村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2022年10月

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ジャーナリストの伊藤詩織氏が杉田水脈総務政務官を名誉毀損で訴えた裁判の控訴審で、東京高裁は杉田氏に55万円の支払いを命じる判決を下し、伊藤氏の逆転勝訴となりました。
ツイッター上で伊藤氏を誹謗中傷する投稿に杉田氏が「いいね」を25回にわたって押していたことが名誉棄損に当たるかどうかが争点でした。
この判決については、「いいね」だけで名誉棄損になるのかという声とともに、安倍元首相が亡くなると裁判所も忖度をやめるのかという声が上がっていました。

ともかく、杉田氏は伊藤氏に対して同じ女性でありながらセカンドレイプみたいなことをしていたわけです。
杉田氏はこれだけではなく、女性とは思えない発言を再三しています。

2020年9月、杉田氏は自民党の会合で、女性への暴力や性犯罪に関して「女性はいくらでも嘘をつけますから」と発言しました。
自身が女性なのですから、なんともおかしな発言です。

2014年には衆院本会議での質問で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と発言したこともあります。
男女平等を否定するとは、男尊女卑思想なのでしょう。

女性の発言としてはありえないものですが、こうした発言を歓迎する男は少なくありません。
とりわけ自民党は父権主義的、家父長的な政党ですから、党内の出世に有利に働くはずです。
現に杉田氏は、最初は日本維新の会の衆議院議員だったのですが、落選したあと安倍元首相の引きで自民党に入り、岸田内閣においては総務政務官に就任しました。

高市早苗経済安全保障担当大臣は、夫婦別姓反対、女性天皇反対を表明し、やはり自民党の父権主義的、家父長的価値観に合わせています。
そのおかげかどうか、高市氏は政調会長を二度、内閣府特命担当大臣、総務大臣などを歴任してきました。

自民党の女性議員の一見不合理な主張は、自民党内の力学を考えると、合理的なものと見なせます。


タレントのフィフィさんはツイッターなどで典型的な保守派の主張を発信していますが、夫婦別姓については賛成であるようで、男と女の問題については常識的な人なのかと思っていました。
しかし、次のツイートは妙に女性にきびしいようです。

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愚痴を言う主婦にきびしいことを言っていますが、この場合の主婦は専業主婦のことです。
この前に次のツイートがあって、それでわかります。

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最初に「専業主婦の労働を時給にすると1,500円」というツイートにかみついて、それに対して専業主婦叩きではないかと批判されて、その反論をしたという流れです。
いずれにしても「愚痴を言う専業主婦」を攻撃しています。

フィフィさんはタレント及び保守派文化人としてやりがいのある仕事をしています。
愚痴を言う専業主婦なんか相手にする必要はないし、むしろ同情してもいいくらいです。
保守思想は「男は仕事、女は家事」という家族をたいせつにするので、専業主婦叩きは保守思想とも矛盾します。
フィフィさんの頭の中はどうなっているのでしょうか。


ウィキペディアによると、フィフィさんは2001年に日本人男性と結婚し、2005年に男児を出産したということです。
つまり自分は主婦業と仕事の両方をやってきたのに、主婦業だけの女性が愚痴を言うのはけしからんということでしょう。
これは感情としては理解できます。自分が苦労してきたのだから、他人や次の世代も同じ苦労をするのは当然だという理屈です。
姑の「嫁いびり」がこの心理です。
学校の運動部で不合理な練習のやり方がずっと継承されていくのも同じです。

しかし、心理としてありがちだとしても、「自分が苦労したから他人や次の世代も同じ苦労をするべきだ」という考え方では世の中が進歩しません。明らかに間違った考えです。
とりわけ世の中に向かって発信してはいけません。


フィフィさんはどうして間違った発信をしたのでしょうか。

フィフィさんは腹を立てる相手を間違えたのです。
フィフィさんは「家事も育児も独りでやって、さらに外で働いている私」とか「私はワンオペで家事育児と仕事をしている“主婦”」と書いています。
つまり夫は家事育児をまったく手伝っていないのです。
夫婦共働きで夫が家事育児をまったくしないというのは、どう考えても不当です。フィフィさんは夫に不当な扱いをされてきたのです。
フィフィさんは夫に怒りを爆発させて当然です。

