村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2012年12月

シリーズ「横やり人生相談」です。今回はつきあっている女性と別れるべきかどうか悩む男性からの相談です。といっても、たいした悩みではありませんし、どう答えてもいいようなものです。むしろ問題は、この男性の思考法にあります。
 
 
彼女との交際、続けるか悩んでいます  龍  20121220 18:31
 
 32歳男 会社員、彼女 32歳 実家の会社の事務員
 
皆さんは結婚を考えられない相手と付き合いますか?付き合われていて
結婚したいと気持ちが変わった出来事はありますか?
 
私は彼女と付き合って3ヶ月になります。下記を理由に彼女との将来は考えられないので
別れることを考えています。私は結婚願望があります。苦楽を共にできる伴侶が欲しいため結婚したいと思います。しかし、今の彼女では忍耐力、精神力面で難しいと思います。付き合うだけなら私も好意がありますので問題ありません。
 
先日彼女に別れ話をしました。彼女は好きなだけでは付き合えないの?と聞いてきました。私は年齢も年齢なので好きだけでは難しいと答えました。
今、話し合いは平行線です。本当に別れるべきか悩んでいます。
 
・遅れたり、奢った際、すぐに「ゴメン」や「ごちそうさま」の挨拶が無い。
・お金は、いつもこっち負担。少しも出そうとしない。
・運動を嫌がる。お金を使い簡単に痩せる(エステ)方向に行きたがる。苦労を惜しむ。
・信念、考え、根性が無い
・表向きな処にばかりお金を使う(ネイルサロン、まゆげ)。自己成長、自己啓発の努力はしない。知ろうと言う興味を持たない。好奇心が無い。
・精神不安定?泣きやすい?健康面で不安。
・仕事は親が経営している施工事務所の事務のため、人との関わりが少なく苦労が少ない分人間的成長は乏しい。前職はアパレル関係の仕事をしていたが半年で退社。
 
拙い文章で恐縮ですが助言のほどよろしくお願いいたします。
 
これは「発言小町」という掲示板に載ったものです。この相談に対するレスは、「そんな不満ばかりの相手となぜつきあっているのか。別れて当然」というものがほとんどですが、「彼女に好意があるのはなぜか。よほど外見がいいのか」というものもありますし、「相手の欠点ばかり指摘して、自分は何様だ」というものもあります。
 
別れたければ別れればいいだけの話で、悩みというほどの悩みではありません。
とはいえ、わざわざ相談の書き込みをしたというのは、自分で自分の判断に疑問を感じているのではないかと想像されます。
確かにこの男性の考え方には大いに問題があります。こういう考え方をしていては、いつまでたってもいい相手に巡り会えないのではないかと思われます。そういう意味では深刻な悩みかもしれません。
 
恋愛や結婚でたいせつなのは「相性」です。
相性というのは、性質や性格がお互いにマッチするかということです。性質や性格に善悪はありません。たとえば休日は山や海に出かけたい人と、家の中で本やビデオを見てすごしたい人が結婚するとうまくいきません。こうしたことが相性です。
 
ところが、この男性は彼女の性質や性格を見ているのではなく、もっぱら人格の道徳的評価をしているのです。
そして、道徳的評価をすると、どうしても悪いことばかりが目立つことになります。道徳とはそもそもそういう性質のものだからです。この男性の場合は一から十まで悪い評価を並べているので、そのおかしさが際立っています。
 
「苦労を惜しむ」「信念、考え、根性が無い」という道徳的評価は一方的であり、かつ的外れでもあります。
たとえば「苦労を惜しむ」といいますが、誰でも最小の苦労で最大の効果を得ようとするもので、その意味では誰でも「苦労を惜しむ」ことになります。
また、「信念、考え、根性が無い」といいますが、信念や根性のある女性はつきあいにくい女性である可能性が大です。信念や根性がないように見えるのは、人に対してやさしい女性かもしれません。
 
「お金を使い簡単に痩せる(エステ)方向に行きたがる」「表向きな処にばかりお金を使う(ネイルサロン、まゆげ)」といいますが、これがだめならほんどの女性がだめということになってしまいます。
 
『「ゴメン」や「ごちそうさま」の挨拶が無い』というのも、如才なく心の伴わない挨拶をする女性よりもいいかもしれません。
 
このように道徳的評価をしていると、どんな女性も評価にたえず、誰とも結婚できないことになってしまうのではないかと思われます。
この男性はあまりにも道徳にとらわれすぎています。そして、そういう人間は決まって自分自身については甘い評価しかしません(そもそも道徳とは他人にきびしく自分に甘いものなのです)
 
私はむしろ、この2人が結婚したとき、女性が不幸になるのではないかと思います。男性から「苦労を惜しむ」「信念がない」「努力しない」「好奇心がない」などと毎日のように否定的な評価をされ続ければ、それだけで不幸です。
 
普通の男性は、恋愛中はあまり道徳的な評価をせず、結婚して恋愛感情が冷めてきてから道徳的評価をするようになり、そのため2人の関係が悪化するということが多いのではないかと思われます。したがって、結婚前にこうした認識を持ち出してくれたのは、女性にとってはむしろありがたいことかもしれません。
 
道徳が頭の中に入っているためかえって不幸になるということがよくあります。これはそのひとつの例でしょう。
この男性は道徳のとらわれから脱すれば、幸せな結婚生活が送れるのではないかと思われます。
 
私の考えでは、道徳というのは基本的に人を批判する道具です。ですから、政治家を批判するときとか、職場のライバルを蹴落とすときなどにはきわめて便利に使えます。
しかし、道徳を家庭の中に持ち込むと、一方的に批判したり、互いに批判し合ったりして、家庭の平和がなくなってしまいます。
自分の子どもを道徳的に評価して、子どもにダメ出しばかりして、親も子も不幸になっているケースがいっぱいあります。
 
「家庭に道徳を持ち込むな」ということを実践するだけでたいていの家庭はうまくいくと私は思っています。

自民党の安倍晋三総裁が第96代首相に選出され、第2次安倍政権が発足しました。既視感という言葉そのままに、6年前の第1次安倍政権発足時のフィルムを巻き戻して見ているようです。「歴史は2度繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」という言葉が思い出されます。
 
第1次安倍政権のとき、改憲志向が強く打ち出されていましたが、安倍氏の政権放棄とともに改憲そのものが政治日程から消えてしまいました。それが6年たって、また改憲が政治日程に上がっています。
これはなにも改憲の理念が否定されたり評価されたりしているわけではありません。国会での所信表明直後に政権を投げ出すという安倍氏の退陣があまりにも不様であったために、改憲のイメージも安倍氏とともに低下してしまい、最近また安倍氏のイメージとともに復活してきたということです。政治の世界が政策本位で動いているのではなく、人間本位で動いているということがこのことを見てもわかります。
 
