村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2023年04月

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岸田政権は「異次元の少子化対策」を打ち出し、統一地方選でもほとんどの候補が少子化対策、子育て支援を訴えていました。
少子化対策は今や最大の政治課題であるようです。

しかし、地球の人口は増え続けていて、そのために食糧不足、資源不足、環境問題が懸念されています。
それに、日本は人口密度世界ランキング27位で、山が多い地形を考慮するとかなりの人口過密国です。
先進国ほど少子化が進むという傾向もあります。
少人数でパイを分け合えば、一人当たりの取り分が増えます(たとえば一人っ子同士が結婚すると、ふたつの家の財産を受け継げます)。
そういうことを考えると、むりして少子化対策をしなくてもいいように思えます。

ただ、少子化が進むと国家の財政と年金制度が危機に瀕します。
日本政府が少子化対策に力を入れているのは、ひとえに財政と年金のためです。

つまり「カネ」の問題を解決するために「命」を利用しようとしているのです。
このことは国民誰もが感じていて、そのため少子化対策はあまり盛り上がらず、政府だけがカラ回りしている印象です。


「女性を人口目標の道具にしない 国連人口基金、出生率の考え方を提言」という記事によると、国連人口基金(UNFPA)は4月19日、「世界人口白書」を発表し、そこにおいて各国政府が実施している出生率の上昇や低下を目的とした政策は効果が出ないことが多く、女性の権利を損なう可能性があると指摘しました。
「女性の体を人口目標の道具にすべきではない」「出産時期や子どもの数は女性が自由に選ぶべきだ」という言葉は日本政府の耳に痛いでしょう。

安倍政権は「女性活躍」や「女性が輝く社会」を掲げて女性の労働力を活用してきましたが、岸田政権は女性の“出産力”まで活用しようとしているわけです。

ちなみに自民党では、第一次安倍政権のときに柳沢伯夫厚生労働相が「女性は産む機械」という発言をし、2018年には杉田水脈議員が月刊誌への寄稿で「(同性カップルは)子供をつくらない、つまり『生産性』がない」と述べたこともありました。


子どものいる人生と子どものいない人生ではまったく違うので、子どもをつくるかつくらないかは重大な決断です。
「異次元の少子化対策」には子ども1人月額1万円支給といった政策がありますが、こうしたことで子どもをつくることを決断する夫婦はあまりいないのではないでしょうか。
それに、少子化の原因は婚姻率が低下したことだという説があります。
内閣府ホームページの「第2章 なぜ少子化が進行しているのか」にも、少子化の原因として「未婚化の進展」「晩婚化の進展」「夫婦の出生力の低下」が挙げられています(「夫婦の出生力の低下」は「晩婚化の進展」ともつながっています)。
そうすると、少子化対策よりも未婚化・晩婚化対策をしたほうが有効だということになります。

いずれにしても、結婚、出産という人生の重大事を国家の財政危機解決に利用しようという発想が根本的に間違っています。



子どもを生まない夫婦が増えるのは、生んでも、その子が将来幸せになるかわからないということもあります。
去年1年間に自殺した小中高校生の数は512人で、過去最高を記録しました。若者の死因のトップが自殺であるという国はG7で日本だけです。
ユニセフが2020年に発表した「子どもの幸福度」調査によると、日本の子どもの「身体的健康」は38か国中で1位でしたが、「精神的幸福度」は37位と下から2番目でした。
つまり日本の若者は世界的に見てきわめて不幸です。
そして、その対策はなにも行われていません。
もし「異次元の少子化対策」が成功したら、不幸な若者が増えることになります。

4月1日、「こども家庭庁」が発足しました。
「こども」がひらがな表記であることに気づかない人も多いのではないでしょうか。普通は「子ども」と書くものだからです。
子どもが読みやすいようにひらがなにしたのなら、「こどもかてい庁」と全部ひらがなにするはずです。
「こども」だけひらがなにしたのは、「こども」と「家庭」に格差をつけようとしたからではないかと疑ってしまいます。

こども家庭庁は「こどもまんなか社会の実現」をキャッチフレーズにしています。
「こどもまんなか」というのもよくわからない言葉です。

自民党の政治家はよく「子どもは国の宝」と言います。
菅義偉首相が2021年4月に「子ども庁」(このときはこういう名称だった)の創設を表明したときに、「子どもは国の宝で、ここにもっと力を入れるべきだ」と語りました。
岸田首相も今年の3月17日の記者会見で「子供は国の宝です」(表記は官邸ホームページによる)と語っています。

こども家庭庁は「子どもは国の宝」をキャッチフレーズにしてもよさそうですが、もしそうすると、「子どもは国のものではない」とか「子どもは物ではない」といった反発があるでしょう。

