村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2024年07月

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宮城県大河原町議会で佐藤貴久町議がスマホゲームをしているのを見学中の小学生が目撃し、「ツムツムをしている人がいた」などと作文に書いたことで佐藤町議に非難が殺到し、町議会は辞職勧告決議案を可決し、佐藤町議は7月24日、議員を辞職しました。

審議中にスマホゲームをするのはよくありませんが、議員辞職をするほどのことではありません。
自民党の平井卓也衆議院議員は国会審議中にタブレットでワニの動画を見ていたのが問題視され、「ワニが好きで」などと弁解しながら謝罪しましたが、それですんでいます。
それどころか、裏金議員も辞職しないのですから、スマホゲームをやっただけで辞職するのは、まったくバランスがとれません。

最近の日本はルール違反やマナー違反にどんどんきびしくなっています。

東京都知事選で2位になった石丸伸二氏が注目されたきっかけは、安芸高田市長時代に市議会で審議中に居眠りしていびきを響かせた議員を罵倒し、市議会とのバトルを演出したことです。
「恥を知れ!」などと議員に啖呵を切るのがカッコいいということで人気が出ました。
どうせ多くの議員は頭の固い利権がらみの人でしょうから、そことバトルをするのはいいのですが、「居眠り」をやり玉に上げるのはよくありません。退屈な会議中に居眠りするのは誰にでもあることだからです(その居眠り議員はあとで脳梗塞だったとして診断書を提出しています)。
国会でも居眠り議員の姿はしばしばテレビで取り上げられますが、あくまで「あきれた議員」という取り上げ方です。きびしく糾弾するということはありません。

居眠り議員をやり玉に上げたのは石丸氏の政治手法なのでしょうが、私が恐ろしいと思ったのは、石丸信者たちが嬉々として居眠り議員を糾弾していたことです。
石丸信者というのは、YouTubeをよく見ていて、ある程度政治に関心のある人たちでしょう。そこそこ“意識高い系”です。
もしこんな風潮が広まったらたいへんです。会社の会議やPTAの会合などで居眠りをすると糾弾される世の中になりかねないからです。

居眠りは誰でもするし、自分もする。だから、国会議員の居眠りも大目に見る。これが良識ある人間の態度です。
ところが、今はそうした良識のない人間が増えています。


パリ五輪に出場予定だった体操女子の宮田笙子選手(19歳)は、喫煙していたことが発覚し、飲酒もしていたようで、五輪出場を辞退しました。
出場辞退とはいっても、実質的には日本体操協会による処分です。
喫煙で五輪出場停止はきびしすぎるのではないかという議論が起きました。

そもそも20歳未満は飲酒喫煙禁止という法律が妙なものです。
成人年齢は20歳から18歳に引き下げられたのに、ここは変わりませんでした。
年齢の線引きは国によって違いますし、そもそも年齢制限に医学的その他の根拠がありませんから、法律を破ってもあまり罪の意識がありません。
それに、法律を破っても罰がありません。ですから、20歳未満の飲酒喫煙は違法行為ではあっても、法律的には「犯罪」とはいわないそうです。警官に現行犯で見つかっても、警官はなにもできません。学校の先生に見つからなければいいわけです(親権者や酒やタバコを提供した店に刑罰が科されることはあります)。
というわけで、大学の新入生歓迎コンパで酒を飲むのは普通ですし、高卒で会社に入った人も、社会人になれば一人前ということで飲酒は公認でしょう。
今は昔よりきびしくなってきているようですが、20歳未満で飲酒喫煙をしたという人は世の中にいっぱいます。
そういう人は飲酒喫煙で五輪出場停止はきびしすぎると思って当然です。

なお、体操女子の五輪選手枠は5名ですが、宮田選手が辞退しても代わりの選手は出場できないそうです。となると、日本はメダルの可能性を減少させるだけで、なんのメリットもありません。
なお、「日本代表選手・役員の行動規範」は、違法行為を行わないという定めに加え、20歳以上であっても日本代表チームとしての活動の場所における飲酒や喫煙を禁止しています。
宮田選手は隠れて飲酒喫煙をしていたはずで、この規定にどの程度違反するのかよくわかりません。
それに、この「規範」には罰則の規定がないので、やはり出場停止はきびしすぎるのではないかということになります。
いや、それ以前に、体操協会が出場停止処分をしたのではなく、宮田選手が出場辞退したという形にしたのも、汚いやり方だといえます(実態は処分なので、これからは処分という言葉を使います)。