ですから、今度こそ憲法9条改正が現実のものになるのではないかと怖れる人がいますが、私はあまりそういう気持ちはありません。また同じことになるのではないかと思っているからです。
 
9月の自民党総裁選で総裁に選ばれたとき安倍氏があまりにも得意満面の顔をしていたので、私は不愉快に思って、このブログで「安倍氏の反省欠如体質」という記事を書きました。ところが、安倍氏は総選挙で自民党が大勝利したとき、まったく対照的にひどく暗い顔をしていたので、私はお腹の調子が悪くなっているのではないかと推測して、「安倍氏の浮かない顔はやっぱり……」という記事を書きました。
実際のところ、そのとき安倍氏のお腹の調子がどうだったかはわかりませんが、少なくとも安倍氏は自分の気分の変動に振り回される人だということはわかります。
そして、それこそが潰瘍性大腸炎の大きな原因だといえるでしょう。
 
その安倍氏は、首班指名の前に座禅を組んでいたということで、こんなニュースがありました。
 
【スクープ最前線】安倍氏、石破氏と決意の座禅 自民は竹島、尖閣で戦略的動き
26日召集の特別国会を経て、いよいよ自民党の安倍晋三総裁(58)が第96代内閣総理大臣に就任する。2007年9月、持病の「潰瘍性大腸炎」の発症で政権を降りる苦汁をなめて以来、約5年ぶりの再登板で、自らが命名した「危機突破内閣」たる自公連立政権がスタートする。
 
 自公両党合わせて325議席。衆院の3分の2以上という絶対的多数を確保したことで、法案を参院で否決されても衆院で再可決して成立できる。閣僚人事も「副総理兼財務相・金融相」に盟友の麻生太郎元首相(72)、内閣の要である「官房長官」に最側近の菅義偉幹事長代行(64)などと挙党体制を構え、安倍氏自身、政権スタート前から石破茂幹事長(55)とともに動き回ってヤル気満々だ。
 
 だが、そのヤル気が周囲を不安にさせている。どういうことか。まず、以下の安倍氏に近い自民党幹部の話からお聞きいただきたい。
 
 「この5年間、安倍氏はリベンジだけを誓って生きてきた。今回の再登板に懸ける思いは怖いほどだ。それだけに無理を重ねて体調を崩した二の舞にならないかと、心配だ。特に、あの座禅には驚いた」
 
 実は21日夕方、安倍氏は石破氏とともに、東京・谷中にある寺院「全生庵」で約1時間、座禅を組んでいる。
 
 「全生庵」の建立者は、天下の剣豪である山岡鉄舟。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に単身で乗り込み、西郷と直談判した幕臣である。
 
 西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」とうならしめた傑人であり、鉄舟は維新に殉じた人々の菩提(ぼだい)をここ「全生庵」で弔った。自民党幹部は続ける。
 
 「本当の目的は、不仲が取り沙汰された石破氏との関係修復だった。しかし、場所が場所だけに、安倍氏がここで座禅を組んだのは、『自分はこの国難に打ち勝つ。この内閣で死んでも構わない』という、決意表明だと思えてならない」
(後略)
 
ストレスに弱い心を鍛えるために座禅を組むというのは無意味ではありません。座禅に限らず瞑想とかヨガなども、やればそれなりの効果があると思います。
 
しかし、1日だけやっても意味はありません。日常的にやって、少しずつ効果が出てくるという性質のものだからです。
1日だけ座禅をするというのは、パフォーマンスとしてはよくありますが、安倍氏はマスコミに公開はしていないので、パフォーマンスとしてやったわけではないでしょう。自分自身のためにやったのだと思います(あと、石破幹事長との関係のためということもあるでしょう)
しかし、歴史的ないわれのある場所で座禅を組むということは、自分の心を見つめるというよりも、自分を歴史上の人物になぞらえて自己満足にひたっているように思えます。
 
こういうことをしていては、いつまでたっても心を鍛えることはできません。
安倍氏は前回の失敗をあくまで潰瘍性大腸炎という病気のせいにしていて、今回の復活劇もアサコールという新薬のおかげとしています。
前回の失敗を自分の心の弱さのせいととらえていれば、失敗を経験して成長するということが期待できますが、安倍氏の考え方ではぜんぜん成長していないのではないかと思われます。
ということは、同じ失敗を繰り返す可能性が大です。
 
首相就任直後の記者会見を見ていても、表情が暗く、言葉に力がなく、ろれつが回らないようなところがありました。
 
 
ところで、日本維新の会の橋下徹氏は、石原慎太郎氏と組んだために方向性を見失い、総選挙で維新の会はそれほど議席を獲得することはできませんでした。多くの人は石原氏と組んだのがよくなかったのではないかと考えていますし、実際そうでしょう。
 
では、なぜ橋下氏は石原氏と組んだのでしょうか。
それは橋下氏の心の弱さからではないかと私は考えています。
 
大阪という地方政治の場で成功しても、国政で同じようにできるとは限りません。敵は自民党、民主党、さらには霞ヶ関全体ですから、あまりにも強大です。
それは橋下氏自身もよくわかっていて、強大な敵を前にしたとき、誰かに頼りたくなり、自分とは考え方が大きく違う石原氏に頼って失敗してしまったのです。
 
しかし、橋下氏は安倍氏と違って、経験から学んでどんどんたくましさを身につけてきた政治家です。今回は、地方政治から国政へとジャンプの幅が大きかったために石原氏に頼ってしまいましたが、次回は違う姿を見せるかもしれません。
 
マスコミや知識人は、政治の世界をどうしても政策や理念でとらえようとします。これは理性こそが人間の価値であるとするデカルト的な人間観がいまだに生きているからでしょう。
しかし、潰瘍性大腸炎というのは、理性よりも感情、上半身よりも下半身の問題です。
日本語には「胆力」とか「腹がすわっている」という言葉があり、昔から下半身の重要性が認識されています。安倍氏に足りないのは「胆力」です。そういうことがマスコミや智識人にはなにもわかっていません。
 
憲法9条改正が実現できるか否かは、ひとえに安倍氏の下半身にかかっています。

もうクリスマスになり、1年が終わろうとしています。世の中の動きは目まぐるしいものです。政治の世界では、この前までは日本維新の会が台風の目でしたが、今は安倍政権に注目が集まっています。
ということで、今日も安倍政権について書こうと思ったのですが、クリスマスにはふさわしくないと思い直して、政治の話はやめます。
 