岸田首相は3月17日の記者会見では「こどもファースト社会の実現」という言葉を二度も使っていました。
「子どもファースト」はわかりやすい表現です。
しかし、「子どもファースト」といえば誰でも「レディファースト」を連想します。
昔は「レディファースト」という言葉がよく使われました。「欧米の男性はエレベーターに乗るときは必ずレディファーストで女性を先に乗せるが、日本の男性は……」というぐあいです。
しかし、欧米でも性差別は深刻です。エレベーターに女性を先に乗せるなどというのはまやかしです。そのことがわかってきて、最近は「レディファースト」という言葉は使われなくなりました。

「子どもファースト」という言葉も同じことです。
「おとなが子どもをたいせつにする」というのは、おとなが主体で、子どもは客体です。
これではおとなが好き勝手にできます。

「こどもまんなか」も同じことです。あくまでおとなが主体です。

では、どんなキャッチフレーズがいいのかというと、これしかないというものがあります。
それは、
「おとな子ども平等社会の実現」
です。

今の世の中、「おとな子ども平等」をいう人はまずいないと思いますが、戦前には「男女平等」ということもまずいわれませんでした。

アメリカ独立宣言には「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利をあたえられており、その権利のなかには生命、自由、幸福の追求が含まれている」とあり、これをもって「天賦人権」とか「普遍的人権」といいます。
しかし、実際には先住民にも黒人奴隷にも人権はありませんでした。
さらに、選挙権がないという点では女性と子どもにも人権はありませんでした。
つまりアメリカ独立宣言は、実質的に「白人成人男性の支配宣言」であったわけです。
それから長い年月がたって、女性や先住民や黒人に選挙権が与えられてきました。
しかし、子どもにはまだ選挙権が与えられていません。

話は飛ぶようですが、岸田首相に爆弾を投げた木村隆二容疑者は、参議院の被選挙権が30歳以上と決められているのは憲法違反だとして裁判所に訴えていました。同様の訴訟は全国規模で行われています。
問題になっているのは被選挙権の年齢制限ですが、では、選挙権が18歳以上というのは正当かというと、なんの根拠もありません。おとなが適当に決めています。
最終的には選挙に関するすべての年齢制限は撤廃されるべきです。
そうなってこそ普遍的人権が実現したことになります。

ですから、「男女平等」と同様に「おとな子ども平等」もいずれ当たり前になるはずです。

もっとも、自民党にそのことを理解しろといってもむりです。
自民党は家父長制の家族を理想とする政党なので、家父長である男性が女子どもを支配するものと考えているからです。


国家の財政赤字は、経済成長によって税収を増やすことで解消できれば理想です。
しかし、日本はせいぜいGDP年1%程度しか成長しない国になりました。
となると、増税と歳出削減によって赤字をへらすか赤字を増やさないようにするしかありません。
しかし、増税と歳出削減は苦しいことです。
そこで、出生率を上げて、労働力人口を増やすことで税収を増やそうと考えたわけです。
しかし、この少子化対策は前からやっていて、少しも効果がないばかりか、さらに少子化が進行しています。

普通ならここで「少子化対策で税収増」という青い鳥を追うのは諦めて、増税と歳出削減に取り組むところです。
しかし、増税と歳出削減は苦しいので、さらに「異次元の少子化対策」へ突き進んでいるわけです。
おそらく自民党は戦時中の「産めよ増やせよ」という感覚のままで、女性の体と子どもの命を利用することになんの抵抗もないのでしょう。

女子どもを蔑視する自民党の少子化対策に効果がないのは当然です。
では、まともな少子化対策なら効果があるかというと、そうともいえません。せいぜい少子化の速度を少し遅らせる程度でしょう。
つまり今は少子化を前提として対策を考えるべきときです。


なお、「子どもを持ちたいのに持てない夫婦」や「結婚したいのにできない独身者」を救済する政策は必要です。
これは財政や年金とは関係なく、国民の福祉のために行うことです。

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岸田首相の選挙演説会場で爆発物を投げて逮捕された木村隆二容疑者(24歳)は、昨年7月の参院選に年齢制限と供託金300万円のために立候補できなかったのは憲法違反だとして国を提訴していました。
裁判は代理人弁護士を立てない「本人訴訟」です。

昨年6月に国に10万円の損害賠償を求めて神戸地裁に提訴、11月に請求が棄却されました。木村容疑者は大阪高裁に控訴し、3月23日に口頭弁論が行われましたが、木村容疑者のツイッターによると「本日の口頭弁論では審議不足を指摘した控訴人に対し、審議を拒否し。いきなりの結審でした。大阪高裁の無法振りが露呈しました」ということです。
木村容疑者はこのようにツイッターで裁判の経緯を報告するとともに自分の主張も発信していました。23件のツイートをしていましたが、その時点でフォロワーは0人だったようです。
いきなり結審したことで敗訴を覚悟し、ツイッターでの発信もうまくいかず、そのためテロに走ったと想像されます。

木村容疑者は安倍元首相暗殺の山上徹也被告との類似が指摘されますが、私が似ているなと思ったのは、Colabo問題に火をつけたツイッター名「暇空茜」氏です。
暇空氏はColaboについての東京都への情報開示請求や住民監査請求を全部一人で行い、ツイッターでその結果を発信していました。暇空氏の主張はほとんどでたらめでしたが、Colaboの会計にも多少の不備があったということで、アンチフェミニズムの波に乗って暇空氏の主張が拡散しました。

