村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2014年06月

ソフトバンクは、人の感情を認識しスムーズに会話することができる人型ロボット「Pepper」を20152月から販売すると発表しました。
最近、またロボットブームが起きているようです。政府が成長戦略のひとつにロボット産業を挙げており、株式市場でもロボット関連銘柄が活況を呈しています。
 
ソフトバンクの「Pepper」は、「人によりそうロボット」がキャッチフレーズで、「まるで生きているかのように自ら行動します」「あなたの気持ちを理解しようと頑張ります」と説明されています。
 
 
 
 
 
 
この動画を見る限り、確かに人間と会話しているのにかなり近い感じがします。
 
私は、ロボット学者の夢は人間とまったく同じようにふるまうロボットをつくることだと聞いたことがあります。感情認識のできる「Pepper」は夢へさらに近づいたのかもしれません。
 
しかし、人間のようなロボットをつくる道はまだまだ遠いでしょう。
というのは、ロボット学者はロボットについては詳しくても、人間についてはあまり詳しくないに違いないからです。
早い話が、「人間らしさ」とはなにかということがわかっていないのではないでしょうか。それがわからないと人間のようなロボットをつくることはできません。
 
では、「人間らしさ」とはなにかというと、これは「ハムレット」の「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」というセリフに集約されています。
このセリフの翻訳については異論がありますが、知らない人がいないぐらいに知れ渡っているのは、誰もがもっとも「人間らしさ」を感じるセリフだからです。
 
これは内面の葛藤を表現したセリフですが、ただの葛藤ではありません。道徳がもたらす葛藤です。
道徳を持っているのは人間だけですから、こうしたことがもっとも「人間らしい」と感じさせるわけです。
 
お昼にラーメンを食べるか牛丼を食べるか、賃貸アパートに住み続けるか家を買うかということも心の葛藤ですが、道徳と関係ないので、こうした悩みに「人間らしさ」を感じることはありません。
 
ついよこしまな欲望に駆られて行動し、あとになって良心の呵責に苦しむ――こういうのが人間らしい悩みです。
夏目漱石の「こころ」の先生は、友人を出し抜いて意中の女性との結婚の約束をとりつけ、友人が自殺したために悩みますが、これが典型です。
 
つまりわれわれが感じる「人間らしさ」とは「道徳のもたらす葛藤」にこそあるのです。
しかし、世の多くの人は、「道徳的なふるまい」をすることが「人間らしさ」だと考えているのではないでしょうか。
これはまったくの考え違いです。
 
もしルールやマナーを完璧に守る人間がいたとすれば、われわれはそうした人間を人間らしいとは感じません。逆に非人間的と感じます。
謹厳実直な法律家などをイメージすればわかるでしょう。
 
自民党や文部科学省は道徳教育を強化することでよい人間をつくることができると思っているようですが、これもまったくの考え違いです。もしうまくいったら非人間的な人間ができてしまいますし、うまくいかないと反発して非道徳的なことばかりする人間ができてしまいますし、たいていは道徳との葛藤をかかえた人間ができてしまいます。
 
私はこのブログに「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」と掲げているように、人間は道徳を武器にして互いに生存闘争をしているのだと考えています。
動物は爪や牙を武器に生存闘争をしていますが、人間は主に言葉(道徳)を武器にして生存闘争をしているというわけです。
 
ネットでの議論を見ているとわかりますが、みんなが道徳という棍棒を振り回しています。
棍棒を振り回しているというよりも、棍棒に振り回されているような感じもしますが。
 
もちろん人間は(動物も)、生存闘争をする一方で、子どもの世話をし、仲間と助け合ったりもします。
しかし、愛情や思いやりと道徳はまったく別のものです。それを勘違いする親は、自分の子どもにまで棍棒をふるってしまいます。それのひどいのを幼児虐待といいます。
 
Pepper」の開発陣は、「Pepper」に「道徳回路」を組み込んで、人間らしいロボットをつくることを目指してほしいものです。
もっとも、そうして完成したロボットは、相手を道徳的に非難することで自分が優位に立とうとする、いやな一面を持つことになりますが。

東京都議会で塩村文夏都議に対して「早く結婚したほうがいいんじゃないか」などのセクハラヤジが飛んで問題になっていましたが、自民党の鈴木章浩都議がヤジを飛ばしたのは自分だと名乗り出て謝罪しました。
最初は自分ではないと否定していましたが、問題が大きくなったために名乗り出たわけで、お粗末極まりない話です。
 
鈴木章浩都議は2012年に尖閣諸島の魚釣島に上陸したことがあるということで、典型的な右翼政治家と思われます。
そして、右翼政治家と性差別は切っても切り離せません。
 
たとえば田母神俊雄氏は、201210月に沖縄で米兵による集団強姦事件が起きたとき、ツイッターで「朝の4時ごろに街中をうろうろしている女性や女子高生は何をやっていたのでしょうか」と発言し、被害女性に落ち度があったかのような言い方はセカンドレイプであると批判されました。
 
西村眞悟衆議院議員は、「日本には韓国人の売春婦がうようよいる。大阪の繁華街で韓国人に『おまえ、慰安婦やろ』と言ってやったらいい」と発言し、批判されて日本維新の会を離党しました。
 
橋下徹大阪市長は、「慰安婦制度は必要」「(米軍に対して)もっと風俗を活用してほしい」などと発言し、国際的にも批判されました。
 
石原慎太郎衆議院議員は、「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア」「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪」などと発言し、日弁連から警告書を出されるなど、広く批判されました。
 
右翼は性差別だけではなく、人種差別も“得意”です。
なぜそうなるかといえば、結局のところ右翼思想は「力の論理」だからです(少なくとも日本の右翼はそうです)
 
たとえば、最近の麻生太郎財務相の失言に「勉強はできない、けんかは弱い、だけど金持ちの子、これが一番いじめられる」というのがあります。
これは集団的自衛権の必要性をいうためのたとえ話です。けんかが強いところを見せておかないといじめられるから、集団的自衛権行使を容認したほうがいいという理屈です。
 