もっとも、クリスマスといっても、昔の日本ではドンチャン騒ぎをしていました。最近のクリスマスは欧米化されて、そのため正月と変わらなくなっています。クリスマスと正月の関係については、1年前に書いた記事を参照してください。
 
「クリスマスはドンチャン騒ぎ」
 
日常の原理とクリスマスの原理はまったく違います。それはたとえば、子どもとサンタクロースの関係を考えてみればわかります。
 
小さな子どもは、サンタクロースの実在を信じています。というか、親が信じさせるようにふるまいます。そして、子どもがクリスマスのプレゼントはサンタクロースではなく親が持ってくるのだということを知り、サンタクロースの存在を信じなくなると、親は残念がります。
これは当たり前のように行われていますが、よく考えてみるとへんです。子どもが間違った認識を持っていることを喜び、正しい認識を持つようになると残念がるのですから。
 
なぜこんなことになっているかというと、ひとつには、子どもがいつまでも子どものままでいてほしいという気持ちがあるからです。それは親にとって今の親子関係が幸せで、子どもが成長していくとこの幸せは失われていくということでもあります。
そして、もうひとつは、子どもは親が教えなくても(というか、親が間違ったことを教えても)成長とともにみずから正しい認識を持つようになるだろうという子どもへの信頼があるからです。
 
つまり、子どもとの現在の幸福な関係と、いずれ子どもは自力で正しい認識を持つようになるだろうという信頼があるから、親は子どもがサンタクロースの実在を信じていることを喜ぶのです。
 
これがクリスマスの原理だとすると、日常の原理はまったく逆です。
親は子どもの言葉が遅いのではないかと心配し、おむつを早く取ろうとし、習いごとの上達が早いと喜びます。また、子どもを放っておくとテレビやインターネットや友だちなどから間違った知識を持ってしまうのではないかと心配し、正しい知識を教えなければならないと考えます。
 
なぜ日常の原理とクリスマスの原理が逆になるのかというと、要するに日常生活では親は子どもを教育・しつけしようとしているのです。このもとには、教育・しつけをしないと子どもは悪い方向にいってしまうという考えがあり、これは子どもへの不信感といえます。
しかし、クリスマスのときは伝統的な親子関係のあり方に戻り、教育・しつけということを忘れてしまい、子どもへの信頼を取り戻すのでしょう。
 
ちなみに正月のときは子どもにお年玉を上げますが、これもクリスマスの原理と同じです。最近はここに日常の原理を持ち込んで、子どもにたくさんのお年玉を渡すのは教育上よくないと主張する人がいますが、これも子どもへの不信感に基づく主張といえます(子どもを信頼していれば、年齢にふさわしくない金額をもらっても、子どもはそこからまたなにかを学ぶだろうと考えることができます)
 
子どもを教育・しつけしなければならないと考えるのは、親にとっても子どもにとっても不幸です。
クリスマスと正月をきっかけに、親子関係を見直してみるのもいいのではないでしょうか。
 
ところで、政治の話がクリスマスにふさわしくないのは、政治の世界というのは結局は戦いであり、不信感のぶつかり合いだからです。
クリスマスと正月をきっかけに、政治の世界のあり方も見直してみたいものです。
 

中国大使を退任した丹羽宇一郎氏が1221日の朝日新聞朝刊のインタビュー記事に出ていました。
丹羽氏は民主党政権による政治任用で2010年に中国大使となりましたが、石原慎太郎都知事が尖閣諸島購入を表明したことに対し、「仮に石原知事が言うようなことをやろうとすれば、日中関係は重大な危機に直面するだろう」と発言し、これに対して自民党が国益を損なうとして更迭を要求し、退任の流れがつくられました。しかし、あとになってみると、丹羽氏の発言はきわめて適切だったことがわかります。
それでも退任の流れは変わりませんでした。大使のポストは外務官僚にとっては金と名誉が伴うおいしいものであって、決して民間人に渡したくないからです。つまりこれも官僚の巻き返しです。
その丹羽氏は朝日新聞のインタビューでこう語りました。
 
「石原さんは、地方政府のトップでした。知事が国益にかかわる発言や行動をしたとき、どうして一国の首相が『君、黙りなさい。これは中央政府の仕事だ』と言えなかったのか。そういう声をたくさん聞きました。ほかの知事たちも東京と同じような行動をとろうとしたら、日本の統治体制はどうなるのか。世界の信を失いかねない深刻な事態です」
 
私はかつてこのブログで、東京都の尖閣購入計画をきっかけに日中関係がこじれてしまったことについて、「中国は中央集権の国だから地方自治についての理解が少なく、政府が東京都に一方的に命令する立場にないということを理解していないのではないか」というふうに書きました。
しかし、考えてみると、領土問題や外交問題は政府の管轄であって、地方自治体が介入してくるというのはあってはいけないことです。丹羽氏が言うように、野田首相が石原知事を叱りつけるべきです。石原知事は「政府に吠え面かかせてやる」とも発言しており、ここまで言われて、言われっぱなしというのは情けない限りです。
 
とはいえ、私も石原知事を批判したものの、石原知事の行動を止めるという発想はありませんでした。丹羽氏に指摘されて初めて気づきました。
 
人間の祖先は集団で狩りをするサルで、集団には序列があります。これはイヌやオオカミに似ています。今の人間もこうした本能的な序列意識を持っていることには違いがありません。
石原知事の尊大な態度に、ついついこちらの序列が下のような意識になってしまっていたようです。
 
そして、民主党政権の「失敗の本質」もそこにあると思います。
 
政治は権力をめぐる戦いです。どちらが序列の上に立つかという戦いでもあります。大臣は事務次官よりも上と決められていますが、そう単純なものではありません。与党対野党、政治家対マスコミなども戦っています。
イヌは上下関係をマウンティングという動作で示します。人間の場合は格闘技のマウントポジションという言葉を使ったほうがわかりやすいと思いますが、政治の世界でもどちらがマウントポジションを取るかという戦いをやっているのです。
 
鳩山由紀夫首相は普天間基地の国外県外移設を打ち出しましたが、外務・防衛官僚やマスコミなどの総反撃を受けました。鳩山首相は友愛の人ですから、まったく戦う姿勢を見せず、一方的に押し切られてしまいました。また、前原誠司国交大臣は八ツ場ダム建設中止を打ち出しましたが、これもまた総反撃を受け、あまり有効な反撃ができませんでした。
 
