村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年10月

みのもんた氏の謝罪会見がいろいろな波紋を広げていますが、それにしても、みのもんた氏もずいぶんと嫌われたものです。それまでは視聴率男としてもてはやされていたわけですから、まさに天国と地獄です。
 
そのきっかけは次男が窃盗未遂で逮捕されたことですが、これは結局起訴猶予になったとの報道がありました。もしこの事件なり逮捕なりがなかったら、次男も普通に日テレ勤務を続けていたでしょうし、みのもんた氏もなんのバッシングも受けずにテレビ出演を続けていたでしょう(セクハラ疑惑は別にありますが)
 
とはいえ、みのもんた氏が20歳すぎの次男の行為についての自分の責任を認めたということは重要です。これは「教育責任」という言葉で表現するのがわかりやすいでしょう。
 
では、みのもんた氏にはどんな「教育責任」があったのでしょうか。1026日の記者会見の全文起こしから引用してみます。
 
【質疑含む完全版】みのもんた氏記者会見 全文文字起こし 10/26()
 
 
確かにあの子は私の子です。
しかし、成人して大人になって社会人になったはずなのに家庭をもったはずなのに、
こんなことをしでかす、どこかが子育ての中で何か間違っていたんじゃないのかな
不完全な形で世の中に送り出してしまったのか、
だとしたら父親としての責任があるなと思い至りました。
親子の縁は切れない、間違いなく我が子だ、
どこかが狂って社会に送り出したのだ
その責任は父親である私にあります。申し訳ありません。
 
これが親の責任を認めた部分です。
これについてはいまだに「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」と主張する人がいますが、行為というのはその人の人格から生じるものですから、行為と人格は切っても切り離せません。親が子どもの人格形成に関与していたなら、子どもが何歳になっても親の責任はあります。
 
ところで、「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」という表現は20歳未満の子どもの行為には親の責任があると認めているようですが、現実にはそれすらも認めていません。たとえば、子どもが非行で少年院送りになった場合、親がなにか責任を取るということはありません。本来なら、子どもが非行をした場合は、親(保護者)も子どもといっしょに更生プログラムを受けるべきです。しかし、現実には少年法の厳罰化は、少年だけを対象にして、保護者は対象になっていません。こんなおかしな法体系ができるのは、無責任な親が法律をつくっているからです。
 
つまりこの世の中は、無責任な親がやり放題をする世の中なのです。
 
で、みのもんた氏の「教育責任」ですが、みのもんた氏の教育のどこが間違っていたのでしょうか。氏は質疑応答でこんなことを語っています。
 
[質問者]
あの先ほどみのさんがね、あの子育てが間違っていたのかな
問題があったのかなって、今日のラジオの番組でも、自分の生き方を見せてきた。
その生き方が間違っていたのかなという風に仰っておりましたけれども
今ご自身間違っていたとしたら、具体的にどんなところが間違っていたのかという風に
思っていらっしゃいますか?
 
[みのもんた氏]
ちょっと厳しすぎたのかなと思いました。育て方が厳しすぎたかなと思いました。
 
[質問者]
例えば具体的にどんなところが厳しかったんでしょうか。
 
[みのもんた氏]
お小遣いにしても合宿にしても、大変厳しかったようです、僕は。
何十万も与える人もいるかもしれませんが、私は女房の決めたとおりの額しか
渡しませんし、悪いことやったときには悪いことやったと。
いけないことかもしれませんが、私は殴るタイプなんです。
嫌なら出て行け。そういうタイプの父親です。
それが僕は父親としてのええ格好しの悪い結果に繋がったなと、
何か起きても分からなければ分からないようにしちゃおうと、
親父に分からないようにという道に繋がったんじゃないかと思います。
何でも話せる親じゃなかったみたいです。
 
[質問者]
殴ったのはいくつくらいまで?
 
[みのもんた氏]
中学校の二年くらいまで殴ってました。
 
みのもんた氏の認識では、きびしすぎたのがよくなかったということです。
 
もっとも、これに対して週刊文春は11月7日号の「みのもんた『バカヤロー!』会見の大嘘」という記事で、次男は南青山に豪邸を建築中で、むしろみのもんた氏は甘やかして育てていたということを書いています。
だいたい世の中の認識は、「甘やかすのはよくない、きびしくするのはよい」というものですから、そういう認識にそった記事です。
みのもんた氏はコネ入社もさせていたようですから、その点でも甘やかしていたことになります。
 
しかし、甘やかすのもきびしくするのも、ベクトルは逆ですが、だめなことでは同じです。
よく過保護な親に、過保護はよくないと指摘すると、「じゃあ突き放せばいいんですね」という答えが返ってきますが、この親にとっては「過保護」か「突き放す」かの二者択一になっているわけです。
世間の教育観も、「甘やかす」か「きびしくする」かの二者択一になっています。
しかし、実際は、「甘やかす」のでもなく、「きびしくする」のでもなく、「普通に愛情を持って接する」というのが正しいわけです。
 
叱るのはよくない、ほめて育てるべきだということもよく言われます。世の中には子どもを叱る親が多く、ほめる親は少ないので、こうした主張に説得力があります。
しかし、「叱るよりほめろ」というのは、アメとムチのたとえで言えば、ムチの比率を少なくしてアメの比率を高くしろと言っているのと同じです。どちらにせよアメとムチで子どもを操作しようとしているわけで、子どもに愛情を持って接する態度ではありません。
 
おそらくみのもんた氏は次男に対して、お金などの面では甘やかし、個々の行動の面ではきびしくするというやり方だったのでしょう。どちらの面でも次男は親の愛情を感じることができませんでした(お金を出すことはみのもんた氏にとってはなんでもないことで、「お金ですます」という感覚だったのでしょう)
 
みのもんた氏と次男の関係がどのようなものであったかは、次のやりとりからうかがわれます。
 
[質問者]
保釈中ですけども、今現在もお話はされてないと。
 
[みのもんた氏]
一度だけ自宅に会いに来ました。
 
[質問者]
そのときにはどのようなお話をされたのですか。
 
[みのもんた氏]
何も喋りませんでした。顔だけ見て五分で出ました。
 
[質問者]
謝罪の言葉とか何かなかったですか?親に対して。
 
[みのもんた氏]
彼からはありました。僕からは何も喋っていません。
 
[質問者]
それは感情が、どういう?
 
[みのもんた氏]
彼は正座して、板の間で、玄関口で僕の顔を見てごめんなさいと、
何か言いかけましたけど、僕は無視して、顔だけ見て出ました。
 
好意的に解釈すると、普段は親子関係は良好なのだが、次男が事件を起こしたためにこんなに冷却したのだということになりますが、実際のところは、もし普段の親子関係が良好なら、逮捕・保釈という出来事の直後こそいっぱい話し合うことがあるはずです。
 
つまりみのもんた氏は昔から、殴るタイプで、嫌なら出ていけというタイプの父親ですから、親子関係が良好であるわけないのです。
 
私がみのもんた氏で覚えているはの、お昼の「おもいッきりテレビ」という番組の生電話での悩み相談コーナーで、悩みを持った相談者にきびしい言葉を浴びせかけている姿です。そして、そうしたきびしさが視聴者に受けていたようです。
 
週刊文春も、みのもんた氏のきびしい面は批判せず、お金に甘いところだけ批判しています。
 
しかし、正しくは、きびしい面とお金に甘い面の両方を批判するべきでしょう。
 
みのもんた氏と次男との親子関係の問題が次男の窃盗未遂という行為にどう結びついたのかはわかりません。しかし、親子関係に問題があったのは事実でしょう。ですから、みのもんた氏は責任を認めたのです。
 
みのもんた氏が親の責任を認めたということは、今後さまざまな影響を及ぼすのではないかと思います。少なくとも、「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」というような身勝手な主張は通らないことになります。
 
もっとも、子どもがいくつになっても親に責任があるというのはおかしいと考える人もいるでしょう。それももっともなことです。親と子は別人格だからです。
 
ですから、最初から、つまり子どもが小さいときから、子どもを一個の独立した人格として尊重して接すればいいのです。そうすれば「親と子は別人格」といって、子どもの行為の責任は子どもが負うべきだと主張することができます。
そして、子どもの人格を尊重する親なら、子どもが何歳になっても子どものためになる行動ができるはずです。
 

