村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2019年02月

世の中には経済合理的な犯罪があります。贈収賄、インサイダー取引、詐欺商法などです。これらには厳罰化で対処するのがある程度有効です。
 
一方、通り魔事件のような不合理な犯罪もあります。
こうした犯罪はショッキングなため、厳罰にしろという声が高まりますが、犯人は「長く刑務所に入るのはいやだから、こんな犯罪はやめよう」などという合理的な思考はしないので、厳罰化は無意味です。
 
こうした不合理な犯罪は、快楽殺人とか愉快犯などと言われたり、“心の闇”と言われたりしてきました。
しかし、世の中に存在しているものにはすべて理由があります。
そう考えたとき、これは「感情合理的」な犯罪といえばいいのではないかと気づきました。
 
ハリウッド映画などで、妻子を殺された男が“復讐の鬼”と化して、悪人を次々と殺していくという物語があります。これなど表面だけ見れば、悪人を殺してもなんの利益もなく、「不合理な犯罪」ですが、主人公の感情を考えれば「合理的」であり、「正義」でもあります。
 
映画の主人公はちゃんと悪人を殺すのであって、「誰でもよかった」という犯罪者とは違うという意見があるかもしれませんが、人間には「当たる」ということがあります。つまり「八つ当たり」です。
会社で上司に理不尽に叱られたサラリーマンが家に帰ると妻子に当たるということは普通にあります。プロ野球の監督は選手がヘマをするとベンチやロッカーに当たっています。
怒りの感情を本来の相手にぶつけることができないときに、ほかのものに「当たる」という行為に出るわけです。
たまった不快な感情はどこでもいいから放出して楽になりたいというのは、「ガス抜き」という言葉があるように、誰にでもあることです。
「誰でもよかった」というのは「感情合理的」なわけです。
 
 
2月25日、渋谷区の児童養護施設で施設長が殺されるという事件がありました。
これまで野田市の小学4年生の栗原心愛さんが父親に虐待され死亡した事件が注目されてきましたが、それとの関連を考えざるをえません。
 
 
家賃トラブルで逆恨みしたか 施設長殺害事件の容疑者
 東京都渋谷区の児童養護施設「若草寮」の施設長、大森信也さん(46)が刺殺された事件で、殺人未遂容疑で逮捕された元入所者の田原仁容疑者(22)が施設の保証で入居していたアパートでトラブルを起こし、施設職員の通報で警察官が出動していたことが警視庁への取材でわかった。田原容疑者は「施設に恨みがあった」と述べているが、同庁はこうしたトラブルで逆恨みした可能性もあるとみて慎重に調べている。
 代々木署によると、司法解剖で大森さんの首や腹などに計10カ所以上の傷が確認された。死因は失血死とみられるという。
 田原容疑者は2015年3月に都内の高校を卒業するまでの3年間、この施設で暮らしていた。退所後は施設側が紹介し、保証人にもなっていた東京都東村山市内のアパートで生活。卒業後に就職したが、1カ月半ほどで退職したという。
 田原容疑者は昨年9月中旬、1カ月分の家賃を滞納して大家とトラブルになった。大家からの連絡を受けて施設職員がアパートを訪ねたところ、壁に複数の穴が開き、田原容疑者が錯乱した様子だったため、危険を感じた職員が110番通報。東村山署員が一時、田原容疑者を保護したという。この職員は大森さんではなく、この件で田原容疑者と話し合いの場を持ったという。田原容疑者はこのアパートを退去している。
 施設側は田原容疑者が勤務先を退職した後も、仕事に関する相談に乗っていたという。田原容疑者は「施設職員にストーカーをされていた。職員なら誰でもよかった」とも述べているが、代々木署が事実関係を含めて詳しく調べている。
 田原容疑者はアパート退去後は「ネットカフェを転々としていた」と供述。事件の2~3週間前にはさいたま市のJR大宮駅近くのネットカフェに滞在していたという。凶器の包丁は「大宮のネットカフェ近くの100円ショップで買った」と述べている。
 事件を受けて東京都は26日、都内にある64の全児童養護施設に対し、入所している子どもらのケアを行うよう注意喚起をした。
 
 
ほかの報道によると、田原仁容疑者は母親との折り合いが悪くて15歳のときに児童養護施設に入ったということです。アパートを借りるときは施設が保証人になっているので、母親との縁は切れたようです。父親に関する情報はありません。想像するに、田原容疑者の家庭内暴力がひどくて、母親が見離したというところでしょうか。
 
人間は親から十分な愛情を受けないと一人前の人間に育ちません。田原容疑者の家庭環境は、一人前になるには十分なものではなかったでしょう。
 
ここで思い出されるのが父親から虐待された栗原心愛さんの事件です。心愛さんは亡くなってしまいましたが、虐待されて亡くなるのはごく少数で、ほとんどは虐待されておとなになります。
どんなおとなになるでしょうか。
 
田原容疑者が入った児童養護施設「若草寮」はちゃんとしたところのようで、殺された施設長の大森信也さんは児童養護についての著作もある、見識のある人だったようですが、虐待された子どもを十分に養育できたかというと、そうはいかなかったでしょう。
 
施設は田原容疑者が出てからも就職先やアパートの世話をしていますが、田原容疑者は就職先もすぐにやめ、家賃を滞納してアパートを追い出され、ネットカフェを転々とし、最後は数百円の所持金しかなかったということです。
ネットカフェにいるときも施設の職員と接触がありましたが、どうやら滞納した家賃や壊したアパートの修理費の話などもしていたようです。
 
施設に世話してもらっていたのに施設を恨むのですから、世間的には「逆恨み」ということになります。
しかし、田原容疑者の感情としては、「一人前の人間に育てられてないのに、一人前の人間としてのふるまいを要求されるのは不当だ」というものでしょう。
 