こうした中、戦う姿勢を見せたのは小沢一郎幹事長だけです。民主党が急遽天皇陛下と習近平国家副主席との会見を設定したことについて、羽毛田信吾宮内庁長官が記者会見して「二度とこういうことがあってはならない」と発言しましたが、小沢幹事長は「辞表を出してから言え」と反撃しました。ここで小沢幹事長が反撃しなかったら、鳩山政権はもっと早く崩壊していたでしょう。
 
とはいえ、民主党政権は官僚・野党・マスコミとの戦いで完全に遅れをとってしまいました。
たとえば、尖閣諸島で中国漁船と巡視船が衝突したとき、そのビデオを公表しないことで大バッシングを受け、そのビデオを流出させた海上保安庁職員が英雄扱いされることまで許してしまいました。
石原知事が尖閣諸島購入計画を発表したのはその流れの中にあります。尖閣問題で民主党政権を批判する者は愛国者のようなポジションになってしまったのです。そのため野田政権は正面から対決できず、横から島を購入するという姑息な手段に出ました。
 
つまり民主党政権は石原知事など反民主党勢力にマウントポジションを取られていたのです。中国からはそうしたことが見えなかったために「茶番」ととらえてしまい、日本への態度を硬化させました。
 
ちなみに反民主党勢力が民主党攻撃のもっとも有効な武器として利用したのが領土問題でした。したがって、自民党政権になれば領土問題は沈静化することでしょう。
 
ともかく、民主党は“負け犬”のイメージになってしまい、それが総選挙で大敗した最大の原因だと思います。
 
橋下徹日本維新の会共同代表などは、政治は戦いであり、国民はその勝ち負けを見ているということをよく理解しており、たとえば組合代表が橋下氏に頭を下げる場面を写真に撮らせるなど、きわめて巧みです。
 
有識者やマスコミは民主党がマニフェストを達成できなかったことを問題にしますが、まったく本質から外れています。子ども手当が十分に出せなかったのは、要するに「ない袖は振れない」ということですから、国民はそんなことは問題にしていないと思います。
 
民主党はもっと戦い方を習得するべきだというのがとりあえずの結論ですが、これはあくまでとりあえずのことです。戦い方がうまくなって得られるのは目先の利益だけで、戦いが激化することによる損失はどんどん拡大していくことになります。
国際政治であれ国内政治であれ、動物的な争いの世界を脱し、たとえば鳩山由紀夫氏のような友愛政治家が活躍できるような世の中にすることが真に目指すべき方向です。

1214日、アメリカのコネティカット州の小学校で銃の乱射事件があり、26人が死亡、犯人の男も自殺し、犯人の自宅では母親が殺されていました。
この事件を契機に、アメリカでは銃規制についての議論が高まっているということです。
 
それにしても、銃の乱射事件はどうして学校でよく起きるのでしょうか。映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」のもとになったコロンバイン高校銃乱射事件、33人が死んだバージニア工科大学銃乱射事件などが有名ですし、日本では銃ではなく刃物ですが、犯人宅間守が8人を殺害した池田小事件、17歳少年が3人を殺傷した大阪寝屋川中央小事件などが思い浮かびます。
 
これらのことを検索していると、「スクールシューティング」という言葉のあることがわかりました。学校での無差別殺人事件のことを指す言葉で、こういう言葉があるということは、この手の事件がいかに多いかということを示しています。
また、スクールシューティングはアメリカに突出して多いという特徴があります。
 
「スクールシューティング」(ウィキペディア)
 
無差別殺人事件を起こす人間というのはおそらく世の中全体に恨みを持っているのではないかと推測されますが、そうであるなら繁華街やその他の場所で無差別殺人をやってもいいわけです。学校を標的にするのはそれなりの理由があるはずです。
 
コネティカット州の小学校での事件の容疑者についてはこのような報道があります。
 
米小学校銃乱射、高校時代の容疑者は内気な優等生母親は銃収集家
 【サンディフック(米コネティカット州)】高校時代のアダム・ランザ容疑者は、やせっぽちで読書好きの優等生で、非常に内気でクラスメートとの付き合いもほとんどなく、存在感の薄い生徒だった。元クラスメートのほとんどは、米国史上最も凄惨(せいさん)な銃乱射事件の1つの容疑者として名前が浮上しても、思い出すのに一苦労だった。一部には、ランザ容疑者はニュータウン高校を中退したか、引っ越したと思われていた。
 
 だが、20歳のランザ容疑者は、ニュータウンを離れてはいなかった。銃乱射事件後に広く報道された、同容疑者を鮮明に記憶している数少ない人たちが描く同容疑者の人となりは、感情的にゆがんだ孤独な青年で、黒い洋服を時々身に着け、行動は自らのコミュニティーの狭い範囲に限られていたというものだ。
 
 ランザ容疑者は52歳の母親、ナンシーさんと暮らしていた。同容疑者は14日、自宅で母親を撃ち殺し、そのあとにサンディフック小学校に向かい、20人の子供を含む26人を殺害し、自殺したとみられている。
 
 外部からはランザ容疑者の生活は特に問題ないように見えていた。同容疑者と母親のナンシーさんは高級住宅街ベネッツファーム近くの手入れの行き届いた家に住んでいた。警察に一時容疑者と誤認されていた24歳の兄、ライアンさんは近くのクイニピアック大学に進学し、その後会計事務所アーンスト・アンド・ヤングで働くため、ニュージャージー州ホーボーケンに引っ越した。
 
ナンシーさんの友人によると、ナンシーさんは銃の収集家で、射撃にも熱心だった。地元の造園家で、ランザ家の敷地の手入れも請け負っていたダン・ホームズさんによると、ナンシーさんはとても自慢にしている収集品の1つである古い銃をホームズさんにみせてくれたことがあるという。
 
 ホームズさんは、ナンシーさんと息子たちは「よく連れだって的撃ちに出掛けていた」と語った。
 
 ナンシーさんを知ると話す地元の作家で音楽家のジム・レフさんは、銃撃事件後、自らのブログにナンシーさんは「大の銃好き」だったと書いている。
 
 ランザ容疑者の今は亡き祖父と結婚していたメアリー・アン・ランザさんは、ランザ一家は「素敵な家族」で、ニューイングランド地方に住む親族らとも親しくしていたと語った。
 
 だが、一家には困難な時期があった。メアリー・アン・ランザさんによると、ランザ容疑者の両親は長年別居しており、2009年に離婚したという。
 
 米GE傘下のエネルギー投資会社エナジー・ファイナンシャル・サービシーズに勤める父のピーター・ランザさんは社交的な人物だったが、ナンシーさんは「非社交的」だったかもしれない、とメアリー・アン・ランザさんは語った。
 
