村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年01月

作家である村田基が究極の思想である「科学的倫理学」を武器にさまざまな問題を切りさばいていくブログです。
昨今、体罰論議が盛んですが、「科学的倫理学」の観点から見れば、体罰問題も簡単に理解できます。
 
暴力には2種類あります。社会秩序を維持・強化する方向の暴力と、社会秩序を破壊・改革する方向の暴力です。「体制側の暴力」と「反体制側の暴力」ということができます。
ただ、「体制側の暴力」は通常「暴力」と呼ばないのです。そのため議論が混乱してしまいます。
 
たとえば、当時の仙谷由人官房長官は国会答弁で自衛隊のことを「暴力装置」と呼び、批判を浴びました。軍隊や警察を「暴力装置」と呼ぶのは反体制側である左翼や学術の世界の一部ではあることですが、体制側つまり一般社会ではそんな呼び方はしません。その呼び方を採用するか否かは、その人の立場によることで、どちらが正しいということではありませんが、官房長官という体制側の人間がこの呼び方をするのは不適切です。仙谷氏もそのことを自覚して、のちに訂正・謝罪しました。
 
人が人を殴るのは一般に「暴力」といいますが、親が子どもを殴るのは「暴力」とはいいません。「体罰」「しつけ」などといいます。つまりこれは社会秩序を維持・強化する方向の暴力だからです。
反対に子どもが親を殴るのは、社会秩序を破壊・改革する方向の暴力ですから、そのまま「家庭内暴力」と呼びます。
 
子どもが親に暴力をふるうというのは、どうやら日本以外にはほとんどないもののようですが、それはともかく、世の中の価値観が変わり、親が子どもを殴ることも暴力であるという認識が生じてきました。また、配偶者間の暴力も暴力であると認識されるようになってきました(以前は「夫婦喧嘩で手が出る」などといって、「暴力」とはいわれませんでした)
しかし、日本では子どもから親への暴力を「家庭内暴力」と呼ぶことが定着しているので、親から子への暴力、配偶者間の暴力も「家庭内暴力」と呼ぶと混乱してしまいます。そこで、親から子への暴力、配偶者間の暴力は「ドメスティック・バイオレンス」「DV」と呼んで区別するのが一般的です。
 
生徒が教師を殴ったり、学校内の備品を壊したりするのは、社会秩序を破壊・改革する方向の暴力ですから「校内暴力」といいます。しかし、教師が生徒を殴るのは、社会秩序を維持・強化する方向の暴力ですから、「体罰」といいます。
 
「暴力」という言葉には悪い意味しかありませんから、こうした言い分けが行われるわけです。
生徒が教師を殴っては学校が成り立ちませんから、「暴力」と呼んできびしく対処することになりますが、教師が生徒を殴る分には、殴られた生徒が傷つくだけで、学校の秩序にはむしろプラスですから「体罰」と呼んで、文部科学省も世間一般も保護者すらも問題にしません。生徒がケガをしたり、死んだり、自殺したりしたときに問題になるだけです。
 
私たちは言葉を使って思考しますから、こうした「暴力」と「体罰」の使い分けを理解していないと、思考も議論も混乱してしまうことになります。
 
 
「体制側の暴力」と「反体制側の暴力」を、どちらが正しいということは抜きにして、比較してみます。
「体制側の暴力」は権力者に支持され、また混乱を嫌う一般の人にも支持されるので、増大する傾向があります。
一方、「反体制側の暴力」はちょっと発生しただけで、寄ってたかってつぶされる傾向にあります。
また、体制内に暴力的傾向を多く持つ集団は、そうでない集団よりも戦いにおいて強い傾向があります。暴力団同士の抗争や、国家間の戦争を考えればわかるでしょう。そのため体制側の暴力はさらに強化されていきます。
一部のスポーツや格闘技においても、暴力的傾向は有利に働く場合があり、強いチームや強い選手は暴力的傾向を持っている場合が多くなります。
 
こうして「体罰」などの暴力的傾向は社会秩序の中に根深く存在することになりました。これを排除するのは容易なことではありません。とくに権力者は本気で「体罰」退治に取り組もうとはしません。
たとえば、自民党は「いじめ防止対策基本法案」の原案をまとめましたが、教師による体罰もいじめと見なすということで、わけがわかりません。いじめ防止法をつくっていたら、急に体罰問題が浮上してきたので、あわてて押し込んだということでしょう。反対の声が強いので、たぶん変更されるでしょうが、体罰についてまじめに考えていないのは明らかです。
橋下徹大阪市長も、「体罰」に焦点を絞るのではなく、「桜宮高校の伝統」を槍玉にあげているので、本気で「体罰」禁止に取り組むつもりはないようです。
 
ところで、私たちは「体罰」にどう対処するべきかということですが、「科学的倫理学」は現実がどうであるかを説明するだけで、私たちがどうするべきかを教えるものではありません。それは各自で考えてください。
ただ、人間性というのは生まれながらに決まっています(どう決まっているかは省略します)。体罰を受けるのは誰でも不快です。体罰をするほうも、その行為自体は不快なはずです。ただ、体罰によって大きな利益が上がれば、体罰をしたくなる人は出てくるでしょう。また、体罰をされても、スポーツで強くなりたいと思う人も出てくるでしょう。
 
ですから、現実問題として学校内やスポーツ界で体罰を禁止する場合、こうした体罰志向みたいなものがあることを考慮しないとうまくいかないと思います。
 
ところで、私自身は、体罰などするほうもされるほうもまっぴらごめんです。

教育問題を論じるとたいてい意見が対立します。しかもこの対立はいくら議論しても解消されることがありません。
なぜそうなるかというと、おとな同士で議論しているからです。たとえば、「体罰は子どものためになる。子どもも感謝している」と主張する人がいますが、こういうことはおとな同士で議論してもどうにもなりません。
ですから、教育問題については、子ども自身が意見表明することがたいせつです。子どもの意見によって議論がさらに複雑になるかもしれませんが、最終的にはいい方向に行くはずです。
 
大阪市立桜宮高校における体罰問題が大きな騒ぎになっていますが、1月21日、画期的な出来事がありました。桜宮高校の元運動部キャプテンである3年生8人が記者会見を開いて意見表明をしたのです。
 
「結論覆す」、決意の反論=高校生8人、入試中止で会見-大阪市
 大阪市教育委員会が橋下徹市長の要求通り、市立桜宮高校の体育系2科の入試中止を決定した21日夜、同校3年の男子生徒2人と女子生徒6人が記者会見に臨んだ。「私たちは納得いかない」「学校を守りたい」。8人は「まだ結論を覆せるかも」と、橋下市長と市教委に対し、決意の反論を展開した。
 市役所5階の記者クラブで午後7時半から1時間余にわたった会見。8人はいずれも運動部の元キャプテン。制服のブレザー姿で横一列に並んだ。
 「体育科に魅力を感じて受験したいと思う生徒がほとんど。普通科に回されるのは、私たちは納得がいかない」。女子生徒が口火を切った。橋下市長が同日朝、全校生徒を前に説明したが、「具体的な理由がなく、私たちの声も十分に聞いてくれなかった。思いは1時間で話せるわけがない。『生徒、受験生のことを考えて』と何度も繰り返したが、在校生と受験生のことを考えたらもっと違う結果があったんじゃないか」と訴えた。
 橋下市長が体罰の背景に「生徒たちも容認していた」「勝利至上主義」などと発言していたのに対し、女子生徒は「容認していないし、勝つことだけが目標ではなく、礼儀など人として一番大切なことを教えてもらっている」と反論。自殺問題について「心の傷は深く、重く受け止めている。傷を癒せるのは先生」として教諭の総入れ替えにも反対し、「多くの生徒が学校を守りたいと思っている」と強調した。
 男子生徒は「今回の結果が覆せるんじゃないかと、強い思いを持ってきた」と会見の動機を語った。別の女子生徒も「今まで続いている伝統は今でも正しいと思っている」と力説した。(2013/01/21-22:36
 
