
熊本県の木村敬知事が「今後はAIが代行するから一般事務職はいらない」「(高校の)普通科なんかもいらない」と発言したというニュースがありました。
木村知事は発言を撤回して謝罪しましたが、そもそもなにを言いたかったのかよくわかりません。
いくつかのニュース記事を読んでやっとわかりましたが、そこには日本の教育制度につながる重大問題がありました。
8月20日、「くまもとで働こう」推進本部の初会合が開かれ、建築・土木・測量技術者や介護サービス職など幅広い分野で人手不足が生じている一方、一般事務職では求職者が余っているというデータが示されました。
これに対して木村知事は「私の心の中の長年の持論」として「逆をみると足りていてどうしようもないのが、一般事務とかは、要はいらないんですよ。そういう若者を育てちゃいけないんですよ、僕らは。教育長に過激な言い方だけど、普通科なんかいらないと僕は思っているのね」と言い、さらに「一般事務は全部AIが代行する。これから必要なのは、エッセンシャルワーカーだ」とも述べました。
要するに「技術職や介護職が必要で、一般事務職はいらないので、高校の普通科もいらない」ということです。
あまりにも極論ですから撤回したのは当然です。
木村知事は東大法学部卒業で、自治省(現総務省)の官僚となり、自民党と公明党の推薦で今年3月の熊本県知事選に出馬して当選しました。
高級官僚のエリート意識が生んだ暴言と見なす向きがあります。
ちなみにパワハラとおねだりで問題になっている兵庫県の斎藤元彦知事も、東大経済学部卒で総務省に入っています。エリート意識で共通しているかもしれません。
ただし、「普通科なんかいらない」は単なる思いつきの暴言ではなく、「長年の持論」でもあったわけです。
実はこの考えは「ゆとり教育」と根が同じです。
ゆとり教育については私は最初のころ漠然と、詰め込み教育はよくないし、自由研究などを増やすと創造性が身についていいんじゃないか程度に思っていました。しかし、ゆとり教育とはそういうものではありませんでした。
ゆとり教育の答申をした教育課程審議会で当時会長をしていた作家の三浦朱門は、ジャーナリストの斉藤貴男氏のインタビューでこのように語っています。
「学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審をやっていました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。・・・・・・ アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出ている。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが “ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどくいっただけの話だ。」
『機会不平等』斉藤貴男著 文芸春秋40㌻・41㌻
なにしろ会長をしていた人間の言葉だけに、これがゆとり教育の本質を表現しているに違いありません。
「できん者はできんままで結構」とか「できない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」という言葉には、ゆがんだエリート意識と、一般人を切り捨てる非情さが見えます。
三浦朱門は作家だけに誰も言わなかった政府の本音を言ったのでしょう。
なお、三浦朱門の妻の曽野綾子も中曽根臨時教育審議会(臨教審)のメンバーでした。
ゆとり教育は学力低下を招くとして圧倒的に批判され、たちまち捨てられてしまいました。
しかし、2008年の学習指導要領改訂の際には「生きる力」という意味不明の言葉がうたわれました。果たしてどういう方向に変わったのかよくわかりません。
2014年、文科省の有識者会議での株式会社経営共創基盤CEOの冨山和彦氏の主張がネットで公開されると、議論を呼びました。
その主張というのは、今の大学を、グローバル人材を生み出す少数のグローバル大学と、その他のローカル大学に分けて、ローカル大学は職業訓練校になるべきだというものです。
職業訓練校化というのはたとえば「文学部はシェイクスピア、文学概論ではなく、観光業で必要になる英語、地元の歴史、文化の名所説明力を身につける」「経済・経営学部は、マイケルポーター、戦略論ではなく、簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方を教える」といったものです。
この主張も「シェイクスピアはいらない」というところなどが反発を招いて、大いに批判されました。
木村熊本県知事の「普通科なんかいらない」も三浦朱門の「非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」も冨山和彦氏の「ローカル大学は職業訓練校化するべき」も基本的にはみな同じ考え方です。
つまり少数のエリートがいれば、あとはただの労働力でいいという考えです。
こういう考え方は表面化すると批判されますが、政府内では底流としてずっと一貫しているのではないでしょうか。
しかし、こういう考え方は完全に失敗しています。
ただの労働力にされてしまう一般国民の反発を招くだけではありません。
エリートを育てるのに失敗しているのです。
