村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年02月

昔、握り寿司は箸でなく手で食べたほうがおいしいとされ、箸で食べると寿司通にバカにされたものです。しかし今、握り寿司を手で食べる人はめったにいません。手で食べると手が汚れて不愉快だからでしょう。
もともと箸を使うようになったのは、手で食べるよりもそのほうが食べやすかったからに違いありません。西洋でナイフとフォークが発達したのも、手で食べるよりも食べやすかったからであることは明らかです。
つまり箸やナイフとフォークを使うのは、基本的に使う本人にとってそのほうがいいからです(インド人もそのうち手づかみをやめるかもしれません)
 
しかし、今では本人にとっていいからではなく、見る人にとっていいことが求められます。つまりテーブルマナーです。
 
たとえば刺し箸、寄せ箸、迷い箸などはマナーが悪いとされます。しかし、こうした細かいマナーに縛られることでかえって不幸になっている面があるのではないでしょうか。
 
次は「ヤフー知恵袋」に寄せられた質問です。
 
家の祖父と祖母はお互いに寄せ箸をします。(器を箸で引き寄せたり、押したりする...
 too11583さん
 
家の祖父と祖母はお互いに寄せ箸をします。(器を箸で引き寄せたり、押したりすること)この事はよくないというのをあるサイトで見るまでは知りませんでした。しかし、判ってからやるのを見ていると非常に情けなく思います。たいした事無いかもしれませんが、皆さんの周りにも同じようなことをする人はいませんか?こんなに気になるのは私だけなんでしょうか?
 
これに対する回答でベストアンサーに選ばれたのは、「祖父母ともお年のようだから治りようがないでしょう。見て見ぬふりをするしかありません」というものです。
 
この質問者は、寄せ箸がよくないということをサイトを見て知ったということです。もしそのことを知らなかったら、悩むこともなかったと思われます。
つまり食事のマナーがあるばっかりに(知ったばっかりに)不幸になってしまったという例です。
 
寄せ箸がいけないのは、もともとはその器をひっくり返してしまう恐れがあるからでしょう。しかし、ひっくり返さない自信があれば、やってもいいはずです。
私は今は刺し箸はしませんが、考えてみると、子どものころはやっていました。里芋など子どもの不器用な手でつかみにくいものは、刺したほうが食べやすいということもあると思います。
 
見ていて不愉快に思う人がいるからやってはいけないとなると、行動の自由がひとつ失われることになります。
こうしたマナーがどんどんふえていくと、どんどん不自由になっていくことになります。
これを「洗練」とか「上品」といって肯定し、どんどんその方向に進んできたのが文明というものです。
しかし、みんなが同じように上品になるわけではありません。上品な人と下品な人の間に溝が広がることになります。
 
次は掲示板「発言小町」に寄せられた相談です。
 
こんな夫と一緒に食事をしなくてもいいでしょうか?  くらら 2013215 9:51
 1年以上夫と一緒に食事をしておりません。
私が作って食べ、その後に夫が食べます。
 
夫は食事マナーが悪く(肘をつく,寄せ等)、私が注意すると「うるさい!」と言うので、
言わないで我慢してきましたが、ある日私がまだ食事中なのにすぐそばで鼻をほじくりました。
そのときから私は夫がいると、食事が喉を通らないようになりました。
育ちが悪くてマナーがなっていないのなら、まだよかったのです。知らないのは仕方がないので。
でも、夫の実家はきちんとした家です。
 
夫が来ると私は食事をやめて別室に行くので、夫は私が食べているときは台所に入って来なくなりました。
 
一人で食べるごはんは本当においしいのですが、家族としてこれでいいのかな?とも思います。
本当は以前のように、笑いながら一緒に食事をしたいという気持ちもあります。
もう二度とそんなことはできないのでしょうか?
 
これもマナーがあるばっかりに不幸になってしまった例です。
もっとも、トピ主のこのあとの書き込みを見ると、夫婦間にはいろいろ問題があったようです。それがテーブルマナーの問題に集約されて出てきた格好です。
 
この解決策としては、夫がマナーをよくするべきだと考える人が多いのではないでしょうか。しかし、妻がマナーのことを気にしないようにするという解決策もありますし、それが私のお勧めです。
 
私が「洗練」や「上品」には限度があるはずだと考えるのは、赤ん坊には「洗練」も「上品」もないからです。つまり上品な人間をつくるには、子どもにマナーを教えなければなりませんが、教える作業がおとなにとっても子どもにとっても重荷になるなら、ほどほどにしたほうがいいと思うのです。
 
今ではむりやり子どもにマナーを教えている家庭が多いのではないでしょうか。そのことがまた不幸を生みます。
 
箸の持ち方直せ、と友人Aが友人Bに注意、喧嘩になってしまい…  せい 2013122 12:46
 私と友人Aと友人Bが外食した時の話です。
私と友人Aは箸の持ち方は普通です。Bは良く見たらちょっと
違うかな、という持ち方をしてます。
というか私はそれに全く気がつきませんでした(汗
友人Aが友人Bに「箸の持ち方がおかしい、
社会人になってそれじゃあ
会社の人とか彼氏の両親とかと食事した時恥だから治したほうがいいよ」
と忠告。
友人Bは「うんそうだね…」とこのときは普通に終わったのですが。
それから三ヶ月。何度か食事しましたが友人Bの箸の持ち方がなおってないらしく。
そのたびにAが口うるさく注意してました、この前とうとうBが切れて
「練習はしてるよ。でも中々なおらないんだ」
「え? すぐなおせるもんだよ。あんた練習してないんじゃないの?」と二人喧嘩になってしまいました。
私が仲裁に入りましたが、二人は喧嘩したままです。
こういう場合、どちらについたらいいのかもわかりません。
ABのためを思って言ってるのはわかりますし、でもBも練習しているのに(実際矯正箸をかって練習してるのみました)一々煩い。と思う気持ちもわかりますし。
どうしたらいいのでしょう? 箸の持ち方なんて一々気にしてみてなかったんで、
気にする人の心理さえわからず困ってます。
 
