村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2022年12月

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法務省が「うんこ人権ドリル」を作成しました。
これは法務省人権擁護局が子どもに大人気の「うんこ漢字ドリル」とコラボして、子どもに人権をわかりやすく教えようという企画です。

批判が殺到したためか、今は法務省のホームページからはダウンロードできなくなっているようですが、『法務省作成「うんこ人権ドリル」は入管職員に配って下さい 』というページからダウンロードできます。

どういう点が批判されているかというと、まず「人権をうんこで語るのは不謹慎」ということがあります。
私自身は、うんこを用いてもいいのではないかと思いましたが、「『うんこ自民党ドリル』とか『うんこUSAドリル』とかを役人が作るだろうか」という指摘にはうなずけました。
法務省は人権を軽視しているのかもしれません。

それから、「うんこねこがおなかをかかえて苦しそうにしているよ。こんなとき、キミならどうする?」という問題があるのですが、これがスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが名古屋入管に収容されているとき体調不良を訴え続けたにも関わらず適切な治療受けられずに死亡した事件を想起させ、法務省は反省してないのではないかという指摘もありました。

それから、決定的な批判は「これは人権ではなくて道徳だ」というものです。
うんこ先生が「みんなでなかよくしたいのう!」とか「やさしくされたら、うれしいのう!」と、うんこいぬとうんこねこに教えるのですが、これは確かに人権ではなく道徳です。
「そのじょうほうは本当かのう?」といって、「インターネットの悪口の書きこみを見ても、だれかをきずつけてしまわないように行動することが大切じゃぞい」というのも道徳です。


「うんこ人権ドリル」の基本的な考えは「『人権』という言葉を聞いたことがあるかのう? 人権とは、「幸せに生きる権利」のこと。キミにも、幸せに楽しく生きる権利があるし、お友だちにも、幸せに楽しく生きる権利があるのじゃ。相手への思いやりを持って、もう一度考えてみることじゃ」という言葉に示されています。
人権を「幸せに生きる権利」と限定するのはどうかと思いますが、子どもの理解力に合わせたということでいいとして、そのあと、お友だちの権利に配慮しようというところに持っていくのは、これもやはり道徳です。

友だち同士というのは基本的に対等ですから、人権侵害など起こりようがありません。
子どもの人権侵害は、力のある親や教師やその他のおとなによってもたらされる場合がほとんどですから、その対処法を教えるのが人権教育の肝心なところです。


もともと人権というのは、国家権力による不当な支配に対抗するために考え出されたものですから、人権と権力を切り離して考えることはできません。
権力というのは、国家権力ばかりでなく、社会のすみずみに網の目のように張り巡らされています。
男と女、多数派と少数派、健常者と障害者などさまざまな関係に権力が作用して、人権侵害や差別が生みだされます。


日本は先進国では珍しい死刑のある国です。それに、世界経済フォーラム(WEF)は7月13日、各国のジェンダー不平等状況を分析した「世界ジェンダー・ギャップ報告書」を発表し、日本はジェンダー格差については世界146か国中116位でした(ちなみに韓国99位、中国102位)。
はっきりいって日本は人権後進国です。
その原因のかなりの部分は法務省にあると思われます。なにしろ「うんこ人権ドリル」を見ると、人権と道徳を混同しています。法務省がこれでは日本全体がおかしくなって当然です。


人権と道徳は真逆のものです。
道徳はつねに強者が弱者に説くものなので、強者に有利にできています。つまり既存の社会秩序を補強するものが道徳です。
一方、人権は万人に等しくあるので、弱者にとっては有利に働き、既存の社会秩序を変革するための武器になります。

このことは、自民党の杉田水脈議員の「男女平等は絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」との発言に典型的に表れています。
「良妻賢母」や「妻は夫に従うべき」という道徳は男女平等と真逆のものです。
そういう意味では、杉田議員の発言は道徳の本質を表現しています。

「目上の人を敬うべき」とか「子どもは親の言うことを聞くべき」とかの道徳を見ても、道徳は既成の社会秩序を補強するものだということがわかります。
したがって、道徳はつねに時代遅れです。

