村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2024年08月

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熊本県の木村敬知事が「今後はAIが代行するから一般事務職はいらない」「(高校の)普通科なんかもいらない」と発言したというニュースがありました。
木村知事は発言を撤回して謝罪しましたが、そもそもなにを言いたかったのかよくわかりません。
いくつかのニュース記事を読んでやっとわかりましたが、そこには日本の教育制度につながる重大問題がありました。

8月20日、「くまもとで働こう」推進本部の初会合が開かれ、建築・土木・測量技術者や介護サービス職など幅広い分野で人手不足が生じている一方、一般事務職では求職者が余っているというデータが示されました。
これに対して木村知事は「私の心の中の長年の持論」として「逆をみると足りていてどうしようもないのが、一般事務とかは、要はいらないんですよ。そういう若者を育てちゃいけないんですよ、僕らは。教育長に過激な言い方だけど、普通科なんかいらないと僕は思っているのね」と言い、さらに「一般事務は全部AIが代行する。これから必要なのは、エッセンシャルワーカーだ」とも述べました。

要するに「技術職や介護職が必要で、一般事務職はいらないので、高校の普通科もいらない」ということです。
あまりにも極論ですから撤回したのは当然です。

木村知事は東大法学部卒業で、自治省(現総務省)の官僚となり、自民党と公明党の推薦で今年3月の熊本県知事選に出馬して当選しました。
高級官僚のエリート意識が生んだ暴言と見なす向きがあります。
ちなみにパワハラとおねだりで問題になっている兵庫県の
斎藤元彦知事も、東大経済学部卒で総務省に入っています。エリート意識で共通しているかもしれません。

ただし、「普通科なんかいらない」は単なる思いつきの暴言ではなく、「長年の持論」でもあったわけです。
実はこの考えは「ゆとり教育」と根が同じです。

ゆとり教育については私は最初のころ漠然と、詰め込み教育はよくないし、自由研究などを増やすと創造性が身についていいんじゃないか程度に思っていました。しかし、ゆとり教育とはそういうものではありませんでした。
ゆとり教育の答申をした教育課程審議会で当時会長をしていた作家の三浦朱門は、ジャーナリストの斉藤貴男氏のインタビューでこのように語っています。
 「学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審をやっていました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。・・・・・・ アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出ている。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが “ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどくいっただけの話だ。」
『機会不平等』斉藤貴男著 文芸春秋40㌻・41㌻

なにしろ会長をしていた人間の言葉だけに、これがゆとり教育の本質を表現しているに違いありません。
「できん者はできんままで結構」とか「できない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」という言葉には、ゆがんだエリート意識と、一般人を切り捨てる非情さが見えます。
三浦朱門は作家だけに誰も言わなかった政府の本音を言ったのでしょう。
なお、三浦朱門の妻の曽野綾子も中曽根臨時教育審議会(臨教審)のメンバーでした。

ゆとり教育は学力低下を招くとして圧倒的に批判され、たちまち捨てられてしまいました。
しかし、2008年の学習指導要領改訂の際には「生きる力」という意味不明の言葉がうたわれました。果たしてどういう方向に変わったのかよくわかりません。

2014年、文科省の有識者会議での
株式会社経営共創基盤CEOの冨山和彦氏の主張がネットで公開されると、議論を呼びました。
その主張というのは、今の大学を、グローバル人材を生み出す少数のグローバル大学と、その他のローカル大学に分けて、ローカル大学は職業訓練校になるべきだというものです。
職業訓練校化というのはたとえば
「文学部はシェイクスピア、文学概論ではなく、観光業で必要になる英語、地元の歴史、文化の名所説明力を身につける」「経済・経営学部は、マイケルポーター、戦略論ではなく、簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方を教える」といったものです。
この主張も「シェイクスピアはいらない」というところなどが反発を招いて、大いに批判されました。

木村熊本県知事の「普通科なんかいらない」も三浦朱門の「
非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」も冨山和彦氏の「ローカル大学は職業訓練校化するべき」も基本的にはみな同じ考え方です。
つまり少数のエリートがいれば、あとはただの労働力でいいという考えです。
こういう考え方は表面化すると批判されますが、政府内では底流としてずっと一貫しているのではないでしょうか。