高校生がみずから記者会見をするというのは今までになかったはずで、まさに画期的というしかありません。
ところが、これに対して尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏が怒りのコメントをしました。
 
尾木ママ怒り心頭「誰がこんなことやらせたの!」 桜宮高生徒が記者会見
「誰がやらせたのか。とんでもない。こんな記者会見やらせるべきでない」
   いつもはニコニコしている教育評論家の尾木直樹が珍しく顔を真っ赤にして怒った。体育系2学科の入試中止が決まった大阪市立桜宮高校で、運動部主将を勤めた3年生8人が記者会見して入試中止反対を訴えたのだ。
 
運動部の主将つとめた8人並べて「入試中止に反対」
   大阪市教育委員会が決めたのは、今春(2013年)の体育科(80)とスポーツ健康科学科(40)の入試を中止し、同じ定員を普通科に振り替えて募集をするという内容だった。主張が通った橋下大阪市長は「教育委員会が教育的な視点で素晴らしい決定をして下さったと思う」と高く評価した。
    ところが、市長会見の直前に運動部の主将を務めた8人の生徒が市役所内で記者会見を開き、入試中止の決定に反対を表明した。「なぜ高校生の私たちがこんなにもつらい思いをしないといけないのかわかりません」「体育科をなくしたからといって、クラブ活動のなかで体罰がなくなるとか、そういうことにつながらないと思う」「いま1つしかない一瞬のことを全部潰されているようにしか思えない」
 
学校側や一部保護者の入れ知恵か
    これでは学校側は体罰自殺をどう反省し、生徒に教えてきたのか疑問を感じる。このVTRを見ていた尾木は「これが生徒のすべての声とは受け止められない。なぜこんな会見をやらせたのか。誰がやらせたのか。とんでもない。(会見をやるなら)生徒会長や部長が出るとか、生徒会長名で声明を出すべきです」と怒った。
 
   その背景として、尾木はこうも付け加えた。「この学校は体育科がメインで、強くなければいけない使命を背負っている。進学重点校の体育版です。橋下市長はそれがゆがんで出てきたと捉えた。校長の言うことを聞かない。校長の権限が及ばず、私物化されている。これは高校教育全体の構造で、全国の高校が自己点検すべき中身が含まれているんです。桜宮高は設置のあり方を見直し変えていく第一歩です」
 
   コメンテーターの館野晴彦(月刊『ゲーテ』編集長)「市教委にそれが期待できますか」
   尾木「(いじめによる生徒の自殺のあった)大津市教委よりはましです」
 
   生徒が入試中止を受け入れがたいと考えるのは、ある意味では当然かもしれないが、それを訴えるのが記者会見というのは自分たちの判断なのか。高校生がメディアを集めてアピールするというのはどこか不自然じゃないか。学校側や一部保護者の入れ知恵なのか。
 
私はこれを読んで一瞬、高校生の記者会見は誰かおとながやらせたのかと思いました。だったら、あまり評価するわけにはいきません。
しかし、よく読むと、おとながやらせたという根拠はなにも書いてありません。尾木ママがそう推測しているだけのようです。
「高校生がメディアを集めてアピールするというのはどこか不自然じゃないか。学校側や一部保護者の入れ知恵なのか」というのはJ-CAST ニュースの“地の文”ですが、これも推測です。記者の勝手な推測で記事を締めくくるなど、記事の書き方のイロハもわかっていないのかと言いたくなります。
 
尾木ママだけでなく、ネットを見ていると、高校生だけの記者会見については圧倒的に反発の声が多く、自殺した生徒のことを考えないのかという批判のほかに、あやつられている、マインドコントロールされているという批判も目立ちました。
 
私自身は、誰かおとなにあやつられているとは思いません。高校生は1時間余り記者会見したということですが、自分の考えのない人間は1時間余りの質疑応答には耐えられないと思います。また、1人や2人ならマインドコントロールできるかもしれませんが、8人もマインドコントロールできるとは思えません。
桜宮高校の生徒にとって、現在の桜宮高校を巡る状況についてどうしても言いたいことがあったのでしょう。橋下徹市長は暴走し、マスコミは一面的な報道しかしません。高校生がみずからの意志で記者会見したのは少しも不思議ではありません。
 
そう思っていたら、高校生の記者会見は高校生自身の意志によるものだったという報道がありました。
 
橋下市長の手荒い治療では治るものも治らない
顔を映さないように並んだ8人の高校生の記者会見は異様な感じだった。体罰を受けた生徒の自殺で揺れる大阪市立桜宮高。体育科の入試中止の決定を受け、同校運動部元主将ら8人の3年生による市役所での会見である。「私たちは勝利至上主義でやっているわけでない。礼儀やマナーも学ぶためにも通っている」などと訴えた。
 
 教師が同席しない生徒だけの会見は前代未聞。間に「仕掛け人」がいて生徒は言わされただけでは、と嫌な感じもしたが、それは誤解だった。関係者に聞くと学校を介さず生徒たちから会見を申し入れたとか。体罰がはびこった体質の中で自分たちの学校に誇りを持つ骨のある生徒が育っていた。
(後略)
 
この報道が絶対正しいとは言えませんし、私の推測が正しいとも言えませんが、少なくとも尾木ママら多くの人たちがなんの根拠もなく記者会見した8人の高校生は誰かに操られていると決めつけたのは明らかにおかしいと言えます。
 
私は、尾木ママの教育論は比較的に評価していましたが、今回のことでやはり教育界の人間だったのだなと改めて思いました。
教育界では子どもというのはあくまで教育の対象であって、子どもがみずから教育について意見を言うことはタブーとなっています。子どもがどんどん自分の意志を表明するようになったら、今の教育界や学校制度は崩壊してしまうからです。
 
8人の高校生は体罰教師を擁護しているのではないかという批判もあるでしょう。私も多少そのことについて懸念がありますが、だからといって発言を封じるようなことがあってはいけません。今までテレビのコメンテーターが体罰賛成論を言うのを放置してきて、高校生が同じことを言ってはいけないという理屈はありません。
 
ところで、先日、日本テレビ系列でジブリのアニメ「コクリコ坂から」(宮崎吾朗監督)が放映されました。これは60年代の高校生活を描いたもので、恋愛や親子関係も出てきますが、ストーリーの軸になるのは、伝統ある学生寮の建物の取り壊しを巡って学校側と生徒側が対立することです。そして、生徒たちはみずからの意志で学園理事長に談判しに行きます。私はこうした生徒の自治精神が印象に残りました。
 
また、私が高校生だったときは、高校の校庭で集会を開いて、そこからベトナム反戦デモに出かけましたし、卒業式のときは会場前でボイコットを呼びかけるビラを配りました。
 
ですから、私にとって高校生が社会的政治的に発言することにはぜんぜん違和感がありません。むしろ尾木ママの「誰がこんなことやらせたの!」という反応に違和感があります。
 
8人の高校生の行動は、彼ら自身にとってよい経験となったでしょうし、ほかの桜宮高校の生徒にとっても、自分たちの意見を社会に発信できたということで満足があったでしょう。意見の違う生徒にしても、自分の仲間が社会に対して意見を表明したということは自信になったのではないかと思います。
 
今回、高校生による記者会見をおとしめる発言をするおとなが多いですが、高校生はそんな発言にめげることなく、どんどん自分の意見を表明し、自分の意志で行動していってほしいと思います。
 