この失言をした前日に、麻生大臣は同じようなことをしゃべっています。その中にこんな表現があります。
 
 
よく、「抑止力」っていう言葉があります。英語で「deterrent」っていうんですけれども。抑止力ってのは簡単に言えば、皆さんがガールフレンドを連れて歩いている時に、街でコレ(頬に傷を入れるような仕草をして)っぽいのに絡まれたらどうするかって話。ヤバいなと思っても一応、(彼女を)後ろに置いてね、庇うくらいの格好をせんと、やっぱり具合悪いよ。「お金もあげます、彼女もあげます、私だけ助けて」なんて言ったらそれで終わり。そこで庇わないかん、というためにはね、力がいるんですよ。間違いなく力がいる。
 
このように「力の論理」を信じている人間というのは、彼女を助けるときも、「一応、庇うくらいの格好をせんと」と、本気ではないようです。
 
そして、「力の論理」を信じている人間というのは、自分の彼女に対しても「力の論理」でふるまうに違いありません。
そうしたふるまいを性差別というわけです。
場合によっては、レイプ犯にもなります。力のある者が力のない者をレイプするのは当たり前のことで、レイプされたくなければ力を持て、というわけです。
 
私は麻生大臣のような考え方をする人間と友だちになることはできないと思います。麻生大臣は自分のほうが力があると思うと、こちらを見下したり利用したりするに違いないからです。
 
「力の論理」である右翼思想は、外国に向いている限りは国内では共感を得るかもしれませんが(浅はかな共感ですが)、国内に向くと差別を生むなど、ろくなことがありません。鈴木章浩都議の言動がそのことを教えてくれます。

安倍政権が解釈改憲をやろうとするのは、もとはといえば最高裁が自衛隊についてきちんと憲法判断をしなかったからであり、そのため内閣法制局が最高裁の代わりを務めてきたからです。
政治家同士が、これは合憲だ、これは違憲だと議論しても結論の出るはずはなく、時間のむだです。戦後の日本はずっとそんな時間のむだをしてきたわけです。
 
裁判所がだめなのは、数々の冤罪事件を見逃してきたり、行政訴訟で行政側に都合のよい判決ばかりを出してきたりということで、ある程度知られてきているでしょうが、裁判所の内実とか、裁判官が一般的にどんな人間かということは、ほとんど知られていません。
そうした中で、「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著/講談社現代新書)という本が出て話題になっています。
 
著者の瀬木比呂志氏は、1954年生まれ、東大文科Ⅰ類に入学し、4年生のときに司法試験に合格します。なぜ司法試験を受けたかというと、自分が会社勤めに向いているように思えなかったことに加えて、両親の望みもあったからです。しかし、瀬木氏本人がほんとうにやりたかったのは文学部での社会・人文科学の研究だったといいます。また、文学、音楽、映画などに造詣が深く、1年間アメリカに留学したこと、その後うつ病になったこと、裁判官をしながら学術的な本を何冊も出版したことなども、裁判官の世界を客観的、批判的に見る視点の確立に役立ったと思われます。
33年間裁判官を務めたのち、現在は明治大学法科大学院専任教授です。
 
裁判官の世界についてはこれまでほとんど知られてこなかったと思うので、ここでは書評というよりも、もっぱら内容の紹介をすることにします。
 
とりあえず「はしがき」から引用します。
 
あなたが理不尽な紛争に巻き込まれ、やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうと考えたとしよう。裁判所に行くと、何が始まるだろうか?
おそらく、ある程度審理が進んだところで、あなたは、裁判官から、強く、被告との「和解」を勧められるだろう。和解に応じないと不利な判決を受けるかもしれないとか、裁判に勝っても相手から金銭を取り立てることは難しく、したがって勝訴判決をもらっても意味はないとかいった説明、説得を、相手方もいない密室で、延々と受けるだろう。また、裁判官が相手方にどんな説明をしているか、相手方が裁判官にどんなことを言っているか、もしかしたらあなたのいない場所であなたを中傷しているかもしれないのだが、それはあなたにはわからない。あなたは不安になる。そして、「私は裁判所に非理の決着をつけてもらいにきたのに、なぜこんな『和解』の説得を何度も何度もされなければならないのだろうか? まるで判決を求めるのが悪いことであるかのように言われるなんて心外だ……」という素朴な疑問が、あなたの心にわき上がる。
また、弁護士とともに苦労して判決をもらってみても、その内容は、木で鼻をくくったようなのっぺりした官僚の作文で、あなたが一番判断してほしかった重要な点については形式的でおざなりな記述しか行われていないということも、よくあるだろう。
もちろん、裁判には原告と被告がいるのだから、あなたが勝つとは限らない。しかし、あなたとしては、たとえ敗訴する場合であっても、それなりに血の通った理屈や理由付けが判決の中に述べられているのなら、まだしも納得がいくのではないだろうか。しかし、そのような訴訟当事者(以下、本書では、この意味で、「当事者」という言葉を用いる)の気持ち、心情を汲んだ判決はあまり多くない。必要以上に長くて読みにくいが、訴訟の肝心な争点についてはそっけない形式論理だけで事務的に片付けてしまっているものが非常に多い。
こうしたことの帰結として、2000年度に実施された調査によれば、民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は、わずかに18.6%にすぎず、それが利用しやすいと答えた割合も、わずかに22.4%にすぎないというアンケート結果が出ている(佐藤岩夫ほか編『利用者からみた民事訴訟――司法制度改革審議会「民事訴訟利用者調査」の2次分析』[日本評論社]15)。日本では、以前から、訴訟を経験した人のほうがそうでない人よりも司法に対する評価がかなり低くなるといわれてきたが、右の大規模な調査によって、それが事実であることが明らかにされたのである。
 
