村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2023年08月

fish-1617442_1280

福島第一原発の処理水の海洋放出に中国が反発し、日本産水産物の全面輸入禁止を打ち出しましたが、野村哲郎農水相は「たいへん驚いた。まったく想定していなかった」と述べました。
農水相だけでなく、政府全体でも想定していなかったようです。
確かに中国の反応は明らかに過剰反応なので、別の意図がありそうです。

ただ、日本政府も「科学的に安全」と繰り返すばかりで、まったく能がありません。
日本政府のこのやり方が問題を大きくしました。

そもそも「処理水」という言葉がごまかしです。
トリチウムは確実に含まれているのですから、少なくとも「トリチウム汚染水」というべきです。
それに、ALPS(多核種除去設備)でトリチウム以外の放射性物質は除去できることになっていますが、実際はすべてが除去できているわけではありません。
『またも岸田首相の詭弁?「処理水」海洋放出の不都合な事実を環境NGOが暴露』という記事によると、『「処理水」とされているもののうち、その7割弱で、ヨウ素129や、ストロンチウム90、セシウム137、プルトニウム239等の、トリチウム以外の放射性物質も基準を超えた量を含んでいる』「放射性物質によっては基準の2万倍近くという濃度で含まれている」ということです。
つまりトリチウム以外の放射性物質も含まれているのですから、やはり「汚染水」が正しい表現です。
「処理水」などというごまかしの言葉を使うので、ほかのことも信用されなくなります。

なお、今回の海洋放出に際しては、改めてALPSで処理を行うことになっていますが、どこまで処理できるかわかりません。

ところで、汚染水は海洋放出のほかに大気放出という手段もありました。
私はなぜ大気放出をしないのか不思議に思っていました。
やり方は簡単です。タンクの上部を切り取って、雨除けの屋根をつければ、蒸発して自然と水量はへっていきます。タンクを黒く塗って太陽熱を吸収しやすくすれば、より早くへります。
なぜ大気放出をやらないのかについて、まともな説明を聞いたことがありません。
私が想像するに、タンクにたまっているのはかなりの汚染水なので、福島周辺の大気汚染がひどくなるからできなかったのでしょう。

それから、東電が金さえ出せば、周辺の土地を買い、タンクを増設して、海洋放出をしないという選択肢もありました。時間がたてば汚染水の線量は下がるので、時間が問題を解決してくれます。
東電はこれまでずっと黒字でしたが、23年3月期で赤字を出して、そのタイミングで海洋放出の決定をしました。
東電が金を出さないために日本と世界が迷惑をこうむっているのです。


私自身は、政府の説明はあまり信じませんし、ある程度海洋が汚染されるだろうと思っていますが、ただ、汚染といってもそれほどのものではないので、日本近海の水産物も普通に食べるつもりです。


汚染水放出の影響があったとしても福島県周辺だけのことですから、中国の日本産水産物の全面輸入禁止は明らかにやりすぎです。
これは中国政府の最近の日本外交に対する不満の表明と思われます。

トランプ政権も反中国の方針を打ち出していましたが、バイデン政権は昨年10月に発表した「国家安全保障戦略」において中国を「唯一の競争相手」と位置づけ、反中国の姿勢をより明確にしました。
日本政府は当然アメリカに追随しますが、岸田政権はとくに追随ぶりが露骨です。
今月18日にはバイデン大統領の別荘キャンプデービッドに岸田首相と韓国の尹錫悦大統領が招かれ、三か国首脳会談が開催され、日米韓三か国の連携を確認しましたが、合意文書においては「中国」を名指しして南シナ海における海洋権益に関する行動を批判しました。

日本がこういう外交姿勢ですから、中国がずっと不満を募らせて、汚染水海洋放出を機に不満を爆発させたと見るべきでしょう。

周辺国の反応は日本の外交姿勢と完全に関係しています。
中国、ロシア、北朝鮮は強硬に海洋放出に反対しています。
韓国政府は海洋放出を容認しています。ただ、野党や世論は反対です。

ですから、日本政府が今回の中国の反応を想定外だとしているのはおかしなことです。

日本も中国に対してやり返せと勇ましいことを言う人もいますが、無責任な意見です。
中国のGDPは日本の3倍以上です。
2022年において、日本にとっての中国は輸出先として18.5%、輸入先として21.0%のシェアを占めていますが、中国にとっての日本は輸出先として6.1%、輸入先として9.0%のシェアです。
日本にとって中国は巨大ですが、中国にとって日本はそれほどでもありません。