ともかく、宮田選手の五輪出場停止処分はきびしすぎるという声がある一方で、20歳未満の飲酒喫煙という法律違反、規則違反をしたのだから、処分は当然という声もあります。
年配の人は処分はきびしすぎるという意見が多く、若い人は処分は当然という意見が多い傾向があります。
それから、有名人で意見を表明した人はほとんどが処分はきびしすぎるという意見です。処分は当然という意見はほぼネットにおける匿名の意見です。

『そうそうたる有名人が「宮田笙子は五輪に出場すべき」とXに投稿してもネット世論は完全無視 謎を解くカギはビートきよしの投稿にあった』という記事を参考に、有名人の名前を挙げておきます。

処分はきびしすぎるという意見の人は為末大氏、野口健氏、高知東生氏、ビートきよし氏、猪瀬直樹氏、米山隆一氏、ひろゆき氏、高須克弥氏、井川意高氏、江川紹子氏、門田隆将氏といったところです。
興味深いのは、政治的立場の右も左もいることです。
処分は当然とする有名人はきわめて少なく、この記事によると、目立つのは橋下徹氏、東国原英夫氏ぐらいだということです。

これだけの有名人が処分反対を主張しているのに、Xやヤフコメなどのネット世論は圧倒的に処分賛成です。そのため、有名人の意見も世の中を動かすことはできません。
なぜネット世論が処分賛成かというと、おそらく若い人たちは学校でブラック校則に従ってきたからでしょう。自分が規則に従ってきたのだから、他人も規則に従うのは当然という考えです。

私は「失われた30年」といわれる経済の停滞の最大の原因は学校教育にあるということを「日本経済がだめになった根本原因」という記事に書きましたが、そのとき校則に関して書きもらしたことがあったので、ここで書いておきます。


校則にはほとんどの場合、義務の規定があるだけで、違反した場合の罰則の規定がありません。
例外的に「遅刻3回で欠席1回とする」という規定があるくらいです。
それから「喫煙が発覚した場合は停学〇〇日」という“判例”に従うということもあるでしょう。

法律にはたいてい厳密に罰則が定められていますが、それも刑の上限が定められている場合がほとんどです。
たとえば窃盗罪の場合は「10年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する」といった具合で、上限だけ決められています。
重大犯罪の場合は刑の下限も決められていることがあり、たとえば強盗致死傷罪は「強盗が、人を負傷させたときは無期又は6年以上の拘禁刑に処し、死亡させたときは死刑又は無期拘禁刑に処する」となっています(実際は情状酌量によって下限よりも軽減されることがあります)。
しかし、刑の下限が決められている場合はまれで、ほんどの場合は上限だけ決められています。
なぜかというと、人間は処罰感情が必要以上に強くて、罰しすぎてしまう傾向があるからです。
「やられたらやり返す」といいますが、正確にやり返すことはなく、たいていは「倍返しだ」のようにやりすぎてしまいます。お互いにそんなことをしていては収拾がつきません。
ですから、処罰をやりすぎないようにするために刑の上限が決められているのです。

ところが、校則はほとんどの場合、罰則が決められていません。
教師がそのつど恣意的に罰を決めるわけですが、どうしても罰はきびしくなりがちです。
“服装の乱れ”などささいなことでも停学ということがありえます。
昔の生徒は校則や学校や教師をある程度バカにしていましたが、今は内申書重視やAO入試や推薦入試などで教師の権力が格段に強化されたので、生徒は教師に迎合するしかなくなっています。


ゼロ・トレランス方式という学校管理の方法があります。
アメリカで始まったもので、校則に細かく罰則を定めておき、それを厳格に生徒に適用するというものです。
教師が刑務所の看守みたいになるものなので、私はよいこととは思いませんが、文科省は2006年に「ゼロ・トレランスの調査研究」を盛り込みました。
ただ、実現化の動きはないようです。
考えてみれば当然で、罰則のない校則のほうが生徒にとってはきびしいといえます。
日本の学校はゼロ・トレランス以上に不寛容です。