みのもんた氏が1026日、記者会見し、TBS系報道番組「みのもんたの朝ズバッ!」を降板したことについて説明しましたが、このとき「親の責任」を認めました。20歳すぎの子どもの行為について「親の責任」を認めるのは画期的なことです。
 
 
みの会見「責任は父である私にあります」
 タレントみのもんた(69)が26日都内で会見し、次男が窃盗容疑などで逮捕されたことや、TBS系報道番組「みのもんたの朝ズバッ!」を降板したことについて説明した。
 
 冒頭で長時間頭を下げ、神妙な表情で「わたくしごとで、大変世間をお騒がせし、申し訳ございません」と謝罪した。次男逮捕から時間がたち、気持ちの変化が出てきたことを険しい表情で明かした。
 
 「ことがことだけに、最終的な結論が出てからお話をしたほうがいいのではないかという私個人の思いがあり、あらゆる取材にお断りを入れてまいりました。その間約2カ月、ことが刑事事件ということで、報道番組への出演を自粛という形をとらせていただいていました。私の気持ちの中で何でこんなことが起きたのか、なかなか整理がつきませんでした。30過ぎた、家庭を持った、仕事を持った、社会人であるわが子を何で、という気持ちが大変強かった」
 
 そして次男を「バカ息子」と言い切った。
 
 「しかし2週間、3週間、4週間たっていくうちに私の気持ちの中に少しずつでありますが、思いの変化が出てまいりました。自宅に引きこもるような状態の中でいろいろ考えて、時間の許すままに書斎の整理をしてみたり、本棚の整理をしてみたり、無為な時間を過ごす日々でありました。その中で、何であのバカ息子が、という気持ちが、いったいおれはどうしたらいいんだ、という迷いも生じてまいりました」。
 
 そして次男逮捕について「父親の責任」を認めた。
 
 「(次男を)女房と懸命に育ててきて社会に送り出したはずなのに、何かが狂ってきた。どこかがおかしかった。そんな思いが強くなりました。確かに、あの子は私の子です。しかし成人して社会人になったはずなのに、こんなことをしでかす、どこかが子育ての中で間違っていたのではないか、不完全な形で世の中に送り出してしまったのか。だとしたら父親としての責任があるなと、思い至りました」
 
 そして続けた。「親子の縁は切れない。間違いなくわが子だ。どこかが狂ってて社会に送り出した。その責任は父親である私にあります。申し訳ございません」とまた頭を下げた。
 [201310261640分]
 
 
この問題には、いろいろな角度から言うことができます。たとえば、警察は小さな事件の割りに力を入れすぎではないかとか、マスコミはみのもんた氏の次男が“完オチ”したということで鬼の首を取ったかのように責め立てていますが、これは“自白偏重”で冤罪をつくりだす構図そのものではないかとか。
ただ、ここでは「親の責任」ということに話を絞りたいと思います。
 
みのもんた氏が頭を下げたのは、世間の風当たりがきわめて強かったからでもあります。「やめろという風潮さえなければ番組を続けていた」という意味の発言もしています。ですから、心の底から責任があると認めたのではないかもしれませんが、少なくとも表面上は責任を認めて、それに対する批判の声はほとんどないので、世間的にも「親の責任」という考え方が認められたのではないかと思われます。
 
で、みのもんた氏はなにに対して責任を認めたのかというと、「どこかが子育ての中で間違っていたのではないか、不完全な形で世の中に送り出してしまったのか。だとしたら父親としての責任があるなと、思い至りました」と言っているので、子育ての間違いに対してということでしょう。
ですから、これは「教育責任」という言葉で表現するのがぴったりくるはずです。
自分の子どもをまともなおとなにして社会に送り出すのが親の責任です。まともなおとなにならなかったら、親の責任です。子どもの責任ということはありません。
 
これまで「教育責任」ということが言われなかったのは不思議です。
20歳すぎれば本人の責任。親に責任はない」ということがまかり通っていました。これは、メーカーが不良品を製造して、「工場を出荷すればメーカーに責任はない」と言っているのと同じです。
 
とはいえ、親が20歳すぎの子どもに責任を持つというのは普通の発想です。たとえば、子どもを一流大学に行かせようとする親は、20歳すぎの子どもの幸せを考えてのことでしょう(少なくともタテマエは)。また、子どもの就職に口を出したり、恋愛や結婚に文句をつけたりと、20歳すぎの子どもの人生に関与することも普通に行われています。
ですから、親の責任を問われる場面になったときだけ、「20歳すぎれば別人格」などと言って責任逃れをするのがおかしいのです。
 
20歳すぎた子どもの就職や結婚などに口を出す親はろくなものではありません。
助言にとどめるべきだという意見もあるでしょうが、親は年齢が違い、生きてきた時代も違うのですから、助言すらたいていはマイナスになるとしたものです。
 
20歳以前、あるいは小さな子どもの教育についても勘違いがあると思われます。
生きていくのに必要な知識や技術を教えるのは意味がありますが、人格の教育、つまり“よい子”にする教育をしようとするのは間違いです。
 
たとえば、「思いやりのある子に育てたい」などという親がいます。こういう親は自分は思いやりのある人間だと思っているのでしょうか。もし自分が思いやりのある人間で、子どもにも思いやりをもって接し、夫婦関係も思いやりのあるものだったら、子どもも自然に思いやりを身につけるはずです。「思いやりのある子に育てたい」という思いなど不要です。
もし自分は思いやりの少ない人間だと思っていて、子どもは自分以上に思いやりのある人間になってほしいと思うなら、それは不可能というものです。
 
また、子どもに「嘘をついてはいけない」と教える親もよくいますが、これもおかしな発想です。子どもを嘘つきにしたくないなら、自分が嘘をつかないことです。自分が嘘をついていて、子どもは嘘をつかないということはありえないでしょう。親が周りの人間に見栄を張って嘘を言っていると、子どもはそれを学習してしまいます。
 
むしろ“よい子”に育てたいと思っている親は、子どもを嘘つきにする傾向があると思います。「宿題やった?」と聞かれて、「やってない」と本当のことを答えると叱られ、「やった」と嘘をつくと叱られないとなると、当然子どもは身を守るために嘘をつくようになります。嘘がバレて叱られると、より巧妙に嘘をつくようになります。
 
ところで、初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンは子どものとき、父親がだいじにしていた桜の木を切ってしまい、父親に正直にそのことを告白すると、父親はその正直さを評価して叱らなかったという話があります(これは史実ではないようです)。この話は、子どもに対して正直のたいせつさを教える話としてもっぱら利用されていますが、正しくは、親に対して正直な子どもを育てる方法を教える話として利用されるべきでしょう。
 
くだらない親が“よい子”を育てることはできません。親にできるのは、少しでも自分が“よい人間”になることだけです。
そして、“よい人間”というのは、子どもの人格を尊重するものです。
 
 
今回のみのもんた氏の記者会見をきっかけに、「親の教育責任」という概念が公認されたと言えるのではないでしょうか。
自分のことは棚に上げて子どもに好き勝手なことを要求する親は、将来「親の教育責任」を追及されてもしかたありません。
 

最高裁がある法律を違憲と判断したら、立法府はただちにその法律を改正または廃止しなければなりません。これは三権分立の原則からして当然のことですが、自民党はその原則が通用しない政党です。
 
 
最高裁違憲判断でも…婚外子差別の法改正に慎重論 自民法務部会
201310240500
 自民党法務部会は23日、最高裁の判断を受け、結婚していない男女間に生まれた「婚外子」の遺産相続分を、結婚した男女間の子と同等にするための民法改正案について議論した。保守系議員から「家族制度が崩れる」などと異論が相次いだ。政府は今国会への民法改正案提出をめざすが、党内のとりまとめは難航しそうだ。
 
 
 最高裁は9月、親が結婚しているかどうかで子の遺産の取り分を区別した民法の規定を違憲とする判断を示した。これを受け、政府は取り分に格差を設けた規定を削除する法整備を急いでいる。この日の部会には約40人の議員が出席した。法務省が、外国でも差別撤廃が実現していることなどを説明し、理解を求めた。
 
 ところが、伝統的な家族観を持つ保守系の議員らは、婚外子への格差をなくせば、法律で認める結婚制度が軽視されかねない、と指摘。事実婚などが増え、伝統的な「夫婦」や「家族」が崩壊する、との懸念を示し、慎重論が相次いだ。西川京子文科副大臣は「民法で婚姻制度を規定している。(法改正したら)民法の中で自己矛盾する」と述べた。
 