少し前まで、日本も好むと好まざるとに関わらずアメリカのような訴訟大国になっていくだろうといわれていました。そのため、司法試験合格者を年間3000人にふやすことを目標とし、法科大学院をつくったりという制度改革を行ってきましたが、最近は若い弁護士が生活していけないなどといわれます。私はそんなことはないだろうと思っていましたが、本書を読んで納得がいきました。
というのは、裁判所の統計によると、地裁訴訟事件新受件数は、民事ではピーク時である2009年度から2012年度には74.9%に減少し、刑事ではピーク時である2004年度から67.5%に減少しているのです。訴訟大国どころか逆に訴訟小国への道をたどっており、弁護士が余るのも当然です。
 
訴訟件数がへっているということは、裁判所や司法制度が国民から見離されつつあるということでしょう。問題は憲法判断や冤罪事件という目立つことだけではなく、むしろ日常的なレベルで進行しているのです。
 
裁判所がそのようになったのは、主に裁判所の人事制度のせいだと著者はいいます。
 
裁判所の組織は、最高裁長官を頂点としたピラミッド型で、しかも相撲の番付表にも似た細かい序列があって、事務総局中心体制に基づく上命下服、上意下達のヒエラルキーを形成しているということです。事務総局の意向に反する判決や論文等を出すと、露骨ないやがらせ人事をされます。いや、「事務総局に逆らう」ということでなく、「自分の意見を述べる」ということだけで、いやがらせ、見せしめの人事がされ、そのため裁判所は「精神的な収容所群島」となっているということです。
 
しかし、裁判官は憲法でも身分保障がされています。出世しなくても自分の信念を貫く裁判官はいないのかという疑問が生じますが、これについて著者はこういいます。
 
さて、学者仲間やジャーナリストと話していると、「裁判官になった以上出世のことなど気にせず、生涯一裁判官で転勤を繰り返していてもかまわないはずじゃないですか? どうして皆そんな出世にこだわるんですか?」といった言葉を聞くことが時々ある。
「ああ、外部の人には、そういうことがわからないんだ」と思い知らされるのが、こうした発言である。おそらく、こうした発言をする人々だって、裁判官になれば、その大半が、人事に無関心ではいられなくなることは、目に見えているからだ。
なぜだろうか?
それは、第一に、裁判官の世界が閉ざされ、隔離された小世界、精神的な収容所だからであり、第二に、裁判官が、期を中心として切り分けられ、競争させられる集団、しかも相撲の番付表にも似た細かなヒエラルキーによって分断される集団の一員だからであり、第三に、全国にまたがる裁判官の転勤システムのためである。
裁判官を外の世界から隔離しておくことは、裁判所当局にとって非常に重要である。裁判所以外に世界は存在しないようにしておけば、個々の裁判官は孤立した根無し草だから、ほうっておいても人事や出世にばかりうつつを抜かすようになる。これは、当局にとってきわめて都合のいい事態である。
 
私はこれまで、裁判官というのは裁判官を辞めても弁護士になれば食べていけるものと思っていました。しかし、裁判官は基本的に営業センスがないので開業などできませんし、すでに述べたように弁護士余りの時代ですから、弁護士事務所に雇ってもらうのも容易ではなく、多くの裁判官は現職にしがみつくしかないようです。
 
そのため、行政や立法に対する司法のチェック機能が問われるような事件について、裁判官が自分の考えによった、つまり日本の裁判官としてはかなり「思い切った」判決を出せるのは、たとえば現在のポストから上にも行かないし転勤もないと事実上決まった高裁の裁判長や、なんらかの理由によりやがて退官すると決意した裁判官ぐらいだということになります。
 
もっとも、著者が若かったころには、裁判官の間にはまだ「生涯一裁判官」の気概のある人もいて、そういう人を尊敬する気風もある程度存在していたのですが、2000年以降は裁判所の全体主義化が進んで、そうした気概や気風はほぼ一掃されてしまったということです。
 
裁判所が「精神的な収容所群島」になったために、心を病む裁判官がふえ、裁判官によるさまざまな不祥事が報道されるようになっています。たとえば痴漢行為、児童買春、盗撮、ストーカー行為、女性修習生に対するセクハラなどです。裁判官の数は3000人足らずであり、しかも高度専門職集団であることを考えると、不祥事の数は多すぎると著者はいいます。
 
以上のような精神構造の病理の根にあるのは、結局、人格的な未熟さであろう。私は、子どものような部分を持っている人間は好きだが、それは、老成した人格の中に子どものような純粋さや無邪気さ、好奇心、素直な共感の力などが残っている場合のことである。
裁判官の場合は、そうではない。ただ単に人格的に幼いのであり、聞き分けのないむら気でエゴイスティックな幼児性なのである。
感情のコントロールができず、すぐに顔色を変えることが、その一つの現れである。当事者が少し感情的な言葉を使ったときに、当事者のいない席で平謝りに謝る弁護士がいる。若いころ、どうしてそんなことをするのかなとやや不思議に思っていたのだが、後に、あるヴェテラン弁護士から、「それは、ちょっとでも気に障ると激高する裁判官が結構いるからです。それも、そのときだけならかまわないのですが、後から、訴訟指揮や和解で、さまざまな意地悪をして、報復してくる場合がある。ひどいときには、ねじ曲げた理由によって敗訴させられることさえある。そういうことがあるから、気の弱い弁護士は、当事者のちょっとした言動にも気を遣って平謝りに謝るのです」と聴かれさて、なるほどと納得した記憶がある。
 
著者は、裁判所を改革するには法曹一元化をはかる、つまり弁護士として経験を積んだ人間が裁判官になる制度がいいと主張します。確かにそれしか方法はないでしょう。
しかし、今の官僚機構や自民党政権がそうしたことをするはずはありませんが。
 
最後に、日本国民にとっての裁判所がどんなものであるかについての著者の言葉を引用しておきます。
 
私は、日本の国民、市民は、裁判所が、三権分立の一翼を担って、国会や内閣のあり方を常時監視し、憲法上の問題があればすみやかにただし、また、人々の人権を守り、強者の力を抑制して弱者や社会的なマイノリティーを助けるという、司法本来のあるべき力を十分に発揮する様を、まだ、本当の意味では、一度としてみたことがないのではないかと考える。

