村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2024年06月

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最近、なにかとカスタマーハラスメント(カスハラ)が話題です。

厚生労働省は「職場におけるハラスメント対策」という資料をホームページ上に公開しましたが、その中に「威張りちらす行為」をする人として「社会的地位の高い人、高かった人、定年退職したシニア層などに傾向が見られる」との記述がありました。
そうすると、「これは高齢者差別ではないか」「『社会的地位の高かった人』や『シニア層』などと特定の人たちだけを名指しすることは誤解を招く」「どんな人でもそういうことは起きる」などと抗議がありました。

カスハラをする人に高齢者が多いというのはちゃんと根拠のあることです。
労働組合「UAゼンセン」は流通・小売業・飲食・医療・サービス業などで働く組合員3万3000人を対象にアンケート調査を実施し、こういうことがわかりました。
迷惑行為をしていた客の性別と推定年齢については、2020年調査では「主に40~70代の男性がカスハラをする」と結論づけられていた。今回の調査でも40代以上の客が9割以上を占めたが、特に70代以上の割合が大きく増えた。
〈20年:11.5%(1750人)→24年:19.1%(2955人)〉

「社会的地位が高い」ということについては推測が入っているようですが、年齢については数字で示されています。
ところが、厚労省は抗議されると、カスハラをするのは高齢者が多いという記述を削除しました。

そうすると、それがまた問題になりました。
「その抗議自体がカスハラだ。カスハラ対策を訴える厚労省がカスハラに屈するとはなんのコントだよ」などの声が上がり、専門家もこういう対応はカスハラを助長しかねないと懸念をしました。

カスハラをする人に高齢者が多いというのは顕著な傾向です。
ですから、厚労省がそれを指摘したのは当然ですが、問題は指摘しっぱなしで終わっていることです。「傾向と対策」を論じなければいけません。
中途半端な指摘をするので抗議されたのでしょう。
誰もが感じていることでしょう。

UAゼンセンのカスハラ調査については、注目するべきことがもうひとつありました。

UAゼンセンは、2017年、2018年、2020年に続き、2024年も小売・サービス業で働く組合員を対象に、カスタマーハラスメント(顧客等による過剰な要求や迷惑行為)の実態についてアンケート調査を実施した。
直近2年以内で迷惑行為被害に遭ったと答えた割合は46.8%(1万5508人)で、前回2020年結果での56.7%(1万5256人)から約10ポイント減少した。


カスハラというと、どんどんひどくなって、接客業の従業員がつらい思いをしているというイメージがありますが、実際は減少しているのです。
マスコミはつねに危機感をあおるような報道をするので、誤解してしまいます。
犯罪件数も、2002年をピークに減少を続け、現在は3分の1以下になっていますが、テレビのワイドショーなどはつねに「犯罪は深刻化している」というスタンスで報道していました。

ほかのハラスメントはどうなのかと調べてみると、「令和2年度 厚生労働省委託事業 職場のハラスメントに関する実態調査」にはこう書かれています。
○過去3年間のハラスメント相談件数の推移については、パワハラ、顧客等からの著しい迷惑行為、妊娠・出産・育児休業等ハラスメント、介護休業等ハラスメント、就活等セクハラでは「件数は変わらない」の割合が最も高く、セクハラのみ「減少している」の割合が最も高かった。
○過去3年間のハラスメント該当件数の推移については、顧客等からの著しい迷惑行為については「件数が増加している」の方が「件数は減少している」よりも多いが、それ以外のハラスメントについては、「件数は減少している」のほうが「件数は増加している」より多かった。

やはりハラスメントは全般に減少しているのです。
「顧客等からの著しい迷惑行為」だけは増えていますが、これは要するにカスハラのことでしょう。
この調査は令和2年と古いので、最新のUAゼンセンの調査ではカスハラは減少しています。

ハラスメントが減少してるのはいいことですが、喜んでばかりはいられません。日本人が元気をなくしている現れかもしれないからです。
それから、ハラスメントに対する耐性がなくなってきている可能性もあります。
たとえば、コンビニ店員が客から怒鳴られたとします。昔の人ならそれほど気にしなかったのに、今の若い人は傷ついてしまって、それでカスハラが問題になっているのかもしれません。