 
日本は子どもの権利条約を批准しています。この条約は子どもを「権利の主体」と見なすもので、「子どもの意見表明権」を規定していますから、今回高校生が記者会見を行ったのは当然の行動ということになります。
ところが、日本の教育界やマスコミや世間一般は子どもの権利条約を無視して、いまだに子どもを「教育の客体」と見なしているので、子どもが意見を表明すると、必死でそれをおとしめようとします。
自民党の教育改革にしても、子どもの意見を聞くという姿勢がまったくありません。おとな本位の教育改革がうまくいくわけがありません。
子どもを「権利の主体」と見なすという当たり前の認識が広く共有される必要があります。

大阪市立桜宮高校のバスケットボール部キャプテンの男子生徒が自殺したことで体罰についての議論が盛んになったと思ったら、議論が妙な方向に行ってしまいました。
そのひとつの元凶は、橋下徹大阪市長です。橋下市長は桜宮高校の体育系学科の募集中止を打ち出し、そのために体罰よりも募集中止の是非についての議論のほうが前面に出てしまったのです。
 
言うまでもなく橋下市長のするべきことは、体罰禁止を徹底することです。そこにピンポイント攻撃すればいいのに、クラスター爆弾をぶちこんでしまったようなもので、周辺によけいな被害が出てしまいました。
もともと橋下市長は体罰肯定論者でした。急に体罰否定論に宗旨替えしたのは、今はそのほうが世間の受けがいいと思ったからでしょう。体罰反対の信念がないので、的を外してしまうわけです。
 
たとえば橋下市長はツイッターでこのように書いています。
 
桜宮高校で起きた事案は、世間で言われる体罰事案ではありません。暴力事案です。
 
つまり橋下市長は、「世間で言われる体罰事案」と「暴力事案」は別だと考えているわけです。「暴力事案」は許されないが、「体罰事案」は許されないわけではないということでしょう。こういう中途半端な態度では体罰禁止に的を絞れないのも当然です(私は世間に合わせて「体罰」という言葉を使っていますが、「体罰」と「暴力」はまったく同じだと思っています)
また、橋下市長は「校長と教員の総入れ替えは最低条件」「桜宮高校の伝統を断ち切る」と言っています。
「校長と教員の総入れ替え」は、問題の解決ではなく、問題の抹消ないしは隠蔽です。体罰教師がほかの学校へ転勤になれば、そこでまた体罰をするかもしれません。また、新たに赴任してくる教師が体罰教師かもしれません。
「校長と教員の総入れ替え」をすれば確かに「伝統を断ち切る」ことはできますが、それではすべての伝統を断ち切ることになってしまいます。生徒が反発するのは当然です。体罰の伝統だけ断ち切ればいいのです。
 
私の考える解決とはこのようなことです。
体罰教師が生徒の前で「今までの私のやり方は間違っていた。すまなかった」と謝罪し、生徒たちが「私たちも先生の間違ったやり方を受け入れてしまっていた。私たちも反省する」と表明する。こうしたやり取りによって体罰をなくせば、このことは後輩たちにも引き継がれ、新しい伝統となるでしょう。これが「伝統を断ち切る」ということです。
そのためには部員と顧問が直接に話し合い、また全校集会などの形でも話し合いを繰り返す必要があるでしょう。
こうしたことがあれば、何年かのちに赴任してきた教師が体罰をしたときに、生徒は「それはわが校の伝統に反する」と言って反対することができるわけです。
 
橋下市長は私と考え方も立場も違います。橋下市長がするべきことは、生徒が体罰を受けた場合は校長に訴え出るべきで、校長も必ずそれに対応するべきというルールを確立し、体罰教師に対する罰則もあらかじめ決めておくことです。これだけでもかなり体罰をなくすことができるでしょう(これはもちろん桜宮高校だけでなくすべての学校に適用されるルールです)
 
 
ところで、今は体罰反対の論調が世の中を支配していますが、これは1人の高校生が自殺したということがあるからです。今、体罰賛成論を主張すると、死者や遺族の気持ちを引き合いに出してバッシングされることがわかっているので、体罰賛成論者は黙っているか本音と違うことを言っているのです。
体罰賛成論というのは社会に広範囲に存在していて、体罰も学校やその他の組織で広範囲に行われています。問題は桜宮高校だけのことではありません。
 
石原慎太郎日本維新の会共同代表はスパルタ教育の本を著し、戸塚ヨットスクールの支援者で、もちろん体罰賛成論者です。
日本維新の会は体罰に関してどのような見解を持っているのでしょうか。
橋下市長は、こちらのほうでこそ「総入れ替え」か「伝統を断ち切る」ことをして、日本維新の会としての体罰に関する見解を明確にするべきです。

文部科学省は現在行われている公立学校の「週5日制」を廃止し、土曜日も授業をする「週6日制」導入の検討を始めるということです。ようやく「週5日制」が実現できたかと思ったら、また前に戻そうというわけです。
もちろんこれは「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」へ転換したことに関連しているわけですが、いったいそれはどういう理念に基づいているのでしょうか。「週5日制」から「週6日制」への移行が正しいことなら、次は「週6日制」から「週7日制」へ移行することになるかもしれません。
 
「脱ゆとり」というのはつまり「学力重視」ということですが、今の日本の若者を見たとき、学力の問題がそれほど重要でしょうか。
私の考えでは、今の若者にいちばん足りないのは人間関係能力、対人能力です。草食系男子というのも、要は女性とつきあう能力が欠けているわけです。非婚化・晩婚化も、経済問題ももちろん関わってきますが、根底には対人能力不足があると思います。オタクというのも、二人称に「お宅」という言葉を使う若者が奇異に見えたことからつけられた名称です。引きこもりは究極の対人能力不足です。
 
なぜ対人能力不足になるかというと、勉強や習い事に時間を取られて、子ども同士で遊ぶ時間が少なくなっているからです。授業時間をふやせば、ますます遊ぶ時間がなくなります。
 
とはいえ、保護者の多数は「週6日制」に賛成のようです。
 
東京都小学校PTA協議会が10年に実施した調査では、土曜授業について保護者の86%と教員の38%が「必要」、保護者の7%と教員の52%が「反対」だった。下村博文文科相は「徹底して土曜授業を導入したい。国民的な理解を得るなど省内で課題をクリアしたい」と話している。
 
保護者の考えが必ずしも子どものためを思ってのものとは限りません。今の親の多くは、競馬の馬主のように、子どもを人生レースに出走させて好成績を挙げたいと思っています。この場合の「好成績」というのは、どうしても一流学校とか一流企業といった世間の基準によるものになってしまい、子ども本人の希望は無視されます。
 
今の世の中、親でさえも子どもに対して利己的にふるまうケースが多くなっています。
親でない場合はなおさらです。つまり、多くのおとなの考える教育とは、子どものためのものではなくおとなのためのものです。
 
たとえば、自民党は公約の中に「道徳教育の充実、高校で新科目『公共』設置」をうたっていますが、道徳教育の中身というのはたとえば、「権利を主張する前に義務を果たせ」みたいなことです。
いうまでもないことですが、「権利を主張する前に義務を果たせ」という人は、他人が権利を主張せずに義務ばかり果たしてくれればいいと考えている自分勝手な人です。
 
おとなの考える教育が子どものためのものではなくおとなのためのものであるとすれば、私が考える教育も同じということになります。少なくとも私が考える教育が子どものためになるかどうかわかりません。
いや、誰が考えた教育であろうと、それが子どものためになるかどうかわかりません。
 
では、どうすればいいのかというと、子どもがみずから選べるようにすればいいのです。
自分が受ける授業の数が選べるようになっていれば、土曜日に授業をするか否かは問題ではありません。
また、道徳の授業と英語の授業と数学の授業と、どれでも好きなものが選べるようになっていれば、「道徳教育の充実」を実現したい人は、子どもが選択したくなるような道徳の授業をすればいいわけですし、これから英語力がたいせつだと思う人は、子どもが選びたくなるような英語の授業をすればいいわけです。
 