超党派議連の提出した「過労死防止法」が成立間近だそうです。「日系ビジネスオンライン」に書いてありました。
 
「過労死」が減らないのはなぜか
森岡孝二・関西大学名誉教授に聞く
 
ただ、この法律は国が過労死を防止するという理念をうたったもので、具体的な措置を規定したものではありません。現実の労働法制は、残業代ゼロ法案のような方向に動いていきそうです。
 
それにしても「過労死」というのは不思議な現象です。普通なら、死ぬほど疲れたら体が悲鳴を上げて、休みたくなりそうなものです。おそらく日常的に働きすぎていると、そうした体のセンサーが働かなくなるのでしょう。
 
「過労死」は英語でも「Karoshi」と表記されているように、かなり日本的な現象であるようです。
 
「特攻死」も日本的な現象です。
「過労死」も「特攻死」も似ています。その根底にあるのは、「滅私奉公」といったものです。
 
こうしたものは江戸時代までの日本にはなかったはずです。「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは似ていますが、「葉隠」は武士階級においても特殊な思想ですし、庶民にはまったく無縁です。
明治以降、急速に近代化するために「滅私奉公」の思想が国民に植えつけられたのでしょう。そこには学校教育の果たした役割が大きかったに違いありません。
 
今も過労死がへらないということは、学校教育のあり方がそれほど変わっていないということでしょう。
先ほど発表された2014年版「子ども・若者白書」の意識調査の結果からもそのことはうかがえます。
 
2014年版「子ども・若者白書」には、日本、韓国、米国、英国、ドイツ、フランス、スウェーデンの計7カ国で、13~29歳の男女約千人ずつを対象に昨年実施したインターネット調査の結果が掲載されています。
 
特集 今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの 
 
それによると、「自国のために役立つと思うようなことをしたい」という問いに「はい」と答えた人の割合は、日本は54.5%で、7カ国中でトップです。
 
「自国人であることに誇りを持っている」という問いに「はい」と答えた人は、日本は70.4%で、アメリカ、スウェーデン、イギリスに次いで4番目です。
 
「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ」という問いに「はい」と答えた人は、日本は41.7%で、他国平均は約8割なので、日本はかなり少ないことになります。
 
つまり日本の若者は、国家や公に対する意識がかなり高いといえます。
ところが、自分自身に対する意識はかなり低いのです。
 
「私は,自分自身に満足している」という問いに「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した者の合計は、日本は45.8%で、7カ国中で最低です。トップはアメリカの86.0%で、韓国の71.5%と比べても日本の低さは際立っています。
 
「自分には長所がある」
「うまくいくかわからないことにも意欲的に取り組む」
「私の参加により,変えてほしい社会現象が少し変えられるかもしれない」
「自分の将来について明るい希望を持っている」
40歳になったときのイメージ(幸せになっている)」
これらの問いのすべてに、肯定した人の割合は日本の若者が最低でした。
 
つまり、日本の若者は、国家や公に対する意識は高いが、自分自身については否定的なイメージを持っているということです。
こういう意識構造が過労死を生みやすいということはわかるでしょう。
自分に自信がないと、過剰に周囲の評価を気にして、周囲に合わせてしまいます。
 
こうした意識構造は、今の教育によっても強化されています。
たとえば、教育基本法改正によって「愛国心条項」が入り、「自虐史観を否定して、若者に国に対する誇りを持たせる」というのが今の教育です。
「自虐史観」というのはもっぱら国レベルのことですから、「自虐史観」を否定して、国に対する誇りを持てば持つほど、個人は置き去りになってしまいます。
つまり自虐史観を否定するといいながら、実際は自虐教育が行われているのです。
 
そして、このように自分に誇りのない、自虐的な人間は、為政者や経営者にとって利用しやすいので好都合です。
 
また、こうした自虐的な人間は、自分より弱い存在、たとえば在日、生活保護受給者などに対するヘイトスピーチをよくすることになります。
 
ところで、考えてみれば安倍首相の意識構造も、国家に対する誇りばかりあって、自分に対する誇りがないのではないでしょうか。
個人の歪んだ意識構造が国全体に広がっているようです。
 

自民党は6月13日、公明党に対し、集団的自衛権行使容認のための新しい前提条件を示しました。
その条件のひとつが「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」というものです。
 
私が思い出したのは、満州事変当時の「滿蒙は日本の生命線」という言葉です。
「中東の石油は日本の生命線」という言葉をつくれば、日本は中東にも自衛隊を派遣して戦争ができることになります。
 
公明党は「平和の党」だからということで、公明党の抵抗に期待する人もいるようですが、公明党は「平和の党」よりも「連立を維持したい党」なので、私は最初から期待していませんでした。
 
安倍政権にブレーキをかけるものがあるとすれば、それは世論だと思っていました。世論が圧倒的に集団的自衛権行使容認に反対であれば、安倍政権も考え直すのではないかと期待したのです。
 
しかし、世論の盛り上がりは今一歩です。
その理由のひとつは、読売新聞が集団的自衛権行使容認の立場から、強力に世論をリードしようとしているからではないかと思われます。
たとえば、安倍首相は5月15日の記者会見で、日本人を輸送するアメリカの軍艦を自衛隊が救助要請を受けて守るというありえない例を挙げましたが、これについて読売新聞は世論調査を実施し、一面トップにデカデカと『米艦防護「賛成」75%』という見出しを掲げました。
ありえない例について世論調査をするというのはどうかと思いますし、日本一の大新聞が集団的自衛権容認のムードをあおっている影響はかなり大きいはずです。
 
ちなみに読売新聞の世論調査についての疑念を書いているニュースサイトはこちら。
 
集団的自衛権 「読売」世論調査への疑念 
 
公明党も世論も頼りにならないとすると、集団的自衛権行使容認の閣議決定を阻止するのは困難なようです。
そこで、閣議決定が行われたあとどうなるのかということをこのごろ考えています。
 