木村容疑者も暇空氏も一人で国や東京都と戦い、ツイッターで発信したのは同じですが、結果はまったく違いました。
もちろん二人の主張もまったく違います。
木村容疑者の主張は基本的に選挙制度を改革しようとするものです。
一方、暇空氏は、家庭で虐待されて家出した少女を救う活動をしているColaboを攻撃しました。Colaboの活動が制限されると、家出した少女が自殺したり犯罪の犠牲になったりするので、暇空氏の活動は悪質です。


木村容疑者の選挙制度批判はきわめてまっとうです。
国政選挙は供託金300万円(比例区は600万円)が必要です。
これは貧乏人を立候補させない制度です。
また、既成政党はある程度票数が読めるので、供託金没収ということはまずありませんが、新規参入する勢力は没収のリスクが高いので、新規参入を拒む制度ともいえます。

被選挙権の年齢制限も不合理です。
2016年に選挙権年齢が満20歳以上から満18歳以上に引き下げられましたが、被選挙権年齢は引き下げられませんでした。
なぜ被選挙権年齢をスライドして引き下げなかったのか不思議です。

そもそも参議院30歳以上、衆議院25歳以上という被選挙権年齢が問題です。これでは若者が同世代の代表を国政に送り込むことができません。
最初から若者排除の制度になっているのです。
18歳の若者が立候補して、校則問題や大学入試制度や就活ルールについてなにか訴えたら、おとなにとっても参考になりますし、同世代の若者も選挙に関心を持つでしょう。

木村容疑者の主張は、憲法44条に「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」とあるので、供託金300万円は「財産」で差別していることになり、憲法違反だというものです。
被選挙権年齢についても、成人に被選挙権がないのは憲法違反だというものです。
木村容疑者は自身のツイッターのプロフィールに「普通の国民が政治家になれる民主主義国を目指します」と書いています。

まっとうな主張ですが、日本の裁判所はまっとうな主張が通るところではありません。議員定数不均衡違憲訴訟でも、「違憲判決」や「違憲状態判決」は出ても、事態はなにも改善されません。

「民主主義が機能していない国ではテロは許される」という論理はありえます。
日本では警察、検察がモリカケ桜、統一教会に手を出さず、裁判所は選挙制度の違憲状態を放置してきて、それらが選挙結果に影響を与えてきました。
民主主義を十分に機能させることがテロ防止策として有効です。


もっとも、日本は民主主義が十分に機能していないといっても独裁国というほどではなく、自分の望む政策が実現しないというだけでテロに走ることはありえません。
テロに走るには、もっと大きい、根本的な理由があります。
それは、自分のこれまでの人生が不幸で、挽回の見込みがないと本人が判断して、自暴自棄になることです。
木村容疑者も山上被告も「拡大自殺」みたいなものです。

山上被告は統一教会の宗教二世で、いわば崩壊家庭で育ちました。
木村容疑者の家庭環境はどうだったのでしょうか。

現時点での報道によると、木村容疑者は母親とひとつ上の兄と三人暮らしで、父親は五、六年前から別居しているそうです。

週刊現代の『「父親は株にハマっていた」「庭は雑草で荒れ果てていた」岸田首相襲撃犯・木村隆二容疑者の家族の内情』という記事から引用します。

この住民は、小さい頃の木村容疑者の様子もよく知っていた。容疑者自身はおとなしい子だったが、よく父親に怒られる姿を見かけたという。

「お父さんがよく母親や子どもたちを怒鳴りつけててね。夜中でも怒鳴り声が聞こえることがあって、外にまで聞こえるぐらい大きな声やったもんやから、近所でも話題になってましたね。ドン!という、なにかが落ちるものとか壊れる音を聞いたこともあった。家族は家の中では委縮していたんと違うかな。

お母さんはスラっとしたきれいな人。隆二君はお母さん似やな。たしか百貨店の化粧品売り場で働いていたはずで、外に出るときは化粧もしっかりしてたね。でも、どこかこわばった感じというか、お父さんにおびえてる感じがあったよね」

では、木村容疑者の父親はどういう人物なのでしょう。
『岸田首相襲撃の容疑者の実父が取材に明かした心中「子供のことかわいない親なんておれへん」』という父親のインタビュー記事から引用します。

──隆二さんの幼少期は、お父様がお弁当を作ってあげていたと。
「そんな日常茶飯事のことなんて、いちいち(覚えてない)。逆に尋ねるけど、2週間前に食べたもの覚えてる? 人間の記憶なんてそんなもんや、日常なんて記憶に残れへん」

──今の報道のままでは、お父さんは誤解されてしまう気がします。
「まあ、俺がいちばん(隆二容疑者のことを)思ってるなんていうつもりはないし、順番なんて関係ないと思うよ。お腹を痛めた母親がいちばん思ってるんちゃうか。