こういう学校で育つと、罪と罰のバランスがわからなくなります。
宮田選手の場合、飲酒喫煙という微罪に対して五輪出場停止という罰は重すぎるのではないかという議論が行われているわけです。つまり「量刑不当」ということです。
ところが、ネットの意見をみると、どれも「法律に違反したのだから出場停止は当然」とか「規則に反したのだから出場停止は当然」というものばかりです。
つまり罪にはふさわしい罰があるということをまったく理解していないので、議論がかみ合っていません。

スマホゲームをしていた議員に対する非難や、議場で居眠りした議員に対する非難も同じです。
「微罪でも極刑」という主張が行われ、そして実行されています。
バイト店員の愚行が「バイトテロ」としてやり玉に上がり、回転寿司で醤油差しをなめた高校生がバッシングされて高校を中退するなどもその一環です。

ささいな法律違反や規則違反やマナー違反がきびしく罰されるようになると、誰もが委縮してしまい、社会の活力がなくなります。
それを防ぐには、学校教育の改革とともに、どんな規則違反にもそれにふさわしい罰があるという当たり前のことが改めて認識される必要があります。

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トランプ氏暗殺未遂事件は衝撃的でしたが、1人死亡、2人重傷という犠牲はあったものの、トランプ氏自身は耳を負傷しただけの軽傷ですみました。
トランプ氏は事件直後に拳を突き上げるポーズをとったように、「テロに屈しない」というお決まりの言葉とともに、ますます攻撃的な言動で分断を深めるのではないかと思われました。

ところが、共和党全国大会で大統領候補の指名受諾演説を行う際、トランプ氏は一転して抑制的な語り口となり、内容も「社会における不一致と分断は癒やされなければならない。私はアメリカの半分ではなく、アメリカ全体のための大統領になろうと立候補した」などと、分断解消を訴えるものとなりました。
報道によると、事件後演説原稿を全面的に書き替えたそうです。
バイデン大統領の名前を出して批判したのも一か所だけでした。

演説の後半は調子が上がっていつものトランプ節を取り戻したなどといわれていますが、1時間30分の動画を見ると、後半もいつものトランプ氏とはまったく違います。笑顔や得意そうな表情や余裕の表情がありませんし、例のトランプダンスもありません。聴衆の盛り上がりも今一歩です。

なぜかほとんど指摘されないことですが、暗殺未遂事件以降、トランプ氏はまるで別人になりました。
あれだけ分断や対立をあおってきた人間が「癒し」などという言葉を使うのですから、別人といっておかしくありません。
演説内容が融和的になったのは、無党派層を取り込むためだと説明されていますが、
無党派層を取り込む必要性は前からありました。今回の演説内容変更は事件が影響したとしか考えられません。


犯人の銃弾はトランプ氏の右耳に当たりました。もし2、3センチ銃弾がずれていたらトランプ氏の命はなかったでしょう。
死に直面した人間は心理的に大きな衝撃を受けます。戦場で繰り返し死の恐怖を味わった兵士は、帰還後もPTSDを患うことが少なくありません。
トランプ氏も当然大きな心理的衝撃を受けました。それは、銃撃されて1分ほどして立ち上がったときの表情にも表れています。
それを見て私はトランプ氏も“人の子”だなと思いました。

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このあとトランプ氏は拳を突き上げるポーズをします。
しかし、それはあくまでうわべのことです。
強い心理的衝撃を受けたことは変わらず、それが演説内容の変更になって現れました。
ボクサーが不意のパンチを食らってダウンし、それからはガードを固める作戦に変更したみたいなものです。
あるいは愛国心に燃えて戦場に赴いた兵士が、耳元を敵の銃弾がかすめたとたん命が惜しくなったみたいなものです。
人間として当たり前の反応です。

ところが、
メディアはやたら拳を突き上げるポーズを取り上げて、トランプ氏に「不屈の精神」があったかのように伝えます。

共和党大会ではトランプ氏を神格化するような言葉があふれました。
トランプ支持者がトランプ氏の神格化をはかるのはわかりますが、メディアまで同じようなことをしてはいけません。
「トランプ氏は銃撃された直後はこんな顔をしていた。そのあとも弱気になり、演説内容を全面的に変えた」と報道してもらいたいものです。