今の若い人は打たれ弱いということはよくいわれます。会社で若い部下をちょっと叱ると、すぐ会社を辞めてしまうとか、パワハラだといわれるとか。
昔は学校でも部活でも体罰とかきびしい指導が当たり前で、親もよく体罰をしていましたから、そういうことはありそうです。

かといって、子どものときからきびしく育てるべきだという意見には賛成できません。きびしく育てられた人間がパワハラやカスハラをするようになるからです。
部活で上級生からきびしく指導された1年生は、2年生になると1年生をきびしく指導するようになり、親から体罰を受けた子どもは自分が親になるとたいてい子どもに体罰をするようになります。
カスハラをするのは高齢者が多いというのは、そういう育てられ方をしたからでしょう。

これは戦争までさかのぼることができます。昔の男はみな兵隊になるように育てられ、しかも実際に戦争に行った者が多いので、みな暴力的でした。戦後になっても映画「仁義なき戦い」に近いものがありましたし、私の世代も戦中派の親に育てられたので、暴力的な影響を受けています。
しかし、平和な世の中が長く続いて、若い世代はとりわけ軟弱になり、暴力的な高齢者からパワハラやカスハラを受けているというのが現状です。
ですから、パワハラやカスハラは高齢者世代対若者世代の戦いともいえます。

平和が長く続けば人間が平和的になるのは自然の摂理です。
ただ、そのためにパワハラやカスハラに弱くなるとすれば困ったことです。
しかし、打たれた経験がないから打たれ弱くなるのではありません。
問題は自己評価です。
自己評価が低い人間は、打たれるとめげてしまいます。
自己評価が高い人間は、不当な仕打ちをされたときは反撃しますし、反撃しないときもそんなにめげません。


日本人は他国民に比べて自己評価が低いとされています。

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しかも、年齢がいくと自己肯定感が低下する傾向があるというデータがあります。

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ワコール「10歳キラキラ白書」2018年度版より


なぜそうなるのでしょうか。
単純に考えると、学校でブラック校則や細かい生活指導に縛られ、家庭ではテストの点数が悪い、行儀が悪いなどのダメ出しをされ、社会でも子どもの遊ぶ声がうるさいなどと抑圧された結果ではないかと思われます。
もっとも、ここ数年は自己肯定感が向上する傾向が現れています。「体罰禁止」や「ほめて育てる」などの考え方が奏功しているのでしょうか。

若者は自己評価が低いので、カスハラ、パワハラに弱いといえます。
最近の若者は会社を辞めるとき、退職代行サービスを利用することがあるといいます。とくにブラック企業を辞めるときに利用しているようです。
しかし、ブラック企業であっても、いったん会社を辞めると決心したら、なにを言われても平気なはずです。働いた分の給料はもらわねばなりませんが。
退職代行サービスがはやっているということは、今の若者はよほどパワハラに耐性がないのでしょう。


自己評価の低さは急には改まりません。
では、パワハラ、カスハラにどう対処すればいいかですが、パワハラというのは会社の権力に関わってきてむずかしいので、ここではとりあえず、店員対客といった単純なカスハラについて考えます。
たいせつなのは、まず怒りの感情について知ることです。というのはカスハラはつねに怒りの感情から生じるからです。

怒りの制御のしかたを教えるアンガーマネジメントでは、怒りは動物が縄張りの侵入者を威嚇して戦闘準備状態にあるときの感情と同じで、生体の防御反応だとされます。
怒りは攻撃反応と思われがちですが、実は防御反応なのです。この違いは重要です。
カスハラする人というのは、攻撃されていないのに攻撃されていると勘違いする人です。自分と他人の境界線がずれていて、なんでもないことでも自分が攻撃されたと勘違いするのでしょう。

怒っている人は、そこに自己の生存がかかっていると思って必死なので、まず譲歩するということがありません。
ですから、反論せず、説得せず、時間がたって怒りの感情が収まるのを待つということになります。


カスハラする人と戦う方法もあります。

怒っている人と怒っていない人は対等ではありません。怒っていない人は、怒っている人から物理的に攻撃されるのではないかという恐怖心を持つからです。
しかし、もし相手が手を出せば警察を呼んで相手を暴行罪か傷害罪にすることができ、こちらの勝利となります。
一発殴られる覚悟さえあれば、「相手が手を出せばこちらの勝ち」と思って余裕ができ、怒っている相手と対等になれます。
対等になれば、あとは言葉による戦いです。


