
最近、「アンガーマネジメント」がメディアで取り上げられるのをよく目にします。
アンガーマネジメントというのは怒りを制御する心理トレーニング法です。パワハラやDVへの風当たりが強くなった世相の反映でしょう。
岩波文庫に古代ローマの哲学者セネカが書いた『怒りについて他一篇』というのがあって、若いころの私は「怒り」が哲学の対象になって、しかも一冊の本になるのかと、ちょっと驚いたのを覚えています(岩波文庫にはベルクソン著『笑い』という哲学書もあります)。
『怒りについて他一篇』を読んでも、怒りについてとくに認識が深まったということはありませんでしたが、古代ローマ人も怒りの感情に振り回されていたということは、次の文章などからもよくわかりました。
この感情だけは全く激烈であって、憎しみの衝動に駆られて、武器や流血や拷問という最も非人間的な欲望に猛り狂い、他人に害を加えている間に自分を見失い、相手の剣にさえも飛びかかり、復讐者を引きずり回して、是が非でも復讐を遂げさせようとする。
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怒りは自らを抑えることもできず、品位も汚し、親しい間柄を忘れ、怒り出せば執念深くて一途に熱中し、道理にも忠告にも耳を閉ざし、つまらない問題にも興奮し、公正真実を見分ける力はなく、言わば、自らが押し潰したものの上に砕けて散る破滅に似ているのである。
昔から人間は怒りを制御することができず、逆に怒りに支配されていたようです。
そうすると、アンガーマネジメントの登場は画期的なことといえます。
ただ、そんなにうまく怒りをコントロールできるのかという疑問もあります。
進化倫理学の観点からアンガーマネジメントを検証してみました。
アンガーマネジメントは1970年代にアメリカで生まれました。最初は犯罪者のための矯正プログラムとして利用され、裁判所が犯罪者を収監する代わりにアンガーマネジメントを受講するよう命令するということがよくありました。現在ではさまざまな分野で、とくに企業におけるパワハラ防止教育などとしても利用されています。
アンガーマネジメントによる怒りについての考え方は、さすがにセネカのころより格段に進歩しています。
怒りの感情は、動物が縄張りの侵入者を威嚇して戦闘準備状態にあるときの感情と同じで、生体の防御反応だとされます。
ここは重要なところです。怒りというのは攻撃反応のように見えますが、実は防御反応なのです。
縄張りをもつ動物は、むだな争いを避けるために互いの縄張りを尊重して暮らしていますが、それでもときどきほかの縄張りに侵入することがあります。侵入するほうはおどおどした様子で警戒しながら侵入していきますが、縄張り主は侵入者を発見すると、猛然と襲いかかります。この襲いかかるもとにあるのが怒りの感情です。ですから、怒りは防御反応だということになります。
この戦いは、縄張り主が弱い場合でも決まって縄張り主が勝利します。そして、縄張り主が侵入者を追いかけて侵入者の縄張りに入り込むと、今度は攻守ところを替えて、追いかけてきたほうが撃退されることになります。動物の世界の戦いはきわめて限定的です。
コンラート・ローレンツは著書『攻撃』において、動物が縄張りを守る行動を「攻撃」と見なして論じました。そして、人間の「攻撃本能」はなくすことができないと主張したので、混乱が生じました。このため政治学の世界では人間を動物と見なして論じるということがまったくなされていません。
ともかく、怒りというのは生存のために必要な感情です。ただ、人間の場合は必要以上に怒る傾向があるので、そこにアンガーマネジメントの出番があります。
ですから、アンガーマネジメントはすべての怒りをなくそうというものではありません。
日本アンガーマネジメント協会のホームページにも「怒らないことを目的とするのではなく、怒る必要のあることは上手に怒り、怒る必要のないことは怒らなくて済むようになることを目標としています」と書かれています。
では、必要な怒りと必要でない怒りをどうやって区別するのかということになりますが、「区別するポイントは、後悔するかどうか」だということです。
怒って後悔するときは怒る必要がなかったということですし、怒って後悔しないときや、怒らないで後悔するときは怒る必要があったということです。
しかし、「後悔」という個人的な感情がどこまで正しいのかという疑問があります。
この疑問はひとまず置いておいて、必要でない怒りに対処する方法はアンガーマネジメントならではのもので、ここにアンガーマネジメントのよさがあるといえます。
怒りが生じた最初のイラッとした瞬間に対処することで、怒りの増大を防げるといいます。
どう対処するかというと、「6秒」を意識するのがいいといいます。
