村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2022年11月

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最近、「アンガーマネジメント」がメディアで取り上げられるのをよく目にします。
アンガーマネジメントというのは怒りを制御する心理トレーニング法です。パワハラやDVへの風当たりが強くなった世相の反映でしょう。

岩波文庫に古代ローマの哲学者セネカが書いた『怒りについて他一篇』というのがあって、若いころの私は「怒り」が哲学の対象になって、しかも一冊の本になるのかと、ちょっと驚いたのを覚えています(岩波文庫にはベルクソン著『笑い』という哲学書もあります)。
『怒りについて他一篇』を読んでも、怒りについてとくに認識が深まったということはありませんでしたが、古代ローマ人も怒りの感情に振り回されていたということは、次の文章などからもよくわかりました。
この感情だけは全く激烈であって、憎しみの衝動に駆られて、武器や流血や拷問という最も非人間的な欲望に猛り狂い、他人に害を加えている間に自分を見失い、相手の剣にさえも飛びかかり、復讐者を引きずり回して、是が非でも復讐を遂げさせようとする。
   ※
怒りは自らを抑えることもできず、品位も汚し、親しい間柄を忘れ、怒り出せば執念深くて一途に熱中し、道理にも忠告にも耳を閉ざし、つまらない問題にも興奮し、公正真実を見分ける力はなく、言わば、自らが押し潰したものの上に砕けて散る破滅に似ているのである。

昔から人間は怒りを制御することができず、逆に怒りに支配されていたようです。
そうすると、アンガーマネジメントの登場は画期的なことといえます。
ただ、そんなにうまく怒りをコントロールできるのかという疑問もあります。
進化倫理学の観点からアンガーマネジメントを検証してみました。


アンガーマネジメントは1970年代にアメリカで生まれました。最初は犯罪者のための矯正プログラムとして利用され、裁判所が犯罪者を収監する代わりにアンガーマネジメントを受講するよう命令するということがよくありました。現在ではさまざまな分野で、とくに企業におけるパワハラ防止教育などとしても利用されています。

アンガーマネジメントによる怒りについての考え方は、さすがにセネカのころより格段に進歩しています。
怒りの感情は、動物が縄張りの侵入者を威嚇して戦闘準備状態にあるときの感情と同じで、生体の防御反応だとされます。
ここは重要なところです。怒りというのは攻撃反応のように見えますが、実は防御反応なのです。

縄張りをもつ動物は、むだな争いを避けるために互いの縄張りを尊重して暮らしていますが、それでもときどきほかの縄張りに侵入することがあります。侵入するほうはおどおどした様子で警戒しながら侵入していきますが、縄張り主は侵入者を発見すると、猛然と襲いかかります。この襲いかかるもとにあるのが怒りの感情です。ですから、怒りは防御反応だということになります。
この戦いは、縄張り主が弱い場合でも決まって縄張り主が勝利します。そして、縄張り主が侵入者を追いかけて侵入者の縄張りに入り込むと、今度は攻守ところを替えて、追いかけてきたほうが撃退されることになります。動物の世界の戦いはきわめて限定的です。

コンラート・ローレンツは著書『攻撃』において、動物が縄張りを守る行動を「攻撃」と見なして論じました。そして、人間の「攻撃本能」はなくすことができないと主張したので、混乱が生じました。このため政治学の世界では人間を動物と見なして論じるということがまったくなされていません。


ともかく、怒りというのは生存のために必要な感情です。ただ、人間の場合は必要以上に怒る傾向があるので、そこにアンガーマネジメントの出番があります。
ですから、アンガーマネジメントはすべての怒りをなくそうというものではありません。
日本アンガーマネジメント協会のホームページにも「怒らないことを目的とするのではなく、怒る必要のあることは上手に怒り、怒る必要のないことは怒らなくて済むようになることを目標としています」と書かれています。

では、必要な怒りと必要でない怒りをどうやって区別するのかということになりますが、「区別するポイントは、後悔するかどうか」だということです。
怒って後悔するときは怒る必要がなかったということですし、怒って後悔しないときや、怒らないで後悔するときは怒る必要があったということです。
しかし、「後悔」という個人的な感情がどこまで正しいのかという疑問があります。


この疑問はひとまず置いておいて、必要でない怒りに対処する方法はアンガーマネジメントならではのもので、ここにアンガーマネジメントのよさがあるといえます。

怒りが生じた最初のイラッとした瞬間に対処することで、怒りの増大を防げるといいます。
どう対処するかというと、「6秒」を意識するのがいいといいます。
怒りの感情はイラッとしてから6秒間がピークで、そこからだんだん下がっていくそうです。ですから、6秒間をなんとかやりすごすと、怒りに任せた反射的な行動が防げるというわけです。

そのために怒りの対象から意識をそらせるというやり方をします。たとえば「魔法の呪文」といって、気持ちが落ち着く言葉を自分で自分にかけます。「たいしたことない」「大丈夫、大丈夫」「今、なにができるだろう」といった言葉をあらかじめ用意しておいて、怒りが生じたときに自分につぶやいて、6秒間をやりすごすのです。

それから、怒りの尺度を10段階で評価するというやり方もあります。これもあらかじめ10段階を決めておきます。たとえば「怒り爆発」「爆発寸前」……「イライラする」「イラッとする」といった具合です。そして、怒ったときに、今の怒りは10段階のどの段階に当たるかを考えます。これが時間稼ぎになりますし、自分の怒りを正しく相手に伝える方法を考えることもできます。