ところが、「私の役目としてやっているので」と書いているので、フィフィさんは不当とは思っていないわけです。
しかし、不当な扱いに対する怒りは蓄積されてきました。
その行き場のない怒りが「愚痴を言う専業主婦」に向かったのです。
攻撃されたほうはいい迷惑です。


なぜフィフィさんは「ワンオペの家事育児」を「私の役目としてやっている」と思うのかといえば、フィフィさんの拠りどころである保守思想がそういうものだからです。
「男は仕事、女は家事」という家庭が保守派の理想です。フィフィさんは外で働いているので理想から外れました。その償いをするためにも必死で「女は家事」という役目を果たしてきたのでしょう。
しかし、心の底では納得していませんでした。


フィフィさんは自分の心の底にある怒りを自覚して、ワンオペで家事育児をやってきたことに対する不満を夫に対して主張するべきです。
そうして新しい夫婦関係、家族関係を追求することで、また新しい言論活動が展開できます。
それはフェミニズムと言われることになるでしょうが。

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ロシア・ウクライナ戦争が始まって8か月近くがたち、戦争の実態がよく見えてきて、日本の防衛と比較して考えられるようになりました。

この戦争は核保有国と非核保有国の戦いですが、ロシアはいまだに核兵器を使いません。
ロシアが劣勢になると核兵器を使うのではないかという懸念が一時的に高まりますが、そのうち懸念は薄れます。
ロシアのラブロフ外相は「国家存亡の危機のみに核兵器の使用を想定している」と述べています。

なぜロシアが核兵器を使わないのかというと、核兵器の破壊力と非人道性が広く知られているので、もし使ったら国際的に激しい非難を浴びることがわかっているからです。
生物化学兵器も使われていませんが、これも同じ理由です。

そうすると、日本人は「核の傘」がなければ生きていけないように思っていますが、これは考え違いであるようです。
中国軍が日本に上陸してきて、自衛隊が優勢に戦いを進めて中国軍を追い詰めたとしても、中国は「国家存亡の危機」になったわけではありません。
中国、ロシア、北朝鮮などがいきなり核攻撃をしてくるという可能性が絶対ないとはいえませんが、そういう非合理的な判断をする相手には「核の傘」も役に立たないはずです。


それから、ウクライナはNATOに加盟していませんが、NATO各国から潤沢な武器援助を受けています。ウクライナの善戦はひとえにこの援助のおかげと思えます。
同盟関係でなくてもこんなに援助してもらえるのなら、日本は日米同盟を離脱してもいいのではないかということになります。離脱すれば、日本は安保条約に規定される義務はなくなり、沖縄の基地問題も全部解決します。それでいて中国かロシアが攻めてきたときは、アメリカからウクライナ並みの援助をしてもらえるのなら、こんなうまい話はありません。

もっとも、そうはいかないでしょう。日本とウクライナではいろいろと違います。宗教も人種も違いますし、日本には真珠湾攻撃という“過去”もあります。
つまり日本とアメリカは心の深いところでの信頼関係はなく、そのため多くの日本人は安保条約という“契約”を頼りにするしかないと考えています。

アメリカは世界最強の軍隊を持っているので、日米安保があれば日本が他国から攻められるという可能性はまずありません。もし攻められたとしても、自衛隊がしばらく持ちこたえていれば米軍が撃退してくれるはずです。

ですから、日本の安全保障政策は実はアメリカに丸投げです。
自衛隊も米軍に頼り切っています。


ウクライナではザポリージャ原発が再三攻撃を受け、電源喪失の危機に見舞われたりして、戦時下における原発の危険性が注目されました。
3月4日の参院の議院運営委員会で原発が戦争に巻き込まれた際の対策を問われ、原子力規制委員は「武力攻撃に対する規制要求はしていない」と答え、規制委事務局の事故対策担当者も取材に対して「ミサイル攻撃などで原子炉建屋が全壊するような事態は想定していない」と答えました。
日本の防衛を本気で考えていないことがよくわかります。