ASEANなどアジアの国々は、アメリカが接近してきても、中国に配慮して適当に距離をとっています。
日本の対米追随外交の欠陥が今回露呈した格好です。


汚染水海洋放出に周辺国の反発が強かったのは、日本の偏った外交方針のほかに、「マナー」の問題もありました。

たとえ話をすれば、日本はゴミを家の中に溜めて、周りの家に迷惑がかからないようにしていました。それを今回、家の前の道路に捨てることにしたのです。ゴミはそんなに危険なものではなく、しばらくすれば風で飛んでいくか、地中に吸収されるので、「科学的に安全」だと主張しました。
しかし、周りの家にしてみれば不愉快です。自分の家のすぐ近くにゴミを捨てられるのですから。

これは必ずしも合理的な感情とはいえませんが、不合理な感情に動かされるのが人間です。
たとえば、回転寿司のスシローで醤油差しや湯飲みをペロペロとなめた少年がいて、大バッシングを受けました。あの行為自体は、衛生上の問題は大したことはなく、ある一店舗での出来事でしたが、人間の不合理な感情があの大バッシングを生んだわけです。

ですから、日本という家はどうすればいいかというと、ご近所づきあいのマナーとして、周りの家に手土産のひとつも持って「ゴミを放出してご迷惑をおかけします」と言って謝って回るべきでした。
ところが、日本という家はそういうことをしないで(少しはしたかもしれませんが)、「科学的に安全」という言葉を繰り返すだけなので、周りの家の反発をよけい買ってしまったわけです。


日本のこうした姿勢は、外交姿勢ともつながっています。日本は昔から欧米を崇拝し、近隣のアジア諸国を見下してきました。
周辺国の感情に配慮せず、「科学的に安全」と繰り返すのは、周辺国を見下しているからです。

EUやアメリカが汚染水海洋放出を容認しているのは、距離が遠いからです。
日本はこれを機会に、アメリカの覇権主義に協力するばかりでなく、「アジアの中の日本」ということを自覚して、外交姿勢から改める必要があります。

27340721_m

人間はみな生まれつき能力が違うのに、今の学校ではみな同じ教室に入れられ、一斉授業を受けさせられます。
どう考えても理不尽です。
しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うことは(とりわけ教育界では)タブーになっているので、この理不尽はいっこうに改まりません。

しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うのはタブーでも、「人間は年齢によって能力が違う」ということは誰もが認めるでしょう。
ところが、日本の学校は能力の年齢差にすら対処していません。

小学1年生の教室には、6歳児と7歳児がいます。この年齢での1年の違いは大きいものがあり、そのため早生まれ(1月から3月生まれ)は損だといわれます。しかし、その違いは年齢が上がっていくとともに小さくなっていくので、そんなに気にすることではないとされてきました。つまり6歳と7歳の違いは大きくても、15歳と16歳の違いはわずかだというわけです。
しかし、最近の研究で、入学時の差は年齢が上がってもあまり縮まらないということがわかってきました。

朝日新聞は7月に3回にわたって「早生まれは損?」という特集記事を掲載しました。そこからいくつか引用します。
 朝日新聞は、昨夏に開かれた第104回全国高校野球選手権(夏の甲子園)に出場した49校のベンチ入りしたメンバー882人の生まれ月を調べた(登録変更は含まない)。どんな傾向があるのか。

 4~6月生まれ37・8%
 7~9月生まれ29・6%
 10~12月生まれ18・0%
 1~3月生まれ14・6%
高校生になっても生まれ月の影響は歴然としています。

プロ野球の選手、さらにはプロサッカー選手についてはどうでしょうか。

子どもたちが新学年を迎えるこの時期、頭に浮かぶのは、生まれ月がスポーツに与える影響だ。

 ジュニア期における学年内の成長差、体力差の影響が、大人になっても続く。

 プロ野球でみると、2020年に12球団の日本出身の支配下登録選手を、3カ月ごとの生まれ月で分けたところ、4~6月は32%、7~9月は29%、10~12月は22%、そして、1~3月は18%と比率が下がっていた。

 同年のJ1・18クラブの登録選手も、33%→32%→19%→16%。いずれも、統計的には「圧倒的に有意な偏りあり」だった。
なぜこれほどの差が出るのかというと、早生まれの子はスポーツを始めるとほかの子よりできないことに気づいて、すぐにやめてしまうということがあるでしょう。つまり分母の数が違うのです。
では、長く続けると生まれ月の差は縮小していくかというと、必ずしもそうとはいえません。
最初に補欠になった子どもは、自分はこの程度の実力と思い、たまに試合に出ても緊張していい結果が出せません。最初にレギュラーになった子どもは、練習にもやる気が出ますし、試合経験を積んで、実力をつけていきます。最初の差がさらに開いていくということがありえます。