 好きな食べ物なんやったんなんて聞かれても、何が好きなん? なんて、聞いたことないから。聞く必要もないと思ってたから。『いらんかったらおいときや』言うてたから、僕は。いるだけ食べたらええねんで、いらんかったら食べんかったらええねんでって。残してても、『なんで食べへんねん』なんて言うたことない。だから、強制なんてしたことないよ」

──幼少期のころの隆二さんについてお聞きしたいです。
「子供のことかわいない親なんて、おれへんやん」

──小学校の時は優秀だったそうですね。
「何をもって優秀っていうか知らんけどやな。僕は比べたことないねん、隆二と他の子を。人と比べてどうのこうのって感性じゃないから。自分がそれでいいと思うんやったら、それでいいから」

 そう言って、父親は部屋に戻っていった。

父親は質問に対してつねにはぐらかして答えています。「子供のことかわいない親なんて、おれへんやん」というのも、一般論を言っていて、自分の木村容疑者に対する思いは言っていません。
家の外まで聞こえるぐらい大声でいつもどなっていたというので、完全なDVです。

木村容疑者はDVの家庭で虐待されて育って、“幸福な生活”というものを知らず、深刻なトラウマをかかえて生きているので、普通の人のように生きることに執着がありません。
ですから、こういう人は容易に自殺します。

中には政治に関心を持つ人もいます。その場合、親への憎しみが権力者に“投影”されます。
木村容疑者は岸田首相を批判し、安倍元首相の国葬も批判していました。
山上被告は、母親の信仰のことばかりが強調されますが、父親もDV男でした。父親への憎しみが安倍元首相に向かったのでしょう。

このように虐待されて育った人は、存在の根底に大きな不幸をかかえているので、もしテロをした場合は、それが大きな原因です。政治的な動機はむしろ表面的なもので、最後のトリガーというところです。

最後のトリガーをなくすためには、警察、検察、裁判所がまともになり、選挙制度を改革して、民主主義が機能する国にすることです。
これはテロ対策とは関係なくするべきことですが、テロ対策という名目があればやりやすくなるでしょう。

根本的な対策は、家庭で虐待されて育った人の心のケアを社会全体で行い、今現在家庭で虐待されている子どもを救済していくことです。
これはテロ防止だけでなく、宅間守による池田小事件や加藤智大による秋葉原通り魔事件などのような事件も防止できますし、社会全体の幸福量を増大させることにもなります。

もっとも、言うはやすしで、今は幼児虐待こそが社会の最大の病巣であるということがあまり認識されていません。
むしろ認識を阻む動きもあります。
家庭で虐待されていた少女を救済する活動をしているColaboへの攻撃などが一例です。

それから、木村容疑者の家庭環境などを報道するのはテロの正当化につながるのでやめるべきだという人がけっこういます。そういう人は、木村容疑者やテロ行為の非難に終始します。
犯罪を非難して犯罪がなくなるのなら、とっくに世の中から犯罪はなくなっています。
犯罪の動機や原因の解明こそがたいせつです。

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私はこの「村田基の逆転日記」というブログのほかに「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっています。
「村田基の逆転日記」では時事的なことを書き、「道徳観のコペルニクス的転回」では思想的なことを書くという分担になっています。
「村田基の逆転日記」は週1回程度更新していますが、「道徳観のコペルニクス的転回」は最初から本1冊分を丸ごと公開したので、更新するということはありません。

「道徳観のコペルニクス的転回」を開設するときにこのブログで告知し、その後もたまにここで「道徳観のコペルニクス的転回」というブログがあることに触れてきましたが、最近アクセスが低調です。
「道徳観のコペルニクス的転回」はひじょうに重要な内容なのですが、本1冊分の文章を読むのが面倒だという人も多いでしょう。“タイパ”が重視され、映画も10分程度のファスト映画を見て済ましてしまう時代です。

そこで、「道徳観のコペルニクス的転回」の冒頭の「初めにお読みください」という部分を全面的に書き改め、「このブログはこんなにすごい内容なんだよ」ということを書きました。
推理小説でいえばネタバレになるようなことなので、本来は書きたくなかったのですが、ともかく重要な内容であることを知ってもらわないと話になりません。