友人に口うるさく言えば、喧嘩になって当然です。なぜ口うるさく言ってしまったのかというと、自分が子どものころ親から口うるさく言われたからではないでしょうか。
 
そもそも食卓でマナーのことを口うるさく言っていては、食卓が楽しいものになりません。人を不愉快にしないためのものがマナーであるはずなのに、マナーを教えるために食卓が不愉快になっては本末転倒です。
 
世の中の常識は、マナーを身につけるのはよいことで、子どもにきびしくマナーを教えるのもよいことだというものでしょう。
私の考えはそうした常識とは逆ですから、納得いかない人も多いかと思いますが、人を不愉快にしない、食卓を楽しくするという原点を踏まえれば、私の考えも理解してもらえるのではないでしょうか。
 
テーブルマナーに関して、私の好きなこんな話があります。
洋食のコースでフィンガーボールが出てきて、知らない人が飲み物だと思ってその水を飲んでしまったとします。こんなとき同じ食卓にいる人はどうするのが正しいマナーかと聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。
正解は「自分も飲む」です。
自分もいっしょに恥をかけば、その人の気持ちが楽になるからです。
 
それからこんな話もあります。
中華料理はうるさいテーブルマナーのないのが特徴ですが、料理をこぼすのはさすがにみっともない行為です。真っ白いきれいなテーブルクロスだと、なおさらこぼしにくくなります。ですから、客人を招いた主人は最初にわざと自分が料理をこぼしてテーブルクロスを汚すのだそうです。そうすれば客人はテーブルクロスを汚すことを気にせずリラックスして食事できるようになるというわけです。
 
テーブルマナーというのは、知識として知っているのはいいことですが、こだわるのは愚かなことです。
私自身は、人のマナーを批判することだけはしないように心がけています。

訪米した安倍首相は2月23日、オバマ大統領と会談し、共同声明を発表しました。新聞には喜色満面の顔でオバマ大統領と並んでいる写真が出ています。しかし、実際のところはどうだったのでしょうか。
 
安倍首相にとっての“成果”は、TPP交渉参加に「聖域」が認められると共同声明にうたわれたことです。これで安倍首相はTPP反対派を説得しやすくなりました。しかし、アメリカはTPPへの日本の参加を望んでいるのですから、これはアメリカにとって譲歩でもなんでもありません。
あと、北朝鮮制裁で一致したとか、原発ゼロを見直すと表明したとか、ハーグ条約加盟を約束したとか、どうでもいいようなことばかりです。
逆にマイナスなのは、普天間飛行場の早期移設を言明したことです。辺野古を埋め立てるというのは、地元も反対していますし、国際的な環境保護団体も黙っていませんし、現実にはほとんど不可能です。肝心のことで交渉することを放棄しています。
 
それでも安倍首相は、「日米同盟の強い絆は完全に復活した」と誇らしげですが、これは勘違いというしかありません。朝日新聞はこう書いています。
 
 ●「野田前首相を評価」
  安倍首相が民主党を批判して「日米の絆を取り戻す」と語る姿にも、米側は違和感をぬぐいきれない。
 
 「我々は野田佳彦前首相を評価している」。米政府関係者から異口同音に聞かれる受け止めだ。オバマ氏は任期の大半を、民主党の首相たちと付き合ってきた。最初の鳩山由紀夫元首相とは普天間問題で関係がこじれたが、菅直人元首相とは東日本大震災への対応で連携。野田前首相に対しては、普天間、TPP、ハーグ条約、エネルギーなどの問題を実務的に進めたという評価が、米政府内で定着している。これを引き継ぎ、さらに前進させて欲しいというのが米国の本音だ。
 
アメリカの安倍首相に対する評価は、今回の訪米における安倍首相の扱い方を見ればわかります。
たとえばちょうど1年前、中国の習近平氏が国家副主席の肩書きで訪米しましたが、アメリカはこんな扱いをしています。
 
ワールドウオッチ:WASHINGTON D.C. 訪米した習近平副主席と米政府の静かな駆け引き
 20120227
 中国の習近平件国家副主席(58)が2月、米国を公式訪問した。11月の米大統領選で再選を目指すオバマ大統領と、次期最高指導者と目される習副主席が、米中新時代を見据え、いかに対峙するかが1つの見所となった。
 
 ワシントンでは14日、バイデン副大統領、オバマ大統領、パネッタ国防長官との各会談や盛大な昼食会、晩餐会が用意され、「国賓」に近い厚遇となった。
 
一方、今回の安倍首相の扱いについて、中国系のニュースサイトはこんなふうに書いています。
 
安倍首相の訪米 "冷遇"される?
2013-02-23 15:13:18   
 日本の安倍晋三首相は現地時間の22日午前、アメリカのワシントンにあるホワイトハウスに赴き、オバマ大統領と会見しました。しかし、意外なことに安倍首相の今回の訪米は、一国の政府首脳の公式訪問だというのに、オバマ大統領との共同記者会見の時間も予定より短縮され、アメリカのメディアはそのライブ映像すら出していないことです。その原因はどこにあるのか?そして双方の会談はどんな結果がえられたのか?今日の時事解説は、これらのことについての当放送局記者のリポートをご紹介しましょう。このリポートは次のように書いています。
  通常では、ホワイトハウスのホームページやアメリカのニュースチャンネルは大統領と安倍首相の会見、特にこの二人の指導者の共同記者会見を生中継するはずですが、今回、この世界一の経済国と世界三の経済国の首脳の会見は、ありえないようなくらいに簡単に報道され、ホワイトハウスのホームページやアメリカのニュースチャンネルもその模様を生中継していません。
 
 米日指導者の会談後の共同記者会見の時間も短縮され、オバマ大統領と安倍首相はそれぞれ1問答えただけで、会見は幕を閉じたのです。つまり参加人数の限られた記者会見では、質問は二つだけでした。1つは、朝鮮核問題と中日間の釣魚島問題についてです。これに安倍首相は、日本とアメリカが朝鮮の挑発行為に強烈に対応し、米日同盟を基盤にして領土問題を解決したいと表明しました。そしてもう1つの質問は、アメリカ政府の財政支出の自動的削減についてだったのです。このことから、今回の安倍首相の訪米は「日帰り旅行のようで慌しくて注目されていない」と評価されました。
 
