村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2023年03月

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岸田文雄首相はウクライナを電撃訪問し、ゼレンスキー大統領と会談した際に「必勝しゃもじ」をプレゼントしました。
必勝しゃもじというのは広島の特産品で、大きな木製のしゃもじに「必勝」の文字が書かれていて、日清戦争、日露戦争当時に軍人が必勝祈願のために厳島神社に奉納したのが始まりだそうです。
これには「スポーツの試合や選挙のときならともかく、戦争のときに贈るべきではない」という批判がありました。
確かに岸田首相の戦争観が気になる出来事ではあります。


日本の首相としてウクライナに行くなら、停戦や休戦の提案を持っていくべきだと思うのですが、岸田首相にそうした外交力があるはずありません。
それにしても、「必勝」を訴えたのでは逆に戦争をあおることになります。
しかも、武器弾薬を提供しない日本の立場にも反します。

それに、必勝しゃもじは神道という宗教とつながっているので、キリスト教国のリーダーに贈るのはどうなのかなと思えます。
そうしたところ、ゼレンスキー大統領がテレグラムに岸田首相との会談について投稿して、その中に「岸田総理から、一枚の木の板を託された。日本古来の呪術の板のようなもので、そこには必ず勝つと書かれている。(中略)会談とウクライナへの強い支援に感謝します」という文章がありました。

「呪術の板」といわれれば、確かにその通りです。
極東の島国では今でも呪術を使っていると思われたかもしれません(「呪術の板」についての文章は捏造されたものでした。根拠はこちら。あえて消さずにそのままにしておきます)。

自民党は政教分離をまじめに考えてこなかったので、靖国神社や日本会議や統一教会が政治の世界に入り込んでいました。
岸田首相がゼレンスキー大統領に神道色のある物を贈ったのも、自民党の宗教に対するルーズさの表れでしょう。

なお、松野博一官房長官によると、岸田首相は必勝しゃもじとともに「折り鶴をモチーフにしたランプ」もゼレンスキー大統領に贈ったそうです。このランプは広島の焼き物「宮島御砂焼(おすなやき)」でできたものです。
折り鶴はもちろん平和の象徴ということですが、これも「呪物」と思われたかもしれません。焼き物のランプはいかにも魔法のランプみたいです。
それにしても、平和の象徴と「必勝」の文字を同時に贈るのは矛盾しています。


そもそもいったいなんのために岸田首相はウクライナに行ったのかというと、よくいわれるのは「G7の国の首脳でウクライナに行っていないのは岸田首相だけだから」というものです。
同調圧力に弱い日本人らしい発想です。
しかし、G7は日本以外は北米と西欧の国ばかりです。ウクライナともっとも縁の薄いアジアの国が行かなくても不思議ではありません。というか、ウクライナ市民も日本の首相が来たというので驚いていたようです。
行ってなにもしないわけにいかないので、岸田首相は600億円超の援助を申し出ました。
行かなければよかったのにというしかありません。


岸田首相は日本がG7の一員であることと、とくに今年5月の広島サミットで議長国を務めることを重く見ているようです。
しかし、G7というのは、米国、英国、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダの7か国にEUが加わったものです。
中国、インド、ブラジルなどが加わっていないので、決して世界の大国の集まりというわけではありません。
要するにアメリカと価値観を共有する国の集まりということです。
国連の外にこのような組織をつくることは世界を分断することになります。

ロシアは一時期G7に加わって、G8といわれていた時代がありました。
しかし、2014年にロシアがクリミア併合をしたことでロシアは排除されました。
もしこのときにロシアを排除していなければ、今回のウクライナ戦争はなかったかもしれません。


岸田首相は核兵器廃絶が信念だそうです。
今年5月のG7サミットの開催地を広島にしたのも、世界に非核の訴えをするためだとされます。
岸田首相は3月19日、地元後援会の会合で「ロシアによる核兵器による威嚇や使用の懸念など、危機的な状況にある中、核軍縮・不拡散の議論においても、被爆地 広島でサミットを開く意味を世界の皆さんとともにかみしめなければならない」と語りました。

確かに非核の訴えをするのに広島は最適の場所です。
なぜ非核の訴えをするかというと、核兵器があまりにも非人道的だからです。
つまり5月のサミットでは、岸田首相はロシアの核による威嚇を牽制しつつ、核兵器の非人道性を訴えるはずです。
となると、広島、長崎に原爆を落としたアメリカを非難することにならざるをえません。
岸田首相がどんなに言葉を選んでも、広島の地で非核の訴えをすれば、誰もがアメリカの原爆投下を思います(サミット参加の首脳は平和祈念館を見学するという話もあります)。

