村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2024年05月

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保守とリベラルの対立は世界的に大きな問題になっていますが、教育や子育てに関しても保守とリベラルは対立しています。
たとえばブラック校則を問題にするのはもっぱらリベラルで、保守派はまったく無関心です。
保守派は管理教育賛成で、リベラルは管理教育反対です。
昔、体罰賛成か反対かで世論が割れていたころ、保守派はほとんどが体罰賛成でした。戸塚ヨットスクールが問題になったとき、戸塚ヨットスクール支援者として名を連ねたのは保守派ばかりでした。
性教育に反対しているのはもっぱら保守派です。
家庭で虐待された少女を救う活動をしているColaboをバッシングしたのは保守派で、Colaboを支援したのはリベラルでした。

子育てや教育については科学的な研究が進んでいます。
ですから、保守とリベラルの対立についても科学が結論を出す日も近いでしょう。
すでに「しつけ」については科学的な結論が出ています。


これまで社会は親に対して、子どもをしつけるようにと強く要請してきました。
たとえばレストランなどで子どもが騒いでいると、「親が子どもを静かにさせるべきだ」ということと同時に「親が子どもをちゃんとしつけるべきだ」という声が上がります。
子どもをしつけることは親の義務とされているのです。

親が子どもを虐待して死亡させるような事件が起こると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
それに対してコメンテーターなどがなにか言うのを聞いたことがありません。
「しつけ」はよいこととされているので、言いようがないのです。
あえて言うとすれば、「しつけをするのはいいが、やりすぎはよくない」ということでしょうか。しかし、これでは「しつけは殺さない程度にやりなさい」と言っているみたいです。
「あれはしつけではない」と言うのはありそうです。しかし、そう言うと、「では、ほんとうのしつけはどこが違うのか」というふうに話が発展して、これに答えるのは困難です。


「しつけ」というのはもともと武士階級で子どもに礼儀作法などを教えることをいいました。
「躾」というのは日本でつくられた漢字です。この漢字をもとにして「躾というのは身を美しくすることだ」ということもよくいわれます。
「身を美しくする」ということは、逆にいえば心を美しくすることではないわけで、うわべだけということです。

子どもが騒がずに静かにしていれば「しつけができている」とされます。
しかし、子どもが騒いだり動き回ったりするのは自然なことで、発達に必要なことです。子どもをむりに静かにさせると、心身の発達に悪影響があります。
つまりしつけというのは、子どもの発達を無視して、うわべだけおとなの都合のいいようにすることです。

よく公共の場で子どもが騒いではいけないといわれますが、公共の場には子どもも老人も身体障害者もいる権利があり、肩身の狭い思いをする必要はありません。公共の場で子どもに騒ぐなと要求するおとなは、共生社会も子どもの発達も理解しない、ただのわがままなおとなです。子どものいない静かな環境はプライベートの場で求めるべきで、公共の場で求めるべきではありません。


ともかく、親は社会の要請に応えて子どもをしつけようとしますが、子どもの発達に反したことをしようとしているのですからうまくいきません。うまくいかないと親は子どもを叱ります。
そのため、親の子育ての悩み相談でよく見かけるのは「子どもが言うことを聞かない」という悩みと「毎日子どもを叱ってばかりいる。こんなに子どもを叱っていいのだろうか」という悩みです。

「子どもをしつけるべき」という社会の要請が親子関係を破壊していることがよくわかります。


「子どもをしつけるべき」という考え方のもとには、しつけしないと子どもは悪い人間になってしまうという認識があります。つまり「子ども性悪説」です。
性善説と性悪説とどちらが正しいかについて定説がないために、私たちは都合よく性善説と性悪説を使い分けているという話を前にしましたが、子どもに関しては性悪説を使っているわけです。
「子ども性悪説」ということは「おとな性善説」かということになりますが、誰もそんな論理的なことは考えません。その場限りで自分(おとな)にとって都合よく考えているだけです。

「子ども性悪説」は少なくとも西洋近代には一般的でした。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間は教育によってはじめて人間となることができる」と書いています。
ということは、人間は教育されないと人間にならないということです。では、なにになるのかというと、カントはおそらく「動物」と言いたいのでしょう。それは、「訓練、あるいは訓育は動物性を人間性に変えて行くものです」とか「人間は訓練されねばなりません。訓練とは、個人の場合にしろ社会人の場合にしろ、動物性が人間性に害を与えることを防ぐように努力することをいいます」と述べていることからもわかります。つまり人間は生まれたときは動物であり、教育によって人間になっていくというのです。
この場合の人間と動物の関係は、進化論以前なので、人間は神に似せてつくられた特別な存在であるというキリスト教的な考え方です。つまり理性的な存在であるおとなが動物的な存在である子どもを導いて人間にしていくのが教育だということです。

ジョン・ロックは自由主義や人権思想の基礎をつくったとされますが、『教育に関する考察』において子どもを動物にたとえています。
彼は、しつけは小さいときからするのがたいせつであるといい、小さいときに甘やかした子どもが大きくなってから束縛しようとしてもうまくいかないとして、こう書いています。


今や一人前になり、以前よりは力も強く、頭も働くようになって、なぜ、今突然に、彼は束縛を受け、拘束されねばならぬのでしょうか。七歳、十四歳、二十歳になって、いままで両親が甘やかして、大幅に許されていた特権を、なぜ彼は失わねばならぬのでしょうか。同じことを犬や、馬やあるいは他の動物にやってみて、その動物が若い間に習った、悪い、手に負えぬ癖が、引き締めたからといって、容易に改められるかご覧なさい。