具体的な方法が示されているので、怒りをコントロールする上では有効な感じがします。


それから、怒りの性質に関して重要な指摘があります。
それは、「怒りは、力のある上の立場から、力の弱い下の立場の人へと流れる」ということです。
怒りは上司から部下、教師から生徒、親から子どもへと流れます。つまり既存の社会秩序の枠内で怒りは存在しています。
昔は親や教師が子どもに体罰をするのは当たり前でした。
上司が若い社員を激しく叱責して、若い社員が自殺するということは、昔もあったはずですが、まったく問題になりませんでした。
しかし、今は上司の激しい叱責はパワハラとされ、叱られた社員が自殺でもすると会社の責任が問われます。
アンガーマネジメントが求められる背景には、社会秩序の根底が変化しているということがあります。


結局、必要な怒りと必要でない怒りの区別ははっきりしません。
ただ、重要な指摘もあります。
それは「人は『べき』が裏切られたときに怒る」ということです。

私たちは「人間はこうあるべきだ」「子どもはこうあるべきだ」「社員はこうあるべきだ」という考えを持っていて、相手がその考えを裏切る行動をしたときに怒るのです。
そして、こうした「べき」は人それぞれで違います。
たとえば「子どもは親の言うことを聞くべきだ」という考えを持っている親は、もちろん子どもは親が理不尽なことを言うと聞きませんから、しょっちゅう子どもを叱ることになります(「叱る」も「怒る」も同じようなものです)。
「妻は家事をきちんとするべきだ」という考えを持っている夫は、年中妻を怒ることになるでしょう。
また、「時間は守るべき」という考えは誰もが持っていますが、相手が待ち合わせに5分遅れても怒る人もいれば、15分遅れても許す人もいます。
ですから、アンガーマネジメントは「べき」の基準を緩めて、許容範囲を広くするべきだと教えます。そうすれば怒ることも少なくなるはずです。

これはもっともなことですが、では、「べき」の適正な基準はどんなものかというと、誰にもわかりません。
ですから、各自が自分勝手な「べき」を信じ込んでいるわけです。

「べき」の適正な基準を知るには、「べき」がどのようにしてできたかを知らねばなりません。
「べき」あるいは「善悪」あるいは「道徳」は、動物の世界にはなく、人間だけが有しています。
もちろん神さまから与えられたものではなく、人間がつくりだしたものです。

怒りが力のある上の立場から力のない下の立場へ流れるのと同じで、道徳は力のある上の立場から力のない下の立場へ流れます。
つまり道徳は上の立場の者がつくり、下の立場の者に説くものです。
ですから、道徳は上の立場の者が利益を得るようにつくられています。
「子どもは親の言うことを聞くべき」「女は男を立てるべき」「社員は不平を言わずに働くべき」という道徳を見れば明らかです。
「汝盗むなかれ」という道徳は、富裕層が貧困層に説くものです。
「汝殺すなかれ」という道徳は、暴虐な支配をする支配層が被支配層に説くものです(動物は同種の間で殺し合うことはないので、こうした道徳は必要ありません)。

下の立場の者が道徳に従わないと上の立場の者が怒ります。
「正義の怒り」という慣用句があることで、道徳と怒りが一体のものであることがわかります。
セネカも「善き人ならば、悪人に腹を立てないことはできない」という言葉を引用しています。

必要な怒りと必要でない怒りを区別したければ、「べき」や「善悪」や「道徳」を頭の中から消去すればいいのです。
そうすれば動物の世界と同じく防御反応としての怒りしかなくなります。それが必要な怒りです。
「正義の怒り」を名目にして悪をなすこともなくなるでしょう。


アンガーマネジメントは怒りを防御反応ととらえたところが正しく、「べき」と怒りが結びついていることを明らかにしたのも評価できます。
ただ、「べき」すなわち道徳を捨て切っていないところが中途半端です。

進化倫理学の観点から見ると、怒りと道徳の関係がはっきりします。

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自民党と統一教会は、昔は反共主義でつながっていましたが、今は家族観でつながっています。

では、自民党の家族観はどういうものかというと、少なくとも自民党保守派においては、要するに家父長制を理想とする家族観です。
家父長制というのは、家長が権力を持って家族を統率する制度とされますが、家庭内に身分制があると考えるとわかりやすいでしょう。夫が妻より上で、男の子が女の子より上で、同じ男の子でも年長者が上というように、まるで軍隊のように上下関係が定められた家族です。
ですから、父親は家の中でふんぞり返って、妻には一方的に命令し、子どもにはげんこつを食らわして、わがままのし放題でした。
実際、昔は今よりもDVが横行していました。

自民党の男たちは今でもそういう家父長制がいいと思っているのですが、「家父長制」という言葉は使わずに、「昔は家族の深い絆があった」というふうに言います。
しかし、だんだんと説得力がなくなってきました。

そこで登場したのが、科学的な装いで家父長制を正当化しようという「親学(おやがく)」です。


親学を創始したのは高橋史朗麗澤大学客員教授です。2001年に「親学会」を発足させました。
高橋氏は、オックスフォード大学のジェフェリー・トーマス学長が「学校でも大学でも教えていないのは、親になる方法だ」と発言したことに触発されたと言っています。
もっとも私は、トマス・ゴードン著『親業』という本に触発されたのではないかと疑っています。
この本が日本で1980年に出版されたときは、「親業(おやぎょう)」という言葉にひじょうなインパクトがありました。
「親業」というのは、子育てに悩む親のためのトレーニング法で、傾聴と受容というカウンセリングの技法を学ぶことで子どもとよいコミュニケーションをとれるようにしようというものです。
親業は親学とは真逆のものなので、混同してはいけません。