モラルハラスメント(モラハラ)という言葉があります。本来はモラルに反するハラスメントという意味で、セクハラやパワハラなどすべてのハラスメントを指す言葉でしたが、今はモラルによって相手を攻撃するハラスメントという意味で使われます。
たとえば夫が妻に対して、「だらしない」「怠けている」「妻としての務めを果たしていない」といったふうに道徳的に非難することがモラハラです。
パワハラやカスハラも、「お前が悪い」「お前は務めを果たしていない」と言って相手を攻撃するので、広い意味ではモラハラです。

道徳には根拠がありません。
最近では、河村たかし名古屋市長が「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と発言し、イスラエルのネタニヤフ首相は「われわれの軍隊はもっとも道徳的な軍隊だ」と言いました。
要するに道徳は言ったもん勝ちです。

カスハラする客は店員に対して「お前は店員としての務めを果たしていない。態度が悪い。私は被害を受けた。責任を取れ」みたいなことを主張します。これに対して弁明したのでは守勢ですから、相手はこたえません。
別角度から相手を攻撃するのが有効です。
「客だからなにをしてもいいわけではない。客にも礼儀が必要だ」「さっきから大声を出されてほかの客が不愉快な思いをしている。営業妨害だ」「あなたに対応しているために仕事ができない」「暴言を吐かれて傷ついた」といった具合です。
モラハラ夫が妻を攻撃するのと同じ要領です。
こうすれば対等の戦いになり、客よりも多くの言葉を使って攻撃すれば勝つことができます。


人間は言葉を武器にして互いに生存闘争をしています。
相手を攻撃するもっとも強力な武器が「道徳」です。
ライバルを蹴落とすとき、取引先に値下げを迫るとき、政治家を非難するときなど、道徳を使うのが効果的です。

道徳の正体を知ると、うまく生きていけます。
パワハラする上司の言い分も基本は道徳なので、言われても気にならなくなります。
道徳をありがたいものだと思っていると、誰か他人の思う壺になってしまうので、注意してください。


こうした道徳のとらえ方については、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。

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東京都千代田区立麹町中学校でダンス部がヒップホップダンスの発表をすることが禁じられ、波紋を呼んでいます。

麹町中ダンス部では春の体育祭と秋の文化祭でヒップホップダンスを発表するために週2回ヒップホップ専門のコーチから指導を受けてきましたが、4月からは活動内容を「創作ダンス」に変更することを学校側が決定、コーチも交代し、体育祭と文化祭でのヒップホップダンスの発表もなくなりました。
保護者らが学校に抗議したところ、1学期末の7月まで週1回だけヒップホップの自主練習をすることが認められましたが、ある保護者は「部員たちは学校側の一方的な変更で別の部に入れられたようなもの」と話しています(朝日新聞の『部活でヒップホップ、だめ? ダンス部、中学校が「創作ダンス」に』より)。

これは単に一中学校の部活の問題ではなく、日本の学校教育全体の問題でもあります。
重層的な問題でもあるので、ひとつずつ解きほぐしていきたいと思います。

まずこれを「ヒップホップ」の問題ととらえることができます。
ヒップホップは1970年代にアメリカで生まれた黒人の音楽、ダンス、ファッションの大衆文化です。
そのため、「不良の音楽」ととらえる向きもあります。ジャズやロックなどもみな昔は「不良の音楽」でした。
「ヒップホップ禁止は当然」とか「部活にヒップホップはふさわしくない」とか「ヒップホップをやりたければ学校外でやればよい」といった意見がありますが、これらはみなヒップホップに対する価値観に基づく意見です。

それから、学校と部活の関係という問題があります。
ダンスといってもいろいろあります。ダンス部という名前であればどんなダンスをやってもいいはずです。
どんなダンスをやるかは、ダンス部が決めることです。
ところが、麹町中では学校が決めたわけです。
しかも学校は部員たちの希望とは違うことを決めて、押しつけました。
部活動の破壊といわれてもしかたありません。

学校が部活に対してこうした理不尽なことをしてもいいのかと思いますが、文科省は容認しているようです。
生徒が理不尽なブラック校則に縛られていても、文科省はなんのアクションも起こさないですから、部活でも同じなのでしょう。