本来ならこの感情は親に向けられるべきですが、子どもにとって親は絶対的な存在なので、それは困難です。そのため施設に「当たる」ということになったのでしょう。
 
田原容疑者は許しがたい殺人者ですが、かつては栗原心愛さんのようなかわいそうな子どもだったに違いありません。
 
ともかく、表面的には不合理に見える犯罪も、感情に着目すると合理的に見えてくるものです。
“逆恨み”や“心の闇”ばかり言っていては、なんの進歩もありません。
「経済合理的」な犯罪には罰金を増額するなどの対策が有効であるように、「感情合理的」な犯罪には加害者の感情に配慮した対策が有効です。
 

東京都は体罰禁止条例を都議会に提出し、国会でも児童虐待防止法の改正や民法の「懲戒権」見直しへの動きが起きています。
そこで議論になっているのが、しつけと虐待の境界線です。
 
児童虐待は、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育放棄)、心理的虐待の四つに分かれるとされます。体罰は身体的虐待です。
この中でむずかしいのは心理的虐待です。
 
セクハラの場合は、「職場において労働者の意に反する性的な言動が行われ、不利益や業務の支障が生じること」と定義され、「本人が不快に思えばセクハラだ」ということが言われます。
それにならって、「子どもが不快に思えば虐待だ」ということにすれば簡単です。
しかし、そうすると、子どもに予防注射をするとか、お菓子を食べる時間を限定するとかも虐待になってしまいます。
 
子どもが不快に思っても、子どものためになることなら虐待ではありません。
子どもが不快に思って、かつ子どものためにならないことが虐待です。
 
「親が子どものためにならないことをするわけがない」と思う人がいるかもしれませんが、たとえば「あなたのため」と言いながら、自分の虚栄心のために子どもに合わない学校をむりやり受験させる親などもその例です。
親が「子どものため」と言うと、子どもはなかなか反論できないので、親はいくらでも虐待ができてしまいます。
「しつけ」もそうしたもののひとつです。
 
「しつけ」は辞典ではこう説明されています。
 
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。基本的生活習慣のしつけが中心になるが,成長するにつれて,家庭,学校,社会などの場における行動の仕方へと,しつけの内容が拡大していく。(後略)
 
百科事典マイペディアの解説
社会生活への適応に必要な望ましい生活習慣を形成すること。田の植付けや着物を仕立てる際のあら縫い(仕付)の意から,子どもに幼児から礼儀・作法を教え込むことをいうようになり,〈躾〉の字が用いられるようになったとされる。(後略)
 
「社会生活への適応に必要な望ましい生活習慣」を身につけることは子どものためです。
ただし、身につけるには、子どもの発達に応じた適正な時期があります。
ところが、親は適正な時期よりも早めにしつけをしがちです。早く行儀を身につけてくれると好都合だからです。
 
早すぎるしつけに対しては子どもは抵抗します。
そのとき、親が引き下がれば問題はありません。
ところが、子どもの抵抗を「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、世の中には「子どものわがままを許すと、子どもは限りなくわがままになる」という“思想”があります。
そのため、親は抵抗を無視して徹底的にしつけをしようとし、子どもはさらに抵抗をし、こうして虐待が発生します。
 
つまり「早すぎるしつけ」と「子どものわがままを許してはいけないという思想」が虐待の原因です。
ですから、親は早すぎるしつけをしがちだということを自覚して、子どもに無理強いしないように心がけていれば、虐待は起こりません。
 
原理的なことを言えば、動物の親は子どものしつけをしませんし、狩猟採集生活をする未開社会でもしつけや教育はありません。
つまり子どもは生活に必要なことはみずから身につけることができるのです。
親はしつけをするときは、本来子どもに必要ないことをしているのだと思っているとちょうどいいのではないかと思います。

箴言家のラ・ロシュフコーは「太陽と死は直視できない」と言いましたが、私はそれにならって「太陽と死と幼児虐待は直視できない」と言っています。
幼児虐待はあまりにも悲惨なので、なかなか直視できません。そのために思考がおかしなほうに行ってしまうことがあります
 
次の判決も、そうした例です。
 
父刺殺の19歳、懲役4~7年 横浜地裁判決
 横浜市で昨年1月、父親を殺害したとして殺人罪に問われた少年(19)の裁判員裁判の判決が19日、横浜地裁であった。深沢茂之裁判長は、懲役4年以上7年以下(求刑懲役5年以上10年以下)の不定期刑を言い渡した。
 判決などによると、少年は昨年1月20日、母親と父親(当時44)の口論を聞き、母親が父親から危害を加えられるかもしれないと考え、父親の胸などを包丁で刺して殺害した。深沢裁判長は、父親からの仕返しを恐れて複数回刺したとして「身勝手で極めて厳しい非難に値する」と述べた。
 公判で、検察側、少年側双方が少年は父親から蹴られるなどの暴行を受け、事件当時まで母親に対するDV(家庭内暴力)を見聞きしてきたと指摘。少年側は「虐待や家庭内暴力といった家族の病理が引き起こした事件」として少年院送致を求めたが、判決は「父親の暴力はしつけだと(少年が)受容していた部分もあり、かれつな虐待とまでは認められない」と判断した。
 
 
「父親の暴力はしつけだと(少年が)受容していた」とは、びっくりの判決です。受容していたなら父親を殺すことはなかったはずで、矛盾しています。
幼児虐待の悲惨さが直視できないので、虐待を正当化する心理が働いているのではないかと思われます。
 
こんなもろに暴力を肯定する判決が出て、世の中からスルーされているのは不思議です。
バイト店員のくだらない動画を炎上させるより、こっちを炎上させたほうがよほど世の中のためです。
 
 
松本人志氏は前から体罰事件が起こるたびに体罰を正当化する発言をして物議をかもしていますが、野田市の栗原心愛さんが死亡した事件でも、やはりおかしなことを言いました。
 