日米の信頼関係を重視する岸田首相が広島で非核の訴えをするのは、明らかに矛盾しています。


必勝しゃもじに続いて「サミットまんじゅう」も話題となりました。
『岸田首相の後援会が配った「サミットまんじゅう」 ロゴ使用ルールを逸脱? 外務省は「基準に合致」強弁』という記事を要約して紹介します。

3月23日の参院予算委員会で立憲民主党の田名部匡代議員が、3月19日に広島市内で行われた岸田首相の政治資金パーティでサミットのロゴ入りのまんじゅうとロゴ入りのペンが参加者に配られたことを取り上げました。
サミットのロゴを使うには著作権を持つ外務省に使用承認申請書を提出する必要があり、承認条件のひとつに「特定の政治、思想、宗教等の活動を目的とした使用はしない」というのがあります。ペンには「岸田文雄後援会」の文字とサミットのロゴが並んで入っていますし、政治資金パーティで配るのは明らかに政治利用です。
しかし、サミット事務局長の北川克郎大臣官房審議官は「開催地広島でサミットの機運を高めることは不可欠」「機運醸成に認められるロゴの使用申請は基準に合致する」と首相をかばい、岸田首相は「さまざまな指摘を受けないように、今後とも慎重に取り扱いを行うことは大事かと思います」と答弁しました。


ウクライナ戦争やサミットという世界的な問題に、必ず岸田首相の地元広島が出てきます。
ゼレンスキー大統領に必勝しゃもじを贈ったのは、ゼレンスキー大統領のためというより、地元広島の特産品を国内にアピールするためでしょう。
つまり岸田首相においては「世界より地元」なのです。

なぜそんなことになるかというと、岸田首相は外交安保の問題を自分の頭で考えていないからです。
考えているのはアメリカです。岸田首相はそれに従っているだけです。
岸田首相は、安倍首相もできなかった防衛費GDP比2%と敵基地攻撃能力保有を簡単に決めました。アメリカに要求されたから従ったのです。
岸田首相は安倍政権時代に長く外相を務めていましたから、そのときにアメリカに従うのが無難だということを学んだのでしょう。

3月20日はイラク戦争開始から20年です。
れいわ新選組の山本太郎参議院議員は3月2日の参議院予算委員会で、岸田文雄首相にイラク戦争の是非について質問しました。「イラク戦争から20年、いまだに開戦支持の過ちを認めない日本政府」という記事から引用します。
山本議員は、米国の世界戦略や自衛隊の米軍との一体化を問う質疑の流れの中で、「アメリカが間違った方向に行った場合は、(日本は)行動を別にすることできますよね?」と岸田首相に質問した。

 岸田首相が「当然のことながら、日本は日本の国益を考え、憲法や、国内法、国際法、こうした法の支配にもとづいて外交安全保障を考えていく、これが当然の方策であると考えます」と答弁したのに対し、山本議員は「イラク戦争はどうだったと思われます? イラク戦争は間違いでしたか? 正しい戦争でしたか? 教えてください、総理」とたたみかけた。

 とたんに岸田首相は歯切れが悪くなり、こう答弁した。

「あのー、我が国としてイラク戦争の、えー、評価をする立場にはないと考えています。わが国として、自らの国益を守る。もちろん大事でありますが、それとあわせて 先ほど申し上げました、法の支配、国際法や国内法、こうしたものをしっかりと守る中で、国民の命や暮らしを守っていく。これが日本政府の基本的な考え方であります」

日本政府はアメリカのイラク戦争の是非を評価する立場にはないそうです。
そうだとすれば、今後アメリカが中国と戦争するときにもその是非を評価する立場になく、アメリカの要求のままに行動するのでしょう。

岸田首相は安保政策については自分で判断しないので、お気楽なものです。
ウクライナ訪問のときもサミットのときも、国内政治と地元のことだけ考えていればいいので、そのため必勝しゃもじやサミットまんじゅうが出てきます。

これは岸田首相だけの問題ではありません。
日本はアメリカ依存をどんどん深めているので、今や日本の安全保障政策はアメリカが決めているようなものです。
それを「緊密な同盟関係」などといって正当化しています。

しかし、こうした関係では、日本国民の税金がアメリカのために使われることが否定できません。
防衛費GDP比2%と敵基地攻撃能力も、日本のためというよりほとんどアメリカのためです。

自衛隊員の命もアメリカのために使っていいか考えないといけません。

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3月16日、岸田文雄首相と韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は都内で日韓首脳会談を行い、友好関係をさら発展させていくことで合意しました。
徴用工問題もどうやら決着しました。
どういう形で決着したのでしょうか。

韓国の最高裁は日本企業にかつての徴用工に対して賠償金を支払うように命じましたが、日本としては払いたくないので、こじれました。
また、韓国政府や韓国世論は徴用工問題で日本に対して謝罪を求めていました。