そんなやり方だと、子どもがどんな授業も受けず、遊びほうけてしまうではないかと思う人もいるでしょう。そうなったとすれば、それは自己責任ですから、しょうがありません。
子どもにそうなってほしくなければ、子どもが受けたくなるような魅力的な授業をいっぱい用意して、その授業がいかにすばらしくて子どものためになるかということを説得すればいいわけです。
そうすれば勉強と遊びのバランスも自然ととれます。
 
今のおとなのやり方は、子どもに強制的に授業を受けさせているので、授業内容がつまらないものになるのはもちろん、その授業がどれだけ子どものためになるかの検証もろくにされていません。遊びの不足という問題も生じています。
 
今私が言ったのは究極の教育改革ですから、すぐには実現できません。しかし、教育改革の方向性は明らかでしょう。
子どもが受けたくなるような授業をするということです。
 
消費社会では、企業は消費者が買いたくなるような商品を提供します。消費者のわがままに応えることで商品は向上し、消費者は豊かな生活ができるようになりました。
学校も同じことです。子どもが受けたくなるような授業を提供すればいいのです。子どものわがままに応えることで授業内容は向上し、子どもは豊かな知識を身につけることができるようになります。

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は、婚約者の異様な行動に困惑する女性からの相談です。
つきあって親密な関係になると、それまで見えなかったものが見えてきます。これは、礼儀などがはがれ落ちたことで現れるものですから、その人のより真実に近い姿ということになります。
しかし、完全な真実の姿とも限りません。それもまたつくられたものである可能性があるからです。
 
一人でいることを異様に嫌がる彼氏  邦子 20121116 11:58
 彼氏(29歳)私(30歳)で、2年前から結婚を前提に同棲を始めました。
私にはある目標があり、結婚は待ってもらっています。あと半年はかかりそうです。
 
この彼氏なのですが、一人でいることを異様に嫌がります。
普段は仕事ですが、帰宅してから少しでも私の姿が見えないと「邦子どこ?」と探し回ります。
お風呂に入っていてもわざわざ見に来て、私がいるのを確かめます。トイレもノックをして確かめます。
私が仕事で家を空けるのも辛そうです。夕飯の用意や家事云々の問題ではなさそうで、とにかく私の存在が家にいないと安心しないようです。
 
最初は子供のようで可愛いと思っていましたが、私の生活に支障が出るようになってきました。
例えば、私の仕事で2ヶ月海外に行かないといけないことがあったのですが「邦子は僕を家に一人で置いても全然悲しくないんだね」「邦子がよければ行ったら良いけど、僕は辛い」と毎日のように言われ続け、結局このプロジェクトから降りました。
幸い、私の仕事は専門技術が必要な分野なので、かろうじて今も会社に置いてもらえていますが・・・
 
家では常に私の頭皮の臭いを嗅いでいるか、私の足を触ったりにおいだりしています。
この彼氏の癖が本当に嫌で、最初は「やめて!」と私が怒ると、彼氏はキレて口をきいてくれなくなるので、最近は諦めて放っています。私の頭皮と足の臭いを嗅ぐと落ち着くのだそうです。
家にいる時は四六時中、休みの日はそれこそ「常に」のレベルです。
ちなみに、人前に出るとむしろ冷たい態度を取ります。家では正反対です。
 
結婚するために全てを受け入れなければと思ってましたが、最近は不安になってきました。
結婚を待ってもらっている理由である「目標」も危うくなってきました。
 
どうすればもう少し自立してくれるでしょうか。
家計は2:1で彼が多く負担しています。食事家事は私負担です。
 
恋人関係になると、男女を問わず、赤ちゃん言葉になって相手に甘えるというケースは少なくありませんが、そのこと自体は大した問題ではありません。子ども時代に十分に親に甘えられなかったということも想像できますが、恋人関係の中で足りなかったものを補えばいいわけです。それができることが恋人関係や夫婦関係のいいところだとも言えます。
 
この相談の場合も、相手の男性は幼児返りしているように見えます。だから、相談者も「最初は子供のようで可愛いと思っていました」と書いています。
しかし、度がすぎているようです。いや、単に度がすぎているだけではありません。「束縛」という問題が加わっています。
 
「甘える」というのは、子どもが母親にする態度です。「束縛」というのは、上の立場から支配しようとすることですから、両者は異質のことと言えます。
この相談のケースでは、「甘える」よりもむしろ「束縛」のほうが主体だと思われますが、異質のものが混在しているのでややこしいことになっています。
 
この相談は「発言小町」という掲示板からの引用です。
これに対するレスは、そんな気持ちの悪い人とは別れなさいというものが圧倒的です。この男性はストーカーになるタイプですという指摘もあります。
ただ、これを「甘え」と解釈した人からはこんなレスもあります。
 
うちも同棲当初はべたべたひっついたりひっつかれたりしていました。
けど5年くらいたったころから、少しずつ適切な距離が開き始めました。
なのでトピ主さんところも大丈夫だと思うけど…。たぶん…。
 
ともかく、これが人生相談だとすれば、別れなさいというのが回答であることは間違いないでしょう。とくにこの男性は、束縛のあまり女性の海外行きを妨害し、女性の会社での立場を悪くしています。あまりに自己中心的で、女性の幸せを考えていないことは明らかです。
 
ただ、この男性はどうしてこのような不可解な行動をするのかということが気になります。できれば、それを理解した上で対処したいものです。
この相談者(トピ主)はそのあとも書き込みをしていて、そこに有力な手がかりがありました。
 
母親との関係を指摘してくださっている方がいらっしゃいましたが、私の目から見ると、彼と母親との関係は良くもなく悪くもなく普通のものであると思います。
 
ただ気になることが2つあります。
一つは彼の弟です。彼の弟は2つ違いで今年27歳なのですが、私が彼の実家に挨拶に行くと、必ずと言って良いほど母親の後ろをついて回っています。
たまに母親に抱きついたりするので、母親が露骨に嫌がっているのを何度も見かけました。
当初、ふざけあっているのかと微笑ましく見ていたのですが、その回数の多さと母親の露骨な嫌がり方、嫌がられた後の弟の反応(部屋に閉じ籠もります)に疑問を覚えるようになりました。
 
二つ目は、彼と父親との関係です。
彼は私のパソコンやメールアドレス、ネット口座などを管理していますが、全く同じことを彼は自分の父親からされており、それをとても嫌がっています。
彼がお金をおろすとすぐに父親から「何を買った?」と電話がかかってきます。
 
しかしこの2点以外は、まるで絵に描いたような、大変仲の良い一家です。
私のことも非常に大事にしてくれているので感謝しています。
 
これを読むと、かなりわかってきます。弟の行動は婚約者の行動と基本的に同じと思われます。
27歳にもなっているのに、必ずといっていいほど母親のあとをついて回り、たまに抱きついて嫌がられているというのは、かなり異様です。
なぜこのような行動パターンが形成され、持続しているのでしょうか。
 
普通は、そんな大きな息子に抱きつかれると母親は拒絶します。そして、母親から何度か拒絶されたら、もう抱きつくのはやめます。
ですから、この母親は最初のうちは拒絶しないのでしょう。「当初、ふざけあっているのかと微笑ましく見ていた」という記述からもそう判断できます。ところが、ある一線を越えると拒絶するのです。
これは息子にしてみれば、母親に甘えようとしたら、甘えさせてくれそうになるのだが、結局は甘えさせてくれないということになります。蛇の生殺しというか、蒲焼きの匂いだけかがされて蒲焼きは食べさせてくれないみたいなものです。
おそらく息子が小さいときから母親はこうした行動をとっていたのでしょう。そのためこの兄弟は「今度こそ甘えさせてくれるのではないか」という期待を抱いては裏切られるということの繰り返しで、甘え欲求が満たされたことがなかったのでしょう。
そして、弟は今も母親に対して同じ行動をとっているが、兄は婚約者という新しい甘えの対象を見出したというわけです。
 
