
宮城県大河原町議会で佐藤貴久町議がスマホゲームをしているのを見学中の小学生が目撃し、「ツムツムをしている人がいた」などと作文に書いたことで佐藤町議に非難が殺到し、町議会は辞職勧告決議案を可決し、佐藤町議は7月24日、議員を辞職しました。
審議中にスマホゲームをするのはよくありませんが、議員辞職をするほどのことではありません。
自民党の平井卓也衆議院議員は国会審議中にタブレットでワニの動画を見ていたのが問題視され、「ワニが好きで」などと弁解しながら謝罪しましたが、それですんでいます。
それどころか、裏金議員も辞職しないのですから、スマホゲームをやっただけで辞職するのは、まったくバランスがとれません。
最近の日本はルール違反やマナー違反にどんどんきびしくなっています。
東京都知事選で2位になった石丸伸二氏が注目されたきっかけは、安芸高田市長時代に市議会で審議中に居眠りしていびきを響かせた議員を罵倒し、市議会とのバトルを演出したことです。
「恥を知れ!」などと議員に啖呵を切るのがカッコいいということで人気が出ました。
どうせ多くの議員は頭の固い利権がらみの人でしょうから、そことバトルをするのはいいのですが、「居眠り」をやり玉に上げるのはよくありません。退屈な会議中に居眠りするのは誰にでもあることだからです(その居眠り議員はあとで脳梗塞だったとして診断書を提出しています)。
国会でも居眠り議員の姿はしばしばテレビで取り上げられますが、あくまで「あきれた議員」という取り上げ方です。きびしく糾弾するということはありません。
居眠り議員をやり玉に上げたのは石丸氏の政治手法なのでしょうが、私が恐ろしいと思ったのは、石丸信者たちが嬉々として居眠り議員を糾弾していたことです。
石丸信者というのは、YouTubeをよく見ていて、ある程度政治に関心のある人たちでしょう。そこそこ“意識高い系”です。
もしこんな風潮が広まったらたいへんです。会社の会議やPTAの会合などで居眠りをすると糾弾される世の中になりかねないからです。
居眠りは誰でもするし、自分もする。だから、国会議員の居眠りも大目に見る。これが良識ある人間の態度です。
ところが、今はそうした良識のない人間が増えています。
パリ五輪に出場予定だった体操女子の宮田笙子選手(19歳)は、喫煙していたことが発覚し、飲酒もしていたようで、五輪出場を辞退しました。
出場辞退とはいっても、実質的には日本体操協会による処分です。
喫煙で五輪出場停止はきびしすぎるのではないかという議論が起きました。
そもそも20歳未満は飲酒喫煙禁止という法律が妙なものです。
成人年齢は20歳から18歳に引き下げられたのに、ここは変わりませんでした。
年齢の線引きは国によって違いますし、そもそも年齢制限に医学的その他の根拠がありませんから、法律を破ってもあまり罪の意識がありません。
それに、法律を破っても罰がありません。ですから、20歳未満の飲酒喫煙は違法行為ではあっても、法律的には「犯罪」とはいわないそうです。警官に現行犯で見つかっても、警官はなにもできません。学校の先生に見つからなければいいわけです(親権者や酒やタバコを提供した店に刑罰が科されることはあります)。
というわけで、大学の新入生歓迎コンパで酒を飲むのは普通ですし、高卒で会社に入った人も、社会人になれば一人前ということで飲酒は公認でしょう。
今は昔よりきびしくなってきているようですが、20歳未満で飲酒喫煙をしたという人は世の中にいっぱいます。
そういう人は飲酒喫煙で五輪出場停止はきびしすぎると思って当然です。
なお、体操女子の五輪選手枠は5名ですが、宮田選手が辞退しても代わりの選手は出場できないそうです。となると、日本はメダルの可能性を減少させるだけで、なんのメリットもありません。
なお、「日本代表選手・役員の行動規範」は、違法行為を行わないという定めに加え、20歳以上であっても日本代表チームとしての活動の場所における飲酒や喫煙を禁止しています。
宮田選手は隠れて飲酒喫煙をしていたはずで、この規定にどの程度違反するのかよくわかりません。
それに、この「規範」には罰則の規定がないので、やはり出場停止はきびしすぎるのではないかということになります。
いや、それ以前に、体操協会が出場停止処分をしたのではなく、宮田選手が出場辞退したという形にしたのも、汚いやり方だといえます(実態は処分なので、これからは処分という言葉を使います)。
ともかく、宮田選手の五輪出場停止処分はきびしすぎるという声がある一方で、20歳未満の飲酒喫煙という法律違反、規則違反をしたのだから、処分は当然という声もあります。
年配の人は処分はきびしすぎるという意見が多く、若い人は処分は当然という意見が多い傾向があります。
それから、有名人で意見を表明した人はほとんどが処分はきびしすぎるという意見です。処分は当然という意見はほぼネットにおける匿名の意見です。
