村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2022年06月

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コラムニストの小田嶋隆氏が亡くなりました。65歳でした。

私は氏の「日経ビジネスオンライン」の連載「ア・ピース・オブ・警句」を愛読していました。
「日経ビジネスオンライン」の会員登録をすると、有料記事が月3本まで無料で読めるので、3本とも小田嶋氏のコラムに当てていました。

「日経ビジネスオンライン」は小田嶋氏追悼のために1本のコラムを無料公開しています。
「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」


小田嶋氏と私は関心領域が似ているので、このブログを書く上でも参考になりました。
もっとも、氏と私では書き方がまったく違います。私は結論へ向かって最短距離で進んでいくという書き方ですが、氏は注釈に注釈を重ね、次々と脱線していくという書き方で、そこに人柄と見識がにじみ出るおもしろさがありました。

ここ1、2年は軽い脳梗塞を患うなどして病気で休載することがしばしばあり、今年の4月初めからも休載していたので、病状を案じていましたが、とうとう6月24日に亡くなられたということです。
65歳は早すぎますが、小田嶋氏は30代でアルコール依存症になり、39歳から断酒をして立ち直りました。しかし、一時期アルコール漬け生活を送ったことによる身体のダメージは大きかったのでしょう。

小田嶋氏の文章は肩の力が抜けた感じなので、私は勝手に“脱力系”と名づけています。
もちろんこれは力を抜いて書いているわけではなく、書き手の人柄とか人間性とか生き方がそう感じさせるのです。
読んでいると癒されます。


私が思う“脱力系”の書き手の代表格は中島らも氏です。

私は中島らも氏のことを「ぴあ」に載っていた「啓蒙かまぼこ新聞」で初めて知りました。一応かねてつ食品の広告ページなのにぜんぜん広告になっていなくて、わけがわからないのですが、不思議なおもしろさがありました。
それから、らも氏のエッセイをよく読むようになりました。
そして、実体験を書いた小説『今夜、すべてのバーで』で、らも氏がアルコール依存症であることを知りました。
酒浸りで肝臓を悪くしながら、あのおもしろエッセイは書かれていたのです。

一度アルコール依存症になると、節度ある飲酒をするということはできず、完全な断酒をしなければなりません。少しでも酒を口にするともとの依存症に戻ってしまいます。
『今夜、すべてのバーで』という小説は、断酒の苦しみから逃れるため、飲酒の代償行為として書かれたもののようです。
長編小説『ガダラの豚』は、読んでいると作者の「酒を飲みたい」という思いがひしひしと伝わってきて、結末あたりではその思いがかなり高まってきます(もっとも、そう感じるにはそれなりの文章に対する感受性が必要です)。
『永遠(とわ)も半ばを過ぎて』になると、「酒を飲みたい」という思いが極限まで高まって、結晶のようになっています。
私はこれを読んで、断酒は続かないだろうと思いました。
実際、らも氏はそのころから飲酒を始めたようです。
しかし、仕事も続けていました。
おそらくドラッグを併用することで飲酒量をセーブしていたのかもしれません。

らも氏のエッセイにはありとあらゆるドラッグの話が出てきます。私は咳止めシロップに麻薬作用があって依存症になる人がいるということを初めて知りました。
らも氏は2003年に大麻所持などで逮捕され、執行猶予つきの有罪判決を受けました。

らも氏は2004年、階段から転落したのが直接の原因で、52歳で亡くなりました。おそらく酒とドラッグで体はボロボロで、亡くなるのは時間の問題だったでしょう。
自分は悲惨な人生を生きながら、人の心を軽くするような文章を書いていたのが不思議です。


マンガ家の吾妻ひでお氏は不条理なギャグマンガや美少女マンガで人気になりましたが、しだいに描けなくなって苦しんでいたようです。
あるとき仕事も家族も捨てて失踪してホームレス生活をするようになり、ガスの配管工事の会社に拾われてそこで働くようになります。そのいきさつを描いた『失踪日記』が高く評価され、日本漫画家協会賞大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞など多数の賞を受賞しました。
私も読んでみると、野外で寝てゴミ箱をあさるという悲惨きわまるホームレス生活を、そんなに悲惨でないように描くというのが絶妙で、深い感動を覚えました。
そして、『失踪日記2 アル中病棟』が出版されて、吾妻ひでお氏もまたアルコール依存症であることがわかりました。