生まれ月の影響はスポーツだけにとどまりません。
3月生まれが入学した高校の偏差値は、同じ学年の4月生まれに比べて4・5低い――。3年前、東京大学大学院の山口慎太郎教授(労働経済学)らがそんな研究を発表し、話題を呼びました。
(中略)
今回の研究では、学力の差もさることながら、「感情をコントロールする力」や「他人と良い関係を築く力」といった非認知能力の差が、学年が上がっても縮まらないことがポイントでもありました。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」といいますが、早生まれの子はいきなり「牛後」となって、自分はその程度の存在と思って、一生「牛後」の人生を歩む可能性が高いといえます。


最近では早生まれの不利なことが広く知られてきて、生まれる月を考慮して“妊活”をする夫婦もあるといいます。
インターナショナル・スクールでは、その子の成長の具合を見て、入学を1年遅らせる選択ができるところもあります。
オランダでは、入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます(一斉授業ではなく個別授業です)。

早生まれが不利になるような教育制度は、早急に改革しなければなりません。



生まれ月が違えば能力差があるのは当たり前ですが、では、同学年の同月生まれの子はみな同じ能力かというと、そんなことはありません。身体的能力も知的能力も個人差があります。
これは生まれつきの能力差ですから、どうしようもありません。
問題は、能力の違う子どもに一律の教育を行っていることです。
おそらく教師は、平均的な子どもの少し上のところに向かって授業をしているでしょう。中央のボリュームゾーンの子どもはなんとか理解できるかもしれませんが、能力の下の層は理解できなくても放置され、授業中ずっと退屈な時間をすごすことになります(能力のかなり上の層も退屈しているでしょう)。

つまりさまざまな能力の子どもに対して一斉授業をしているために“落ちこぼれ”が生まれて、それが非行、犯罪につながり、また福祉の負担にもなっているということを、前回の「もうひとつのシンギュラリティ」という記事で書きましたが、そのときは文明論の観点から教育制度を批判しました。
しかし、教育制度は急には変わりません。
そこで今回は、今の学校教育制度の中でサバイバルする方法について考えました。


今の教育は、頭のよい子も悪い子もいっしょにして一斉授業をしているという問題に加えて、あらゆることを網羅的に教えているという問題もあります。

読み書き計算は、誰にとっても必要なことです。しかし、今の学校は物理や化学から地理や歴史、美術や音楽まで教えていて、これは誰にとっても必要なことかというと、そんなことはありません。
たとえばフレミングの左手の法則とか元素の周期表とか稲作の伝来ルートとか『源氏物語』とかオーストラリアの首都はシドニーでなくキャンベラであるといったことを子どもは教わりますが、これらの知識は、クイズ以外にはめったに役に立ちません。
もちろん電気関係の道に進めばフレミングの左手の法則の知識が役に立つでしょうし、古典文学が好きな人にとっては『源氏物語』の授業は価値あるものでしょう。しかし、大多数の人にとってはほとんど価値がありません。


網羅的な知識を教える教育に適応していい成績をとる優秀な人間は、最終的に官僚や大企業の総合職になり、一部は学者になり、日本という国を担う人材になります。

それほど優秀でない人間は、この教育を受けると中途半端な人間になりますが、「汎用性のある労働者」として企業には歓迎されるかもしれません。
ただ、苦労して網羅的な知識を身につけた割には報われません。

ちなみに教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「国家及び社会の形成者」には網羅的な知識が必要と考えられているのかもしれません。

しかし、子どもは「国家及び社会の形成者」になりたいとは思っていませんし、親も子どもを「国家及び社会の形成者」にしたいとは思っていないでしょう。
では、国民は教育になにを求めているかというと、「子どもの幸せ」です。
つまり子どもが将来幸せな人生を送れるような教育をしてほしいと思っているのです。

ここに国家と国民の大きな齟齬があります。
国家は「国のため」の教育をしていて、国民は「子どものため」の教育を望んでいるのです。


人生の第一の目標は、職業人として成功して、ある程度の収入を得て、社会的尊敬を受けることです。
職業といってもいろいろありますが、職業人として成功するのに、たいていは網羅的な知識は必要としません。むしろ逆にひとつのことを深く掘り下げていくことが必要です。