現代の戦争では制空権の確保が重要なので、ロシア軍はウクライナ侵攻に際して最初に飛行場を攻撃しました。
自衛隊の飛行場の防衛体制はどうなっているのでしょうか。
飛行場に航空機が並んで駐機していると、ミサイル攻撃や空爆で一気に破壊されてしまいます。
航空機は攻撃に耐えられる掩体壕に格納するのが基本です。
しかし、自衛隊には掩体壕がわずかしかありません。

ロイターの「日本の脆弱な航空機および艦艇の地上防護態勢【フィスコ世界経済・金融シナリオ分析会議】」という記事から引用します。

空自の掩体壕は、三沢基地で2個飛行隊40機分、千歳基地及び小松基地において1個飛行隊20機分が確保されているだけで、その他の7つの基地では全くの未整備である。一方、中国大陸に対峙した台湾空軍、韓国空軍及び在韓アメリカ軍戦闘機は、ほぼ完全に掩体運用を行っている。

これを見ても、自衛隊が本気で戦争をする気のないことがわかります。
自衛隊の航空基地のイベントなどに参加した一般人も掩体壕のないことを疑問に思うらしく、ヤフー知恵袋などに「基地に掩体壕を見ないが、どうなっているのだろうか」という質問をいくつも見かけます。

戦争においては弾薬を大量に消費するので、弾薬の備蓄が重要ですが、これも自衛隊には十分な用意がありません。
故安倍晋三元首相は5月20日のインターネット番組で、自衛隊の状況について「機関銃の弾からミサイル防衛の(迎撃ミサイル)『SM3』に至るまで、十分とは言えない。継戦能力がない」と述べました。
だから防衛費の増額が必要だと主張したのですが、継戦能力がない状態にしていたのは安倍元首相自身です。

自衛隊の弾薬備蓄量がどれくらいあるかというのは“軍の機密”らしく、はっきりしませんが、一説には2週間程度で撃ち尽くす量だといいます。


で、防衛費の増額ですが、今議論されているのは「反撃能力(敵基地攻撃能力)」を持つということです。
アメリカはウクライナに武器援助をしていますが、ロシア領土を攻撃できるような武器は援助していません。それをするとロシアが「国家存亡の危機」と認識して、核兵器使用に踏み切るかもしれないからです。
日本が持とうとする「反撃能力」はまさに中国やロシアや北朝鮮に「国家存亡の危機」と認識させかねません。

もっとも、自衛隊が単独で反撃能力を行使するなどということはありません。
自民党が4月27日に岸田首相に出した提言には、反撃能力について「米軍の打撃力の一部を担う」と書かれていて、あくまで米軍を自衛隊が補完するのが目的です。


ともかく、日米安保条約があれば日本が外国から攻撃される可能性はほとんどないので、自衛隊も国防をまじめに考える必要はありません。
では、なんのために防衛費の増額をするのかといえば、アメリカとの関係をよくするためです。

安保条約は、外務省によると「第5条は、米国の対日防衛義務を定めている」というのですが、第5条に「義務」という言葉はなく、「各締約国は……自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処する」とあるだけです。
合衆国憲法では宣戦布告の権限は議会にあります。大統領は議会に諮らずに参戦することもできますが、参戦したくないときは議会に諮って否決させるという“抜け道”があるのです。

日本政府及び自衛隊はアメリカに国防を全面依存しているのですが、アメリカが期待に応えてくれないかもしれないという不安がぬぐえません。
その不安を解消するため、防衛問題でアメリカになにか要求されるとひたすら応えてしまうのです。
辺野古基地建設もそうです。最終的にいくら費用がかかるかわからないのにつくり続けています。
防衛費も同じです。これまでGDP1%以内に抑えていたのに、アメリカに要求されると、とたんに2%に倍増させると約束しました。

防衛をアメリカに依存している国が防衛費を一生懸命増やしている姿は、どう見ても滑稽です。

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今年のノーベル平和賞にはびっくりしました。
ベラルーシの人権活動家アレス・ビアリアツキ氏、ロシアの人権団体「メモリアル」、ウクライナの人権団体「市民自由センター」に授与されたのですが、これは要するに「プーチン政権包囲網」です。
戦争のさ中に一方に加勢するのは、戦争の火に油を注ぐようなものです。