松本人志 小4虐待死事件で持論「とんでもない親でも…そこが救われるところでもあると」
お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志(55)が10日、フジテレビ「ワイドナショー」(日曜前10・00)に出演。千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10)が、父親の虐待により自宅浴室で死亡した事件について、私見を語った。
(中略)
また「分かりませんけど」と前置きし、心愛さんの年齢にも触れつつ「こんなとんでもない親でも、心底憎んではいなかったと思うんです最後まで」とも。さらに「それを思うと、すごくかわいいし、かわいそうだし…。どこかそこが救われるところでもあるかなって思ってしまったりもする」と話し、悲惨な事件の中にある“救い”を必死に求めていた。
 
これも同じ心理で、悲惨さを直視できないので、“救い”を求めるわけです。
しかし、それは虐待防止に逆行します。
 
こうした論理は、悲惨な戦死者を“英霊”として美化するのと同じです。
 
 
タレントのフィフィさんはフェイクニュースを発信して、騒動を起こしました。
 
フィフィSNSの誤情報をメディアも拡散、「PVは麻薬」早さ優先のネット記事の功罪
 タレントのフィフィが、自身のSNSで蓮舫議員について誤った情報を発信。さらに、その発言がネットニュースで事実のように報道されたことが問題になっている。
 
 きっかけとなったのは17日、フィフィが自身のTwitterで「私は問いたい、なぜ平成16年の警察の積極的介入を盛り込んだ児童虐待防止法改正に反対した蓮舫議員が、今回の虐待死の件で現政権を責めることを出来るのか、私はその真意を問いたい。あなたは本当に国民の側に向いているのですか?それ以前に同じ親の立場として問いたい、なぜあの時反対をしたのですか?」と立憲民主党・副代表の蓮舫議員を猛烈に批判したこと。
 
 しかし、この発言は誤りで、全くの事実無根だった。まず、投稿では蓮舫議員が反対したことを責めているが、児童虐待防止法の改正は全会一致で可決されており、反対した議員は1人もいない。さらに、この法案は平成164月に国会で成立したものだが、そもそも蓮舫議員が議員になったのはその年の7月。つまり、蓮舫議員は当時議員ですらなかった。
 
 しかし、このフィフィの発言は瞬く間に拡散され、日刊スポーツやスポーツ報知などが取り上げさらに拡散した。当然、蓮舫議員は「何か誤報が流布されているようです。(フェイクです)」と報道を真っ向否定。批判が殺到したフィフィは蓮舫議員に謝罪し、当該の投稿も削除した。一方、フィフィの投稿を掲載した日刊スポーツは「事実関係について十分に確認しないまま、掲載をしてしまいました。関係者に、お詫びいたします」と謝罪し、当該記事も削除した。
 
 蓮舫議員は一連の騒動後、「大手メディアもファクトチェックをせずに記事を配信しているようで…、残念です」とツイートしている。
(後略)
 
児童虐待防止法改正が可決されたとき、蓮舫議員は議員ではなかったとか、全会一致で可決されていたとか、間違いのレベルが半端ではありません。フェイク情報が生まれるメカニズム解明のヒントになるので、フィフィさんの個人的な勘違いか、どこかから引っ張ってきた情報か、知りたいところです。
 
ただ、この間違いの背景はわかります。
フィフィさんは前からリベラルたたきの発言をよくしていました。野田市の栗原心愛さんが虐待死した事件が注目を浴びているのを利用して、リベラルたたきをしようとしたのでしょう。
しかし、これは方向性が間違っています。幼児虐待や体罰を肯定するのは右翼や保守のほうだからです。
このことはこのブログでも書きました。
 
『幼児虐待を招く自民党の「親尊子卑」思想 』
 
この機会にリベラルたたきをしようとしても、よい材料がない。そのとき、格好の情報を目にした(あるいは頭の中で生成された)。そのため、ろくに検証もせずにフェイク情報に飛びついてしまったのでしょう。
 
もっとも、この情報が正しかったとしても、蓮舫議員の評価を落とすことには成功しますが、幼児虐待防止にはなんの役にも立ちません。
フィフィさんはなにを訴えたかったのでしょうか。
 
 
子どもが死ぬような事件が起こったときは、誰もが幼児虐待はけしからんと言いますが、うわべだけで言っている人が多いのも事実です。
どこか心の中では虐待や体罰を正当化していて、それがおかしな言葉になって出てきます。
そうしたおかしな言葉をモグラたたきのようにひとつずつつぶしていくのもたいせつな作業です。

幼児虐待事件を防ぐために、児童相談所や学校や警察の対応力を強化するべきだと議論されていますが、肝心のことが忘れられています。
それは、子ども本人の対応力を強化するということです。
言い換えれば、子どもに対して親や教師から虐待されたときにどう対応するかを教えるということです。
幸い小学校ではすでに道徳の教科がありますから、そこで教えればいいわけです。
 
子どもは親から虐待を受けても、そのことを他人に訴えるということはまずありません(そういう意味で野田市の栗原心愛さんが学校のアンケートに「お父さんにぼう力を受けています」と書いたのは異例です。その前に沖縄にいたときに母親が児童相談所に相談していたことが影響したのでしょう)
哺乳類の子どもは親に依存して生きていくようにプログラムされていて、親から逃げるという選択肢はありません。現実に親から離れると生きていけないわけです。
 
しかし、今は不十分ながらも福祉制度があって、親から離れても生きていけます。
ですから、子どもに「親から逃げる」とか「親を告発する」という手段があることを教えるべきです。
その前に、「親からこんなことをされたら虐待だ」ということから教えなければなりませんが。
 
 
子どもに親から虐待されたときの対処法を教えるというのは当たり前のことですが、今の教育界とか文科省にはまったくその考えがありません。
そもそも「子どもの権利」とか「子どもの幸福」ということすら考えていないに違いありません。
たとえば道徳教育で教えるのは、文科省のホームページによると、次のようなことです。
 