ジグムント・フロイトの患者にシュレーバーという者がいましたが、その父親は何冊もの本を書いた高名な教育学者でした。シュレーバーの父親は子どもの教育はできるだけ早く、生後五か月には始めなければならないと主張していました。言葉もわからない子どもにどう教育するかというと、たとえば泣きわめいている赤ん坊をよく観察し、窮屈だとか痛い思いをしているわけではなく、病気でもないとなったら、泣きわめいているのは「わがままの最初の現れ」であることがはっきりするといいます。


「こうなったらもはやはじめのようにじっと待っていたりしてはならないので、なんらかの積極的な行動に出る必要がある。速やかに子どもの気を別のものに向けさせたり、厳しく言ってきかせたり、身振りで脅したり、ベッドを叩いたりして……、そういうことでは効き目がない場合には――もちろんそれほど強いことはできないにしても、赤ん坊が泣くのをやめるかもしくは眠り込むまで繰り返し、休むことなく、身体に感ずる形で警告を発し続けるのがよい……」(アリス・ミラー著『魂の殺人』より引用)


これはどう見ても幼児虐待の勧めです。フロイトの時代に神経症患者の研究が進んだのにはこうした背景があったからかもしれません。
ともかく、赤ん坊に「わがまま」があるという考えは「子ども性悪説」そのものです。

なお、中世には「教育」というのは金持ちが家庭教師を雇ってすることで、庶民には無縁のことでした。
「子ども」という概念もなく、子どもは「小さなおとな」と見なされていたとされます。
近代になって庶民も教育やしつけをするようになって、ロックやカントの教育論が出てきたのです。

日本でも江戸時代にしつけをしていたのは武士階級だけです。
幕末から明治の初めに欧米から日本にきた人たちはみな、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、明治政府は富国強兵のために欧米式のしつけを日本に広めました(たとえば国定教科書に乃木希典大将の幼年時代のエピソードを掲載したことなどです。詳しくはこちら)。

西洋式のしつけは、子どもを動物のように調教するというもので、体罰を使うのは当たり前です。
もっとも、日本では子どもを動物と見なすような考え方はないので、しつけをする親はつねに葛藤していたと思われます。

このような時代の流れによって、「しつけのためにやった」と言う幼児虐待の加害者が出現するようになったのです。


しかし、「科学」がこうした子育てのあり方を変えました。
その具体的な始まりは1946年出版のベンジャミン・スポック著『スポック博士の育児書』だったでしょう。この本は世界的ベストセラーになって、1997年版の「編集後記」によると、39か国に翻訳され、世界で4000万部発行されたということです。聖書の次に売れた本という説もあります。

この本の基本的な姿勢を示す部分を引用します。

過去五十年のあいだ、教育者、精神分析学者、小児精神科医、児童心理学者、小児科医などが、いろいろとこどもの心理について研究してきました。その結果が、新聞や雑誌に発表されるたびに、世の親たちは熱心にそれを読んだものです。こうして私たちは、だんだんにいろいろなことを学んできました。

たとえば、こどもは、親の愛情を、なによりも必要とするということ、また、けっこう自分から、大人のように責任をもって、ものごとをしようと努力するものだということ、よく問題をおこす子は、罰が足りないのではなくて、愛情が足りないのが原因だということ、また、年齢に応じた教材を、理解のある先生に教えられさえすれば、すすんで勉強するものだということ、自分の兄弟姉妹に対して、多少やきもちをやいたり、たまには親に腹をたてたりするのも、ごく自然な感情であって、これをいちいちとがめだてする必要はどこにもないということ、生命の真実を知ろうと、こどもなりに興味を持ち、性への関心が出てくるのは、ごく自然なことだということ、闘争心とか、性への興味を、あまり強くおさえつけると、こどもをノイローゼにしてしまうこともあるということ、親がしらずしらずにやっていることも、こどもにとっては、親がそうしようと思ってやっていることとおなじように大きい影響を与えるものだということ、こどもは、めいめい独立した人間だから、そのように扱ってやらなければならないということ、などです。

こういった考え方は、今でこそ、もうあたり前のことになっていますが、発表された当時は、驚くべきことだったのです。というのは、それまで何百年ものあいだ、みんなが考えていたこととは、まるで正反対だったからで、そのために、こどもの本性はどういうものか、とかこどもにはどんなことをしてやらなければならないか、ということで、頭の切りかえができず、とまどってしまった親もたくさんありました。

これは「子ども性悪説」の否定であり、子どもをおとなと同じ人間と見ています。
日本では小児科医で児童心理学者の平井信義(1919年―2006年)が「しつけ無用論」と「叱らない教育」を提唱し、中でも『「心の基地」はおかあさん』という本は140万部のベストセラーになりました。