なぜ母親はこうした行動をするかというと、ひとつには自分も母親に甘えさせてもらえなかったということがあるのでしょう。そして、もうひとつには、夫婦関係がうまくいっていなくて、子どもが自立してしまうと孤独になるので、子どもを自立させないための“戦略”なのでしょう。
そして、父親も子どもを自立させないために「束縛」という単純な“戦略”を採用しているというわけです。
 
夫婦間にふれあいがないと、その代償として親と子のふれあいが密になります。そして、このふれあいはしばしば子どもの自立を阻むことになります。
 
こういうややこしい家庭で育ったために、この婚約者は女性に甘えつつ束縛するという行動をとるものと思われます。
 
もし相談者の女性がひじょうに愛情深い人であれば、このややこしい婚約者を十分に甘えさせ、束縛してきたらやんわりとたしなめるというやり方で、しだいに婚約者をまともにしていくということも可能ですが、この女性はまったくそういう人ではなく、自立していない点では婚約者と同じようなレベルと思われ、そのために婚約者に束縛されてしまっています。
ですから、この女性にアドバイスするとすれば、とにかく別れなさいというしかないでしょう。
 
 
さて、私としては、婚約者や配偶者に不可解なところがあるときは、たいてい実家を見れば理解できるはずだということを教訓にしてこの記事を終わらせるつもりだったのですが、実はこのあと相談者が婚約者と別れようとしたら、婚約者はストーカーと化して、双方の家族まで巻き込んで、まるでホラー小説のような展開になっていきます。むしろこちらのほうが問題が大きいので、収まりが悪くなってしまいました。
相談者はあまりにも自立心がなく、そうすると相談者の家族にも問題があるのかと想像されますが、ただその証拠になるようなことはなにもありません。
 
このあとの展開は、レスを省いた「トピ主のみ」を見てもわかります。

猪瀬直樹東京都知事らはイギリスを訪問し、1月10日に記者会見を開いて、オリンピックの東京招致をアピールしました。これからこうした招致活動がマスコミを賑わせていくのでしょう。
2020年夏季オリンピックの開催地には日本・東京とスペイン・マドリードとトルコ・イスタンブールが立候補しており、今年9月に正式決定されます。
 
東京の弱点は世論の支持が低いことだと言われます。それはそうでしょう。東京でオリンピックをやる理由がわかりません。東日本大震災からの復興をアピールするためという理由がつけられていますが、東京と震災被害地は違いますし、2020年には世界の人は(おそらく日本人も)震災のことをかなり忘れてしまっているでしょう。
スポーツ関係者や利権の関係者が招致に熱心になるのはわかりますが、日本人の多くが乗り気でないのは当然です。
 
先日の朝日新聞の投書欄に「五輪開催トルコに譲っては」という意見が載っていましたが、私も同感です。
今のトルコはかつての日本と同じような高度成長期にあります。日本人は東京オリンピックを成功させることで自信をつけ、敗戦国を脱して国際社会の一員になったことを自覚しました。トルコがオリンピックを開催すれば、かつての日本人と同じように自信をつけることができるでしょう。
また、これまでオリンピックは一度もイスラム国で開催されたことがなく、初めてのイスラム国開催という点でも画期的ですし、これは多くのイスラム国の人々の自信にもつながるでしょう。
トルコはまだこうした大イベントを開催したことがないのが不安要因だということも言われますが、どんな国も初めてのことをやって経験を積んでいくのです。先のサッカーワールドカップは南アフリカが初めて開催しましたし、次の夏季オリンピックはブラジルが初めて開催します。むしろ何度も開催している国よりも初めての国でやったほうが価値があります。
 
また、トルコは世界でも一、二を争う親日国です。日本とトルコが争って(今のところスペインは三番手と見なされています)、日本が勝ってトルコ人の夢を打ち砕いてしまっては、日本人にとっても寝覚めが悪いのではないでしょうか。
 
 
たとえば尖閣諸島を日本が所有しようが中国が所有しようが、世界にとっては同じことです。損も得もありません。
しかし、オリンピック開催地が日本になった場合とトルコになった場合は、世界にとって同じではありません。どう考えても、トルコで開催したほうが世界にとってはいいことが多いと思われます。
 
日本で開催するとそれなりの経済効果が得られて、開催しないよりはしたほうがいいのかもしれませんが、それはあくまでも日本にとってはの話です。世界にとってはという観点で考えると、別の結論がありえます。
しかし、こうした考えを表明する人はめったにいません。先の投書子は例外的存在です。
 
なぜそうなのかというと、今の政治学というのは、国家を中心に考えるので、国益追求が大前提になっているからです。
個人というのは分割不可能な単位なので、個人を中心に考えるのは当然ありますし、世界を中心に考えるのもあるでしょうが、家族や共同体や民族や宗教文化圏や東洋・西洋などでなく国家中心に考える必然性はありません。
会社員なら会社の利益を前提に考えます。会社員がみな自分の利益を前提にしていたら会社は成り立ちません。町内会でも各家庭が町内会の決まりを守るのは当然のことで、各家庭が自分の利益を主張していたら町内会の秩序は保たれません。
しかし、国際社会では各国家が国益を主張し、そのため国際社会の秩序はつねに危険にさらされています。
 
世の中でもっともだめな学問は倫理学だというのが私の考えですが、倫理学の次にだめな学問は教育学で、その次にだめな学問は政治学です。
政治学を頭の中から排除すれば、各国が互いに国益を主張し合って争っている現状のバカバカしさがわかるはずです。
 
そして、国益中心の発想から脱すれば、世界にとってよいのはなにかという発想が自然に出てきます。
日本が「世界のためを考えて日本はオリンピック開催をトルコに譲ることにした」と発表して立候補を辞退したら、これはこれで画期的なことです。

大阪市立桜宮高校の2年男子生徒がバスケットボール部顧問の教師から体罰を受けたのちに自殺した事件が大きな騒ぎになっています。
“イジメ自殺”の次は“体罰自殺”というわけで、マスコミと世論の騒ぎ方はいつもながらおかしいものです。
体罰は日常的に行われているのに放置してきて、自殺者が1人出たとたんに大騒ぎするのですから。
たとえば、橋下徹大阪市長は「事実なら完全に犯罪で、暴行、傷害だ」と述べ、みずから陣頭指揮をとるとして、市長直轄の調査チームを設置しました。しかし、橋下市長は前から体罰肯定論をテレビでぶってきました。みずからこういう事件が起こる下地をつくってきたわけで、この豹変ぶりにはあきれてしまいます。
また、保護者の中にも教師に体罰をするように要求する人が少なくありませんし、文化人やテレビのコメンテーターなどで、「学校で体罰が禁止されたために子どもがだめになった」などと言う人も少なくありません。
 
私はもちろん体罰には反対です。「体罰」ではなく「教師暴力」という言葉を使ったほうがいいと思います(親の体罰は「親暴力」というわけです)
よく「言ってわからない小さな子どもには体でわからせるしかない」ということを言う人がいますが、これは自分の怒りを抑えられないおとなが自分を正当化するために言っているだけです。言ってわかる年齢になるまで待てばいいだけの話です。小さい子どもに暴力をふるうのは人間として最低の行為です。
 
体罰を批判するのは当然ですが、今はみんなが批判しているので、私は少し角度を変えて、なぜ体罰がこれほど広く行われているのかということについて考察してみたいと思います。
 
朝日新聞1月12日朝刊に元プロ野球投手の桑田真澄氏のインタビューが載っていますが、それを読むと体罰の蔓延ぶりがわかります。
 
早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。
 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。
 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。
 