尹錫悦大統領は3月6日にこの問題の解決策を提案しました。
岸田首相は同じ日に記者会見し、「今回の韓国政府の措置は、日韓関係を健全な関係に戻すためのものとして評価しております」「歴史認識につきましては、1998年10月に発表された日韓共同宣言を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場、これを全体として引き継いでいる。これが政府の立場であります」と語りました。
バイデン大統領も同じ日に声明を発表し、「米国の最も緊密な同盟国である日韓両国の協力とパートナーシップの画期的な新章を示した」と歓迎し、ブリンケン国務長官も「記念すべき成果を称賛するよう国際社会に呼び掛ける」と歓迎する声明を発表しました。
ということは、この解決策は日本、韓国、アメリカで話し合われていたわけで、この発表の時点で合意が成立していたものと思われます。

この解決策は、日本企業が払う賠償金を韓国政府傘下の財団が肩代わりするというものです。
発表の時点では、その財団に日本企業も拠出するのではないかという話がありました。これでは日本企業が賠償金を支払ったのとたいして変わりません。
結局、日韓首脳会談後の発表によると、両国の経済団体が未来志向の日韓協力・交流のための「日韓未来パートナーシップ基金」を創立することになりました。
つまり日本企業はカネを出すのですが、別のところに出す形となったわけです。

日本の謝罪の問題は複雑です。
1998年、小渕恵三首相と金大中大統領は日韓共同宣言を発表し、その中に「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた」というくだりがありました。
尹大統領は共同宣言にある「反省とお詫び」を日本政府が継承することを求めました。
そして、岸田首相もその日に「日韓共同宣言を含め(中略)、これを全体として引き継いでいる。これが政府の立場であります」と言って、それを受け入れたわけです。

ところが、日韓首脳会談後の発表文には「反省とおわび」の言葉はありませんでした。
その代わり「旧朝鮮半島出身労働者問題に関し、率直な意見交換を行い、岸田総理大臣から、6日に日本政府が発表した立場に沿って発言しました」という文言がありました。
「6日に日本政府が発表した立場」というのは「日韓共同宣言を引き継いでいるのが日本政府の立場」のことです。日韓共同宣言には「反省とお詫び」という言葉が入っているので、日本政府は理屈の上では「反省とお詫び」を表明したことになります。
まるで“一人伝言ゲーム”みたいです。


韓国では、首脳会談後の発表に「反省とお詫び」の言葉がなかったのはけしからんという声があり、賠償金を求めた原告には韓国の財団のカネは受け取らないと表明する人がいるなど、否定的な声が多いようですが、その声はそれほど強くないという印象です。
日本国内では、これまで嫌韓を唱えてきたネトウヨの戸惑いが目立ちます。日本企業がカネを出すのか出さないのかよくわからず、「反省とお詫び」を表明したのかしてないのかよくわからないという仕組みが効いているようです。

ただ、日本企業がカネを出すのは間違いないので、韓国は「名を捨てて実を取った」といえるかもしれません。
日本は「反省とお詫び」の表明を巧みにごまかしたので、「名を取って実を捨てた」ということになります。

それにしても、徴用工問題がここまでこじれたのはどうしてでしょうか。
それは、日韓ともにあまりにも視野が狭く、二国間関係しか見ていなかったからです。


東アジアにおいて、日本と韓国はともにアメリカの同盟国として、対北朝鮮、対中国で連携しなければならない立場です。
それなのに70年以上も昔の徴用工問題で日韓が喧嘩しているのですから、東アジア情勢が見えてないというしかありません。
とくにアメリカにとっては困ったことです。
ですから今回の解決策は、アメリカが主導したものと考えられます。アメリカに強く言われると、日韓ともに断れません。
兄弟喧嘩をしている子どもを母親がむりやり仲直りさせたみたいなものです。

同じことは慰安婦問題のときもありました。
慰安婦問題で日韓関係がこじれきっていたため、2015年にオバマ政権がむりやり日韓合意にもっていきました。
日韓合意には「おわびと反省」という言葉が入っていましたが、当時の安倍首相はどうしてもその言葉を言いたくなかったため、岸田外相に朗読させて、自分は表に出てきませんでした。
母親がむりやり子どもに謝らせようとしたため、子どもはふてくされてしまったという格好です。

徴用工問題でまったく同じことを繰り返すとは、日韓ともに成長がありません。


東アジア情勢だけでなく、グローバルな視点も欠けています。
日韓関係がこじれている根本原因は、日本が朝鮮半島を植民地支配したことを清算できていないことです。
しかし、植民地支配の清算ができていないのは日韓関係だけではありません。

欧米列強は世界に植民地を広げましたが、今に至るもお詫びも反省もしていません。
植民地支配における非人道的行為について謝罪した国はありますが、植民地支配そのものについて謝罪した国はひとつもありません。