習近平氏と安倍首相を比較しては安倍首相が気の毒かもしれません。
では、野田前首相と比較したらどうでしょうか。野田前首相が昨年4月訪米したときは、オバマ大統領主催の昼食会、クリントン国務長官主催の晩餐会が行われました。なにもない安倍首相と比べると明らかに厚遇されています。
 
しかし、日本のマスコミは、昨年3月にイギリスのキャメロン首相が訪米したときはオバマ大統領主催の晩餐会が開かれたことと比較し、さらには201110月に韓国の李明博大統領が訪米したときもオバマ大統領主催の晩餐会が開かれたことと比較して、野田首相はアメリカに冷遇されたと書き立てました。
 
とすると、今回の安倍首相の訪米についてマスコミは野田前首相よりも冷遇されたと書き立てなければなりません。公式訪問ではなく非公式訪問の扱いだからこれでいいのだという考え方もあるかもしれませんが、首相の初の訪米が非公式扱いされたとすれば、やはりそれは冷遇ですし、副主席の肩書きでも国賓並みの厚遇を受けた習近平氏と比較しても明らかでしょう。
しかし、マスコミは冷遇されたとは書きません。たとえば2月24日付読売新聞社説の書き出しはこうです。
 
安倍首相に対する米政府の期待の大きさが鮮明になった。首相は政治、経済両面で「強い日本」を復活させ、その信頼に応えるべきだ。
 
なぜ現実と反対のことを書くのでしょうか。
安倍首相がアメリカから冷遇されたのは、おそらく安倍首相の尖閣問題や従軍慰安婦問題についての右翼的な姿勢がアメリカに嫌われているからでしょう。
ですから、日本の右寄りのマスコミにとっては“不都合な真実”なので書けないのです。
 
今回の安倍首相の訪米をはっきりと「冷遇」と書くかどうかで、そのマスコミの立場がわかります。

大阪市立桜宮高校のバスケットボール部キャプテンの男子生徒が体罰を受けたあと自殺した問題に関して、前バレーボール全日本女子代表チーム監督の柳本晶一氏が顧問に就任したというニュースがありました。バレーボールの人がバスケットボール部の顧問に就任するとはへんな話だなと思ったら、そうではなくて「桜宮高校改革担当の市教委事務局顧問」に就任したのでした。桜宮高校全体の指導に当たる立場なのでしょう。
 
柳本氏の発令式「生徒たちを元気にしたい」
 
結局のところ、体罰問題が桜宮高校の運動部の立て直しの問題にすりかわっています。桜宮高校の運動部がどうなるかということは大した問題ではありません。体罰さえ禁止すれば、あとは生徒に任せておいてもいい問題です。
 
女子柔道日本代表での体罰問題が表面化したこともあって、「スポーツと体罰」ということがクローズアップされています。しかし、学校においては、部活における体罰よりも教室における体罰のほうがより大きな問題です。部活の場合は、体罰教師がいたら部活をやめてしまってもいいわけです(桜宮高校のスポーツ系学科においてはそう簡単な問題ではなかったようですが)。しかし、教室での体罰の場合、生徒に逃げ道がないので深刻です。
 
また、高校生にもなると、教師もそう簡単に体罰はできません。小学校と中学校の体罰のほうがより深刻であるに違いありません。
 
日本の学校において、どうしてこのような体罰の伝統が生まれてしまったのでしょうか。ちょうど政治学者の片山杜秀氏が朝日新聞に書いておられたので、その一部を引用します。
 
体罰、近代日本の遺物 「持たざる国」補う軍隊の精神論
 日本の軍隊では体罰は日常茶飯事だった。戦後5年めの座談会。政治学者の丸山真男は徴兵体験をこう振り返る。「(なぜ殴られるのか)考えているうちに十くらい殴られてしまうん(笑声)ですからね」
 
 軍隊での暴力的指導はいつからのことか。明治維新期の建軍当初からか。そうでもないらしい。敗戦時の首相、鈴木貫太郎は海軍軍人。日清戦争前に海軍兵学校を卒業した。自伝を読むと、その頃の兵学校は暴力と無縁だったという。
 
 転機は日露戦争。元陸軍大将の河辺正三が戦後に著した『日本陸軍精神教育史考』にそうある。相手は超大国。ロシア軍は大人数で装備もよい。「持たざる国」の日本が張り合えるのか。大慌てで新規徴兵した。しかし中身が伴わない。練度が低い。弾も少ない。戦闘精神も上官への服従心も不足。おまけに敵は西洋人。体格がいい。小柄な日本人が白兵戦を挑むとなるとつらい。
 
 苦心惨憺(さんたん)のやりくりの末、日露戦争は何とか負けずに済んだ。が、次は分からない。仮想敵国は西洋列強ばかり。常備戦力を彼らに太刀打ちできるほど増やす。装備も訓練も一流にする。そうできればよい。しかし、日本は人口も武器弾薬も工業生産力も足りない。結局、期待されたのは精神力だ。戦時に動員されうる国民みなに、日頃から大和魂という名の下駄(げた)を履かせる。やる気を示さぬ者には体罰を加える。痛いのがいやだから必死になる。言うことも聞く。動物のしつけと同じ。
 
 もちろん軍隊教育だけではない。大正末期からは一般学校に広く軍事教練が課された。過激なしごきは太平洋戦争中の国民学校の時代に頂点をきわめた。
 
 『日本人はどれだけ鍛へられるか』という戦争末期の児童書がある。日本人はしごかれると英米人よりもはるかに高い能力に達するという。理屈はよく分からない。でもそう信じれば勝てるという。これぞ精神論である。
 
 戦後、日本から軍隊は消えた。しかし暴力的指導の伝統はどうやら残存した。「持たざる国」の劣位や日本人の体力不足は気力で補うしかない。日本人は西洋人に個人の迫力では劣っても、集団でよく統率されれば勝てる。そういう話は暴力的な熱血指導と相性がよい。体格の立派な外国人と張り合うスポーツの世界ではなおさらである。
 