 「憲法がムチャクチャだからこういう判断が出る」(西田昌司参院議員)、「なぜ最高裁が言ったら変えなければいけないのか」(小島敏文衆院議員)との意見まで出た。自民党では、24日に民法改正に反対する有志による勉強会発足も決まった。
 
 「最高裁判断は尊重すべきだ」との声も複数出たが、大塚拓法務部会長は会合後「法案了承の見通しは分からない」と話した。
 
 一方公明党や、民主党など多くの野党は改正に前向きだ。
 
 
自民党には独特の家族観があり、それは三権分立よりも優先されるようです。
 
かつて日本では、親殺しを通常の殺人罪よりも重罰にする「尊属殺人罪」がありましたが、1973年に最高裁がこれを違憲と決定しました。しかし、与党であった自民党は改正の先送りを続けて、結局、22年後の1995年に刑法の条文を文語体から口語体に改めるという刑法大改正の際にようやく尊属殺人罪が削除されました。
 
「尊属」という言葉は「卑属」という言葉と対になっています。男女関係は「男尊女卑」、親子関係は「尊属・卑属」というわけで、儒教思想からきています。
 
少し昔のことですが、自民党の議員たちは「尊属・卑属」という考え方を守ることは、最高裁の判決に従うことよりも重要と考えていたようです。
今は、婚外子の相続差別を守ることは最高裁判決より重要と考えているようです。
 
また、夫婦別姓についても、1996年に法制審議会が選択的夫婦別姓制度を答申しましたが、これも主に自民党の反対のせいでいまだに実現していません。
 
家族制度というのは「国のかたち」の根幹をなすものです。そういう意味で保守系議員がここに執着するのもわかります。
アメリカでは保守系議員は「同性婚反対」「中絶反対」を強硬に主張し、これはアメリカの政治における大きな争点になっています。
 
自民党は日本国憲法改正草案においても家族に関する条文をつけ足して、議論を呼んでいます。
 
〈自民党の日本国憲法改正草案〉
第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
 
この改憲草案の条文については、「国家は国民の私生活に介入するべきでない」とか「国民を道徳で縛るべきではない」という批判があります。
 
しかし、これらの批判は、憲法にこうしたことを書くべきではないという批判で、書かれた内容を批判するものではありません。そこが批判としては弱いところです。
 
自民党がこうした条文をつけ足したのは、おそらく教育勅語を真似たのでしょう。教育勅語には、「爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ」という部分があります。
また、この部分を取り上げて、教育勅語にもよいところがあると主張する人がいます。
 
「夫婦相和シ」とか「家族は、互いに助け合わなければならない」というのは当然のことであり、それに反対する人はおかしいのではないか、というのが自民党の主張ではないでしょうか。
そして、そう主張されたとき、まともに反論できる人がいるでしょうか。
 
もちろん私は反論できます。
その反論を書いてみましょう。
 
家族における問題として、ドメスティックバイオレンスがあります。夫が妻に暴力をふるっているとき、あるいは親が子を虐待しているときには、暴力をふるっている側をまず止めなければなりませんし、場合によっては逮捕しなければなりません。暴力をふるわれている側はまず保護されなければなりません。
 
もしDVの現場に直面したとき、「お互いに仲良くしなさい」と言い聞かせるだけですましたら、それは暴力をふるっているほうを許したことになります。
自民党改憲案の「家族は、互いに助け合わなければならない」というのはそれと同じことです。
 
あるいは離婚する夫婦の場合も、「家族は、互いに助け合わなければならない」という憲法があったら離婚しなかったなどということがあるはずありません。
離婚調停するときに、調停委員が「家族は、互いに助け合わなければならない」などと説教していたら、調停が進みません。
 
つまり家族の中には、DV、仮面夫婦、子どもの非行などの問題があり、いわばよい家族もあれば悪い家族もあるのです。そこに「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」という憲法をつくると、悪い家族までも尊重されることになってしまいます。憲法に「企業は尊重される」と書き込んで、ブラック企業までも尊重するのと同じです。
 
家族の問題に向き合わず、むしろそれを隠蔽してしまうのが自民党の改憲草案です。
なぜそういう改憲草案をつくったかというと、自民党の議員たちは、家族の中で優位に立って、わがままにふるまうことができているからです。
 
家族の中には性差別があります。
それに加えて、私は「子ども差別」という概念も加えるべきだと主張しています。
家族の中にも、支配と抑圧と差別があるのが現実です。
 
家族は「国のかたち」の根幹をなすものです。
よい国をつくろうとすれば、家族の問題を直視し、改革することから始めなければなりません。
しかし、自民党は家族の問題を解決したくない政党だと思われます。

政治の世界では「国のかたち」という言葉がよく使われます。もとは司馬遼太郎のエッセイ「この国のかたち」からきているのではないかと思いますが、安全保障政策、統治機構、国家元首などが「国のかたち」を決める上で重要なこととされています。しかし、今挙げたことは「国のかたち」の上部構造です。
もちろん重要なのは下部構造です。
 
マルクス主義によると、生産関係が下部構造です。しかし、マルクス主義の退潮により、今では生産関係の重要性が忘れられています。そのため、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという格差社会化が進行しています。そして、貧しい者は「自己責任」や「努力不足」のせいにされています。
マルクス主義は「存在が意識を規定する」という考え方ですから、なにかを個人の意識のせいにするということはありません。その意味でも、マルクス主義の価値は見直されていいはずです。
 
ただ、私の考えでは、ほんとうの下部構造は人と人との関係です(そういう意味では生産関係は中間構造になります)
人と人との関係といってもいろいろありますが、もっとも根底にあるのは、親と子の関係と男と女の関係です。
人間は、子どものとき親に愛されて育ち、おとなになると異性を愛し、子どもが生まれると子どもを愛し、その子どもがおとなになると……ということを繰り返しており、このあり方こそが「国のかたち」を根底から決定しています。
 
親子関係や異性関係は多分に本能に規定されているのですが、人間の場合は文化によって変わっていきます。
 
日本では、親子関係、大人と子どもの関係がどんどん子どもにとって抑圧的になっていっているのではないかと私は感じています。
親が子どもをしつけるやり方がきびしくなりすぎて、ひどいときには虐待に至りますが、虐待とは認識されなくても、毎日子どもを叱ってばかりという親が少なくないような気がします。
学校も子どもに抑圧的になりすぎて、イジメが多発するのもその結果でしょう。
 
とりわけ、子どもが道路や公園で遊んでいるとうるさいと苦情が出るなど、子どもの存在そのものを嫌うおとながふえているような気がします。
 
もっとも、これは外国と比較しないと正しい評価ができないことになりますが、「発言小町」という掲示板に、こんなトピックが立てられていました。
 
 
乳幼児連れに優しい国はどこですか?  星の子 2013103 19:37
 
 私は現在シンガポールで子育てをしています。シンガポール国民は全体的にとても乳幼児連れに優しく、子連れの外出が本当にしやすいので助かっています。以下は具体的にシンガポールが乳幼児連れに優しいと感じる点。
 
1. 子供を抱っこして電車に乗ると席を譲ってくれる人が多い。さらに、ベビーカーに子供を乗せていても、席を譲ってくれようとする人がけっこういる。もちろん電車でベビーカーに乗るのはOK(バスはベビーカーを畳まないといけません)。男性が子供を抱っこしている場合も、譲ってくれる。
 
2. ほとんどのレストランは乳幼児連れOKで、どこでもハイチェアがある。(超高級レストランは分からないが、ホテルのレストランやちょっと高級なお店はたいていOK)
 
3. レストラン等で多少子供がぐずっても誰も見てこない。乳幼児は泣くのが普通という感覚なので、誰も気にしない。店員さんがあやしに来てくれるお店も多い。
 
4. 乳児連れのママがレストランやカフェで授乳をしても(授乳ケープは使用)誰も何も言わない、気にしない。(私はしませんでしたが、本当にたくさんいます)
 
 
これに対し、日本はとても乳幼児連れに厳しい印象で、たまの一時帰国の時は戸惑うことが多いです。ちなみに、シンガポールは日本より少子化問題は深刻で、出生率も日本以下です。
 