 
また、こんな報道もありました。
 
容疑者は高校時代、母親から勉強するよう執拗(しつよう)に言われていたといい、警察当局が犯行動機を調べている。両親は離婚し、母親のもとで暮らしていた。
 
 容疑者は高校時代、成績優秀で、「天才」と振り返る友人もいる。内向的かつ神経質で、フォーマルな服装を好んだといい、学校ではビデオゲームで遊ぶクラブに所属していたという。
 
20歳の内向的な若者にとっては、家庭と学校が生活の場のすべてだったといってもいいでしょう。母親を殺し、学校を襲ったというのは、容疑者にとっては自分の生活のすべてを否定したかったということになります。そのあと自殺したというのも当然でしょう。
 
こうした事件を見ると、その原因は家庭と学校にあることが推測できます。
 
たとえばアメリカではゼロ・トレランス(無寛容)という教育法を取り入れる学校がふえています。ゼロ・トレランスというのは、あらかじめ学校が規律と懲戒規定を明示して、それに違反した生徒は例外なく処分するというやり方です。こうしたやり方が受け入れられる土壌がアメリカにあるということであり、それとスクールシューティングが突出してアメリカに多いということは当然関連していると推測できます。スクールシューティングの犯人はまさに無寛容の人間だからです。
 
ですから、対策としては家庭と学校をよくすればいいということになります。
しかし、議論はそういう方向には行きません。まず銃規制の問題が改めて取り上げられています。それからいつものようにコンピュータゲームの影響が論じられているそうです。
 
銃規制は、しないよりはしたほうがいいでしょうが、それは本筋ではありません。池田小事件のように刃物でもできるからです(とはいえ、銃規制ができないところにアメリカの病理があって、これはゼロ・トレランスともつながっています)
 
日本では、子どもが自殺したとき、すぐイジメが原因ではないかと取り沙汰されます。これも家庭と学校という本筋から離れた議論です。
 
では、家庭と学校をよくするにはどうすればいいのでしょうか。
家庭の問題は複雑ですが、ひとつだけ簡単にできることは、子どもに「勉強しろ」と言わないことです。これだけで子どもは大きなプレッシャーから解放されます。
学校でも、勉強は子どもが自発的にするものだという前提で、子どもに教えるようにすればいいのです。
 
そもそも子どもに「勉強しろ」と言うことは、子どもの自ら学ぶ権利を冒すことで、子どもの人権を無視した行為といえます。
 
勉強すなわち「学習の強要」が人権無視だというのは、たとえば奴隷制社会を考えてみればわかるでしょう。
古代ローマ帝国で、土木建築工事が予定通り進まないとなれば、「10時間労働制をやめて12時間労働制にせよ」という命令が出されるでしょう。奴隷の技術がないために工事が進まないとなれば、「奴隷に土木建築技術を学ばせよ」という命令が出されるでしょう。といっても、学ぶ気のない奴隷もいます。ですから、「試験をして、成績の悪い奴隷はムチ打ちの刑にせよ」という命令も同時に出されるはずです。
 
現在の学校制度も、基本的にはこれと同じ仕組みです。社会の必要に応じて子どもに「学力」をつけさせることを目的としています。子どもの能力も個性も意志も無視しています。
 
学校制度を奴隷制方式から転換すれば、スクールシューティングすなわち学校内無差別殺人事件は大幅になくなるはずですし、子どもは幸せになり、そしておとなも幸せになります。

近く発足する安倍政権は、各国からタカ派政権と見られているようです。安倍総裁がタカ派発言を連発してきたので当然のことです。
日本では、「安倍総裁は日本を戦争のできる国にするつもりだ」といって批判する声があります。しかし、これは批判になっていません。安倍総裁は日本を戦争のできる国にするつもりですから、「それがなにか?」と言われたらおしまいです。
 
昔の日本人は戦争とは悲惨なものだというイメージがありましたから、「それは戦争につながる」とか「それでは戦争に巻き込まれる」とか言うことが十分な反論になっていました。しかし、今の若い人にはあまりそういうイメージはありませんし、中には戦争が好きな人もいます。となると、平和勢力の人は反論のやり方を変えなければいけませんが、旧態依然の人が多いようです。
 
もっとも、タカ派や右翼の人たちも、同様に旧態依然の人がほとんどです。というのは、彼らは戦争のイメージをよくしようとして、戦争そのものは悪ではなく、国際法や国際政治学においては正当な行為なのだと主張してきたのですが、それが実態に合わなくなっているのです。
たとえば安倍総裁は、「国防軍」「交戦規定」発言をしたときに、こう語っています。
 
安倍氏は、自衛隊の存在について「憲法9条の1項と2項を読めば軍を持てないとなってくる。しかし、こんな詭弁(きべん)を弄(ろう)することはやめるべきだ」と指摘。その上で「捕虜は、軍であればきちんと待遇される。そうでなければただの殺人者だ。軍隊として取り扱ってもらわなければならない」と述べ、自衛隊を憲法上、国防軍として位置付ける必要性を強調した。 
 
 
もうすでに自衛隊は外国から軍隊として取り扱われているのですから、「軍隊として取り扱ってもらわなければならない」と言うのは間違っています。 
そして、「捕虜は、軍であればきちんと待遇される」というのが、ネトウヨ的表現で言うと「お花畑」の発想です。世界でもこんなことを言っているのは日本の右翼ぐらいです。
安倍総裁はハーグ陸戦条約やジュネーブ条約を念頭に置いているのでしょうが、戦争観が古すぎます。アメリカはイラク戦争やアフガン戦争の捕虜をグアンタナモ収容所に収容していますが、捕虜はジュネーブ条約もアメリカの国内法も適用されず、日常的に拷問が行われていると言われます。もちろん人権無視であるとして世界中から非難されています。
日本の同盟国がそういうことをしているのに、「日本国防軍」兵士が捕虜になったときに捕虜として扱われることを期待するとはまさに「お花畑」です。
 
ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約によって捕虜がある程度まともに扱われたのは、ヨーロッパ間の戦争のごく一部と日露戦争ぐらいです。それが普通だと思ってはいけません。
 
そもそもお互いに宣戦布告をし合ってする戦争というのは、第二次大戦後はありません。朝鮮戦争、ベトナム戦争、数次にわたる中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラン戦争すべて宣戦布告なしの戦争です。
なぜ宣戦布告がないのかというと、もちろん朝鮮戦争、ベトナム戦争は内戦として始まったというような個々の事情もありますが、おそらく根本的には国連憲章によって戦争が否定されているからでしょう。
 
国連憲章 
1
国際連合の目的は、次のとおりである。
 1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
 
第2条
3.すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4.すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
 