軍隊式の教育が今も行われているということでしょう。校庭に整列しての朝礼とか、気をつけ、休め、右向け右などの動作練習も軍隊式の名残りです。こういうことは実生活ではなんの役にも立ちません。
ただ、軍隊ではこうしたことが役に立ちますし、体罰も強い軍隊には欠かせません。元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏がツイッターで、マスコミは体罰問題を騒ぎすぎだと批判して、「騒げば騒ぐほど現場の指導的立場の人たちが指導力を失うことになります」「背景には強い者は悪く、弱い者が正しいという左翼思想が存在しているのです。日本弱体化進行中」と書いたのも、その立場としてはもっともなことです。
 
左翼が体罰反対かというと、必ずしもそうではないと思われますが、体罰に賛成か反対かは、その人の生き方を規定するぐらいの大きな問題です。
たとえば、体罰を受けた人が「体罰に愛情を感じた。愛情のある体罰ならいい」と言って体罰を正当化する場合がよくあります。私はこれを「動機における正当化」と呼んでいます。つまり暴力行為そのものを正当化するわけにいかないので、「愛情」という動機を想定することでなんとか正当化するわけです(そういう人に対して私は「殴る愛情」より「殴らない愛情」のほうがいいのではないですかと反論しますが)
 
このように暴力を愛情と結びつけて正当化した人は、恋愛の相手に対して暴力をふるう可能性がありますし、自分の子どもに対しても暴力をふるう可能性があります。
こういう人が世の中にいっぱいいるというのは、考えてみれば恐ろしいことです。
 

アベノミクスがもっぱら注目される安倍内閣ですが、安倍首相は教育再生を掲げ、道徳教育にも力を入れています。憲法改正や自衛隊の国防軍化や北朝鮮制裁などタカ派路線を歩む安倍首相はどんな道徳教育をするのでしょうか。
 
道徳を正規教科に」提言へ…教育再生会議
 政府の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)は15日、児童・生徒の「心の教育」を充実させるため、道徳を学習指導要領で正規の教科と位置づけることを政府に求める方針を固めた。
  今月末にまとめるいじめ対策、体罰問題に関する報告書に盛り込む考えだ。道徳を小中学校の正規の教科と位置づけることで、授業時間の確保や質の充実を図り、生徒らの規範意識向上を図る必要があると判断した。
  同会議は15日、首相官邸で会合を開き、いじめ対策や体罰問題、道徳教育の充実について議論した。首相は「子どもたちの規範意識や豊かな人間性を育んでいくために何が必要かとの視点で考え、道徳教育を充実していくことが大切だ」と述べた。鎌田座長は会議後の記者会見で「有識者からは、道徳を教科化すべきだという意見が大勢だった。反対意見は出なかった。こうした点を踏まえて取りまとめる」と語った。
20132161000  読売新聞)
 
今月末に出る報告書には、今話題の体罰問題も盛り込まれるということで、どんなものになるか楽しみですが、私なりに推測してみましょう。タカ派の安倍首相なら絶対こんな内容になるはずです。
 
国家に自衛権があるように、個人には正当防衛権があります。教師が生徒に体罰を加えようとしたら、当然正当防衛権を発動して反撃することが許されます。また、体罰が自分ではなくクラスメートや部員仲間に向けられた場合は、集団的正当防衛権を発動することができます。つまり集団で教師をボコボコにすることができるのです。このように道徳教育で正当防衛権のことをしっかり教えれば、学校での体罰を一掃することができるはずです。
 
このようにタカ派の道徳教育はきわめて現実的で役立つものになります。
 
国家は国益追求を第一にします。これを個人に当てはめると、個人は自分の利益追求を第一にするということです。ですから、安倍式道徳教育ではもっぱら利己主義が奨励されることになります。安倍内閣は尖閣でも竹島でも絶対に譲りません。それは日本の固有の領土だからです。個人も同じように、たとえば電車で座席に先に座れば、それは自分の“固有の座席”ですから、たとえ年寄りが譲るように要求しても絶対に……なんていうことはありません。それは問題が違います。
要するに正当な利益の追求が奨励されるわけです。
 
たとえば会社でサービス残業を強要されることがあれば、断固正当な残業代を要求します。こういう交渉で弱腰になることは、安倍式道徳教育ではもっとも非難されることです。
企業が利益を上げているのに従業員の給料を上げないというときも、従業員は自分の利益を追求して断乎として賃上げを要求しないといけません。もちろん個人で要求しても企業を動かすことはできませんから、集団で、つまり組合を通して団体交渉をすることになるでしょう。
今、安倍首相はデフレ脱却のために経団連などに賃上げを要求して孤軍奮闘しています。しかし、将来は安倍式道徳教育で教育された世代がみずからの力で賃上げを勝ち取っていくでしょう。その日がくるのが今から待ち遠しいですね。
 
 
もっとも、まったく別の道徳教育になってしまうかもしれません。
先の総選挙の自民党の公約にはこう書かれています。
 
教育基本法が改正され、新しい学習指導要領が定められましたが、いまだに自虐史観や偏向した記述の教科書が多くあります。子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう、教科書検定基準を抜本的に改善し、あわせて近隣諸国条項も見直します。
 
要するに日本人としての誇りを持たせる教育をするということです。
しかし、個人としての誇りを持たせる教育、つまり自尊心を持たせる教育をするとは書いてありません。
自尊心のない人間は、人と交渉するときも弱腰になってしまい、自分の利益を追求することができません。イジメられたときもはねつける強さを持てません(「日本人としての誇り」は日本人同士ではなんの役にも立たない)。
自民党は日本人をみんな自尊心のない人間にしてしまおうというのでしょうか。植民地主義の教育は民族の誇りを奪うものでしたが、それと同じようなものです。
 
安倍首相は自尊心のある日本人をつくりたいのか、それとも自尊心のない日本人をつくりたいのか、どちらでしょうか。

北朝鮮が2月12日、3度目の核実験をしました。まったく身勝手なふるまいです。
当然、国際社会は北朝鮮を非難しています。しかし、どういう理由で非難しているかというと、「国連安保理決議に違反している」ということなのです。
その決議というのは 安保理決議2087のことで、昨年12月に北朝鮮が強行した「ロケット」(事実上の長距離弾道ミサイル)発射を非難するとともに、核兵器についてこのように主張しています。
 