このような科学的な子育て論によって大きく変わったのが「抱きぐせ」についての考え方です。
昔は、赤ん坊が泣いたからといってすぐ抱きあげると抱きぐせがつくのでよくないとされていました(もっと昔は親子は川の字で寝て、母親や上の子がずっと赤ん坊をおぶっていたので、そんな考え方はありませんでした)。
赤ん坊の要求にすぐ応えると、赤ん坊はどんどん要求をエスカレートさせると考えられていたのです。赤ん坊を敵対的な交渉相手と見なして、駆け引きをしているようなものです。
騒ぐ子どもを静かにさせろというおとなも、そうしないと子どもはどんどんわがままになると考えているのでしょう。実際は、子どもが騒ぐのは今だけで、少し成長すれば騒がなくなります。
今は百八十度考え方が変わって、赤ん坊が泣けばすぐ抱くのがよいとされます。そうすることで赤ん坊は「基本的信頼感」を身につけることができるというのです。基本的信頼感があると、赤ん坊はよく探索行動をし、好奇心を発揮して、次第に親から自立していきます。
基本的信頼感がないと、赤ん坊はいつまでも親に依存し、自立が遅れることになります。

基本的信頼感のもとには、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンの分泌があります。赤ん坊は授乳のときや母親と見つめ合うときや触れ合うときにオキシトシンの分泌が盛んになります。
こうしたことから、泣くとすぐ抱くと抱きぐせがつくのでよくないという説は“科学的”に否定されたといえます。
今ではこの“抱きぐせ”説を言うのは、子育てに口出しする祖父母の世代くらいではないでしょうか。


科学的に否定されたといえば、体罰肯定論もそうです。
厚生労働省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っていて、そこにおいて「厳しい体罰により、前頭前野(社会生活に極めて重要な脳部位)の容積が19.1%減少」「言葉の暴力により、聴覚野(声や音を知覚する脳部位)が変形」といった科学的研究を示し、「体罰・暴言は子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼします」と明言しています。
これによって少なくとも社会の表面から体罰肯定論はなくなりました。

ここでは体罰とともに暴言も挙がっていますから、当然子どもをきびしく叱ることも脳にダメージを与えます。
「叱らない教育」への転換が求められます。


しつけ、体罰、叱責は子育てから排除されなければなりません。
そうすると家族のあり方も変わります。
保守派は家父長制、つまり父親が威厳をもって家族を支配するという家族を理想としていますが、父親の威厳はしつけ、体罰、叱責と不可分です。
父親が妻や子どもと対等の人間になれば保守思想は崩壊するといっても過言ではありません。


なお、「子どもを愛すること」と「子どもを甘やかすこと」の違いとか、子どもが悪いことをしたときに叱らなくていいのかといった疑問については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

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結婚式のスピーチにはいくつかの定番ネタがあります。
たとえば「三つの袋」という話は、結婚したら月給袋、堪忍袋、お袋という「三つの袋」をたいせつにしなさいというものです。かなり時代遅れ感が強いですが、いまだに使われているようです。
「愛する─―それは互いに見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」というサン・テグジュペリの言葉もよく使われ、味わい深いものがあります。

私がいちばん役に立つのではないかと思うのが「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」という言葉です。
これは トーマス・フラーというイギリスの歴史家・聖職者の言葉であるそうです。
結婚前は相手をよく見きわめ、結婚したあとは相手の欠点に目をつむれという意味でしょう。

これを実践することができれば、かなり夫婦円満が期待できます。
しかし、実践する人は少ないでしょう。
片目を閉じろということは、自分で自分の判断力を信用するなということです。
たいていの人は自分を疑うということはしないものです。


人間は決して完全な存在ではありません。
私はそのことをここ2回連続で書いてきました。

「『性善説対性悪説』を終わらせる」
「アダム・スミスの倫理学と経済学」

人間性には善と悪の両面があり、人間は場面によって善人モードと悪人モードを使い分けています。
別の言葉でいえば、利他心モードと利己心モード、あるいは協調モードと闘争(競争)モードを使い分けているということです。

親族や共同体の親しい人間に対しては、人間は善人モードや協調モードで対応して仲良く暮らしています。
しかし、文明が発達し、遠くの人との交流が増え、扱う富が増えると、悪人モードになることが多くなり、不正をしてでも利益を得ようとします。
そうして文明社会では争いや不正が絶えないわけです。

ビジネスの世界では、ライバルに対して優位に立つために、機会あるごとにライバルの欠点や失敗を指摘し、また自分の実力を大きく見せて優位に立とうという闘争モードになっています。
家庭内では協調モードでなければなりませんが、多くの人はモードの切り替えができず、結婚生活に闘争モードを持ち込みます。


結婚して二人がいっしょに暮らすようになると、どうでもいい細かいことが気になるものです。
スルーすればいいのに、つい口にしてしまいます。
「電気消し忘れてたよ」
「ドア開けっ放しじゃないか」
失敗ともいえない“うっかりミス”といった程度のことです。
こうしたうっかりミスは、指摘されたからといって直ることはまずありません。
ですから、たいてい指摘してもむだなことに気づいて、そのうち指摘しなくなります。
しかし、中には指摘し続けて、「何度言ったらわかるんだ。電気代がもったいないじゃないか。地球環境のことも考えろ」のようにエスカレートしていく人もいます。そうすると当然、夫婦仲が悪くなります。
そうしたことを避けるために「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスはきわめて有効です。


食事中や洗い物をしているときに食器が割れることがあります。高価な食器やたいせつにしていた食器だと、つい割った人間を非難してしまいます。
「また割ったのか。いい加減にしろよ」
足を踏まれて痛いと、腹が立ちます。
「痛ッ。謝りなさいよ」
故意に食器を割るわけではありませんし、わざと足を踏むわけでもありません。
ですから、相手を非難しても改善されるわけではありません。