道徳教育
児童生徒が,生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要です。ここでは,道徳教育の充実に向けた取組等を紹介します。
 
つまり子どもに道徳性を身につけさせることが道徳教育の目的です。
 
ところが、世の中には道徳性のない人間がいっぱいいます。たとえば子どもを虐待する親、子どもに体罰をする教師、級友をいじめる子どもなどです。これらの対処法を教えるのは、今すぐに必要なことです。将来的には、詐欺商法にあったり、ブラック企業に勤めたりした場合の対処法も知らなければなりません。
こういうことが真の道徳教育です。
 
道徳的でないおとながいっぱいいる世の中で、子どもを道徳的にしようというのは、妙な発想です。
詐欺商法やブラック企業のカモを育てるようなものです。
もちろん虐待する親から身を守ることもできません。
 
幼児虐待を防止するには、子どもに親から虐待された場合の対処法を教えることがいちばんの対策です。 

バイト店員の悪ふざけ動画の炎上があまりに多発するので、「日本人のモラルの崩壊だ」という声まであります。
バイトの若者のモラルが崩壊したという意味ですが、経営者のモラルの崩壊のほうがひどいのではないでしょうか。
 
バイト店員が炎上事件を起こしたら、経営者は世の中に謝罪しつつ店員をかばうべきです。バイトとはいえ会社のために働いてきた人間で、身内です。
かつて山一證券の社長は「社員は悪くありませんから」と言って泣きました。
 
あれから時代は変わって、経営者にとって非正規雇用の従業員は身内ではなく、ただの労働力になったようです。
つまり経営者のモラルが崩壊したのです。
 
テレビのコメンテーターや有識者もバイト店員を非難していますが、彼らも若いころはいろんなバカなことをしたはずです。自分と同じことをしている若者を非難しているとすれば、これもモラルの崩壊です。
 
若者は昔からバカなことをしていたのですが、なぜ今こんな騒ぎになっているのかをわかりやすく説明した記事がありました。
 
くら寿司動画炎上で考える、バイトテロが繰り返されてしまう理由
 
この記事から要点だけ引用します。
 
1.元々、「バカな行為」は目に見えないレベルであった
2.ネット投稿により「バカな行為」が可視化された
3.一部の人は「バカな行為」投稿を友達しか見ないと思い込んでいる
4.一方で「バカな行為」は瞬時に拡散するようになった
5.「バカな行為」を大きく取り上げるメディアも増えた
6.「バカな行為」が話題になると過去のものも遡られるようになった
 
若者のバカな行為は昔から同じようにあって、インターネットなどの環境と、おとなたちの対応の仕方のほうが変わったのです。
 
「近ごろの若い者はなっていない」ということを、おとなは昔から言っていました。
しかし、「近ごろの赤ん坊はなっていない」とは言いません。昔も今も生まれたばかりの赤ん坊は同じだからです。
若者も実は昔と同じようなものです。おとなのほうが変わっているのです。
 
 
バイト店員の悪ふざけ動画がこれほど炎上するのは、今のおとなが若者にきびしくなっているからです。
十数年前から成人式で騒ぐ若者をマスコミが盛んに取り上げ、騒ぐ若者への非難が高まり、市長が騒いだ若者を刑事告訴するということもありました。
去年のハロウィンでは渋谷で大騒ぎとなり、軽トラックが横転させられるということがありましたが、警察の執念深い捜査で横転させた4人が逮捕され、11人が書類送検されました(全員不起訴)
青森県のねぶた祭ではカラスハネトといわれる若者集団が多いときは延べ3000人も集まって騒いだということですが、条例改正などにより排除され、今はほとんどいなくなりました。
 
今のおとなは元気な若者が嫌いなようです。
迷惑行為はいけませんが、それをきびしく取り締まると、迷惑でない行為もできなくなります。
たとえば刑務所で受刑者が塀から5メートル以内に近づくと監視塔から射殺するというルールをつくったとします。5メートルだから少し行動が制限されるだけかというと、そんなことはありません。間違って撃たれるかもしれないので10メートルにも近づけないし、ボール遊びもできません。
 
活発に行動していると、逸脱することもあります。絶対逸脱してはいけないとなると、活発な行動を抑えなければなりません。
 
昔のおとなは若者が多少バカな行為をしても大目に見たものです。
今のおとなは若者の少しの迷惑行為も徹底糾弾します。
おそらく少子高齢化でおとなと若者の力関係が変化し、さらに時代の閉塞感もあって、おとなが若者を批判することでうっぷん晴らしをするようになったからでしょう。
 
保育園の子どもの声がうるさいとか、児童相談所が近所にできるのが迷惑だとかいう声が強まっているのも同じ構図と思われます。
 
少子高齢化で社会の活気が失われるのはある程度しかたのないことですが、おとなの間違った態度のためにますます活気が失われています。

すし店、牛丼店、コンビニなどのバイト店員がおバカなことをやった動画をSNSにアップしたことがもとで次々と炎上が起きています。
バイト店員もおバカですが、それを炎上させるほうがもっとおバカです。一人や二人のバイト店員を血祭りに上げたところで世の中がよくなるわけではありません。いや、むしろ悪くなります。
 
芸人のたむらけんじさんのツイートがもとでラーメン店が炎上したのも、似たようなものです。
 
たむけんさんがプライベートであるラーメン店を訪れ、お店の人に頼まれていっしょに写真を撮ったら、店のツイッターに写真とともに「マイク、カメラなかったらおもろ無い奴でした」と書かれました。
それに対してたむけんさんが「えっ?うそでしょ? 気持ち良く写真も撮らせていただいたお店にこんな事言われる事あんの? ちょっとびっくりなんやけど」と不快感を表明しました。
 