もっとも、トランプ氏の弱気も一時的だったかもしれません。
トランプ氏は7月20日、ミシガン州グランドラピッズの選挙集会で演説し、冒頭からジョークを言うなど「トランプ節全開」とメディアで報じられました。バイデン氏出馬でもめる民主党を「病気で、弱く、哀れなやつらで、選挙も戦えない」と罵倒しました。
早くも融和から分断へと逆戻りしたようですが、完全には戻れません。
というのは、銃撃の犯人をテロリストとして単純に批判できないからです。

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その場で射殺された容疑者はトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性です。共和党員として有権者登録を行っていましたが、民主党に15ドル寄付をしたこともあります。高校卒業後は地域の療養院で栄養補助員として働いていました。高校時代、射撃部に入ろうとしましたが、射撃の腕がないので断られました。地元の射撃クラブに少なくとも1年間在籍していました。犯行に使ったAR-15ライフル銃は父親が購入したものです。父親はリバタリアン党員、母親は民主党員であるようです。
容疑者は高校時代にいじめを受けていたという情報もありますが、きわめて平凡な白人家庭で育った
20歳の若者です。本人も父親も銃規制反対派に違いないので、トランプ支持層と見なされておかしくありません。


トランプ氏は共和党の大統領候補指名受諾演説で「不法移民は刑務所や精神科病院からやってくる。そしてテロリストたちも、これまでに見たことない数が入ってくる」と語りました。
これはいつも言っている得意のセリフです。
しかし、今回のテロリストは、外から入ってきたのではなく、ラストベルトの普通の白人家庭から出てきたホームグロウン型のテロリストです。

今のところトランプ氏は、すでに射殺されたとはいえクルックス容疑者を非難することはしていないようです。
いかにもひ弱そうな20歳の若者は非難しにくいかもしれませんが、彼がもし移民だったり黒人だったりすれば、トランプ氏は非難しているかもしれません。


クルックス容疑者がいかにしてテロリストになったかというのは重要な問題で、ぜひとも解明しなければなりません。
これは当然、家族の問題ということになるので、保守派がよりどころとする「家族の絆」にメスを入れることになります。
しかし、今のところメディアは、
クルックス容疑者の父親に電話して「今はなにも話せない」というようなコメントを引き出しただけです。
両親がなにも語らないなら、親族や近所の人から取材してクルックス家の実態を解明すればいいわけですが、アメリカのメディアは保守派に配慮しすぎるのか、家族の問題には踏み込まない傾向があるようです。
大統領候補暗殺未遂という大事件としてメディアも対応してもらいたいものです。


ここで、バイデン大統領が大統領選から撤退してハリス副大統領を候補として支持すると表明したというニュースが入ってきました。
トランプ氏が一時的に弱気になり、バイデン大統領の批判を控えたので、バイデン大統領も撤退表明がしやすくなったということがありそうです。
一発の銃弾が世界を大きく変えたかもしれません。

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東京都知事選で2位になった石丸伸二氏は、安芸高田市という人口2万6000人ほどの小さな市の市長からいきなり東京都知事選に立候補して、165万票を獲得しました。
石丸氏が人気者になった理由はなんでしょうか。

私が石丸氏を初めて知ったのは、石丸安芸高田市長が市議会で居眠りをしていびきを議場に響き渡らせた議員を非難して「恥を知れ恥を!」と言っているのをニュース番組で見たことでした。
もっとも、これはニュース番組の取り上げ方にも問題がありましたが、私が誤解していました。
居眠り議員のいびきが議場に響き渡ったのは市長の就任直後のことでした。石丸市長はその場ではなにも注意せず、逆に「眠たくならないような答弁をしないといけないな」と言って“おとなの対応”をしていました。
しかし、その後ツイッターで居眠り議員をさらしたので、議員たちが反発し、石丸市長に抗議だか注意だかをすると、石丸市長は「非公開の会議の席で『議会を敵に回すと政策に反対するぞ』と議員から恫喝された」とメディアに告発、その後もツイッターで議員たちの非難を続けました。
恫喝したと名指しされた議員は、恫喝はなかったとして石丸市長に発言の撤回と謝罪を求めましたが、石丸市長が応じないため名誉棄損の訴訟を行い、広島地裁と広島高裁で議員が勝訴して33万円の支払いが命じられました。

