村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2023年05月

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G7広島サミットでは、ウクライナ戦争の停戦が議論されなかっただけでなく、戦争の今後の見通しも示されませんでした。
昨年2月に戦争が始まって、すでに1年3か月がたっています。
アメリカは双方の戦力をかなり正確に把握しているので、最終的な帰結は見えているはずです。

ウクライナ戦争が始まったとき、この戦争はどちらが勝つのかということを誰もが考え、議論が起こりました。
ところが、戦争が長引くとともにそうした議論はなくなりました。
テレビに出てくる専門家たちも、現在の戦況については解説しますが、今後どうなるかは語りません。


今の報道ではどちらが優勢かという肝心のことがまったくわかりません。その典型がバフムト攻防戦です。

バフムトはドネツク州の交通の要衝で、ウクライナ軍が駐屯していたところをロシア軍とワグネルが包囲して、半年以上にわたって激戦が繰り広げられてきました。
一応ロシア側が包囲して攻撃しているのですから、ロシア優勢と見るのが普通ですが、報道だけ見ていると、むしろウクライナ優勢に思えます。

たとえば2月16日の『バフムト抗戦はウクライナ反転攻勢の「準備」…ロシア軍の戦力消耗狙う』という読売新聞の記事には、『 ウクライナの国防次官は15日、SNSで、バフムトなどの攻略を図る露民間軍事会社「ワグネル」について、「死傷者数が80%に達する突撃部隊もある」との見方を示した。英国のベン・ウォレス国防相は15日、英BBCで、露軍は投入可能な戦車の約3分の2を失い、戦闘力が40%低下している可能性を指摘した』といったことが書かれています。
3月9日の「バフムト陥落でもその先にロシア軍を待つ地獄」というニューズウィーク日本版の記事には、「ロシア軍は激しく消耗しており、ウクライナ東部の要衝で勝利したとしても、大きな代償を払うことになる可能性が高い――米シンクタンクの戦争研究所(ISW)が、こう指摘した」と書かれています。
3月25日の「ウクライナ激戦地バフムト ロシアの攻撃失速 防御重視に移行か」というNHKの記事によると、「ウクライナに侵攻するロシア軍は、掌握をねらってきた東部の激戦地バフムトで攻撃の勢いが失速し、大規模な攻撃から防御をより重視する態勢に移行しようとしているという見方がでています」ということです。

実際、ワグネル創始者のプリコジン氏は動画の中で、弾薬の補給が足りないことに怒りを爆発させ、ショイグ国防相とゲラシモフ参謀総長を呼び捨てにし、弾薬不足が解消されなければバフムトから撤退すると言いました。
この動画を見たときは、ロシア側もそうとう苦しいのかと思いましたが、その後、プリコジン氏は「武器弾薬の供給が約束された」として、バフムトでの戦闘を継続する意思を示しました。

そして5月20日、ロシアはバフムトの「完全制圧」を発表しました。この日はゼレンスキー大統領がG7に参加するため広島に到着した日でもあります。
ゼレンスキー大統領は21日の記者会見で、「バフムトはウクライナの統制下にあるか」という記者団の質問に「そうは思わない」と述べ、続いて「現在、バフムトは我々の心の中だけにある。悲劇だ。そこには何もない」と述べました。
もっとも、その数時間後の記者会見ではゼレンスキー大統領は「バフムトは現在占領されていない」と発言を修正しました。
また、ウクライナの国防次官は同日、SNSでウクライナ軍が「市内の一角を掌握し続けている」と強調しました。

その前からロシアはバフムトを「占領」したとか「解放」したとか発表し、そのつどゼレンスキー大統領が「戦闘は継続している」と言い返すのがお決まりで、今回もそのパターンとなりました。

しかし、今回はそれまでと違います。
ワグネルが25日にバフムトから撤退を開始し、ロシア軍に占領地を引き渡すと発表しました。
どう見てもバフムトはロシアに占領され、ウクライナ軍は撤退したと見られます。