ここから騒ぎが始まったのですが、このやり取りはどう見ても、たむけんさんのほうに問題があります。
芸人がマイク、カメラがなかったらおもろないのは当たり前のことですから、怒るようなことではありません(「奴」という言葉づかいは失礼ですが、本人に読まれることは想定していなかったのでしょう)
ラーメン店主としては、芸人との写真をアップするのだから、なにかおもしろいことを言おうと思って、スベッてしまったというところでしょう。
ですから、たむけんさんは無視するべきでしたし、もしツイートするなら「カメラなかったらおもろないのは当たり前や。ギャラ出したらおもろいこと言うたるわ」ぐらいのところでしょう。
つまり店主のボケにツッコミをするところです。
一般人に対して芸能人がむきになってはいけません。
たむけんさんは自分で焼き肉店を経営していますから、ラーメン店主と対等という意識だったのか、それとも「おもろない」と言われることを特別に気にしているのでしょうか。
 
いずれにしても、たむけんさんはお笑い芸人としてのセンスのない対応をしてしまいました。
ところが、ツイッター民の攻撃はもっぱらラーメン店に向かいました。
店主のツイートも原因です。「最低」と言われて「氏ねブス」と返したり、「理解できないの?おばかちゃんでちゅね」と言わてれ「そうでちゅね」と返したりしたからです。
ネットの炎上だけでなく、1日1000件以上の迷惑電話がかかってくるようになったということです。
 
こういうネット民の意識を「正義感の暴走」と見る向きもありますが、ラーメン店を非難することが「正義」とも思えません。要するに騒ぎが起こって野次馬が集まってきて、攻撃しやすいほうを攻撃したということでしょう。状況によっては「おもろない芸人が一般人を非難するな」とたむけんさんに矛先が向いてもおかしくありません。
 
問題は、炎上させるネット民の無責任です。
 
 
くら寿司の守口店のアルバイト店員がまな板の上で魚をさばき、その切り身をゴミ箱に投げ入れ、すぐに拾い出して、またまな板に載せるという動画が拡散して、炎上しました。
世の中にこういうおバカな若者がいるのは当然のことで、それほど騒ぐことかと思います。
 
これを「バイトテロ」と呼ぶ向きがありますが、不適切な表現です。このバイト店員が会社に恨みを持って、会社に損害を与えるためにやったというなら「テロ」と言えますが、おそらくたいした意図はなく、ただおもしろがってやっているだけです。
 
ネットで炎上させている人間も同じで、ただおもしろがってやっているだけです。
ただ、騒ぎが大きくなって、くら寿司の信用にも響く事態となったようです。
くら寿司は、動画投稿に関わったバイト店員2人に対して法的措置を取る準備を始めたと公式サイトで告知しました。
 
くら寿司はバイト店員を指導監督する責任があるのに、自分の責任は棚上げにしてバイト店員の責任を追及するとはとんでもない話です(もし実際に訴えたら、バイトを募集しても人が集まらなくなるでしょう)。
 
本来ならくら寿司は店員に対して、1人の店員の行為が全店舗の信用に響くことを教え、責任を自覚させる教育をしなければなりません。
バイト店員にいちいちそんなことはしていられないというのなら、こういうことが起こるリスクは覚悟しているべきです。

とはいえ、このことが客足に響き、損害が出たかもしれません。
その損害は誰のせいでしょうか。
 
2人のバイト店員はすぐに解雇されました。
あんなおかしなことをする人間がほかにもいるとは普通は考えません。
それでも客足が落ちたなら、それは“風評被害”というべきです。
 
福島県で一部に放射能に汚染された農産物が発見され、そのために福島県の農産物全体の信用がなくなったり売上が落ちたりすれば、それは風評被害と言います。
くら寿司で起こったこともそれと同じです。
 
風評を立てたのは誰かというと、ネットで炎上させた人たちです。あと、動画を放映したテレビ局です。
くら寿司は法的措置を取るなら、そちらを訴えるべきです。
 
 
もともとこういう愚かなことをする人間は一定数いるものです。
とくに若者には多くいます。彼らはそれをすることで経験値を上げ、それが将来役立つ可能性があります。
最近は動画や写真が証拠として残ることで表面化しただけです。
 
こういうことをなくそうとするのは、ゴキブリを一匹見ただけで家中に殺虫剤をまくみたいなものです。
 
社会に逸脱者が一定数いるのは自然な姿で、それをなくそうとするのは全体主義と変わりません。

野田市の小学4年生の栗原心愛さんがアンケートに「お父さんにぼう力を受けています。夜中に起こされたり、起きているときにけられたりたたかれたりされています」などと書きながら父親に虐待され亡くなった事件があまりにも悲惨なので、父親の栗原勇一郎容疑者を非難するだけでは足りず、ほかにも“悪者探し”が行われています。
学校や市教委、児童相談所の対応が批判されていますが、警察は父親だけでなく母親の栗原なぎさ容疑者も傷害の容疑で逮捕しました。父親の暴行を止めなかったことで共犯関係が成立すると判断したということです。
なぎさ容疑者は勇一郎容疑者からDVを受けていました。“悪者探し”が迷走したようです。
 
どうせ“悪者探し”をするなら、いちばん悪いやつを探さないといけません。
いちばん悪いやつは、自民党です。

 
民法には親の「懲戒権」なる規定があります。
 
民法第822
親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
 
「懲戒」とはどのようなことか、「特定非営利活動法人子どもすこやかサポートネット」のサイトではこのように説明しています。
 
民法は、懲戒方法を具体的に定めていません。しかし、最も詳細な民法注釈書である新版注釈民法(25)は、その方法を次のように示しています。
「懲戒のためには、
 しかる・なぐる・ひねる・しばる・押入れに入れる・蔵に入れる・
 禁食せしめるなど適宣の手段を用いてよいであろう(以下、省略)」
 