ともかく、こうしたことから石丸市長と議員たちはことあるごとに対立します。
そして、市長が市議会の定員を16名から8名に半減する条例を議会に提出し、それが14対1で否決されたとき、市長は「恥を知れ恥を!」と言ったわけです。
議員定数半減の条例案は議会軽視だと批判されると、市長は「居眠りをする。一般質問をしない。説明責任を果たさない。これこそ議会軽視の最たる例です」と真っ向から反論しました。

このころから市長と議員のバトルがYouTubeの切り抜き動画となって多数視聴されるようになりました。「恥を知れ恥を!」だけでなく、「バッジを外して出て行ってください!」「これが恥の重ね塗りというやつです」「頭が悪い人は具体的な議論のポイントが示せない」「議員の仕事をしてください」などの決め台詞を効果的に使うので、切り抜き動画を見た人は、若い市長が古くさい議員をやりこめていると思い、喝采しました。
石丸市長は議員だけでなく記者も「偏向」「取材不足」などと攻撃し、バトルの幅を広げました。

議員定数を半減させる条例案は、否決されるに決まっています。それを提出することで市長と市議会のバトルを演出したわけです。
そのときに発した「恥を知れ恥を!」という言葉もあらかじめ用意したものでしょう。
2019年6月、野党が安倍首相に対する問責決議案を出したとき、自民党の三原じゅん子議員が参院本会議場で野党議員に向かって「恥を知りなさい!」と言ったのが安倍支持層に大いに受けたのを参考にしたに違いありません。
「改革の志に燃えて古い政治家やメディアと戦う若き政治家」という構図づくりに成功し、石丸氏はYouTubeなどで大人気となりました。その勢いを駆って、市政を放り出して東京都知事選に立候補すると、165万票の大量得票をしたわけです。

石丸氏の都知事選の公約は「政治再建」「都市開発」「産業創出」の三本柱となっていますが、大した内容ではありません。街頭演説を数多くしましたが、演説は大してうまくないといわれます。
石丸氏の人気はすべてSNSを駆使して「戦う政治家」のイメージづくりに成功したからです。
ちなみに彼のYouTubeチャンネルの登録者数は30万人以上。小池氏と蓮舫氏の公式チャンネルはそれぞれ3000人と1万人です。



石丸氏はトランプ前大統領に似ているといわれます。トランプ氏も激しい言葉で政敵を攻撃するのが得意ですし、ツイッターなどSNSを利用して支持を広げてきました。

小泉純一郎首相も、当時は劇場型政治といわれましたが、郵政民営化を争点にして改革派対守旧派の構図をつくり、守旧派に対して“刺客”を放つというバトルを演出したので、国民は熱狂しました。
郵政民営化の是非が判断できる国民はあまりいなかったと思われますが、そんなことは関係ありませんでした。
安倍首相も小泉首相のやり方を受け継いで、つねに「戦う政治家」を演じ、「やってる感」を出すことで高支持率を維持していました。

石丸氏がいちばん参考にしたのは維新の会のやり方でしょう。
橋下徹氏、松井一郎氏、吉村文洋氏はつねに役人とマスコミに対して攻撃的で、それによって人気を博してきました。

外国のリーダーを見ても、最近はやけに攻撃的な姿勢の人が目立ちます。
これはインターネット時代の特徴でしょう。
政治家の声が直接有権者の耳に届くので、攻撃的な言葉ほど受けるのです。


石丸氏は「戦う政治家」を演じて人気となりましたが、戦う政治家がよい政治をするとは限りません。
維新の会の政治家は思想も理想もない人たちなので、大阪府の行政改革をある程度やってしまうとほかにやることがなくて、維新の会の存在価値もなくなってしまいました。

石丸氏も、安芸高田市長としての実績はどうかというと、ほとんどなにもないようです。
7月7日に行われた石丸市長の後任を選ぶ市長選では、石丸市政からの転換を訴える候補が当選し、石丸市政の継承を訴えた候補は落選しました。これだけで地元では石丸市政が評価されていないことがわかります。
石丸市長が議員やメディアとバトルを演じるのは、遠目にはおもしろいかもしれませんが、地元の人たちにとっては迷惑だったのでしょう。

なお、居眠りしていびきを響かせた議員は、のちに軽い脳梗塞だったことがわかり、診断書を提出しました。今はすでに死亡したということです。


都知事選が終わって1週間とちょっとたちましたが、石丸氏のインタビューの受け答えがまともでないので、「石丸構文」とか「石丸話法」とかいわれて、あきれられています。
石丸氏は安芸高田市の記者とバトルを演じて、それが受けていたので、同じことをやったのでしょう。
しかし、東京のインタビュアーとバトルを演じても意味はなく、一般の人にとっては「インタビュアーにかみつくおかしな人」ということになってしまいました。