これはひどい悪文です。日本国憲法を改正する前に国連憲章を改正したい。
とにかく、国際紛争を平和的手段によって解決しなければならないのですから、自衛戦争は別として、戦争は国連憲章違反ということになります。ですから、国連決議に基づかない戦争はすべてモグリの戦争ということになり、宣戦布告ができないのは当然です。
そして、アメリカだけがたとえばイラク戦争のように堂々とモグリの戦争をやっているということになります。
 
戦争がそういう位置づけになるわけですから、相手国に対してこちらの捕虜を国際法にのっとって扱えと要求するのはおかしな理屈になります。
となると、相手国の人道精神に期待するしかありません。つまり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という日本国憲法の精神によるしかないのです。
 
少なくとも、相手国にこちらの捕虜を人道的に扱えと要求する以上、こちらも相手国の捕虜に対して同じことをしなければなりません。
そうすると、もし中国と戦争になったときは、日本はひじょうに具合の悪いことになります。というのは、日中戦争のとき、日本軍は中国兵捕虜をまったく人道的に扱っていなかったからです。
 
当時の日本はジュネーブ条約の「捕虜の待遇に関する条約」については加入していませんでした。ハーグ陸戦条約には加入していましたが、満州事変、支那事変というように「事変」であって「戦争」ではないという立場でしたから、ハーグ陸戦条約は適用しませんでした。
日中戦争で日本軍は連戦連勝でしたから、大量の捕虜が発生したはずです。しかし、大規模な捕虜収容所が長期に存在したということはありません(小規模なものはありました)。武装解除して釈放するというのは、また武器を持って戦線復帰する可能性があるので、軍隊の論理としてはありえないことです。ですから、捕虜が発生すると、そのつどほとんどを殺していたというのが実情です。捕虜に自分を埋める穴を掘らせて殺したという話がよくありますし、度胸をつけるために新兵に銃剣で殺させたという話もよくあります。
 
安倍総裁は、日中間で軍事衝突が起きて「日本国防軍」の兵士が中国軍の捕虜になったときに人道的扱いを期待するなら、その前に日中戦争での捕虜の扱いを調査し、謝罪するべきは謝罪しなければなりません。
 
日本が「集団的自衛権の行使」をするときというのは、アメリカとイスラム国の戦いに日本が参加するという可能性がいちばん高いでしょう。アメリカ兵はアフガニスタンでタリバン兵の死体に小便をかけ(映像が流出して問題になった)、コーランを焼いています。イラクのアブグレイブ刑務所では捕虜を拷問していました。「日本国防軍」兵士が捕虜になったとき、「軍であればきちんと待遇される」などというのはまったくの寝言です。 

総選挙は予想通り自民党の圧勝ということになりました。
これを前向きにとらえると、政権交代を繰り返すことで少しずつ政治がよくなっていくのだと考えることもできますが、今回の政権交代は前進ではなく後退だと思います。
というのは、自民党が前よりよくなったとはまったく思えないからです。
 
では、なぜ国民が今回は民主党ではなく自民党を選んだのかというと、民主党は“負け犬”のイメージになってしまったからです。“負け犬”に期待しようという人はまずいません。
なぜ民主党が“負け犬”のイメージになってしまったかというと、対米依存と官僚依存を克服しようと戦って、負けてしまったからです。
 
その象徴が普天間基地の国外県外移設と八ツ場ダム建設中止でしょう。どちらも失敗してしまいました。
 
野田首相はむしろ官僚と一体となる作戦で、“負け犬”イメージの払拭に努めましたが、うまくいきませんでした。いくら「決められる政治」をアピールしても、その背後に官僚のいることが読まれてしまったからでしょう。
 
あと、既得権益勢力との情報戦に負けたという面もあります。
たとえば原発事故は、東電と経産省と原子力安全保安院に大いに責任があるわけですが、東電や官僚を守りたい勢力は官邸の失策を追及することで、東電や官僚組織を防衛しようとしました。それにしてやられたといえます。
それが菅直人元首相の選挙区での落選、枝野幸男経産大臣の苦戦という形で現れています。
 
私自身は、民主党は負けたとはいえ、対米依存と官僚依存と戦っただけましだと思っています。自民党を復活させるより、むしろ民主党に再チャレンジさせる方向が正しいと思います。
 
自民党は対米依存と官僚依存と戦う気はまったくなさそうです。
となると、なんの改革もできないことになります。
そのうちまた自民党政権は行き詰まるでしょう。
 
ところで、安倍晋三自民党総裁は、選挙で大勝利したにもかかわらず、笑顔がまったくありませんでした。勝利に浮かれず気を引き締めているのだという解釈もあるでしょうが、いくら気を引き締めても、少しは表情に出るものです。石破茂幹事長はときどき笑顔になっていました。
私は安倍総裁の浮かない顔を見て、お腹の調子が悪いに違いないと解釈しました。
 
これからなにか難局があるたびに、国民は安倍首相の顔を見て、体調を心配しなければならないのでしょうか。
 

総選挙はどうやら自民党が圧勝するみたいです。私は小選挙区では、自民党候補にいちばん勝つ可能性のある候補に投票するつもりですが、比例区でどこの政党に投票するかはまだ迷っています。
そういう人に政党選びを手伝ってくれるサイトがあります。けっこう話題になっていますが、やってみると確かに参考になります。いちばん自分に向いた政党からいちばん自分に合わない政党までを順番に並べるというやり方もいいと思います。
 
日本政治.COM 投票マッチング
 
回答したあとは、ほかの人の考えを見ることができます。原発廃止や憲法9条改正については賛否が拮抗しているということがわかりました。「大規模な公共事業は継続すべきである」も拮抗しています。「尖閣諸島の実効支配を強化すべきである」は圧倒的に賛成が多く、「外国人にも参政権を認めるべきである」は圧倒的に反対が多く、ナショナリズムはやはり強力です。
 
自民党圧勝が予想されるのは、ひとつには小選挙区制度のせいです。
小選挙区制にすると「二大政党制」になるということが言われますが、私は疑っています。
小選挙区制にすると、「一大政党制」になるはずです。優勢な一つの党が総取りにできるという制度だからです。ひとつの巨大政党ができて、第二党はうんと小さく、第三党はさらに小さく、第四党以下はほとんど議席を得られないことになります。
アメリカやイギリスが二大政党制なのは、小選挙区制だからというよりも、文化風土みたいなもののせいでしょう。
日本人は「長いものには巻かれろ」の国民性ですから、「一大政党制」になるはずです。そして、「一大政党制」で政権交代が起こると、議員経験すらほとんどない議員が政権を担うことになってしまいます。
 