また、元プロ野球選手の長嶋一茂氏はテレビでこのように語ったということです。
 
  さて、正月休みを終え、この日がコメンテーターとしての仕事始めという長嶋一茂発言。司会の羽鳥慎一が「一茂さんは高校時代も野球部で、大学も体育会。厳しい指導を受けてきたんでしょうが、その辺はどうですか」ときいた。すると、長嶋は体罰擁護をとうとう語り始めたのだ。
 「われわれはビンタとかバットで尻を叩かれるなど、他のしごきを含めて、このレベルじゃなかったですけど、殴られながらもボクは愛情を感じていましたよ。何十発殴られても、いまだ恩師だと思っている。そういう関係性がひと昔前はあった。限度を超えてはいけないが、ある程度のビンタのようなものがこれで一斉に廃止しちゃうとどうなのかなというのがあるね」
 
また、事件の当事者である桜宮高校のバスケットボール部顧問は、体罰についてこのような考えを語っています。
 
大阪市立桜宮高校では、バスケットボール部のキャプテンだった2年生の男子生徒が先月23日、自宅で自殺し、その前日まで顧問の教師から体罰を受けていたことが明らかになっています。
この問題で、顧問が大阪市教育委員会の調査に対し、みずからの体罰について、「強い部にするためには必要だと思う。体罰で気合いを入れた」と話していたことが分かりました。
教育委員会側が、「体罰のない指導は無理だったか」と聞くと、顧問は「できたかもしれないが、体罰で生徒をいい方向に向かわせるという実感があった」と話したということです。
 
これらは「体罰効用論」とでもいうべきものです。暴力はいけないことだとしても、それによってスポーツが強くなるならいいのではないかという考えです。
 
先の朝日新聞のインタビューで桑田真澄氏は逆に「体罰マイナス論」というべきことを語っています。
 
暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。
(中略)
体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。
 
桑田さんは立派な見識を語っておられます。私は体罰反対派ですから、桑田さんの意見に賛成したいと思うのですが、現実を見ると、「体罰効用論」のほうが有力ではないかと思えてきます。
というのは、もし「体罰マイナス論」が正しければ、「体罰ありチーム」と「体罰なしチーム」が戦った場合、「体罰なしチーム」の勝率が高くなるはずです。そうすると、長く戦っているうちに次第に上位チームは「体罰なしチーム」によって占められていくはずです。そして、それを見た「体罰ありチーム」は方針を変更して「体罰なしチーム」になり、ほとんどのチームは「体罰なしチーム」になるはずです。
しかし、現実は多くの強豪運動部は「体罰ありチーム」です。ということは、「体罰ありチーム」のほうが「体罰なしチーム」よりも勝率がいいということが推測されます。
 
だから体罰がいいということを言っているのではありません。「体罰は悪いことだが効用がある」ということを言っているのです。
 
これは軍隊を見てみればわかります。世界のほとんどの国の軍隊に体罰はあります。日本軍のビンタだの精神注入棒だのは有名ですし、今の自衛隊でも体罰があるのは公然の秘密です。ロシアではソ連崩壊とともに軍隊内の惨状が明らかになりましたし、アメリカ軍の実態は、たとえば映画「フルメタル・ジャケット」によく描かれていますし、「愛と青春の旅立ち」のような甘い映画にも新兵訓練の過酷さが描かれています。
軍隊は、体罰を含む過酷な訓練をするほど強くなるので、そうした軍隊が勝ち残り、体罰のない甘い訓練をしている軍隊は負けて消滅していきます。その結果、世界の軍隊のほとんどで体罰が行われるようになったというわけです。
 
スポーツの世界にも同じようなことがあるのではないでしょうか。
 
もっとも、「体罰効用論」が正しいとしても、それは目先の勝利が得られる程度の効用でしかありません。体罰が人間形成にマイナスなのは言うまでもないことです。一定以上の体罰を受けた人間は、体罰肯定論すなわち暴力肯定論を主張し、しばしば暴力をふるいます。
ただ、野球のように将来プロとして生活していける可能性があると、とにかく勝てばいい、強くなればいいということで、体罰が蔓延しやすくなる理屈で、現実にそうなっています。
 
体罰は禁止するべきですが、体罰の一定の効用を認めた上で禁止したほうが、より禁止が徹底できると思います。
 
体罰の効用といっても、スポーツの種類によっても変わってくるでしょう。
野球というのは監督の采配によって選手が駒のように動き、選手の自主的判断や創造性はあまり必要のないスポーツかもしれません。バットでボールを打つのもほとんど反射神経の問題ですから。
その点、サッカーは選手の自主的判断や創造性の要素が大きいと思われ、桑田氏の見識が生きてくるでしょう(バスケットボールのことはよくわかりません)。
テニスのような個人競技では、効用はほとんどなくマイナスばかりではないかと思われます。
ただ、相撲のような格闘技では効用が大きいかもしれません。
また、たいていのスポーツでは自主的に練習しなければなりませんから、学校時代に体罰で練習させられたことはのちにマイナスになるはずです(プロ野球選手というのはずっと練習させられ続けてきており、そのため練習嫌いの人が多い)

映画「レ・ミゼラブル」を観ました。感動しました。映画もヒットしているようです。
 
実は私はヴィクトル・ユーゴーの原作をろくに知りませんでした。私が子どものころ、少年少女向け世界名作シリーズには必ず「ああ無情」が入っていたものですが、私はそのタイトルを見て敬遠し、「宝島」や「十五少年漂流記」や「トム・ソーヤの冒険」などばかり読んでいました。ミュージカルの舞台も観ていません。
もともと原作が名作である上に、ミュージカルのシナリオもよくできているのでしょう。多数の登場人物が複雑に入り組んだ長い年月にわたる物語もすんなりと頭に入ってきます。
 
物語の発端は、さすがに私も知っていました。ジャン・バルジャンはパン1個を盗んだために懲役5年の判決を受け、脱獄の罪などで19年の服役ののちに出獄します。心のすさんだ彼は、ある教会で世話になったとき教会の銀の食器を盗んで憲兵に捕まります。さらなる重罰が科せられるのは確実ですが、教会の司祭は、その銀器は私が彼に与えたものだと言って彼をかばい、さらに銀の燭台までも与えて彼を釈放させます。このときジャン・バルジャンは司祭の寛容な心に触れて改心します。
一方、ジャン・バルジャンを追いかけているジャベール警部がいます。ジャン・バルジャンが「寛容と愛」の人だとすれば、ジャベール警部は「非寛容と正義」の人です。
 
王政派と共和派が対立するフランス革命の時代が背景です。ヴィクトル・ユーゴーは共和派ですから、当然そういう政治的主張があるわけですが、それをストレートに出さずに2人の人物の対立として描き、それがさらに寛容対非寛容という原理の対立にもなるという物語の骨格がひじょうによくできています。
 
社会の大きな変動を背景に個人の運命を描くということでは、デビッド・リーン監督の「ライアンの娘」や「ドクトル・ジバゴ」が想起されますが、やはりこうした映画は感動のスケールも大きくなります。
 
ミュージカル映画といっても、アメリカ風の歌って踊るものではなく、台詞が歌になっているだけなので、ミュージカル嫌いの人でも抵抗なく観られるのではないでしょうか。
 
私はどうしても「科学的倫理学」という自分の思想に引きつけて見てしまう傾向があるので、そうすると、倫理学の教科書の演習問題にしたいような出来事の連続に見えてきます。たとえば、ジャン・バルジャンは自分と間違われた男が裁判にかけられていることを知り、その男を救うためにみずから名乗り出るべきか、それとも黙っているべきか悩みます。また、恋人を追っていくべきか、仲間とともに革命の蜂起に加わるべきか、蜂起が不利な形勢になったとき、戦いをやめるか、戦い続けるべきかなど。
 