以上は前置きで、皆様に質問です。単なる興味なのですが、世界は広いので他にも乳幼児連れに優しい国はたくさんあると思います。よろしければ、国名と具体的な例を教えて頂けないでしょうか?インフラが充実しているという点ではなく、国民の優しさという点でお願いします。また、一度きりの体験ではなく、社会全体の傾向でお願いします。
 
 
このトピックに対して、現時点で70余りのレスがついています。実際に読んでもらったほうがいいのですが、簡単にまとめると、外国のほうが子どもにやさしいし、子ども連れにもやさしいという声が圧倒的です。とくにイギリス、韓国の評価が高く、あと中国、アメリカ、北欧などが続く感じです。ただ、フランスについてだけ子どもに冷たいというような声がありました。
 
日本を擁護する意見もいくつかありますが、それらは外国と日本の子育てを体験的に比較したものではなく、日本が批判されることに対する“愛国的”反発からきているもののようです。
 
「ベビーカー論争」が起こるだけでも日本が子ども連れにやさしくない国だということがわかるという意見も複数ありましたが、日本の満員電車など過密社会にも原因があると指摘する声もあります。
 
私が興味深かったのは、外国で子ども時代を送った人からの次のレスです。
 
 
子供目線ですが フランダース 20131021 22:50
 
チョコとワッフルとビールで有名な国で育ちました。親は育てやすかったと言ってます。他の国同様で、席を譲ってくれた、ベビーカーを運んでくれたなどなど。
 
でも、子供目線からすると物心ついた頃から周りの大人は厳しかったなーという印象がありました。バスの中でちょっと大きな声で姉と話していると、全員かと思うほど乗客皆から静かにっ!と叱られ睨まれました。席に座ってると、子供は立ちなさい!と言われたり。怖かったけど、社会マナーは随分早くから身についたように思います。
 
日本人は優しくないというけれど、そういう他人からの躾的な厳しさもないですよね。バスの中で静かにしなさい!なんて言おうものなら、これだから日本は子育てしにくい…とまた言われそうです。
 
 
私自身も、日本では公共の場でぐずったり騒いだりする子どもをときどき見かけますが、外国ではほとんど見た記憶がありません。とくに欧米の子どもはおとなしいなという印象を持っています。
欧米では社会全体で子どものしつけをしているということでしょうか。
 
それと、このことからもうひとつ感じたのは、日本人は子どもをしつけるのがへただということです。
たとえば、日本で子どもが騒いでいると、親が甘やかしているからだ、もっときびしくしつけるべきだということになります。具体的には子どもを叱れということです。
しかし、「叱らない子育て論」があるように、しつけとは叱ることばかりではありません。やさしく言い聞かせる、あるいは周りが迷惑に思っていることを示すというやり方もあるわけです(公共の場で叱ると、それも迷惑です)
 
この点については、欧米と欧米以外では違うかもしれません。私は、欧米では子どもをきびしくしつける伝統があると思っています。
ですから、幕末や明治初期に日本に来た欧米人はこぞって「日本は子どもの天国だ」と言って驚いたわけです。
 
それが今では、地獄とは言わないまでも、天国から落っこってしまいました。
 
明治以降、日本は欧米をモデルにしてきびしい子育てを取り入れてきました。「体罰」などもそうです。
いわば自分で自分を天国から追放してしまったのです。
しかし、今では欧米よりも日本のほうでひどい体罰が行われているようです。
本家を追い越してしまった格好です。
 
最近話題の「ヘイトスピーチ」にしても、私は子どもの育て方と関係していると思っています。子どもを叱る言葉と「ヘイトスピーチ」は似たようなものです。
 
「世界でいちばん子どもにきびしい国」というのが今の日本の「国のかたち」です。
ここからいかに脱却するかが日本にとっていちばんたいせつなことではないかと思います。

「アベデュケーション」という言葉があるそうです。安倍内閣の経済政策がアベノミクスですから、アベデュケーションは安倍内閣の教育政策です。
 
安倍首相の師匠筋である森喜朗氏は文教族のドンでしたから、安倍首相もその流れをくんでいます。安倍首相の尊敬する人物は吉田松陰だそうです。
 
「愛国心はならず者の最後の逃げ場」という言葉がありますが、「教育はならず者の最後の逃げ場」という言葉もあっていいはずです。教育は、弱い立場の子どもが相手なのでやりたいようにできますし、その結果が出るのは何年もあとですし、仮に悪い結果が出ても「20歳すぎれば本人の責任」といって言い逃れすればいいのです。
 
橋下徹大阪市長も安倍首相に劣らず教育政策に熱心です。国と違って地方自治体ですから、政策の実現スピードが違い、校長公募制度はすでに動き出しています。しかし、これがひどいことになっています。
 
 
大阪市公募校長制度見直し急務 セクハラやパワハラ…「11分の6」の衝撃 
 
 大阪市の橋下徹市長が導入した公募制度で就任した民間出身の校長や区長による騒動が止まらない。とりわけ4月に着任した校長は11人のうち6人が不祥事やトラブルなどを起こしており、「11分の6」の衝撃は市議会の猛反発を招いている。前向きな取り組みを進めながらも手続きミスで問題化する事例もあり、今後も民間人校長を採用する市教委では採用基準や研修方法などの見直しが急務となっている。教育現場に新しい価値観を吹き込むことが期待される公募制度だが、市教委や校長の手探りが続きそうだ。
 
批判浴びる「欠陥」
 
 「校長は11人中、6人。教育崩壊以外の何物でもない」。20日午前、市議会の公明、自民、民主系3会派の幹事長らが橋下氏を訪れ、厳格な処分や採用方法に問題がないか点検を促す申し入れ書を渡した。
 
 校長職として3年の任期で採用され、他の職務に就けないという制度上の「欠陥」についても批判があった。橋下氏は「不適格なら分限対象。指導研修をして、適格性を見極める」と分限免職の可能性に言及。同席した市教委の永井哲郎教育長も「雇用のあり方を議論していく」と述べ、火消しを図った。
 
 校長11人は書類選考や2度の面接を経て、928人の中から選ばれた。3カ月間ほどの研修では法令や服務規程を勉強。3つの学校を訪れ、校長に付き添って実務を学んだ。
 市教委幹部は「いい研修ができたと思っていた」と振り返るが、1人がわずか約3カ月で早期退職し、2人がセクハラ行為などで懲戒処分や厳重注意を受けた。そして今月19日、追い打ちをかけるようにパワハラの疑いなど新たに3人のトラブルが発覚した。
 
「効果」は早期開示
 
 市教委によると、校長3人がそれぞれ(1)口論となった教頭に謝罪を求めて教頭が土下座した(2)女性教職員6人に「なんで結婚しないのか」などと質問した(3)出張や時間休の手続きをとらずに数時間外出して中抜けした-とされる。
 
 (1)の校長は産経新聞の取材に「『土下座しろ』とは言っていないが、土下座するような関係は適切ではない」と反省の言葉を述べた。(2)の校長は「着任直後、家族構成などを確認した際に結婚の有無は聞いたが、『なぜしないのか』などは絶対に言っていない」と反論。一方、(3)の校長は放課後に児童の学習指導を行う学生ボランティアの確保に動くなどしていたといい、「時間休などの手続きを熟知していなかったことはミスだが、仕事の関係で出かけた」と強調した。
 
 公募への批判が強まる中、市教委は来年の35人着任に向け準備を進める。20日には第2次選考で71人が残ったことを発表した。市教委幹部は「セクハラなどが続いたことで『外部人材は校長としての覚悟がない』と思われている。次の採用では研修の内容を大きく変えないといけない」と厳しい表情で語る。
 
橋下氏は「民間から公務員の世界にきて、はじめから公務員と同じ振る舞いをするのは無理。失敗もあると思うが、プラスの効果がある」と擁護するが、太田肇・同志社大教授(組織論)は「畑違いの人材を教師という玄人集団のトップに立てるのは無理がある」と批判する。
 
 一方、人材コンサルタントの常見陽平氏は「トラブルの原因を早く総括した上で、『効果』を強調するなら具体的に示したほうがいい」と提言している。
 
 
校長公募制がうまくいかない理由のひとつは、もともとろくな人材が応募してこないことであると思います。
校長といえば社会的なステータスがかなり高いですし、「先生」と呼ばれたい人もいます。
また、校長には特別な技能は必要ありません。どんな人でも自分の学校での体験から、それなりの“教育論”を語ることができます。自分の“教育論”を実践したいという動機で応募してくる人もいるでしょう。
そして、自分の“教育論”を実践した結果については責任を問われることはありません。
これが民間企業の支社長なら、営業成績が必ず数字で出てきますが、学校教育にそういうものはないからです。
そのため、無責任で、校長という地位だけほしい人間が集まってきたのではないかと想像されるのです。
 