3.北朝鮮に対し,すべての核兵器及び既存の核計画を,完全な,検証可能な,かつ,不可逆的な方法で放棄すること,関連するすべての活動を直ちに停止すること及び弾道ミサイル技術を使用したいかなる発射,核実験又はいかなる挑発もこれ以上実施しないことを含む,決議第1718号(2006年)及び第1874号(2009年)の義務を直ちにかつ完全に遵守することを要求する。
 
しかし、なぜ北朝鮮が核兵器開発をしてはいけないのかということは書かれていません。それはそうでしょう。アメリカやロシア、インドやパキスタンも核兵器を持っているのに北朝鮮だけ持ってはいけないという理屈はないからです。
 
ということは、国際社会は北朝鮮に対して、「俺たちの決めたことに従わないからけしからん」と言って非難しているわけで、国際社会もまた身勝手であることは北朝鮮と変わりません。
 
国際社会というのは、主権国家がそれぞれに国益を追求することが当然とされる場なので、北朝鮮の行動も理論上は非難できません(自国民が飢えているのに核開発に金をかけるのは許されないという人道上の非難はありえますが)
 
ほんとうに北朝鮮に核開発をさせたくないのなら、EUみたいに国家主権を制限する方向に行かねばなりませんが、そういう議論あまり行われません。
 
また、北朝鮮がこれまで核開発を行ってきたのは、アメリカがそれを許してきたという面もあります。
 
なぜ対北朝鮮より対イランに強気なのか? オバマ米大統領が一般教書演説
オバマ米大統領は12日夜(日本時間13日午前)、議会での一般教書演説を行った。最低賃金の引き上げや地球温暖化対策、インフラ改修、教育支援などのリベラル政策を並べ、社会改革を進める姿勢を示した。だが、演説の中で際立ったのは、核開発を進める北朝鮮とイランに対する姿勢の違いである。
  
オバマ大統領は3度目の核実験を行った北朝鮮について、「昨夜のような挑発は、国の孤立を深めるだけだ。我々は同盟国と協調し、ミサイル防衛を強化し、脅威に対する確固たる対応で世界をリードする」と述べた。しかし、賛同の拍手はなく、議場内は水を打ったように静かだった。
 
かたや、イランについて「核兵器を持たせないために必要なあらゆる措置を取る」と述べたシーンでは、議員らがスタンディング・オベーションの誘い、極めて対照的な光景となった。
(後略)
 
なぜアメリカがイランに対してきびしいかといえば、ひとつにはイスラム国だということがあるでしょう。それに、イランではアメリカ大使館人質事件というのがあり(444日にわたって大使館員らが人質になった)、それに対する恨みもあるかと思われます。
一方、北朝鮮に対しては、身勝手なふるまいはするが、それなりに国益のための合理的な行動だと見ているのでしょう。ですから、北朝鮮に対しては抑止力が効くので、核武装をしても怖くないと思っているに違いありません。
アメリカがほんとうに北朝鮮に不信感を持っていれば、核開発阻止のためにすでに軍事行動を起こしているはずです。
 
では、日本が核武装をするとしたらアメリカはどう出るでしょうか。北朝鮮の核開発に対して日本も対抗するべきだという声がこれから強くなるかもしれません。
 
軍事ジャーナリストの田岡俊次氏は、アメリカは日本の核武装を絶対許さないと主張しておられますが、私も同じ考えです。
 
核抑止論というのは、相手の国が生き残るために合理的な行動をするということが前提になっています。
しかし、アメリカは日本を合理的な行動をする国とは思わないでしょう。
なにしろ真珠湾攻撃の過去があります。アメリカ人にとってこれは大ショックでしたし、9.11のときもアメリカ人はパールハーバーのことを連想したように、今も忘れていません。いつ不意討ちをしてきてもおかしくない国という認識でしょう。
それから、神風攻撃のこともあります。イスラム過激派の自爆テロもカミカゼの影響を受けたものですが、死を恐れない相手には核抑止論は無効です。
つまりパールハーバーとカミカゼの過去がある日本が核武装をするということは、アメリカにとっては絶対に許すことができないはずです。
 
日本人は、北朝鮮はなにをするかわからない国と思っていますが、実際のところは国家体制の護持を第一にしていろいろな駆け引きを行っています。
日本も過去、「国体護持」をスローガンにしていましたが、実際のところは国体を崩壊させる方向に行動してしまいました。それによる信用の失墜は今も尾を引いているに違いありません。
 
安倍首相は2月14日、オバマ大統領と電話会談を行い、北朝鮮の核実験を受けて、北朝鮮への制裁強化などについて話し合ったということです。一見、日本とアメリカは価値観を共有しているようですが、核保有ということに関しては、日本はアメリカから北朝鮮よりも信用されていない可能性があります。
安倍首相も無意識にそれを理解していて、集団的自衛権の問題などで必死にアメリカに恭順の姿勢を示そうとしているのかもしれません。

2月8日、法務大臣の諮問機関である法制審議会は、罪を犯した未成年への厳罰化を求める意見を受けて、少年法で定める有期刑の上限を15年から20年に引き上げることなどを盛り込んだ少年法の改正案を答申しました。少年に対する厳罰化の流れが今も続いています。
保育園の子どもの声がうるさいと苦情が出たり、電車内にベビーカーを入れるのはマナー違反だという声が出たりして、日本は今や子ども迫害社会」と化してしまったようです。
 
それにしても、少年に対する厳罰化はどういう理念に基づいているのでしょうか。厳罰化が正しいことなら、少年法にスライドさせて「大人法」(こんな言葉はありませんが)も厳罰化させないといけないはずです。少年だけ厳罰化して、自分たちはそのままというのは大人の身勝手でしょう。
 
少年と大人を平等に扱うべきだという理念なのでしょうか。だとすると、少年にも選挙権を与え、酒・タバコも許可し、わいせつ図画も自由に見られるようにしないといけません。権利は与えず厳罰化だけするというのは、やはり大人の身勝手でしょう。
 
法制審議会のメンバーというのは当然法曹界の人が多いのですが、犯罪者にも少年にも冷酷であるようです。おそらく今ヒット中の映画「レ・ミゼラブル」も見ていないのでしょう。「レ・ミゼラブル」を見れば、厳罰化がどういう結果を招くかわかるはずです(映画「レ・ミゼラブル」については「『レ・ミゼラブル』における寛容対不寛容」で書いています)
 
