村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2012年07月

ロンドン・オリンピックが始まりました。私は夜型の生活をしているので、テレビで見るには好都合です。といっても、積極的に見るのはサッカーぐらいです。サッカーの試合はおもしろいですが、柔道や重量挙げなどはもともと興味がないので、テレビをつけて、“ながら視聴”をしているだけです。
 
私の場合、東京オリンピックが中学2年生のときにありました。そのときは私も世間とまったく同じに盛り上がっていましたが、終わったあとは、こんな国を挙げてのお祭り騒ぎは一回経験すれば十分だと思いました。
ですから、大阪万博のときはまったく白けていましたし、その後、花博やらなんやらの万博のときも同じです。札幌と長野の冬季オリンピックのときは、なんか遠くでやってるなというような感じでした。
 
ですから、石原都知事がやっている東京へのオリンピック招致など、私にとってはとんでもない話です。大金をかけて、ただ国を騒がしくするだけではないかという気分です。
今のところオリンピック招致はほとんど盛り上がっていませんから、私と似たような思いの人も多いのではないでしょうか。
ちなみに2020年にはトルコのイスタンブールも立候補しています。どう考えても、東京よりはイスタンブールのほうがいいのではないでしょうか。こういう新興国でのオリンピック開催は、かつての東京オリンピックと同じで、国民の自信にもなりますし、国際社会にとってもトルコについて認識を深めるきっかけになります。
 
オリンピックといえば、「平和の祭典」と称されますが、天邪鬼な私は、なんでこれが「平和の祭典」なんだよと思っていました。
オリンピックがほかの国際スポーツ大会と違って特別に盛り上がるのは、メダル獲得選手の国籍に応じて国旗掲揚と国歌演奏があり、国ごとにメダル獲得数を競うという形式のせいではないかと思われます。つまり必然的にナショナリスティックな感情がかき立てられるのです。ですから私は、これは「平和の祭典」ではなく「擬似戦争」か「戦争の代用品」とでも言うべきではないかと思っていたのです。
しかし、よく考えてみると、オリンピックは戦争と違って人は死にませんし、家が焼かれたり、難民が出たりすることもありません。この違いは決定的に大きいといえます。
人がはオリンピックに熱狂することで戦争願望()を満たし、戦争の起こる可能性が低くなるなら、「平和の祭典」という言い方もありかなと思えます。
 
サバイバル・ゲームというのがありますが、あれを表面的に見ると戦争そのものです。しかし、サバイバル・ゲームでは絶対に人が死んだり傷ついたりすることはありません。それにゲーム参加者は自分の意志で楽しみのために参加しているので、この点でも戦争と決定的に違います。ですから、サバイバル・ゲームに目くじら立てたりするのは愚かなことです。オリンピックにならって「平和の遊戯」と呼んでもいいかもしれません。
 
 
このところ世の中は、イジメだ自殺だと騒いでいて、私もブログでもっぱらそのことを書いてきましたが、オリンピックが始まったことで変わるかもしれません。
 
1989年、連続幼女誘拐事件の容疑者として宮崎勤が逮捕され、8月10日に供述通りに遺体が発見されたことから世の中は大騒ぎになり、マスコミは連日その事件の報道に埋め尽くされた感がありました。私はこの報道の嵐は当分は沈静化しないだろうと思って見ていましたが、意外と早く沈静化しました。
その理由は、認識している人は少ないかもしれませんが、8月26日、礼宮さまと川嶋紀子さまの婚約内定が報道されたからです。当然、そのおめでたい報道が連日行われ、そうすると連続幼女誘拐事件の報道が目に見えてへってしまったのです。
皇室の婚約と、市井の猟奇犯罪事件とはなんの関係もなく、それぞれ別に報道するべきことですが、受け止めるほうはそうはいきません。こちらでおめでたい気持ちになって、あちらで猟奇犯罪はけしからんという気持ちになってと、素早く切り替えられるものではないのです。
 
今回も、オリンピックが始まり、連日日本人選手の活躍が報道され、人々が選手を賞賛したり、激励したりする気持ちになると、イジメはけしからんという気持ちとの両立が困難になります。たとえば、テレビのワイドショーで日本人選手の活躍を伝えたあと、「さて、大津市のイジメ事件ですが、またまたこんなひどい実態が明らかになりました」と続けられても、視聴者はなかなかついていけません。
 
ですから、イジメ事件の報道はこれから沈静化すると私は予想しています。
 
もっとも、イジメについて考えるのは大いに意義のあることだと感じています。
多くのおとなは、イジメを子どもの世界のことととらえています。つまり、イジメる子どもが悪いから、その子どもを罰すればよいという認識です。おとなについては、せいぜい教委や学校の隠蔽体質を批判するぐらいです。
しかし、私の認識としては、社会や学校や家庭のあり方が悪いから子どもの世界にイジメが発生するのです。そういう認識から書くべきことはこれからもありそうです。

イジメというのは、当たり前のことですが、強い者が弱い者をイジメることです。弱い者が強い者をイジメることは不可能です。下請けイジメはありますが、元請けイジメや親会社イジメはありません。
 
強い者が弱い者をイジメるのは、どこの世界にもあることです。大津市の事件に関連して、自分もイジメられたことがあると語る人が有名人にも一般人にも実にたくさんいます。いかに学校内でのイジメが広範囲に行われていたかがわかります。
 
会社でも上司が部下をイジメるのは当たり前のことです。“パワハラ”という言葉が出てきたのはごく最近のことです。上司が部下をイジメるのは一般に“鍛える”といいます。
 
学校の運動部や相撲部屋などでのイジメは“シゴキ”や“かわいがり”といいます。
 
兵士の訓練はイジメなしにはありえません。旧日本軍の兵営でのイジメはすさまじく、おかげで日本軍は兵卒レベルではきわめて優秀といわれました。ロシア軍のイジメも相当なもののようですし、アメリカ軍でのイジメは映画「フルメタル・ジャケット」でリアルに描かれています。
 
学校で教師が生徒をイジメるのは“体罰”といいます。最近、体罰ができなくなったために教師が指導しにくくなったなどといいますが、実際はまだまだ体罰は行われています。
 
家庭で親が子をイジメることは“しつけ”と言います。子どもを殺したりケガさせた場合だけ“虐待”と言われますが、子どもが死んでも親は「しつけのためにやった」と言って罪の意識がないのが普通です。
 
つまりイジメというのは体制の秩序の一部であって、実際は普通に容認されているのです。学校で教師がイジメに気づかないというのも、イジメは秩序を乱すものではないからです。むしろイジメられっ子が逆らったりすると、それは“事件”になります。
 
イジメはむしろ必要なものという認識すらあります。人は多少のイジメを経験することで精神的に強くなり、一人前になれるというわけです。
ですから、子どもが親に学校でイジメられていると相談しても、親は助けないことがよいことだと思っている場合もあると思われます。
 