そして、校長公募制がうまくいかないもうひとつの理由は、選考する側に選考する能力がないことです。
 
校長にふさわしい人間とはどのような人間であるか、おそらくなんの基準もなしに選考しているのでしょう。
とはいえ、それは仕方ない面もあります。
英語の教師を採用するなら、英語力と英語を教えるスキルを評価すればいいわけですが、校長にはそのような明快な選考基準はないはずです。となると、その「人物」を見て評価するということになります。
しかし、人間が人間を評価するというのは、根本的にむりです。
 
私は前回の「大学入試に『人物重視』」という記事で、教育再生実行会議が国公立大学の2次試験をペーパー試験から面接などによる「人物重視」に変える方針だということを取り上げて、批判しました。
面接で「人物」見て選考すると、どんな結果になるかということは、大阪市の校長公募制を見れば明らかでしょう。
 
ちなみに安倍首相が尊敬する吉田松陰は、若いころに脱藩して処分され、さらには外国に密航しようとして幕府によって投獄され、長州藩に送られて幽閉生活を強いられているときに松下村塾を開きます。こういう経歴の人物が大阪市の校長職に応募してきたら、書類選考で落とされるでしょう。
 
私は吉田松陰には詳しくありませんが、今ウィキペディアの「吉田松陰」の項目を見ていると、『松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる』という記述がありました。
弟子といっしょに意見を交わすということは、弟子を自分と対等の人間として尊重しているということでしょう。
 
アベデュケーションや大阪市の校長公募制などは、上から目線の傲慢な発想に基づくもので、そんな教育改革がうまくいくはずがありません。
 

アベノミクスで経済の一部は少しよくなりつつあるかもしれませんが、日本全体としては沈滞したままで、とりわけ若者に元気がないと思います。こういう日本の状況を、たまたま2ちゃんねるで見かけた中国系の新聞が的確に指摘していました。
 
 
日本の「失われた20年」、下流社会化と精神の低迷―米華字メディア
配信日時:20131013 750
 
20131010日、米華字メディア・多維新聞は記事「日本、『下流社会』の20年」を掲載した。
 
「失われた20年」についてはさまざまな説がある。ただし「失われた」という言葉を日本経済の衰退ととるのは正しい解釈ではないだろう。1991年から2009年の経済成長率は平均08%。ほぼ停滞状態にあり、「生きても死んでもいない」というのが正確な表現だ。「失われた」という言葉の意味は、日本の精神が道を見失っているというのが本当のところだろう。
 
2005年出版の三浦展「下流社会」は、日本の若い世代が次々と下流社会に転落していると評した。問題は単に収入が低いことだけではない。コミュニケーション能力、生活能力、仕事や学習、さらには消費の意欲が低いという特徴がある。つまり人生全般に対する熱意が失われているのだ。
 
未来に期待が持てないなか、日本人は自信と活力を失っている。社会には閉塞感があふれ、息苦しい状態が続き、上を目指そうとする精神は雲散霧消した。国全体が方向を見失っているようだ。「一億総中流」「最も成功した社会主義国」との言葉で評されてきた日本の平等な社会が崩壊していく。これこそが「失われた20年」の意味だ。(翻訳・編集/KT
 
 
要するに三浦展氏の著書「下流社会」に依拠しているだけなのですが、「問題は単に収入が低いことだけではない。コミュニケーション能力、生活能力、仕事や学習、さらには消費の意欲が低いという特徴がある。つまり人生全般に対する熱意が失われているのだ」という指摘は、当たっているといわざるをえません。
 
ただ、なぜ若者はそうなったのかについての指摘はありません。
世の中にも共通認識はないのではないでしょうか。
非正規雇用で低収入のために元気が出ない若者はいるでしょうが、雇用環境のせいだけとも考えられません。
 
最近の若者に元気がないのは教育のせいだというのが私の考えです。
たとえば、子どもが道路や公園で遊んでいても、「うるさい」と苦情が出るので、親は子どもに「静かにしなさい」といってしつけます。そういう子どもが元気なおとなになるわけがありません。
また、日本の学校にはイジメが相当多数あるようです。それは学校の中にいると強いストレスがかかっているということです。そういう学校の中で育って、元気になるわけがありません。元気になるのは、人をイジメるときだけです。まさに「やられたらやり返す。二倍返しだ!」というわけで、ヘイトスピーチやら、バイト店員のツイッターを炎上させたりするときはやたら元気です。
 
ですから、教育改革がたいせつになってきますが、日本は教育改革の方向が根本的に間違っています。
たとえば、国公立大学の2次試験で、ペーパーテストを原則廃止し、面接など「人物重視」にするという報道があって、議論を呼んでいます。
 
 
大学入試:国公立大、2次の学力試験廃止 人物重視、面接や論文に−−教育再生会議検討
毎日新聞 20131011日 東京朝刊
 
 政府の教育再生実行会議(座長、鎌田薫・早稲田大総長)が、国公立大入試の2次試験から「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止する方向で検討することが分かった。同会議の大学入試改革原案では、1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする考えだ。2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視することで、各大学に抜本的な入試改革を強く促す狙いがある。実行する大学には補助金などで財政支援する方針だ。【福田隆、三木陽介】
 
 同会議のメンバーである下村博文文部科学相が、毎日新聞の単独インタビューで明らかにした。
 
 同会議は「知識偏重」と批判される現在の入試を見直し、センター試験を衣替えした複数回受験可能な新しい大学入学試験と、高校在学中に基礎学力を測る到達度試験の二つの新テストを創設し、大規模な教育改革を進めようとしている。11日の会合から、本格的な議論に入る。
 
 下村文科相は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調。さらに、大学ごとに実施する2次試験について「大学の判断だが(同会議では)2回もペーパーテストをしないで済むよう考えたい」「暗記・記憶中心の入試を2回も課す必要はない」と述べた。私立大も新テストを活用するのであれば、同様の対応を求める方針だ。
 
 同会議の改革原案では、各大学がアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)に基づき多面的・総合的に判断する入試を行うよう求めている。だが、面接や論文、課外活動の評価を重視する新しい2次試験では、従来のペーパー試験に比べ、人手など膨大なコストが発生する。下村文科相は「改革を進める大学には、補助金などでバックアップしたい」と述べ、国が費用面で支援する考えを示した。
 
 
入学試験は「一発勝負」だからよくないという主張は昔からありました。それを根拠に内申書重視や推薦入学が進められてきたわけです。
しかし、今回は「1点差勝負」がよくないという主張です。「1点刻みで採点するペーパー試験」という言葉も出てきました。こういう論法は初めてです。
 
かりに面接で選ぶにしても、当落ぎりぎりのところは結局「1点差勝負」になるはずです。
 
こんなお粗末な論理で行われる教育改革がまともなものであるはずがありません。
 
「人物評価」で入学者を選ぶことにはすでに批判の声が上がっています。
その理由としては、あくまで学力で選ぶべきだということと、面接が苦手な人は不利になるといったことです。
 
それにしても、大学での「人物評価」はどのような基準で行われるのでしょうか。
映画のオーディションなら、その役にあった人を選ぶわけですし、企業の採用面接であれば、その職種に合った人、企業に利益をもたらしてくれそうな人を選ぶわけです。
大学では、そこの校風に合った人を選ぶのでしょうか。しかし、それは受験者のほうで選ぶことで、私立大学ならともかく、国公立大学が選ぶことではないと思われます。
経済学部だと「経済学への情熱」みたいなものを見るのかもしれませんが、受験の段階では専門知識はなくて当然のはずです。そうすると「情熱」とか「意欲」とかを見ることになります。
受験生は「情熱」のあるふり、「意欲」のあるふりをして、面接官はそれが本物かどうかを見分ける。そんな面接になりそうです。
 
受験生がうんざりした気持ちになるのは当然です。企業の面接なら給料をもらうという見返りがありますが、相手に気に入られるよう努力して、その上授業料を払うのは納得がいかないでしょう。
 