エリートを育てるといっても、官僚や政治家を育てることではありません。
経済発展につながるようなイノベーションを起こせる創造力ある人間を育てることが期待されています。
しかし、日本の科学技術力は目に見えて低下しています。
文科省が8月9日に発表した「科学技術指標2024」によると、引用数の多い「注目度の高い論文」数の世界ランキングは、かつては3位だったのが、現在は過去最低の13位になっています。
国立大学は2004年に独立行政法人化されましたが、朝日新聞が国立大の全学長86人にアンケートを行い、20年前と比べた現状の評価を尋ねたところ、回答した79人の7割弱が、悪い方向に進んだと回答しました。
文科省は大学の運営にも「選択と集中」を適用し、研究費を競争して得る仕組みにしました。そのため研究者は安易に成果が得られそうな研究を目指し、申請書づくりに時間を奪われることになりました。それが論文の質の低下につながっています。
文科省は、研究者の好きにさせるとろくに働かないだろうから、監視して、アメとムチで働かせなければならないと考えているのです。
しかし、工場での単純労働ならこのやり方で成果が出るかもしれませんが、創造性が求められる仕事にはむりです。
創造性というのは、心の深いところから、本人もわからない形で出てくるものです。
では、どうやればいいかというと、うまくいっているのがアメリカです。アメリカのやり方が参考になるでしょう。
2021年のノーベル物理学賞に選ばれた真鍋淑郎氏は、日本生まれで東大卒ですが、アメリカに渡って気象をコンピュータによって解析する研究をし、現在は国籍を日本からアメリカに変更しています。
真鍋氏は受賞の記者会見で「私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありません」と発言し、日本の研究者の心をざわつかせました。日本の研究者は研究計画書をうまく書かないと研究費が下りないので、必死で書いているからです。
NHKニュースの「日本に帰りたくない? ノーベル賞受賞真鍋さんのメッセージ」という記事によると、真鍋氏の気候変動の研究は当時はほとんどその価値が認識されていませんでしたが、真鍋氏には潤沢な資金が供給され、希望する設備はすべて整備されたといいます。
これはもちろん真鍋氏の周りに真鍋氏の研究の価値を理解する人がいたからです。
アメリカには政府などに対して科学や技術に関する専門的な助言を行う科学アカデミーという組織があります。
各国にも同じような組織があり、イギリスは「王立協会」、日本は「日本学術会議」です。

しかし、日本学術会議は予算規模がまったく違いますし、学術界と政府の関係も違います。
真鍋氏は日本に関して「政治家と科学者のコミュニケーションがうまくいっていないのが問題だと思います」と語っています。
ご存じのように日本では菅政権が日本学術会議の6名の新会員の任命を拒否するということがあり、政府と学術会議が対立しています。
政府は学術会議を支配下に置こうとしているのです。
安倍首相と菅首相は私立大学出で、学歴コンプレックスから学術会議を敵視しているのだという説がありましたが、これは安倍首相と菅首相に限った問題ではなく、前から文科省の基本的な方針ではないかと思います。
教育に関しては、自由放任教育と管理教育というやり方がありますが、日本は徹底して管理教育をしてきました。
アメリカでも高校以下は基本的に管理教育ですが、大学以上になると、とくにエリートに関しては自由放任というか、かなり好き勝手にすることが許されます。
そういうエリートが科学や経済界でイノベーションを起こし、アメリカの発展に寄与してきました。
日本でもエリートを育てようという方針はあって、たとえば政府は10兆円規模の大学ファンドを設立し、その収益金で一部の大学を世界最高レベルに高めるという計画です。つまりグローバル大学をつくろうとしているのです。
しかし、それを仕切っているのは文科省の官僚です。
ファンドの収益金を受け取れる「国際卓越研究大学」になるには、文科省の官僚に認められなければなりません(第一弾として東北大学が選ばれましたが、その理由が示されないので、なぜ東大や京大でないのかという疑問の声が上がっています)。
各研究者も研究費を受け取るには研究計画書を書いて官僚に認められなければなりません。
文科省の官僚が型破りの斬新な発想を評価できるでしょうか。おそらくそういう研究計画ははじかれて、認められるのは評価しやすい無難な研究計画ばかりになるのではないかと思われます。
つまり日本の学術は文科省の官僚の頭のレベルに抑えられ、そうして日本の「注目度の高い論文」は減少の一途をたどっているのです。
最後に真鍋氏の言葉を紹介しておきます。
「最近、日本における研究は好奇心に駆られた研究が少なくなってきています。どうしたら日本の教育がよくなるか考えてほしいと心から願っています。若い人にはやはり自分の好奇心を満たすような、好きな研究をしてほしい。不得意なことはやらないで得意なことをしてほしい。格好のいい研究、格好のいい分野を選ぶことは必ずしも考えないで、自分が本当にやりたい研究をやってほしい。そうすると研究が楽しくてやめられなくなります。一生楽しい人生が過ごせるので、これから、ぜひそういう具合に研究してもらいたい」