芥川龍之介も『侏儒の言葉』において「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我はほとんど損害の外に、何の恩恵にも浴していない」と言っています。
芥川の時代の代表的な道徳といえば「教育勅語」なので、芥川はそれを念頭に言ったかもしれません。


ともかく、道徳と人権は真逆のものなのに、法務省は混同しています。
そこには自民党の影響もあるでしょう。
自民党はずっと道徳教育にこだわってきて、とうとう小中学校で教科化を実現しましたし、党内には教育勅語を積極的に評価する者も少なくありません。
自民党の改憲案には「家族は、互いに助け合わなければならない」という道徳の規定もあります。

先進国では、学校で道徳を教えている国も一部にありますが、ほとんどは道徳は日曜学校で学ぶものという位置づけです。

一方、イスラム教の国はかなり違います。
たとえばアフガニスタンのタリバン政権は2021年9月に勧善懲悪省を復活させ、宗教警察がイスラム教の教義に反する行為を取り締まるようになりました。
宗教警察はほかにサウジアラビア、イラン、インドネシアなどにもあります。
イランの場合は道徳警察と呼ばれていますが、ヒジャブの着用をめぐる反政府デモの高まりの中で司法長官が12月4日、道徳警察の廃止を宣言しました。

「道徳の支配」から「法の支配」へ、「徳治主義」から「法治主義」へというのが歴史の流れであり、社会の進歩です。
ところが、自民党は「道徳の支配」や「徳治主義」への回帰を目指しています。
法務省もそれに協力して、自民党のねらいは着実に実現しつつあります。

たとえばコロナ対策の持続化給付金の対象から性風俗業界が法的根拠もなく除外されるということがありました。これに対する違憲訴訟に東京地裁は6月30日、合憲の判決を下し、その理由として「客から対価を得て性的好奇心を満たすようなサービスを提供するという性風俗業の特徴は、大多数の国民の道徳意識に反するもので、異なる取り扱いをすることには合理的な根拠がある」としました。まさに法律より道徳を優先すると言っているのです。

道徳の教科化が実施された小中学校ではいじめが増加しています。子どもに道徳を説くことが子どもへの抑圧になっていることも原因に違いありません。
また、道徳は男女平等に反するので、「道徳の支配」への回帰がジェンダーギャップ指数の低下を招いています。


道徳について肯定的な考えを持っている人も少なくないでしょう。
そういう人は「うんこ人権ドリル」を見ても、どこが間違っているのか指摘できません。
道徳は権力者がつくった色メガネです。この色メガネをかけていると、権力者のつごうのいいようにふるまってしまいます。
道徳という色メガネを外すと、現実をありのままに見られるようになり、物事を正しく判断できるようになります。

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岸田政権は12月16日、安保関連三文書を閣議決定し、新聞各紙は「安保政策の歴史的転換」などと大々的に報じました。

この大転換を決めたのは岸田首相でしょうか、安倍元首相でしょうか。それとも防衛省と外務省の官僚でしょうか。
いずれにせよほとんど議論もなしに決まりました。敵基地攻撃能力に関しては多少議論がありましたが、今後5年間の防衛費を総額43兆円にすることについてはまったく反対の声がありません。
一方、防衛費増額の財源をどうするかについては、増税か国債か建設国債か、外為特別会計の資金活用か復興特別所得税の転用かなど議論百出でした。

どうしてこうなるのでしょうか。
それは、防衛費増額はアメリカと日本が合意してすでに決まっているので、今さら議論しても意味がないからです。
財源についてはこれから日本が決めることなので議論百出になります。

防衛費増額の経緯についてはこれまでも書いてきましたが、改めて整理しておきたいと思います。


そもそもの発端は、昨年10月の衆院選向けの自民党選挙公約に、防衛費について「GDP比2%以上も念頭に増額を目指す」という文言が入ったことです。
これまでずっと日本は防衛費GDP比1%でやってきたのですから、GDP比2%は倍増になります。1割増とか2割増ならともかく倍増というのは冗談としか思えない数字です。
私はタカ派の高市早苗政調会長が自分の趣味を全開にして数字をもてあそんだのかと思いました。
発表当時はマスコミもほとんど注目しませんでした。