もっとも、法曹界といっても、大きくふたつに分けることができます。
ひとつは警察官、検察官、裁判官であって、これは犯罪者を刑務所に送り込む側です。
もうひとつは、保護観察官、保護司であって、これは刑務所から出た人間を世話して更生させる側です。
 
今、マスコミで取り上げられるのは警察官、検察官、裁判官という刑務所の入口のほうばかりです。刑務所の出口のほうにいる保護観察官、保護司のことはまったくニュースにもなりません。
そのため、保護観察官、保護司のことをほとんど知らない人もいるのではないでしょうか。
ウィキペディアを見ると、保護観察官は全国で約1000人しかいなくて、現場で保護観察に従事する者は約600人だそうです。これでは知られていなくて当然です。
保護司は全国で約4万9000人いるそうですが、これは無償のボランティアです。
 
保護司は刑務所を仮釈放になった者や少年院を仮退院した者の更生を手助けするわけですが、ヤクザや殺人犯の相手もしなければならず、それでいてまったく日の当たらない仕事です。最近は保護司の高齢化が進んでいるそうです(ちなみに私の母方の伯母が長年保護司をやっていたので、私にとっては比較的なじみのある仕事です)
 
刑務所の入口側は注目され、お金も人手もかけられているが、出口側はまったく注目されず、ほとんどお金もかけられていないということになります。金融危機のときに行われる異例の金融緩和を終わらせることを「出口政策」と言いますが、刑務所については「入口政策」だけあって、「出口政策」がないというわけです。その結果、犯罪は必ずしもふえているわけではないのに、厳罰化が進んで刑務所は満杯になっています。
 
ほんとうにたいせつなのは、刑務所の入口政策ではなく出口政策です。犯罪者を更生させて二度と犯罪を起こさせないようにすれば、社会の治安もよくなりますし、入口側のコストをへらすこともできます。
 
 
ところで、少年法と「大人法」を平等にするべきだと考えるなら、少年犯罪の厳罰化のほかにもうひとつやり方があります。
少年法の精神というのは「刑罰よりも保護更生」というものですから、「大人法」もこの精神に則って、「刑務所の少年院化」をはかればいいのです。こうすれば少年の犯罪と大人の犯罪が平等に扱われることになります。
 
法務省のホームページの「少年院」のトップにはこう書かれています。
 
少年たちは,少年院での教育を通して,自らの問題を見つめ,改善して社会に戻っていきます。二度と犯罪・非行を犯さないという決意を実現するためには,本人の努力のほかに,社会の人々の温かい心と 援助が不可欠です。
立ち直りつつある少年たちへの御理解と御支援をお願いします。
 
「少年」を「大人」に、「少年院」を「刑務所」に書き換えると、こうなります。
 
大人たちは,刑務所での教育を通して,自らの問題を見つめ,改善して社会に戻っていきます。二度と犯罪・非行を犯さないという決意を実現するためには,本人の努力のほかに,社会の人々の温かい心と 援助が不可欠です。
立ち直りつつある大人たちへの御理解と御支援をお願いします。 

人間はつねに総合的判断で行動しているので、自殺した場合もその原因が複合的なものであるのは当然です。しかし、人間は白か黒かという単純化を好みますから、マスコミの報道もどうしても原因をひとつに単純化してしまいます。
 
たとえば、201110月に大津市で中2男子生徒が飛び降り自殺したのはイジメが原因であるということで大騒ぎになりました。このとき私はこのブログで、自殺の原因は家庭環境のほうがより大きいのではないかということを主張しました。
それについて大津市が設置した第三者調査委員会は1月31日、最終報告書を越直美市長に提出しました。その報道から一部を引用します。
 
報告書は男子生徒(報告書ではA)の自殺の原因について「重篤ないじめ行為は、Aに屈辱感、絶望感と無力感をもたらし、希死念慮を抱かせた」「いじめの世界から抜け出せないことを悟り、生への思いを断念せざるを得なかった」と指摘。「Aに加えられたいじめが自死につながる直接的要因になったと考える」と結論づけ、「Aの性格等や家庭の問題は、Aの自死の要因とは認められなかった」としました。
 
この報告書は、自殺の原因を単一としているようです。イジメが最大の原因で、家庭の問題はそれより小さかったとするならまだしも、家庭の問題は自殺の要因ではなかったという結論は、人間についてまったく無理解であるといわざるをえません。
なぜこんなことになったかというと、やはりこの出来事があまりにも世の中に騒がれすぎて、世の中の考えに反することは書けなかったということがあるのでしょう。それから、第三者委員会の人選の過程で、自殺した少年の家庭の問題に言及していた心理学者の野田正人立命館大教授が“情報漏洩”を理由に辞退に追い込まれたということも大きかったでしょう。これで家庭の問題に触れてはいけないという流れがつくられました。
 
とはいえ、こういう結論が出た以上、私がこれ以上言っても意味がありません。ただ、自殺の原因が単一だとする報告書のおかしさだけは指摘しておきたいと思います。
 
 
さて、大阪市立桜宮高校での体罰が原因とされる自殺についても、自殺の原因は単一ではないでしょう。当然、家庭の問題についても考えなければなりませんが、私は今回はあえてそのことについてはまったく触れていません。それはイジメと体罰がまったく違う問題だからです。
 
イジメというのは、子ども同士の関係で起こり、加害者はいつ被害者になるかわからないし、被害者はいつ加害者になるかわからないというのが実態です。それを加害者側に「悪」のレッテルを張って対処しようというやり方に根本的な間違いがあり、この間違いを中和するためにも家庭の問題を持ち出すことには意味があると思えました(「悪」のレッテルを張りたいなら、イジメが起こるような学校環境にこそ張るべきです)
 
体罰というのは、おとなと子どもという強者と弱者の関係で起こるものですから、イジメとはまったく違います。体罰はむしろ諸悪の根源みたいなものです。もし世の中から体罰をなくすことができれば、それだけで世の中はうんとよくなります。
 