NATO各国はウクライナに武器を援助していますが、ノーベル賞委員会は武器援助ができないので、代わりにノーベル平和賞を贈った格好です。
平和賞の発表があった10月7日はプーチン大統領の誕生日でもありました。これもプーチン大統領の神経を逆なでしたでしょう。

これではノーベル平和賞ではなく「ノーベル戦争賞」です。


ヨーロッパにはヨーロッパ至上主義があります。
これはそのまま白人至上主義につながっています。
ヨーロッパ以外の文化や人種を見下し差別するのがヨーロッパ至上主義です。

ロシアもヨーロッパですが、文化が高いのはフランス、イギリス、ドイツなど西ヨーロッパです。ロシアなど東ヨーロッパは西ヨーロッパから差別されています。
ですから、ヨーロッパ至上主義というより西欧至上主義といったほうがいいかもしれません。

今回のノーベル平和賞には西欧至上主義が色濃く出ました。


西欧至上主義は、古代ギリシャ・ローマ文明は世界史の中でもっとも価値のあるものと見て、その流れをくむ自分たちも特別な価値があるという考え方です。
古代ローマ帝国が衰亡した一時期、イスラム文明に凌駕されたことはありますが、産業革命とフランス革命以降は西欧文明がもっとも高度なものとなり、世界を支配しました。その中で西欧至上主義が形成されました。
EUは西欧至上主義によって結束した国家連合です。域外の国に人権問題などで説教するところがいかにも西欧至上主義です。
西欧至上主義は植民地主義として世界の多くの国を支配しましたが、西欧諸国は植民地支配を今にいたるも謝罪していません。


近代オリンピックは古代ギリシャの伝統を受け継ぐもので、いかにも西欧的ですし、運営も西欧の国が中心ですから、ロシアを差別するのに利用されてきました。
1980年のモスクワ・オリンピックは、その前年にソ連がアフガニスタンに侵攻したことからアメリカがボイコットを呼びかけ、50か国近くがボイコットしました。
2014年のソチ・オリンピックのときは、ロシアの大規模なドーピングが発覚し、ロシアのメダル13枚が剥奪されました。
オリンピックは開催国にとって国威発揚のチャンスですが、ロシアはそのつど逆に国のプライドを傷つけられてきたわけです。

ドーピング問題は尾を引きました。世界反ドーピング機関(WADA)は2015年にロシア選手団を3年間国際大会から排除する処分をしました。そして、2018年に処分解除の決定をしましたが、そのときにロシアから提供された検査データに多数の改ざんがあったとして、WADAは今度は4年間の処分をしました。そのため2021年の東京オリンピックでも2022年の北京冬季オリンピックでもロシアは国としての参加ではなくロシアオリンピック委員会として個人での参加という形になりました。
もとはといえばロシアがドーピングをしてデータの改ざんをしたのが原因ですが、ロシアにとってはオリンピックのたびに屈辱を味わってきたわけです。

ロシアのウクライナ侵攻は北京冬季オリンピックの閉会式の4日後でした。プーチン大統領にオリンピックの屈辱に対するリベンジという意識がなかったとはいえないでしょう。

NATOの東方拡大がロシアのウクライナ侵攻を生んだという見方がありますが、そうした軍事面だけでなく、「平和の祭典」のような文化面においても戦争の種はまかれます。


日本は西欧以外の国で西欧文明をもっとも早く取り入れた国で、そのことが自慢なためか、西欧至上主義に無自覚です。
西欧至上主義は戦争のもとなので、注意しなければなりません。

最近気になるのが、岸田文雄首相がよく「普遍的価値」という言葉を使うことです。
ウクライナ侵攻があったあとの3月14日、岸田首相は「東京会議2022」のビデオメッセージにおいて「日本は、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値をより一層重視し、こうした普遍的価値を共有するパートナーとの結束を強めてまいります」と言いました。同様のことは繰り返し言っています。
バイデン大統領は「民主主義国対権威主義国」という図式をつくって中国批判をしているので、岸田首相はそれに乗っかっているのでしょう。