また、政治家ならなにか主張したいことがあるはずで、質問が的外れであっても、この機会に言いたいことを言うはずです。
ところが、石丸氏にはなにも主張したいことがないのでしょう。インタビュアーと無意味な言葉のやり取りで時間を使ってしまいました。


石丸氏と対極にいるのが自民党の古い政治家です。
石丸氏がリングの上で戦う政治家だとすれば、自民党の古い政治家は水面下の談合や寝技を巧みにすることで出世してきました。
ですから、石丸氏の「政治屋を一掃する」という公約は有権者の心に刺さります。

蓮舫氏も戦う政治家のようですが、実は批判するばかりで戦っていません。お決まりの生ぬるい批判ばかりでは効果もありませんし、国民に飽きられています。
敵の急所を鋭い言葉で攻撃して、敵の存立を脅かすぐらいにやらなければいけません。


戦う政治家がよい政治家とは限りませんが、今後、戦う姿勢を示す政治家が支持される傾向はどんどん強まっていくでしょうから、どの政治家もそれに対応しなければなりません。

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「失われた30年」といわれる経済の停滞は、経済政策の誤りだけが原因とは思えません。
では、経済政策以外にどんな原因があるのかというと、教育政策です。教育がだめなために日本全体がだめになっているのです。

ブラック校則の問題はだいぶ前から指摘されてきましたが、少しも改まりません。
朝日新聞の「(教育の小径)校則見直し声上げたけど…中学生たちの落胆」という記事に最近の状況が書かれていました。有料記事なので、簡単に内容を紹介します。


記者は、学校を考える集会で出会った気になる中学生グループに話しかけ、話を聞きました。
昨年5月、その中学では全学級で校則のありかたを議論し、どの校則を変えたいかを問う全校アンケートをしました。回答率を上げるためにポスターで呼びかけもしました。夏休みには県内十数校の校則を調べ、「カーディガンの色は黒」「靴下は白」「ツーブロック禁止」の三つに絞って校長先生に見直しを求めました。
しかし、受け入れられたのは「靴下」だけ。しかも5か月後で、理由の説明もなし。「すごいエネルギーをかけて、結果は、これっぽっちでした」とメンバーの一人は語りました。
落胆しているのは彼らだけではありません。「日本若者協議会」の2020年のネットアンケートでは779人の小中高生らの68%が「児童生徒が声を上げて学校が変わるとは思わない」と答えました。
同協議会に寄せられた声には「変えたいという声は多くの生徒から上がっているが、態度が悪いから変えられないなど、難癖をつけられている状況」「『それはしょうがない。生徒なんだから』とまるで取り合ってもらえない」といったものがあります。
記者が先生や校長10人余りにたずねると、「学校を運営するのは教員」「生徒に責任を取らせるわけにはいかない」「未成年に決定権はない」といった答えで、子どもも同じ学校の構成員だという意見は聞けませんでした。


生徒はひどい状況におかれています。
私が気になったのは、生徒が校則見直しを申し入れたら、校長が返事したのは5か月後で、理由の説明もなかったというところです。完全に生徒を侮辱しています。こんな人間が教育者を名乗っているのかと思うと、暗澹とします。

最近、教師の働き方改革が問題になっています。過重労働の解消は必要ですが、そもそもその労働が子どものためになっているかが問題です。子どものためにならないのではやりがいもなく、そのため心を病む教師が増え、人気のない職業になっているのではないでしょうか。


ともかく、今の学校は生徒を管理の対象としか見ていなくて、生徒の意見を聞こうという気がまったくないようです。
ということは、文科省もそれを肯定しているわけです。
本来なら文科省は「校則の制定には必ず生徒の意見を反映させるように」という通達を出すべきところですが、どうやら文科省は逆に「子どもの人権」を無視する方針のようです。


そのため子どもは理不尽な校則に縛られて、自分ではなにもできないという無力感に打ちひしがれています。
そうして中高6年間をすごすと、社会に出ても社会をよくしようという意欲が出ないのは当然です。
いや、自分の人生をよくしようという意欲もなくしてしまうかもしれません。
ブラック企業に入っても、それがブラック企業と気づかないということもありそうです。