しかし、高市政調会長が選挙公約を発表したのが10月12日で、10月20日には米上院外交委員会の公聴会に次期駐日大使のラーム・エマニュエル氏が出席し、「日本が防衛費を(GDP比)1%から2%に向けて増やそうとしているのは、日本がより大きな役割を果たす必要性を認識している表れで、日米の安全保障協力にとっても非常に重要だ」と述べました。
政党の選挙公約というのはあまり当てにならないとしたものですが、自民党の「防衛費GDP比2%」はすぐに米議会で取り上げられ、対米公約みたいなことになったのです。

さらに11月22日には朝日新聞に掲載されたインタビュー記事で、前駐日米大使のウィリアム・ハガティ上院議員は「米国はGDP比で3・5%以上を国防費にあて、日本や欧州に米軍を駐留させている。同盟国が防衛予算のGDP比2%増額さえ困難だとすれば、子どもたちの世代に説明がつかない」と言って、日本の防衛予算のGDP比2%への引き上げを早期に実現するように求めました。

次期駐日大使と前駐日大使がともに自民党の選挙公約の「防衛費GDP比2%」を高く評価しているところを見ると、自民党はアメリカと話し合った上で選挙公約を決めたのでしょう。

ちなみに「防衛費GDP比2%」はアメリカがNATO諸国に要求している数字です。
アメリカは同じ数字を日本にも要求したのでしょう。
岸田政権はその要求を受け入れて、自民党の選挙公約に「防衛費GDP比2%」と書いたことになります。

5月23日、岸田首相はバイデン大統領と都内で会談し、その後の共同記者会見で「防衛費の相当な増額を確保する決意を表明し、これに対する強い支持をいただいた」と述べました。
その後、参院予算委員会で「防衛費増額は対米公約か」と質問された岸田首相は「約束というと、米国から嫌々求められた感じがする」「防衛費はわが国として主体的に決めるもの」などと答弁しました。

そして今回、安保関連三文書が閣議決定されると、バイデン大統領はツイッターに「日本の貢献を歓迎する」と投稿し、サリバン大統領補佐官は「日本は歴史的な第一歩を踏み出した」との声明を出し、オースティン国防長官は声明で「防衛費が2027年度にはGDPの2%に達する決定をしたことを支持する」と表明しました。

こうした流れを見ても、今回の防衛費増額はアメリカの要求によるものだということがわかります。
予算の総額が先に決まり、なにに使うかが決まっていないという、通常と逆の展開になっているのもそのためです。


バイデン政権は「中国を唯一の競争相手」とした国家安全保障戦略を発表しています。
中国は経済成長とともに軍事力をつけてきているので、アメリカの優位が揺るぎかねません。
そこで、日本の自衛隊を利用する戦略です。

もし自衛隊が国土防衛のための兵器だけを保有しているなら、アメリカ軍は自衛隊を利用できませんが、すでに自衛隊は空母やイージス艦や早期警戒管制機(AWACS)を保有しています。これらバカ高い兵器を購入したりつくったりしてきたのは、アメリカ軍が利用可能だからです。
さらに自衛隊が「敵基地攻撃能力」のための長距離ミサイルなどを保有すれば、それもアメリカ軍の戦力にカウントすることができます。
安保三文書にも「日米が協力して反撃能力を使用する」と明記されています。
それに、日本がアメリカから兵器を購入することでもアメリカは利益を得られます(すでにトマホーク購入が計画されています)。


アメリカが日本に「防衛費GDP比2%」を要求するのはアメリカの国益ですが、日本にとってはどうでしょうか。
NATO基準を島国の日本に当てはめるのはおかしなことですし、NATO未加入のウクライナと違って日本には日米安保条約があり、駐留アメリカ軍もいます。
アメリカが長距離ミサイルを必要とするなら、自前で用意してもらいたいものです。

「防衛費GDP比2%」の選挙公約を発表したのは高市政調会長ですが、高市氏が一人で決めるはずもなく、岸田首相も了承していたはずです。
高市氏の背後には安倍元首相がいました。おそらく安倍元首相が中心になって決めたのではないでしょうか。
安倍元首相は2015年に新安保法制を成立させ、自衛隊とアメリカ軍の一体化を進めました。安保三文書はその延長線上にあります。
岸田首相はハト派のイメージがありますが、安倍政権時代に長く外務大臣を務めていたので、外交防衛政策で安倍元首相に合わせるのは得意です。