カントは、行為は結果ではなく動機で評価するべきだといっています。つまり高価な食器が割れたという結果で評価してはいけないというのです。
しかし、世の中では、まったく悪気はないのに過失によって重大な結果が生じると、罪に問われたり損害賠償を求められたりします。つまりカントの教えに反して、動機ではなく結果で評価するということが社会のルールになっています。
そのため、家庭内にもそのルールを持ち込んでしまうのでしょう。
しかし、そうすると、悪意のない相手を非難することになり、非難されたほうは納得がいかないので、そこから夫婦喧嘩に発展することもあります。
ここでも「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスが有効です。


ここで気づくべきは、社会のルールと家庭のルールは違うということです。

社会では、うっかりミスや悪意のない失敗を非難することが普通に行われています。
会社の部下が失敗したとき、上司は部下を非難することで自分の優位を確認します。部下も失敗した引け目があるので、非難されても受け入れるしかありません。
取引先の失敗や不備も、見つけたらすかさず指摘します。そうすれば取引を有利に運ぶことができます。
ビジネスの世界では、うわべはビジネスマナーなどを駆使して友好的に見せかけていますが、水面下では激しい闘争が行われているわけです。
このやり方が当たり前だと思うと、家庭内でも同じことをやって、夫婦関係を壊してしまいます。

「こんなことも知らないのか」「こんなこともできないのか」と言って、相手の能力がないことを非難することもよく行われます。
そうする一方で、自分の知識や能力を誇示します。
これも相手をおとしめて自分が優位に立とうとする闘争モードです。
家庭内でこれをやるのはたいてい男です。夫婦間に上下関係をつくろうとするのです。
これはモラハラ、パワハラにつながって、かなり悪質ですが、もとをたどれば社会のルールと家庭のルールが違うことを理解していないだけかもしれません。

なお、「男は敷居をまたげば七人の敵あり」という言葉があります。
これも競争社会の苛酷さをいっているようですが、この言葉が使われるのは「男は外で苦労しているのだから、家庭ではわがままにふるまっても許されるべきだ」という意味の場合がほとんどなので、社会の闘争原理を家庭内に持ち込んでいるのと変わりません。


社会の闘争原理を家庭に持ち込んでしまうのは、そこに道徳がからんでいるからでもあります。
つまり相手を非難するのは道徳的行為だという粉飾がなされているのです。
道徳的行為なら家庭内でもやっていいということになります。

こういう道徳のとらえ方は常識と逆なので、とまどう人が多いかもしれません。
道徳は「人のよい生き方を示す指針」というのが普通のとらえ方です。
しかし、道徳の実際の使われ方は「お前はよい生き方の指針に反する悪いやつだ」というように人を攻撃する道具として使われます。道徳の規準に反すると「だらしない」「怠けている」「無責任だ」「自分勝手だ」など攻撃されます。
インターネット空間にはこうした人を攻撃する言葉があふれています。それらの言葉は道徳が生み出しているのです。

人を道徳で攻撃してもなかなか世の中はよくなりません。むしろ悪くなります。
ただ、道徳は便利な道具ではあるので、手離すことはできません。警察や検察が手を出さない悪徳政治家を攻撃するときは道徳や倫理を使うしかありません。

私たちは人を道徳的に評価することに慣れているので、つい配偶者も道徳的に評価してしまいがちです。
道徳的評価というのは、よいところと悪いところを分けるわけです。
よいも悪いもなく相手のすべてを受け入れるのが愛です。愛と道徳は根本的に違います。
相手が失敗してもバカなことをしても、すべて許して、むしろ笑いのネタにしていれば、結婚生活は幸せです。


ところで、私は熱いものは熱々で食べたいタイプです。
ところが、妻は猫舌ということもあって、結婚当初、熱い料理を出す気があまりないようでした。私がその料理はすぐに食べるべきだと言ってもあまり取り合ってくれません。料理ができてからまな板を洗ったりして、料理が冷めることに平気です。
妻の実家に行ったとき、妻が母(私の義母)といっしょに料理をして、大量の天ぷらを揚げました(家族が多いので)。当然最初のほうに揚げた天ぷらは冷めていて、全部が大皿で出てきます。「こちらが揚げたてですよ」ということもありません。
要するに熱い料理を出すということにこだわりのない家なのでした(義母も猫舌です)。
私は自分の要求が無視されることに不満を持っていましたが、妻は生家のやり方を踏襲しているだけだったのです。
ちなみに私の生家では、父が晩酌することもあって、料理ができたらすぐ持ってこいと母に要求していました。私はそれに影響されていたようです。

また、私は妻の言葉づかいに気になることがありました。その言葉を聞くと、なにかバカにされているような気がするのです。ただ、妻に私をバカにする様子はまったくないので、気にしないようにしていましたが、その言葉を聞くたびにもやもやしていました。
妻の実家に行くと、義父がまったく同じ言葉づかいをしていました。妻は義父の真似をしていただけで、私に対してなにか思っていたわけではないのでした。
ほかにも妻の言動の理解しがたいところが、妻の実家を観察することで理解できるということが多々ありました。

人間のかなりの部分は生まれた家庭環境によって決定され、それはすぐには変わりません(時間がたてば変わります。妻も今では熱い料理を出します)。
配偶者の言動に納得いかないところがあり、それがなかなか変わらないと、自分に対するいやがらせではないかと邪推しがちですが、そうした納得いかないところは配偶者の実家に行くとかなりの程度解明されます。
結婚してから閉じた片目は、配偶者の実家を観察するのに見開いて使うのが賢明です。