日本も戦後しばらくは、中国やアジアの国に対して戦争により苦痛や迷惑を与えたことについては謝罪してきましたが、植民地支配については謝罪しませんでした。
しかし、1993年、細川護熙首相は所信表明演説において「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」と言い、「植民地支配」について初めて謝罪しました。
村山富市首相も「植民地支配」について謝罪しました。
1995年のいわゆる「戦後50年衆院決議」においても「世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」との言葉があります。
そうした流れを引き継いで1998年の日韓共同宣言の「反省とお詫び」があるわけです。

他国を植民地支配した国は多くありますが、日本は唯一それを謝罪した国です。
そこには日本の特殊な立場もあります。
欧米の植民地主義は、根底に人種差別があります。それに、欧米の文化は当時、ほかの地域よりも格段に進んでいたのも事実です。
日本の場合、日本人、中国人、朝鮮人に人種的な違いはありませんし(そもそも人種という概念に意味はないという説もあります)、文化水準もそれほど変わりません。日本がいち早く近代化しただけです。
つまり日本は自分とほとんど変わらない国を植民地支配したわけで、その罪が見えやすかったといえます。


ともかく、日本は植民地支配を謝罪した唯一の国で、これは世界においてきわめて有利なポジションです。
というのは、かつて植民地支配された国は謝罪しない欧米に対して不満を持っているからです。

「グローバルサウス」という言葉があります。
広い意味ではアフリカ、中東、アジア、ラテンアメリカにおける途上国、新興国の総称ですが、狭い意味では、「北」の先進国によって「南」は不当に苦しめられてきたという認識を持った国の集合のことです。
ロシアによるウクライナ侵攻は明らかな侵略行為ですから、グローバルサウスの国もロシアを批判していますが、一方で、NATOなどが主導するロシア批判やロシア制裁を冷ややかな目で見ているのも事実です。


ついでにいえば、欧米は近代奴隷制についても謝罪していません。
アメリカなどはリンカーンの奴隷解放を偉業のように見なしていますが、奴隷解放は当たり前のことで、それまでの奴隷制がひどかっただけのことです。白人は奴隷労働で富を築いたのに、黒人奴隷はなんの補償もなく放り出され、選挙権も与えられませんでした(一部の地域では与えられたが、すぐに剥奪された)。黒人は無教育な貧困層となり、白人は黒人を愚かで犯罪的だとして自分の差別意識を正当化しました。過去を正しく清算しないといつまでも引きずるという例です。


植民地支配や奴隷制に対する欧米の謝罪も反省もしない態度が今の世界の混乱の原因となっています。
今後、グローバルサウスの力が強くなっていけば、欧米に対する倫理的、道義的な責任を問う声が強まるでしょう。
そのとき、朝鮮に対する植民地支配について「反省とお詫び」をした日本は世界をリードする立場になれます。

もっとも、安倍首相は慰安婦問題の日韓合意のときに自分の口から「反省とお詫び」を言いませんでしたし、その後も口に出すことはありませんでした。
岸田首相も今回、巧妙な手口で「反省とお詫び」を口にしませんでした。
こういう中途半端なことをすると、日本は「日本は植民地支配を謝罪した」と世界に向かって胸を張って言うことができません。
また、どうせカネを出すなら、徴用工に対する賠償金として支払ったほうが効果的でした。

岸田首相は世界に向かって日本をアピールする絶好の機会を逸してしまいました。

韓国に謝罪したくない人はグローバルな視点を欠いています。

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去年1年間に自殺した人の数は2万1881人で、前の年から874人増え、2年ぶりに増加しました。
しかし、最多だった2003年の3万4427人からはかなり減少しています。
問題は小中高校生の自殺者数です。全体が減少傾向なのに小中高校生の自殺者数は増加傾向で、今年は512人となり、過去最多を記録しました。

自殺する子どもは氷山の一角で、水面下には死にたくなるほど不幸な子どもがたくさんいることでしょう。

ユニセフが2020年に発表した報告書によると、「子どもの幸福度」で日本は38か国中で総合順位20位でした。この総合順位は「精神的幸福度」「身体的健康」「スキル(読解力、数学力、社会的スキル)」の3分野を総合したものです。
日本は「身体的健康」は1位でしたが、「精神的幸福度」は37位と下から2番目でした(「スキル」は27位)。

つまり日本の子どもは世界的に見てもきわめて不幸で、しかもその不幸はどんどんひどくなっているようなのです。

子どもを生んでも不幸になるならと、出産をためらう親もいるでしょう。
「子どもの不幸」は少子化の隠れた原因かもしれません。


どうして日本の子どもは不幸なのでしょうか。
子どもの主な生活の場は家庭と学校です。学習塾や習い事の教室、SNSなどは割合としてはごくわずかです。
ですから、不幸の原因のほとんどは家庭と学校にあり、家庭と学校を改革すれば子どもの幸福度は向上するはずです。