文科省は生徒を管理の対象としか見ていません。
2017年告示の学習指導要領総則には部活動に関して「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化、科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること」とあり、この中に「生徒の自主的、自発的な参加」という言葉があって注目されました。
それまでは生徒は最低ひとつの部に所属しなければならないという学校があり、部活が強制されていましたが、そういうことは否定されたわけです。
しかし、この「自主的、自発的」はあくまで「参加」にかかった言葉で、部活の内容について「自主的、自発的」を認めたわけではないと思われます。


ともかく、日本の学校は生徒の意志を平気で無視するというとんでもないところです。

ミュージシャンのGACKT氏はXにおいてヒップホップ禁止問題について「何でよくわからん偏った大人の尺度で子供たちを縛るのか?」「そもそもダンスは自分の表現のためのもの。表現することに縛りをつけるのが教育と呼べるのだろうか?それはまるで、絵を描きたい子に絵の具はダメだ!墨だけ使え!と言っているようなもの」「今の日本を象徴しているかのような歪んだ教育の末路とも言える」などと意見を述べました。

ゆたぼんのパパで心理カウンセラーの中村幸也氏もXにおいて「このようになんでもかんでも禁止することによって子どもたちは可能性を奪われて凡人化されていく。しかも『学校』の禁止令は人権侵害スレスレのものばかり」と述べました。


麹町中がヒップホップ禁止令を出した背景には、大きな教育観の対立がありました。

麹町中は公立中学ですが、昔から日比谷高校に多数の合格者を出し、越境入学者も多くいるという名門中学校です。
2014年に工藤勇一氏が校長に就任すると、生徒の自主、自律を尊重した学校改革に取り組み、宿題廃止、定期テスト廃止、固定担任制廃止、校則の自由化など大胆な方針を打ち出しました(定期テストは廃止しても成績をつけるための別の形式のテストはあります)。
これは評判となり、越境入学者はさらにふえ、工藤校長は「カンブリア宮殿」や「林先生の初耳学SP」に出演するなどし、何冊かの著書も出版しました。


こうした学校が可能で、評判もよいとなれば、日本の学校教育も変わっていくはずです。
麹町中はいわば希望の星です。
ただ、これは文科省の教育の否定です。
工藤氏は文科省関係の公職にもついているので、文科省との関係は悪くなさそうですが、文科省としては工藤氏の教育方針を認めるわけにはいかないはずです。

工藤氏は2020年3月に校長を退任しましたが、後任の校長が同じ路線を継承しました。
しかし、2023年4月に堀越勉氏が校長に就任すると、7月の保護者向け学校説明会で、定期試験の実施、学級担任制の導入、指定の制服・体操着の着用などの方針を表明、方針転換の理由としては生徒の学力向上、生活指導強化の必要性を挙げました。
要するに工藤校長の方針を全部くつがえして、「当たり前」の学校に戻すようです。
ヒップホップ禁止もその一環なのでしょう。
日本の教育を根本的に変革する可能性を堀越校長一人がつぶそうとしているわけです。

もっとも、堀越校長の背後に文科省あるいは千代田区がいるのかもしれません(樋口高顕千代田区長は都民ファーストの会推薦で当選)。
堀越校長には、個人の考えでやっているのか、文科省の後押しがあるのか、問いただしたいところです。

いずれにしても、麹町中のヒップホップ禁止令は、日本の学校教育の今後を左右する問題です。
文科省式の管理教育か、工藤校長式の自由教育かが問われています。
もちろんどちらがよいかは明らかです。
文科省式の管理教育では子どもの意欲も創造性も失われてしまいますし、それ以前に、子どもの自殺、いじめ、不登校が統計的に増加していることで破綻は明らかです。

教育といってもむずかしく考える必要はありません。
子どもが元気になる教育がよい教育です。

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名古屋市長で日本保守党共同代表である河村たかし氏は4月22日、「なごや平和の日」に関して「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と語り、各方面から批判を浴びました。
自民党市議団からも批判され、擁護や賛同の声はほとんどありませんでした。
しかし、河村氏は発言を撤回せず、4月30日の記者会見で「道徳的」の意味は「感謝される対象、徳がある」などと説明し、「祖国のために死んでいったことは一つの道徳的行為だった」と改めて語りました。

圧倒的に批判されても河村氏が発言を撤回しないのはどうしてでしょうか。
それは「道徳的」という言葉を使ったからです。
「道徳的」ないし「道徳」という言葉を使った人は決して反省しません。