「朝鮮半島有事」の際に自衛隊の参戦があるのかどうかですが、そもそも「朝鮮半島有事」の可能性があまりありません。
北朝鮮軍の実力からして、北朝鮮から開戦するということは考えにくいですし、たとえあったところで、北朝鮮軍がどんどん南下して、大量の難民が発生するということも考えられません(ですから、安倍首相の挙げた例も考えられないのです)
ただ、北朝鮮軍の長距離砲とロケット砲はソウルを射程に収めており、それによって「ソウルを火の海にする」(北朝鮮高官発言)ことは可能です。つまり、これが北朝鮮にとっての抑止力になっていて、米軍と韓国軍から北朝鮮を攻撃するということもありえません。
 
北朝鮮の体制が崩壊して混乱が発生するということはあるかもしれませんが、その場合、自衛隊が出動して北朝鮮の治安維持に当たるというようなことは韓国が拒否するはずです。
 
そんなことを考えると、「朝鮮半島有事」に自衛隊が出動する可能性はほとんどなさそうです。
 
では、中東でアメリカが戦争するときに日本に参加要請がくるということはどうでしょうか。
 
現在、イラクではスンニ派過激派組織「イラクとレバントのイスラム国(ISIL)」がファルージャ、モスル、ティクリートなどの都市を掌握し、バグダッドへ進撃する勢いとなっています。これに対してオバマ大統領は、空爆は検討しているようですが、地上軍の派遣はまったく考慮していません。
アメリカはアフガン戦争とイラク戦争をやって、得たものはなにもなく、そのためアメリカ国民は厭戦気分に陥っていますから、当面、日本にも協力を要請するような大規模な戦争をするとは思えません。
 
とすると、国連のPKO活動に参加して、戦闘場面に遭遇することを狙わなければなりませんが、そんなおあつらえ向きの危険なPKO活動はそうそうあるものではありません(その前にPKO協力法を変更する必要がありますが)
 
つまり、集団的自衛権行使容認を閣議決定して、それに合わせて国内法を整備しても、開店したものの注文のこないデリバリーサービスのピザ店みたいなことになるのではないかと思われます。
 
もともと集団的自衛権行使の問題は、湾岸戦争のとき金だけ出してアメリカから評価されなかったことがトラウマになった外務官僚に、なにがなんでも戦争がしたい安倍首相らが乗っかって持ち出されたものです。現在の国際情勢に合わせたものではないので、注文のこないピザ店になっても当然です。
 
しかし、アメリカではオバマ大統領を“弱腰”と批判する声もあります。何年かたてばこうした声が優勢になり、またブッシュ大統領みたいなおかしな大統領が出現して、アメリカは戦争を始めるかもしれません。
もしそうなれば、日本は参戦の要請を断るのは容易ではありません。これまでは「憲法があるのでできません」と言って断ればよかったのですが、これからは「できますが、今回はやりません」と言って断らなければならず、それでは日米関係にヒビが入ります。
 
そうならないように、早く政権交代を実現させて、「解釈改憲の解釈し直し」をやらなければなりません。
安倍首相の戦争観は一般国民のものとずれているので、第二次安倍政権の時代をみんなが「おかしな時代があったなあ」と回顧するときがきても不思議ではないと私は思っています。

集団的自衛権行使に賛成する人の中には、軍拡を続ける中国に対抗するためには必要ではないかという人がいます。もちろん一般の人の意見です。政治家や専門家でそんなことをいう人はいません。中国と日本の間でなにかあったら、それは個別的自衛権の問題で、集団的自衛権とは関係ないからです。
 
とはいえ、中国に対抗するために集団的自衛権行使が必要だとする心情にはけっこう広がりがあります。というか、安倍首相以下の政治家にも同じ心情があるのではないでしょうか。
 
これまでの防衛政策は、専守防衛という言葉の通り、守ってばかりでした。
守ってばかりでは、相手に脅威を与えることができません。
集団的自衛権は、自分が攻撃されていなくても、つまり正当防衛でなくても相手を攻撃することができる権利です。
もちろん攻撃できるのは限られた状況だけですが、それでも“攻めの姿勢”を見せることができるとなると、これまでとは大違いです。
 
中国が日本に脅威を感じるかどうかはわかりませんが、少なくとも日本人の中に“攻めの姿勢”を見せたいという心情があることは否めません。
いや、それは日本人に限らない問題です。
 
人間は守るよりも攻めるほうが好きです。これは人間に普遍的にある性質です。しかも、不合理な性質です。
 
たとえば、将棋を覚えたばかりの初心者が将棋を指すと、駒をどんどん前に動かす、つまり攻めの手ばかり指します。そのため守りがおろそかになってしまいます。
将棋には「王の早逃げ八手の得」という格言があります。つまり守りの一手は攻めの八手に値するという意味ですが、これはみんなが攻めの手ばかり指すからこそ成立する格言です。
 
囲碁には「囲碁十訣」という中国古来の十個の格言がありますが、その中にも守りのたいせつさを説くものがいくつもあります。
 
「界に入りては穏やかなるべし」(相手の勢力圏に入ったときは穏やかにいくべきだ)
「彼を攻めるに我を顧みよ」
「彼強ければ自ら保て」
「勢い孤なれば和を取れ」
 
どの格言も似たようなことをいっていますが、これもみんなが攻めにばかり走るので、それを戒めることがだいじになるからです。
 
スポーツでも同じことがあります。
野球は攻めと守りが1回ごとに交代しますが、攻めの回に入るとみんな盛り上がり、守りの回に入ると、みんなやれやれという感じで守りについていきます。
ファインプレーで相手の1点を阻止するのと、ナイスバッティングで1点を取るのと、どちらも価値は同じはずですが、たいていヒーローとしてお立ち台に立つのは1点を取ったバッターです。
 
サッカーでも、一般的なファンはフォワードやミッドフィルダーにばかり注目し、ディフェンダーにはあまり注目しません。人気選手というのはたいてい点を取る選手で、いくらいい守備をしてもディフェンダーで人気選手というのはあまりいません。
 