根本的なことを言えば、人間が人間を評価するというのは間違っています。人間の評価ができるのは神さまだけです。
 
人間が人間を評価すると、当たり前ですが、どうしても選ぶ人間の価値観で選んでしまいます。価値観の枠を外れる人間は選ばれません。面接官は複数いるはずですから、それぞれの価値観の最大公約数の人間が選ばれるということになります。
つまりひじょうに狭い枠で選んでしまうわけです。
 
これは企業の面接を見ればよくわかるでしょう。応募者はみんなリクルートスーツを着ています。個性的な服装をするのは損だからです。
大学の面接でも同じことになると思われます。
 
企業が均質な人間を求めても、それはいけないとは決めつけられません。企業の裁量の範囲内だからです。
しかし、国公立大学だと話は違います。
 
しかも、教育再生実行会議の「第三次提言」には、「イノベーション創出」という言葉が再三出てきます。年寄りの面接官の価値観で選んだ人間に「イノベーション創出」を求めるのは筋違いというものです。
「イノベーション創出」ができるのは、むしろ年寄りの顰蹙を買うような、型破りの人間です。
 
なぜこのような愚かな教育改革をするのでしょうか。
それは、国公立大学というのは結局役所であって、役所はみずからの権限を拡大しようという“本能”があるからです。
面接で人を選ぶと、面接する側の権力や権威はいやが上にも高まります。
芸大や音大の先生は、その先生のレッスンを受けると入学に有利だということで入学希望者が集まりますが、おそらく似たようなことを期待しているのでしょう。
子どもを入学させたい親による大学への寄付もふえるかもしれません。
 
大学の先生の権威が高まる一方で、受験生はその権威にひれ伏さなければなりません。
これでは若者はますます元気がなくなってしまいます。
 
おとなが自分本位で考える教育改革は教育を悪くする一方です。

五輪招致プレゼンでの「おもてなし」以来、日本人に果たして「おもてなし」の心があるのかということが話題になっています。
デパートの店員などのていねいな「おもてなし」は商業的なものです。一般の人々が外国人に対して親切にするかというと、疑問があります。
いや、そもそも日本人は互いに親切にしているのかということにも疑問があります。最近はやたらギスギスしている場面が目立つような気がします。
 
その典型が都会の電車の中でしょう。
ベビーカーが迷惑だ、携帯で話すな、化粧をするな、飲食をするな、若者が席を譲らないなど苦情はいっぱい聞きますが、親切にされたという話はあまり聞きません。
 
たとえば、電車の席を年寄り、妊婦、体の不自由な人にちゃんと譲っているかという問題があります。
外国では若者は年寄りに普通に席を譲るが、日本の若者はそうではないとよく言われます。
私は義理の母といっしょにイギリスとカナダに旅行したことがありますが、そのときは向こうの人は母に対してわりと気楽に、ここに座れと声をかけてくると感じました。
もっとも、これは事例が少なすぎて比較にはならないかもしれません。
 
外国と日本を比較するのは、相当に幅広い見識を持っていないとできないことで、私にはむりですが、ただひとつ言えるのは、日本では若者が年寄りなどに席を譲らないと言って批判する声はいっぱい聞くのに、その割りに若者が年寄りなどに席を譲る場面を見ることは少ないということです。
若者が席を譲らないから批判する声が多いのか、若者を批判する声が多いから若者は席を譲らないのか、どちらかということになりますが、それについて考えるのにちょうどいい材料が今日の朝日新聞の「声」という読者投書欄に載っていました。
 
 
(声)優先席を若者が占領する国とは
 大学研究補助員 (氏名略 女性)(千葉県 62)
 
 来月出産を迎える娘と都心へ出るため電車に乗った。ラッシュを避けた時間帯だったが車内は混んでいて、突き出したおなかを抱えた娘は優先席の前に立った。優先席に座るのは談笑する若い男性たちと化粧をする女性。その後、そのうちの1席が空いたが、耳にイヤホンをした若い男性がするりと座り、娘は最後まで立ちっぱなしだった。
 
 東京での五輪開催が決まった際、「おもてなし」の心を売り込んだのが決め手だったという人もいる。しかし、優先席を若者が占領している光景が珍しくない日本って、なんだかおかしい。おもてなしとは、おいしいものを提供したり、愛想をよくしたりすることだけではないだろう。弱いものをかばい、いたわる優しさがおもてなしの原点だ。
 
 座る若者たちに「あなたたち、具合が悪いの」と聞こうと思ったが、娘に「そんなことして何かあったらどうするの」と言われた。私はそれもそうかなと思う一方、悲しくなった。
 
 弱者に対するいたわりの心を育む雰囲気が共有できるような社会でありたい。人が勝ち組、負け組などと区別されるつらい時代だが、いたわりや心遣いを教えるのは私たち大人の責任でもあるのかもしれない、と思った。
 
 
座っている若者に「あなたたち、具合が悪いの」と聞くのはイヤミな言い方ですから、やめたほうがいいでしょうが、それを別にすれば、この投書にけっこう共感する人がいるのではないでしょうか。
しかし、私は一読して、疑問を感じました。この投書子は、自分の娘に対していたわりや心遣いはないのだろうかと。
 
来月に出産を控える娘を立たせたままではしのびないと思うなら、座っている若者に「娘に席を譲ってもらえませんか」と声をかければいいのです。
この場合、若者が反発して席を譲らないと困りますから、イヤミな言い方ではなく、できる限りやんわりと、丁寧に頼んだほうがいいのはもちろんです。
 
若者に席を譲るよう頼むのは、妊婦(娘)に対するいたわりの気持ちの表れです。 
投書子は、「いたわりや心遣いを教えるのは私たち大人の責任でもあるのかもしれない、と思った」と書いていますが、そのときがまさに教えるチャンスで、それを逃してほかに教えるチャンスがあるとは思えません。
 
実名で投書しておられる方を批判するのは本意ではないので、少しフォローしておきますが、実際のところは、娘さんは立っていることがそれほど苦痛ではなく、かなり余裕があったのでしょう。だから、若者に娘を座らせてくれと頼むことをしなかったのだと思います。
 
ただ、身重の娘と、優先席に座って談笑する若者を目の前にしたとき、これはまさに「若者たちの間違った行いを指摘するチャンスだ」と思って、その状況を書いて投書したのでしょう。
 
私が思うに、日本には若者が席を譲る文化はあまりなくて、若者が席を譲らないことを批判する文化はいっぱいあるのです。投書子はその文化に染まってしまったわけです。
 
普通は、若者は年寄りに席を譲るべきだと主張する人は、年寄りに対する思いやりがあって主張しているのだと思われるかもしれませんが、そうとは限りません。「年寄りに席を譲る心」と、「年寄りに席を譲らないことを批判する心」は、まったく別物で、一致するときもあれば一致しないときもあります。
これは、「殺人事件で亡くなった人を悼む人の心」と、「殺人犯を死刑にしろと主張する人の心」が違うみたいなものです。
 
日本では、老人、妊婦、体の不自由な人に席を譲ることは若者の務めのように言われていますが、これもおかしなことです。若者に限らず、30代、40代、50代の人でも席を譲ればいいのです。
また、老人に席を譲るべきだともよく言われますが、この言い方では、老人と老人でない人との線引きが明確ではありませんから、実際の場面になると困ります。老人だと思って席を譲ると、老人扱いされたということで気分を害する人もいます。
 
つまり、「若者」とか「老人」というカテゴリーで論じているのが間違いなのです。
「立っているのがつらい人」に「立っているのが平気な人」が席を譲るというのが正しいあり方です。
この場合、「立っているのがつらそうな人」を見分けることが必要になりますが、若い人がこうした見分ける能力を鍛えると、恋人や配偶者に対していたわりを示すのにも役立ちます(というか、人生全般に役立つ)
 
「立っているのがつらそうな人」ということでは、もちろん子どもも含まれます。小さな子どもが長時間立っているのはつらいことですから、元気なおとなが席を譲るのは当然です。
 
考えてみれば、ロンドンの地下鉄で義理の母親にここに座るようにと声をかけてくる人がいたのは、義理の母親が旅の疲れでつらそうにしていたからでしょう。年寄りであれば誰にでも声をかけていたわけではないと思います。
 