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経済学は自己の利益の最大化を目指す「合理的経済人」という人間観を土台にした学問だとされます。
私はそのことを知ったとき、「『人はパンのみにて生くるにあらず』というのに、パンのことだけか」と思ったのを覚えています。
パン以外の、幸福とか生きがいとかは眼中にないのかと思いましたし、なによりも利益追求は人間性の一部でしかないだろうと思いました。

このことには経済学者も引け目を感じているようで、利益以外の面、具体的には倫理や道徳をなんとかして経済学と結びつけようとしてきました。
その代表的なものがマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。プロテスタントの禁欲的精神が勤勉や貯蓄となって資本主義の発展につながったという逆説的なことを述べた本で、まさに経済と倫理を直結させています。

渋沢栄一は『論語と算盤』という本を書いていて、新一万円札の顔になるということから、改めて注目されています。『論語』の精神を経営に生かすということを述べているので経営学の本というべきですが、「道徳と経済の合一説」ということも主張しています。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの『経済学と倫理学』という本も、タイトルそのままに経済学と倫理学の関連を論じています。

しかし、このような経済学に倫理学を結びつけようとする試みはうまくいっていません。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にしても、プロテスタントの国でなくても経済発展する国はいくらでもあることがわかって、最近はあまり評価されていません。


そこで、最近注目されているのがアダム・スミスです。
アダム・スミスは最初に『道徳感情論』という倫理学の本を書いて高く評価され、その次に『国富論』という経済学の本を書きました。
今ではアダム・スミスといえば『国富論』で知られ、“経済学の父”とされますが、『道徳感情論』のほうはすっかり忘れられています。

スミスは生涯にこの二冊しか本を書いていません。どちらの本もスミスは死ぬまでに何度も改訂していました。
スミスの中で経済学と倫理学は結合していたはずです。





スミスは『道徳感情論』で、道徳の根拠として人間の感情を挙げました。
人間には他者に共感する性質があり、他者の喜び、悲しみ、怒りなどの感情を自分のことのように感じることができるといいます。しかし、人間はすべての感情に共感するわけではありません。ささいなことで激しく怒っている人を見れば、共感することはありません。つまり他人の感情に是か非かという評価を下しています。
ということは、自分もまた他人から評価されているわけです。人間は誰でも他人からよく評価されたいので、そのようにふるまおうとします。しかし、こちらの人によく評価されると、あちらの人から悪く評価されるということもあります。そのような経験を積むうちに、自分と他人を公平に判断する裁判官のような第三者を胸中につくることができるとスミスは言います。この「公平な観察者」によって人間は公平な判断が下せるというわけです。
つまり人間は公平な判断ができ、それによって公平な法律をつくり、秩序ある社会をつくってきたということです。


スミスの思想はイギリス経験論に分類されます。
スミスと同じスコットランド出身のデイヴィッド・ヒュームは、人間の本性(human nature)に道徳の根拠があるとしました。
スミスはより具体的に人間の感情(sentiments)に道徳の根拠があるとし、しかもかなり論理的に説明したので、これが世の中から評価されました(この説はチャールズ・ダーウィンにも影響を与えました。感情は人間と動物に共通しているので、進化論にとって好都合だったからです)。



スミスは次に『国富論』を書きましたが、このときもまったく同じ人間観でした。つまり公平な判断ができる人間を前提としています。
同じ人間観なのに、『国富論』は歴史的名著となり、『道徳感情論』はほとんど忘れられてしまったのはどうしてでしょうか。

まずひとつ言えることは、「公平な人間」観は間違っていたということです。
たとえば日本は韓国と竹島の領有権を巡って争い、中国とは尖閣諸島の領有権を巡って争っています。これらにおいて、日本人はつねに日本に有利な主張をし、韓国人も中国人も自国に有利な主張をしています。誰も「公平な判断」はしません。
人類は数えきれないほど戦争をしてきましたし、愛し合って結婚した夫婦も数えきれないほど夫婦喧嘩をします。「公平な判断」ができないからです。

人間は利己的です。しばしば公平の基準を越えて不当に利己的にふるまい、争いを引き起こします。
スミスは人間性を買いかぶりました。
もっとも、それはスミスだけではありません。西洋の倫理学はすべてそうです。
プラトンは「善のイデア」ということをいい、アリストテレスは「最高善」ということをいい、ソクラテスは「徳」をいいました。カントも「最高善」といっています。
人間は努力して「最高善」を目指すべきであるというのが倫理学の基本です。
しかし今、倫理学は見向きもされない学問です。図書館や大型書店の倫理学の棚の前にはいつも人けがありません。
ですから、『道徳感情論』が忘れられてしまったのは当然です。

むしろ問題は、間違った人間観をもとにしている『国富論』がなぜ成功したかです。
これは対象を経済活動に限定したことに理由があります。

人間は不当に利己的にふるまう傾向があるといっても、公平の客観的な基準がある場合は別です。不公平なふるまいをすれば周りから非難されます。
経済活動はだいたい客観的な基準に基づいて行われます。物々交換の時代にも、物の個数や重さを互いに確認して取引したはずです。貨幣ができてからは、物だけでなくサービスの価値も客観化できるようになりました。
そして、株式市場や競り市のような公開の場で取引が行われれば、公平にふるまわざるをえません。