2006年には親学推進協会が設立され、2009年には一般財団法人として登記されます。講演会や研修会を通しての親学の普及、親学アドバイザーという資格の認定などの活動を行ってきました。

ところが、改めて親学推進協会のホームページを見ると、協会の解散が告知されていました。今年解散したということです。
告知には「当協会は、一般財団法人に関する法律に定めるところの財団法人維持の為の諸条件を満たすことが叶わず、解散手続きに入らざるを得なくなりました。これは理事会の力不足が招いたことと深く反省しております」とあります。
調べると、「2期連続で純資産の額が300万円未満となった一般財団法人は解散」という法的規定があるので、それが解散事由のようです。
講演活動などの収入のほかに協賛企業からの寄付などもあるはずなので、不可解なことではあります。
ただ、今後のことについては『一般財団法人としては解散を致しますが、新たにNPO法人を設立し、「親学」を推進する予定です』とあります。


親学関連本はいろいろありますが、おそらくもっとも重要なのは2004年出版の『親学のすすめ』(親学会編・高橋史朗監修)と思われるので、この本に基づいて親学について論じたいと思います。

この本は7人の筆者が分担執筆していますが、「まえがき」と最後の第8章、第9章は高橋氏が執筆していて、高橋氏がまとめ役であることがわかります。
高橋氏以外の執筆者の書くことは、子どもの発達の科学的研究についてや、子育てについてのアドバイスなどで、そこにはそんなにおかしなことは書かれていませんし、むしろ共感できることが多々ありました。
おそらくほかの親学関連本にもそうした評価すべき部分はあると思われます。
しかし、親学は高橋氏が中心になって推進する政治運動、社会運動なので、その中にいるとその色がついて見られるでしょう。まともな専門家、学者は親学に関わることを考え直したほうがいいと思われます。

では、高橋氏の思想はどういうものかというと、第8章の冒頭はこうなっています。
現在、「家庭教育はいかにあるべきか」という社会的なコンセンサスが失われており、家庭での教育力が著しく低下しています。
私は家庭教育の話をするときに、「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」と必ず話すのですが、三十代以下の学校の先生も親も、その言葉自体を知らないのが現状です。
日本人には日本人独特の「文化の遺伝子」があり、それが綿々と受け継がれているはずです。その「文化の遺伝子」が現在はうまく継承されておらず、スウィッチ・オフの状態になっていることが子供たちの心の荒廃、アイデンティティーの危機の根因であり、家庭の教育力の低下、家族の機能不全の要因になっているのではないかと思っています。

現在は家庭の教育力が低下している――というのはよく言われることですが、根拠がなく、「昔はよかった」と同じです。
それから、日本人独特の文化について述べていますが、幼児の発達に国や民族の違いはありません。正しい子育ては万国共通のはずです。現にアメリカの『スポック博士の育児書』は日本でもベストセラーになりました。
高橋氏は保守思想の持ち主なので、日本独自の文化にこだわって、むりやり子育てにも持ち込もうとしているのです。

ともかく、高橋氏は自分の思想の正当性を主張したいがために、平気で論理をねじ曲げます。

「桃から生まれた桃子」(神奈川県・市町村女性行政連絡会発行)という話があるそうです。桃太郎の話を男女逆転させて、おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へ柴刈りに、という話です。もとの話を知っている子どもたちにこの話をして、感想を求めたところ、「おじいさんはずるい」と書いた子がいたそうです。その子どもになぜずるいと思うのかと聞くと、柴刈りは楽な仕事で、おじいさんはおばあさんに今までたいへんな洗濯ばかりやらせていたからだと答えたそうです。
高橋氏はこのことから「洗濯はいやな仕事で、柴刈りは楽な仕事だと思わせてしまう教育が存在するということが分かります」と書いています。
こうしたジェンダーフリーの教育はけしからんというのが高橋氏の主張です。

しかし、この部分をよく読むと、「おじいさんはずるい」と書いた子は一人だけのようです。
たった一人、ちょっと変わった感想を書いた子がいただけで、それを根拠にジェンダーフリー教育をすべて否定するという論法になっています。

高橋氏は性教育についても同じ論法を使用します。
例えば国立市の小学校一年生の三クラスでは、児童に両性具有の性器について教えましたが、子供は混乱しました。まず基礎を教えて、例外を教えるのが順序のはずですが、一年生がいきなり両性具有と聞いたら、なんのことであるのか分からないはずです。
(中略)いきなり特殊な例を教えるのはなぜかというと、男でもない女でもない人間がいるということを刷り込もうというねらいがあるわけです。男でもない女でもない存在を知らせることによって、男と女という固定的な役割分担意識を解消していこうというねらいです。急進的性教育とジェンダーフリー教育の目的はこの点で一致しているのです。
両性具有の性器について教えたり、性交人形で性交指導をすることが、どのような影響を与えるかを十分に検討することなく、いわば見切り発車してしまっているのです。子供に悪影響が出た場合にいったい誰が責任を取るつもりなのでしょうか。
実際、いくつかの県で小学校六年生の女の子が「性交ごっこ」で妊娠するという事件も起きています。四年生で妊娠したという例もあるのです。性交教育の授業が実践されて、妊娠という事態が起きてしまったのです。

児童に両性具有の性器について教えたといいますが、これも「国立市の小学校一年生の三クラス」だけのことです。
小学生が妊娠したのも数例のようです。それらの例と性教育との因果関係がわかっているのでしょうか。おそらくわかっていないはずです。今は性の情報があふれているので、そちらとの因果関係が否定できません。