 
今回、大津市のイジメ事件が世間の注目を集めているのは、「自殺の練習」というショッキングな報道が引き金となり、それからイジメの隠蔽が次々と明らかになるという展開が人々を引きつけたからです。
この事件で騒いでいる人々はイジメをなくそうとしている人々かというと、疑問があります。むしろ「バスに乗り遅れるな」ではありませんが、自分もイジメの側に加わろうとしている人々かもしれません。
つまり“イジメの連鎖”です。
世の中にはイジメられてきた人がいっぱいいます。そういう人の中には、機会があればやり返してやりたいと思う人がいても不思議ではありません。
大津市教委や学校や教師や加害少年やその保護者にはたいした権力はありません。集団の力によって大津市教委や学校や教師や加害少年やその保護者を批判する側のほうが明らかに強者でしょう。つまり集団で弱い者をイジメているという構図です。
また、今回の事件に関して日教組を批判する人はいますが、文部科学省を批判する人はほとんどいません。これは文部科学省がいまだに権威だからでしょう。
 
ただ、大津市教委と学校側はイジメを隠蔽したという点で批判されてもしかたがありませんが、便乗して弱い者をイジメようとする人もいます。
たとえば、片山さつき議員は自身のブログに、「少年法、この件をもって廃止しろとまでは言いませんが、前回の改正だけでは抑止力にはなっていないのではないか、と言う点から再検討が必要ではないでしょうか」と書いています。
 
少年法の前回の改正というのは、少年犯罪は増加して凶悪化しているというマスコミのミスリードの中で行われたもので、実際のところは統計的には少年犯罪は減少していたのです。そのことに対する反省もなしにまた少年への厳罰化を言うのは、まさに子どもへのイジメです。
 
また、実業家でブロガーの北村隆司氏は自身のブログで『幼児が「火」や「熱湯」に近ついたら、理屈無しに厳しく叱り、子供に物心がついたら、真っ先に「善悪」の区別を教えるのが親としての最低の義務である』と書き、「勧善懲悪」を勧めています。
 
「懲悪」というのは、「悪い子」を懲らしめろということで、まさに子どもへのイジメです。こうして親からイジメられた子どもが学校でイジメっ子になったりイジメられっ子になったりするのです。
 
ところで、学校でのイジメにはそれなりの理由がつけられます。たとえば、あいつは汚い、臭い、トロい、バカだ、変わっている、といったことです。
ですから、イジメっ子にすれば、向こうが悪いからイジメられるのだということで、自分が悪いという認識はないのが普通です。
今、イジメ事件に関していろいろなものを批判している人たちも同じでしょう。
 
しかし、イジメというのは誰かを批判して解決できることではありません。
批判はむしろ“イジメの連鎖”によって生じているのです。
イジメを解決するには、批判ではなく、愛情、温情、寛容が必要です。
これはイジメとはベクトルが180度違うので、心の切り替えが必要です。

タレントの関根勤さんは家庭をたいせつにすることで有名ですが、娘さんが小さいときに考えたそうです。この子もいずれ学校に行き、世の中に出て、人にイジメられたりとか、さまざまな不幸な目にあうかもしれない。それに対して親としてなにができるかというと、今のうちにいっぱい幸せな思いを味わわせることしかないのではないか。つまり、将来、不幸なことがいっぱいあっても、天秤がバランスを失ってひっくり返らないように、今のうちにこちら側に幸福の分銅をいっぱい積んでおくことだと思って、娘さんが小さいうちは必ず遊び相手になって、楽しい思いをいっぱいさせるようにしたというのです。
幸福と不幸の天秤という考え方がおもしろくて、印象に残っています。
ちなみにその娘さんというのは関根麻里さんのことです。
 
関根さんの家のようなところに生まれると子どもは幸せですが、世の中に関根さんの家のようなところは少数でしょう。
子どもにとっては、生まれる家()を選べないのがつらいところですが、生まれた家によって、子どもの人生は決定的に左右されます。
 
わかりやすいのは、裕福な家に生まれるとの、貧乏な家に生まれるのとの違いです。貧乏な家に生まれると、頭がよくても上の学校に行けず、人生の選択肢が限られてしまいます。貧乏な家というのは社会の下層ということですから、下層のままの人生になってしまう可能性が大です。
 
また、サラリーマン家庭に生まれると、その子どももサラリーマンになる可能性が大です。なかなか自分で商売をするという発想が出てきません。
商店など自営業の家庭に生まれた人は、自分も商売をするという発想が自然に出てくると思います。
たとえばワタミ会長の渡辺美樹氏、焼肉牛角などのレインズインターナショナル社長の西山知義氏は、どちらも一代で大きな事業を築いた方ですが、どちらも幼少時、父親がかなり大きな事業をしていて、それが倒産するという体験をしています。
ちなみに私はサラリーマン家庭の生まれで、自分で商売をしようと思ったことは一度もありません。
 
 
それから、最初に言ったように、愛情の多い家庭に生まれるのと、愛情の少ない家庭に生まれるのとの違いがありますが、愛情というのは目に見えないので、これは意外と認識されていないようです。
 
愛情の少ない家庭に生まれるというのは、たとえば生まれてすぐ親と死別して、親戚の家をたらい回しにされたとか、養護施設で育ったとかです(養護施設にも愛情を持って子どもに接する人はいますが)
それから、父親がアルコール依存症で、母親や子どもに暴力を振るうとかも、愛情の少ない家庭の典型でしょう。
こういうのは認識されやすいほうですが、普通に見える家庭でも愛情の少ないことがよくあります。
 
たとえば、親が一流大学の出で、子どもに一流大学に入るように強いるということがよくあります。子どもの将来の幸せのためだというわけですが、これは関根勤さんの考えとちょうど反対になっています。つまり、今は勉強ばかりで不幸でも、将来の幸せで天秤は釣り合うというわけです。
しかし、一流大学に入れば幸せになるとは限りませんし、いくら勉強しても一流大学に入れない場合もあります。
こういう親はたいてい、学歴差別意識がひじょうに強く、子どもの成績が悪くなり一流大学に入れそうもないとなると、それだけで愛情を失ってしまったりしますが、こういうのはもともと子どもを丸ごと愛していないのです。また、自分の見栄のために子どもを一流大学に入れたいという親もいます。
 
子どもがほしがるものはなんでも買い与え、小遣いも十分に渡しているという家庭もあります。こういう親はお金が子どもへの愛情の証だと思っているのですが、そうとは限りません。
貧乏な家庭で、母親が節約に努めてやっと子どもがほしがっていたオモチャを買ってやるというとき、それはわずかな金額であっても愛情の証になります。しかし、豊かな家庭で、子どもの面倒を見る代わりにお金を渡しているというとき、そのお金は逆に愛情がない証になります。
 
このように愛情というのはわかりにくく、暴力を振るっても「愛のムチ」だという親もいます。
 
 
ここで大津市イジメ事件のことに話をつなげますが、子どもが家庭の外でどんな不幸な目にあっても、家庭内で幸福の分銅を積んでおけば、天秤がひっくり返るわけがないと私は思っているので、自殺者の家庭はどうだったのかということを問題にしてきました。
たとえば、自殺者遺族の父親はきわめて活発に活動しておられますが、母親の姿はまったく見えないのが気になるところです。また、子どもが生きていたころ、親と子がこんなに仲良くしていたという報道がまったくないですし、父親の口からも語られたことがないように思います。
学校と家庭の両方で不幸の分銅を積んでいたのではないでしょうか。
 