スミスは、人間が公平にふるまうので「見えざる手」がうまく機能すると考えていました。
しかし、株式市場のような場でも、人間は隙あらばインサイダー取引や不正な相場操縦行為をしようとしますし、あらゆる経済活動の場で詐欺や不正が行われる可能性があります。
そのため警察、証券取引等監視委員会、国民生活センターなどの「見える手」がつねに不正を排除することで経済を回しているのが現実です。

スミスの説は「夜警国家論」ともいわれます。
しかし、現実には社会にはさまざまな問題が生じて、警察だけでなく行政も肥大化しています。人間は公平でないからです。

ただ、ルールが決まっていて、衆人環視のもとで経済活動が行われれば、人間は公平にふるまいます。
そして、公平な市場において価格が決定されれば、価格メカニズムにより商品、資本、労働、土地が適切に配置されます。
この価格メカニズムについての理論がすばらしかったので、人間観が間違っていたにも関わらず『国富論』は高く評価されたのです。


ただ、スミスの「公平な人間」観は間違いだと言い切ってしまうのも違うかもしれません。
前回の「『性善説対性悪説』を終わらせる」という記事に書いたことですが、人間には善人の面と悪人の面の両面があります。
人間は血縁者と親しい人間には利他行動をします。したがって、共同体の中では公平な人間としてふるまうといえます。
ですから、親密な人間を相手にして単価の安い商品を扱うなら、性善説を前提としたビジネスが可能です。
しかし、今の資本主義社会では、ビジネスで扱う金額が大きく、広範囲な人間を取引相手とするので、不正をする可能性がきわめて高くなります。
人間を公平にふるまわせるには監視と罰則が必要です。


これまでのことをまとめます。
従来の倫理学はまったく価値のないものです(私は「天動説的倫理学」と呼んでいます)。
スミスの『道徳感情論』もそれと同じで、「公平な人間」というありえない人間観を提起したので、今ではほとんど忘れ去られました。
『国富論』も同じ人間観ですが、経済活動は監視しやすいために人間観の間違いはあまり問題にならず、価格メカニズムに関する経済理論が優れていたために歴史的名著となりました。

なお、経済学と倫理学を結びつけようという試みがすべてうまくいかないのは、倫理学が根本的に間違っているからです。
これまで経済学が人文・社会科学の中で比較的成功した学問であったのは、倫理学を完全に切り離していたからです。
経済学と倫理学を結合したければ、倫理学を根本的に変革しなければなりません。

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世の中に性善説と性悪説があることは、孟子と荀子の説として中学か高校で習いましたが、こんな単純なことがわからないのかと思ったのを覚えています。
このことがわからないために、さまざまな混乱が生じています。

たとえば新型コロナに対する緊急経済対策として持続化給付金制度が実施されましたが、給付のスピードを優先して簡単に申請できる仕組みにしたことで不正が横行し、2022年6月1日時点で持続化給付金詐欺事件で摘発されたのは3655人、被害総額約31億8000万円となっています。ほかにも新型コロナワクチン接種事業における過大請求や無料PCR検査事業における検査数の水増しなども発覚しています。
こうしたことから「性善説を前提とした制度はだめだ」という声が高まりました。
しかし、性悪説に立って厳密な審査を行うと給付が遅くなります。単純に性悪説がよいとはいえません。世の中はある程度人を信用することで回っています。

現実には、人はみな場面によって性善説と性悪説を使い分けています。
ひろゆき氏はYouTubeで「個人は性善説、組織は性悪説」という説を述べていました(たぶん思いつきです)。
私が見るところ、多くの人は「他人は性悪説、自分は性善説」という説を採用して、自分のことを棚に上げて他人を批判しています。
要するに性善説か性悪説かという問題には、正解がないのをいいことにみんな適当なことを言っているのです。


このように混乱するのは、善か悪か、白か黒かという二分法に陥っているからです。
人間性に完全な善や完全な悪があるわけありません。その中間のはずです。
問題はどの程度善で、どの程度悪かです。
私の考えでは、人間性はおおむね善で、少し悪が入っているというところです。かなり白に近い灰色というイメージです。
別の言い方をすれば、人間性の根底は善で、表層に悪があります。
これは客観的に観察することができます。


私は20代の終わりごろ、東京都練馬区に引っ越しました。
周りにはけっこう畑があり、無人野菜販売所もありました。
私はそのとき初めて無人野菜販売所を見たので、衝撃を受けました。
何種類かの野菜が置かれていて、100円か150円かを箱に入れて好きな野菜を持っていくというシステムです。お金を入れなくても野菜を持っていくことができます。人の目はありませんし、監視カメラもありません。
私は自分が試されている気がしました。お金を入れずに野菜を持っていくのが“合理的”かもしれません。少なくともお金を入れる理由を考えなければなりませんでした(私はそのころから道徳を疑っていたので、道徳は行動の基準にしませんでした)。

私は「自分が信頼されている」と感じました。そうすると「信頼に応えなければ」という思いが生じました。
厳密には無人販売所の設置者は私という人間を信頼しているわけではありませんが、人を信頼することで成り立つ業態であるのは確かです。

それから私が考えたのは、私がお金を払わずに野菜を持っていって、ほかにも同じことをする人間が何人もいたら、この販売所はつぶれるだろうということです。
ここの野菜は、明らかに新鮮で、割安です。タダで少しの野菜を手にいれても、この販売所がなくなったのでは、トータルで自分の損になるだろうと判断し、お金を払うことにしました。