学校では、ブラック校則をなくすだけでも効果があるはずです。
ところが、そういう議論はあまり起きません。
逆に「ルールに従うことはたいせつ」という声が多く、中には「社会に理不尽な規則はいっぱいあるので、ブラック校則に慣れておいたほうがいい」などという意見まであります(こういう意見の人は社会をよくしようという気持ちはまったくないのでしょう)。

ランドセルが重くてたいへんなので、引っ張って歩けるキャスターつきの「さんぽセル」という新製品を小学生が開発し、人気商品となっていますが、「筋力が鍛えられない」とか「手がふさがって危険」という反対意見があります。子どもが重いランドセルを背負うことは体の発育に悪影響があるはずですし、重いものを背負っていては機敏に動けなくて逆に危険です。

昔は子どもの負担をへらすために「ゆとり教育」が推進されましたが、どうやら今では「ゆとり教育」は間違いだったとされているようです。
そのせいか、学校教育全体が子どもに楽をさせるのではなく、子どもに負担をかける方向へといっています。

その結果かどうかはわかりませんが、学校でのいじめは増え続けています。
2021年度の小中高校などにおけるいじめの認知件数は61万5,351件と、やはり過去最多を記録しました。


では、家庭のほうはどうなっているのでしょうか。
子どもの自殺の背景には家庭での虐待があると推測されます。
幼児虐待というと、新聞記事になるような、子どもが死んだり大けがをしたりといった事件が連想されますが、それは氷山の一角で、水面下にはそれほど極端でない虐待が広がっています。

幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトに分類されます。
身体的虐待について、厚生労働省が2020年に全国五千人の親を対象に行った調査では、「過去6カ月以内にしつけとして子どもに体罰を与えたことがあるか」との質問に、1回でも「あった」と答えた人は33.5%、「体罰は場合により必要」などとする容認派が41.7%でした。

一昔前は体罰は当たり前に行われていましたから、身体的虐待は減少傾向だと思われますが、心理的虐待についてはもしかすると増加傾向かもしれません。

最近、「教育虐待」という言葉がよくいわれます。
「教育虐待」というのは、ウィキペディアによると「教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」と説明されています。心理的虐待の一種です。
「教育熱心なのは子どもにとってよいこと」という考え方が一般的なために、教育虐待は増加しているかもしれません。

たとえば3月1日、埼玉県戸田市の中学校に17歳の少年が侵入し、男性教員にナイフで重傷を負わせるという事件がありました。逮捕された少年は「誰でもいいから人を殺したいと思った」と供述しているということです。また、近辺では猫の死骸が発見されるという事件が相次いでいて、少年はそれへの関与もほのめかしていて、酒鬼薔薇事件を連想させたことから、マスコミでもかなり騒がれました。

最近、通り魔事件などの犯人が「死刑になりたかった」とか「相手は誰でもよかった」と語るケースがよくあります。
これは「拡大自殺」といわれるものです。つまり他人を自分の自殺に巻き込む行為です。
戸田市の事件もそれだと思われます。

戸田市の17歳の少年について、デイリー新潮の『中学校襲撃の17歳「猫殺し」少年 叔母が涙ながらに明かす“暴走のきっかけ”「中学受験のプレッシャーで不登校に」』という記事から要点だけ紹介します。

少年の両親はともに東京都庁に勤める地方公務員で、有名私大に通う姉がいて、4人家族です。
少年の小学校時代の同級生は「ご両親がすごく教育熱心だったと聞いたことがあって、お姉さんがとても賢いって評判でした」と語りました。
少年は6年生のころから不登校の気が見られるようになり、地元の市立中学に入ってから本格的な不登校に陥りました。
少年の叔母は「小学6年生の時に中学受験のプレッシャーで学校に行くのが嫌になってしまったみたいで。その頃から不登校に……。自宅のトイレに『武蔵中学合格』と書かれた紙が貼られていたのを覚えています」と語りました。
少年は両親の思いを受けて、東京の名門男子進学校の武蔵中を目指しましたが、思うように学力が伸びず、やがて精神的に追い込まれ、不登校になってしまったということです。
叔母が「親から“学校に行け”と言われるのが嫌だったのか、6年生の時に、さいたま市にある私の両親(=少年の祖父母)の家まで逃げてきたこともありました」と語ったように、祖父母が少年の心のささえになっていたようです。
しかし、昨年5月には祖母が高齢者施設に入り、その家には誰もいなくなってしまいました。
なにかと酒鬼薔薇事件を連想させます。酒鬼薔薇事件の少年Aも、同居する祖母が心のよりどころでしたが、祖母が亡くなってからおかしくなったとされます。