私はアル中の人の作品に引かれる傾向があるのかもしれないと思い、アルコール依存症で入退院を繰り返した戦場カメラマン鴨志田穣氏の『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』を読んでみたら、やはり引かれるものがありました。

そして、小田嶋氏も2018年に『上を向いてアルコール―「元アル中」コラムニストの告白』を出版し、それで小田嶋氏も元アル中であることがわかったわけです。


なぜ私はアル中の人の作品に引かれるのかということを考えてみました。

ひとつには自分も酒飲みなので、酒飲みにシンパシーを感じるということがありますし、アル中の入院や治療の話は他人事とは思えないということもあります。

それから私の考えでは、酒を飲む人と飲まない人では性格とかパーソナリティが微妙に違います。
私の友人は酒を飲む人ばかりです。酒を飲まない人と友だちづきあいができません。もし私が酒を飲めなかったら交友関係がまったく違って、歩む人生も違っていたかもしれません。
ですから、私は酒を飲まない人を表面的にしか知らないのですが、会社勤めをしていたときに酒を飲まない人を何人か見ています。それらの人は、酒を飲む人に比べて、神経質というか、細かいことにこだわる傾向があって、つきあいにくい感じがしました。
もちろんこれは“個人の感想”ですが、酒を飲まない人はストレスの解消がしにくいので、ストレスをため込んでいるのではないかと思っていました。
それから、酒を飲む人は、酔っぱらってしばしば失敗をしたり醜態をさらしたりします。ですから、人の失敗にも寛容になりますが、酒を飲まない人にはそういうところがないはずです。

以上は普通の酒飲みのことですが、アル中で入院する人になるとまた違ってきます。
アルコール依存症に限らず一般的に依存症は「否認の病」と言われます。つまりどう見てもアルコール依存症という状態になっても、本人は「この程度ではアル中とはいえない」とか「いつでもやめられる」と思って、自分がアルコール依存症であることを否認するのです(家族も巻き込むので家族関係の病とも言われます)。

しかし、どうにもならなくなって自分から入院することも強制入院になることもありますが、入院するとさすがに否認するわけにいきません。
つまりこのときに心のバリアが壊れて、ほんとうの自分と向き合うわけです。
そういうことから、アル中を自覚した人の文章には人間味が出てくるということがあると思います。

さらにいうと、アルコール依存や薬物依存の人は世の中から「意志が弱い」ともっとも非難される立場ですから、いわば社会の最底辺です。
そういう立場を自覚すれば、おのずと人に寛容になるはずです。
そうしたところにも私は引かれるのかもしれません。

小田嶋氏はリベラルの立場から安倍政権をよく批判していましたが、上から目線で舌鋒鋭く批判するという感じではなくて、どことなくゆるい感じの批判でした。ですから、安倍支持の立場の人にもけっこう読まれていたのではないでしょうか。

もしかして「人はアル中になることで人にやさしくなれる」ということが言えるかもしれません。
もっとも、「だからアル中になるのは悪くない」などとは言えません。確実に体には悪いからです。
吾妻ひでお氏は食道がんで69歳で亡くなり、鴨志田穣氏は腎臓がんで42歳で亡くなっています。


今回、小田嶋隆氏の文章を真似てみようかと思って書き出したのですが、結局まったく似ても似つかない文章になりました。

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日本維新の会が参院選向けの公約を発表した中に「0歳児から投票権」というのがありました。
維新も思い切った政策を出すなあと感心したら、私が思ったのとはぜんぜん違っていました。

今の日本の選挙制度は「普通選挙」といわれていますが、正しくありません。18歳未満には選挙権がないので、「制限選挙」です。
1925年、加藤高明内閣は「普通選挙法」を制定しましたが、実際のところは選挙権は男性のみで、女性には選挙権がない「制限選挙」でした。それと同じごまかしを今もやっているのです。

18歳未満でも政治に関心があって投票したい若者はいます。
では、何歳まで下げたらいいかというと、簡単には決められません。小学生でも投票したい子はいるでしょう。
何歳と決められないなら、年齢制限そのものをなくせばいいというのが私の考えです。
0歳から選挙権があることにして、投票したくなればいつでもできるようにすればいいのです。
これがほんとうの「普通選挙」です。