杉田水脈議員は衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と発言したことがあります。
男女平等を否定する発言にはさすがに批判一色でした。
しかし、杉田議員は発言の撤回も謝罪もしませんでした。衆院本会議場の発言はそのままになっています。
「道徳」という言葉を使ったからです。

広島市の松井一実市長が職員への講話で教育勅語の一部を引用し、新規採用職員の研修用資料にも教育勅語の一部が引用されていることが批判されてきました。
教育勅語については戦後の国会で排除・失効が決議されており、平和都市広島にふさわしくないということなどが主な批判の理由ですが、松井市長は今年3月の記者会見でも「新年度以降もちゃんと説明しながら使いたい」と語り、批判には取り合わない態度です。
松井市長は「道徳」という言葉は使わなかったかもしれませんが、教育勅語が道徳そのものです。

戦後、政治家が教育勅語を肯定する発言をすると、そのたびに批判されますが、それでもこの手の発言は繰り返されてきました。
教育勅語が道徳なので、反省しないのです。

政治の世界ばかりではありません。
最近のネットニュースにあったのですが、大阪のアメリカ村にあるたこ焼き店「しばいたろか!!」はレジのところに《タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます。スタッフは奴隷でもなければ友達でもありません》と書かれた紙を張り出していて、これがXに投稿されると炎上しました。
たこ焼き店の社長は取材に対して「決してお客様に対して喧嘩を売ってるわけではありません。ただ、人として普通のことを言ってるだけなんです」と、やはり反省の態度は示しませんでした。自分の行為は道徳的だと思っているからでしょう。


こうしたことは海外でも見られます。
国連は、世界各地の武力紛争がもたらす子どもへの影響を調査し、子どもの権利を著しく侵害した国をリストにして公表していますが、このたび新たにイスラエルをリストに加えたと6月7日に発表しました。
これにイスラエルは猛反発し、ネタニヤフ首相は声明で「国連は殺人者であるハマスを支持しみずからを歴史のブラックリストに加えた。イスラエル軍は世界で最も道徳的な軍隊だ」と述べました。
「道徳的」という言葉を使ったので、イスラエルは絶対反省しないでしょう。


「道徳」を持ち出すと、誰もが思考停止になってしまいます。
これは批判する側も同じです。批判するほうも思考停止して決め手を欠くので、批判される側はぜんぜんこたえません。

そもそも道徳とはなにかということがよくわかっていないのです。
国語辞典では「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体」などと説明されていますが、これではなんのことかわかりません。

道徳はわけがわからないものなので、当然役にも立ちません。そのことを河村たかし名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」という言葉を例に示してみます。

戦争に行って祖国のために命を捨てるというのは、国家にとっては道徳的行為かもしれませんが、親にとっては「親に先立つ不孝」というきわめて不道徳な行為です。河村市長は実は親不孝という不道徳な行為を勧めていることになります。
それに、「戦争に行く=命を捨てる」というのはおかしな発想で、太平洋戦争でボロ負けした日本特有のものでしょう。
戦争に行く本来の目的は、自分たちが生き延びるために敵を殺すことです。敵兵を殺すのは果たして道徳的行為でしょうか。

つまり道徳には普遍性がないので、見る角度によっては真逆になってしまいます。
教育勅語は「汝臣民」に向けたものなので、あくまで「日本国民の生き方」であって、決して「普遍的な人間の生き方」を示したものではありません。
教育勅語には「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(文部省現代語訳)とあります。河村市長も「一身を捧げて」という言葉を受けて「祖国のために命を捨てる」と言ったのでしょう。
しかし、これを外国から見れば「偏狭なナショナリスト」や「狂信的なテロリスト」育成の教えとしか思えません(実際、自爆攻撃につながりました)。

「人のものを盗んではいけない」というのは普遍的な教えのように見えます。しかし、盗まれるものをなにも持たない貧乏人にも大金持ちにも等しく適用されるので、実は金持ちに有利な教えです。
「人に迷惑をかけてはいけない」というのもよくいわれますが、これは身体障害者や病人の存在を無視した考え方です。身体障害者や病人が人に迷惑をかけるといけないみたいです。また、自分が人に助けを求めることもしにくくなります。
日本では「人に迷惑をかけてはいけない」というのは道徳の筆頭に上げられますが、外国ではほとんどいわれることがないそうです。日本人に助け合いの心が少ないことの表れかもしれません。