戦争でも、第二次世界大戦のとき、日本軍は劣勢な状況においても切り込み攻撃や夜襲を繰り返して負けを早めました。
 
つまり人間は誰でも、守りよりも攻めが好きなのです。
しかし、これは認知バイアスの一種で、不合理なものです。
私は『「孫子の兵法」と集団的自衛権論議』という記事で、人間は負ける可能性よも勝つ可能性のほうを過大に評価するという認知バイアスがあると書きましたが、それと同じようなものです。
 
将棋や囲碁では、攻めばかり考えて守りをおろそかにしていると、相手に足元をすくわれて負けてしまいます。そうした経験を何度も繰り返すうちに、守りのたいせつさに気づき、攻めと守りのバランスを取るようになります。
野球では、守備練習に力を入れるチームは強くなります。
サッカーでは、監督は選手の守備力も評価してチームを構成します。
 
とはいえ、守るよりも攻めるのが好きというのは人間の基本的な性質ですから、国民世論が守りよりも攻めのほうに傾くのは不思議ではありません。
そして、経験のあるリーダーが攻めにはやる国民を抑えるというのが普通でしょう。
 
しかし、今の日本では、国民の多くは専守防衛でいいと思っているのに、国のリーダーが“攻め”をやりたくて必死になっているという構図です。
お坊ちゃん首相と軍事プラモオタクの幹事長が国のリーダーになってしまった悲喜劇です。

テレビのニュースで集団的自衛権を取り上げると、たちまち視聴率が下がるそうです。
アメリカの軍艦に日本人の母子が乗っていて、アメリカが自力で守れないので日本に救助要請がくる――というようなありえない例を持ち出すことも理由のひとつでしょうが、そもそも集団的自衛権という概念がわかりにくいことが大きな理由だと思われます。
 
そうしたことはマスコミも感じているのでしょう。朝日新聞が「やさしい言葉でいっしょに考える 集団的自衛権」という解説記事を載せています。
 
やさしい言葉で一緒に考える 集団的自衛権
 
しかし、これを読んでも、わかりにくいことは同じです。確かに表現はわかりやすいのですが、そのために、「わかりにくいことがよくわかった」という結果になっています。
たとえば、冒頭の部分を引用してみます。
 
Q そもそも集団的自衛権がわからない。何のこと?
 
 A 自分の国と密接な関係にあるよその国が攻撃された時、自分の国が攻められていなくても、よその国を助けて反撃する権利だよ。
 
要するに「攻撃」と「反撃」がキーワードになっています。しかし、これは「自衛」とはまったく別の概念です。だから、わからないのです。
 
たとえば、「窮鼠、猫を噛む」という言葉があります。
もともとはネコがネズミを追い詰めたわけですが、その瞬間だけをとらえれば、ネズミがネコを「攻撃」していることになります。ネコを助けてネズミに「反撃」する――などといえば、聞いている人は混乱します。
それとまったく同じことが集団的自衛権の論議で起きているので、多くの人は理解できないのです。
 
「攻撃」と「反撃」(あるいは「防御」)というのは、表面的な現象です。殺し殺される戦争をそんな表面的なとらえ方で論じるのはあまりにも愚かです。理解できない一般国民のほうがむしろまともです。
 
戦争というのは単純にいって、侵略戦争、防衛戦争、国境紛争の三つに分けられます。これは動物のなわばりを巡る行動と同じですから、よくわかるはずです。
 
動物においては、個体によってなわばりの認識が違う場合、互いに争うことでなわばりを確定させます。これをなわばり争いといい、人間の場合は国境紛争というわけです。
 
動物はたいていの場合、むだな争いをさけるため互いになわばりを尊重して生きていますが、ときにほかの個体のなわばりに侵入して食べ物を探したりすることがあります。この場合、侵入者は警戒しながらこそこそと入っていき、なわばり主は見つけ次第、攻撃して撃退します。これが侵略戦争であり、防衛戦争です(侵入者は、どちらが強いかに関わらず撃退されます)
これを「攻撃」という現象面でとらえると、防衛戦争をしているほうが攻撃しているわけですから、混乱します。
 
ちなみにコンラート・ローレンツも「攻撃――悪の自然史」という本で、動物のなわばりを巡る争いを「侵略」と「防衛」ではなく、もっぱら「攻撃」という現象面でとらえて論じているので、わけのわからないことになっていますし、最終的に、人間には動物と同じ本能的な攻撃性があるので、平和の実現は困難であるという結論に導かれてしまいます。
 
集団的自衛権の論議も、「攻撃」とか「反撃」とかいっている限り、わけがわからないのは当然です。
「侵略」と「防衛」でとらえるとわかりやすくなります。
 
たとえば、日本が侵略されたときアメリカが防衛の助けをしてくれて、アメリカが侵略されたとき日本がアメリカの防衛の助けをする――これが集団的自衛権だ、と説明するとわかりやすいでしょう。
つまり、一国では防衛できないので、二国が助け合っていっしょに防衛するというわけです。
 
しかし、今の集団的自衛権の論議は、それとはまったく違います。
そもそもアメリカは侵略されたときに助けを必要とする国ではありません(というか、アメリカの領土が侵略されるということが考えられない)
アメリカがたとえば中東で軍事行動をしているとき、攻撃されれば日本もいっしょに反撃するというような話をしているわけです。
 
では、なぜアメリカが中東に軍事的プレゼンスを持っているかというと、自国の防衛のためではありません。一応イスラエルやサウジアラビアとの集団的自衛権で説明されるのでしょうが、実際はアメリカとイスラエルとの精神的絆や反イスラム主義や石油利権のためと考えられます。とすると、日本の出る幕ではありません。
 
まだ冷戦時代であれば共産主義圏対自由主義圏という構図で、たとえばベトナムが共産化されると周辺国も次々と共産化され(ドミノ理論)、日本にも危機が及ぶので、集団的自衛権行使としてアメリカのベトナム戦争に日本が参加するという理屈がありえましたが、冷戦がなくなれば、アメリカの軍事行動に日本がついていく理屈もなくなります。
 
NATO諸国はアメリカを助けるためにアフガニスタンに軍隊を派遣していますが、これはみずから望んでやっているわけではなく、アメリカから要請されてしかたなくやっているのでしょう。
日本がみずから望んで同じ立場に立とうとするのは、まったく理解できないことです。
 
 
ところで、朝日新聞の「やさしい言葉でいっしょに考える 集団的自衛権」という解説記事には、個別的自衛権についてこう説明されています。
 
 Q じゃあ個別的自衛権とは?
 