イジメ加害少年の家庭も同じようなものでしょう。
そもそもイジメとは相手を不幸にすることですが、なぜイジメっ子は相手を不幸にするようなことをするのでしょうか。
それは、自分が人から不幸にされているからでしょう。
誰から不幸にされているかというと、まず間違いなく親からでしょう。
つまり、家庭でイジメられているので、学校でもイジメてしまうのです。
イジメ加害少年の家庭も表面的には普通の家庭であるようですが、やはり不幸の分銅を積んでいたのでしょう。
 
現在、加害少年の親も週刊誌などで批判されていますが、親と子をいっしょに批判しているだけで、親のなにが悪くて子どもをイジメに走らせたのかという観点からの批判はないのではないでしょうか。
 
もっぱら大津市の教委や学校や加害少年を批判する現在のやり方は、たとえば大津市の教育長が辞任すればそれで終わってしまいます。これでは学校の問題も家庭の問題も解決されず、なんのための批判だったのかわかりません。

アクセスが急増して、話に聞く「炎上」なるものが私のブログでも起こるのかと、期待半分、不安半分で見ていたら、別段何事も起こらないようです。考えてみたら、子どもが自殺したら家庭と学校の両方に原因があるはずだと、当たり前のことを主張しているだけですから、そんなことで「炎上」が起こるのもおかしな話です。
 
コメントも多数いただいていますが、ほとんどが罵倒や嫌がらせの類です。感情的に反対だが理論的に反対することができないので罵倒や嫌がらせになるわけで、やはり自分の説は正しいのだと、自信を深める糧にさせていただいています。
レスをつけたほうがいいかなと思うコメントもあるのですが、「あっちにつけてなぜこっちにつけないんだ」という不満が出るでしょうから、控えさせていただきます。
まともなコメントをしていただいている方には、この場からまとめてお礼を申し上げます。
 
「家庭」について書いたのだから、次は「学校」についての考察をうかがいたいというコメントがありましたが、それは自然な流れですから、今回は学校の問題について書くことにします。
 
 
現在、有識者などがイジメ対策についていろいろ語っていますが、私の知る範囲では、イジメの対症療法ばかりが語られていて、イジメそのものをなくす対策を語る人はいません。
イジメの対症療法の最たるものは、イジメは犯罪だから警察力で対応しろというものでしょう。
しかし、イジメで悩んでいる子どもというのは、親や教師が対応してくれないから悩んでいるわけで、誰が警察に通報するのかという問題があります。そうしたら、新聞の投書欄に、子どもが自分で110番しろと書いてあるものがありました。110番したら警察は必ず対応してくれるからというのです。
しかし、これも子どもの役に立つ助言とも思えません。確かに110番したら警察は必ず駆けつけてくれるでしょうが、そのときイジメっ子らが口裏を合わせれば、通報した子どもが逆に叱られることになります。まあ、死ぬほど思い詰めているなら、死ぬ前にやってみる価値はありますが、静かに死ぬのではなく、恥をかいてから死ぬハメになるかもしれません。
そもそも警察は、傷害罪が適用できるような事態ならいいですが、“陰湿なイジメ”なんていうのは対応しようがないと思います。今は大津市の事件が世間で騒がれているので、警察も動いてくれていますが、警察の本音としては、こっちは忙しいのだから、そんなことは学校で対応してくれというところでしょう。
警察力で対応しろと主張する有識者も、面倒なことを警察に押しつけているだけです。警察にとっても迷惑です。
 
警察力以外の対策をなぜ誰も言わないのか不思議です――などと言っていると、もっとくだらないことを言う人が出てくるかもしれません。たとえば、校内に監視カメラを備えよとか、屈強な警備員を配置しろとか。
結局、対症療法とはそういう方向に行くしかないわけです。まあ、それがいいという人もいるかもしれませんが。
 
では、イジメそのものをなくす対策とはなにかというと、これは簡単です。
学校が楽しくのびのびと学習できる場になればいいのです。
こうすれば学校が原因のイジメはなくなります(イジメの原因には家庭やその他の要素もあるので、完全になくなるとは言えませんが)
 
「イジメの構造」というエントリーでも書きましたが、子どもがストレスを強く感じるような学校ではイジメがひどくなります。たとえば、きびしい校則で縛るとか、プレッシャーをかけて勉強させるとか、わからない退屈な授業とかはイジメの原因になります。だから、その逆にすればいいのです。
 
対策としてはあまりにも簡単です。誰も言わないのが不思議です。
もっとも、今は子どもには規律を学ばせることがたいせつだとか、子どもにはがまんを覚えさせることがたいせつだとかいう考えの人がむしろ多数なので、テレビのコメンテーターなどはこういうことは言いにくいでしょう。たとえば体罰肯定論のほうが受けるのがテレビの世界です。
しかし、子どもにがまんを覚えさせることがたいせつだというのなら、イジメっ子はイジメられっ子にまさにがまんを覚えさせているわけで、イジメっ子は教育功労者として表彰しないといけません(がまんするのと、がまんさせられるのは別だということを理解していないと、こんなへんなことになります)
 
具体的なイメージとしては、たとえば尾木ママがテレビで紹介したオランダの小学校とか、私が勧める江戸時代の寺子屋方式とかがあります。これは「オランダの学校と寺子屋」というエントリーで書きました。
 
学校制度改革というと時間のかかる話ですが、今の制度でも、とりあえず子どもがのびのびと楽しくすごせるように各教師が心がければ、それだけ効果はあるはずです。
 
子どもが楽しくのびのびとしていればイジメはなくなる。当たり前の理屈です。
 
というか、それ以外の対策はないといってもいいでしょう(監視カメラや警備員が対策だというのなら別ですが)
 
 
しかし、子どもが楽しくのびのびと学習する学校というのに反対する人もたくさんいます。自分は学校でつらい思いをしてきたのに、今の子どもが楽しくのびのびするのは不当だという感情があるからです。この感情は一見理不尽ですが、感情のメカニズムとしてはむしろ自然なものだといえます。学校の運動部で、1年生のときに球拾いばかりやらされ、不当だと思っていても、自分が2年生になると、1年生に球拾いばかりやらせるようになるのと同じです。
 
今のおとなは、親や教師も含めてですが、子どもを幸せにしたいという気持ちが薄くなっています。ですから、親や教師の多くはイジメられている子がいても気づかず、気づいても面倒なので、みずから動いて解決しようとしないのです。
幼児虐待やきびしいしつけから、選挙権に年齢制限があることまで、子どもはおとなから不当に扱われています。
こういう社会のあり方を私は「子ども差別」と呼んでいます。「人種差別」や「性差別」は認識されていますが、「子ども差別」はまだほとんど認識されていません。そのためさまざまな問題が生じ、そしてその解決策がわからないという状態が生じています。イジメ問題もそのひとつというわけです。
 

このところ、大津市の中2男子生徒が自殺した事件について連続して書いていたら、どこかでリンクを張っていただいたのかアクセスが急増し、コメントもいくつもいただいています。これまでの繰り返しになる部分もありますが、今回はコメントへの返答も兼ねて書くことにします。
 