そもそもバフムトがこれほどの激戦地になったのは、ゼレンスキー大統領の意地があったからです。
3月の時点でこんな記事が書かれていました。
ゼレンスキー氏、バフムト放棄を否定 米欧は撤退を助言か
ウクライナのゼレンスキー大統領は3日、最激戦地である東部ドネツク州の要衝バフムトについて「われわれは可能な限り戦う」と述べ、ウクライナ軍に同市を放棄する考えはないと表明した。
(中略)
これに先立ち、米CNNテレビは1月下旬、バフムトには軍事的価値が乏しいとし、米欧がウクライナに戦闘の軸を東部から南部に移すよう促していると報道。米ブルームバーグ通信も2日、米欧がウクライナに対し、米欧製戦車の実戦投入など反攻の条件が整うまでは戦力の損耗を抑える必要があり、バフムトの放棄も検討すべきだと助言していると報じた。

ただ、ウクライナにとって、約半年間にわたって激戦が続くバフムトは抗戦の象徴的存在となっている。ゼレンスキー氏はバフムトの放棄によりウクライナ軍の士気が低下する事態を避けたい思惑だとみられる。
(後略)
https://www.sankei.com/article/20230204-5LW2M7X7ABLHVKBBBY3R7DQT7E/

つまりこのときからアメリカなどはバフムト攻防戦の帰結を見通して、撤退を勧告していたわけです。
ただ、ゼレンスキー大統領も個人的な意地を張ったわけではないでしょう。ウクライナの国民感情がバフムトの放棄を許さない感じだったのではないかと思われます。


それにしても、ウクライナ軍が劣勢であったバフムト攻防戦を、まるでロシア側が苦戦しているように報道してきたマスコミはなんだったのかということになります。
マスコミはウクライナとNATOの発表する“大本営発表”をそのまま垂れ流してきたのです。

ウクライナとNATOが戦況を自分たちが優勢であるかのように発表するのは当然です。ウクライナ国民と兵士の士気にかかわるからです。ロシアも同じことをしています。
しかし、マスコミやジャーナリズムは“真実”を報道しなければなりませんが、そういう気概をもったマスコミはほとんどないということがよくわかりました。


そういうことを踏まえると、マスコミも専門家もウクライナ戦争の帰結を語らなくなった理由がわかります。
それは、ウクライナに勝ち目がないということです。

このところフランスやドイツやイギリスが最新鋭の戦車を提供するということが話題になり、さらにF16戦闘機の供与も決まって、ウクライナ軍の戦力が増強されているというイメージがつくられています。
しかし、最新鋭の戦車でもミサイルが命中すれば同じことですから、たいして戦力増強になるとは思えません。
F16戦闘機も、戦場に登場するのはだいぶ先ですし、これまでの戦況を見ても航空機はほとんど活躍していません。

一方、ロシア軍の戦力増強のニュースはまったくありませんが、増強していないはずがありません。
ロシアはナチスドイツに攻め込まれたとき、ドイツに負けない優秀な戦車を開発し、大量の大砲とロケット砲をつくってドイツ軍を戦力で圧倒しました。
その経験があるロシアは、急速に戦力を増強しているに違いありません。

バフムト攻防戦は両軍が死力を尽くし、その結果ロシア軍が勝ちました。ということは、今後の戦いにおいてもロシア軍がウクライナ軍に勝つことになりそうです。
もともとロシアとウクライナでは人口も兵員数も違います。消耗戦が長期化すれば、ウクライナ軍は消滅します。


ウクライナ政府は何か月か前から「5月に反転攻勢する」ということを繰り返し言ってきました。
ほんとうに反転攻勢するつもりなら、なにも言わずに相手を油断させるはずです。
国民と兵士の士気を鼓舞するために言っていたのでしょう。
もう5月も終わりです。


日本政府はウクライナをさまざまな形で支援していますが、ウクライナに勝ち目がないなら、支援は戦いを長引かせて悲劇を増大させるだけです。

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5月19日、G7首脳は広島平和記念資料館を訪問しました。
平和記念資料館の原爆の悲惨さを伝える展示は、見た人に強烈な印象を与えるので、世界の首脳たちに広島訪問を義務化すれば世界は平和になるのではないかという意見もあるぐらいです。
G7首脳は展示を見てどう思ったのでしょうか。
ぜひとも知りたいところですが、そうした発表はまったくありません。
日本政府が“言論統制”を敷いているのでしょうか。