高橋氏は自分の主張を押し通すために論理をねじ曲げますが、それだけではありません。「脳科学」を利用します。
高橋氏は「私の問題意識のポイントの一つは、『脳科学』から『親学』をどのようにとらえていくかということです」と書いています。
ところが、脳科学界の定説や最近の趨勢から親学を論じるのではなくて、脳科学者の説の都合のいい部分だけを利用します。

たとえばこんな具合です。

澤口俊之教授は、五百万年のヒト進化の歴史から「父親の役割」を研究すると、家庭の安定化を図り、子供に社会的規範を植え付けることであったと述べています。脳科学によって明らかにされた父親と母親の役割を否定するジェンダーフリーの主張はまったく根拠のないものです。

澤口俊之教授は「ホンマでっか!?TV」によく出演している脳科学者ですが、最近は教育についての本をよく書いていて、『発達障害を予防する子どもの育て方』という本は「発達障害は予防できるのか」と物議をかもしました。
この短い文章からはどうやって「父親の役割」を研究したのかわかりませんが、いずれにしても、一人の脳科学者の説を科学的真実と見なすという論法を使っています。

ほかにも「脳トレ」シリーズで有名な川島隆太教授や、『ゲーム脳の恐怖』という著書のある森昭雄教授の説などが引用されますが、自説の箔づけに使っているという感じです。

しかも、微妙に意味を変えています。とくに「母親」という言葉には注意が必要です。

「脳科学と教育研究」ワーキンググループの小泉英明氏((株)日立製作所)は、平成十四年七月十一日に開催された自民党文部科学専任部会において、「フランスとの共同研究では、胎児が母親のおなかの中で、言葉の学習を始めたり、生後五日以内の新生児も言葉を認識することが分かっている。教育は幼いころから始めることが重要である」と指摘しています。
   ※
ユニセフ(国連児童基金)の二〇〇一年『世界子供白書』には、次のように明記されています。
(中略)
母親が手のひらで隠していた顔を突然のぞかせたとき、強い期待をもって見つめていた赤ちゃんが喜びの声をあげるのを見たことがあるだろうか。この簡単に見える動作が繰り返されるとき、発達中の子どもの脳のなかの数千の細胞が数秒のうちにそれに反応して、大いに劇的に何かが起こる。脳細胞の一部が「興奮」し、細胞同士をつなぐ接合部が強化され、新たな接合が生まれる。
   ※
脳科学の専門家で、日本大学の森昭雄教授の『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版)によれば、赤ちゃんの脳発達は母親の接し方によって非常に大きく左右され、三歳ごろまでにニューロン(神経細胞)の樹の枝のように伸びている樹状突起がさまざまなニューロンと連絡するようになり、脳内の神経細胞と神経細胞の接点(シナプス)がこの時期の母親からの刺激によって次から次へと形成されて、脳全体が急激に増殖し、八歳ごろまでに九〇%の成長を遂げるといいます。
胎児と母親の関係は変えるわけにはいきませんが、「いないいないばあ」をするのは母親でも父親でもいいはずですし、赤ちゃんの脳発達も母親と接するのでなければならないということはないはずです。

ところが、高橋氏はこれらのことから「つまり、脳科学の最新の研究成果から『三歳児神話』は決して根拠のない『神話』ではなく、母親による家庭保育の重要性は多くの科学的研究によって証明されているのです」と書きます。
「母親による家庭保育の重要性」と書くと、「父親による家庭保育」は重要でないということになるでしょう。
高橋氏の主張では、父親が母親に代わって子どもの世話をすると、脳の発達が遅れることになりそうです。

家父長制のもとでは、父親と母親の役割や立場は明確に区別されていたので、父性と母性の違いも明確でした。しかし、男女平等になり、父親の育児参加が行われるようになると、父性と母性の区別は無意味になりました。
しかし、高橋氏は家父長制の立場なので、どうしても父性と母性を区別しなければならず、むりやり脳科学に根拠を求めたのです。

家父長制では親と子も上下関係になります。子どもは一方的に親に従うだけです。
そうした考えも高橋氏は書いています。

私は家庭教育、例えば三歳児まではやはり親のしつけが絶対に必要だと思います。つまりそれは他律です。子供の興味関心に従ってしつけをするわけではありません。とりわけ三歳ぐらいまではいわば強制です。この他律や強制ということから家庭教育がスタートして、だんだん自律に導いていくのが教育です。

馬脚を現すとはこのことでしょうか。この考え方はそのまま幼児虐待につながります。
親学は子どもをたいせつにするものでもなんでもなく、おとなが勝手な主張を並べ立てるだけのものだったのです。
親学の運動に参加している人の多くは子どものためという気持ちがあるでしょうが、親学の内実はそうではないということを知らねばなりません。

親学といえば、「発達障害は予防できる」という主張で炎上したことがあります。脳科学を都合よく利用してきた報いです。

一方で、高橋氏は宗教も利用しています。
「神さまが男と女を創ったということは、『男』であること、『女』であることを含み込んだ個性に意味があるからなのです」などと書いています。
また、人間は膨大な数の遺伝子の調和によって生きており、その背後には人知を超えた「サムシング・グレート」があるとも言っています。「サムシング・グレート」というのは、アメリカの保守派が神の代わりに持ち出す「インテリジェント・デザイン」みたいなものです。

自民党の保守派、アメリカの保守派、統一教会、親学――みな家父長制、宗教、非科学でつながっています。

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米中間選挙の開票結果は、上院で民主党が過半数確保となりました。
しかし、トランプ氏は共和党候補が僅差で敗れたアリゾナ州について「不正があり、選挙をやり直すべきだ」とSNSに投稿し、共和党全国委員会もアリゾナ州でもっとも有権者が多いマリコパ郡で「選挙に深刻な欠陥が露呈した」とする声明を発表しました。
今後、このような不正選挙の訴えがどうなっていくのかよくわかりませんが、2年前の大統領選挙でもトランプ氏は「選挙は盗まれた」として、ほんとうの大統領は自分だと主張していますし、共和党支持者の3分の2が真の当選者はトランプ氏だと信じているそうです。