怒りの感情はイラッとしてから6秒間がピークで、そこからだんだん下がっていくそうです。ですから、6秒間をなんとかやりすごすと、怒りに任せた反射的な行動が防げるというわけです。
そのために怒りの対象から意識をそらせるというやり方をします。たとえば「魔法の呪文」といって、気持ちが落ち着く言葉を自分で自分にかけます。「たいしたことない」「大丈夫、大丈夫」「今、なにができるだろう」といった言葉をあらかじめ用意しておいて、怒りが生じたときに自分につぶやいて、6秒間をやりすごすのです。
それから、怒りの尺度を10段階で評価するというやり方もあります。これもあらかじめ10段階を決めておきます。たとえば「怒り爆発」「爆発寸前」……「イライラする」「イラッとする」といった具合です。そして、怒ったときに、今の怒りは10段階のどの段階に当たるかを考えます。これが時間稼ぎになりますし、自分の怒りを正しく相手に伝える方法を考えることもできます。
具体的な方法が示されているので、怒りをコントロールする上では有効な感じがします。
それから、怒りの性質に関して重要な指摘があります。
それは、「怒りは、力のある上の立場から、力の弱い下の立場の人へと流れる」ということです。
怒りは上司から部下、教師から生徒、親から子どもへと流れます。つまり既存の社会秩序の枠内で怒りは存在しています。
昔は親や教師が子どもに体罰をするのは当たり前でした。
上司が若い社員を激しく叱責して、若い社員が自殺するということは、昔もあったはずですが、まったく問題になりませんでした。
しかし、今は上司の激しい叱責はパワハラとされ、叱られた社員が自殺でもすると会社の責任が問われます。
アンガーマネジメントが求められる背景には、社会秩序の根底が変化しているということがあります。
結局、必要な怒りと必要でない怒りの区別ははっきりしません。
ただ、重要な指摘もあります。
それは「人は『べき』が裏切られたときに怒る」ということです。
私たちは「人間はこうあるべきだ」「子どもはこうあるべきだ」「社員はこうあるべきだ」という考えを持っていて、相手がその考えを裏切る行動をしたときに怒るのです。
そして、こうした「べき」は人それぞれで違います。
たとえば「子どもは親の言うことを聞くべきだ」という考えを持っている親は、もちろん子どもは親が理不尽なことを言うと聞きませんから、しょっちゅう子どもを叱ることになります(「叱る」も「怒る」も同じようなものです)。
「妻は家事をきちんとするべきだ」という考えを持っている夫は、年中妻を怒ることになるでしょう。
また、「時間は守るべき」という考えは誰もが持っていますが、相手が待ち合わせに5分遅れても怒る人もいれば、15分遅れても許す人もいます。
ですから、アンガーマネジメントは「べき」の基準を緩めて、許容範囲を広くするべきだと教えます。そうすれば怒ることも少なくなるはずです。
これはもっともなことですが、では、「べき」の適正な基準はどんなものかというと、誰にもわかりません。
ですから、各自が自分勝手な「べき」を信じ込んでいるわけです。
「べき」の適正な基準を知るには、「べき」がどのようにしてできたかを知らねばなりません。
「べき」あるいは「善悪」あるいは「道徳」は、動物の世界にはなく、人間だけが有しています。
もちろん神さまから与えられたものではなく、人間がつくりだしたものです。
怒りが力のある上の立場から力のない下の立場へ流れるのと同じで、道徳は力のある上の立場から力のない下の立場へ流れます。
つまり道徳は上の立場の者がつくり、下の立場の者に説くものです。
ですから、道徳は上の立場の者が利益を得るようにつくられています。
「子どもは親の言うことを聞くべき」「女は男を立てるべき」「社員は不平を言わずに働くべき」という道徳を見れば明らかです。
「汝盗むなかれ」という道徳は、富裕層が貧困層に説くものです。
「汝殺すなかれ」という道徳は、暴虐な支配をする支配層が被支配層に説くものです(動物は同種の間で殺し合うことはないので、こうした道徳は必要ありません)。
下の立場の者が道徳に従わないと上の立場の者が怒ります。
「正義の怒り」という慣用句があることで、道徳と怒りが一体のものであることがわかります。
セネカも「善き人ならば、悪人に腹を立てないことはできない」という言葉を引用しています。
必要な怒りと必要でない怒りを区別したければ、「べき」や「善悪」や「道徳」を頭の中から消去すればいいのです。
そうすれば動物の世界と同じく防御反応としての怒りしかなくなります。それが必要な怒りです。
「正義の怒り」を名目にして悪をなすこともなくなるでしょう。
アンガーマネジメントは怒りを防御反応ととらえたところが正しく、「べき」と怒りが結びついていることを明らかにしたのも評価できます。
ただ、「べき」すなわち道徳を捨て切っていないところが中途半端です。
進化倫理学の観点から見ると、怒りと道徳の関係がはっきりします。