印象的なシーンはいっぱいありますが、たとえば若い男が1人の女性に恋をすると、その若い男に思いを寄せていた別の女性は当然失恋することになります。世の中にはありふれた出来事です。しかし、3人がひとつの歌を歌うシーン (歌うパートは違う) を見ると、心が揺さぶられます。
人生には愛が得られないこともあります。その現実を受け入れる心の強さ(これも広い意味での寛容でしょう)のたいせつさを感じさせられます。これと比べると「愛は勝つ」なんていう歌は現実逃避としか思えません。
 
また、革命の蜂起の中で、1人の子どもが戦いに立ち上がり、敵の銃弾に撃たれて死にます。原作では12歳の少年となっているそうですが、映画では10歳に満たない子どものように見えます。現代の映画では決して見られないシーンです。
現代の映画では子どもが死ぬシーンはめったにありませんが、そういう意味ではなく、子どもがみずからの意志で自分の人生を決めるというシーンはまったくないという意味です。
 
現代の映画や物語に出てくる子どもは、かわいかったり生意気だったりしますが、基本的におとなの支配下にあります。つまり子どもは「教育される客体」です。そして、もし子どもが死ぬシーンがあれば、それはあくまで気の毒な犠牲者として描かれます。
しかし、この映画では子どもが「生きる主体」として登場し、その死は誇りある死として描かれます。そのことに感動します。
 
アナール派歴史学の代表的著作「『子ども』の誕生」(フィリップ・アリエス著)によると、近代以前は子どもは単に「小さなおとな」と認識されていて、今の私たちがいだいているような子ども像は近代になってから生まれたものだということです。「レ・ミゼラブル」には近代以前の子ども像が出てくるということでしょう。
 
 
ところで、朝日新聞を読んでいたら、フランスではなぜ日本のマンガが広く受け入れられているのかということを探った『マンガジュテーム〈「なぜ」を訪ねて:8〉』(1月9日朝刊)という記事があり、フランスで伝説のマンガ雑誌を創刊した竹本元一さん(60)という人がこんなことを語っていました。
 
「フランスは天地をひっくり返す革命の国。いつも善人が悪人をやっつける米国のヒーローものだけでは物足りないのです」
 
そう、「レ・ミゼラブル」はアメリカ風のエンターテインメント映画とはまったく逆の構造になっています。
ジャン・バルジャンは犯罪者です(仮釈放の身で逃亡した)。ジャベール警部は正義を実現するためにジャン・バルジャンを追っています。となると、ジャベール警部がジャン・バルジャンを逮捕するか殺すかしてエンディングとなるのがエンターテインメント映画の常道です。
しかし、「レ・ミゼラブル」では、すでに述べたようにジャン・バルジャンは「寛容と愛」の人として描かれます。かといって、ジャベール警部が悪人というわけではありません。正義を信じて行動していますし、正義が信じられなくなると悩みます。
 
アメリカ式エンターテインメント映画では、正義対悪という構図になっており、「レ・ミゼラブル」では寛容対不寛容という構図になっているととらえるとわかりやすいでしょう。
 
アメリカ式エンターテインメント映画では、最後は正義のヒーローが悪人を殺して、観客はスカッとするという仕組みになっています。スカッとはしますが、別に感動はしません。
しかし、「レ・ミゼラブル」では深い感動があります。
 
映画に限らず世の中を寛容対不寛容という構図で見てみると、いろんなことが見えてきます。
 
今の世の中はジャベール警部的な不寛容の原理におおわれています。凶悪犯が裁判にかけられると、マスコミや世論は犯罪者に対して謝罪しろ、反省しろと迫りますが、そんなことで反省の気持ちがわいてくるわけがありません。あの教会の司祭のように、犯罪者のことを心から思う人間がいて、その心にふれたときに犯罪者は改心するのです。
 
フランス革命がバスチーユ監獄を襲撃して囚人を解放することから始まったことを忘れてはなりません。
 
今は曲りなりに民主主義の世の中になり、倒すべき王政もありませんが、寛容対不寛容の戦いは続いています。
その意味では、革命の旗は今も振られねばなりません。

「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがありますが、地震や台風に慣れた日本人はとりわけ悪いことを早く忘れてしまうようです。南海トラフ巨大地震の可能性がいわれているのに、すでに原発を再稼働させています。
民主党政権から自公政権に戻ったのも、かつての自公政権時代のことを忘れてしまったからでしょうか。
 
とはいえ、すでに安倍内閣が発足してしまったので、日本の首相は毎年替わると外国からあきれられないように、当面はささえていったほうがいいと思うのですが、これほどささえがいのない首相はいないでしょう。なにしろ難病持ちなので、いくら周りがささえても、前回がそうだったように、自分から政権を投げ出してしまうかもしれないからです。
 
安倍首相本人は新薬が効くから大丈夫と思っているようですが、それは無役の国会議員や野党の総裁のときのことです。首相のストレスに対しても同じように効くとは限りません。
たとえば、これからアメリカの圧力でTPP交渉参加を表明することになるでしょうが、それだけで自民党内の反対派と大きな軋轢が生じることになります。
 
安倍首相の政権投げ出しのことも国民は忘れてしまったのでしょうか。
 
ただ、今のところ安倍内閣の船出は調子いいように見えます。というのは、円安株高が経済界から歓迎されているからです。
 
いわゆる「アベノミクス」については、経済の専門家の評価も分かれていますし、私も簡単には判断できないと思っていましたが、時間がたつとともにだんだんと見えてきました。
結局のところ、金融政策だけで景気をよくすることはできないでしょう。多くのエコノミストも同じ考えのようです。金余りになっても、物に対する需要がふえるわけではないので、物価も大して上がらないでしょう。
それでも経済界でアベノミクスを歓迎する声が多いのは、現に株価が上昇し、これから地価も上がりそうだからです。つまり資産バブルを歓迎しているのです。
 
ここでも「のど元過ぎれば熱さを忘れる」になっています。資産バブルは一見好景気に見えますが、バブルがはじければひどい後遺症に悩まされます。それは日本人が自分のこととして経験していますし、アメリカの住宅価格バブルがはじけた後遺症は今も世界を悩ませています。
 
麻生財務相も「日経平均株価が1万5000円にもなれば何となく気持ちが豊かになる」と述べましたが、これも実体経済がよくなるのではなくバブルになるという認識を述べているのでしょう。
 
円安の進行は輸出企業の収益にはプラスになるので歓迎されていますが、円安は国債価格の暴落を招くという説もあります。
 
 
結局のところ、少子高齢化の進む日本で景気をよくしようとすれば、よほど大胆な構造改革をしなければならないはずです。
そして、大胆な構造改革をするには大胆な発想の転換が必要です。ところが、今の日本人は狭い範囲でしか物事を考えることができず、そのため同じところをグルグルと回る格好になっています。
 
では、「大胆な発想の転換」とはどんなものでしょうか。試しに私が考えてみることにします。
 
安倍首相は自衛隊を「国防軍」にするために憲法9条改正を目指しています。最高裁は自衛隊違憲判決を出しませんでしたが、9条の「戦力の不保持」と自衛隊の存在は明らかに矛盾していますから、これをなんとかしたいと思うのはもっともなことです(もちろん今のままでいくのがいいという考え方もありますが)
しかし、「戦力の不保持」と自衛隊の存在という矛盾を解消するにはもうひとつのやり方があります。それは自衛隊をなくすことです。
 
これは実に当たり前の発想で、なぜ誰も言わないのか不思議でなりません。みんな戦争文化にどっぷりと漬かってしまっているのでしょうか。
自衛隊をなくしても安保条約はあります。アメリカは文句を言うでしょうが、アメリカとしては日本にどうしても米軍基地を置いておきたいので、アメリカから安保条約を解消する理由はありません。日本が勝手に自衛隊をなくしてしまえばいいのです(かりに安保条約も米軍基地もなくなっても、島国ですから非武装国家として生きていくことは十分可能だと思います)
 