ちなみに古代ギリシャ・ローマは民主制だったので、民主主義に特別な価値を見るのも西欧至上主義です(古代ギリシャ・ローマでは市民より奴隷のほうが多かったので、「民主制」というよりも「集団指導体制」といったほうが適切な気がします)。

「普遍的価値」とはなんでしょうか。
世界中の人が同じ価値観を持っていたら、それは「普遍的価値」です。
しかし、民主主義については、民主主義を採用していない国が世界には多くありますから、これは「普遍的価値」とはいえません。
自由や人権についても、国や人によって考え方が違いますから、そう簡単に「普遍的価値」とはいえません。
たとえばアメリカは、人種差別がすごくて、女性差別撤廃条約も子どもの権利条約も批准していないので、日本人の考える人権とアメリカ人の考える人権はかなり違います。

自分の信じる価値を普遍的価値であるとするのは、自己中心的で傲慢な態度です。
その価値を信じない人間は愚か者か悪い者だということになり、対立せざるをえません。

ちなみに日米から見ると、中国は民主主義国ではないので、普遍的価値を理解しない国ということになります。
もちろん中国自身はそんなことは思っていません。
「社会主義核心価値観」というものを掲げています。
「社会主義核心価値観」とは、国家レベルの目標「富強、民主、文明、和諧(親睦)」、社会レベルで重んじる価値「自由、平等、公正、法治」、個人の道徳規範の価値「愛国、敬業、誠信、友善」の計12の概念からなったものです。

日米も中国もそれぞれの価値観を掲げているのですが、自分の価値観を「普遍的価値」と言ってしまうと、自分は絶対正しいということになり、話し合いが成立しません。

今はさまざまな価値観の共存する多様性(ダイバーシティ)のある社会をつくっていこうという流れになっていて、その観点からも「普遍的価値」などという言葉は批判されるべきです。
「普遍的価値」という言葉は西欧至上主義や一神教的価値観から出てきたもので、日本的価値観にも合いません。

岸田首相は「普遍的価値」ではなく「異なる価値観の共存」を主張するべきです。

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いじめ防止対策推進法が2013年に成立したのに、学校でのいじめは少しも解決せず、自殺につながるような深刻ないじめもあとをたちません。
それも当然で、いじめ防止法は学校のいじめ防止体制の整備やいじめが起きたときの対処法を主に規定するもので、いじめの発生を防止する規定はほとんどありません。
あえて探すと、次のようなことだけです。

第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。
   ※
第九条 保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。
   ※
第十五条 学校の設置者及びその設置する学校は、児童等の豊かな情操と道徳心を培い、心の通う対人交流の能力の素地を養うことがいじめの防止に資することを踏まえ、全ての教育活動を通じた道徳教育及び体験活動等の充実を図らなければならない。

文科省のホームページにある「いじめ防止対策推進法(概要)」も、学校のするべき基本的施策は「道徳教育等の充実」であるとしています。

道徳教育の好きな自民党らしい法律です。
しかし、道徳教育でいじめがなくなるわけがありません。
道徳で社会がよくなったり、道徳教育でよい人間がつくれたりするなら、とっくに理想社会が実現しています。
道徳を当てにする法律をつくったのが失敗でした。


そのため、いじめをする子どもを厳罰にしろという声が高まっています。
罰を抑止力にしていじめをなくそうというわけです。
これは刑法の基本的な思想でもあります。
しかし、一般社会でも厳罰化で犯罪はなくならないのですから、学校でも厳罰化でいじめはなくならないでしょう。
それに、こうしたやり方は、監視の目がないと悪いことをする人間をつくりそうです。

さらにいうと、いじめている子どもはたいてい自分はいじめをしているという自覚がありません。相手をからかっているだけ、いじっているだけ、いっしょに遊んでいるだけといった認識です(いじめられている子もたいていはっきりと「いや」という意志表示をしないものです)。
ですから、「いじめはよくない」とか「いじめた者は罰する」と言ってもあまり効果がないのです。


「いじめている側はいじめとは思っていない」ということがよくわかるニュースがありました。
“背の順”の整列に異議 小学校教員・松尾英明さんが訴え「いじめのひとつと考えてもいいんじゃないか」
 小学校で当たり前のように行われている“背の順”による整列。背の順に異議を唱える声が上がり、波紋を広げている。