この事件について考えるとき、いちばんたいせつなのは、このような悲劇が二度と起こらないようにするにはどうすればいいかということです。このことに異論のある人はいないでしょう。
そうすると、自殺した中2男子生徒の気持ちになって考える必要があります。これが肝心なところです。しかし、私の見る限り、自殺した生徒の気持ちになって考えている人はほとんどいません。
 
自殺した生徒の親の気持ちを持ち出す人はいっぱいいます。しかし、当たり前ですが、自殺した生徒とその親とは別人格です。
また、自殺した生徒の親を指すのに「被害者遺族」という言葉を使う人もいますが、これは不適切です。正しくは「自殺者遺族」です。「被害者遺族」という言葉は「犯罪被害者遺族」を連想させます。「犯罪被害者遺族」はイノセンスですが、「自殺者遺族」は親族を自殺させた罪を問われる被告の立場ですから、まったく違います。
 
さて、生徒はなぜ自殺したのかというと、イジメがひとつの原因だったことは明らかでしょう。しかし、原因はそれひとつだったとは限りません。
 
中学2年生の生活を考えてみると、家庭と学校のふたつに生活の場があります。自殺した場合、その両方に自殺の原因を探らねばなりません。
学校でひどいイジメにあっていたとしても、家庭生活が楽しいものであれば、死ぬとは思えません。
いや、そもそもまともな家庭であれば、子どもが死ぬほど思い詰めていれば、親は気づくはずですし、なんらかの手を打つはずです。
しかし、報道によると、この親は子どもが自殺するまでイジメに気づいていなかったようなのです。
いったいどんな家庭環境だったのか知りたくなりますが、マスコミの報道は学校のイジメのことばかりなので、これでは自殺の原因の解明はできないと私は主張しているわけです。
 
とはいえ、少しは家庭環境についての報道もあります。
 
大津いじめ、自殺2日前「登校イヤ」家族に相談(読売新聞)
大津自殺少年 祖父母から金盗み「悪い友と交際ない」と手紙(女性セブン)
 
このふたつについては過去のエントリーで紹介しましたが、もうひとつあったのでここに張っておきます。
 
 
蛙食べさせられた大津自殺少年 親戚宅でひどい下痢していた
滋賀県大津市で昨年10月、いじめが原因で自殺した当時中学2年生だったAくん(享年13)。Aくんは、いじめに遭っていることを一切口に出さず、家族の前ではむしろ元気に振る舞っていた。卓球部の試合があると、「今日頑張ったんやで」と得意げに家族に話していたという。
 
 昨年の夏休みが終わったころから、突然、Aくんは仲良しグループの生徒たちからいじめられるようになり、やがて金銭も要求されるようになっていったという。初めは、自分の口座からお金を引き出し、いじめた生徒たちに渡していた。次第にAくんの口座も底がつき、今度は、祖父母の家からお金を盗んで渡していたという。
 
 しかし、思い返せば、いじめの被害に遭っていた痕跡はお金以外にもあったという。
 
「“蜂を食べさせられていた”とアンケートにあったそうですが、実際にはカエルまで食べさせられていたみたいです。あるとき、親戚の家に遊びに行ったとき、もうすごい下痢をしたみたいで…。きっと変なものを食べさせられたから、お腹を壊したんでしょうね…」(Aくん一家の知人)
 
 さらに、この知人が言葉を詰まらせながら続ける。
 
「メガネのフレームが壊れていたときがあったそうです。“メガネ、どうしたん?”って聞いても、“ちょっとコケただけや”って答えるだけだったらしくて…。周りに心配かけまいとしたんでしょうね。本当に優しい子でした」
 
 家族や友達にも相談できぬまま、徐々に生きる希望を失い、“死”を真剣に覚悟するようになっていったAくん。祖母に一度だけ、理由もいわずに本音をさらけ出したことがあったという。
 
「鼻水を垂らしながら、おばあちゃんにしがみついて、“おばあちゃん、ボクなぁ、死にたいねん…”って泣きついたそうです」(前出・知人)
 
 その数日後、Aくんは自ら命を絶った。
 
「遺体は傷もなくて、きれいだったと聞いてます…。本当に安らかな顔をしていて、ようやく苦しみから抜け出して、ほっとしたような表情だったそうです。お父さんは冷静さは保っていますが、やっぱりショックでショックで仕方ないんです。“あのとき、こうしておけば…気づいてあげていれば…”なんてことを何度も何度もこぼしてましたよ」(前出・知人)
 
※女性セブン2012726日号
 
 
おばあちゃんにはしがみついて「死にたいねん」と本音を言えたのに、両親には最後まで本音を言えなかったのはなぜでしょう。
「今日頑張ったんやで」とは言えるが、「今日あかんかったわ」と言えない家庭だったのでしょうか。だとすると、「学校でイジメられてるんや」と言えなかったのもわかりますが。
 
よく、親に心配をかけたくないのでイジメのことを話さなかったのだという人がいますが、親に心配をかけたくない子どもが、親に子どもを喪う悲しみを味わわせるというのは矛盾しています。
 
子どもが学校でイジメられていることを親に話さないことはよくありますが、それはどちらかというと親のあり方に原因があると思います。たいていの親は「学校でよくやっている子」は好きですが、「学校でイジメられている子」は好きではありません。子どもは本当のことを言うと親から嫌われるのではないかと恐れて、あるいは家庭の雰囲気が悪くなることを恐れて、本当のことが言えないのです(ですから、親はなにがあっても子どもを愛するというメッセージを発していなければなりません)
 
それにしても、親が不機嫌になっても、家庭の雰囲気が悪くなっても、死ぬよりはましだと思って、ほとんどの子は自殺する前に親に救いを求めると思います。親になにも言わずに自殺するというのは、よほど親子関係に問題があるのだと思います。
 
この記事によれば、父親は「“あのとき、こうしておけば…気づいてあげていれば…”なんてことを何度も何度もこぼしてましたよ」ということですが、このへんのことを具体的に語ってもらいたいものです。世の中には子どもがイジメられているのに気づかない親がいっぱいいると思われますが、そういう親に参考になりますし、イジメられている子を救うことにもなります。
 
しかし、父親は損害賠償を求めて加害少年と保護者と市を訴えている立場です。学校がイジメに気づかなかったのは過失責任だと主張しているのですから、自分もイジメに気づかなかったと言うと、過失相殺されてしまうので、弁護士から止められているのかもしれません。
 
この裁判は、自殺した少年からすれば、加害少年や学校や教委と自分の両親とが互いに相手に責任をなすりつけ合っている裁判です。
天国の少年は、双方が反省してくれることを望んでいるに違いありません。
 
 
 
学校や教委はイジメを隠蔽しようとしてきましたが、マスコミは家庭の問題を隠蔽しようとしています。それは、マスコミの人も問題のある家庭を持っていて、それから目をそらしていたいからではないかと私は思っています。
 
私がこうして家庭の問題を追及していると、加害少年や学校や教委の味方をしているのではないかと誤解されるおそれがあり、それが少々つらいところです。
 
しかし、私は加害少年や学校や教委を非難している人たちに同調する気はまったくありません。
現在の教育界には大きな問題があり、大津市の学校や教委の問題は、いわば氷山の一角です。氷山の一角だけ集中攻撃している人たちに、教育界全体を改革しようという気持ちがあるとは思えません。
むしろ、目立つものを集団で攻撃するというのは、イジメの構造そのものです。
 