その書き直した部分は、このブログの基本的思想でもあるために、ここに掲載することにします(つまりふたつのブログに同じ文章が載ることになり、こちらでも読めます)。



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道徳観のコペルニクス的転回

「初めにお読みください」
このブログは、一冊の本になるように書いたものなので、「第1章の1」から順番に読んでください。


どういう内容かというと、もちろん読んでもらえばわかるわけですが、ここでごく簡単に説明しておきます。

私は若いころから「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを考えていました。世の中のほとんどの人は悪をなくしたいと思っているはずなのに悪がなくならないのは不思議なことです。戦争、暴力、犯罪、圧政、差別など、人が人を不幸にすることはすべて悪の範疇でしょう。悪を完全になくすことはできないとしても、十分に少なくすることができれば、人類の幸福に大いに貢献することができます。しかし、思想家や哲学者が「悪をなくす」という課題に取り組んだ形跡はほとんどありません。これもまた不思議なことです。
ちなみに倫理学では善の定義は存在しません。ジョージ・E・ムーアは二十世紀初めに『倫理学原理』において善を定義することは不可能だと主張し、それに対して誰も善の定義を示すことができなかったので、善の定義はないとされています。当然、悪の定義もありません。倫理学で善と悪の定義がないのは、数学で「1+1」の答えがわからないみたいなものです。ですから、倫理学はまったく役に立たない学問です。試しに倫理学の本をどれでも一冊読んでみてください。わけがわからなくてうんざりすること必定です。哲学書、思想書はどれも難解ですが、おそらくその根底には倫理学の機能不全があるに違いありません。

私は「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを愚直に考え続けました。そうするとあるとき、答えがひらめいたのです。その瞬間のことは今も鮮明に覚えています。頭の中がぐるりと回転しました。「アウレカ!」と叫んで走り出しそうになりました。私は人類史上画期的な発見をしたことを確信しました。
これまでの倫理学は天動説のようなものでした。私は地動説的倫理学に思い至ったのです。したがって、この発見を「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
地動説的倫理学だと善と悪の定義ができますし、道徳(倫理)に関するさまざまなことが論理的に説明できます。これだけで地動説的倫理学の正しいことがわかります。

「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけたのは、比喩としてこれ以上ないほど適切だからですし、コペルニクスによる地動説の発見に匹敵するほどの歴史上の大発見でもあるからです。こういうと、話が大きすぎて信じられないという人がいるでしょう(私はSF作家でもあるのでSFのネタとも思われそうです)。そこで、これが実際に歴史上の大発見であると納得してもらえるように説明したいと思います。


地動説的倫理学は、人類の祖先がどのようにして道徳をつくりだしたかという仮説に基づいています。道徳が神から与えられたものでない以上、人間がつくりだしたと見るのは当然です。
実は道徳起源の仮説はもうひとつあります。それはチャールズ・ダーウィンの説です。ダーウィンは『種の起源』の12年後に『人間の由来』を著し、進化論から見た人間を論じましたが、そこにおいて人類の祖先がいかにして道徳をつくりだしたかの仮説を述べているのです。ダーウィンの道徳起源説は私の道徳起源説とまったく違います。
ダーウィンの道徳起源説が正しいか否かは、その後の展開を見ればわかります。
『人間の由来』以降、社会における弱肉強食の原理を肯定する社会ダーウィン主義と、遺伝によって人間を選別することを肯定する優生思想が猛威をふるい、とりわけ優生思想はナチスに利用されて悲劇を生みました。また、ダーウィンは『人間の由来』において人種の違いの重要性を主張したので、人種差別も激化しました。
『人間の由来』が社会ダーウィン主義と優生思想と人種差別を激化させて、社会に混乱と悲劇を生んだために、やがて人間に進化論を適用して人間性や社会を論じることはタブーとなりました。『人間の由来』は、ダーウィンが進化論を人間に適用して論じるというきわめて興味深い本なのに、進化生物学界の黒歴史となり、進化論の解説書などにもほとんど取り上げられません。

とはいえ、人間に進化論を適用することがタブーであるというのはおかしなことで、なによりも非科学的です。そのため人間に進化論を適用することはつねに試みられてきました。たとえば、血縁淘汰説とゲーム理論によって動物の利他行動が理論的に説明できるようになったことを背景に、昆虫学者のエドワード・O・ウィルソンは『社会生物学』において、人文・社会科学は生物学によって統合されるだろうと主張し、これをきっかけに生物学界だけでなく社会学、心理学、政治学、文化人類学などを巻き込んだ「社会生物学論争」と呼ばれる大論争が起きました。なぜそのような大論争になったかというと、政治的な右派対左派の論争でもあったからです(ウィルソンなどは右派)。そして、この論争の結論は、やはり人間に進化論を適用するのは人種差別や性差別を助長するのでよくないというものでした。もっとも、その結論は科学的なものではなく、声の大きいほうが判定勝ちしたといったものでした。

なぜこんなおかしなことになるかというと、すべてダーウィンの道徳起源説に原因があります。
進化論は生存闘争をする生物の姿を明らかにし、人間も例外であるはずがありません。ところがダーウィンは、人間は神に似せてつくられ、エデンの園で善悪の知識の実を食べたというキリスト教的人間観を捨てきれなかったのです。
ダーウィンは進化論と道徳を結合しました。その道徳は天動説的倫理学の道徳でした。社会ダーウィン主義は「社会進化のために人間は生存闘争をする“べき”である」というものなので、進化論と道徳の結合体であることがわかります。同様に優生思想は「人間進化のために劣等な人間は子孫を残す“べき”でない」というものなので、やはり進化論と道徳の結合体です。進化論という科学と結合したことで道徳が暴走したのです。
ところが、誰もこの間違いに気づきませんでした。天動説的倫理学は世の中の共通のフォーマットだからです。