ですから私は、体罰の問題に集中するためにも、今回はほかの問題は持ち出すべきでないと考えているわけです。
 
体罰というのはひじょうに根深い問題です。表面的には体罰反対を叫んでいても、心中は違う人もいっぱいいます。
橋下徹大阪市長もその一人です。橋下市長は体罰そのものよりも桜宮高校の伝統や体罰の被害者あり方を批判しています。
また、自民党の橋本聖子議員は、柔道女子日本代表での暴力問題を告発した選手15人の実名は公表されるべきだとの認識を示したとの報道がありました(橋本議員はそのような発言はしていないと主張)
隠れ体罰肯定派の人は、言動のはしばしにそれが出てしまうようです。
 
そして、毎日新聞の牧太郎専門編集委員はコラムで、自殺の原因は単一ではないと書きました。これは私の主張と似ているので気になりました。
 
 
牧太郎の大きな声では言えないが…:自殺には「謎」が残る
 毎日新聞 20130205日 東京夕刊
 
 悪口になるのか、褒め言葉になるのか、ともかく、毎日新聞社の大先輩の「遺書」について書きたい。
 
 1919(大正8)年3月、海軍機関学校の教職を辞して、大阪毎日新聞社に入社した作家・芥川龍之介。新聞への寄稿が仕事で、出社の義務はなかったから「広告塔」的な存在だった。
 
 1927年7月24日、大量の睡眠薬を飲んで自殺した。が、この大先輩の「遺書」には不満が残った。
 
 遺書は6通。「妻への遺書」はあまりにも事務的だ。
 
 一、生かす工夫絶対に無用。二、絶命後小穴君(親友の画家)に知らすべし。絶命前には小穴君を苦しめ并(あわ)せて世間を騒がす惧(おそ)れあり。三、絶命すまで来客には「暑さあたり」と披露すべし。(中略)六、この遺書は直ちに焼棄せよ。
 
 妻に対する「感謝」も「恨み」もない。“命令調”である。
 
 「わが子等(ら)に」には「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」とか「汝(なんじ)等の父は汝等を愛す」というカッコつけたクダリはあるが、その他の遺書にも、僕が期待した「自殺の深遠なる動機」は見つからない。
 
 ベストセラー作家はなぜ、死を選んだのか? 知りたいのだが……ただ一カ所、長文の「遺書」の冒頭に「僕等人間は一事件の為(ため)に容易に自殺などするものではない」というクダリがあった。
 
 さすがである。大記者・芥川龍之介を結局、褒めることになるが……人間が自らの死を選ぶ「動機」は一つではない!とスクープ?している。
 
 自殺事件が起きると、昨今のメディアは「〓〓が原因!」と書きたがる。世間も「〓〓で死んだのね」と納得したい。でも「自殺の動機」を特定するのは簡単ではない。本人だって分からない。
 
 例の大阪・桜宮高校のバスケットボール部員の自殺も、果たして「体罰」だけが原因だったのか?
 
 己の高校生時代を思い出してみると(自殺まで思いつめたことはないけれど)出生の秘密を知り、親に対する嫌悪、担当教諭の“不正”への怒り、一向に上がらない学業成績、それに受験、性的コンプレックス……悩みはたくさんあった。
 
 「体罰が原因で一人の生徒が自殺した。体罰が常態化した体育科の入試を中止せよ!」と革新的市長が声を大にするが……自殺には社会的背景に、個人の資質、個人の事情が入り交じる。自殺はいつも「謎」だ。(専門編集委員)
 
確かに牧太郎編集委員の言うように、自殺の原因は簡単には決めつけられません。
ただ、なんのために今ここでそれを指摘するのかということがあります。
おそらく牧太郎編集委員は、橋下市長のやり方を批判するために「自殺原因は単一でない」説を持ち出したのでしょう。しかし、そのやり方では結果的に体罰の問題から目を反らすことになってしまいます。
体罰と比べると橋下市長の存在など小さな問題です。橋下市長を批判するより体罰を批判したほうがよほど世の中のためになるはずです。
 
体罰批判は誰でもできる平和運動であると私は思っています。

大阪市立桜宮高校で全運動部が活動を停止していて、生徒と保護者が活動再開を望んでいるというニュースを見て、ふと考えました。教育委員会に高校生の部活動を停止させる権限があるのだろうかと。
 
最初、1月15日に大阪市教委が桜宮高校で体罰のあったバスケットボール部とバレーボール部の活動を無期限に停止するというニュースがありました。その後、それが全運動部に拡大されたようです。
体罰を行った顧問の教師を大阪市教委が活動停止にするというのはわかります。しかし、高校生の部活動は本来、高校生が自発的自主的にやるものです。それを停止させる権限が教育委員会にあるのでしょうか。
 
教育基本法には部活動についての記述はありません。学習指導要領にはあります。
 
新学習指導要領・生きる力
1章 総則
4 指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項
13) 生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。
 
「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動」と明確に書いてあります。命令によってやらせることではないし、同様に命令によってやめさせることでもないと思われます。
早い話が、放課後に生徒がグランドでサッカーをするのは自由です(グランドが空いていればですが)。部活動というのはその延長上にあるものでしょう。たいていはサッカー好きが集まってサッカー同好会をつくり、それがサッカー部に昇格するという形になります。それがある理由からサッカー部に所属する生徒だけサッカーをしてはいけなくなるというのはへんです。
 
教育委員会というのは当然教職員に対して命令することはできますが、まさか保護者に対して命令することはできません。
生徒に対しても同じはずです。教委は学校や教職員を通して指導することになります。
では、校長が部に命令することができるかというと、これもできないはずです。部活動は生徒自治の範疇だからです。
 
もっとも、部活動というのは学校によって違います。
私が通っていた京都の公立高校では、部は生徒会の傘下にありました。生徒会の会長と執行委員は選挙で選ばれます。そして、生徒会が各部に分配する予算を決めていました。私の高校では、野球部はきわめて弱小だったのですが、予算だけはほかの部の数倍あったので、いつも議論になっていました。
部長はもちろん生徒です。教師は顧問という立場です。
 
桜宮高校でも教師は顧問という立場でしたから、部長は生徒だったのでしょう。公立高校というのはだいたいそういう形ではないでしょうか。
 
もっとも、高校野球などを見ていると、たいていおとなが部長を名乗っています。生徒のトップはキャプテン、主将です。
高校野球や私立高校では事情が違うかもしれませんが、桜宮高校では生徒会があり、部活動はその下で行われているはずです。
 