道徳には根拠もありません。そのため、宗教と結びつく形で存在しています。
欧米では道徳はキリスト教と結びついていて、日曜学校で教えられるのが道徳です。
日本でも教育勅語は現人神である天皇と結びついています。
道徳は宗教の中に閉じ込めておくか、倫理学者の難解な本の中に閉じ込めておくのが賢明です。
道徳を世の中に持ち出すとろくなことになりません。


ところが、保守派はやたらと道徳を公の場に持ち出します。
アメリカの保守派が主張する中絶禁止や同性婚禁止は要するにキリスト教道徳です。
日本でも、保守派が主張する夫婦別姓反対は「家族は同じ姓のもとにまとまるべき」という道徳です。
日本のジェンダーギャップ指数が低位なのも保守派の道徳のせいです。

こういう道徳はみな時代遅れです。
というか、そもそも道徳は時代遅れなものです。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』において「道徳は常に古着である」といっています。
さらに「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない」ともいっています。

芥川龍之介はちゃんと道徳を否定しています。
しかし、今の世の中は、河村市長の発言や水田議員の発言や教育勅語などを表面的に批判するだけで、道徳そのものを批判しないので、中途半端です。そのために保守派の持ち出す道徳で世の中の進歩が妨げられています。

道徳そのものを批判する視点を持っていたのはマルクス主義です。
マルクス主義では、生産関係である下部構造が上部構造を規定するとされ、道徳も上部構造であるイデオロギーのひとつです。ですから、道徳は資本家階級が労働者階級を支配するのに都合よくつくられているとされます。
しかし、どんなに過激なマルクス主義者でも「人を殺してはいけない」とか「人に親切にするべきだ」とかの道徳までは否定しないでしょう。その意味では中途半端です。

フェミニズムは「男尊女卑」や「良妻賢母」などの男女関係の道徳を否定しましたが、道徳全般を否定しているわけではないので、やはり中途半端です。


道徳全般を否定する新たな視点が必要です。
道徳、善悪、価値観などをすべて否定すると、つまり「道徳メガネ」や「価値観メガネ」を外すと、現実がありのままに見えるようになります。
私はそういう視点からこの文章を書きました。

道徳全般を否定する視点を身につけるには別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

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トランプ前大統領の口止め料を巡る裁判で有罪評決が下りましたが、トランプ氏は控訴を表明し、「不正な裁判だ」「判事は暴君だ」などと述べました。
トランプ支持者も有罪評決でめげることはなく、逆に気勢を上げているようです。トランプ陣営は有罪評決後の24時間で約82億円の寄付が集まり、うち3割は新規の寄付者だったと発表しました。
アメリカの有権者の35%が4年前の大統領選は不正だったと思っているそうです。

「法の支配」は社会の基本ですが、トランプ氏とその支持者は「法の支配」など平然と無視しています。
これはトランプ氏のカリスマ性のゆえかと思っていました。
しかし、それだけでは説明しきれません。
私は、アメリカ人はもともと「法の支配」なんか尊重していないのだということに気づきました。

私の世代は若いころに映画とテレビドラマで西部劇をいっぱい観ました。
西部劇には保安官や騎兵隊も出てきますが、基本は無法の世界で、男が腰の拳銃を頼りに生きていく様を描いています。
今、アメリカで銃規制ができないのはその時代を引きずっているからです。

銃規制反対派は市民が権力に抵抗するために銃が必要なのだと主張しますが、アメリカの歴史で市民が銃で国家権力に抵抗したのは独立戦争のときだけです。
では、銃はなんのために使われていたかというと、ほとんどが先住民と戦うためと黒人奴隷を支配するためです。
それと、支配者としての象徴でしょう。
日本の侍が腰に刀を差しているのと同じ感覚で西部の男は腰に拳銃を吊るして、先住民、黒人奴隷、女子どもに対する支配者としてふるまっていたのです。
ですから、「刀は武士の魂」であるように「銃はアメリカ男子の魂」なので、銃規制などあってはならないことです。