もっとも、日米でどのような交渉が行われたのかについてはまったく報道がありません。
高市氏に「どうして選挙公約に防衛費GDP比2%という数字を入れたのですか」と問いただしているのでしょうか。

次期駐日大使のエマニュエル氏が昨年10月20日に米上院外交委員会の公聴会に出席したときの毎日新聞の記事の見出しは「日本の防衛費大幅増に期待感 米駐日大使候補、上院公聴会で証言」でしたし、朝日新聞が昨年11月22日に掲載した前駐日大使のハガティ上院議員のインタビュー記事の見出しは「日本の防衛予算のGDP比、早期倍増を ハガティ前駐日米大使が主張」でした。
つまりマスコミはアメリカが強く防衛費倍増を求めていることを知りながら、日米交渉の内実はまったく報道しなかったのです。
アメリカの要求には逆らわないというのがマスコミの習性であるようです。

その結果、岸田政権は自主的に防衛費倍増を決定したようにふるまっています。
これを“自発的隷従”といいます。
「防衛費増額は対米公約か」と国会で質問されたとき、岸田首相が「約束というと、米国から嫌々求められた感じがする」「防衛費はわが国として主体的に決めるもの」と答弁したところに“自発的隷従”の心理が表れています。

日米交渉の内幕が報道されると、アメリカに「要求を飲まないと日米安保条約を廃棄する」という脅しを受けていたといったことが出てくるかもしれません。
こうした報道があれば、日本人も対米自立を考えるようになるでしょう。


自民党は統一教会という韓国系の教団に“売国”行為をしていたことが明らかになりましたが、もともと自民党の売国先の本命はアメリカです。「反共」を名目にアメリカと手を組み、統一教会とも手を組んだわけです。
自民党が“売国政党”であるために、日本国民は重税にあえぐことになります。

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長野市の青木島遊園地という公園が近隣から「子どもの声がうるさい」という苦情があったために来年3月に廃止されるという報道があると、さまざまな反応があって、大きな話題となりました。

子どもが公園で遊べばさまざまな声を出すのは当然です。昔から子どもはそうしてきました。家の近くの道路や空き地でも同じです。
「子どもの声がうるさい」という苦情がふえているのは、子どもの声は変わらないのですから、不寛容なおとながふえてきたということです。
ですから、問題を解決するには、不寛容なおとなを寛容なおとなに変えていくしかありません。
ところが、この公園廃止問題を追及することがさらに不寛容なおとなをふやす方向にいっています。


日刊スポーツの記事によると、お笑い芸人の千原せいじ氏は自身のインスタグラムにおいて、長野市の青木島遊園地が来年3月に廃止されるというネットニュースのスクリーンショットを載せ、『「変な街」とつづり、「#千原せいじ #変な街 #住みたくない街 #市議会議員どないしたんや #恥ずかしい」とタグを並べた』ということです。

行政や市会議員を批判するのはわかりますが、「変な街」とか「住みたくない街」という発想には驚きました。
私は日本人全体の傾向がたまたまこの街に強く出ただけと思いましたが、千原せいじ氏は街を悪者にしています。こういう発想が日本の分断を招くのだなと、ある意味感心しました。

やがて「子どもの声がうるさい」という苦情は一件だけだったという情報があり、行政の対応に批判が集まりましたが、さらにその一件は信州大学の名誉教授だという情報が出て、今度は名誉教授にも批判が集まりました。

ひろゆき氏は「子供の公園を許容出来ない人は名誉教授に相応しいですか?」とツイートするとともに、信州大学名誉教授称号授与規程として「第7条 名誉教授にふさわしくない行為を行った場合は,教育研究評議会の議を経て,名誉教授の称号を取り消すことができる」という文を引用しました。
名誉教授の称号を取り消せと言わんばかりです。
このように個人攻撃をあおるのは、いかにも2ちゃんねる創始者のひろゆき氏らしいやり方です。