ですから、教委や校長が部活動の停止を命令しても、生徒会なりその部なりはどうしても従わなければならないということはありません。不当だと思えば拒否すればいいのです。
 
今では、このように生徒自治を重視する発想はあまり世の中にないかもしれません。
筑波大学は文部省がもっとも力を入れて設立した大学ですが、ここには学生自治会がありません。文部科学省は学生自治というのはないほうがいいと思っているのでしょう。
また、内申書重視や推薦入学制度の拡充によって教師の生徒に対する力が強まり、それによっても生徒自治は弱体化したように思われます。
 
しかし、桜宮高校の生徒たちには、部活動停止命令が不当だと思えば拒否するという選択肢があるはずです(大会参加などは主催者側が拒否するかもしれませんし、スポーツ推薦なども得られませんが、生徒だけでやれる範囲のことはできます)
 
自分が不当に扱われたと思ったときには拒否するのが当然です。年齢や立場は関係ありません。
それができないから体罰も起こるのです。
 
もっとも、世の中がそうした人間を求めているとは限りません。むしろ体罰を受け入れる子ども、不当に扱われても黙っている人間を求めている面があります。だからブラック企業などがはびこります。
 
今後、おとなは体罰問題の解決策を出してくるでしょうが、どうせくだらない策しか出てきません。
それよりも、生徒自身が体罰を拒否する心の強さを持ち、それでも体罰があった場合は親や校長や教委やそのほかの人に訴え出て戦うという社会的スキルを身につけることがいちばんの解決策です。
こうした心の強さや社会的スキルは人生のあらゆる場面で役立ちます。
 
 
 
【追記】
これを書いたあとで、桜宮高校の全運動部が活動を再開したというニュースがありました。
 
全運動部の再開を承認 バスケ部などは複数指導体制に
大阪市立桜宮高校の男子バスケットボール部主将だった2年の男子生徒=当時(17)=が体罰後に自殺した問題で、大阪市教委は5日、活動停止中の同校の14の運動部の再開を承認した。(後略)
 
「大阪市教委は――承認した」と書かれていますが、大阪市教委にそんな権限があるのかという根本的な疑問が残ります。

大阪市立桜宮高校の体罰事件が問題になっていたところに、女子柔道の日本代表強化合宿で暴力行為があったとして選手15人が園田隆二監督を告発し、さらに各地の学校で体罰事件が表面化してきました。また、ちょっと問題が違うとはいえ、柔道の内柴正人被告に実刑5年の判決が下るというニュースもありました。
問題の“元祖”である桜宮高校はどうなっているのかというと、こんなニュースがありました。
 
桜宮高の各運動部、外部から指導者招請…市教委
 大阪市立桜宮高校での体罰問題を受け、市教委は同高の各運動部に、民間のスポーツ指導者やトップ選手らを「スポーツマネジャー」として招き、指導法の点検や助言を求めることを決めた。
 外部から登用予定の新校長と市教委が人選し、今年度中にも始める。体罰を黙認していた運動部の指導体制を一新する狙いだ。
 市教委は橋下徹市長の要請も受け、14運動部の顧問55人全員の入れ替えを検討しているが、体制を変えるには人事異動だけでなく、外部の人材が必要だと判断した。ボランティアではなく報酬を支払い、勤務体系は今後協議して決める。
 同高の運動部は全て活動を停止しているが、市教委は2月5日の教育委員会議で全校アンケートの結果を公表し、体罰のなかった運動部の再開を認める方針。
2013211525  読売新聞)
 
これを読んで改めて認識しましたが、桜宮高校の全運動部が活動停止していたのですね。
体罰をしていたのは顧問の教師なのですから、顧問の活動だけ停止させて、生徒は自由にやらせればいいはずです。運動部の日常の練習というのは、顧問だのコーチだのは関係なく、生徒だけでできます。
「体罰のなかった運動部の再開を認める方針」ということは、体罰のあった運動部はまだ再開できないわけです。体罰の被害者である生徒を罰する形になっています。
レイプの被害女性が警察などの取り調べで辱めを受けることをセカンドレイプといいますが、これでは“セカンド体罰”です。
 
もっとも、体罰の被害生徒が体罰を正当化しているのではないかという問題があります。これは橋下徹大阪市長もそうだったように、ありがちなことです。しかし、部活動を停止して、じっとしていればこの問題が解決できるというものではありません。被害生徒は、自身の体験を考え直すためにも周りの人と話し合うなどしなければなりませんが、そのためにも部活動があったほうがいいはずです(カウンセリングも有効ですが、カウンセラーが派遣されたというニュースはなかった気がします)
 
体罰というのは、教師が強者で生徒が弱者という関係から生まれるものだといえますが、体罰対策の過程でも生徒は弱者として不当な扱いを受けています。というか、まるで体罰教師の共犯者であるかのようです。桜宮高校の生徒や保護者から抗議の声が上がっているのも当然です。
 
 
で、このニュースによると、『市教委は同高の各運動部に、民間のスポーツ指導者やトップ選手らを「スポーツマネジャー」として招き、指導法の点検や助言を求めることを決めた』ということですから、今いる顧問に対して助言してもらうということなのかと思ったら、そのあと、「14運動部の顧問55人全員の入れ替えを検討している」とも書いてあります。とすると、いったい誰に対して助言してもらうのでしょうか。
新しい顧問に対して助言してもらうのももちろん意味あることですが、そうすると今いる55人はどうなるのでしょうか。
体罰をしたからといって免職にするわけにはいきませんし、今後永久に運動部顧問になることを禁止するということも困難でしょう。
となると、新しい赴任先でまた体罰をする可能性があるわけです。
いや、そもそも桜宮高校以外にも体罰教師はいるはずであって、その問題はどうなるのでしょうか。
 
体罰禁止を実現するためには、体罰教師を再教育するなり反省させるなりしなければなりませんが、橋下市長や市教委にそのための方策はないようです。
 
55人の顧問全員の入れ替えというのは、外部に問題を転嫁するだけです。企業会計の粉飾の手口に、損失を外部に移して隠す“飛ばし”というのがありますが、これは体罰問題の“飛ばし”です。

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