つまり民法が虐待を容認しているのです。
 
この法律は明治時代にできたもので、廃止しなかった国会の責任は大きいと言えます。
放置してきたわけではありません。この条文は2011年に改正されています。
その前の条文はこのようなものでした。
 
平成23年改正前の条文
親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。
 
「懲戒場」が存在しなくなったので、それに関する部分は削除されました。
このときに「懲戒権」そのものをなくすべきでした。そうしなかったということは、「懲戒権」を認めたということです。
この改正は民主党政権のときでしたから、自民党というより国会全体の責任です。
 

しかし、「尊属殺人罪」に関しては自民党の責任です。
親殺しを特別に重罪とする刑法の尊属殺人罪の規定は、1973年の最高裁判決により違憲とされました。違憲とされた法律はただちに削除か改正するのが国会の務めですが、実際に削除されたのは22年後の1995年でした。1995年というのは刑法の条文を文語体から口語体に改めるという刑法大改正が行われたときで、そういうことがなければさらに放置されていたかもしれません。
 
自民党は尊属殺人罪の廃止は日本人の家族観に悪影響があるとしてずっと反対でした。
ここに自民党の思想のキモがあります。
 
尊属は卑属と対になった言葉で、「親は尊く、子は卑しい」というとんでもない思想です。
儒教からきた言葉かと思っていましたが、検索しても儒教とのつながりは見つからず、もっぱら相続などに関する法律用語としてヒットします。
ウィキペディアの「尊属殺」の項には「日本の尊属殺重罰規定については、フランス刑法に由来するという説と、中国の律令からの伝統にならって儒教的道徳観に基づいて制定されたとする説とがある」とあり、どうやら尊属と卑属という言葉は明治時代に刑法をつくった人間がつくった言葉であるようです。
 
これは天皇制国家と結びついていると思われます。
戦前の日本では、日本国民は「天皇陛下の赤子」でした。とすれば、「親は尊く、子は卑しい」のは当然です。
教育勅語には「爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ」とあります。 兄弟、夫婦、朋友は相互の関係を言っていますが、親子については、「父母ニ孝ニ」つまり「子どもは親孝行せよ」といっているだけで、「親は子を愛せよ」というのはありません。
 
「男尊女卑」という言葉にならっていえば、「親尊子卑」というのが戦前の日本の基本精神です。
教育勅語をありがたがり、憲法改正で戦前の日本へ回帰しようという自民党は、今も「親尊子卑」のままです。
 
自民党の「日本国憲法改正草案第二十四条」には「家族は、互いに助け合わなければならない」とあります。
小さな子どもがどうやって親を助けることができるのでしょう。子どもにまったく配慮のない規定です。
親を助けない子どもは親に「懲戒」されてもしかたがないということにもなりかねません。
 
国連の子どもの権利委員会は2月7日、日本で子どもへの虐待などの暴力が高い頻度で報告されていることに懸念を示し、日本政府に対策強化を求める勧告を公表しました。
日本で幼児虐待の対策が遅れている最大の原因は、自民党の「親尊子卑」の思想です。

「人間は教育されて初めて人間となることができる」という言葉があります。
これは単なる俗説ではなく、カントの「教育論」に「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物である」という言葉もあり、教育界ではむしろ一般的な考え方かもしれません。
 
では、人間は教育されないとなにになるのか――というと、よく狼少女の話が持ち出されます。インドで狼に育てられたとされる二人の少女が発見され、まるで狼のように行動したという話です。
しかし、狼と人間では、授乳期間も自立するまでの期間もぜんぜん違いますから、狼が人間の子どもを育てられるわけがありません。狼少女の話はフェイクです。
 
人間は教育されないとなにになるのかというと、「教育されない人間」になるだけです。
しかし、「教育されない人間」とはどういうものか、誰もが教育される今の時代には想像できないかもしれません。
 
狩猟採集生活をしている未開社会では、子どもはどのように育っているでしょうか。狩猟には技術や経験が必要なので、おとなが子どもに狩猟のやり方を教えているのでしょうか。
 
 
「森の小さな〈ハンター〉たち」(亀井伸孝著/京都大学学術出版会)という本が、狩猟採集の未開社会における子どもの姿を教えてくれます。
 
文化人類学者の亀井伸孝氏は、中部アフリカの熱帯雨林に生きるピグミー系バカ族とともに1年半にわたって生活し、とりわけ子どもを対象に調査しました。
なぜ子どもを対象にしたのか、著者はこう説明します。
 
おとなが子どもたちに対して、手取り足取り、森の歩き方や狩猟採集の方法、動植物の知識などを教え込んでいる姿を、私は見たことがない。このような放任的な社会において、子どもは、なぜ、いかに、そのような知識と技術を獲得して、この社会の成員としての役割をもつおとなの男女となっていくのであろうか。(中略)「子どもが文化を獲得し社会の成員となる過程」を社会化過程と呼び、その仕組みを明らかにすることを目指したい。
 
従来の人類学では「子どもたちは遊びを通して教育・訓練される」と説明してきました。あるいは、おとなの狩猟採集のまねをして遊ぶ子どもの姿を「教育の第一歩」と解釈してきました。しかし、著者はこれらを「おとなの目線」で語られるモデルであるとします。子どもたちは「教育されたい」「訓練されたい」と思って遊ぶのではなく、単に「おもしろい」という衝動にかられて遊んでいるのです。
 