「子どもの声がうるさい」と言うクレーマーに対して、「クレーマーの声がうるさい」と反応するのは「不寛容の連鎖」です。これでは事態はどんどん悪くなります。
クレーマーの心を解きほぐすような対応が必要です。

スポニチの記事によると、モデルでタレントのトリンドル玲奈さんは12月9日、コメンテーターを務めるTBS系「ひるおび!」において、クレーマーの名誉教授に対して「その人も子供の時代があったわけじゃないですか。きっと子供の時は声を上げて遊んでいただろうし、今の子供たちも声というのを騒音と捉えるのはちょっと違うんじゃないかなと思います」と発言しました。

「自分も子ども時代は声を上げて遊んでいただろう」とクレーマーに指摘することは、自分を見つめ直し、寛容な心を取り戻すきっかけになることがあります。
しかし、そうならないことのほうが多いでしょう。というのは、クレーマーは子ども時代に「うるさい」と親や周りのおとなから叱られていた可能性が大きいからです。つまり「不寛容の世代連鎖」があると想像できます。そういう人は子ども時代のことを回想しても効果はなく、逆効果になるかもしれません。


ところで、騒音問題というのは、音の大きさだけで決まるのではありません。
人間は風の音、川のせせらぎ、波の音、小鳥のさえずりなどの自然音は不快には感じません。むしろ癒されます。
子どもの遊ぶ声というのは小鳥のさえずりと同じ自然音ととらえてもいいはずです。
少なくとも昔の人間はそのような感覚だったのではないでしょうか。
文明社会は激しい競争社会なので、おとなに強いストレスがかかり、それがいちばん弱い子どもに向かって発散される傾向があります。

近所のピアノの音がうるさいという問題もありますが、これも決して音だけの問題ではなくて、ピアノを弾く人と聞く人の人間関係に左右されます。
ピアノを弾く人に好感を持っていれば、へたなピアノの音も不快に感じません。「前よりちょっとうまくなったな」などとほほえましく思ったりします。しかし、ピアノを弾く人を嫌っていると、かりにピアノがすごくうまくても、その音が不快に感じるものです。

ですから、「子どもの声がうるさい」というのも、決して音量の問題ではないのです。


現在の公園廃止の議論は、子どもを無視して行われています。
たとえばスポニチの記事によると、お笑いコンビ「ロザン」がYouTubeチャンネルにおいてこの問題を取り上げ、「“子供は宝、子供は天使”とみんなが思うってのは違う。全部許容すべきだという論調でいっても解決しない」「例えば、何曜日の何時から何時までは使っていいよ、とか、“グレー”を探したのかなと」「当事者同士でやってた時のような、中間を取った答えを出した方がいい。第三者が入ったら、“子供は禁止”か“子供は宝”のどっちかのジャッジしかなくなる」といった議論をしました。
つまり「子どもの声がうるさい」という人と「子どもを遊ばせたい」という人が話し合って、中間の結論を出すのがいいというわけです。

誰からも批判されない無難な意見のようですが、根本的な問題は、子どもが排除されているところです。おとなの意見を平均すると、その着地点は子どもからは遠いところになってしまいます。


日本は子どもの意見がまったく排除されているところが異常です。
意見だけでなく子どもの存在感もありません。

昔は地域社会のつながりがあって、おとなが近所の子どもを見ると、「山田さんちの下の子だ」といった認識があって、声をかけたりしていました。
そうするとおとなも自然と子どもに寛容になったはずです。
今は都会ではそうしたつながりはきわめて薄くなりました。

ここはメディアの出番です。
青木島遊園地の問題がこれだけ騒がれたのですから、テレビが近所の子どもたちにインタビューして、公園廃止についてどう思うかと聞けばいいのです。
「公園をなくさないでほしい」とか「遊ぶ場所がなくなって不便」といった切実な声が上がれば、「子どもの声がうるさい」という声を打ち消すことになるかもしれません。
もうすでに公園で遊ぶ子どもは少なくなっていたということですから、案外「公園なんかなくてもかまわない」という意見が多いかもしれませんが、それはそれでいいことです。
要は当事者である子どもの意見を聞くことがたいせつです。
子どもが顔を出して意見を言うことで、おとなも子どもの存在を意識して、配慮するようになるはずです。