日本の若者の意欲の欠如は起業家精神の欠如に現れます。
世界45カ国、男女計50,861名を対象に実施した「アムウェイ・グローバル起業家精神調査レポート」によると、日本人の起業意識は前年に続き世界45カ国中、最下位という結果となりました。他国と比較すると日本人は若いうちから起業家精神が低く、また「野心」「向上心」「自信」「能力の理解」が大きく欠如していることが鮮明になったということです。
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若者に起業家精神がなければ新しい企業が生まれませんし、日本経済も活発化しません。

ただ、校則についていえば、昔はもっときびしかったといえます。私の若いころは男子は詰襟の学生服、女子はセーラー服が多く、男子は坊主頭の学校も少なくありませんでした。
しかし、戦前戦中はもっときびしかったわけで、それと比較すると解放されたといえます。


おとなはつねに若者を支配しています。
伝統的な社会ではそれで問題はありませんが、時代の変革期や世の中の変化が速くなるときには、若者のほうが時代に適応するので、世代間の対立が激化します。
幕末に尊王攘夷を叫んだ志士はほとんどが若者でした。
明治時代は、大学卒や留学経験のある若者が世の中をリードしました。
戦後、日本国憲法ができたときも大変革期でした。おとな世代は自分たちの価値観が否定されて自信を失い、その分若者が活躍しました。
そうした中からソニーやホンダが生まれて日本経済が急成長したわけです。

資本主義社会は世の中の変化が速いので、つねに世代対立が起きています。
若者が元気な社会は発展します。
たとえばアメリカでは若い起業家がGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)を創業し、今ではGAFAはアメリカ経済を引っ張る存在になっています。
日本ではそうした若い起業家の活躍がなく、それが日本経済低迷のひとつの原因になっていることは確かです。

日本では、戦後の一時期を除いて、若者が活躍しない社会になっていきました。
なぜそうなったかというと、自民党の長期政権が続いたからです。
昔から「最近の若者は権利ばかり主張して義務を果たさない」と言っていた年寄りはいましたが、自民党はそういう年寄りの主張に合わせて学校教育をしてきました。

1960年代末に全共闘運動が盛り上がると、文部省は69年10月に「高等学校における政治的教養と政治的活動について」という通達を出します。
そこには「最近、一部の生徒がいわゆる沖縄返還、安保反対等の問題について特定の政党や政治的団体の行なう集会やデモ行進に参加するなどの政治的活動を行なつたり、また政治的な背景をもつて授業妨害や学校封鎖を行なうなど学園の秩序を乱すような活動を行なつたりする事例が発生している」とした上で、「学校の教育活動の場で生徒が政治的活動を行なうことを黙認することは、学校の政治的中立性について規定する教育基本法第八条第二項の趣旨に反することとなるから、これを禁止しなければならないことはいうまでもない」と書かれていました。
つまり高校生の学校での政治活動は完全に禁止されたのです。
この通達は選挙権年齢が18歳に引き下げられるのに伴い廃止されましたが、長年にわたって政治に無関心な若者をつくってきたことは間違いありません。

生徒会活動もきわめて範囲が限定されたので、若者は自分の主張を学校や社会に訴えるという経験がまったくできませんでした。
自民党の好む「権利を主張しない若者」がつくられてきたのです。


学校では管理教育が強化されました。
世の中の流れとしては自由な教育が求められていましたが、逆行したのです。
そのため70年代後半から「校内暴力」が吹き荒れました。
文部省は管理教育を転換するのではなく、むしろ強化する方向に行きました。
1985年ごろを境に校内暴力は沈静化しますが、体育教師を中心とした教師暴力によって校内暴力を制したのだともいわれます。

このころから「内申書重視」の流れが強まりました。大学や高校の入試で、それまでもっぱら入学試験の点数で決まっていたのが、内申書の評価が重視されるようになったのです。内申書を書くのは教師ですから、教師の生徒に対する権力が強まり、生徒が教師に反抗するということがほとんどなくなりました。
学校が生徒を完全に制圧したのです。

その後は、不登校といじめは増大の一途をたどっています。

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おとな対若者の対立において、日本は自民党長期政権のせいで、おとなが若者を制圧した国になりました。
今では赤ん坊の泣き声がうるさいという主張までまかり通っています。