網羅的な知識を得てゼネラリストになるには、そうとうに優秀でなければなりません。たいていの人間はそこを目指すよりも、ひとつのことを深く追究したほうがいいはずです。
ところが、子どもが学校に行くと網羅的な勉強をさせられます。読み書き計算以外のことはほとんど役に立ちそうもないことばかりです。
ですから、子どもに「なんのために勉強するの?」と聞かれた親は、まともに答えることができないので、適当にごまかすしかありません。

子どもが早くに人生の進路を決めれば、網羅的な勉強は必要なく、「選択と集中」をすればいいわけですし、学校に行かないという道もあります。
職業人として成功すれば、学歴などどうでもいいことです。
藤井聡太七冠は高校中退ですが、教養がないなどと批判されることはまったくありません。


ただ、早期に人生の進路を決めるのは容易なことではありません。
本人の資質と環境の組み合わせがうまくいくという偶然にも左右されます。

偶然に左右されるとはいえ、チャンスを拡大するやり方もあります。
私が思うのは、子どもはとにかく好きなことをすることで、親はそれを止めないということです。
子どもがゲームに夢中になると、たいてい親は時間を制限したり、やめさせたりしようとしますが、やりたいことがやれないという不完全燃焼はほかにも影響します。
やりたいだけゲームをやると、たいてい飽きてほかのことに関心が向かいますし、飽きなくても「いつまでもこんなことばっかりやっていてもしょうがない」と考えるようになります。もしいつまでも夢中でやり続けているなら、そこに道が開けるでしょう(ゲーム依存症が心配かもしれませんが、なにかの依存症になるおとなはPTSDが原因なので、子どもも同様のことが考えられます)。

子どもがいろいろなことをやっていれば、将来につながる道を発見するかもしれないので、親はそうした体験の機会を提供することがたいせつです。
習い事をいろいろやるのもいいことですが、子どもにやる気がなかったらすぐにやめることです。
「やりたくないことをやらされる」ということほど心の成長を阻害することはありません。

私はやりたい勉強だけやっていればいいのではないかと考えています。たとえば数学と理科ばかりやるとかです。
もっとも、今の学校制度では不可能ですが。


ところで、これまでの私の主張を「能力別クラス編成」のようなものと思う人がいるかもしれませんが、それはまったくの勘違いです。
能力別クラス編成は学校が子どもを選別するものですが、私が言っているのは、子どもが自分の能力に合った勉強をするということです。

もうひとつ言うと、これまで教育を論じてきたのは頭のいい人ばかりなので、頭の悪い子どものことは眼中になかったようです。
私自身はというと、教育を子どもの側から、さらには頭の悪い子どもの側から見ているわけです。


将来東大に入れそうなほど頭のいい子どもはどんどん勉強すればいいでしょう。
あまり成績がよくないとか、勉強嫌いの子は、「選択と集中」でなにかひとつの道を究めて、将来それで食べていくことを考えるべきです。
そういう道が見つからない子は、とりあえず決められた勉強をして「汎用性労働者」を目指すか、早く就職することです。
あまり頭がよくないのに親にむりやり勉強させられて、三流大学にしか入れなかったというのはいちばんの悲劇で、子どもは挫折感と劣等感を植えつけられ、親を怨むことになります。

27099941_m

AIが人間の知能を超える瞬間を「シンギュラリティ」といって、それが2045年ごろにくるのではないかといわれています。
しかし、進化するのはAIだけではありません。社会のあらゆる領域が高度化、複雑化していて、人間の知能では対応できなくなりつつあります。

前回の『「究極の思想」の威力をお見せしよう』という記事で、「どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる」と書きました。
ですから、文明社会は赤ん坊を一人前の文明人に教育するシステムを必ず備えています。
文明が発達すると必然的に教育も強化されます。
昔は多くの人は中卒、高卒で働いていましたが、最近は専門学校卒、大卒、さらには大学院で学ぶことが求められるようになりました。

この傾向が限りなく進行していくと……ということはありえません。人間には寿命があるからです。


新しいパソコンを買うと、必要なアプリケーション・ソフトをインストールし、設定をし、必要なデータを入力するという作業をしなければなりませんが、データを古いパソコンから移すという手段が使えず、クラウドも利用していなくて、全部手作業で入力するとすれば、かなりの時間がかかります。すべての作業が終わり、いざ、これからそのパソコンで仕事をしようとしたときにはパソコンの耐用年数がわずかしか残っていないとなれば悲劇です。
人間の教育も、知識をまとめて子どもの頭に移行するということはできず、ひとつひとつ“手作業”で頭の中に入れていくわけですから、文明がさらに発達すると貴重な青春の時間だけでなく壮年の時間までも教育に費やすことになります。これでは文明の発達はむしろ人間にとってマイナスです。