 
 
大津市中2男子生徒自殺事件についてこれまで書いたエントリーを紹介しておきます。私は最初から一貫したことを主張しているので、今回書いたことと重複している部分もかなりあります(「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめたので、そこから入れば効率的に読めます)。
 
「イジメ自殺事件の根本問題」
「自殺した子どものために」
「異常な学校と異常な家庭」
「家族関係からの逃走」
「他罰的傾向の父親?」
「イジメの構造」

イジメについての議論が盛んです。
朝日新聞は連日、朝刊一面で「いじめられている君へ」と題して、有名人の自身のイジメられた体験などを織り込んだ助言を掲載しています。こんな人も子ども時代はイジメられていたのかというおもしろさがあり(ボクシングの内藤大助さん、経済評論家の森永卓郎さん、モデルの押切もえさんなど)、イジメられていても人生の成功者になれることを教える効果もあるかもしれません。
しかし、中学生までの子どもというのは自己決定権がほとんどないので、子どもに助言するのは筋違いのきらいがあります。
 
たとえば、学校に行かないというのは手っ取り早いイジメ回避策ですが、子どもが学校に行きたくないと言うと、おそらく9割の親は反対するでしょう。で、親に反対されると、子どもは学校に行かないわけにいきません。
親が反対するのは、憲法に義務教育の規定があるからでもあります。しかし、親が子どもの意志を尊重しないというのはよくありません。私は憲法改正をして義務教育を廃止するべきだとかねてから主張しています。
 
義務教育というのは、子どもに学校に行く義務があるのではなく、親に子どもを学校に行かせる義務があるということです。憲法の条文を示しておきます。
 
日本国憲法第26条2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 
 
親子関係というのは人間関係の基本であり、また国家のもっとも基礎をなす部分です。そこに外部から義務規定を持ち込むというのは根本的に間違っています。
義務教育規定があるために、学校にイジメがあっても、体罰をする教師や無能な教師がいても、親は子どもを学校に行かせなければならないので、逆に学校の堕落を招いてしまいます。
日本国憲法は、帝国憲法にあった兵役の義務を廃止したのですから、同時に教育の義務も廃止すればよかったのだと私は主張しています(代わりに子どもの学習権を規定します)
 
憲法談義はさておいて、イジメとはなにか、イジメにどう対処するべきかについて考えてみましょう。
 
「イジメは犯罪だから警察力で対応しろ」と主張する人がいます。最近そういう声が強まっています。
しかし、警察は犯罪の事後処理をするだけで、犯罪の予防はしません。また、警察が対象とするのは、当然ながらひどいイジメだけです。学校でのイジメは広範囲に存在しますから、そういうのは放置されることになります。つまり、警察力でイジメを解決することはできないのです。
 
イジメについて考えるとき、たいていの人は「イジメっ子は悪い」というふうに考えてしまいます。こういう発想ではだめです。善人、悪人で色分けするというのは、「水戸黄門」とかハリウッドのエンターテインメント映画の発想です。現実はそんなに単純なものではありません。今では、単純に善人と悪人に色分けされたような小説は、エンターテインメント小説としても底が浅いとして売れません。
 
善人、悪人というような道徳的発想をすべて頭の中から追い出すと、現実が正しく見えてきます。
もっとも、この現実は複雑系です。無数の要素の相互作用によって決定されるので、すべてを把握するということはできません。
今回は、とりあえず私にわかる部分だけ書いておきます。
 
学校内のイジメは、当然ながら学校という環境が大きな原因になります。子どもがストレスを強く感じるような学校は当然イジメもひどくなります。
動物園の檻が狭いと動物同士のイジメが発生しやすいのと同じです。
 
同じ学校の中でも、子どもの資質や家庭環境によって、イジメっ子とイジメられっ子が発生します。
イジメっ子というのは、誰でも見境なくイジメるのではなく、イジメる対象を選びます。ですから、イジメられやすい要素を持った子がイジメられっ子になります。
こういうことを言うと、「イジメられる子が悪いということか」と怒る人がいますが、そういう発想はやめてくださいとお断りしています。
 
イジメられっ子というのは、たとえば気が弱くて、あまり友だちがいなくて、成績がよくなかったり(ときには成績がよかったり)、家が貧乏だったり、日本の文化になじんでいなかったりという要素を持った子どもです。
 
イジメっ子というのは、活動的で、攻撃的で、仲間がいる(イジメというのはたいてい集団で行われるので)というタイプです。
 
イジメっ子とイジメられっ子が出会ったときにイジメが発生します。
 
ですから、イジメられっ子は学校を変わることでとりあえずイジメを回避することはできますが、イジメられやすい要素はそのままですから、新しい学校でもほかの子よりもイジメられる可能性は高くなります。
 
イジメっ子というのは、たいてい家庭で強い圧力にさらされています。たとえば、成績が悪いと叱られる、物事をテキパキとしないと叱られるなどです。そういう子は、学校で成績の悪い子や動作がのろい子をイジメやすくなります。
また、家庭で暴力を振るわれている場合も、当然ほかの子に対して暴力的に振舞うことになります。
 
イジメられっ子の場合も実は同じです。家庭でいつも成績が悪いといって叱られていたり、暴力を振るわれていたりすると、学校でイジメられやすくなります(ですから、立場が変わるとイジメやすくもなります)
 
このように「イジメる・イジメられる」という関係が生じるのは、イジメられるほうがその関係を拒否しないからです。
ここがイジメを理解する上でひじょうに重要なところです。
 
普通の子なら、少しでもイジメにあうと、反撃するなり、拒否の態度を示すなりします。イジメっ子に誘われても二度とついていきません。ですから、「イジメる・イジメられる」という関係が持続することはありません。
 
しかし、イジメられっ子というのは、イジメっ子との関係をみずから断とうとしないのです。
これは、イジメっ子の暴力が怖くて関係を断てないのだと一般に思われていますが、それだけではありません。イジメられっ子はイジメっ子に心理的に依存する場合が多いのです。
 
これは、恋人間のドメスティック・バイオレンスに似ています。男から暴力を振るわれても関係を絶たない女性がいますが、それと同じようなものです。
ですから、離れたところからイジメっ子とイジメられっ子を見ていると、友だち関係のように見えることがよくあります。また、イジメっ子もこれがイジメとは思っていないこともよくあります。
 
こうした関係が生じるのは、イジメられっ子が親から十分な愛情を受けていないことが原因だと私は思っています。これは最近、「愛着障害」という言葉で説明されるようになりましたが、これを話すと長くなるので、ここでは省略します。
 
つまり、イジメというのは、学校環境、家庭環境、個人の資質から発生するもので、とりあえずの対策としては、イジメっ子とイジメられっ子を分離することや監視することが有効ですが、根本的には学校環境と家庭環境を改善しなければなりません。
とはいえ、社会環境がまともでないのに、学校環境と家庭環境だけよくするということは事実上不可能で、根本的解決には長い時間がかかります。
 