親が教育熱心なあまり子どもに強いプレッシャーを加え、子どもがおかしくなってしまったのでしょう。
最近、こうした事件が多い気がします。

昨年の1月15日、大学入学共通テストが行われた日に、試験会場となった東京大学前の路上で2人の受験生と72歳の男性が刃物で切りつけられる傷害事件が起きました。殺人未遂容疑で逮捕されたのは高校2年の男子生徒(17歳)で、犯行時に「俺は東大を受験するんだ」などと叫びました。この生徒は愛知県の有名進学校の生徒で、 取り調べにおいて「医者になるため東大を目指していたが、1年くらい前から成績があがらず自信をなくした。人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと思った」と供述しました。
週刊誌などの報道で、やはり教育熱心な親のいたことが明らかになっています。

子どもの自殺と拡大自殺の背後には、家庭におけるなんらかの虐待があります。
虐待をなくせば、子どもの自殺もへりますし、子どもの幸福度もアップすることは確実です。


ともかく、子どもの幸福度をアップさせようとすれば、家庭と学校を改革するしかありません。
ところが、学校を改革する議論はほとんどありませんし、家庭を改革する議論はそれよりもっとありません。
いや、むしろ逆行する動きがあります。
それは家庭教育支援法と青少年健全育成基本法の制定を目指す動きです。

安倍政権は両法案の成立を目指し、2014年に青少年健全育成基本法案を国会に提出しましたが、審議されないまま廃案となり、家庭教育支援法案は2017年に提出が断念されました。
しかし、いくつかの自治体で家庭教育支援条例が制定され、いくつかの地方議会で家庭教育支援法の制定を求める意見書が可決されています。
こうした動きの背後に日本会議、統一教会の存在のあることがわかっています。

両法案は成立していませんが、その法案の精神は自民党や文科省を通して日本の教育を方向づけているといえます。


家庭教育支援法と青少年健全育成基本法の問題点は、単純にいえば、子どもの権利や主体性を無視して、子どもを教育の客体と見なしていることです。

統一教会は勝共連合のホームページにおいて、子ども政策についてこのように書いています。
子供の成育における父母や家庭の役割を軽視する左翼系の活動家が、武器として用いるのが「子どもの権利条約」だ。活動家らは同条約によって子供が「保護される対象」から「権利の主体」に変わったと主張する。

実は、この条約には当初から拡大解釈を懸念する声が上がっていた。西独(当時)は批准議定書に「子どもを成人と同等の地位に置こうというものではない」と明記し、米国に至っては「自然法上の家族の権利を侵害するもの」として批准しなかった。

日本では、増え続ける虐待や子供の貧困をひきあいに「子どもの権利」を法律に書き込んでいないことが問題だと短絡的に考えられている。

しかし、虐待が起こるのは子供の権利が法律に書き込まれていないからではない。夫婦や三世代が一体となって子供を愛情で包み込む家庭や共同体が壊れているからだ。

 子供政策は、家庭再建とセットで考えるべきである。
https://www.ifvoc.org/news/sekaishiso202201/
完全に子どもの人権を無視している組織が政権の中枢に入り込み、教育行政に影響を与えていたかもしれないというのは恐ろしいことです。

「健全な子どもになりたい」とか「健全な子どもに教育してほしい」などと思う子どもはいません。
「子どもを健全にしたい」と思うおとながいるだけです。
そして、おとなの思う「健全」は子どもの望むものとは必ずしも一致しないので、「青少年健全育成」は子どもの自由や裁量を制限することになってしまいます。

家庭教育支援法も原理は同じです。親が子どもを思う通りの人間にしようとすることを支援するものですから、「教育虐待」がさらに進みかねません。

家庭教育支援法について、「家庭教育に国家が介入するのはよくない」として反対する意見がありますが、これでは子どもの教育権を巡って国家と家庭(親)が争っていることになり、子どもの主体性を無視していることではどちらも同じです。


これまでの日本では、子どもを「権利の主体」や「学習する主体」と見なすのではなく、「教育の客体」と見なしてきました。
それこそが子どもの幸福度が低い根本原因です。
家庭教育も学校教育も「子どもの人権」「子どもの主体性」を尊重するものに再編しなければなりません。

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最近、ひろゆきこと西村博之氏が人気です。
「女性自身」が2月に実施した「好きな“ネットご意見番”」のアンケート調査で、ひろゆき氏が1位となりました(2位は中田敦彦氏、3位は古市憲寿氏)。
2022年の小学生の流行語ランキングの1位にひろゆき氏の「それってあなたの感想ですよね」がランクインしています。子どもにはとくに人気があるようです。