西部開拓の時代は終わり、表面的には「法の支配」が確立されましたが、今もアメリカ人は「法の支配」を軽視しています。
たとえば白人至上主義者は平気で黒人をリンチしてきました。
『黒人リンチで4000人犠牲、米南部の「蛮行」 新調査で明らかに』という記事によると、米南部では1877年から1950年までの間に4000人近い黒人が私刑(リンチ)によって殺されていたということです。

同記事には『私刑のうち20%は、驚くことに、選挙で選ばれた役人を含む数百人、または数千人の白人が見守る「公開行事」だった。「観衆」はピクニックをし、レモネードやウイスキーを飲みながら、犠牲者が拷問され、体の一部を切断されるのを眺め、遺体の各部が「手土産」として配られることもあった』と書かれています。ナチスの強制収容所を連想します。人種差別主義者は似ているのでしょう。

リンチの犯人がかりに裁判にかけられることがあっても、陪審員は白人ばかりなので有罪になることはありません。
最近でも似たようなものです。警官が黒人を殺す場面が動画に撮られて大きな騒ぎになった事件でも、警官は裁判にかけられても無罪か軽い罪で、恩赦になることもあります。

そういうことから、白人至上主義者にとってトランプ氏の裁判で有罪の評決が出たのは「不当判決」なので、平然と無視できるのでしょう。


「法の支配」を軽視するのはアメリカ人全体の傾向です。
それは国際政治の世界にも表れています。
国際刑事裁判所(ICC)は5月20日、ガザ地区での戦闘をめぐる戦争犯罪容疑でイスラエルのネタニヤフ首相らとハマスの指導者らの逮捕状を請求したと発表しました。
これに対してバイデン大統領は「言語道断だ。イスラエルに対する国際刑事裁判所の逮捕状請求を拒否する。これらの令状が何を意味するものであれ、イスラエルとハマスは同等ではない」などの声明を発表しました。
「法の支配」をまったく無視した態度です。

バイデン大統領はトランプ氏への有罪評決に関して「評決が気に入らないからといって『不正だ』と言うのは向こう見ずで、危険で、無責任だ」「法を超越する存在はないという米国の原則が再確認された」などと語っていました。
評決が気にいらないからといって「不正だ」と言うのはバイデン大統領も同じです。
なお、アメリカは国際刑事裁判所(ICC)に加盟していませんが、加盟していないということがすでに「法の支配」を軽視しています(ロシア、中国も加盟していませんが、アメリカの態度が影響しているともいえます)。


国際司法裁判所(ICJ)は24日、イスラエルに対しガザ地区南部ラファでの軍事攻撃を即時停止するよう命じましたが、イスラエル首相府はこれを真っ向から否定しました。
アメリカもこれを容認しています。
国際司法裁判所(ICJ)は国連の機関なので、各国は法的に拘束されますが(執行力はない)、ここでもアメリカは法を無視しています。


トランプ氏が「アメリカファースト」を言うのは、もちろんアメリカは他国よりも優先されるという意味ですが、結果的にアメリカは法の上にあることになります。
バイデン大統領もこの点ではトランプ氏と変わらないようです。


アメリカもいつも無法者のようにふるまうわけではなく、表向きは「法の支配」を尊重していますが、いつ無法者に変身するかわかりません。
そうなるとアメリカの世界最強の軍事力がものをいいます。
当然、世界のどの国もそのことを意識せざるをえません。

日本も例外ではありません。
日本はアメリカと繊維、自動車、半導体などさまざまな分野で通商摩擦を演じてきましたが、どれも最終的に日本が譲歩しています。
日本がとことん強硬に主張し続けると、アメリカはテーブルをひっくり返して腰の拳銃を抜くかもしれないからです。
軍事行動に出なくても、貿易や金融などで不当な仕打ちをしてくるということはありえます。WTOに提訴するぐらいでは防げません。
なにかの理由をつけて経済制裁をしてくるということも考えられます。イランやキューバは今ではなんの理由だかわからなくなっても制裁され続けています。

どの国もアメリカと二国間交渉で対等な交渉はできません。
アメリカがGDP比3.45%もの巨額の軍事費を支出しているのも、それによって経済的な利益が得られるからに違いありません。



世界が平和にならないのは、アメリカが「法の支配」を無視ないし軽視して「力の支配」を信奉する国だからです。
世界を平和にするには、国際社会とアメリカ国内の両面からアメリカを変えていかなければなりません。

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