車の自動運転技術のように、文明が進むことで人間が楽になるということもありますが、それはごく一部のことです。文明が発達するほど社会に適応するために学ぶべきことは増えます。

そのしわ寄せがとくに子どもと若者に表れて、不登校、いじめ、引きこもりなどが増加しています。
少子化が進むのも、多くの人は子どもを生んでも子どもは幸せな人生を送れないだろうと予想するからでしょう(日本に限らず先進国は一般的に少子化になります)。


ローマクラブは1972年に「成長の限界」と題するレポートを発表し、世界的な人口増加と経済成長が続いた場合、資源と環境の制約によりあと百年程度で成長は限界に達すると予想して、世界に衝撃を与えました。
それまで文明というのは限りなく発達していくものだと漠然と考えられていたのです。
このレポートの翌年に第一次オイルショックが起こり、レポートの信憑性がいよいよ高まりました。
しかし、このレポートは重要な事柄をもらしていました。それは「人間の能力」です。成長は「人間の能力」によっても制約されるのです。
資源と環境の問題は、リサイクルの徹底と再生可能エネルギーの利用などである程度対処が可能ですが、「人間の能力」については対処のしようがありません(いずれは遺伝子テクノロジーで人間の能力向上が可能かもしれませんが)。

シンギュラリティとは別の意味で、文明の発達が人間の能力を超える瞬間が近づいています。



「人間の能力には限りがある」というのは当たり前のことですが、これまではっきりとは認識されてきませんでした。
逆に「人間は脳の30%(20%)しか使っていない」などという俗説が流布されていました。

若者に対して「君たちには無限の可能性がある」ということもよく言われます。
これは「君たちの可能性は未知数だ」と言うべきところ、「未知数」を「無限」に取り違えたものです。

人間の能力は遺伝で決まるか環境で決まるか、氏か育ちかという議論もよく行われてきました。
つまりこんな基本的なこともわかっていなかったのです。

しかし、これは昔のことです。今はさすがに多くのことがわかっています。

遺伝か環境か、氏か育ちかという二者択一の議論は間違っていて、氏も育ちも、つまり人間は遺伝と環境のふたつの要素で決まります。
昔は環境の要素が強いと考えられていました。
ラテン語のタブラ・ラーサ(空白の石板)という言葉で表されますが、生まれたばかりの人間は白いカンバスと同じで、教育によってどんな絵でも描けるという説がありました。これは今でも教育界に根強くあります。
しかし、科学的研究によって遺伝の要素の大きいことが次第にわかってきました。
一卵性双生児で、生まれてすぐ引き離され別の環境で育った兄弟を調べることで、遺伝と環境の影響の割合がわかります。それによると、IQや学業達成は三分の二までが遺伝によって決まります。
また、神経質、外向性、協調性などの性格や気質もかなりの程度遺伝で決まります。

ただ、「遺伝で決まる」というと、子どもは親の能力や性質をそのまま受け継ぐのかと誤解する人がいます。
実際は、同じ親から生まれた兄弟でも、能力も性格も違いますし、顔にしても「言われてみれば似ている」程度のものです。親ともかなり違いますから、「トンビがタカを生む」ということもありえます。つまり遺伝の影響はあるにしても、個人差がひじょうに大きいのです。
ですから、私は「遺伝」ではなく「生得」という言葉を使ったほうがいいと思っています。
つまり「人間は遺伝で決まっている面が大きい」ではなく「人間は生まれつき決まっている面が大きい」というのです。
そうすれば個性を尊重することにもつながります。

親は、子どもが活発な性格の子だと、おとなしい子にしつけようとしがちですが、間違った考え方です。これはこの子の持って生まれた性格だと思って受け入れると、子育ては楽になります(持って生まれた性格は固定しているわけでなく、変わっていきますが、親が自分につごうよく変えようとしてもうまくいきません)。


子どもの外見や性格が親の遺伝の影響を受けることは誰でも認めます。
しかし、子どもの知能が親の遺伝の影響を受けると公言することはタブーとなっています。
「生まれつき頭のよい人と生まれつき頭の悪い人がいる」と言うこともタブーです。

