際社会だと思っていて、グローバルな視点がないのです。
 
鳩山元首相は、持論の理想主義の発露からイランを訪問したというが、国際社会に誤ったメッセージを発信しかねない「二元外交」は明らかに国益を危くする。
 
なお、イスラエルがイランの核施設を攻撃する危機が迫っている現在、鳩山氏が行動を起こしたのは当然のことですし、日本の外交当局がなにもしていないことこそ批判されるべきでしょう。
 
それにしても、困ったのは日本の右翼や保守派まで鳩山氏の行動を批判していることです。
日本は日露戦争や太平洋戦争によって、欧米の植民地主義にしいたげられた人々の支持をえてきた歴史があります。これは日本の財産です。鳩山氏の行動を批判している人たちは日本の財産をなんと思っているのでしょうか。

最近の政治の動きを見ていると、結局のところ政治を動かしているのは官僚とマスコミだということがよくわかります。現在の政治の焦点は消費税増税ですが、財務省とマスコミが主導しているので、粛々と進んでいきます。世論調査では増税反対のほうが多いのですが、マスコミはほとんどそういう声を伝えません。
その中で小沢一郎氏のグループが抵抗しています。官僚とマスコミの連合体に正面から戦えるのは小沢氏ぐらいのものです。これが小沢氏が検察とマスコミからたたかれる理由でしょう。
 
増税しても、そのお金が正しく使われるなら、国民にとって損にはなりません。しかし、成立した今年度の予算案を見ても、高速道路や整備新幹線の建設など、従来型の公共工事が大幅に復活しているということです。公務員の給与は7.8%引き下げられますが、なぜか2年間の限定です。
ですから、増税よりもむだな支出を削るのが先決だという主張は誠にもっともなことです。しかし、小沢グループの民主党議員が言うのには首をかしげてしまいます。民主党はむだな支出を削ることができなかったからです。増税をやめたら、むだな支出はそのままで税収は増えないということになってしまいます。これではもちろん財政危機が拡大するだけです。
 
なぜむだな支出が削れないかというと、政権は代わっても官僚主導はそのままだからです。ですから、また自民党政権に戻っても、もちろん同じことです。ということで、今は「大阪維新の会」に期待するしかないという人が多くなっていますが、「大阪維新の会」が自民党や民主党よりもうまくやれるという保証はありません。
 
それにしても、「民主党に裏切られた」という声がけっこうあります。「裏切り」という道徳的評価を含む言葉を使うと、そこで思考停止になってしまいますから、政治はいつまでたってもよくなりません。
私は「家庭に道徳を持ち込むな」ということを主張していますが、実は政治の世界にも道徳を持ち込むのはよくありません。道徳は批判や破壊に役立ちますが、建設的なことには役立ちません。
 
たとえば今、多くの人が「なでしこジャパン」はロンドンオリンピックで金メダルを取ってくれるのではないかと期待しています。もし取れなかった場合、たぶんいないとは思いますが、「なでしこジャパンに裏切られた」と考える人が出てくるかもしれません。そういう人は、もっぱら裏切られた怒りや不満をぶちまけます。
本当ならそのとき、「なでしこジャパン」はなぜ負けたのか、なにが足りなかったのか、どうすればそれを克服して次に金メダルを取ることができるかということを考えなければならないのですが、「裏切られた」と考える人は、そういう思考ができません。
 
政治の世界で、「民主党に裏切られた」と考える人も同じです。民主党に対する怒りや不満をぶちまけるだけで、次にどうすればいいかということが出てきません。
 
考えてみれば、革新勢力は長年、「政府自民党はけしからん」といって非難してきましたが、怒りや不満をぶちまけるだけで、なぜ自民党政権は続いているのか、どうすれば政権交代ができるのかというふうに思考することができませんでした。
政権交代があった今もその惰性が続いているようです。政権を非難するだけで、どうすればいいかという思考ができません。
 
こういう状態に陥っているのは、マスコミに大いに責任があると思います。マスコミは官僚主導の実態を覆い隠しているからです。問題は官僚の側にあるのです。
 
ロデオ大会で、自民党の乗り手が何人も荒馬に振り落とされました。そして、次に民主党の乗り手が荒馬に乗りましたが、もうすでに2人振り落とされ、今は3人目になっています。観客は、乗り手がへたくそだと言って非難したり笑ったりしています。しかし、考えてみると、次の乗り手がいません。大阪に若い、勢いのあるやつがいるから、そいつを引っ張ってこようかという話になっていますが、なんの実績もないので、あやうい話です。
こうなると、乗り手をなんとかするのではなく、馬をなんとかすることを考えなければなりません。当たり前のことです。
どうしてこの馬はこんなになってしまったのか、どうすれば乗りこなせるのか、馬の弱点はどこかなどを研究しなければなりません。
もちろん観客の態度もたいせつです。今まで馬が荒い動きをしたとき、観客は翻弄される乗り手を笑ったり批判したりしてきましたが、これからは馬にブーイングを浴びせなければなりません。
 
国民が問題は乗り手ではなく馬にあるのだと気づかないと、これからも外国から「回転ドア」と嘲笑されるような首相の交代劇が続いていくことになります。

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