認知症や知的障害の人だからといって選挙権が制限されることはありません。年が若いからといって制限されるのは不当です。

もちろんこれは子どもの意志で投票するのが前提です。
親が子どもの投票を左右するようなことがあってはなりません。


維新の会の「0歳児から投票権」というのは、私の考えたものとは違って、「ドメイン投票制度」というものでした。

維新の会の藤田文武幹事長はインタビュー記事の中でこう語っています。


藤田:(略)ドメイン投票制度は何かというと「0歳から未成年の人にも投票権を与えましょう」というものです。ただし、たとえば0歳児は意思表示ができないので、保護者の方に一票を代行する権利があります。
そうすると、(政治家の)景色が結構変わって、子育て世代や若い人の声をもっと聞いたらいいんじゃないかというインセンティブが自然に働きますよね。子育て世代や若い人の票の強さを制度として高めるのは、僕は今の時代に合っていると思います。

能條:ふと一つ気になったのが、子どもの一票を保護者である両親が代行するとなったとき、父親と母親のどちらが投票するのでしょうか。

藤田:それは喧嘩になりますよね。家庭の事なのでじゃんけんで決めてもらいましょう。

能條:私の周りのカップルで、政党に関する意見が合わないというのは結構聞くんですよ。なので、どういう議論をされているのかなと思って。

藤田:そこまで議論を細かく詰めてはいないですね。https://www.huffingtonpost.jp/entry/ishin_jp_62a69bdfe4b06169ca8d32d1


要するに子育て中の親の投票数を増やす制度で、それによって政治が子育て世帯への支援を強化することが期待できるというわけです。

私の「0歳児投票権」の考えは、政治に子どもや若者の意見が反映させようというものですが、これは政治に親の意見をより反映させようというもので、まったく違います。

さらにいうと、この制度の根本的な問題は、子どもを独立した人格と見なしていないことです。
インタビュアーは夫婦喧嘩が起こることを心配していますが、子どもが自分の意志で投票したくなったとき、親子喧嘩も起こりそうです。
親と子が別人格であることを無視するような制度ですから、子どもの私物化や幼児虐待にもつながりかねません。

ウイキペディアによると、「ドメイン投票制度」というのはアメリカの人口統計学者のポール・ドメインが発案したものですが、まだどの国でも採用されたことがありません。
維新の会は目新しさと子育て支援になりそうなところに引かれて飛びついたのでしょうが、実際は「子どもの人権」をまったく無視する制度です。
維新の会の人権感覚が知られます。



「子どもの人権」を無視するといえば、アメリカの政治はもっと深刻です。

TBS NEWSの「バイデン政権失速の裏で・・・ 急拡大する母親団体に迫る」というニュースによると、去年1月にフロリダ州で3人の母親によって結成された「MOMS for LIBERTY」という団体が今では全米33州に拡大し、会員が7万人を超えたということです。

この団体は「母親の自由(権利)」を掲げて、地元の教育委員会などに「パフォーマンスの悪い教師はクビにするべきだ」「肌の色だけで弾圧者と被害者を決めつける教育には反対」「若い人たちにアメリカの価値観をきちんと学ばせるのがだいじ」などと要求する活動を行っています。
創立者の1人は、「アメリカでは親の権利が踏みにじられているんです。それを変えるのがこの団体の目的です」と語り、支持者である共和党議員は「学校のすばらしさを取り戻す」と語りました。

トランプ元大統領の言い分と似ていることからわかるように、これは保守系の団体です。
「子どものため」ということを大義名分にしていますが、実際のところは「母親の自由」や「母親の権利」を主張するほど「子どもの自由」や「子どもの権利」が失われるという関係になっています。


実はアメリカには「子どもの権利」という概念がありません(ドメイン投票制度の発案者もアメリカ人です)。
子どもの権利条約を締約(批准・加入・継承)している国・地域は世界に196あり、未締約国は1か国ですが、その1か国がアメリカです。
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ユニセフHPより


さらにいうと、女性差別撤廃条約を締約している国・地域は189で、未締約国は数か国ですが、アメリカも未締約国のひとつです。

なぜそうなるかというと、要するにアメリカは家父長制が根強い国だからです。父親が母親と子どもを強権的に支配していて、女性の権利も子どもの権利もないがしろにされています。
このような家庭が保守派の支持基盤になっています。