 公立小学校教員・松尾英明氏は「背の低い順に並ばせるのは差別である」と自らの著書で訴えている。さらに「子どもたち同士の中でも背の高い、低いというのは気にするようになるんです。コンプレックスを抱くということがありますので傷つく人がいるということを考えると、これはいじめのひとつと考えてもいいんじゃないかと思っています」と主張している。

 “背の順”について、並ぶことが嫌とか思ったことあるか聞かれた街の子どもは「(男児)あまりない」「(女児)ない~」と答え、親は「考えたこともなかったです。すごく現代ならではだなと思いました」と気にしない意見が上がった一方、「背の順はイヤ。前の方もイヤです。目立ったりするし、(後ろでも)横から見ればいける。バラバラでもいいと思う」といった反対の声も上がっている。

 松尾さんは、背の順ではなく名簿順を勧めていて「名簿順であれば序列意識がなくなり、成長によって起きる“順序の変動”といった混乱も避けることができる」と指摘している。また、声をあげた理由について「全体の数%の子たちがすごく嫌な思いをしている。その声が全体の中の少数派であったとしても、少数派の人たちに目を向けるということ自体がものすごく大事なことだと思うので、私はすごく意味があることだと思っています」と心境を明かしている。(『ABEMAヒルズ』より)
https://news.yahoo.co.jp/articles/03a789e2c45a296eb91677997e6df5b183aee259
私も“背の順”による整列は当たり前と思っていたので、この記事には意表をつかれました。

私自身は背の高いほうだったので、小学校、中学校で校庭に整列するときはかなり後ろでした。そのときは背が高くてよかったと思いましたし、いつも前のほうにいる子はいやだろうなとも思いました。
男の子の世界では、背が高いことは価値があります。背が低いと、それだけで体力的に不利ですし、しばしば「チビ」と言われてバカにされます(「チビ」と呼ぶのはいじめであるとして、最近はないかもしれません)。
背の順に整列すると、背の低い子はそのことが誰の目にも歴然となります。当然いやに違いありません。
これは、体重の順に整列することを考えてみればわかるでしょう。あるいはテストの点数順の整列とかでも同じです。

もっとも、この記事についてのヤフコメを見ると、「背の順の整列は前を見やすくするための合理的なものなのでいじめではない」という意見が圧倒的です。

しかし、私自身の体験を振り返ってみると、小学校と中学校では校庭で背の順に整列していましたが、高校では整列ということをしたことがありません。朝礼というものがなかったし、全校集会とかなにかのイベントのときは整列せずに雑然と集まっていました。それでなんの問題もありませんでした。
校庭に整列するというのは軍国教育の名残です。整列する経験が役立つのは自衛隊か警察などに就職した場合だけで、一般社会では無意味です。
ですから、校庭や体育館に集合したとき、整列せずに雑然と集まっていればいいのです。そうすれば背の低さも気になりません。

なお、運動会で全員にかけっこをさせるのも、足の遅い子にとっては屈辱以外のなにものでもありません。こういうことをさせると自己肯定感が低くなり、競争嫌いの子どもになりかねません。競争は自分の得意な分野でするべきです。

背の順の整列にせよかけっこにせよ、させるほうは認識していませんが、一部の子どもにとってはいじめそのものです。

もっとも、いじめ防止法では、こうしたケースはいじめとは見なされません。いじめの定義が「児童生徒が他の児童生徒に行う行為」となっているからです。
教師や親が子どもをいじめても、いじめにはならないのです。
これもいじめ防止法の欠陥です。

社会にもいじめはありますが、それほど多くはありません。しかし、学校におけるいじめは圧倒的に多くあります(社会におけるいじめの数の統計はないので、比較できませんが)。
これは学校をつくってきた文科省や教育委員会や教師に責任があり、さらには親にも責任があります。