ただ、各首脳は平和記念資料館で記帳をして、それは外務省が公開していますが、読んでみると、官僚の作文としか思えない抽象的な内容です。

「G7首脳による平和記念資料館訪問(記帳内容)」

平和記念資料館で展示を見たのにその感想がまったく発信されないのは、平和記念資料館に対する侮辱です(その後、バイデン大統領とマクロン大統領の感想は少し伝えられました)。
実際のところは、バイデン大統領への忖度なのでしょう。

アメリカは広島への原爆投下で約14万人を殺戮し、無差別都市爆撃という国際法違反の上に、非人道的大量破壊兵器の使用という二重の罪を犯しました。
広島の原爆の悲惨さについて語れば、おのずと「アメリカの罪」が浮き彫りになり、バイデン大統領の立場がなくなります。


G7の国はすべてウクライナへの軍事支援を行っています(日本は殺傷兵器除く)。
ウクライナのゼレンスキー大統領が途中からG7に合流したので、G7はまるで「ウクライナ軍事支援会議」になりました。
実際、共同声明ではウクライナのために「ゆるぎない支援を必要な限り行う」と表明されました。
バイデン大統領は21日、約500億円相当の弾薬や装備品の支援とともにF16戦闘機の供与を容認すると発表しました。
休戦の提案などはありません。
戦争の火に油を注ぐだけです。
これもまた平和都市広島への侮辱です。

今回のG7を広島で開催すると決めたのは岸田首相ですが、広島で開催した意味がまったくなく、逆に平和都市広島のイメージダウンでした。



どうしてG7でウクライナ戦争を終わらせるという議論がなかったのでしょうか。

ウクライナ戦争が始まったとき、人々はこの戦争をどうとらえるか悩みましたが、次第に方向性が固まってきました。
実は、その方向性が間違っていたのです。
その間違いをリードしたのはバイデン大統領です。

意外なことにトランプ元大統領が正しいことを言っています。
トランプ氏は5月11日の対話集会において、ウクライナ戦争について問われ「私が大統領なら1日で戦争を終わらせるだろう」と述べました。
「1日」というのは大げさですが、アメリカの大統領が本気になればすぐに戦争を終わらせられるのは確かです。
たとえばアメリカやNATO諸国が武器弾薬の供給を止めれば、ウクライナ軍はたちまち砲弾を撃ち尽くして戦争継続ができなくなります。

トランプ元大統領はまた、プーチン大統領を戦争犯罪人と考えるかどうかと問われて、「彼を戦争犯罪人ということにすれば、現状を止めるための取引が非常に難しくなるだろう」「彼が戦争犯罪人となれば、人々は彼を捕まえ、処刑しようとする。その場合、彼は格段に激しく戦うだろう。そうしたことは後日話し合う問題だ」と答えました。

私はトランプ氏をまったく支持しませんが、この点についてはトランプ氏は正しいことを言っていると思います。

バイデン大統領はトランプ氏とはまったく違います。
バイデン大統領は昨年3月16日、記者から「プーチンを戦争犯罪人と呼ぶ用意はありますか」と聞かれ、一度は「いいや」と答えたものの、「私が言うかどうかの質問ですか?」と聞き返し、その上で「ああ、彼は戦争犯罪人だと思う」と述べました。
さらに昨年4月4日、バイデン大統領はロシア軍が撤退したあとのブチャで民間人の遺体が多数見つかったのを受け、プーチン大統領を「彼は戦争犯罪人だ」とはっきりと述べました。
昨年10月10日には、ロシアによるウクライナ全土へのミサイル攻撃を受けて声明を出し、その中で「プーチンとロシアの残虐行為と戦争犯罪の責任を追及し、侵略の代償を払わせる」と述べました。
そして今年の3月17日、国際刑事裁判所はプーチン大統領に対して戦争犯罪の疑いで逮捕状を発行しました。

今ではプーチン大統領は戦争犯罪人であるという認識が(少なくとも西側では)広まっています。


ロシアがウクライナに侵攻したときは、「ウクライナも悪い」とか「NATOも悪い」という議論がありましたが、やがてこれはロシアの「侵略」だということが共通認識となりました。
もちろん「侵略は悪い」ということになります。
そして、ロシアは「悪」で、プーチン大統領は「悪人」ということになりました。