民主主義の危機は意外なところからやってきます。
選挙制度が機能しないと民主主義は成り立ちません。

独裁国や民主主義の未熟な国ではよく不正選挙が行われますが、こういう場合は、たとえば国連の選挙監視団を派遣するというような対策があります。
ところが、今アメリカで不正選挙が行われているわけではありません。小さな不正はあるかもしれませんが、大統領選の結果をくつがえすような大規模な不正はありえません。
つまり不正選挙があるのではなく、「不正選挙がある」と信じる妄想集団がいるのです。
こうした妄想に確実な対策はありません。ファクトチェックもほとんど無意味です。

「陰謀論」というのも、実態は集団的妄想です。
Qアノンが広めたとされる「ディープステート」という陰謀論は、悪魔崇拝主義者と幼児性欲者の秘密組織が陰で国家を支配しているというもので、トランプ氏はディープステートと戦う英雄だとされます。
アメリカでは悪魔崇拝主義者が秘密の儀式などをしているという事実はありますし、幼児性欲者の秘密組織が過去に摘発されたこともありますが、そうした連中が国家を支配しているというのは妄想というしかありません。

文明が進めば人間は理性的になるものと信じられていましたが、実際はまったく違って、もっとも文明の発達したアメリカにおいて妄想集団が大量発生しているわけです。

なぜこうなったかというと、インターネットの普及がひとつの原因です。
集団で討議して意思決定をする場合、もともとあった偏りがさらに強くなる傾向があるとされ、これを「集団極性化(集団分極化)」といいます。
たとえば軍拡賛成派の人が集まって議論すると、それまで平均10%の軍拡を求めていた人たちが議論のあとは平均20%の軍拡を求めるようになるといったことです。
インターネット空間では、保守とリベラルが分離し、それぞれが集まって議論しているので、保守はますます保守的になり、リベラルはますますリベラルになるわけです。
そうしてネットの議論がどんどん過激化し、その中で陰謀論が広まったと考えられます。

それから、なんといってもトランプ氏のキャラクターの特異性があります。
トランプ氏は体が大きく、パワフルで、つねに自信満々で、いかにも「強いリーダー」という雰囲気を持っています。
大統領に就任して権限を手にすると実際に「強いリーダー」になりました。
強い人間に従いたくなるのは人間の本能です。
トランプ氏が「選挙は盗まれた」と言えば、信じる人間が出てきても不思議ではありません。


強いリーダーは、最初は民主的に選ばれたとしても、長期政権になると次第に独裁化します。プーチン大統領や習近平国家主席を見てもわかりますし、ヒトラーもそうでした。

もしトランプ氏が大統領に再選されていたら、独裁化していたかもしれません。
アメリカ大統領はたいてい再選されるとしたものですが、トランプ氏が再選されなかったのは、ひとえにコロナ対策を失敗したせいです。
「強いリーダー」というのは、人間の目にそう映るだけで、ウイルスのような自然界には無力でした。


トランプ氏の命運が今後どうなるかはわかりませんが、集団極性化(分断)が進んだアメリカでは、第二、第三のトランプ氏が出てきて、独裁国家になっても不思議ではありません。
日本はそういう事態を警戒しなければなりませんが、岸田文雄首相はプノンペンにおける11月13日の日米首脳会談でも「日米同盟のいっそうの強化をはかる」と言うばかりです。



安倍晋三元首相はミニ・トランプみたいなものでした。第二次政権を9年近くやって、かなり独裁化しました。
安倍氏が首相を辞任したのも、表向きは健康理由でしたが、実態はコロナ対策の失敗でした(後継の菅義偉首相の辞任理由も同じです)。
考えてみれば、コロナウイルスは偉大です。日米で独裁政権の芽をつんだのですから。

安倍氏は辞任後も存在感を示していました。これもトランプ氏と同じです。
しかし、山上徹也容疑者の銃弾がすべてを断ちました。
その後の政治の動きを見ていると、安倍氏の存在がいかに大きかったかがわかります。

菅首相も「強いリーダー」でした。日本学術会議任命拒否問題でかたくなに説明を拒否したところにそれが表れています。


岸田首相は「聞く力」をモットーにしているだけあって、安倍首相や菅首相とはまったく違います。
岸田内閣の支持率が高く始まったのも、多くの国民が安倍首相や菅首相の強権的な政治手法にうんざりしていたからでしょう。

ところが、内閣支持率はどんどん低下しています。
その理由は明白で、方針がころころ変わるからです。

山際大志郎経済再生担当大臣は、統一教会とのずぶずぶの関係が次々と明るみになり、「記憶にない」などとあやしい弁明を続けて、国民の批判が高まっていました。岸田首相はずっと「山際氏は説明責任を果たすべき」と擁護していましたが、突然更迭を決定しました。
「法務大臣は死刑のハンコを押す地味な仕事」などの発言で批判された葉梨康弘法務大臣についても、岸田首相は最初は擁護していましたが、突然更迭しました。
宗教法人法に基づく解散命令請求の要件についても、岸田首相は最初は刑法違反などが該当すると答弁していましたが、野党などから批判されると一転して、民法の不法行為も含まれると答弁を変更しました。
統一教会問題についても、最初は自民党は組織的な関係はないとして調査すらしない方針でした。それが不十分ながらも調査することになり、宗教法人法に基づく質問権を行使することになり、被害者救済法案の成立を目指すことになりました。