日本でよく「若者は年寄りに席を譲るべきだ」と言われるのは、長幼の序といった儒教的な意識からくるものか、若者を非正規雇用に追いやるような若者への差別意識からくるものであって、決して年寄りや体の弱い人へのいたわりの気持ちからではないと私は思っています。
「若者は年寄りに席を譲るべきだ」といった主張の欺瞞性に気づくことが、これから日本人が「おもてなし」の心を育んでいくための第一歩ではないでしょうか。

10月1日、横浜市内の踏切で会社員の村田奈津恵さんが線路上に倒れていた男性を助けようとして、男性は助けたものの自身は脱出が遅れて亡くなるという事故がありました。これについて、亡くなった村田奈津恵さんを賞賛する声が多く聞かれ、神奈川県、神奈川県警、横浜市がそれぞれ感謝状を贈呈し、政府は紅綬褒章を授与するとともに安倍首相の名前で感謝状を贈ることを決めました。それを発表した菅義偉官房長官は「他人にあまり関心を払わない風潮の中で、自らの生命の危険を顧みずに救出に当たった行為を国民とともに胸に刻みたい」と語りました。
 
自己犠牲になった人がやたら賞賛されるのはいつものことですが、その中で地元の神奈川新聞が比較的中庸な報道をしているのが目につきました。
 
JR横浜線踏切事故:学ぶべきものは/神奈川
 
その記事から一部を引用します。
 
■まず非常ボタン
 ある鉄道会社の男性社員は危惧を抱く。「今回の行動が正義なのだということになれば、同じような事故が起こる可能性もあるのでは」
 
 鉄道各社は「人の立ち入りを見つけたら、非常ボタンを押してほしい」と口をそろえる。「社員であってもまずは電車を止めるための行動を取る。『どうして助けないんだ』と思うかもしれないが」。電車を止め、あるいは少しでも速度を落とすことで衝突によるダメージを減らすことができるからだ。
 
 線路内にいる人を助けようとするより、非常ボタンを押す方が早くできる。だが、男性は「今はそういうことを口にすれば、ひどい人と言われそうなタイミング。美談としてエスカレートしていくのが怖い」とも感じる。「『線路に入らないで』とは言えても『人を助けないで』とは言えない。危険だから助けに入ることは絶対に禁止、と伝えていくしかない」
 
直接助けるよりまず非常ボタンを押すというのは、確かに重要なことです。この機会にそのことの周知をはかるべきだと思いますが、現実は自己犠牲の賞賛ばかりになっている気がします。
 
しかも、的はずれな賞賛をしている記事もあります。
 
勇気をありがとう 踏切事故で亡くなった村田さんの死悼む献花続々
 
この記事にはこんな声が紹介されています。
 
 現場近くの高校3年の女子生徒(17)は「身近でこのようなことがあったので駆けつけました。自分だったらこのような行動はできないと思います」と、友人とともに合掌。
 
仕事で奈津恵さんと顔を合わせていた不動産業の男性(57)は、「おとなしそうな彼女がそういう行動に出たのは驚きました。内に秘めた正義感があったのでしょう」と語った。
 
どうやらこの人たちは、村田奈津恵さんはみずからの死を覚悟して救助の行動をしたと思っているようです。
確かに村田奈津恵さんには、倒れている人の命を救いたいという強い気持ちがあったでしょう。しかし、見ず知らずの他人のために自分の命を捨てようという気持ちがあったとは思えません。というか、誰にもそんな気持ちはないでしょう。
村田奈津恵さんが亡くなったのは、自分が想定したよりも電車のスピードが速かったか、逃げようとしたときに足がもつれるなどしたためでしょう。あくまで結果的に亡くなったと見るべきです。
 
踏切で倒れていた男性が助かったのは(鎖骨骨折などの重傷で入院中)、もちろん村田奈津恵さんの働きによるのでしょうが、へたをすると2人とも亡くなっていた可能性があります。
 
たとえば山岳遭難の救助活動の場合、悪天候の中で救助活動をするのは二次遭難になる恐れがあるので、冷静な判断が求められます。村田奈津恵さんの場合は、二次遭難に至ってしまったわけで、判断ミスといわざるをえません。最初の遭難者を助けたからといって、判断ミスに変わりはありません。
 
村田奈津恵さんのケースを「人の命を救うために自分の命を犠牲にした」と見なすのは、間違った解釈です。
 
もっともこれは「美しい誤解」だからいいのではないかという人がいるかもしれませんが、そうとは限りません。
というのは、助かった男性にとっては、「美しい誤解」はかえって精神的な負担になるからです。
それに、この「美しい誤解」は、遭難救助のあり方をゆがめてしまう恐れがあります。つまり、自分を犠牲にして人を助けることが賞賛されると、二次遭難を恐れずに救助活動をするべきだということになりかねません。
 
同様の誤解は、9.11テロで多数の消防士が亡くなったときにもありました。ビルの崩落が予見されなかったために消防士は亡くなったのですが、それがまるで英雄的な自己犠牲とされたのです。
 
それに、「美しい誤解」をする人の心は決して美しくないことが考えられます。
というのは、「他人の自己犠牲は自分の利益」だからです。
他人の自己犠牲を賞賛して、ほかの人もどんどん自己犠牲をしてくれると自分の利益になる――そういう下心がないとはいえません。
 
 
ここで、改めて村田奈津恵さんのケースを振り返ってみると、線路の上に人が倒れているのを見たとき、冷淡に見過ごす人もいるでしょうから、すかさず救助の行動に出たのは、確かに賞賛するべきことだと思います。
このとき、非常ボタンを押すという判断ができなかったのも責められません。とっさに目の前の人を助ける行動をするのも自然だからです。
 
もちろんこのとき、助けることが可能だという判断があったはずです。間に合わないと思えば、助けようとするわけがないからです。
 
しかし、いざやってみると、意外と倒れている人の体が重くて、動かせなかったのでしょう。平らなところなら女性の力でも引きずれたでしょうが、レールがじゃまになったと思われます(倒れた人はレールの間にいたことで助かったようです)
 
思うように倒れた人を動かせず、電車が迫ってきたとき、自分だけ逃げればよかったのですが、そうできなかったのもわかります。いったん助けようとした人が亡くなると、最初から手を出さなかった場合より罪の意識が重くなるからです。また、目の前で人が轢かれる悲惨な光景が目に浮かぶと、ますます諦められません。そのため逃げ遅れたのではないかと想像されます。
 
私はもしかして同様のケースに出くわした場合、同じ行動を取ってしまうかもしれないので、人ごととは思えません。
私に限らず、助けられそうな状況であればたいていの人は助けようとするはずです。
ですから、このような場合はまず非常ボタンを押すべきだということと、いったん救助の行動を起こしても、救助に夢中になることなく、自分の身の安全をはかる冷静さを忘れてはいけないということを教訓とするべきでしょう。
 

NHKの朝ドラ「あまちゃん」が好評のうちに終了しました。このブログもその人気に便乗しようと、「あまちゃん」を取り上げてみました。
といっても、「あまちゃん」そのものを論じるというよりも、朝日新聞の「あまちゃん」論を批判することが主目的ですが。
 
9月11日の朝日新聞に、「あまちゃん」人気を分析した「日常輝くクドカン流 現実を肯定、脇役も魅力的に」と題する記事が載っていました。
実は、私はまったく「あまちゃん」を見ていないのですが、それでも宮藤官九郎氏の作品については多少の知識があります。この分析には首をかしげてしまいました。
 
 
日常輝くクドカン流 現実を肯定、脇役も魅力的に
  【江戸川夏樹】NHK連続テレビ小説「あまちゃん」が毎日のように話題に上る。脚本は、放送前には先鋭的で朝ドラに適さないともいわれた宮藤官九郎(くどうかんくろう)。なぜ誰もが魅入られるのか。
 
 あまちゃんは、東京生まれのアキの物語。祖母・夏の住む北三陸(モデルは岩手県久慈市)を舞台にしている。
 
 朝ドラの定番といえば女一代記だ。「おしん」や最近の「カーネーション」「梅ちゃん先生」などはいずれも、主人公が夢をかなえるまでの人生を追った作品だった。
 
 一方、あまちゃんが描くのは高校時代とその後の数年間。アキの目標は周りの人々の影響を受け次々と変わる。東北に移り住んだ時は祖母に憧れ海女を、その後は母や親友に憧れアイドルを目指す。
 