ロシアが「悪」だとなると、ハリウッド映画的な「勧善懲悪」の原理が発動します。
G7などは「正義」のウクライナを支援して「悪」のロシアをこらしめようとしているわけです。

犯罪者や悪人と交渉や取引をするべきでないというのが世の中の常識です。
アメリカは9.11テロのあと、「テロリストとは交渉しない」という姿勢で対テロ戦争に突き進みました。
したがって今、アメリカなどはロシアと交渉する気がまったくありません。

岸田首相は5月21日の記者会見で「1日も早くロシアによるウクライナ侵略を終わらせる。そのために、厳しい対露制裁と強力なウクライナ支援を継続する。今回のサミットでは、G7はこの点について固い結束を確認いたしました」と語りました。
ロシアを屈服させるまで戦い続けるということです。


昔は戦争の帰結がある程度見えてくると、講和をして早めに戦争を終わらせたものです。
しかし、アメリカは違います。第二次大戦のとき、日本ともドイツとも講和しようとせず、徹底的に無力化するまで戦い続けました。
アメリカは今でも「正義の戦争」を信じているようですが、世界が従う必要はありません。

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「弱きを助け、強きをくじく」という言葉があります。
正義のヒーローのキャッチフレーズとして昔はよく使われていましたが、最近はあまり耳にしません。
国語辞典には「弱い者を救い、横暴な者をこらしめる。任侠の気風をいう」とあり、任侠に由来する言葉なので、使いにくいのでしょうか。

「強きをくじく」と言っておきながら正義のヒーローがいちばん強いわけで、そこに矛盾があります。任侠という特殊な立場だから成立する言葉かもしれません。

「弱きを助け、強きをくじく」という言葉を批判する立場もあります。
モラロジー道徳教育財団の「道徳の授業:親切・思いやり」というページにこう書かれています。
「弱きを助け、強きをくじく」というと、一見カッコよく、道徳的に聞こえますが、弱者をすべて善人、強者をすべて悪人と見るのも、はなはだあわてた結論でしょう。

 また、弱い者を偏愛することになり、そのため、やたらと強い者を憎み、これに刃向かう気風をつくってしまうという一面があります。

 同情や親切は大切な道徳ですが、深い理性と真に人を愛する心が伴ってこそ、質のよい価値ある道徳といえましょう。

モラロジー道徳教育財団というのは、ウィキペディアによると『廣池千九郎が1926年に説いた「道徳科学」(moral+-logy)を基に始まった修養・道徳団体。教育再生、道徳教育による「日本人の心の再生」を主張し、その出発点を家庭に置く』となっていますが、私の印象としてはひじょうに宗教に近い感じがしますし、道徳教育を重視する点で自民党とも近い感じがします。

強者をすべて悪人、弱者をすべて善人と見なすことに疑問を呈していますが、これはモラロジーが強者の側に立っているからでしょう。


弱者がすべて善人であるかどうかわかりませんが、強者がすべて悪人であるというのはかなり正しいかもしれません。
それを肯定する言葉があります。

それは「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉です。

19世紀末のイギリスの歴史家で政治家のジョン・アクトンが述べた言葉ですが、アクトンはフランス革命の歴史や自由主義を研究した人なので、単なる思いつきの言葉ではありません。

この言葉の正しさは、現実を見てみればわかります。
長い歴史において、善政を敷いた権力者はいないではありませんが、ごく少数です。しかも、その善政の期間は短いものです。
政権が長期化すると、どんな権力者も独裁者と化していきます。独裁者が民衆のための政治をするわけがありません。
最近の政治を見ても、ウラジミール・プーチン、習近平、安倍晋三と、長期政権は独裁化していきます。

企業経営者も同じです。
最初は優秀な経営者でも、長期化するといつしか周りをイエスマンで固め、ワンマン経営者といわれ、独善的な経営をするようになります。

例外がないとはいえませんが、「権力は腐敗する」というのはかなりの程度真実です。

「権力は人を酔わせる。酒に酔った者はいつかさめるが、権力に酔った者は、さめることを知らない」という言葉もあります。
これはアメリカの政治家のジェームズ・バーンズの言葉です。