なぜこんなタブーがあるかというと、「黒人は知能が低い」という言説があったように知能と人種差別が密接に結びついていて、さらに「生まれつき頭の悪い人がいる」と言うと優生思想を喚起しかねないという問題があるからです。

たとえばアメリカで1950年代に、スプートニク・ショックを機に国民の教育水準を高めるために巨額の連邦予算を投入して「ヘッドスタート計画」という早期教育プログラムが全国的に展開されました。有名な教育番組「セサミ・ストリート」もこのときの産物です。プログラムが開始されて約十年たったとき、心理学者のアーサー・ジェンセンがこのプログラムは失敗したと結論づける論文を発表しました。この早期教育の知能に与える効果は一時的なもので、プログラムを離れるともとに戻ってしまう、その理由は、知能の遺伝規定性が80%もの高さを持つからだとジェンセンは説明しました。さらに彼は、白人と黒人の知能の差について論じ、その原因も遺伝的であることを示唆したことでアメリカの世論に火をつけてしまいました。「ジェンセニズム」は人種差別主義の代名詞とされ、世間のバッシングの中、彼は文字通り外を一人で歩くことすら危険な状況であったといいます(参考文献『遺伝子の不都合な真実』安藤寿康著)。

その後も、「知能は遺伝する」と主張する人は出てきましたが、そういう人は決まって右派の科学者で、左派の科学者が「知能と遺伝を結びつけるな」と反論するということが繰り返されてきました。


今も「知能は遺伝する」と言うことはタブーですし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うのもタブーです。


しかし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」というのは事実ですから、事実を認識しないと不都合が生じます。
たとえば教室には頭のいい子と悪い子がいるのに、教師は全員に向けて同じ授業をするので、頭の悪い子は授業についていけず、教師の話が頭に入ってこないということになります。頭が悪いといってもほんの少し悪いだけなのに、実質的に授業を受けていないことでさらに頭が悪くなります。つまり一人一人に合わせた授業をしていればみなそこそこの成績になるのに、一斉授業をするために“落ちこぼれ”となり、教室の“落ちこぼれ”はさらに社会の“落ちこぼれ”となるのです(最近“落ちこぼれ”という言葉はいわれなくなりましたが、一斉授業のもとで学習内容が高度化すれば“落ちこぼれ”は増えているはずです)。

ベストセラーとなった『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著)には、少年院に入るような少年は知的障害とまではいかない境界知能の持ち主が多いと書かれています。学校でちゃんと対応していれば社会生活を営む程度の知能はあるのに、学校でずっと放置されてきたために、計算もできない、漢字も書けない、ケーキを三等分することもできないという状態となり、みずから犯罪に手を染めるか、犯罪組織に利用されたりして少年院に入ってくるのです。
ですから、こういう少年に反省させても無意味なことで、その子にあった教育(認知機能トレーニング)をすることだと著者は述べます。

『累犯障害者』(山本譲司著)には、刑務所にも知的障害者や境界知能の人が多く収容されていて、出所しても再犯してまた戻ってくるということが書かれています。
つまり「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」ということを認めないために、学校や社会が適切な対応をせず、犯罪を生み、刑務所や生活保護など福祉に負担をかける結果になっているのです。


今、シンギュラリティによって人類はAIに支配されるのではないかという議論がありますが、こうした懸念を表明しているのは科学者、大手IT企業経営者、欧米の政治家などです。
彼ら頭のいい人たちが世界の覇権を握っていたところに、AIが台頭してきて、覇権を奪われるかもしれないと思って、あわてているのです。
これは一般大衆にはどうでもいいことです。支配階級に支配されるのもAIに支配されるのも同じです。

一般大衆にとって興味があるのは「AIは人間の仕事を奪うか」ということでしょう。
世の中には雇う人と雇われる人がいて、雇う人は人間を雇うかAIを導入するか、コストの安いほうを選択します。AIのほうが人間よりコストが安ければ、人間は失業します(これは「AIが人間の仕事を奪った」というより「雇用者が人間の仕事を奪ってAIに与えた」というべきです)。
AIが仕事をしてくれれば、人間の労働時間がへってもよさそうなものですが、雇う人は利益を追求するので、そんなことにはなりません。


「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うことがタブーなので、成功した人たちは努力を誇り、社会の底辺の人を努力しない人と見下します。
そのため福祉はないがしろにされます。

今のシンギュラリティの議論は、いわば天上界の覇権争いのことです。
私が述べてきたのは、社会の底辺のことです。
学校教育や福祉を改革せずにAIなどがどんどん進化していくと、社会に適応できない“落ちこぼれ”が増え続けます。