今回は新党がいっぱいできて、にぎやかなことになりました。比例区があったおかげでもありますが、やはり多様性というのはたいせつなことだと思いました。
一神教ではなく八百万の神のいる国はやはりこうでなくてはいけません。
 
「一大政党制」にせよ「二大政党制」にせよ、多様性のない組織は硬直化して変化に対応できません。日本は間違った方向に行っていると思います。
もっとも、戦争のときは全体主義的な組織のほうが強みを発揮します。戦争が目的なら日本の行き方は間違っていないことになりますが。
 
日本の政治の最大の問題は、対米依存と官僚依存を克服できず、むしろ強化されていることであると私は思っていますが、マスコミはそういう観点からの報道はまったくしません。
その結果、安倍晋三自民党総裁、日本維新の会の石原慎太郎代表、橋下徹代表代行らのタカ派発言がやたら目立つことになっています。
 
日本のタカ派は中国の軍事費が増えているということを盛んに問題にしますが、実際に問題にするべきはアメリカの軍事費です。
 
アメリカの軍事費の巨大さが一目でわかるグラフ
 
もしアメリカの軍事費を大幅に削減することができれば、そのお金で世界のほとんどの問題が解決できるのではないかと思えるほどです。
しかし、日本の政治は対米依存ですから、こういう問題意識は皆無で、もっぱら中国の軍事費ばかりを問題にするわけです(マスコミも同じです)
 
そもそもある国のタカ派というのは、周辺国にタカ派がいるから存在価値があるわけです。
たとえば日本のタカ派は、中国にタカ派がいるから存在価値があります。
そして中国のタカ派は、日本やアメリカにタカ派がいるから存在価値があります。
ということは、日本のタカ派と中国のタカ派は“見えざる手”で握手していることになります。
こういうことを考えると、タカ派発言がバカバカしく思えてくるはずです。
 
ところで、総選挙後は安倍内閣の誕生が確実視されています。
私は反安倍なので、今から安倍内閣をつぶす方法を考えています。
いちばんいい方法は、安倍氏を舞い上がらせて、尖閣諸島の実効支配の強化、従軍慰安婦についての河野談話の見直し、終戦記念日の靖国神社参拝などを行わせ、対中、対韓関係を悪化させることです。中国で日本製品の不買運動が激化すれば、安倍内閣は持たないでしょう。
今は帝国主義の時代とは違ってグローバル経済の時代になっており、もはやタカ派は時代遅れです。

世界の小中学生の理科と算数の学力の比較が発表されました。日本の小学4年生の得点が過去最高だったということで、文部科学省は「脱ゆとり」の成果が現れたと見ているそうです。
 
小4の理数学力改善、脱ゆとり効果か 国際テスト
2012/12/12 0:10
  国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ)は11日、小学4年と中学2年が対象の国際学力テスト「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」の2011年の結果を発表した。日本は全科目で平均点が上昇または横ばいとなり、小4は過去最高になった。国際順位は全科目で5位以内に入った。
 小4の成績が明確に上向いたのは1995年以降で初めて。文部科学省は「子どもの学力は改善傾向にある」と指摘。「脱ゆとり教育」路線を鮮明にした新学習指導要領の成果とみている。
 過去の調査と比較できるよう95年の国際平均点を500点とし、今回の得点を統計処理した。日本の平均点は小4の算数が前回より17点上昇、理科も11点上昇した。中2は数学が横ばい、理科も4点上昇だった。順位は小4の算数が5位、理科が4位。中2の数学が5位、理科が4位だった。
 調査は4年に1度。03年は順位下落が目立ち、学力低下論争が起きた。今回は小学校は50カ国・地域、中学校は42カ国・地域が参加した。経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で全科目トップだった上海は参加していない。日本は約8800人の小中学生が受けた。
 
ベスト5の国は以下のようになっています。
 
小4算数
1位 シンガポール
2位 韓国
3位 香港
4位 台湾
5位 日本
 
小4理科
1位 韓国
2位 シンガポール
3位 フィンランド
4位 日本
5位 ロシア
 
中2数学
1位 韓国
2位 シンガポール
3位 台湾
4位 香港
5位 日本
 
中2理科
1位 シンガポール
2位 台湾
3位 韓国
4位 日本
5位 フィンランド
 
 
要するに日本、韓国、台湾、香港、シンガポールという儒教圏の国が上位になっているのです。これは昔からそうです。
日本、韓国、台湾はハイテク産業の盛んな国です。学力の高さがそういう形で生きているのかもしれません。
しかし、ノーベル賞受賞者の数で見てみると、文学賞、平和賞を別にすると、韓国、シンガポール、台湾、香港はゼロです。日本にしても、いち早く先進国の仲間入りをしたことを考えると、決して多いとはいえません。
つまり学力はあってもあまり創造性はないということがいえるのではないでしょうか。
学力があるからいいというものでもありません。
 
儒教圏以外の国はフィンランドとロシアしかありません。しかし、朝日新聞には同じ調査の過去3回の結果が掲載されており、中学2年の場合は6位までの国が出ています。そうすると儒教圏以外の国がいくつも出てきます。それらの国は、ベルギー、イングランド、カザフスタン、エストニア、ハンガリー、スロベニアです。
これらの国の特徴はなにかと考えると、北のほうの寒い国と、ヨーロッパでもアジア寄りの国だということです。あと、ロシアを別にすると概して小さい国です。
 
私の勝手な想像では、寒い国では子どもは外で遊べないので家で勉強するのではないでしょうか。アジア寄りの国は儒教圏の影響を受けているということが考えられます。
 
小さい国が多いということも考えさせられます。アメリカ、中国、インドという国はどうなっているのでしょうか。
 
一般に競争が学力を上げるように言われています。全国規模の学力テストをやって競わせるのが最高の競争のようにも思われています。しかし、小さな国の学力が高いことを考えると、大規模な競争はむしろマイナスで、競争ではなくともに学ぶというやり方のほうがいいのかもしれません。
 
ともかく、「詰め込み教育」への反省から「ゆとり教育」が生まれたのですが、その結果もろくに見ないうちに「脱ゆとり教育」に変わっています。
日本の教育の変化は、子どものテストの成績が悪かったからといってあわてて子どもを塾に通わせる母親に似ています。
 
今回はちょっとテストの成績がよくなったわけですが、そんなことで喜んでいてよいのでしょうか。

今井メロ著「泣いて、病んで、でも笑って」という本があります。今井メロさんというのはスノーボード選手としてトリノオリンピックに出た人ですが、昔は成田夢露という名前で兄の成田童夢さんとともに人気のあった人というと思い出す人が多いのではないでしょうか。この本はいわゆるタレント本ですが、私は縁あって読んでしまいました。そして、読むといろいろ考えさせられることがありました。
 