ともかく、権力は腐敗し、横暴になり、弱者をいじめるので、「弱きを助け、強きをくじく」という原理で行動すれば、ほとんどの場合間違いありません。

決して名言だけを根拠にして主張しているわけではありません。
ちゃんと“科学的”な根拠もあります。
次の実験は、金持ちと貧しい人についてのものですが、現代社会で金を持っていることは権力を持っていることと同じようなものでしょう。
お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究
2012年2月29日 14:49 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 北米 米国 ]

【2月29日 AFP】社会的地位の高いお金持ちはそれ以外の人々よりも、交通ルールを守らず、子供のキャンディーを横取りし、金銭的利益のためにうそをつく傾向があるとする研究結果が、27日の米科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に発表された。

 米カリフォルニア大学バークレー校(University of California at Berkeley)とカナダ・トロント大(University of Toronto)の心理学者チームは、米国で行った人間行動に関する7つの実験を分析した。

 ある実験では、メルセデス・ベンツ(Mercedes-Benz)やBMW、トヨタ(Toyota)のプリウス(Prius)などの高級車のドライバーは、カムリ(Camry)やカローラ(Corolla)などの大衆車のドライバーに比べて、交差点での交通ルールを守らない傾向があることが分かった。高級車ドライバーはまた、大衆車ドライバーよりも、道路を横断しようとする歩行者を優先しない傾向があった。

 サイコロを使った別の実験では、サイの目が大きいと50ドル(約4000円)の賞金をもらえるというゲームを行ったところ、社会経済的な地位が高いと自己申告した人では、実際の目よりも大きい数を言う頻度が高かった。「50ドルなど大した金ではない階級の人々がうそをつく頻度は(低所得者層の)3倍だった」と、論文の主執筆者であるカリフォルニア大バークレー校のポール・ピフ(Paul Piff)氏は言う。

 また、自分を雇用者と仮定し、近く廃止する部署であると知りながらもその部署を希望する求職者と面談するという設定では、高い地位の人ほど事実を隠す傾向があった。

 別の実験では、キャンディーが詰まったポットを「近くの研究所の子供たち用」だと言って渡し、「好きならいくつかとっても構わない」と言い添えた場合、お金持ちほど多くのキャンディーをとる傾向があった。平均して、お金持ちがとったキャンディーの量は(お金持ちではない人の)2倍だった。富裕層の施しの量が貧しい人よりも少ない傾向があることを見出しつつあるピフ氏も、お金持ちが子供のお菓子を横取りするというこの事実には驚きを禁じ得ないと言う。

 さらに、自分の社会的地位が高いと思い込ませる実験では、社会的地位が他の人より高いという認識が、貪欲さを増し、例えば、実際より多くのおつりをもらっても黙ってとっておくなど、倫理的な行動規範も薄れる可能性があることも明らかになった。

■富と自立が他人への感受性弱める

 以上の実験結果は「上流階級の個人の間で文化的に共有されているいくつかの規範」を浮き彫りにした、と、論文は述べる。

 例えば、富裕層は貧しい人よりも自立し、財産も多いため、「他人が自分をどう思うか」が貧しい人よりも気にならないかもしれないという。

 ピフ氏によれば、お金を持っている人ほど、貪欲さを肯定的にとらえ、ピンチの時には家族や友人を頼らない傾向がある。こうした「気高さ」が自身を社会から切り離した存在にしているという。「日常生活の極めて異なるレベルでの特権が自立性を生み、自分の行為が他人の幸福へ及ぼす影響への感受性を弱めると同時に自己の利益を最優先させる結果を生んでいる」(ピフ氏)

 だが、論文は、慈善活動を行っている億万長者、ビル・ゲイツ(Bill Gates)氏やウォーレン・バフェット(Warren Buffett)氏などの例外が存在することも指摘する。また、貧困と凶悪犯罪の関連性を示した以前の研究は、貧しい人が必ずしもお金持ちより倫理観が高いわけではないことを示している。

 ただし論文は、「私利私欲は社会のエリート層のより根本的な動機であり、富の蓄積と地位の向上に関連したもっと欲しいという欲求は不正行為を助長しかねない」と指摘する。

 なお、実験はそれぞれ100~200人の米国人を対象に行われたが、「結果は米国外の社会にも当てはまるだろう」とピフ氏は言う。これらのパターンは、特に、格差の大きい社会で顕著に表れることが予想されるという。(c)AFP/Kerry Sheridan
https://www.afpbb.com/articles/-/2861397
要するに金持ちほど悪いことをするという内容です。