文明の発達は人類に恩恵をもたらしますが、一方で人類の負担も増やします。
頭のいい支配階級はどんどん文明を発達させますが、頭の悪い下層階級は「文明の負担」が「文明の恩恵」を上回るもうひとつのシンギュラリティに直面しつつあります。

27211198_m

私はコペルニクスの地動説に匹敵するような画期的な理論を発見し、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」において紹介しています。
「コペルニクスの地動説に匹敵する」とは大げさだと思われるかもしれませんが、実際そうなのだからしようがありません(私は「究極の思想」とも呼んでいます)。

これまでは「天動説的倫理学」から「地動説的倫理学」への転換について書いていたので、ちょっとむずかしかったかもしれませんが、これからはわかりやすくなります。

コペルニクスの地動説は、太陽の周りを地球や金星や火星が回っている図を見るだけで理解できますし、金星や火星の動きはニュートン力学で明快に説明できます。
コペルニクス以前のプトレマイオスの天動説の天文学でも、金星や火星の動きを説明する理論が一応あったのですが、複雑で難解でした。
思想や哲学というと難解なものと決まっていますが、それはプトレマイオスの天動説と同じで、根本的に間違っているからです。


「道徳観のコペルニクス的転回」は第4章の5「とりあえずのまとめ」まで書いて、しばらく休止していましたが、今回公開分はその続きになります。
以前のものを読まなくても、これだけで十分に理解できますが、「道徳観のコペルニクス的転回」について簡単な説明だけしておきます。

動物は牙や爪や角を武器にして生存闘争をしますが、人間は主に言葉を武器にして互いに生存闘争をします。言葉を武器にして争う中から道徳が生まれました。「よいことをせよ。悪いことをするな」と主張して相手を自分に有利に動かそうとするのが道徳ですが、この善悪の基準は各人の利己心から生まれたので、人間は道徳をつくったことでより利己的になり、より激しく生存闘争をするようになりました。
一方、争いを回避する文化も発達しました。道徳ではなく法律や規則などで社会の秩序を維持することで、これを法治主義や法の支配といいます。文明が発達してきたのは、道徳の支配のおかげではなく法の支配のおかげです(あと、経済活動も道徳と無関係に行われています)。
しかし、法の支配が及ばない領域があります。ひとつは国際政治の世界で、もうひとつは家庭内です。このふたつはまだ道徳と暴力の支配する世界です。

家庭内には夫婦の問題もありますが、ここでは親子の問題だけ取り上げています。
「究極の思想」の威力がわかるでしょう。



第5章の1「教育・子育て」
「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すると、世界の見え方が変わってくる。
これまでは誰もが文明から未開や原始を見、おとなから子どもを見ていた。これでは物事の関係性がわからない。進化の系統樹は、バクテリアやアメーバを起点とするから描けるのだ。人間を起点として進化の系統樹が描けるかどうかを考えてみればわかる。地球を中心にして太陽系の図を描けるかというのも同じだ。

子どもが自然のままに行動をしていると、あるとき親が「その行動は悪い」とか「お前は悪い子だ」と言い出した。子どもにとっては青天の霹靂である。そして、親の言動は文明の発達とともにエスカレートし、子どもは自由を奪われ、しつけをされ、「行儀よくしなさい」「道路に飛び出してはいけません」「勉強しなさい」などと言われるようになった。それまで子どもは、年の近い子どもが集団をつくって、もっぱら小動物を追いかけたり木の実を採ったりという狩猟採集のまねごとをして遊んでいたのだ。
『旧約聖書』では、アダムとイブは善悪の知識の木から実を食べたことでエデンの園を追放されるが、この話は不思議なほど人類が道徳を考え出したことと符合している。人類は道徳を考え出したばかりに、「幸福な子ども時代」という楽園を失ってしまったのだ。
親は子どもを「よい子」と「悪い子」に分け、「よい子」は愛するが、「悪い子」は叱ったり罰したり無視したりする。子どもは愛されるためには「よい子」になるしかないが、そうして得られた愛は限定された愛であり、本物の愛ではない。本物の愛というのは、「なにをしても愛される」という安心感と自己肯定感を与えてくれるものである。
今の世の中、どんな子どもでも「悪いこと」をしたときは、怒られ、叱られ、罰される。親としては、子どもが「悪いこと」をしたのだから叱るのは当然だと思っているのだが、「悪いこと」の判断のもとになる道徳はおとなが考え出したものである。親が道徳を用いると、親は一方的に利己的にふるまうことになる。それに対して子どもが反抗するのは当然であるが、反抗的な態度の子どもを叱らないと、子どもは限りなくわがままになるという考え方が一般的なので、親はさらに叱ることになる。こうして悲惨な幼児虐待事件が起こる。
人間の親子はあらゆる動物の中でもっとも不幸である。最近は哺乳類の親子の様子を映した動画がいくらでもあって、それらを見ると、親は子どもの安全にだけ気を配って、子どもは自由にふるまっていることがわかる。子どもが親にぶつかったり親を踏んづけたりしても、親は決して怒らない。しつけのようなこともしない。動物の子どもはしつけをされなくてもわがままになることはない。未開社会の子どももしつけも教育もされず、子ども同士で遊んでいるだけだが、それでちゃんと一人前のおとなに育つ。動物の子どもや未開人の子どもを見ると、文明人の親が子どものしつけにあくせくしていることの無意味なことがわかる。

どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる。赤ん坊を文明化しなければ、その文明はたちまち衰亡してしまう。したがって、どんな文明でも子どもを教育するシステムを備えている。文明が高度化するほど子どもには負荷がかかる(親と教師にもかかる)。人間は誰でも好奇心があり学習意欲があるのだが、教育システムつまり学校は社会の要請に応えて、子どもの学習意欲とは無関係に教育を行う。つまり少し待てば食欲が出てくるのに、食欲のない子どもの口にむりやり食べ物を押し込むような教育をしている。
こうした教育が行われているのは、文明がきびしい競争の上に成り立っているからでもある。戦争に負けると、殺され、財産を奪われ、奴隷化されるので、戦争に負けない国家をつくらなければならない。古代ギリシャで“スパルタ教育”が行われたのは強い戦士をつくるためであったし、近代日本でも植民地化されないために、他国を植民地化するために“富国強兵”の教育が行われた。
個人レベルの競争もある。スポーツや音楽などは幼いころに始めると有利な傾向があるので、親はまだなにもわからない子どもに学ばせようとするし、よい学歴をつけるためにむりやり勉強させようとする。
いわば親は“心を鬼にして”教育・しつけを行うので、そうして育てられた子どもは、親とは鬼のようなものだと学習して、自分は最初から鬼のような親になる。そうすると、生まれてきた赤ん坊を見てもかわいいと思えないし、愛情も湧いてこないということがある。これも虐待の原因である。
子どもにむりやり勉強させて、かりによい学歴が得られたとしても、むりやり勉強されられた子ども時代が不幸なことは間違いない。最大多数の最大幸福という功利主義の観点からも、子どもの不幸は無視できない。今後文明は、子どもが「教育される客体」から「学習する主体」になる方向へと進んでいかなければならないだろう。

最近、発達障害が話題になることが多いが、発達障害もまた多分に文明がつくりだしたものである。
たとえば学習障害(LD)は読み書き計算の学習が困難な障害だが、こんな障害はもちろん狩猟採集社会には存在しなかった。注意欠如・多動性障害(ADHD)は集中力がなく落ち着きがない障害だが、これは長時間教室の椅子に座って教師の話を聞くことを求められる時代になって初めて「発見」されたものである。自閉症スペクトラムは対人関係が苦手な障害だが、これも文明社会で高度なコミュニケーション能力が求められるようになって「発見」されたものだろう。
つまりもともとさまざまな個性の子どもがいて、なにも問題はなかったのであるが、文明が進むとある種の個性の子どもは文明生活に適応しにくくなった。個性は生まれつきのもので、変えようがないので、親や学校や社会の側が子どもに合わせるしかないのであるが、不適応を子どもの“心”の問題と見なし、子どもをほめたり叱ったりすることで子どもを文明生活に適応させようとした。実際には叱ってばかりいることになり、その個性の上に被虐待児症候群が積み重なった。おとな本位の文明がこうした子どもの不幸をつくりだしたのである。
したがって、発達障害という診断名がつくようになったのは、当人にとっては幸いなことである。虐待のリスクが少なくなるからである。

現在、子どものしつけや、習い事、進学などで悩んでいる親にとって、「道徳観のコペルニクス的転回」を知ることは大いに意味があるだろう。おとな本位の考え方を脱して、子どもの立場から考えられるようになるからである。
「問題児」という言葉があるが、存在するのは問題児でなくて「問題親」である。つまりさまざまな問題は、子どもではなくおとなや文明の側にあるのである。

このページのトップヘ