ところが、「子どもが意見を言う」ということが日本では異常に嫌われます。
たとえば14歳のYouTuber「少年革命家」のゆたぼんさんは「不登校の自由」などを主張して年中炎上していますし、現在21歳の女優の春名風花さんは、9歳からツイッターを始めて政治社会の問題にも発言して数々の炎上を引き起こしましたし、現在19歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんは、15歳のときに「気候のための学校ストライキ」を行い、国連で演説するなどして世界的な注目を浴びましたが、日本では「生意気」「親のあやつり人形」など非難の嵐でした。

子どもの意見表明権は子どもの権利条約でも認められています。
第12条
1.締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

しかし、メディアだけでなく学校でも子どもの意見はまったく無視されています。
おそらく子どもの意見を聞くと、「なぜ勉強しなきゃいけないの」「なぜ学校に行かなきゃいけないの」などと面倒なことを言うのを恐れているのでしょうが、こういう意見に向き合うことでおとなも成長します。

なお、子どもの権利条約には子どもの「遊ぶ権利」も規定されています。
第31条
1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。

代替措置もせずに子どもの遊び場を廃止することは、子どもの遊ぶ権利の侵害です。


考えてみれば、「子どもの声がうるさい」という不寛容なおとなを寛容なおとなに変えるのは、人間の内面の問題ですから、けっこうたいへんです。
それよりも「子どもの権利」を押し立てて社会を表面から変えていくほうが簡単かもしれません。

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外交や戦争が同盟関係に大きく左右されるのは当然ですが、日本人はそのことを忘れてしまう傾向があるようです。

明治時代の日本人は、極東の三流国だった日本が当時の覇権国だったイギリスと日英同盟を結んだことに舞い上がってしまって、イギリスの期待に応えようと日露戦争に突き進みました。結果はよかったものの、大国ロシアとの戦争は危険な賭けでした。
日本人は日本が自発的に日露戦争をやったように思っていますが、実際のところは老獪なイギリスに未熟な日本があやつられていたのです。

第一次世界大戦に日本は参戦しましたが、これも日英同盟が背景にあったからです。

日本がアメリカと戦争したことについても、日米の国力を比較して無謀な戦争だったなどといいますが、日本には日独伊三国同盟があったわけです。真珠湾攻撃の当時は、ドイツ軍がモスクワを包囲していて、日本政府は独ソ戦はドイツが勝利すると予想しました。そうなると、アメリカとイギリスが孤立する格好となり、アメリカは講和に応じるだろうというもくろみでした。
英米が孤立したからといって講和ができるとも思えませんが、独ソ戦がソ連優勢になってはなんの展望もなくなってしまいました。
つまり日本は単独でアメリカと戦争しているつもりはなくて、ドイツとイタリアの勝利に便乗するつもりだったのです。
ところが、現在の真珠湾攻撃を巡る議論がほとんど欧州情勢を抜きにして行われているのを見ると、視野が狭小なことに驚かされます。


同盟関係がその国の行動を強く規定するのは当然です。
韓国はベトナム戦争に派兵して、今もそのことがトラウマになっていますが、同盟関係にあるアメリカの要請があったから、しかたなく派兵したのです。
オーストラリアはベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争に派兵して、どれもがトラウマになっています。
NATO諸国もイラクとアフガンに派兵しました。

ちなみに独ソ戦には、枢軸側にイタリアのほかにルーマニア、ハンガリー、フィンランドなども派兵していました。

同盟関係といっても対等なものではありませんし、力のあるほうから「わが国の若者が命をかけて戦っているのに、お前たちはなにもしないのか」と言って強い圧力を加えられると、断り切れないのでしょう。

わが国は平和憲法を盾にアメリカの要請を断り続けてきましたが、とうとう断り切れなくなり、アフガン戦争では洋上給油活動をし、イラク戦争ではサマワに自衛隊を派遣しました。
今となってはアフガン戦争もイラク戦争も無意味な戦争であることが明らかとなり、日本人が命を落とさなかったのは幸いでした。