絵に描いたような朝令暮改ぶりです。
岸田首相がかたくなな姿勢を貫いたのは、国葬問題ぐらいです。

途中で方針が変わるのはよいことではありません。
しかし、間違った方針をかたくなに変えないよりははるかにましです。
もちろん最初から正しい方針を決定していればいいわけですが、いつもそうとはいきません。
今のところ、岸田首相の「修正する力」はたいしたものです。

しかし、かたくなに方針を変えないと「強いリーダー」と見なされ、世論に合わせて方針を変えると「弱いリーダー」と見なされます。
「弱いリーダー」は、野党はもちろん国民からも攻撃されます。
しかし、弱くても最終的に正しい方針にたどりつくなら、かたくなに間違った方針を貫くよりもよいのは明らかです。


国民は「強いリーダー」が正しく国を導いてくれることを期待しますが、そういうことはめったにありません。
「強いリーダー」は利己的にふるまい、最終的に独裁者になり、国民を不幸にします。それは歴史を見れば明らかです。

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乃木希典像と東郷平八郎像

明治時代になって学校制度が始まると、それまで寺子屋で伸び伸びと学習していた子どもたちは、規律ある学校に通わされるようになりました。
規律が重視されたのは兵士と産業労働者を育成するためなのに、今も同じ規律重視の学校教育が行われているのはまったく時代遅れだということを、前回の「“ゆたぼんアンチ”に伝えたいこと」という記事に書きました。
教育が時代遅れだと、時代遅れの人間が量産され、国全体が時代遅れになってしまいます。

明治政府は学校制度を始めただけでなく、家庭教育の改革も行いました。
明治政府が理想とした家庭教育はどんなものでしょうか。
それを知るには、国定教科書に載った乃木希典大将の子ども時代の話が参考になります。
乃木大将の話は修身の教科書と国語の教科書に載り、当時の日本人はみな知っていました。
この話はネット上には出ていないので、ここに全文を書き写します。

乃木大将の幼年時代
乃木大将は、幼少の時体が弱く、其の上臆病であつた。幼名を無人(なきと)といつたが、寒いと言つては泣き、暑いと言つては泣き、朝晩よく泣いたので、近所の人は、大将のことを、無人ではない泣人(なきと)だと言つたといふことである。
大将の父は、長府藩主に仕へて、江戸で若君のお守役をしていたが、自分の子供がかう弱虫の泣虫では、第一藩主に対しても申しわけがない、どうかして子供の体を丈夫にし、気を強くしなければならないと思つた。
そこで、大将が四五歳の時から、父はうす暗い中に大将を起して、往復四粁もある高輪の泉岳寺へよく連れて行つた。泉岳寺には、名高い四十七士の墓がある。父は、途々義士のことを大将に話して聞かせて、其の墓に参詣したのである。
或年の冬、大将が思わず「寒い。」と言つた。父は、
「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」
と言つて、大将を井戸端へ連れて行き、着物をぬがせて、頭から冷水を浴びせかけた。大将は、これから後一生の間、「寒い。」とも「暑い。」とも言わなかつたといふことである。
母もまたえらい人であつた。大将が何かたべ物の中にきらひな物があると見れば、三度々々の食事に、必ず其のきらひな物ばかり出して、大将がなれるまで、うち中の者がそればかりたべるやうにした。其のため大将には、全くたべ物に好ききらひがないやうになつた。
大将が十歳の年、一家は郷里へ帰ることになつた。其の時大将は、江戸から大阪まで、馬やかごに乘らず、両親と共に歩いて行つた。当時、体がもうこれだけ丈夫になつて居たのである。
郷里の家は、六畳・三畳の二間と、せまい土間があるだけの、小さい粗末な家であつた。けれども、刀・槍・長刀など、武士の魂と呼ばれる物は、何時もきらきら光つて居た。
此の父母の下に、此の家にそだつた乃木大将が、一生を忠誠質素で押し通して、武人の手本と仰がれるやうになつたのは、まことにいわれのあることである。(『日本教科書体系 近代編 海後宗臣等編 第8巻 国語』)

乃木少年の嫌いな食べ物のことが出てきます。教科書には具体的には書かれていませんが、これがニンジンであることは全国民が知っていました。
ですから、子どもがニンジンを嫌いだというと、いや、ニンジンに限らずなにかを嫌いだというと、親はその嫌いなものをむりやり食べさせるということが全国の家庭で行われていたのです。
これは私の若いころも似たようなものでしたし、今でも子どもの好き嫌いは矯正しなければならないと考えている親がいます。

人間はなにかを食べたあとで体の調子が悪くなると、その食べ物を生理的に受けつけなくなることがあります。これは生体の防御反応なので、矯正することはできません。
食べ物を嫌いになる理由はいろいろありますが、基本的に放置しておくしかなく、たいていは何年かすれば食べられるようになります。

子どもに冬に冷水を浴びせかけるというのもひどい話です。
子どもにむりやり嫌いなニンジンを食べさせることも冷水を浴びせることも、今では幼児虐待と見なされるでしょう。
昔は国家が幼児虐待を奨励していたわけです。

こうした教育(虐待)の結果、乃木少年は親に向かって「暑い」も「寒い」も、「好き」も「嫌い」も言わなくなりました。
とてもまともな親子関係とは思えませんが、国定教科書はこれをよしとしていたのです。