もともと天動説的倫理学と科学は相容れませんでした。それは「ヒュームの法則」という言葉で表されます。科学が明らかにするのはあくまで「ある」という事実命題であって、「ある」をいくら積み重ねても「べき」という道徳命題を導き出すことはできないというのがヒュームの法則です。デイヴィッド・ヒュームが1739年の『人間本性論』において、「ある」と「べき」を区別しない論者が多いことに驚くと述べたことからいわれるようになりました。「ある」から「べき」を導くと、それは「自然主義的誤謬」であるとして批判されます。ヒュームの法則はきわめて有効なので、「ヒュームのギロチン」ともいわれ、自然科学と人文・社会科学のつながりを断ち切ってきました。ダーウィンは「ある」と「べき」を進化論によってつなごうとしたのですが、失敗しました。

進化論は聖書の創造説が信じられていた西洋キリスト教社会に衝撃を与え、それは「ダーウィン革命」と呼ばれました。ダーウィン革命によって科学的人間観が確立されるはずでした。しかし、ダーウィンが道徳起源説を間違えたために、ダーウィン革命は挫折しました。
それから150年ほどたって、たまたま私が正しい道徳起源説を思いつき、ダーウィン革命を完成させる役回りを担うことになったというわけです。
以上が「道徳観のコペルニクス的転回」が歴史上の大発見であるということの説明です。

もっとも、「三流作家のお前の説よりも、偉大なダーウィンの説のほうが正しいに決まっている」と思う人もいるでしょう。どちらの説が正しいかは本文を読んで判断してください。
なお、ダーウィン説と私の説は正反対で、表裏がひっくり返ったようなものです。したがって、第三の説はないでしょうから、判断するのは簡単です。
最終的には進化生物学の専門家が決めればはっきりします。私としては、とりあえず進化生物学界の重鎮である長谷川眞理子・寿一夫妻(長谷川眞理子氏は『人間の由来』の翻訳者でもある)や、進化論と人間について大胆な説を展開してきた進化学者の佐倉統氏などに認めてもらうことを期待しています。


「道徳観のコペルニクス的転回」を信じてもらうために、その効用を少し述べておきます。

日本でもアメリカでも保守対リベラルの分断が深刻化していますが、これは社会生物学論争における右派対左派の対立と同じ構図です。社会生物学論争が科学的に解決しなかったので、今に持ち越されているのです。したがって、この対立は地動説的倫理学によって解消されるはずです。
保守対リベラルの対立のもとには人種差別、性差別、家族制度の問題があります。性差別と戦ってきたフェミニズムは、セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的性差)を区別し、セックスは肯定しますが、ジェンダーは否定します。しかし、なぜ肯定的なものから否定的なものが生じたのかは説明されません。これは「ある」と「べき」の関係がわからないのと同じです。地動説的倫理学は「ある」と「べき」の関係をはっきりさせるので、セックスとジェンダーの関係もはっきりします。これによってフェミニズム理論はわかりやすくなるでしょう。

さらに「子ども差別」というものがあることを指摘したいと思います。人種差別や性差別は、差別する側と差別される側が固定されて一生変わることがありませんが、子ども差別の場合は、おとなが子どもを差別し、子どもがおとなになると子どもを差別するというように、世代が変わるごとに差別する側と差別される側が入れ替わっていきます。そのためあまり認識されていませんが、子ども差別こそ文明における最大の問題です。

人間の能力は原始時代からほとんど変化していないので、文明が高度に発達するほど人間の負担が重くなります。とくに負担がかかるのは子どもです。人間は学ぶことを喜びとする性質があるのに、文明社会では子どもは学びたいと思う以上のことを強制的に学ばされています。また、「道路に飛び出してはいけません」とか「行儀よくしなさい」とか言われて、子どもらしいふるまいが抑圧されています。文明が進むほど子どもは不幸になります。子ども時代が不幸でもおとなになってからそれ以上に幸福になればいいというのが子どもを教育するおとなの理屈ですが、子ども時代の不幸はおとなになっても尾を引きます。
「子どもの不幸」を最初に発見したのはジグムント・フロイトです。しかし、これはおとなにとって不都合な真実ですから、フロイトはおとな社会の圧力に負けてすぐに隠蔽してしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な理論を構築しました。その後も心理学者は発見と隠蔽を繰り返し、いまだ十分に認識されているとはいえません。幼児虐待も、子どもが殺されたりケガしたりするようなものが表面化するだけで、子どもが親による虐待に耐えかねて家出しても、警察などに発見されるとすぐに家に戻されてしまいます。最近は「毒親」や「アダルトチルドレン」や「サバイバー」という言葉もできて、自分の子ども時代の不幸を認識するおとながふえてきましたが、社会全体の理解はまだまだです。