さて、岸田政権は防衛費GDP比2%と敵基地攻撃能力保持を打ち出していますが、日本とアメリカの力関係を思えば、これがアメリカの要請によるものであることは明らかでしょう。
防衛費GDP比2%というのはNATO基準なのですが、日本がみずからNATO基準を採用するわけがありません。日本は島国なのですから、違って当然です。

防衛費GDP比2%は、昨年10月の衆院選で自民党が選挙公約として打ち出したものです。これまで1%だったものを倍増するとは冗談かと思いましたが、次期駐日大使に指名されたラーム・エマニュエル氏がすかさず米上院外交委員会の公聴会において自民党の選挙公約を評価する発言をしたので、自民党とアメリカが交渉の末合意したものと思われました。

中国の軍拡に対抗するためという名分になっていますが、中国は経済成長に合わせて軍拡をしています。ほとんど経済成長しない日本が軍拡だけするのは財政破綻への道です。

防衛費を増加させてなにに使うかというと、とりあえず「敵基地攻撃能力」のためです。

敵基地攻撃能力というのは、最初のころは、「敵国がミサイルなどを発射する準備をしているのを察知した場合、発射する前にこちらから攻撃する」というような説明をしていました。
しかし、「敵国の発射の準備が正確に察知できるのか。実質はこちらの先制攻撃ではないか」という反論があったためか、最近は「反撃能力」と言い換えて、「敵の第一撃があった場合、敵の攻撃基地をたたいて第二撃を阻止する」という説明に変わっています。

説明の変わるのがあやしいところですが、どちらの説明でも敵国と日本との関係しかいっていません。
超大国である同盟国アメリカ抜きの議論など無意味です。

敵国というのはたぶん中国のことですが、自衛隊の力だけで中国の攻撃力を無力化できるはずがありませんし、自衛隊の情報収集能力で敵国の攻撃準備を察知できるとも思えません。
つまり敵国の情報収集をするのはアメリカで、攻撃の決定をするのもアメリカです。自衛隊の攻撃能力はアメリカの攻撃能力を補うだけです。

そもそも中国や北朝鮮が日本を先制攻撃するとは考えられません。
それよりも考えられるのは、台湾や朝鮮でアメリカが戦争をすることです。そのとき、自衛隊の攻撃能力を利用しようというのがアメリカの狙いです。

日本が攻撃されていないのに自衛隊が他国を攻撃することは法的に可能かというと、日本政府は可能と考えています。
国際法学会のサイトに田中佐代子法政大学法学部准教授がエキスパートコメントとして「敵基地攻撃能力と国際法上の自衛権」という文章を書いていて、そこにはこうあります。
本コメントでは基本的に、他国によるミサイルを手段とした武力攻撃が日本に対して発生し、日本が個別的自衛権の行使として敵基地攻撃を行うという状況を仮定して検討してきました。日本政府の説明によれば、敵基地攻撃能力についての考え方は、集団的自衛権が根拠となる場合にも変わりません。例えば米国に対するミサイル攻撃が(例えばグアムを標的として)発生した場合、それが日本の存立危機事態に該当することも含め諸条件を満たせば、集団的自衛権の行使として敵基地攻撃を行うことが法理的には可能(ただし現状では実行は想定していない)という立場と理解できます。

安倍政権が新安保法制をごり押しで通したのも、こうした場合に備えるためだったわけです。

もともと日米安保体制では、日本はあくまで専守防衛で、敵基地攻撃はアメリカの役割でした。
日本が攻撃能力を持つということは、アメリカの負担の一部を肩代わりするか、アメリカの能力を補強するということです。
日本が一国で攻撃能力を行使することなどありえません。


野党やマスコミは「専守防衛に反する」と言って批判していますが、それよりもこれはカネの問題であり、アメリカが負担するか日本が負担するかという問題です。
アメリカは経済が好調で、財政赤字もGDP比で日本の半分ぐらいしかありません。
いくら同盟国のアメリカから求められたとはいえ、毎年1%ぐらいしか経済成長せず、財政赤字がふくらみ続ける国が防衛費をふやすのはあまりにも愚かです。

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