しかし、家庭で子どもに十分な愛情を注いでいれば、子どもはイジメっ子にもイジメられっ子にもならないものだと私は思っています。
 
それにしても、テレビのコメンテーターなどは、イジメ加害者は少年院送りにしろなどという愚論しか言えない人がほとんどです。こういう人たちの家庭は大丈夫かと心配になります。

大津市の中2男子生徒が自殺し、自殺はイジメが原因であるとして遺族が同級生3人とその保護者と市を相手どって損害賠償を求めた訴訟の第2回口頭弁論が17日、大津地裁でありました。市側はイジメと自殺の因果関係を認め、事実上和解を申し入れたということですが、3人の同級生側はイジメそのものを否定して争うようです。
 
それにしても、この事件の報道がへんです。「イジメ自殺事件」という表現を使っているところがありますが、「イジメによって自殺した」というのは確定した事実ではなく、争点になっていることなのですから、この表現を使うのは問題でしょう。
また、イジメに関してはアンケートに基づく報道が多いのですが、アンケートの内容は伝聞に基づくものが多く、そのままには信用できません。報道も、最初のうちは伝聞と断りを入れていましたが、そのうち伝聞か否かを明らかにすることなく「生徒の話」「関係者の話」を事実であるかのように報道するものがふえてきました。
つまり圧倒的に「ひどいイジメがあった」というイメージがつくられ、それによって事件の本質が隠されてしまっているのです。
 
「事件の本質」とはなにかというと、「子どもの自殺についてもっとも責任を負うべきは自殺した子どもの親である」ということです。
 
この当たり前のことを主張する人がまったくといっていいほど見当たりません。そこで、せめて私がということで、連続してこの事件を取り上げています。
 
私はなにもイジメはなかったとか、イジメと自殺の因果関係がないとか主張しているのではありません。
イジメはあったでしょう。加害生徒の認識としてはただふざけているだけだったかもしれませんが、加害者側の認識は往々にして間違っているものです。
イジメがあった以上、イジメと自殺の因果関係も当然あったと思われます。
 
ただ、それらのことを認めても、自殺した子の親の責任はなくなるものではありません。むしろ親の責任はイジメの加害者側の責任よりも大きいと思われます。
 
この親は、子どもが自殺するまで子どもがイジメにあっているという認識がなかったようです。これがまったく不思議です。イジメられているという認識がなかったとすれば、子どもの様子を見て、どんな認識を持っていたのでしょうか。
 
また、男子生徒は自殺する2日前に家族に「登校したくない」と訴えていたということです。
 
大津いじめ、自殺2日前「登校イヤ」家族に相談
読売新聞 714()914分配信
 
 大津市で昨年10月11日、市立中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを苦に自殺したとされる問題で、男子生徒が自殺する2日前、加害者とされる同級生3人に会うのを恐れ、「登校したくない」と家族に相談していたことが、関係者の証言でわかった。
  滋賀県警もこの証言を把握、男子生徒が同級生らと顔を合わせる学校に行くのを嫌がり、最終的に死を選んだとの見方を強めている。
  関係者によると、男子生徒が自殺する2日前の同9日の日曜に家族と量販店に出かけた際、同級生らと出会わないか不安げに辺りを見回し、家族に「どういう風にしたら(ずる休みと)わからないように学校を休めるだろうか」と相談したという。
  男子生徒が自宅マンション(14階建て)から飛び降りたのは、祝日の「体育の日」を含む3連休が終わり、4日ぶりの登校となる11日の火曜の午前8時頃だった。
 
 
この報道では、男子生徒が「登校したくない」と言ったことに対して、家族がどう答えたかは書いてありません。しかし、結果的に自殺したことから、子どもの訴えを否定したのでしょう。
 
また、父親は子どもを頭ごなしに怒ったという報道もありました(異常な家庭と異常な学校」というエントリーを参照)
 
父親は17日の口頭弁論のあと、弁護士を通して談話を発表しました。全文を報道したものは見当たりませんでしたが、報道されたものを読む限りでは、自身の反省の言葉はありませんでした。逆に「もしかしたら息子は学校に見殺しにされたのではないか、との気がしてならない」という下りがありましたが、子どもにしてみれば、学校と親の両方から見殺しにされたわけです。
 
私が想像するに、この父親はきわめて他罰的な傾向を持った人なのでしょう。子どもがなにか問題をかかえている様子を示すと、もっぱら子どもを責めたのだと思われます。子どもを頭ごなしに怒ったという報道もあります。そのため子どもも親に相談することができなかったのでしょう。
 
そして、子どもが自殺したあと、学校でイジメられていたということを知ると、自分のことを棚に上げて、すべてをイジメのせいにしたのでしょう。父親は警察に3度被害届けを出しにいって、3度とも断られたということで、このことでもっぱら警察が批判されていますが、警察からしてみれば、「イジメよりも、あんたのそういう態度のせいで自殺したんだよ」という認識だったのではないかと思われます。
大津市の沢村憲次教育長は「自殺の背景には家庭内の出来事などもある」と語っており、自身と父親とのやりとりや、担任と父親とのやりとりの情報などから、父親の他罰的傾向が自殺の大きな原因であるという認識を持っていると想像されます。
 
自殺した子どもの家庭環境がどうだったか、とくに父親と子どもの関係はどうだったかについてはわずかの報道しかなく、今の段階では想像で補うしかありませんが、マスコミが公平な報道を心がければ次第に真実が明らかになるでしょう。
 
いや、マスコミの報道の前に父親みずから、なぜイジメに気づかなかったのか、なぜ子どもに謝罪文を書かせたりしたのか、また、日ごろ子どもとどのような会話をしていたのかなどを自身の口から語る必要があります。
 
ところで、私は沢村教育長や3人の加害生徒と保護者を支持しているわけではまったくありません。
自殺した子どもの父親と、市や加害生徒と保護者らは、互いにみずからの非を棚に上げて相手が悪いと主張して、みにくい争いをしているだけです。
こうしたみにくい人たちの真っ只中で男子生徒は自殺したのです。

最近ネットを騒がした話題といえば、河本準一さんの母親についての扶養義務違反問題と、大津市の中学校でのイジメ事件ですが、このふたつには共通点があります。
それは、どちらも親子関係に問題のある可能性があるのに、誰もがそのことをスルーしているという点です。
 
河本準一さんが母親に十分な仕送りをしていないというと、親子関係に問題があるのではないかと思うのが普通の発想です。河本さんの場合は、「一人二役」という母親についての本を出したり、オカン話を得意のネタにしていたりという事情がありましたが、それだけで親子関係は良好だとは判断できません。亡くなってもいない母親のことを本に書くというのは、母親に対するアンビバレントな思いがあるからかもしれませんし、最近は母親とほとんど連絡も取っていないということです。家族関係が悪いことを公言する人はまずいませんから、外からはなかなか判断がつきません。
 
実際のところはわかりませんが、もし親子関係がよくないなら、扶養義務違反ということが成り立たなくなり、全部の主張が無意味になってしまいます。しかし、誰もが親子関係は良好だという前提に立って主張しているのが、なんとも奇妙なところです。
 