しかし、こういう考え方は完全に失敗しています。
ただの労働力にされてしまう一般国民の反発を招くだけではありません。
エリートを育てるのに失敗しているのです。

エリートを育てるといっても、官僚や政治家を育てることではありません。
経済発展につながるようなイノベーションを起こせる創造力ある人間を育てることが期待されています。
しかし、日本の科学技術力は目に見えて低下しています。
文科省が8月9日に発表した
「科学技術指標2024」によると、引用数の多い「注目度の高い論文」数の世界ランキングは、かつては3位だったのが、現在は過去最低の13位になっています。
国立大学は2004年に独立行政法人化されましたが、
朝日新聞が国立大の全学長86人にアンケートを行い、20年前と比べた現状の評価を尋ねたところ、回答した79人の7割弱が、悪い方向に進んだと回答しました。
文科省は大学の運営にも「選択と集中」を適用し、研究費を競争して得る仕組みにしました。そのため研究者は安易に成果が得られそうな研究を目指し、申請書づくりに時間を奪われることになりました。それが論文の質の低下につながっています。

文科省は、研究者の好きにさせるとろくに働かないだろうから、監視して、アメとムチで働かせなければならないと考えているのです。
しかし、工場での単純労働ならこのやり方で成果が出るかもしれませんが、創造性が求められる仕事にはむりです。
創造性というのは、心の深いところから、本人もわからない形で出てくるものです。

では、どうやればいいかというと、うまくいっているのがアメリカです。アメリカのやり方が参考になるでしょう。

2021年のノーベル物理学賞に選ばれた
真鍋淑郎氏は、日本生まれで東大卒ですが、アメリカに渡って気象をコンピュータによって解析する研究をし、現在は国籍を日本からアメリカに変更しています。
真鍋氏は受賞の記者会見で「私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありません」と発言し、日本の研究者の心をざわつかせました。日本の研究者は研究計画書をうまく書かないと研究費が下りないので、必死で書いているからです。

NHKニュースの「日本に帰りたくない? ノーベル賞受賞真鍋さんのメッセージ」という記事によると、真鍋氏の気候変動の研究は当時はほとんどその価値が認識されていませんでしたが、真鍋氏には潤沢な資金が供給され、希望する設備はすべて整備されたといいます。
これはもちろん真鍋氏の周りに真鍋氏の研究の価値を理解する人がいたからです。
アメリカには
政府などに対して科学や技術に関する専門的な助言を行う科学アカデミーという組織があります。
各国にも同じような組織があり、イギリスは「王立協会」、日本は「日本学術会議」です。

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しかし、日本学術会議は予算規模がまったく違いますし、学術界と政府の関係も違います。
真鍋氏は日本に関して「政治家と科学者のコミュニケーションがうまくいっていないのが問題だと思います」と語っています。

ご存じのように日本では菅政権が日本学術会議の6名の新会員の任命を拒否するということがあり、政府と学術会議が対立しています。
政府は学術会議を支配下に置こうとしているのです。
安倍首相と菅首相は私立大学出で、学歴コンプレックスから学術会議を敵視しているのだという説がありましたが、これは
安倍首相と菅首相に限った問題ではなく、前から文科省の基本的な方針ではないかと思います。


教育に関しては、自由放任教育と管理教育というやり方がありますが、日本は徹底して管理教育をしてきました。
アメリカでも高校以下は基本的に管理教育ですが、大学以上になると、とくにエリートに関しては自由放任というか、かなり好き勝手にすることが許されます。
そういうエリートが科学や経済界でイノベーションを起こし、アメリカの発展に寄与してきました。
日本でもエリートを育てようという方針はあって、たとえば
政府は10兆円規模の大学ファンドを設立し、その収益金で一部の大学を世界最高レベルに高めるという計画です。つまりグローバル大学をつくろうとしているのです。

しかし、それを仕切っているのは文科省の官僚です。
ファンドの収益金を受け取れる
「国際卓越研究大学」になるには、文科省の官僚に認められなければなりません(第一弾として東北大学が選ばれましたが、その理由が示されないので、なぜ東大や京大でないのかという疑問の声が上がっています)。

各研究者も研究費を受け取るには研究計画書を書いて官僚に認められなければなりません。
文科省の官僚が型破りの斬新な発想を評価できるでしょうか。おそらくそういう研究計画ははじかれて、認められるのは評価しやすい無難な研究計画ばかりになるのではないかと思われます。
つまり日本の学術は文科省の官僚の頭のレベルに抑えられ、そうして日本の
「注目度の高い論文」は減少の一途をたどっているのです。