決してお勧めの本ということではありません。タレント本ですから、本人が書いたものではないでしょうし、内容が薄いのですぐ読めてしまいます。今井メロさんが元美人アスリートだからこそ本になったというところです。
しかし、そのおかげで私たちはめったに目にすることのない事実を目にすることができるということもあるわけです。
 
今井メロさんは1987年生まれで、上に兄が2人いて、長兄が成田童夢、次兄は一般人です。メロさんが5歳のときに両親が離婚し、メロさんと童夢さんは父親のもとで育ち、次兄はのちに母親に引き取られ、父親は再婚して弟が生まれます。複雑な家庭環境です。
メロさんは幼いころの記憶がほとんどないといいます。ようやく記憶が始まるのは小学校に入ってからです。
父親はファッションカメラマンですが、メロさんは父親からモーグルを教わります。5歳のときには滑っていて、6歳のときにモーグルマスターズの競技会、一般女子の部に出場し、成人女性を抑えて優勝します。といっても、本人には記憶がないそうです。
6歳のときにモーグルからスノーボードに転向します。父親がスノーボードを勧めたのです。父親はトランポリンを使う独自の練習法を考え出します。これは今でこそポピュラーな練習法となっていますが、当時はまだ誰もやっていなかったそうです。トランポリンのある自宅屋上にはカメラが設置され、父親はリビングで練習の様子をチェックしていて、少しでも手を抜くと屋上にやってきて、叱責の声が飛ぶということで、メロさんはいつもその恐怖におびえていました。
父親は徹底したスパルタ指導者で、メロさんは練習漬けの生活を送り、友だちと遊ぶ時間もなく、友だちは一人もいませんでした。メロさんは父親のことを「パパ」と呼んでいましたが、あるときから父親は「オレは先生や」といい、練習以外の家の中でも「先生」と呼ぶようになります。
 
メロさんは15歳のころからプチ家出を繰り返すようになり、近所に子どもの「駆け込み寺」みたいな家があったので、その家に行って「お父さんにぶたれて怖いんです。助けてください」と訴えます。それがきっかけになり、メロさんは自分の意思で児童保護施設に入ります。そこでは「やっと解放された~」という気持ちになったそうです。
その後、精神科病棟に入院し、また家に帰り、そして母の家に行き、姓を成田から今井に変えます。
 
メロさんはワールドカップで2度優勝し、トリノオリンピック代表に選ばれると金メダルへの期待が高まります。派手な壮行会はテレビ中継され、そこでメロさんはまるで芸能人のようにラップを歌います。そうしたことの反動もあって、オリンピックで惨敗すると、世の中からバッシングを受けることになります。
 
それからメロさんの人生は惨憺たるものになります。一時的に引きこもったあと、キャバクラ、ラウンジという水商売勤めをし、ホストクラブ通いをし、さらにはデリヘルという風俗嬢にもなって、それが週刊誌に報じられます。リストカット、拒食症と過食症、恋愛依存症、妊娠中絶、二度の結婚と離婚、整形手術、レイプといったことも本の中で告白されます。
 
こうしたことの直接の原因はオリンピックで惨敗して世の中からバッシングされたことですが、やはり根底には家庭環境の問題があったでしょう。早い話が、親から十分に愛されなかったのです。
この本を読むと、たとえばリストカット、拒食症と過食症、恋愛依存症といったことも、根本の原因は愛情不足なのだろうと思えます。
 
また、メロさんは17歳のときに高校生らしい3人組からレイプされます。これはもちろんレイプするほうが悪いのですが、この女ならレイプしても訴え出ないだろうと見られていたという可能性もあります。学校でイジメられる子どもにも共通した問題があるのではないでしょうか。
 
親から十分に愛されないと自尊感情や自己評価が低くなってしまいます。風俗嬢というのは社会的に低く見られる職業ですが、自己評価の低い人は抵抗なく入っていってしまいます。
 
整形手術にも自己評価の低さということがあるのではないでしょうか。メロさんの場合、練習で鼻を骨折したための手術もあったのですが、子どものころから容姿コンプレックスがあったということです。
 
普通、このように自己評価の低い人は自分の本を出すことはできません。精神科医やカウンセラーの本に、リストカットする患者などの症例として出てくるくらいです。メロさんは美人で人気あるアスリートだったために自分の人生を本に書くことができました。
こういう例としては、ほかに飯島愛さんの例があります。飯島愛さんも家庭環境の問題から家出を繰り返してAV嬢になるという過去があり、タレントとして人気が出たために自分の体験を「プラトニック・セックス」という本にすることができました。ネットで調べると、この本は今もリストカットをする女性などにとってバイブルとなっているということです。
 
メロさんはアスリートとしては挫折した人ですが、世の中には、一流スポーツ選手として成功している人の中にも、メロさんと同じような問題を抱えている人がいるのではないかと想像されます。
幼いころから父親のスパルタ指導を受けていたというスポーツ選手は、ゴルフ界や野球界やその他にもいっぱいいます。きびしい指導は愛情ゆえだという説明が通っていますが、ほんとうにそうでしょうか。少なくとも自分の人生を自分で決められなかったということは、ずっとあとを引くと私は思っています。
 
たとえば大相撲の若貴兄弟は、父親が親方でもあるという環境で育ち、力士としては大成功しましたが、そういう育ち方をしたことがのちにさまざまな問題を生んだと思います。
 
もっとも、同じ大相撲でも武双山関は、父親がアマチュア相撲の強豪で、子どものころから父親のきびしい指導を受けて相撲版「巨人の星」と呼ばれるぐらいでしたが、中学生か高校生のころに一度相撲をやめ、しばらくして考え直して自分から父親に頼んでまた相撲の指導を受けるようになったということです。このときに武双山関にとって相撲は「自分が選んだ道」になったのでしょう。
 
武双山関のようなことがないまま親の決めた道を歩んでいる人は、かりにその道で成功しても、自分の人生を自分で決めなかったという不幸はずっとついて回ります。
もちろん成功しないとまったく悲惨です。世の中には人目にはふれませんが、そういう悲惨な人生の人がいっぱいいると想像されます。
 
スポーツ界だけでなく、芸能界にもステージママやステージパパがいっぱいいますし、医者の世界にも、「いやいやながら医者にされ」というモリエールの戯曲のタイトルみたいな人がいっぱいいます。
親だからといって子どもの人生を決める権利はないということが常識になってほしいものです。

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