普通、父親が子どもにきびしいと、母親がやさしいとしたものですが、乃木家では両親ともにきびしかったので、乃木少年は家を逃げ出すことになります。

乃木は16歳のとき、虚弱な体では武士に向かないと思い、学問で身を立てようと決心し、父親に許可を願い出ますが、拒否されます。そこで無断で家を出て、親戚の玉木文之進の家に世話になろうとします。玉木文之進は吉田松陰の叔父であり、松下村塾の創始者でもあります。
しかし、文之進からは、武士の家に生まれて武芸を好まないのであれば百姓をせよと一喝されてしまいます。乃木は失意のうちに文之進の家を出ますが、夫人が追いかけてきて、もう夜だから一泊して明日帰りなさいと言われたので、泊まることにします。その夜、夫人から、あなたが農業に従事するなら自分は夜に日本外史などを講義してあげましょうと言われ、玉木家で百姓をする決心をします。
農業と林業の仕事は虚弱な乃木にはきびしいものでしたが、次第に慣れてきます。

次は乃木が後年、学習院生徒に対して当時の様子を語った言葉です。

農耕の暇には畑中にて玉木翁より学問上の話も聞き、夜に入れば、夫人が糸を紡ぐ傍らにて日本外史などを読み習ひたり。此の如くすること一年に及びしに、余が体力は著しく発達し、全く前日の面影を一変するに至りぬ。余は是に於いて玉木翁の教育の効果の空しからざるを悟り、漸く武士としての修養を積まんと志すに至れり。

わずか1年で乃木は虚弱な体から頑健な体になったというのです。
乃木家にいたときも両親からきびしく体を鍛えられていましたが、それはまったく効果がありませんでした。
玉木家ではなにが違ったかというと、農作業をしていたこともありますが、玉木夫妻の愛情に恵まれたからではないでしょうか(あと、食事がまともなものになったということもありそうです)。
つまり乃木家で虐待されていた乃木少年は、玉木夫妻のもとで“育て直し”をされたのです。

このへんの事情を、大濱徹也著『乃木希典』はこのように解説しています。

少年無人にとり、このような養育は好ましいものではなかった。家庭にあって、父親のみならず母親までが、父親と同じように、厳格すぎる態度で無人にあたったことは、少年の心にある母性的な愛への憧憬がみたされないまま、少年に、常に愛の渇きを覚えさせた。
   ※
玉木家での生活は、まず農業をもととした身体づくりではあったが、辰子夫人の温かい庇護下、実家の父母のもとでは見出せない慰安とおちつきを無人にもたらした。彼は玉木夫妻により、世に立ちうる人間として心身ともにととのえられたのである。

理想の家庭教育がもしあるとすれば、玉木家のほうでしょう。
しかし、国定教科書は乃木家のほうだとしました。
戦争とは非人間的な行為ですから、軍国日本にとっては、愛情ある家庭より、虐待のある家庭のほうが好都合だったからです。

この軍国日本の時代遅れの家庭教育観は、いまだ一掃されていないのではないでしょうか。


乃木は、玉木家で愛情ある家庭に触れたとはいえ、16歳まで虐待の家庭で育ち、その経験が人格の中心を形成しました。
乃木は世の中から誠実、清廉、忠誠、質素、勇敢、無私な人間であると評されました。まるで修身の教科書から抜け出てきたような人間です。
しかし、司馬遼太郎は『殉死』の中で繰り返し乃木を「スタイリスト」と評しました。

乃木の部下として親しく交わり、のちに戦記文学で名をなした作家の桜井忠温は、乃木について次のように記しています。

「人間としての乃木さんは淋しい暗いものであった」
「暗いものが煙のやうに乃木さんの一生を蔽ふてゐた」



<参考文献>
『日本教科書体系 近代編 海後宗臣等編 第8巻 国語』
小田襄著『史蹟と人物:国定教科書準拠』
大濱徹也著『乃木希典』
桑原嶽・菅原一彪編『乃木希典の世界』
福田和也著『乃木希典』
司馬遼太郎『殉死』

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不登校の“少年革命家”ゆたぼんさんがなにかと話題になって、この10月だけでYahoo!ニュース上でゆたぼんさんに関する記事が80本も配信されたということです。

ゆたぼんアンチの人がいっぱいいることはヤフコメを見てもわかります。それに対してゆたぼんさんとゆたぼんのパパである中村幸也氏が激しい言葉で反論するので、つねに炎上状態になります。

私はとくにゆたぼんさんの肩を持つわけではありませんが、ゆたぼんアンチの人にはあきれます。13歳の少年を攻撃しても生産的なことはなにもありません。

ゆたぼんアンチの人の心理を推測すると「自分はがまんして義務教育を受けたのに、ゆたぼんは学校に行かずに好き勝手なことをやっているのはけしからん」というところでしょう。

親や教師から体罰を受けて育った人がおとなになると、子どもに体罰をするということがよくあります。
ゆたぼんアンチもそれと同じで、自分がいやいや学校に通わされたのだから、ほかの子どももむりやり学校に通わせたいと思うのでしょう。
しかし、こういう発想では不幸が再生産されるだけです。
「自分が苦労したから次の世代も同じ苦労をするべきだ」ではなく、「自分が苦労したから次の世代には苦労させたくない」と思う人が世の中を進歩させます。