子どもたちは、毎日のように狩猟採集活動へと出かけていく。
多くの場合、それは子どもたちだけの集団で行われている。日中、おとなたちが本格的な狩猟採集活動に出かけている間、年長期の少年少女たちが自ら道具を取り出し、年少期の子どもたちを引き連れて、さっそうと森の中に入っていく。
もっとも、そこで見られる「狩猟」「採集」と言いなす諸活動は、必ずしも成果を伴うものとは言えず、むしろ、手ぶらか、ごくわずかな収穫物とともに帰ってくることが多い活動群である。しかし、それは目的を逸脱した遊びとも言えず、有用な動植物を探し出して得ようとする目的がはっきりしている。これら、狩猟採集の目的をはっきりとそなえた、しかし、実益性が限りなく低く、遊戯性がきわめて高い、遊びと生業活動の中間に位置する活動群に、子どもたちが多くの時間を費やしていることが分かった。
 (中略)
「あの子たち、今日は川に行ったけど、エビひとつも捕れなかったってさ」
エッヘッヘと笑いながら、日暮れ時の集落で、おとなたちが子どもたちのかいだし漁の成果を笑い話にする。子どもたちの方も、とくに気落ちしたでもなく、また恥じ入るわけでもなく、次の成功に向けた作戦を練るでもない。鍋やかごをぶらさげて、ニコニコと帰ってくる。
何も捕れなくても、楽しかった。そう言いたげな子どもたちの満足した表情を見つめ、また、おとなたちのなんら期待していない寛容な姿勢を眺め、私はバカの社会の放任的な子育てのスタイルを象徴するような風景であると感じていた。
 
「かいだし漁」というのは、乾季に水位の下がった川の流れをせき止め、川床の魚などを手づかみで捕る漁法のことです。水流をせき止める大きな堰を木の枝と土を使って築くには技術が必要で、おとなと子どもがやるのとでは、収獲量が十倍以上も違います。おとなと子どもがいっしょにやる場合もありますが、そのときもおとなが子どもに教えるということはなく、子どもはみずから学ぶのです。
 
子どもはおとなから「漁の練習をしてきなさい」と言われて行くわけではなく、自分から漁や狩りに出かけていきます。狩猟採集というのは遊び感覚でできるのでしょう。
近代産業社会では、遊びと仕事、遊びと勉強が分離しています。生活は豊かになりましたが、遊びの楽しみは限定的になりました。
 
ともかく、狩猟採集社会では、基本的に子どもは教育されません。それでもちゃんと人間になります。
というか、それが本来の人間の姿です。
 
 
なぜ教育が行われるようになったかというと、競争に有利だからです。古代ギリシャの都市国家のように互いに争っていると、都市国家は子どもを戦士に育てる教育をするようになります。日本の富国強兵の教育も同じです。また、個人と個人でも、教育のあるほうが出世して高収入になるので、親は子どもを教育するようになります。
しかし、こうした教育は子どもの意志と関係なく行われるので、登校拒否や学校内のイジメのような問題も生じます。
また、こうした教育によって築かれた社会は、ほんとうに人間的な社会かという根本的な疑問も生じます。
 
私は、社会のあり方や人間のあり方を考えるときは、「教育されない人間」に立ち返って考えることにしています。

学歴や収入よりも自分の進路を自分で決める「自己決定度」が日本人の幸福感に大きく影響している――こうした調査結果を、神戸大と同志社大の研究チームが昨年8月に発表しました。
 
所得や学歴より「自己決定」が幸福度を上げる 2万人を調査
 
ここから「調査結果」のところを引用します。
 
 年齢との関係では、幸福感は若い時期と老年期に高く、3549歳で落ち込む「U字型曲線」を描きました。所得との関係では、所得が増加するにつれて主観的幸福度が増加しますが、変化率の比(弾力性)は1100万円で最大となりました。
 また、幸福感に与える影響力を比較したところ、健康、人間関係に次ぐ要因として、所得、学歴よりも「自己決定」が強い影響を与えることが分かりました。
これは、自己決定によって進路を決定した者は、自らの判断で努力することで目的を達成する可能性が高くなり、また、成果に対しても責任と誇りを持ちやすくなることから、達成感や自尊心により幸福感が高まることにつながっていると考えられます。
 
 日本は国全体で見ると「人生の選択の自由」の変数値が低く、そういう社会で自己決定度の高い人が、幸福度が高い傾向にあることは注目に値します。
 
 
自分で決めた人生を歩む人はそうでない人よりも幸せというのは当たり前のことですが、今の日本では、自分で決めた人生を歩むというのがけっこう困難です。
というのは、たいていの子どもは「自分の行きたい学校」ではなく「親の行かせたい学校」に通っているからです。
習いごとなども、子どもがやりたいことよりも親がやらせたいことをやっているのではないでしょうか。
 
子どもの自己決定権がないがしろにされている根本原因は、憲法に義務教育の規定があることです。
6歳になれば誰でも親の手によって強制的に学校に行かせられ、自己決定権が奪われます。
親のほうも、どうせ学校に行かせるのだから、どの学校に行かせるかも親が決めていいという感覚になるでしょう。
こうして高校や大学進学、さらには職業選択までも、子どもの自己決定権を侵害する親が出てきます。
 
明治時代には、帝国憲法にこそ義務教育の規定はありませんが、国民の三大義務のひとつに教育の義務があって、今と実質的に変わりません。
明治時代からずっと義務教育があるので、日本人は義務教育がない状態というのを想像できなくなっているのではないでしょうか。
 