道徳教育も厳罰化もいじめ防止には役立ちません。
では、どうすればいいかというと、私の知る範囲ではシュタイナー教育の考え方がいいと思います。

日本におけるルドルフ・シュタイナー思想研究の第一人者である高橋巌の著書『シュタイナー教育の方法』から引用します。

そこで、そういう子どもの「いじめ」が中学一年生のクラスに起こった時に、現在の時点でどういう態度をとることができるかと言うと、先生はその暴力を引き起こしている子ども、いじめられっ子ではなく、いじめっ子の方とできるだけ親しくなる、ということが必要です。
まず先生は、暴力を引き起こしている「いじめっ子をかばう」という姿勢をとる必要があります。いじめっ子をかばうということは、いじめっ子がいちばんかわいそうな存在だからです。人をいじめるということでしか自分を表現できないのですから、どんなにその子の内面は苦しんでいるかわかりません。ですからまず先生はその子と仲好しになって、その子どもとだけでいろんな約束をするのです。たとえば「君はきっと今度の秋の運動会では百メートル競走の代表選手になるはずだから、一緒に今から練習してくれないか」とか、あるいは「このクラスのこの子はとてもからだが悪いので、君、ぜひ面倒をみてくれ」とか、「先生の代わりに、今入院している誰それのお見舞いに行ってくれ。その時に悪いけどこのお金でお花を買ってくれ」とか、そういうような形でその子どもと個人的に関っていく、というところから始めるのです。その子どもが他の子どもをいじめる必要がなくなるところまで面倒をみるということが第一です。
それから第二に、もちろんいじめられる子どもに対しても、同じようにできるだけ細かく配慮して、そしてその子がどうしていじめられるのか、そのいじめられる原因を見つけ出して、それを皆にわからない仕方で、解消するように配慮するのです。そういう筋道を先生が辿って行かないかぎり、問題は解決できません。

いじめっ子にいじめをやめさせる方法としては、これが王道であると思えます。

高橋は、先生は親のような立場に立てと説いています。
たとえば、子どもが犯罪を起こして親が警察に行ったときは、親は「自分の責任だ」と感じて、警察の側ではなく子どもの側に立つはずです。
「そういう形で子どもの側に立てれば、まともな先生なのです。ところが、裁判官であったり警察官であったりする態度をとって何とも思わない先生でしたら、それは教師でも何でもない、ということになります」と高橋は書いています。

今の世の中は、教師だけではなく親も警察官や裁判官の立場に立っている感があります。

シュタイナーの思想は神智学といい、神秘思想でもあり、かなり宗教的なものです。
宗教といってもいろいろありますが、深い宗教思想は善悪を超越します。
親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というのもそうです。
キリストの「汝の敵を愛せよ」というのもそうでしょう。

一般には「いじめっ子は悪、いじめられっ子は善」と考えられていますが、ひとつのクラスに善と悪があるのもおかしなことです。
善悪を超越した目を持つことがたいせつです。

シュタイナーの思想は「宗教的寛容」と名づけることができるかもしれません。


いじめは進化倫理学の立場から考察することもできます。

生物としての人間に基づいて倫理を考えるのが進化倫理学です。
哺乳類の場合、子どもは親に守られ、親に世話をされて、つまり親の愛情を受けて育ちます。
しかし、人間の場合、親は高度に文明化していますが、赤ん坊は原始時代と変わらない状態で生まれてくるので、親と子のあり方が大きく乖離しています。親は子どもの気持ちが理解しにくく、「なぜこんなことがわからないのか」といった理不尽な感情を抱きがちです。また、文明化された生活様式の中で子どもは物を壊したり汚したりするので、それも親にはがまんできません。そうしたことが親の愛情不足につながり、さらには虐待につながります。

また、文明社会に適応するには多くのことを学習しなければならないので、学校では子どもの好奇心や学習意欲以上のことを教えます。空腹になればおいしく食べられるのに、その前にむりやり食べさせるみたいなことをしているのです。

文明が発達すればするほど親と子が乖離し、学校での子どもの負担が増えます。こうしたストレスがいじめにつながっているのです。
ですから、いじめをなくすには家庭と学校のあり方から見直していかなければなりません。
いじめ防止法にはこうした発想がまったくなく、そのため効果がないのです。


いじめ対策としては、道徳教育も厳罰化もうまくいきません。これらはおとな本位の発想だからです。
宗教的寛容や進化倫理学によって、子どもの立場から考えることが必要です。

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