アメリカでは女性差別と子ども差別が家庭の中で再生産され続けているので、人種差別などもなくすことができず、ポリティカル・コレクトネスという言葉狩りをするしかないのが現状です。


アメリカは子どもの権利条約も女性差別撤廃条約も締約していないという事実はほとんど知られていないのではないでしょうか。
アメリカは奴隷制を廃止したのが世界でいちばん遅く、黒人に選挙権が認められたのも1965年ですから、世界に冠たる差別主義国家です。
その国がウイグル族の人権問題で中国を非難するなど、人権で世界をリードするようなふりをしているのは滑稽なことです(ウイグル族の人権問題はもちろん重要です)。


子どもは社会の最弱者です。
「子どもの人権」さえ理解すれば、強者と弱者の関係で成り立っている社会の仕組みが全部見えてきます。
ポイントは、親すらも「子どもの人権」を踏みにじることがあるということです。

日本は子どもの権利条約締約国なのに、まるでアメリカと同じように「子どもの権利」がほとんど無視されているのはおかしなことです。

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日本銀行の黒田東彦総裁は6月6日の講演で、最近の物価上昇に関して「家計の値上げ許容度も高まってきている」と発言し、「庶民の気持ちがわかっていない」との批判を浴びて、結局発言を撤回しました。

この発言も問題ですが、私が気になるのはその少し前の発言です。
6月3日の参議院予算委員会で、参考人として出席した黒田総裁に対して立憲民主党の白真勲参院議員が「最近食料品を買った際、以前と比べて価格が上がったと感じるものがあったのかどうか、ご自身がショッピングしたときの感覚、実感をお聞かせください」と質問したところ、黒田総裁は「私自身、スーパーに行ってですね、物を買ったこともありますけれども、基本的には家内がやっておりますので、包括的にですね、物価の動向を直接買うことによって、感じているというほどではありません」と答弁しました。
ろくに買い物をしたことのない人間が日本の金融政策を決めているのです。

黒田総裁は財務省の出身です。
キャリア官僚は残業が多いので、一人暮らしの場合でも自炊することはまず不可能ですし、実家暮らしなら家事は母親に丸投げでしょう。結婚すると専業主婦の妻に丸投げです。
ですから、キャリア官僚のほとんどは自分で家事をしませんし、当然買い物もしません。それが官僚の文化です。
そして、役所の中は圧倒的に男性が多く、女性はあまり出世できません。
おそらく霞が関は、伝統芸能の世界を別にすれば、日本でもっとも古い性別役割分業が生き残っている世界です。

自分で買い物をしない黒田総裁を擁護する人もいます。
たとえば国際政治学者の三浦瑠璃氏は「黒田総裁は専門家なわけです。専門家がマクロの全体の話を見て言っているのに“私が行った今日のスーパーでは、白菜はこのくらいの値段でしたけど”っていうね、エピソードベースで反論しようというのは一番やってはいけない。これが日本全体の政治や経済に関する議論の質を落としている」と言って、逆に質問した白議員を批判しました。
ちなみに三浦氏の夫は元外務官僚です。

嘉悦大学教授の高橋洋一氏も、黒田総裁の「家庭の値上げ許容度は高まっている」という発言は東京大学の渡辺努教授による「値上げに関するアンケート調査」に基づくもので問題はなく、やはりマクロ経済の議論をしないマスコミを批判しました。
高橋氏も財務省の出身です。

霞が関の文化にひたっていると、問題が見えなくなるようです。

日銀総裁が個人的な実感で政策を決めるのは確かに問題で、最終的にはマクロの数字に基づいて決めるべきですが、自分で買い物をしない人間は、マクロの数字の背後にある現実がわかりません。

黒田総裁の「家庭の値上げ許容度は高まっている」という発言の根拠になったアンケート調査というのは、「馴染みの店で馴染みの商品の値段が10%上がったときどうするか」という問いに対して、2021年8月の調査では、「その店でそのまま買う」が43%、「他店に移る」が57%だったのが、2022年4月の調査では、「その店でそのまま買う」が56%に増え、「他店に移る」が44%に減少したというものです。
変化したといっても13ポイントにすぎませんし、それに今年4月ごろの値上げというのは、日清オイリオが4月1日納入分から家庭用の食用油を1キロ当たり40円以上値上げすると発表し、J―オイルミルズが7月1日納入分から家庭用の食用油を1キロ当たり60円以上値上げすると発表するというように、メーカーによる一斉の値上げです。牛丼にしても、松屋が昨年9月、吉野家が10月、すき家が12月と連続的に値上がりしました。ですから、「他店に移る」を選択する人がへるのは当然です。
日ごろ自分で買い物している人ならこうした個々の値上げのニュースに敏感になりますが、黒田総裁はマクロしか見ていないので、「他店に移る」が13ポイント減少したことを「家庭は値上げを許容している」と誤解してしまったのです。