これまで文明を論じるのは高度な知性を持ったおとなばかりでした。そのため文明は子どもの犠牲の上に築かれているという事実が認識されませんでした。地動説的倫理学によって初めて文明の全体像が認識できるようになったのです。これからはおとなと子どもがともに幸福であるような社会を目指さなければなりません。

家父長制という言葉があります。これはひとつの家庭に子ども差別と性差別がある家族制度だと見なすとよく理解できます。家族が愛情で結ばれているのではなく、夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配していて、子ども同士でも男と女、年上と年下で上下関係がある家族です。このような家族を維持するか、愛情ある家族を回復するかという対立が、保守対リベラルの対立の根底にあります。

最近、進化心理学など進化生物学を土台にした「進化〇〇学」と称する学問がいくつもできていますが、ヒュームの法則という枠がはめられているので、発展にも限界があります。しかし、地動説的倫理学に転換すればヒュームの法則を無力化することができ、人間の行動や心理に対する科学的研究が一気に進展します。
これは「ダーウィン革命の再開」であり、「第二の科学革命の始まり」です。

ぜひとも「道徳観のコペルニクス的転回」を理解していただきたいと思います。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



上の文章とその続きは次で読んでください。
「道徳観のコペルニクス的転回」


それにしても、私のような平凡な人間が「地動説に匹敵する歴史上の大発見」とか「第二の科学革命」とか言うのはひじょうに大きな心理的抵抗があります。その葛藤があるためこれまでよく伝えられなかったきらいがありました(それに加えてトラウマもありました。これについては「作家デビューのときのトラウマ」を参照)。
ようやく最近吹っ切れてきたので、この「初めにお読みください」を書き直すことができました。


「道徳観のコペルニクス的転回」とか「地動説的倫理学」といった比喩は決していい加減なものではありません。
私は善と悪の関係について考えました。私は「この人は善人。あの人は悪人」と判断していますが、私自身も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。もし自分が悪人であったら、私の判断はどうなるのでしょう。善人を悪人、悪人を善人と判断しているかもしれません。
自分が善人でなければ自分の判断は正しいということができません。
私は自分が善人である根拠はどこにあるだろうかと考えました。これはデカルトの方法的懐疑と同じですが、デカルトは「存在」を懐疑し、私は「判断」を懐疑したわけです。
私は「善人、悪人、自分」の関係はどうなっているのだろうと考えました。
コペルニクスは金星や火星の動きを明快に理論化できないかと考えているうちに、地球も金星や火星と同様に動いているのではないかと思いつき、「金星、火星、地球」の関係を考えているうちに太陽中心説を思いついたわけです。
私も同じようにして、あるものを中心とすることで理論化できたのです。
「あるもの」というのは、人間でなく動物、文明人でなく原始人、おとなでなく子どもです。
これまでは人間、文明人、おとなという自己中心の発想だったので、まともな倫理学が存在しませんでした。
ですから、「天動説的倫理学から地動説的倫理学へ」という比喩は実に適切です。


おとなが子どもを「よい子」や「悪い子」と判断し、「悪い子」を「よい子」にしようとすることが普通に行われています。
しかし、「よい赤ん坊」や「悪い赤ん坊」はいません。
いるのは「よいおとな」と「悪いおとな」です。
子どもと触れ合うことで人間の真の姿を知り、自分自身を見直すのが「よいおとな」です。
「悪いおとな」は子どもを「よい子」にしようとして、幼児虐待へと突き進みます。

幼児虐待は文明社会で広く行われています。
幼児虐待はDVの連鎖を生むだけでなく、自殺、自傷行為、さまざまな依存症、自己中心的な人間、冷酷な人間、猟奇犯罪者を生む原因でもあります。
「道徳観のコペルニクス的転回」が早く世の中に受け入れられることを願っています。


2015年、文科省は大学の文系学部を廃止する方向で改革するという報道があり、大きな騒ぎになりました。
この報道は少し行き過ぎていたようであり、文科省も反対の大きさに軌道修正したようでもあり、騒ぎは落ち着きました。
しかし、こうした騒ぎが起きるのは、多くの人が文系学問、とりわけ人文学系学問の価値に疑問を抱いているからでしょう。
人文学の中心にあるのは倫理学ですが、すでに述べたように倫理学はまったく機能していません。
機能していないことが逆に幸いして、倫理学は自然科学の侵入を防ぐ防壁になっていました。
しかし、防壁は今や壊れようとしているわけです。
人文学系学問はみずから脱皮しなければなりません。若い研究者の奮起が期待されます。

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3月29日、30日に120カ国・地域が参加したオンライン形式の第2回「民主主義サミット」が行われました。
これはバイデン大統領の「価値観外交」に基づいて行われるもので、中国、ロシア、イランなどは招待されていません。
アメリカは価値観によって世界を分断しようとしています。

岸田文雄首相は昨年5月、バイデン大統領が来日したときの共同記者会見で「米国は日本にとって自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的な価値を共有する、我が国にとって唯一の同盟国です」と語りました。
同様のことは繰り返し言っています。