私はこれを読んだとき、正直者がバカを見る世の中だから、悪い人間が金持ちになったのではないかと思いました。
しかし、人を押しのけて生きていくような人間が出世することもありますが、周りから信頼される人間が出世する場合もあります。
この論文は、金持ちになったから人の目を気にしなくなり、悪いことをするのではないかと見なしています。
出世して金と権力を手にした人間は、次第に傲慢になり、平気で利己的なふるまいをするようになるということです。
これは「権力は腐敗する」ということに合致します。


前回の「『人間は利己的である』ということ」という記事で、人間は基本的に利己的であるということを述べました。今回の記事はその続編になります。
人間は誰もが利己的ですが、周りに人間がいるのでそんなに利己的なふるまいはできません。弱い立場の者はなおさらです。
しかし、権力を手にすると、利己的なふるまいができるようになり、どんどんエスカレートしていきます。

ですから世の中は、権力者や金持ちや地位の高い者などの強者は利己的にふるまって不当に利益を得て、弱者は不当に利益を奪われています。
しかも、強者は社会制度を自分たちに有利なようにつくっています。
民主主義によって弱者の意志も社会制度に反映されることになっていますが、上が下を支配する力は網の目のように社会に張り巡らされているのに対して、下から上への声を吸い上げる民主主義のパイプは細くて目詰まりしているので、まったく不十分です。

これが世の中の基本の仕組みですから、世直しの原理は「弱きを助け、強きをくじく」ということになるわけです。


つけ加えると、保守派や右翼やネトウヨの原理は「強きを助け、弱きをくじく」です。
したがって、リベラルと保守派の対立というのは、「弱きを助け、強きをくじく」と「強きを助け、弱きをくじく」の対立ととらえることができます。

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戦争から夫婦喧嘩、親子喧嘩まで、人類は延々と争いを続けてきました。
どうして人類は争いを克服することができないのでしょうか。

人間性についての科学的研究は、認知科学、進化心理学、行動経済学、人工知能研究などの分野で急速に進展しています。「汝自身を知れ」というデルフォイの神託が現実のものとなる日も近そうです。
しかし、今のところ肝心なことが認識されていません。
それは「人間は利己的である」ということです。

今話題のマイクロソフトのBingチャットを使って、「人間は利己的ですか」と聞いてみました。

人間は利己的ですかというのは、難しい質問ですね。人間の本性や倫理観に関する哲学的な議論がありますが、一概には答えられません。

一般的には、人間は自分の利益を重視し、他者の善行を軽視、無視する考え方を利己主義と呼びます。 利己主義の対義語は利他主義で、他者の利益や幸福を優先する考え方です。

利己主義には、心理的利己主義と倫理的利己主義の二種類があります。(以下略)

つまり「人間は利己的ですか」にはっきりした答えはないのです(AIチャットはネット上の多様な議論を要約してくれるものとしては有用かと思います)。

これには「利己的」という言葉の意味がはっきりしないということも関係しています。

経済学では「合理的経済人」として、自己の利益の最大化をはかる人間が想定されています。こうした自分の利益を追求する行動も「利己的」ということになりますが、これは悪い意味ではありません。市場経済はみんなが利己的に行動することで成り立っています。
しかし、日常生活で「あの人は利己的だ」とか「それは利己的なふるまいだ」というとき、「利己的」は悪い意味になります。

英語では「利己的」に当たる言葉が「egoistic」と「selfish」とふたつあります。「egoistic」は悪い意味ですが、「selfish」は中立的な意味とされます。
ただ、「selfish」も完全に中立的な意味ではないようです。英和辞典によると、〈侮蔑的〉として「自分のことしか考えない、自分勝手な、自己中心的な、わがままな」という訳語が並んでいます。


問題を整理します。
自分の利益を追求するのは悪いことではありません。基本的人権の「幸福追求権」に含まれると考えるべきです。
しかし、自分が利益を追求する以上、他人が同じように利益追求することを認めなければなりません。他人の利益追求を妨げて自分の利益追求をするのは不当です。このような不当な利益追求は「利己的」として批判されることになります。