日本の防衛費は4.8兆円です。戦車や戦闘機にはなんの生産性もありませんから、これほどむだな投資はありません。これを別の方面に投資すれば、それだけで経済はよくなります。
日本のように巨大な財政赤字をかかえている国が他国並みの軍事費を支出するのは道楽というしかありません。
 
そして、日本が軍事費ゼロ国家として繁栄していけば、それを見習おうという国も出てくるでしょう。つまり日本は世界平和にも貢献できるのです。
 
 
もうひとつ、日本の経済を立て直す秘策があります。それは憲法を改正して、国民に無償労働を義務化するのです。
 
世の中には徴兵制を敷くべきだという考えの人がいます。しかし、兵隊は経済に貢献しません。そこで、労働者として徴用するのです。たとえば、若者に2年間の無償労働を義務づけると、無償の労働力を使える企業は大いに収益が向上します。
また、これによって引きこもりの若者も社会性を身につけて引きこもりから脱出できるという効果も期待できます。
これはいわば年限奴隷制です。古代ギリシャや古代ローマは奴隷制で繁栄しました。
ほかに、たとえば15歳のときに全国統一テストをして、一定の点数に到達しない者は一生奴隷とするやり方も考えられます。
 
今述べたことは冗談です。実際にやれと言っているのではありません。
世の中には人権思想を嫌う人がいます。橋下徹大阪市長もそうでしょうし、自民党の憲法改正草案は基本的人権を守る姿勢がないと批判されていますし、いわゆるネトウヨも反人権的な主張をしています。しかし、もし人権思想がなくなってしまえば、奴隷制復活の動きが出てきたとき、反対する論理がなくなってしまうということが言いたいわけです。
 
ともかく、こういう大胆な発想がなければ日本復活はないでしょう。金融政策でなんとかできるというものではありません。
 
とはいえ、またバブルの時代が始まるのかもしれません。
しかし、これがバブルだとわかっていればそれなりに対処することができます。株は空売りすることができますし、日経平均先物もありますから、上昇過程では買いポジション、バブルがはじけてからは売りポジションを取れば、往復でもうけることができます。
 
昔のバブルのとき、私の知人で株をやっている人がいて、いつも景気のいい話をしていました。しかし、こういう人はバブルがはじけたとき、バブルがはじけたということに気づかず、安くなった株を割安だと思ってどんどん買っていました。信用取引をしていた人は全財産を失ってしまうということもありました。
 
過去から学んで、同じあやまちを繰り返さないようにしたいものです。
 
 
ところで、去年は1日置きにブログの更新をしていましたが、あまりブログに時間を取られているわけにいかないので、今年は少し更新の回数をへらそうと思います。週に3.5回だったのが2.5回から2回ぐらいの感じになると思います。
 

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。そして、みなさまにとって本年がよい年でありますようにお祈り申し上げます。
 
年の変わりを機会に、知っている人には繰り返しになりますが、このブログの主旨について改めて説明しておきます。
 
ブログ主の村田基は、あまり有名でない小説家ですが、「善と悪とはなにか」ということを考えているうちに、道徳についての新しい考え方がひらめきました。この考え方は、道徳観のコペルニクス的転回であると同時に、進化論に合致したものでもあるので、とりあえず「科学的倫理学」と名づけています。
「科学的倫理学」とはこのようなものです。
 
・人間はほかの動物と同じく基本的に利己的な存在で、つねに互いに生存闘争をしている。
・人間はほかの動物と違って言葉も武器として生存闘争をしている。
・他人の行動について、自分の利益になるものを賞賛し、自分の不利益になるものを非難する。そうした言葉づかいの体系が道徳である。
・道徳の中心概念は「善・悪・正義」である。他人の行動について、自分の利益になるものが「善」、自分の不利益になるものが「悪」、「悪」をなす人間を攻撃・排除・処罰することが「正義」である。
・弱者の道徳は強者の道徳に駆逐され、最終的に集団は強者の道徳に支配される。
・道徳によって集団に秩序がもたらされる面がある。
・道徳によって生存闘争が必要以上に激化する面がある。
・道徳を正しく把握することによって、必要以上の生存闘争を回避することができる。
 
従来の倫理学や一般の常識では、道徳すなわち「善・悪・正義」は人間の生き方を示す指針と考えられていますが、こういう考え方では決して「善・悪・正義」を正しくとらえることができません。そのため倫理学はまったくデタラメな学問となっています。
 
西洋倫理学においてもっとも古典とされる著作は、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」ではないかと思われます。これは全10巻、岩波文庫で2分冊の分量があるのですが、その内容はというと、おそらく知っている人はいないでしょう。つまり知るに値するようなことはなにもないのです。
近代倫理学においてもっとも高く評価されるのはカントの著作ではないかと思われます。「定言命法と仮言命法」とか「恒久平和」といったことは比較的知られていますが、カントの倫理学にどれほどの価値があるのかを説明できる人はいないでしょう。カントの著作はきわめて難解で、カントの解説書ですら難解です。
最近、「ハーバート白熱教室」のマイケル・サンデル教授が人気となっています。しかし、サンデル教授の講義は白熱するだけで、結論がありません。無意味な白熱はすぐに飽きられるでしょう。
 
従来型の倫理学はあまりにも無価値な学問であるために、今ではほとんど顧みられることがありません。
 
従来型の倫理学に対して、道徳を否定的にとらえるものを新型の倫理学とでも名づけることができるでしょうか。これにはルソーの思想、マルクス主義、フェミニズムがあります。つまり支配階級と被支配階級、男性と女性という関係で、強者が弱者を支配する道具として道徳があるという考え方です(道徳を弱者のルサンチマンととらえるニーチェの思想もこの系譜かもしれません)
しかし、これらの考え方も中途半端であるために力を持ちませんでした。
 
そして私は、支配階級と被支配階級、男性と女性だけでなく、親と子、おとなと子どもの関係も支配・被支配の関係になっていると考えました。というか、むしろ親と子、おとなと子どもの関係こそが支配・被支配の始まりであると考えたのです。
親が自分に従順な子どもを「よい子」とし、自分に反抗的な子どもを「悪い子」とし、「悪い子」をこらしめる親の行動を「正義」としたのが道徳の始まりというわけです。
私の考えのオリジナルなところはこれだけですが、ここまで踏み込むことによって「善・悪・正義」が定義され、倫理学の土台が築かれることになりました。
 
ところで、ダーウィンも道徳の起源について考察しています。ダーウィンの考えは、社会性動物には親が子を世話したり、仲間を助けたりする利他的性質があり、人間は利他的性質をもとに道徳をつくりだしたというものです。
私の考えは、社会性動物に利他的性質があるのは事実だが、利己的性質のほうがより強く、人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたというものです。
 
今のところ、「科学的倫理学」といえるものは、ダーウィン説と私の説のふたつがあることになります。
 
人間がほかの動物と同じように互いに(爪や牙だけでなく言葉まで使って)生存闘争をしているというのは、ダーウィンに限らず信じたくないことかもしれません。しかし、これこそが「汝自身を知れ」ということなのです。
 
私はこの「科学的倫理学」についての本を執筆中ですが、世の中の常識と正反対であり、かつ問題が広範囲に渡るために、なかなか書き進めることができません。そこで、とりあえずこのブログを書くことで「科学的倫理学」を理解してもらうとともに、自分自身の考えを深めていこうとしているわけです。
 
私の考えはごく単純なものなので、わざわざ本を書かずとも、ここで書いたことだけで十分ともいえます。ここで書いたことをもとに自分で考えを発展させていく人がどんどん出てくることを期待しています。
 
 
なお、正月休みということで1週間ほどブログの更新を休みます。

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