ひろゆき氏の評価は世代によって違います。
私などから見ると、ひろゆき氏は「2ちゃんねる」の管理人として日本のインターネット文化を決定づけた人です。
どういう文化かというと、ヘイトスピーチに代表される、匿名で人の悪口を言いまくるという文化です。
とりわけ2ちゃんねるにはボランティア、チャリティなどを冷笑したり攻撃したりする傾向がありました。子どもの高額な手術費を集めるために両親が募金活動をしているといったケースなどはよく炎上しました。PCの前に座ってなにもしない人間が、人のためになる活動をしている人間を冷笑するというのが典型的な2ちゃんねるの文化です。

インターネットの論調がそのようになるのは当たり前のことで、ひろゆき氏とは関係ないと思われるかもしれませんが、そうではありません。

掲示板の管理人というと、全体の管理だけをやっているイメージですが、掲示板へのアクセスが増えると収益も増えるので、ひろゆき氏はみずから書き込んで、あちこちで論争を仕掛けて、炎上や“祭り”を演出していたに違いありません。ですから、2ちゃんねるはひろゆき的なのです。
ひろゆき氏はこうした経験で論争のスキルを向上させて、現在の「論破王」の称号を得ることにつながったのでしょう。

現在のひろゆき氏の言論活動に、かつての2ちゃんねるの雰囲気が感じられます。たとえば沖縄の辺野古移設反対運動を揶揄したり、家出少女を救済する活動をしている一般社団法人「Colabo」を攻撃したりといったことです。かつてはアグネス・チャンさんが子どものための募金を日本ユニセフ協会に対して行うよう呼びかけているのに対して公開質問状を出したこともあります(日本ユニセフ協会は募金の一部を活動費に当てているが、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんの口座に募金すれば100%ユニセフ本部に送られるという主張です)。

ひろゆき氏は現在、アメリカの「4chan」という、2ちゃんねると同じような匿名掲示板の管理人をやっていますが、「4chan」は陰謀論の巣窟だそうです。陰謀論は手っ取り早くアクセス数が稼げるからでしょう。

2ちゃんねるではヘイトスピーチや名誉棄損の書き込みに対する規制がほぼありませんでした。そうしたことから、ヘイトスピーチと誹謗中傷が吹き荒れる日本のインターネット文化が形成されたのです。外国でも似た傾向がありますが、日本は程度が違います。ひろゆき氏の責任は重大です。

ひろゆき氏は名誉棄損の書き込みの削除要請に応じなかったために多くの訴訟を起こされ、次々と敗訴し、多額の損害賠償を支払うよう裁判所から命じられましたが、財産をすべて海外に移して支払いを免れるというとんでもない手段に出ました。現在に至るも支払っていないとされています。
こうした人間をテレビ局がコメンテーターとして使っているのは信じられないことです。


2ちゃんねるの歴史を知っている人間からすると、ひろゆき氏は倫理観がすっぽりと抜け落ちた人間です。こういう人間が一般の人に人気になるのは理解できません。若い人は昔のことを知らないからだろうと思っていました。
しかし、ひろゆき人気はどんどん高まって、とりわけ小学生に人気が高いといいます。
小さい子どもというのは“本物”を見分ける感性を持っているものです。これは私の認識が間違っているのかもしれないと思い直しました。

そこで、ひろゆき氏の本でいちばん売れているらしい『1%の努力』を読んでみました。
ほかの何冊かの本にも、アマゾンで目次とレビューに目を通しました。
そうしたことからひろゆき人気の理由を考えました。


ひろゆき氏は、先ほどいったように倫理観がすっぽりと抜け落ちた人間です。それがいいほうに出ているのです。

ひろゆき氏は『1%の努力』で「人生に意味などない。だから、幸せの総量をふやせばいい」と言います。
『ひろゆきのシン・未来予測』という本も基本は同じです。「日本の未来がよくなることはほぼ不可能である」という見通しを示し、その中で“自分だけ”幸せになる方法を伝授します。
それから、人生の目標を「金持ちになる」とか「ビジネスで成功する」とかに置いていなくて、「楽して生きる」といったところに置いています。

普通の人生の指南書は「社会に必要とされる人間になれ」とか「周りの人に尽くせば、周りの人があなたを助けてくれる」などと説いていますが、それとはまったく違います。
つまり道徳や倫理がなくて、「自分の幸せ」に焦点が絞られています。
そのため論旨がひじょうに明快です。

道徳にとらわれないと自由な生き方ができます。私もそれを勧めています。
道徳は誰か他人があなたの頭に植えつけたものですから、道徳に支配される人は、ひろゆき流に言えば「頭の悪い人」です。