 
大津市の中2男子生徒が自殺して、イジメが原因ではないかと騒がれている事件も同じです。中学生が自殺したら、その家庭はどうだったのかということを誰でも真っ先に考えるはずです。
もっとも、この場合は自殺した子は学校でイジメを受けていたということで、それも自殺の一因と考えられます。
もちろんあくまで「一因」です。いくら学校でイジメを受けていても、家庭での生活が楽しければ死ぬはずはないからです。
 
ところが、今のところ報道や世の中の反応を見ると、自殺の原因はイジメがすべてであるかのようになっています。
なぜそんなことになるのかと考えてみると、ひとつには犯罪被害者遺族との混同があると思われます。
たとえば通り魔事件などで人が死ぬと、その犯罪被害者遺族にはまったく罪がありませんから、遺族の心情を持ち出して犯罪を非難するということが行われます。今回も同じ図式が当てはめられて、遺族の心情を持ち出してイジメを非難するということが行われているわけです(もちろんこの事件は自殺ですから、自殺した子の遺族にまったく罪がないとはいえません)
 
それともうひとつ、自殺の原因をイジメに特化することで、家庭の問題から目をそらしたいと思う人がたくさんいることも理由だと思います。
つまり、自殺した子の家庭では、子どもがイジメられていることに気づかず、自殺するほど悩んでいることにも気づいていなかったわけですが、こうしたコミュニケーション不全の家庭はいっぱいあるに違いありません。そして、そうした家庭の親は、この問題に光が当たると都合が悪いので、半ば無意識に家庭の問題よりもイジメの問題を重視するのでしょう。
 
もちろんイジメはよくないことですし、学校や教育委員会の対応もひどいものです。しかし、子どもが自殺する家庭はもっとよくないのではないでしょうか。
イジメをなくすこともたいせつですが、親と子のコミュニケーションをよくすることのほうがもっとたいせつです。
イジメをなくすといっても、完全になくすことはできません。むしろイジメはあるという前提で、親子のコミュニケーションをよくすることに力を入れたほうがよい結果になると思われます。
 
また、子どもに十分な収入があるのにその親が生活保護を受けているというケースがあれば、扶養義務を強要して終わりにするのではなく、親子関係に問題はないのか検証し、もしあればその原因を明らかにしていくほうが国のためになります。
家族関係こそが国の基礎をなすものだからです。

子どもが自殺したら、親はどんな育て方をしていたのだろうということを誰だって真っ先に考えるはずです。ところが、そのいちばん肝心なところがすっぽりと抜け落ちたまま議論がどんどん先行しているのですから、まったく異常事態というしかありません。
自殺した子どもの家庭環境をなぜ報道しないのかと前回のエントリーで書きましたが、ようやく報道がありました。
 
 
大津自殺少年 祖父母から金盗み「悪い友と交際ない」と手紙
 
 滋賀県大津市で昨年10月、当時中学2年生だったAくん(享年13)は、14階建ての自宅マンションの最上階から飛び降りて、自ら命を絶った。その直後、Aくんの自殺について、学校が全校生徒に実施したアンケートでいじめが発覚した。
 
 しかし、大津市教育委員会は「いじめと自殺との因果関係は判断できない」と主張し、昨年11月に調査を打ち切っていた…。
 
 卓球部に所属していたAくんは、後輩の面倒見もよく、クラスでもムードメーカーだったという。祖母の作った卵焼きが大好物で、祖父母思いの優しい子でもあった。
 
「おばあちゃんは体調が悪くて、ほとんど寝たきりの生活なんですが、Aくんは、“おばあちゃん、つかまりや。男やから、強いんやで”といって、トイレにも連れて行ってあげて。服を脱いだり着たりするのまで手伝ってあげていたそうです」(Aくん一家の知人)
 
 だが、昨年の夏休みが終わったころから、突然、Aくんは仲良しグループの生徒たちからいじめられるようになり、やがて金銭も要求されるようになっていったという。初めは、自分の口座からお金を引き出し、いじめた生徒たちに渡していた。額は12万円以上にも及ぶ。
 
 それを不審に思った父親は、学校の担任教諭に2回にわたって相談した。だが、結局、その理由はわからず、Aくんを問い詰めても、「ゲームに使った」というのみだった。
 
 次第にAくんの口座も底がつき、今度は、祖父母の家からお金を盗んで渡していたという。
 
「お父さんはAくんを頭ごなしに怒ってね。“お金を何に使ったんや?”って。Aくんはただ泣くばかりだったそうですよ」(前出・知人)
 
 盗んだ理由を決して語ろうとはしない息子に対して、父親は祖父母宛てに謝罪の手紙を書かせたという。そこにはこんな文章が書かれていた。
 
<おじいちゃん、おばあちゃん、お金を盗ってごめんなさい。僕は悪い友達とは付き合っていません>
 
「もし、いじめのことを明かしたら、いじめっ子たちに何をされるかわからない、そんな恐怖もあったでしょうが、おじいちゃんおばあちゃんに心配かけたくないという思いから、そんな文面になったんでしょうね。Aくんの思いもですが、それを書かせることになってしまったお父さんの気持ちを考えると切なくて、切なくて…。いまにして思えば、お金がなくなったのは“いじめのサイン”。あの時に気づいて、もっといろいろ動いておけばと、お父さんは後悔してもしきれず、いまも自分を責めているんです」(前出・知人)
 
※女性セブン2012726日号
 
 
だいたい想像の通りです。学校でイジメられていることを父親は理解していなかったのです。逆に、お金を持ち出すのはなにか悪いことに使っているのだろうと決めつけて、子どもを責めていたというわけです。
謝罪文の中に「僕は悪い友達とは付き合っていません」とあるのが一見不可解ですが、想像するに、子どもは父親に「悪い友だちにお金をゆすられてるんだ」と本当のことを話したのに、父親は「人のせいにするな」と言って信じなかったために書かされたものでしょう。
また、『学校側は、9月に父親から男子生徒の金遣いについて2回にわたり相談を受けたが、父親が「息子には言わないでほしい」と話したため、調査しなかった』という報道がありましたが、それも納得がいきます。
それにしても、父親が子どもに隠れて担任と会っているというのは、子どもにとっては不気味なことです(そういうことは察せられるものです)
 
ともかく、子どもにとっては、学校では同級生にイジメられ、家では父親に責められるということで、どこにも救いがなく、それで自殺したのでしょう。
ですから、子どもの自殺には、学校でのイジメと、家庭内での問題と、ふたつの理由があったということになります。
 
これは当たり前の認識ですが、マスコミや世論は圧倒的に学校でのイジメだけを自殺の理由としているようです。これはあまりにも異常なことといわねばなりません。
 
この点に関しては、沢村憲次教育長は一貫してイジメ以外の自殺原因を示唆していて、ゆるぎません。自殺した少年の父親に問題があることを認識しているからでしょう。
 
 
大津いじめ自殺:因果関係断定できぬ、教育長認識変わらず
毎日新聞 20120712日 2234分(最終更新 0713日 0305分)
 
 大津市教委の沢村憲次教育長は12日、報道陣の取材に応じ、男子生徒の自殺原因について「さまざまな要因が考えられる。私どもの認識そのものは変化していない」と語った。この日午前の会見では「いじめが要因の一つ」と発言していたが、改めて真意を問われ、いじめと自殺との因果関係は断定できないとする従来の姿勢を示した。
 