 A 自分の国の軍隊で自分の国を守ること。
 
ここには、『「攻撃」されたときに「反撃」する権利』などとは書いてなくて、「守る」と単純に書いてあります。
個別的自衛権と集団的自衛権をまったく別の言葉で表現して、その違いはなぜかという説明がない。これではわかりやすい解説記事とはとうていいえません。

「インチキ科学の解読法」(マーティン・ガードナー著)という本を読んでいたら、「人食い人種」についての話がありました。
「人食い人種」のことなど、今の時代に取り上げる意味などないだろうと思われるかもしれませんが、私はむしろ今の日本にとって参考になることが大いにあると思いました。
 
「人食い人種」という言葉は日本では死語だと思いますが、欧米では必ずしもそうではないようです。
この本の原著は2000年にアメリカで出版されているのですが、中にこんな記述があります。
 
文化人類学で最近、もっとも激しい議論の的になっているのが食人の風習ではなかろうか。人食いは過去に広く行われていた風習で、今でも世界のどこか、知られざる僻地で盛んに行われていると、大部分の人類学者は信じている。このような考えを支持する論文は何百とあり、エリ・セーガンの『食人』(一九七四年)やギャリー・ホッグの『食人と生贄』(一九七三年)のような一般向けの本でも紹介されている。
(中略)
現在の人類学の教科書をアトランダムに調べてみると、ほとんどの著者が、食人の習慣は、アフリカ、南米、オセアニアの島々に棲む原始的な種族のあいだで、かつて一般的であっただけでなく、現在も残っている、とあたりまえのように認めている。信望の厚い人類学者マービン・ハリスは『人食い人種と王』(一九九一年)の中で、メキシコのアステカ族のあいだでは、食人習慣は、必要なタンパク質を大量に得るための手段であったと主張している。
 
極限的な飢餓状態のときにやむなく人肉を食うということはあるでしょうし、たとえば戦いのあと敵のリーダーの肉を儀式的に食うというようなこともあるかもしれませんが、ここで取り上げているのは、ほかの部族の人間を狩って食料にするというような食人習慣のことです。
 
そのような食人習慣はないと主張する人類学者もいましたが、少数派でした。しかし、ニューヨーク州立大学の人類学者ウィリアム・アレンズが1979年、「人食い神話――人類学と食人習慣」という本で食人習慣は捏造されたものだと主張して、激しい論争が巻き起こりました。
アレンズは食人習慣がどのように捏造されたかについてこのように主張します。
 
人食い人種(カニバル cannibal)という語は、かつてコロンブスが遭遇した西インド諸島と南米の原住民の名(カリブ Carib)に由来する。コロンブスは、日誌に、カリブ族は人食い人種であると書いている。なぜか。その理由は、コロンブスがそのことをカリブ族の隣の住民アラワック族から聞いたからだ。マーガレット・ミードは、どうやってニューギニアのムンドゥグモール族が人食い人種であることを知ったのか。“おとなしいアラペシュ族”がそう言ったから、である。
アレンズは、ある文化が他の文化に食人習慣の汚名を着せる数多くの例証を挙げている。古代の中国人は、朝鮮人を人食い人種だと考えていた。朝鮮人は朝鮮人で、中国人をそう思っていた。アステカ族は、征服者のスペイン人は人を食べると言いふらした。一方、ありとあらゆる本を書いた征服者たちは、もちろん、アステカ族を人食い人種に仕立てた張本人である。アレンズがタンザニアでフィールドワークをしていたとき、そこの原住民は、ヨーロッパ人は人食い人種にちがいないと彼に言った。
 
実は、今でも食人習慣はあるのかないのかについて論争が続いているようです。ですから、「インチキ科学の解読法」という本でも、はっきりとは結論を出していません(著者のマーティン・ガードナーは有名な科学ライターだそうです)
しかし、次のくだりを読めば、自分で判断できるのではないでしょうか。
 
食人習慣については膨大な文献があるが、ひじょうに不思議なのは、本人による直接の報告がないことである。人間を食べる儀式を実際に見たことのある人類学者は、一人もいない。現場を撮った写真も、一枚もない。アレンズは「人食い人種は常にわれわれといっしょにいるが、幸いなことに、直接見る可能性はまったくない」と書いている。
 
昔のコメディ映画には、主人公が人食い人種に捕まって大釜で茹でられそうになるという場面がよくありましたし、マンガでもこの場面はよく描かれます。
このような描かれ方をするということは、これが本当ではないということをみんな無意識のうちに知っているからではないかとも思われます。
 
私自身は、進化生物学からも食人習慣はありえないと思います。ある程度高等な動物では、共食いをしていては子孫の数をふやせませんし、感染症が広がる恐れもあります。
だから、食人は人類にとって本能的なタブーであり、だからこそ相手を人食いと決めつけることは最大限に相手をおとしめることになるわけです(近親相姦も本能的なタブーですから、マザーファッカーという言葉も最大限に相手をおとしめる言葉として使われています)
 
 
そこで、現在の日本の話になるのですが、ネットの中では、韓国人をおとしめるために食糞習慣があるとか、人糞からつくった酒を飲んでいるということが盛んに言われています。これは、今では食人習慣があるといって他民族をおとしめようとしても誰も信じないので、代わりに食糞習慣を持ってきているのだと考えられます。
嘘をついてまでも隣の部族や隣の民族をおとしめようとすることでは、今も昔も変わらないようです。
 