ともかく、無人販売所が成り立っているのは、多くの人が誰も見ていないのにちゃんとお金を払っているからです。そういう意味では性善説が正しそうです。
ただし、全員が払っているわけではありません。「無人野菜販売所 盗み」で検索すると、そういう事例が多数あることもわかります。
最近はコインを入れると野菜が取り出せるシステムになっているところもよく見かけますから、やはりある程度盗まれているのです。
このことからも「人間性はおおむね善で、少し悪が入っている」ということがいえると思います。


善と悪の比率については、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの共著)に出てくるベーグル売りの話が参考になります。

ワシントンでアメリカ海軍のために兵器購入費を分析する職についていたポール・フェルドマンは、ベーグルをつくるのが得意で、いい成績を上げた部下に自家製のベーグルをプレゼントしていました。すると、噂を聞きつけたほかの部署の社員もベーグルをくれとやってきたので、彼が持ってくるベーグルは週に15ダースにもなりました。コストを回収するために、代金入れのカゴと希望価格を書いた札を置きました。回収率は95%くらいでした。
研究所の経営陣が変わったのを機に、フェルドマンは退職してベーグルを売って暮らすことにしました。オフィス街を車で売り込みに回りました。彼のビジネスシステムは、彼が朝早くベーグルと代金入れを会社のカフェテリアに届け、ランチタイムの前にまたやってきて代金と売れ残りを回収するというものです。それがうまくいって、数年で配達するベーグルは週に8400個、客は140社になり、勤めていたとき以上の収入を得るようになりました。
フェルドマンは最初から商売の詳しいデータをとっていたので、どんな会社でどんな人間がどれぐらいベーグルを盗んでいるのかが明らかになりました。
彼が勤めていたときの職場での回収率は95%でしたが、これはみな顔見知りの人間だったからのようです。だいたいの会社は回収率が80%から90%でした。90%以上の会社は「正直者の会社」だと思いました。いつも80%を下回っているような会社には警告文のメモを張りました。
全体の回収率は87%でしたが、9.11テロが起こると2%はね上がりました。
小規模のオフィスのほうが大規模なオフィスよりも正直な傾向がありました。これは都会よりも田舎のほうが人口当たりの犯罪件数が少ないのと似ています。
会社で地位の高い人のほうが低い人よりもごまかす傾向がありました。フロアが三つあって、いちばん上が役員のフロア、下二つが営業、サービス、管理などに携わる従業員のフロアとなっている会社では、上のフロアのほうが盗みが多かったのです。
金持ちや権力者ほど悪いことをする傾向は、ほかの科学的研究でも明らかになっていて、「お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究」という記事にも書かれています。

つまり性善説を前提にしたビジネスが成り立ったのです。
もっとも、これはワシントンのオフィス街のまともな会社が舞台です。
そのへんのストリートの一角にベーグルと代金入れを置いたら、たちまちベーグルもお金も盗まれてしまうに違いありません。

なお、フェルドマンは最初、カゴに代金を入れるようにしていましたが、代金を盗まれることがけっこうありました。そこで木箱の上に細い穴を空けたものを代金入れとしました。そうすると木箱が盗まれるのは年間一個ぐらいでした。カゴからお金は盗めても、木箱まるごとは盗みにくいようです。

もっとも、木箱の中に大金が入っていれば別です。
ベーグルも野菜も単価が安いので成り立つ商売です。宝石の無人販売所はありえません。


それから、フェルドマンはベーグルの配達と代金の回収と一日に二回会社を訪問していますから、そこの会社の人間ともある程度関係ができているでしょう。顔を合わさなくとも「ベーグルを持ってくる人」と認識されているはずです。
人間は親しい関係の人間に損を与えるのは心理的抵抗があります。いわゆる“良心の呵責”です。

これは進化生物学で説明がつきます。
血縁者への利他行動は包括適応度として、血縁のない者への利他行動は互恵的利他行動として理論化されています。
血縁者へ利他行動をするのは当たり前ですが、互恵的利他行動というのは、そのときは損でも、相手がお返しをしてくれることで双方が得をするような行動です。
ただし、互恵的利他行動が成り立つのは、ある程度持続的な関係のある場合です。行きずりの関係では「旅の恥はかき捨て」のようなことになります(もっとも行きずりの他人でも人間的な親しみを感じると無償の利他行動をすることもあります)。

無人野菜販売所も狭いコミュニティの中で存在しています。多くの人が通るようなところではできないでしょう。
スーパーマーケットではよく万引きが起きます。万引きしても被害者の顔が想像できないので、良心の呵責がほとんどないからです。
個人経営の商店から万引きするのは、被害者の顔がわかっているので、良心の呵責があります。

脱税は立派な犯罪ですが、これも被害者の顔が見えない犯罪なので、良心の呵責はほぼありません。もし税務署に絶対見つからない脱税方法があるとすれば、脱税の誘惑から逃れられる人はほとんどいないでしょう。


狩猟採集生活をしていたころの人類は、多くて150人程度の集団で暮らしていたと思われます。つまりみんな親族か親密な仲間で、完全な共同体です。
そういう社会では性善説が通用していました。
しかし、経済が発達し、扱う富が増え、人との交流も増えると、不正をして利益を得たくなる機会も多くなります。
今でも田舎では昼間家に鍵をかけないことが多いのではないでしょうか。都会では怪しいセールスや宗教の勧誘などが多いのでほとんどの家は鍵をかけています。
つまり親密な人間関係の中では人間は善人として生きていけるので、性善説が通用しますが、文明化と都市化が進むとともに性悪説を採用せざるをえなくなります。