しかし、ここでやっかいな問題があります。
今の世の中、正当に利益追求をしていても「利己的」と批判される傾向があるのです。
株式投資でもうけた人や遺産相続をした人が嫉妬されるのはまだ理解できますが、普通に商売でもうけた人でも嫉妬されて批判されることがあります。
そのため、商売する人は、もうけていてももうけたとは口にせず(「もうかりまっか」「ぼちぼちです」)、逆に「出血サービスをしています」「お客様に奉仕しています」などと言います。
金メダルを取ったアスリートは「努力が報われました」などとは言わず、「コーチや応援してくださったみなさまのおかげです」と言います。
つまり誰もが「利己的」と批判されることを避けるために、実際以上に自分を「利他的」に見せかけているのです。
そのため、正当な利益追求と不当な利益追求の境界線がわかりにくくなっています。


ここで「公平」という概念を持ち出してみます。

「公平」を国語辞典で引くと、「すべてのものを同じように扱うこと」と説明されています。この説明には「自分」が対象になっていません。たとえばA、B、Cという人間を同じように扱うことは可能でしょう(身びいきや偏見ということもありますが)。では、自分と相手(他人)を同じように扱うことは可能でしょうか。
自分と相手を公平に見るには、“神の視点”ないしは第三者の視点が必要ですが、この場合は利益がからんできます。
自分は第三者の視点を持ったつもりでも、無意識のうちに自分が有利になるように見ている可能性があります。

私が子どものころ、よく近所の子どもと空き地で野球をしましたが、人数が少ないので、審判は攻撃側のチームが出すことになっていました。その審判は公平な判断をしたのでトラブルになるようなことはありませんでした。要は野球を楽しくやりたいだけで、どちらのチームが勝とうがどうでもよかったからです。もし勝ち負けが重要な試合であれば、一方のチームが審判を出すなどということは相手チームが許しません。
サッカーの国際試合は、審判は第三国の人間が務めるに決まっています。
法律上の調停を行うときも、裁定するのは必ず双方と利害関係のない第三者です。

人間は自分の利益がからむと公平な判断ができません。
「お手盛り」という言葉があるように、自分に有利になるようにしてしまいます。
国語辞典も「自分と他人を公平に扱う」ということは最初から不可能なことがわかっているので、説明から除外しているのでしょう。
戦時中の配給制度のもとでは、配給品は商店を通して各世帯に配られました。たとえば米屋であれば、自分の世帯の取り分を多めにして、その米を闇市で売ります。ですから、サラリーマン家庭はどこも苦しい生活でしたが、商売人の家庭は余裕のある生活でした。

人間は自分の利益がからむと平気で不当なことをします。つまり人間は利己的であるということになります。


利己的であるのは動物も同じです。
なわばりを持つ動物は、自分のなわばりを他の個体にわからせるために、糞尿を残す、体の匂いをつける、爪痕をつけるなどのマーキングをし、鳥類はテリトリーソングといわれるさえずりをします。そして、普段はむだな争いを避けるために互いのなわばりを尊重して平和に暮らしています。
しかし、なわばりの境界線が正確に認識できるわけではありません。そうすると、双方ともに境界線を自分に有利に解釈して、“国境紛争”ともいうべき争いがしばしば起きます。
さらに、双方ないし片方がなわばりを拡張しようとしても争いは起きます。
ということで、なわばり争いはしょっちゅう起きるのですが、争いが深刻化すると自分にとっても不利益ですから、それほど深刻化しません。

人間の場合は本能の制御が弱いので、争いが深刻化し、大規模な戦争も起きます。
戦争に勝つと土地、財産、女、奴隷を獲得して、大きな利益が得られるからです(これは昔のことですが)。
動物は一個体が必要とするなわばりの広さは限られていますが、人間の場合は限りなくなわばりを併合して“帝国”を築くことがあります。


以上のことから「人間は利己的である」というのは明らかです。

しかし、AIが「一概には答えられません」と言うように、このことは一般には認められていません。
その理由は、「利己的」という言葉の意味が明確でないことに加え、利己的であることは道徳的に非難されるので、誰もが自分は利己的だと思いたくないからです。
自分は利己的だと思いたくない以上、「人間は利己的である」とも思いたくありません。