ちなみに自民党の進める道徳教育は、国民を従順な羊にしようというものです。それがうまくいきすぎて、日本衰退の原因になっています。
道徳教育にうんざりしている子どもたちにひろゆき氏の言葉が刺さっているということもあるでしょう(私は道徳教育批判を『「かぼちゃのつる」の正しい指導法』という記事に書いています)。

ひろゆき氏の本に主に書かれているのは幸せになるためのノウハウです。
これが役に立つか否かは人によって違うでしょうから、それについての評価は控えます。


私は『1%の努力』を読んでいて、部分的に共感するところも納得しないところもありましたが、全体的になにかが違うという感じがぬぐえませんでした。
それはなにかと考えていたら、『「頭の悪い人」に理解されないこと・ベスト1』という記事に答えが書いてありました。その部分を引用します。
「本当は他の学校に行きたかったけど、親に言われたから今の学校に行っています」
「本当は他の仕事をしたかったけど、友達に反対されたから今の仕事をしています」

 そんな悩みを抱えている人がいます。

 僕がそれを聞いて思うことはひとつです。

「でも、最終的に決めたのはあなたですよね?」

 結局、どんな決断であっても、誰が何を言おうと、決めたのは「自分自身」なんですよね。

 それを棚に上げて、「だから嫌だったんだよ」と後から言い出すのは、かなり頭の悪い考えなんじゃないかと思うんです。

 でも、これ、あまり理解されないんですけどね。不思議です。
不思議もなにも、ひろゆき氏の考えのほうがよほど不思議です。
ひろゆき氏は「心の絆(愛着)」ということをまったく理解していないのです。
驚くべき頭の悪さです。

親と子は心の深いところで結びついています。ですから、親を亡くした人は深い悲しみと喪失感に襲われます。子を亡くした親はもっと深い悲しみと喪失感に襲われるでしょう。
肉親を亡くして悲しんでいる人に「死んだ人は生き返らないんだから、早く忘れてしまいなさい」と言うのは愚かですが、ひろゆき氏なら言いかねません。

親と子は深く結びついているので、親から望まない進路を強要された子どもはなかなか断れません。そのために不幸になってしまうことがあります。
つまりこれは“毒親”の問題です。
「あなたの親は毒親だから、早く家を出て自立しなさい」などと言うのもやはり頭の悪い人です。
親子の絆というのは、毒親であってもそう簡単に切れません。
毒親の子どもが自立するには、よいカウンセラーに巡り合うか、よい恋人やよい親代わりの人に巡り合うか、過去を回想しながら自己分析を重ねるしかありませんが、いずれにしても時間がかかります。

宗教二世の問題も同じです。
「あんなおかしな教義の宗教を信じている親なんか無視して、あなたは自分の人生を歩みなさい」と言っても、やはり親子は深い絆で結ばれているので、そうはいきません。
しかし、ひろゆき氏に言わせれば、宗教二世として悩んでいる人はただの頭の悪い人です。


ひろゆき氏はまた、「ひろゆき日記@オープンSNS。」というブログにこんなことを書いていました。
んで、おいらは恋愛映画が時間の無駄だと思ってる派です。。
二股になってどっちが好きになりましたがとか、根拠が「主人公がそう思ったから」とかなので、ストーリーの流れとかで推測してもしょうがないし、主人公がどっちが好きとかどうでもいいんですよね。。。それを知ったことで、人生に役立つことはないので、、、
んで、レビューで恋愛映画が面白いと思ってる人達の評価してる映画をお勧めされても無意味なんですよね。
この文章を読むと、恋愛映画だけでなく恋愛そのものにも興味がなさそうです。

つまりひろゆき氏は、親子関係にしろ恋愛関係にしろ、人間にとって愛着がたいせつであることを認識できないのです。
ひろゆき氏は倫理観がすっぽり抜け落ちた人だと言いましたが、そのもとには人間関係の認識の欠落がありました。

2ちゃんねるの書き込みで名誉を棄損され傷ついた人に対しても、ひろゆき氏はなにも思わないのでしょう。ですから、平気で損害賠償金を踏み倒すことができます。
一方、愛着によって思考が乱されないので、ディベートのときには強みになります。


私はかつてひろゆき氏の顔を見て、あまりにも無表情なので、爬虫類みたいな人だなと思ったことがあります(個人の感想です)。
しかし、最近のひろゆき氏は表情が豊かになって、結婚して夫婦関係もよさそうです。
パソコンを児童養護施設に寄付するという活動もしています(その金は損害賠償金の支払いに当てるべきだと言いたいですが)。
つまりだんだんと“真人間”になってきているのです。
ひろゆき氏の変化を見守りたいと思います。


余談ですが、成田悠輔氏の顔にもひろゆき氏と同じテイストを感じます。
こういう人が活躍する世の中でいいのだろうかと思います。

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