それから、欧米人はこれまで未開人をひどく蔑視してきましたが、いまだに人食い人種論争が行われているとすると、未開人への蔑視はまだまだ続いていることになります。
黒人奴隷制度ももちろん、黒人と未開人に対する蔑視から生まれたものです。
帝国主義や植民地主義も、欧米人の人種差別意識が根底にありますし、欧米人はいまだに植民地支配について明確な謝罪をしていません。
 
そうした中で、安倍政権は集団的自衛権行使によって、欧米諸国の側に立って途上国差別をやろうとしているわけです。
これはまったく国益にならないどころか、逆に今まであった途上国からの尊敬を失い、さらにはテロの対象になる可能性もあります。
 
もしどうしても集団的自衛権を行使しなければならないとしたら、途上国の側に立つほうに正義があるはずです。

安倍首相のお友だちである作家の百田尚樹氏がまたしても問題発言をしました。
一作家としての発言であれば大した問題にはなりませんが、百田氏はNHK経営委員という公人でもあるので、そうはいきません。
 
 
百田氏「貧乏長屋」発言を釈明も謝罪なし「ギャグ」「活字は厄介」
 ベストセラー「永遠の0」で知られ、NHK経営委員も務める作家の百田尚樹氏(58)が1日放送のフジテレビ「ワイドナショー」(日曜前10・00)に出演。「軍隊を家に例えると防犯用の鍵」とした上で、軍隊を持たない南太平洋の島国バヌアツやナウルを名指しで「家に例えるとクソ貧乏長屋で、泥棒も入らない」と侮辱とも取れる発言したことについて釈明したが、謝罪や発言撤回はなかった。
 
 問題発言が飛び出したのは、先月24日に岐阜市民会館で開かれた自民党岐阜県連定期大会の講演。1時間半の講演のうち、冒頭「自衛権、交戦権を持つことが戦争抑止力につながる」と持論を展開し、世界約200カ国の中で軍隊を持たないのは20数カ国であることを説明した後、バヌアツとナウルについて言及した。
 
 関西を舞台に長く放送作家を務めた百田氏は「大阪ではね、強調ために『ド』とか『クソ』を付けるクセがあるんですよ」とし、今回の件を「単なるギャグ」と説明。“問題発言”の後「入った泥棒も、あんまりかわいそうやから、小遣いでも置いていこうか。そういう国や」と言い「(会場は)ドッと笑ったんですけどね。(記事に)書くんだったら、そこまで書けよ、と」と報道の在り方に“苦言”も。「講演出ても、笑いがないと寂しくなってくるんで」と“リップサービス”だったと語った。
 
 その証拠に、関東には流れない大阪・読売テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」(日曜後1・30)で1年前にも同じ話をしたが、何のクレームもなかったという。「それ見たらね、完全にギャグで言ってんねやというのが分かるんですよ。活字にしてやるっていうのが、いやらしい。活字っていうのは厄介」と真意が伝わらないことを嘆いた。
 
 MCの東野幸治(46)が「バヌアツやナウルの国の人たちが聞いたら、悲しい思いをする、配慮が足りなかったかなとは思わないんですか?」と水を向けると、百田氏は「うーん、でも事実でしょ」とキッパリ。「謝る気はないですか?」には「うーん、これは例え話やからね」と答えた。
 
 “問題発言”も「撤回しませんね、当然です」としたが「『クソ』は撤回してもいいかな」と“譲歩”した。
 
 コメンテーターの「ダウンタウン」松本人志(50)は番組の準レギュラー・百田氏について「言ってることの大枠は間違ってはいない。ただ、伝え方がぞんざいというか…」とフォローした。 
[ 201461 11:15 ]
 
ベストセラー作家にしてはお粗末な発言です。私は故渡辺美智雄元副総理の「日本人は真面目に借金を返すが、アメリカには黒人やヒスパニックなんかがいて、破産しても明日から金返さなくても良い。アッケラカのカーだ」という発言を思い出しました。
 
百田氏は問題発言をしただけでなく、謝罪しないことで問題をさらに上塗りしています。
なぜ謝罪しないかというと、バヌアツやナウルが弱小国で、おそらく日本在住の人もほとんどいないに違いないので、どうでもいいと思ったからでしょう。
 
もともと百田氏が言いたかったのは、「軍隊を持たないことが可能なのは、その国がよほど貧しいからだ」ということだと思われます。
そして、ただ言うだけではつまらないので、笑いを取ろうと思ったのでしょう。
しかし、貧しい国をバカにして笑うのは、笑いとしても間違っています。「単なるギャグ」ではすみません。
これは、たとえば大阪のどこか貧しい地域をバカにして笑ったら、それが許されるかどうかと考えてみればわかるでしょう。
 
ということは、百田氏の発言は「自民党岐阜県連定期大会」での講演ということですが、そこで笑う聴衆の側にも問題があるということです。
 
渡辺美智雄元副総理の「アッケラカーのカー」発言も、確か支持者相手の講演のときのものだったと思いますが、自民党支持者は貧しい外国人を笑うメンタリティーの持ち主なのでしょうか。
 
いや、これは自民党支持者の問題ではありません。ナショナリズムが本質的にかかえる問題です。
 
百田氏は安倍首相とともに「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」という対談本を出しています。
日本が世界の真ん中で咲き誇るのですから、貧しい途上国など周辺に追いやられ、無視されてしまうのは当然です。
 
百田氏個人の失言はどうでもいい話ですが、集団的自衛権の問題において、安倍首相が百田氏と同じ認識で貧しい途上国を無視した議論をしているのは大いに問題です。
 
安倍首相は自衛隊とともにPKO活動をしている他国の部隊が武装集団に襲われたとき、助けなくてはいいのかと言います。
「助ける」とか「警護する」という言葉を使うと、いいことをするようですが、実際は、こちらを助けるためにあちらを殺すという話です。
しかし、安倍首相の頭の中にあるのは、日本と同じ先進国との関係のことだけです。貧しい途上国の人間の命などどうでもいいのです。
 
百田氏のバヌアツやナウルを笑いものにして謝罪もしない態度と、安倍首相の途上国の人間の命を無視した集団的自衛権論議。どちらにもナショナリズムのみにくい面がもろに出ています。

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