一国のリーダーは「他国と価値観を共有する」などと安易に言ってはいけません。
国の価値観は変化するからです。
アメリカは分断が深まって、保守派とリベラル、トランプ前大統領とバイデン大統領では価値観がぜんぜん違います。
岸田首相はどちらの価値観を共有しているつもりなのでしょうか。


そもそも岸田首相はアメリカの価値観を誤解しています。
たとえば「法の支配」です。
アメリカ国内で法の支配が行われているのは事実ですが、国際政治の世界では法の支配はほとんど行われていません。
たとえば国際刑事裁判所(ICC)は今年3月17日にプーチン大統領に対して逮捕状を発行しましたが、あまり意味のない行為だとされます。
というのは、アメリカもロシアも中国もICCに加盟していなくて、ICCにあまり力はないからです。
アメリカが法の支配を重視するなら、率先してICCに加盟し、他国に対して加盟するよう要請するはずです。

アメリカがICCに加盟しないのは、アメリカ兵の戦闘中の行為がICCによって戦争犯罪として裁かれるのを避けるためだといわれます。
さらにアメリカは自国民をICCに引き渡さないようにする二国間免責協定の締結をICC加盟国に要請しています。この協定は双務的なものではなく、米軍兵士、政府関係者ならびにすべての米国籍保有者を保護する目的で同協定の締約国にICCへの引渡しを拒否するよう求める片務的なものです(「解説(上) 二国間免責協定(BIA)に関する公式Q&A」による)
つまりアメリカは自国だけ法の裁きを受けないようにしようとしているのです。
具体的な事例としては、ICCがアフガニスタン戦争に従事した米兵らへの戦争犯罪捜査を承認したとき、その対抗措置として、ICC当局者への査証発給禁止などの措置がとられたことがあります。

つまりアメリカは自国だけ例外にしろと主張しているわけで、これは法の支配の破壊です。
このようなアメリカの利己的なふるまいが各国の利己的なふるまいを呼び、戦争やテロにつながっていきます。

日本はもちろん加盟国です。
岸田首相は「アメリカと価値観を共有する」と言うのではなく、「アメリカにICC加盟を強く求める」と言わねばなりません。


アメリカが尊重するのは、法の支配ではなく力の支配です。

アメリカは、その軍事費が世界の軍事費の約4割を占める圧倒的な軍事大国です。
世界が平和になってしまえば、せっかくの軍事力の優位が生かせません。
そのためアメリカは世界につねに戦争ないしは戦争の危機が絶えないようにしています。

かつては自由主義陣営対共産主義陣営の対立が戦争の危機を生んでいました。
共産主義陣営が崩壊すると、イスラム原理主義が新たな敵となり、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争が行われました。
そして、最近は民主主義陣営対権威主義陣営の対立が演出されています。
「民主主義サミット」はその一手段です。

ウクライナ戦争はアメリカが引き起こしたものだとはいえませんが、ウクライナ戦争によりアメリカの同盟国はアメリカへの依存を強め、日本もドイツも防衛費をGDP比2%にすると決めたので、結果的にアメリカの利益になっています。


力の信奉はアメリカの国是みたいなものです。
独立戦争、先住民との戦い、黒人奴隷の使役の中で形成されたものと思われます。

アメリカの歴史は銃でつくられたようなものですから、銃犯罪が深刻化しても銃規制がなかなかできないのも当然です。
2021年にはアメリカ国内での銃による死亡者数は約4万8000人でした。
ちなみに日本では殺人事件の死亡者数が年間300人程度です。
日本とアメリカの価値観はぜんぜん違います。

ハリウッド映画の定番は、正義のヒーローが悪人をやっつける物語です。
これもアメリカの力の信奉の表れです。
こうした物語は「勧善懲悪」といわれます。「懲悪」は「悪をこらしめる」ということです。
昔の映画では、悪人をこらしめて、最後に悪人が改心するという物語もありましたが、最近はすっかり見かけません。
今は正義のヒーローが悪人を全部殺してしまいます。そのための派手な銃撃と爆発シーンが盛り沢山です。
アメリカ国民の意識も変わってきているようです。
アメリカはウクライナ戦争をどう終わらせるつもりでしょうか。


ともかく、アメリカは「法の支配」を無視しています。
さらにいうと、「民主主義」も無視しています。

バイデン大統領は「民主主義陣営対権威主義陣営」ということをいいますが、民主主義国は非民主主義国を敵視しません。敵視する理由がありません。
アメリカは世界を分断する理由に「民主主義」を利用しているだけです。

アメリカが民主主義を尊重するなら、国連の運営を民主化しなければなりません。
五大国の拒否権などというおかしなものは廃止して、国連総会の多数決による議決を絶対化し、強力な国連軍が議決を執行するようにします。
こうすれば「法の支配」と「民主主義」が同時に実現し、世界は平和になります。

世界を平和にするのは簡単です。
アメリカの価値観がそれに合わないだけです。

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