それに加えて、多くの進化生物学者が「人間は利己的である」ということを否定しているということもあります。
リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』という本もあるぐらいですから、進化生物学では動物は利己的なものとされていそうなものですが、実際はそうではありません。
社会性動物には、子どもの世話をしたり仲間を助けたりという利他的性質があります。ダーウィンはこの利他的性質を重視しましたが、進化論では仲間を助ける性質のあることがうまく説明できませんでした。しかしその後、遺伝子とゲーム理論から説明できるようになり、それによって進化生物学者は人間の利他的性質を過大評価するようになったのです(このあたりのことは簡単に説明できないので、「道徳観のコペルニクス的転回」を参照してください)。
もし進化生物学者が「人間は利己的である」と結論づけていたら、世の中は大きく変わっているでしょう。


利己的な人間は本能の制御を超えて争い、その結果、強者が弱者を支配する社会をつくりました。階級制、身分制、奴隷制、農奴制などです。雇う人間と雇われる人間がいる資本制もその延長線上です。
争いが激化すると不利益を生むので、人間は争いを抑える文化も発達させてきました。法律、規則、掟などで社会の秩序を維持するやり方です。それでも争いが起こると、裁判官や長老などの第三者が裁定して争いを収めます。秩序を逸脱する者は警察が取り締まります。
これを「法の支配」または「法治主義」といいます。

「法の支配」によって争いは抑制されていますが、「法の支配」の及ばない領域があります。
それは国際社会と家庭内です。

国際社会には一応国際法がありますが、警察に当たるものがないので、実質的に無法状態です。戦争が起こるのを止められません。
世界を平和にするには、警察に当たる国連軍をつくって、国際法を執行する体制にしなければなりません。
しかし、アメリカは世界の軍事費の約4割を占める軍事大国なので、アメリカを抑えるような国連軍はつくれません。
ロシアや中国が平和の敵であるかのような言説があふれていますが、実際はアメリカが世界を平和にしようと思わない限り世界は平和になりません。

家庭内にも「法の支配」はないので、暴力が横行しています。
家族は本来愛情によって結びついているものですが、文明社会では夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するという、権力で結びついた家族になっています。
夫の暴力から逃げ出した妻、家出して盛り場をうろついたり“神待ち”をしたりする少年少女は氷山の一角で、日本には荒廃した家庭がいっぱいです。
ちなみに日本の殺人事件の54.3%は親族間の殺人です(2020年版警察白書)。日本の社会の中でもっとも荒廃しているのが家庭です。
しかし、家庭内に「法の支配」を持ち込むのは、対症療法にはなっても、家庭に愛情を取り戻すことにはなりません。
では、どうすればいいかというと、要するに「自然に帰れ」で、未開社会の家族や動物(哺乳類)の家族を見て、学ぶのがいいでしょう。

もっとも、それは長期的な話です。
短期的には、「人間は利己的である」と認識するだけで、家族関係は変わってきます。
どんなに愛し合って結婚した夫婦でも、自分と相手の関係を公平に判断することができないので、「相手は利己的にふるまって、自分は損している」という認識を双方が持つことになり、その不満がどんどん蓄積されて喧嘩が頻発し、最後には離婚に至るか仮面夫婦になるというのがほとんどの夫婦ですが、そうした悲劇はある程度回避できるはずです。

日本は尖閣諸島、北方領土、竹島という領土問題を抱えていて、ほとんどの日本人は「日本の主張は正しい。中国、ロシア、韓国の主張は間違っている」と考えていますが、これも公平な判断とは限りません。相手国も同じことを(つまり逆のことを)考えています。
こうした認識が戦争につながるので、注意が必要です(国際機関など第三者に判断してもらうしかありません)。


「人間は自分と相手の関係を公平ではなく自分に有利に判断してしまう」というのは認知バイアスの一種です。
名づければ「利己主義バイアス」となるでしょう。
実に単純なことですが、こうした認知バイアスの存在は認識されていません。「人間は利己的である」ということが認識されていないのだから、当然かもしれません。

「人間は利己的である」と認識するだけで、多くの争いは回避できます。

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