『そうそうたる有名人が「宮田笙子は五輪に出場すべき」とXに投稿してもネット世論は完全無視 謎を解くカギはビートきよしの投稿にあった』という記事を参考に、有名人の名前を挙げておきます。
処分はきびしすぎるという意見の人は為末大氏、野口健氏、高知東生氏、ビートきよし氏、猪瀬直樹氏、米山隆一氏、ひろゆき氏、高須克弥氏、井川意高氏、江川紹子氏、門田隆将氏といったところです。
興味深いのは、政治的立場の右も左もいることです。
処分は当然とする有名人はきわめて少なく、この記事によると、目立つのは橋下徹氏、東国原英夫氏ぐらいだということです。
これだけの有名人が処分反対を主張しているのに、Xやヤフコメなどのネット世論は圧倒的に処分賛成です。そのため、有名人の意見も世の中を動かすことはできません。
なぜネット世論が処分賛成かというと、おそらく若い人たちは学校でブラック校則に従ってきたからでしょう。自分が規則に従ってきたのだから、他人も規則に従うのは当然という考えです。
私は「失われた30年」といわれる経済の停滞の最大の原因は学校教育にあるということを「日本経済がだめになった根本原因」という記事に書きましたが、そのとき校則に関して書きもらしたことがあったので、ここで書いておきます。
校則にはほとんどの場合、義務の規定があるだけで、違反した場合の罰則の規定がありません。
例外的に「遅刻3回で欠席1回とする」という規定があるくらいです。
それから「喫煙が発覚した場合は停学〇〇日」という“判例”に従うということもあるでしょう。
法律にはたいてい厳密に罰則が定められていますが、それも刑の上限が定められている場合がほとんどです。
たとえば窃盗罪の場合は「10年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する」といった具合で、上限だけ決められています。
重大犯罪の場合は刑の下限も決められていることがあり、たとえば強盗致死傷罪は「強盗が、人を負傷させたときは無期又は6年以上の拘禁刑に処し、死亡させたときは死刑又は無期拘禁刑に処する」となっています(実際は情状酌量によって下限よりも軽減されることがあります)。
しかし、刑の下限が決められている場合はまれで、ほんどの場合は上限だけ決められています。
なぜかというと、人間は処罰感情が必要以上に強くて、罰しすぎてしまう傾向があるからです。
「やられたらやり返す」といいますが、正確にやり返すことはなく、たいていは「倍返しだ」のようにやりすぎてしまいます。お互いにそんなことをしていては収拾がつきません。
ですから、処罰をやりすぎないようにするために刑の上限が決められているのです。
ところが、校則はほとんどの場合、罰則が決められていません。
教師がそのつど恣意的に罰を決めるわけですが、どうしても罰はきびしくなりがちです。
“服装の乱れ”などささいなことでも停学ということがありえます。
昔の生徒は校則や学校や教師をある程度バカにしていましたが、今は内申書重視やAO入試や推薦入試などで教師の権力が格段に強化されたので、生徒は教師に迎合するしかなくなっています。
ゼロ・トレランス方式という学校管理の方法があります。
アメリカで始まったもので、校則に細かく罰則を定めておき、それを厳格に生徒に適用するというものです。
教師が刑務所の看守みたいになるものなので、私はよいこととは思いませんが、文科省は2006年に「ゼロ・トレランスの調査研究」を盛り込みました。
ただ、実現化の動きはないようです。
考えてみれば当然で、罰則のない校則のほうが生徒にとってはきびしいといえます。
日本の学校はゼロ・トレランス以上に不寛容です。
こういう学校で育つと、罪と罰のバランスがわからなくなります。
宮田選手の場合、飲酒喫煙という微罪に対して五輪出場停止という罰は重すぎるのではないかという議論が行われているわけです。つまり「量刑不当」ということです。
ところが、ネットの意見をみると、どれも「法律に違反したのだから出場停止は当然」とか「規則に反したのだから出場停止は当然」というものばかりです。
つまり罪にはふさわしい罰があるということをまったく理解していないので、議論がかみ合っていません。
スマホゲームをしていた議員に対する非難や、議場で居眠りした議員に対する非難も同じです。
「微罪でも極刑」という主張が行われ、そして実行されています。
バイト店員の愚行が「バイトテロ」としてやり玉に上がり、回転寿司で醤油差しをなめた高校生がバッシングされて高校を中退するなどもその一環です。
ささいな法律違反や規則違反やマナー違反がきびしく罰されるようになると、誰もが委縮してしまい、社会の活力がなくなります。
それを防ぐには、学校教育の改革とともに、どんな規則違反にもそれにふさわしい罰があるという当たり前のことが改めて認識される必要があります。