また、黒田総裁はコロナ禍で消費ができなかったために家計に“強制貯蓄”があることも値上げ許容の理由に挙げましたが、多少貯金が増えたからといって「高くてもいいや」という気持ちになるわけがなく、この点でも消費者心理がわかっていないというしかありません。

企業と家計、生産と消費というのは車の両輪みたいなものですが、霞が関の文化には家計も消費も欠落していて、いわば片翼飛行をしているみたいなものなので、その中にいる人間には経済の全体が見えません。


私がこの霞が関文化のもたらす害悪に気づいたのは、1980年代、有機農業が注目され、スーパーにも有機野菜が多く並ぶようになってきたのに、農水省はそれになんの対応もしなかったときです。有機野菜には基準も規制もないので、「無農薬」という表示があっても信用できません(実際、「無農薬」をうたいながら農薬を使用していることが多いと言われていました)。
有機米が初めて公認されたのは1987年のことで、有機栽培のガイドラインが制定されたのは1991年です。
これだけ存在感のある有機農産物を農水省がなかなか認めないのはなぜかと考えたときに、農水省の役人は自分で買い物をしないからではないかと気づきました。スーパーに行けば、有機野菜が多く並んで、色つやなどからそれが一般野菜と質が違うということがわかります。しかし、農水省の役人はデスクで数字ばかり見ているので、有機野菜のことが認識できないのです(あと、彼ら学校秀才は何ヘクタールの土地に何トンの肥料を入れれば何トンの収穫があるというような機械論的な発想を好むこともあるかもしれません)。

黒田総裁が買い物をしないということは、個人的な問題ではなく、日銀政策委員会9人のメンバーのうち女性は1人であるという構造的な問題ともつながっているはずです。
また、黒田総裁は就任当初から2%の物価上昇を目標に掲げてきましたが、消費者なら誰もが望まない目標です。ということは、日本国民が望まない目標であったわけです。
9年たってようやく目標が達成できそうですが、この目標設定も改めて検討する必要があります。


霞が関や永田町、さらには経済界が男社会であることの経済への悪影響は想像以上に大きなものです。

日本で衰退した産業の代表格は家電メーカーです。昔は日本の家電は世界を席巻したものですが、今では見る影もありません。
家電の価格や性能では外国企業も同じ水準のものがつくれるので、そうなると魅力ある製品、消費者のニーズに合った製品をつくるということがたいせつですが、日本の家電メーカーの社員はほとんどが消費行動をしない男性社員なので、そこで差がついたのではないでしょうか。
日本のいわゆる白物家電には、余計な機能のついたものがよくあります。魅力的な製品をつくろうとして的を外している感じです。
もう10年ほど前ですが、電子レンジを買おうと思ったとき、インターネットにつながった電子レンジがあって、レシピ通りにつくると加熱時間が自動的に設定されるというのですが、材料の量などはレシピ通りというわけにはいかず、結局、最後は加熱加減を人間が目で見て確認しなければならないはずで、無意味な製品だと思ったのを覚えています。自分は料理をしない社員が製品開発をしているのではないかと思いました。
今はこの手のものはIoTといってさらに進化していますが、作り手の自己満足のような感じで、消費者に喜ばれている感じはありません。

日本には高い技術を持った企業はあるのに魅力的な製品をつくることができないという傾向があり、それが日本経済の衰退を招いています。
それは結局、日本は性別役割分業が根強くて、男性が生産を担い、女性が消費を担うというように、生産と消費が分離しているためと思われます。

日本の産業が全体的に衰退する中で、自動車産業だけは気を吐いていて、日本経済は自動車産業の一本足打法などと言われます。
なぜ日本の自動車産業は元気なのかというと、自動車の購買の決定権はたいてい男性が持っていて、つまり生産と消費が一致しているからではないでしょうか。