 身近なヒロイン像を通じて宮藤が描く世界観は、「徹底的に現実を肯定することの大切さ」だ。
 
 田舎が嫌で飛び出したやつって東京行ってもダメよね。逆にさ、田舎が好きな人って、東京行ったら行ったで案外うまくやれんのよ、きっと。結局、場所じゃなくて人なんじゃないかと思う
 
 アキの母親・春子のセリフだ。地元や周りの人々に目を向けなかった自分への後悔がにじむ。自分が嫌った母・夏を「かっけ~」と尊敬するアキにふれ、考えを変えていく。過疎化の波を受け入れていた北三陸の人々も、海やローカル線のかけがえのなさに気づき、町おこしを始める。
 
 おらが東京さ行って芸能界とかこの目で見て、いろいろ経験して、でも結局ここが一番いい
 
 なぜ帰ってきたか説明するアキの言葉に、「ここではないどこか」をめざし続けたユイも、地元で出来ることを探す道を決意する。
 
 現実を肯定するドラマは意外に少ない。最近放送されているドラマの多くのテーマは現状打破だ。視聴率30%を超えたドラマ「半沢直樹」は、癒着がはびこる銀行で、無理難題ばかりの現実を理知と突破力で変えていく。
 
 そんな中、異彩を放つ宮藤作品の根幹を「今いる場所をむげにしない。今を振り切って後を振り返らない人は、描かない」と語るのは、TBSの磯山晶(あき)プロデューサーだ。宮藤と組んで「木更津キャッツアイ」など話題作を世に送り出してきた。
 
 「木更津」の余命半年を宣告された主人公は21歳になるまで木更津(千葉県)から出たことがない。都会に憧れ、地元に文句を言いつつも、最期まで地元で仲間たちと日常を送ることを選ぶ。磯山さんは「主役だけを中心にせず、脇役も魅力的に。新天地に行くときの別れは特に丁寧に描く。現実に無駄なことはないと伝えている」と説明する。
 
 なぜ、現実の肯定が人の心に刺さるのか。東日本大震災後に売れた本の一つ、仏哲学者アランの『幸福論』には、「自分の仕事や友達、書物を利用しないことを赤面すべきだ。価値のある物事に関心を持たないことは誤りにちがいない」と書かれている。
 
 明治大の合田正人教授(西洋思想史)は、あまちゃんには幸福論と同じ「肯定の思想」があると指摘する。「肯定とは現実におのずと変革を促す力。いろいろ失敗し、あれやこれや気に病む登場人物はアキと出会い、違う見方をするようになる。悲劇だと思っていたものが喜劇やユーモアに見えてくる」という。
 
 自分は多様な他者でできているとアランは考える。「うまくいかない原因だと見捨ててきたものが、自分の資源だったと気づく幸福の過程を描いているのではないか」
 
 ヒットしたテレビ番組や雑誌、商品を引用するのも宮藤作品の特徴だ。あまちゃんにも、「ザ・ベストテン」をほうふつさせる歌番組やアイドルの総選挙が登場する。磯山さんは「それでなければ時代を説明できない不可欠な小道具」と分析する。流行したものこそ、「今」を成立させるものだからだ。
 
 
この記事は「現実の肯定」をキーワードに「あまちゃん」の魅力を説明していますが、私は「現実の肯定」という言葉は違うだろうと思いました。
 
その後、朝日新聞は「『じぇじぇ』ヒットの秘密 宮藤官九郎に聞く哲学と手法」と題する宮藤官九郎氏へのインタビュー記事を掲載しましたが、これにも「現実の肯定」ということが再三出てきます。
インタビュアーの言葉だけを抜き出してみます。
 
 
――最高視聴率42・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)の「半沢直樹」や、一匹おおかみのフリーランスの医者が活躍する「ドクターX」など最近のドラマの多くは現状打破がテーマ。一方、宮藤さんの作品には悪人がいないし、今いる場所を大切に描いている。ほかのドラマと比べて、現実を肯定しているように見えます。
 
――家族や自然、地元など自分の周りにある現実を肯定することが今の世の中にどういう意味があって、どう幸せに結びつくと思いますか。
 
――宮藤さんがそっちを向いているということは、現実を肯定している人って少ないということでしょうか。
 
 
インタビュアーはどうしても「あまちゃん」は「現実肯定」の物語だとしてしまいたいようです。
 
感動する物語というのは、根底に愛や命や人間の肯定があるものですが、それと「現実の肯定」とは違います。
人間を肯定するということは、非人間的な現実と葛藤するということであって、この葛藤が物語の推進力になります。
「現実の肯定」というと、あらゆるものを肯定してしまうことになりますし、「向上しない」とか「改革しない」といったマイナスの意味も含んでしまいます。
 
宮藤官九郎氏自身は、「現実の肯定」ということは言っていません。むしろ「人間の肯定」ということを言っていると思います。
たとえばこんな具合です。
 
 
 人間のいいところばかりを見せるドラマをやりたくないし、人間のちょっとしたミスや弱いところを攻撃するようなドラマも見たくない。いいところも悪いところも「面白い」という言葉で全部一緒にしちゃえ。いいところも悪いところもおもしろいからいいじゃんっていう肯定の仕方。
 
あまちゃんは26週もあったので、要点だけをつまんで話を作らなくてよかった。寄り道がいっぱいできて、1人の人間を多面的に描けた気がする。そういう方法が自分は一番好きだし、自分が一番出る方法。 基本にあるのは、弱いところも、だめなところも、悪いところもひっくるめて面白いということで人間はできているんじゃないかと。
 
 
さらに引用すると、「現実の否定」みたいなことも言っています。
 
 
今回は東北を舞台にしているからといって、震災を描くドラマではない。震災に対するみなさんの憤りとか、その後の社会に対する怒りは現実。僕の場合は、それが作るときの原動力にはなっていない。その後の世界をどう受け止めているかというか、登場人物たちが相変わらず、スナックでくだらないことを言っている。というのが面白くないですか?と思っていますね。
 
 
ともかく、「現実の肯定」という大ざっぱな言葉で「あまちゃん」のおもしろさを説明しようとするのは所詮むりというものです。
 
では、朝日新聞記者はなぜ「あまちゃん」のおもしろさをうまく説明できないのかというと、おそらく宮藤官九郎氏の価値観と朝日新聞記者の価値観が水と油だからでしょう。
 
宮藤官九郎氏が最初に注目されたのは、「木更津キャッツアイ」と「池袋ウエストゲートパーク」の脚本家としてではないかと思いますが、どちらのドラマも、地元に生きるヤンキー、つまり不良たちの物語です。
 
実際の学校は複雑ですが、学園ドラマというのは単純化して描かれ、生徒は優等生と不良に分けられます。優等生は勉強ができて、よい学歴を身につけ、将来は官僚になったり、グローバルに活躍するビジネスマンになったり、ときには新聞記者になったりします。不良は勉強ができないので、学校では評価されないのですが、その分仲間とのつながりをよりどころにし、将来は地元で就職します。
実際のところは、優等生でもないし不良でもないという中間層がいます。中間層をより詳しく見ると、優等生になりたくても成績が優等でないので優等生になれない者と、不良になりたくても行動力がないために不良になれない者とに分けられるでしょう。この中からネットでヘイトスピーチをする者が生まれます。私はこれを“引きこもり系の不良”と呼んでいます。
 
宮藤官九郎氏の価値観は不良寄りであって、学歴主義の否定(宮藤氏は日大芸術学部中退)と地元主義があると思います。
地元主義というのは東京中心主義の否定でもあります。
ですから、学歴エリートで東京中心主義の朝日新聞記者の価値観とは水と油になるわけです。
また、学歴エリートはアイドルや流行歌などの大衆芸能にも否定的です。
 
「あまちゃん」の主人公は不良ではありませんが、東京の高校にはなじんでいませんし、海女になったり、東京でアイドルを目指したりする生き方は不良に近いものです。
そして、最終的に東京でアイドルになるのではなく、地元でご当地アイドルになります。
 
地元主義というのは、地元の人間関係をたいせつにするということでもあります。
学歴主義の生き方をすると、地元から切り離され、会社を定年になると、なんの人間関係もないということになりかねません。
 
朝日新聞の記者は、大衆芸能の価値や、地元の人間関係の中で幸せに生きていくという生き方を受け入れることができず、「現実の肯定」というわけのわからない言葉で説明しようとしたのではないでしょうか。 

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