 また自殺した生徒が生前、「泣きながら担任に電話をしてきた」とする在校生アンケートの回答について、「電話内容の詳細はプライバシーの問題があり言えないが、家庭内のことと聞いている」とした。
 
 警察による強制捜査については、「背景には学校内でのいじめもある」としながらも、「亡くなったお子さんが家庭内でどんな環境に置かれていたのか、家庭内で何が起きていたのかということも、背景調査で明らかになるのではないか」と述べ、自殺にはいじめ以外の要因もあるとの見方をにじませた。【千葉紀和】
 
 
もっとも、学校でのイジメも自殺理由のひとつであるはずですから、沢村教育長がその点についてほとんど謝罪する様子がないのも異常です。
 
つまり、自分の問題は棚に上げて学校ばかり追及する父親と、学校でのイジメは棚に上げてもっぱら家庭の問題を自殺理由にする教育長ら学校側と、どちらも異常であり、その異常の中で少年は自殺したのです。

大津市の中2男子生徒自殺事件についての騒ぎがますます拡大していますが、よくもまあ的外れの議論ばっかりできるものだと感心してしまいます。
誰もが肝心のことに触れようとしないのです。
これは「現代のタブー」ないしは「人類最後のタブー」というべきものでしょうか。
 
「週刊新潮」は「『いじめ自殺』加害生徒たちの家庭環境」というタイトルの記事で「母がPTA会長」「父が京大医学部卒」といったことを書いています。さすがに「週刊新潮」は読者のニーズに応えています。しかし、コンビニで立ち読みしてみましたが、私が知りたい肝心のことは1行も書いてありませんでした。
 
そもそもは中2男子生徒が自殺し、イジメが原因であるとして親がイジメたとされる同級生3人と保護者、市を相手に損害賠償を求めて提訴したことが始まりです。市側は最初、イジメはなかったとしていましたが、のちにイジメは認めたもののイジメと自殺の因果関係を否定して、争う姿勢を見せました。これに対して、イジメ隠蔽であるとして市側を批判する声が高くなり、越直美市長は「イジメがあったから亡くなったと思っている」と因果関係を認め、「和解したい」と述べました。しかし、教育長の考えは違うようで、混乱しています。
 
自殺との因果関係判断できぬ 大津市教育長主張変えず
 
 大津市で昨年10月、中学2年の男子生徒=当時(13)=が飛び降り自殺し、いじめとの関連が指摘されている問題で、越直美市長が因果関係はあるとして訴訟での和解の意向を示したことに対し、澤村憲次教育長は11日、「いじめと自殺との因果関係は判断できない」と述べ、従来の市教委の主張が変わっていないことを強調した。市と市教委の認識のずれが、あらためて浮き彫りになった。
 
■市長との認識のずれ浮き彫りに
 
 越市長の意向について、澤村教育長は「(和解の意向は)直接聞いていない」とし、「市長がそう判断したと受け止めるしかない」と繰り返した。因果関係が判断できない理由は「他にもいろんな要素が考えられる」としたが、具体的な内容は明かさなかった。
 (後略)
20120711 1600分】
 
市長と教育長の考えが食い違っているのはもちろんいけませんが、越市長の考えにはおかしなところがあります。イジメと自殺の因果関係を認めたのはいいのですが、因果関係というのは「ある・なし」みたいにデジタルなものではないのに、まるで100%認めてしまっているようだからです。
イジメと自殺の因果関係というのは、「全面的にある」と「全面的にない」を両極端として、実際には「少しある」「中程度にある」「かなりある」のようにグラデーションとして分布する中のどこかになります。これは当たり前のことですが、どのマスコミもわざとか無意識にか、このことをごまかしています。
そういう意味では、「他にもいろんな要素が考えられる」と語った澤村憲次教育長のほうが、この点については正しい認識を持っていることになります。「具体的な内容は明かさなかった」というところも意味深です。
 
当然のことですが、人間はつねに総合的に判断して行動しています。昼飯になにを食べるかということにしても、総合的に判断して決めます。自殺するときも同じです。あらゆることを考えた末、まったく希望がないと判断したときに自殺するのです。
 
この事件の場合は、中2男子生徒です。この年齢の子どもは、家庭と学校が生活の場のすべてといっても過言ではありません。家庭と学校では、睡眠時間を含めると家庭ですごす時間のほうが圧倒的に多いはずですし、家族関係の重要さもいうまでもありません。
ですから、この年齢の子どもが自殺したら、家庭環境と学校環境の両面から自殺の原因を探らなければなりません。
常識的にいって、家庭環境に問題がなければ、学校環境に問題があっても、自殺することはないと思います。というか、まともな親なら子どもの様子を見て対処しますから、自殺にまでいたらせるということはありえないと思います。
 
自殺にまでいたったということは、家庭環境もまともでなかったと推測できます。つまり、校内イジメと家庭内イジメの両方に自殺の原因があったという可能性があるのです。
 
交通事故では「過失相殺」という考え方があります。子どもの自殺の原因を校内イジメに求めた民事訴訟も、この過失相殺という考え方によって判決がくだされる必要があります。たとえば判決文は、「校内でイジメがあったのは事実だが、家族関係の問題も自殺の大きな原因となったと推測できるので、よって損害賠償額は……」というふうになるべきです(ほんとうは親が学校を訴えるというのがおかしいのです。自殺した子どもの“真の代理人”が親と学校の双方を訴えるというのが正しい訴訟のあり方です)
 
では、自殺した男子生徒の家庭環境がどうだったのかということですが、これについては、私の知る限りまったく報道がありません。テレビに祖父が出てきて(顔は見せずに)語っているのを見たぐらいです。近所の人があの親子関係はどうだったとかいう証言をすることもありません。イジメた生徒の家庭環境は「週刊新潮」などが報道しているのですから、自殺した生徒の家庭環境について報道がないのはあまりにも偏った報道です。
最低限、自殺した子どもの親は、自殺の前に子どもの態度になにか異常を感じていたか、学校でのイジメを把握していたかどうかなどを明らかにしなければならないと思います。これは同様の事件を防止するためにもぜひ必要なことです(父親は担任に会ってお金のことを相談したということですが、具体的にどんな相談をしたかも語ってほしいものです)
 
なぜこのように偏った報道になるのかというと、報道する側の多くの人も家庭に子どもがいて、なんらかの問題をかかえているからでしょう。つまり、その問題はあばきたくないのです。
 
子どもが自殺したとき、家庭と学校の両方に問題があるに違いないという当たり前の認識を、とりわけマスコミは持つ必要があります。
 
 
ところで、滋賀県警は11日夜、自殺した生徒が通っていた中学校と大津市教育委員会に家宅捜索に入ったということです。イジメやイジメ隠蔽を刑事事件として立件する可能性があります。
これは当然やるべきことです。しかし、それだけで終わらせず、自殺した生徒の家庭も対象にして、生徒が親から虐待されていたのではないかも捜査するべきです。
 
私は「自殺した子どもの“真の代理人”」という言葉を使いました。これは今のところ神のようなものと思ってもらっていいですが、将来的には公的機関として設立されるものだと思っています。ですから、今の警察も「自殺した子どもの“真の代理人”」として捜査し、真相を明らかにすることはできます。

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