黒田総裁の「家計の値上げ許容度も高まってきている」という発言は大いに批判されましたが、「買い物は基本的には家内がやっております」という発言については、むしろ擁護する声があって、批判する声はまったく聞きませんでした。
買い物をしない人間が日銀総裁をやっているということは、もっと問題にされていいはずです。

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アメリカ・テキサス州の小学校で5月26日、銃乱射事件が起き、21人が死亡し、犯人の18歳の少年は射殺されました。

アメリカでは銃乱射事件が起きるたびに銃規制をするべきだという議論が起きますが、結局うまくいきません。
銃規制反対派の力が強いからです。

銃規制に反対する論理のひとつは、「身を守るために銃は必要だ」というものです。
しかし、護身用なら小さな拳銃で十分です。アメリカでは突撃銃のような殺傷力の強い銃が容易に手に入ります。

「銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ」という論理もあります。
しかし、銃がなければ、つまりナイフなどではそれほど人を殺せません。銃規制をすれば殺される人の数がへるのは明らかです。

銃規制のないアメリカと銃規制のある国々を比べてみれば、銃規制のある国のほうが銃による死者数が少ないのは明らかです。

もっとも、そういう数字とは関係ない論理もあります。
5月27日、全米ライフル協会の総会がテキサス州で開かれ、トランプ前大統領が出席して、「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」と語りました。
この論理は前から言われているものです。
これは善悪の問題ですから、銃による死者数では説得できません。「悪人をはびこらせていいのか」という反論があるからです。

このような善悪や正義の問題になると誰もが思考停止に陥ってしまいます。
しかし、私は進化倫理学ないし科学的倫理学を標榜しているので、その立場から説明することができます。


まずひとつ言えるのは、「銃を持った善人」は必ずしも「銃を持った悪人」を止めることはできないということです。
人間と人間が戦えば、善悪は関係なく強いほうが勝ちます。
ハリウッド映画では最後には悪人が必ず負けますが、それは映画だからそうなるので、現実は違います。
ということは、「銃を持った悪人」を止めるには、その悪人より強力な銃を持った人間が必要だということです。

ですから、銃規制反対派は強力な銃を容認するのです。


つまりトランプ前大統領の言う「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」というのは、実は力の論理にほかなりません。

この力の論理はアメリカの歴史を貫いてきました。
独立戦争、先住民との戦い、黒人奴隷の支配のために、白人は銃を手離せませんでした。
銃規制反対派はアメリカの歴史を背負っているので、それだけ強力です。


このような銃規制反対派の力の論理はアメリカ全体をおおって、アメリカの外交安保政策も力の論理になっています。
「正義のアメリカが悪の国を止める」というのが基本なので、アメリカはどこよりも強力な軍事力を持っています。
アメリカも名目は「安全保障」と言っていますが、安全保障なら自国を守るだけの(護身用の銃みたいな)軍事力でいいはずなのに、実際は安全保障を超えた(突撃銃のような)軍事力を持って、世界中に展開できる体制になっています。

日本もアメリカの論理に巻き込まれて、防衛力と言いながら他国を攻撃する能力を持とうとしています。


たいていの人間は、自分を悪人ではなく善人だと思っています。
この観点から「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」という論理を批判することもできます。
ヘイトクライムで銃を乱射する犯人は、自分は悪人を止める善人だと思っているに違いありません。

善悪や正義を持ち出すと、客観的な基準がないので、結局力の論理になってしまいます。
人類は長年の経験からそのことを理解して、「法の支配」をつくりだしました。
法は明文化されているので、客観的な基準になります。「法の支配」によって人間社会は安定しました。

アメリカはもちろん「法の支配」の国ですから、トランプ前大統領は「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った警官である」と言えばよかったのです。
警官なら訓練されて数も多いので、銃を持った悪人を確実に止められます。
「銃を持った善人」はなにをするかわかりません。
アメリカは「銃を持った善人」が野放しになっているのです。


アメリカの銃規制反対派が「法の支配」に目覚め、警察に治安をゆだねれば、アメリカの治安は大いに改善されます。
そして、アメリカの外交安保政策も変わるでしょう。
アメリカが世界に「法の支配」を行き渡らせれば、世界は大いに平和になります。

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