日本人のほとんどはいやいや学校に通ってきました(だから、ゆたぼんアンチが大量に発生します)。
ですから、するべきことは学校の改革です。


学校のだめなところは、授業がよくわからなくて退屈だ、授業の内容をがんばって理解したところで、それが人生にどれだけ役に立つのかよくわからない、校則や生活指導などがうっとうしい、同級生にいじめられるなど、多々ありますが、子どもを学校嫌いにさせるもっと根本的な問題があります。
それは、小学1年生で1コマ45分の授業中ずっと椅子に同じ姿勢で座わっていなければならず、それが1日に5コマもあるということです。
この年齢の子どもが同じ姿勢を続けるのは苦痛以外のなにものでもなく、学校に行くのは毎日が拷問のようなものです。
おとなはそのころのことをほとんど忘れていますが(苦痛なことはとくに忘れやすい)、授業中に一人の子が先生の許可を得てトイレに行くと、われもわれもとトイレに行く子が出てくることがよくあったのは覚えているでしょう。トイレに行きたいわけではなく、じっとしているのが苦痛で、少しでも体を動かしたいからです。

保育園や幼稚園では、子どもは床の上で立ったり座ったり寝転んだりしていました。それが子どもの自然な姿です。
小学校に入学したとたんに椅子に座った姿勢を強要されるのは自然に反します。子どもの発達にも悪影響があるはずです。生理学者や心理学者が警告を発しないのは不思議です(おとなにとっても長時間椅子に座っていることは健康に悪影響があると最近指摘されています)。

これは「一斉授業」というやり方です。一斉授業が行われているのは、教える側にとって効率がいいからで、教えられる側のことはまったく考慮されていません。


日本人は一斉授業が当たり前と思っているので、それ以外のやり方がわからないかもしれません。
代替策の見本は意外と身近なところにあります。それは寺子屋です。
寺子屋は自然発生して、幕末には全国で1万5000以上もあったといわれます。

東京都立図書館ホームページの「『寺子屋』ってなに?」というサイトから、寺子屋の様子を描いた絵を紹介します。
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子どもはみな好き勝手な格好をしていて、遊んでいるとしか見えない子もいます。
寺子屋の絵はほかにもいっぱいありますが、みな同じようなものです。

同じサイトから寺子屋を解説した文章も引用します。

明治初年の事例になりますが、東京府が行った調査によると寺子屋の師匠(ししょう)の大半は江戸の町民でした。多くは男性でしたが、都市部、特に江戸においては女性の師匠もいました。師匠たちは、寺子屋に学びにやってくる子供たち一人ひとりの親の職業や本人の希望を考え、それぞれにあったカリキュラムを作る個別教育を行っていました。

個別教育で、しかもカリキュラムも個人に合わせて作成していたのです。
これは理想の教育ではないでしょうか。

もっとも、寺子屋は「読み書き算盤」という初歩的なことを教えるだけなので、現代の学校の参考にはならないと思われるかもしれません。
そこで外国を見てみます。

ユニセフは2020年に「先進国における子どもの幸福度調査」を発表。総合ランキングは1位オランダ、2位デンマーク、3位ノルウェーで、日本は38か国中20位でした。
1位のオランダの学校教育の方法は、たとえば次のサイトで読むことができます。

尾木ママ絶賛! “日本教育の3周先を行く“オランダの「イエナプラン教育」

「“入試・テストなし” “チャイムなし” “時間割自由”」といったことが書かれています。
オランダの憲法は「学校選択の自由」と「教育方法の自由」を保障しているそうです。

オランダでは入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます。
つまり子どもはバラバラに入学してくるので、必然的に一斉授業はできず、個別教育になります。

日本では小学1年生のクラスには6歳の子と7歳の子が同居しています。この年齢で1年の違いは大きく、同じ授業を受けるのはむりがあります。
これまでは年齢が上になればこの違いは解消されていくと考えられていましたが、今では成長しても早生まれの人は不利であることがわかっています。
つまり早生まれの人は最初にクラスにおける劣等生になるので、その自己認識はのちの生き方にも影響するのです(詳しくは『早生まれは高校入試にも影響!? 東大教授が説く「不利のはね返し方」』を参照)。
早生まれの子の保護者は、わが子が不利にならないような制度改革を要求する必要があります。


明治になって学制が施行され、義務教育が始まって、寺子屋は一掃されました。
ここに劇的な教育体制の転換が起きました。
寺子屋は子どもの側が金を出して、学びたいことを学んでいたのですが、義務教育制度では、国家の側が金を出して、教えたいことを教えるようになりました。
つまり「子どものため」の教育から、「国家のため」の教育へ転換したのです。

当時の国家の目的は「富国強兵」で、そのために国民を兵士と産業労働者に育成しようとしました。
そこで重視されたのは「規律」です。規律とは規則を守ることです。
会社や軍隊などの組織に適応するには規則を守らなければならないからです。

寺子屋と学校では、教える内容に大きな違いはありませんが、規律があるかないかが決定的に違います。


戦後になっても同じ規律重視の教育が行われています。
これがまったく時代遅れです。
教師がバカみたいなブラック校則を守らせようとするのは、なにも考えずに命令に従う兵士を育成するには有効かもしれませんが、今は兵士を育成するという目的はなくなり、命令や規則に従うだけの労働者は最低賃金レベルの収入しか得られません。
高収入を得ようとしたら、(学力のほかに)創造性やチャレンジ精神が必要ですが、それらは自由の中でしか培われません。
小学校低学年を椅子に縛りつけておくのも規律を重視するからです。

ですから、今の学校教育に必要なのは「規律から自由」への転換です。


小中学生の不登校は増え続けていて、昨年度は前年から25%増えたというニュースがありました。

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「小中学生の不登校 昨年度24万人で過去最多 コロナ禍が影響か」より

これは要するに規律重視の学校教育が時代に合わなくなって、子どもが不適応になっているということでしょう。

ゆたぼんさんも、学校で勉強したくないわけではなくて、規律を求める教師とトラブルになったのが不登校のきっかけでした。

保護者も、学校や子どもに規律を求めることを考え直す必要があります。

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