少子高齢化で若者人口があまりにも少ないので、政治も若者を無視しています。
ブラック校則の問題を取り上げているのは共産党ぐらいです。
しかし、若者の元気がない国は衰退しますから、今のおとなにとっても無視できない問題です。
今後、教育改革が政治の最大の争点になるべきです。

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ネットの子育て悩み相談でよく見かけるのが「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」というものです。
最近、「ほめて育てる」ということが奨励されているので、悩みは深いようです。

「叱る」というのはどういうことでしょうか。
いきなり親が子どもを叱るということはありません。
最初に親は子どもになにかするように要求します。子どもが要求通りに動いてくれないと、親は命令します。それでも子どもが動かないと、親は叱るわけです。

昔は子どもが親の言うことを聞かないと親は体罰をしていました。
今は体罰は社会的に許されないので、もっぱら叱るわけです。
体罰は体に痛みを与えますが、叱ることは心に痛みを与えます。たいして変わりません。

厚労省は、子どもに対する体罰・暴言は脳の萎縮・変形を招くと明言し、「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っています。
なにが暴言かというのは必ずしも明確ではありませんが、どんな叱り方をしても子どもの心は傷つくはずですから、叱ることはすべて暴言と見なしていいのではないでしょうか。


親が子どもに命令したり叱ったりするのは、親子が上下関係になっているからです。
軍隊や企業は厳密に上下関係が決められているので命令があり、命令違反には罰があります。
友人関係には上下がないので、友人に命令することはできません。命令すると友人関係が壊れます。
家族関係も基本的なところは友人関係と同じはずです。


親は子どもに対して命令する権限があると思っていますが、子どもはそうは思っていません。ですから、親に命令されても聞きませんし、叱られても聞きません。
そのため、「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」という親の悩みが出てくるわけです。

もちろん叱るのはよくありませんが、それ以前に命令するのがよくありません。
命令するから、命令違反を叱ってしまうわけです。

命令がだめならどうすればいいかというと、頼めばいいわけです。
親が子どもになにかしてほしい場合は、頼むしかありません。

たとえば子どもが保育園に行くのをしぶったとします。
親がむりやり行かせようとし、それでも行かないと叱るというのが最悪のやり方です。子どもは傷つきますし、ますます保育園嫌いになる可能性があります。

子どもには保育園に行きたくない事情があるわけです。親と離れたくないとか、友だちにいじめられるとか、いやな保育士がいるとか。
親にも子どもに保育園に行ってほしい事情があります。
子どもの行きたくないという気持ちと、親の行ってほしいという気持ちをぶつけ合うと、気持ちの強いほうが勝って、気持ちの弱いほうは譲ることになります。
これが正しい妥協です。
譲ってもらったほうは借りができたので、いずれの機会に借りを返そうとします。
そうして互いに思いやりのある関係が築けます。
親が一方的に命令し、叱っていたのでは、まともな人間関係にはなりません。

夫婦も互いに気持ちをぶつけ合っていけば、正しい妥協ができて、仲良くやっていけるはずです。


家族関係に上下があるのは家父長制の家族です。夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するというのが家父長制です。

家父長制でない本来の親子関係はどんなものでしょうか。
文化人類学の古典とされるブロニスロウ・マリノウスキー著『未開人の性生活』にはこのような記述があります。

トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。


日本でも江戸時代までは、庶民階級では子どもはたいせつにされ、少なくとも体罰はありませんでした。
明治時代になると武士階級の制度であった家父長制が民法によって国全体の制度となり、夫婦も親子も上下関係となりました。
戦後の日本もまだ家父長制を引きずっています。

愛情で結びついた家族には、上下関係はありませんし、命令も強制もありません。
つい子どもを叱ってしまうという親は、命令や強制で子どもを支配しているのです。


「子どもを叱りすぎてしまう」という悩み相談に対して、子育ての専門家はたいてい「子どもが納得いいくように話し合いをしましょう」とか「感情的に叱ってはいけません」などとアドバイスしますが、叱ることそのものを否定する人はめったにいません。
しかし、「叱らない教育」は平井信義(1919年―2006年)が1970年代から唱えていて、そんな特殊なものではありません。
子どもを尊重していれば命令、強制、叱責などはできないはずです。

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