そういうことを考えると、持続化給付金制度は中小企業に200万円、個人事業主には100万円を給付するという制度で、金額が大きく、しかも不正給付を受けたときの被害者は国なので、良心の呵責もないので、不正したくなる条件がそろっています。
ですから、この制度を始めるときに、給付のスピードを重視して審査を甘くしたのはいいとしても、不正が起きやすいことを見越して、「のちほど厳密な審査をして不正は必ず発見して厳罰に処する」という広報もするべきでした。そうすればある程度不正は防げたでしょう。


ここまで「性善説対性悪説」というテーマを論じてきましたが、実は論じてきたのはもっぱら損か得かでした。
善か悪かというのは、どうやっても論理的に論じることはできません。
ですから、善か悪かは、損か得か、利他か利己かに置き換えて論じるのが賢明なやり方です。
損か得かなら、話し合いで解決できますし、第三者の視点を入れるということもできます。
善か悪かとしてしまうと、話し合いで解決することはできないので、最終的に戦争になったり夫婦喧嘩になったりします。


「善と悪」は「損と得」とつながっていて、関係式で結ばれています。
このことは「究極の思想」であるところの「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すればわかります。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。

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私はこの「村田基の逆転日記」というブログのほかに「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっていて、そちらの内容を大幅にリニューアルしたので、お知らせします。

「道徳観のコペルニクス的転回」というブログでは「究極の思想」について書いています。
「究極の思想」とはなにかというと、すべての思想を科学の次元に解体する思想です。

人文・社会科学の世界では、思想と名のつくものは数えきれないほどありますが、確かなものはひとつもありません。新しい思想はつねに前の思想を批判する形で現れ、やがてまた新しい思想に批判されるか忘れられて消えていきます。まるで賽の河原の石積みです。自然科学の世界で確かな成果が着実に積み上がっているのと対照的です。

近代哲学の基礎を築いたとされるデカルトは、自分の存在を疑い抜いて、疑っている自分の存在は疑いえないという論理でもって自己の存在を証明したとされます。しかし、自分の考えが正しいということは証明していません。
世の思想家や知識人は、自分の考えが正しいという根拠もないのに、あれやこれやの思想を提示し、意見を述べて、世の中を混乱させています。


私は若いころ、自分の考えが正しいということを客観的に証明することはできないだろうかと考えました。
なぜそんなことを考えたかというと、私は性格的に気が弱く、なかなか自己主張できなかったからです。自分の考えが客観的に正しいとわかれば、自信を持って主張できると考えたわけです。
そうしてあれやこれやと考えているうちに、私の頭の中で認識のコペルニクス的転回が起きました。その瞬間のことは今もよく覚えています。「アウレカ!」と叫んで走り出しそうになりました。
私は人類史上画期的な発見をしたと確信しました。

これまでは誰もが自分は世界の中心にいると思って思考していたのです(デカルトも同じです)。私は「自分」を世界の中に正しく位置づけました。これによって自己中心的な考えを脱却することができたのです。

私は自分の発見を「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
コペルニクスの地動説から科学革命が始まったように、「道徳観のコペルニクス的転回」から人文・社会科学における科学革命が始まってもおかしくありません。


そうしたことを「道徳観のコペルニクス的転回」というブログに書いたわけですが、あまり読まれませんでした。
ひじょうにスケールの大きなことを書くので、自分の実力が及ばないということがありました。
それから、私は最初の長編小説を出版するときのトラブルでトラウマを負って(詳しくは「作家デビューのときのトラウマ」参照)、そのために「自分の書きたいものは理解されない」という思い込みがあって、回りくどい書き方をしてしまうということもありました。

それらからくる欠点を修正して、今回、大幅に書き直したものをアップしたわけです。
書き出しは全面的に変更しました。
前は、「人が貧乏になるのは努力しないからだ」という新自由主義的な考えを取り上げて、人間に「自由意志」はあるのかという問題を、「決定論」や「唯物論」とからめて論じました。つまりもっぱら哲学に寄せて書いたわけです。
しかし、哲学上の問題はあまり興味を持たれないでしょう。
そこで今回の書き出しは、「文明に戦争、奴隷制、植民地支配、人種差別がつきものなのはなぜか」という疑問を、ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』と比較しながら論じました。戦争や人種差別は今も誰にとっても重要なテーマです。
前に読んで挫折した人にも今回は読んでもらえるのではないかと思っています。


ここ数年、世界はどんどん戦争へと傾斜していっているようです。
誰もが戦争を望まないのに戦争が起こるという悲劇が繰り返されそうです。
誰もが自己中心的な発想から抜けられないからです(ナショナリズムや愛国心は自己中心的発想の典型です)。
多くの人が「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すればこの悲劇は防げます。
また、「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すれば、それだけで夫婦関係や親子関係が改善されるという効用もあります。


最終的には書籍として出版しなければいけませんが、私は長く“書かない作家”であったので、最近は出版社とのつきあいもほとんどありません。
それに、トラウマの影響で「道徳観のコペルニクス的転回」の価値を理解してくれる編集者がいないのではないかという懸念があり、自分からの働きかけをためらってしまいます。
ですから、「道徳観のコペルニクス的転回」がある程度世の中に広まって、理解のある編集者が出てくることを期待しています。

「道徳観のコペルニクス的転回」


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