「『江戸の子育て』読本」(小泉吉永著・小学館)という本から、義務教育のない江戸時代の教育を紹介したいと思います。
 
 
田村仁左衛門吉茂が明治6年(1873)に著した「吉茂遺訓」に、彼がどういう幼少期をすごしたかが書かれています。
親は寺子屋入学を勧めてくれましたが、吉茂は生まれつき手習いが嫌だったので、返事もせず黙っているばかりでした。親は寺子屋は諦めて家で読み書きを習わせようとしましたが、吉茂はいっこうに習おうとしません。
あるとき母親は「お前のように手習いが嫌いなら、乞食になるほかはない」と言いました。すると祖母は「この子は小細工が好きだから、大工にでもなるのがよかろう」と言いましたが、父親は「大工になっても手習いができなければ、番号付けすらできない」と言い、吉茂は困りましたが、仕方なく日々を送りました。ただ、読み書きできない不自由さも痛感し、むりやり種子札や農事日記などをなすり書き(原文ママ)するようになりました。しかし、農業だけは寝ても覚めても怠ることなく勤めました。
18歳のとき、祖父と伯父の二人が「今度、算術家が村にきて、若者に算術稽古をしてくださるというので、お前もぜひ算法を学ぶがよい。必要なことはすべて面倒見てやる」と勧めてくれましたが、吉茂が「私は手習いもしていませんし、四十日ほどの算術稽古に参加しても算術を身につけられるとは申し上げ難く存じます。師匠を頼んでも学べないときはかえって恥をさらすように存じますので、どうかお許し下さい」と言うと、両人は「それももっとも」と聞き入れてくれました。吉茂は「無師」の許しを得て、ますます農業に精を出しました。
そして、吉茂は五十代には日本有数の農業指導者となり、晩年に多くの著作をものにしています。中でも「農業自得」は有名で、平田篤胤は彼を東西二人の「農聖」の一人と称えました。
読み書きは独学で身につけたわけです。
 
幕末の国学者小池貞景が著した弘化4年(1847)刊「こそだて草」にも、子どもに学びを強制してはいけないと書かれています。
 
「男は算筆、女は縫い針」と言って、これらができないと、その身の生涯の損となる。従って、どれほど貧しい家庭でも、ほどほどに仕込んでおきたいものである。しかし、生まれつき嫌いな子もおり、どれほど教えても憶えない子もいる。
このような子どもには強いて教えてはならない。知らないことがかえって、その子にとって良い場合もあるからだ。
世間には無筆でも金をためる者がいるし、学者となって家を滅ぼす者もいる。ほころび一つ縫えない女性でも、立派な夫を持って生涯楽しく暮らす者もいる。逆に縫い針は人に優れても放蕩者を夫に持って生涯苦しみ、その縫い針でその日暮らしをする場合もある。
 
只野真葛の「むかしばなし」によると、江戸時代中期の医者・経世家として知られる工藤平助の養父であった工藤丈庵の妻についてこのように書かれていました。
 
ちなみに、丈庵の妻は、両親の秘蔵っ子として育てられ、十六歳になっても幼児のごとく撫育され、読み書きも教えられなかった。しかし、十六の春から武家奉公をすることになり、周囲の女中から「十六歳にもなる娘に、いろはさえ教えずに育てたものよ」と嘲笑されて奮起した彼女は、文殻(不要になった手紙)を拾い集めて、人が寝静まった後に手習いに励み、夏は蚊除けのために手拭いで頬被りして習った。
努力の結果、半年で手紙も書けるようになり、一年後には周囲よりも立派な手紙が書けるようになった。二年後には奉公先の代書役も務めるようになったという。
 
これらは学習を強制されなくても独学でうまくいった例ですが、もちろん強制されないために読み書きができないという例もいっぱいあったわけです。しかし、落語の登場人物は手紙がくると大家さんに読んでもらって、普通に生活しています。
それに、江戸時代後期になると多くの子どもは寺子屋に通うようになるので、義務教育がなくても問題ありませんでした。
 
 
義務教育がないことのメリットは、なんといっても教える側がしっかりすることです(これからも「『江戸の子育て』読本」に基づいて書いていきます)
 
寺子屋を開業するには資格がいらないことから、師匠らしからぬ師匠もいました。天保初年の「続女大学」には、「弟子が上達しない場合は、みずからの書が未熟で指導方法も行き届かないことは言わずに、弟子の不器用や無精を批判する師匠が世間には多い」という記事があります。手習い師匠もピンキリだから親はよく吟味せよという注意です。
しかし、評判の悪い寺子屋は続かないので、そういう例はごくわずかでした。
 
昭和4年(1929)刊行の乙竹岩造著「日本庶民教育史」全三巻は、大正4年から2年余りにわたって幕末期の手習い師匠経験者83人、寺子経験者3007人に聞き取り調査を行い、寺子屋の実態を明らかにしました。
その調査結果によると、「師匠を尊信している」という寺子は97%、「そうではない」という寺子は3%でした。
また、寺子屋はたいてい個人宅を教室代わりにしていたため、ひじょうに家庭的で、師匠と寺子の家庭の間に家族的な交流がありました。寺子は卒業してからも69%が師匠宅を訪問したことがあり、師弟関係は生涯続き、師匠が没すると寺子一同が葬儀費用いっさいを負担したり、記念報恩の碑を建てたりしました。
 
寺子屋では「席書」という成績発表会のようなイベントがありました。師匠の前に寺子が順番に呼び出され、手本を見ずに清書をし、成績をつけてもらって、壁に張っていきます。門戸や障子を開放し、父兄や通行人が自由に参観できるようになっていて、寺子にとっては日ごろの練習成果を披露する機会で、師匠にとっては指導力を示す機会でしたから、師匠も寺子も一生懸命でした。大きな寺子屋では寺院の本堂を借り切り、多数の来賓を招いて大々的に行い、付近に露店が立ち並んで縁日のようでした。
 
義務教育などなくても、親や子どもが学ぶことの重要性を認識していればうまくいくことがわかります。
いや、逆に義務教育があると、子どもはいやでも学校に行かされるので、学校は社会主義国の商店みたいになります。
今の学校教育の問題は、すべてそこからきています。
 
そもそも義務教育は、富国強兵のためのものでした。なぜ今もやっているのか疑問です。
憲法から義務教育を廃止し、代わりに学習権を規定すれば、学校教育は大いに改善されますし、行きたい学校、習いたい教師を選べる子どもも幸せになります。

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