最後に真鍋氏の言葉を紹介しておきます。

「最近、日本における研究は好奇心に駆られた研究が少なくなってきています。どうしたら日本の教育がよくなるか考えてほしいと心から願っています。
若い人にはやはり自分の好奇心を満たすような、好きな研究をしてほしい。不得意なことはやらないで得意なことをしてほしい。格好のいい研究、格好のいい分野を選ぶことは必ずしも考えないで、自分が本当にやりたい研究をやってほしい。そうすると研究が楽しくてやめられなくなります。一生楽しい人生が過ごせるので、これから、ぜひそういう具合に研究してもらいたい」


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パリ五輪大会は「誹謗中傷」と「誤審」がやたらと話題になった大会でした。
あと、女子ボクシング選手の性別を巡る問題も大きな話題となりました。
これらが話題になったのはSNSの発達のせいでしょう。SNSで議論が盛り上がるとマスコミも取り上げるという図式です。

パリ大会は東京大会と比べて誤審が多いといわれましたが、審判は各国際競技団体が用意するので、東京よりパリのほうが審判の質が落ちたということはないはずです。
「誤審」が増えたのではなく、「誤審の話題」が増えたと見るべきでしょう。

日本人選手が不利な判定を受けたとき、その判定にちょっと疑問を感じたとしても、普通は現場で一流の審判が見ているのだし、テレビで見ている素人の自分の判断が正しいという自信は持てません。しかし、SNSでちょっと疑問を発信すると、同じ考えの人がけっこういます。お互いに自分たちの考えが正しい、あの審判は間違っていると言い合うと、エコーチェンバー効果で疑問が確信に変わって、大きな声となって社会に発信されます。
そのため誤審の話題が増えたのでしょう。

日本人選手が有利な判定をされて、ちょっとおかしいなと思うこともありますが、そういうときに疑問を発する人はまずいません。
そのため、誤審が話題になるのは日本人選手が不利になったときだけです。
これは当たり前のことで、スポーツの観客は基本的に身びいきです。
サッカー、野球、ボクシングなどたいていの試合にはホームとアウェイがあって、審判がホームのチームや選手に不利な判定をすると、正当な判定であっても、観客は審判にブーイングを浴びせます。

誤審とは違いますが、柔道の男女混合団体戦で日本は決勝でフランスと対戦、3対3となったとき、電子ルーレットによって代表選は日本に不利な90キロ超級となり、斎藤立選手がテディ・リネール選手に負けて、日本は銀メダルとなりました。
電子ルーレットだと不正が仕組まれていてもわかりません。そのため、疑問の声がずいぶんと上がりました。
しかし、電子ルーレットを仕切っているのは開催国のフランスではなく国際柔道連盟のはずですから、不正をするとは思えません。
ちなみに東京大会でも同じ電子ルーレット方式が採用されていましたが、そのときはルーレットの回転は観客に見えませんでした。フランス大会で観客に見える形になって、少し進歩しました。
要するに日本に不利な結果が出たから文句を言っているだけです。

スポーツにおいては、選手も観客も審判に不満を持つことは多々ありますが、判定がくつがえらないとなると、不満があってもその判定を受け入れるのがマナーです。
パリ大会で誤審が話題になったのは、日本人のスポーツ愛好者としてのマナーがなっていないということにほかなりません。
たとえば柔道男子60キロ級の永山竜樹選手がスペインのガリゴス選手と対戦したとき、審判の「マテ」がかかったあとも永山選手は数秒間締め技をかけられ、失神し、試合に負けるということがありました。これは誤審だという声が上がると、審判団は「マテ」をかけたのが間違いだったとして、勝負の結果はそのままとしました。
納得がいかなくても判定が決まったら、それに従うのがスポーツマンシップですし、これは観客も同じです。
ところが、SNSではガリゴス選手への誹謗中傷が殺到したようです。


ここでメジャーなメディア、つまりマスコミの対応が問題になります。
日本のSNSは日本語ですから、どうしても自国中心主義になります。
マスコミは誤審の相手国の反応や世界の反応を伝える必要があります。そうすれば人々は自然と自国中心主義から脱することができます。

こうしたマスコミの対応はたいせつです。戦争の根本原因は自国中心主義だからです。



パリ大会は「誹謗中傷」の話題も多く、IOCのアスリート委員会は8月18日、パリ五輪期間中に選手、関係者に対してSNSで8500件を越す誹謗中傷の投稿が確認されたと発表しました。
日本でも女子柔道の阿部詩選手が敗戦後に泣き崩れたことに非難が殺到しましたし、バレーボール男子もイタリア戦で逆転負けすると、敗戦の責任を追及する投稿が相次ぎ、中でも第5セットでサーブミスをした小野寺太志選手が非難されました。

SNSに限らずインターネットでは昔から個人への攻撃が盛んに行われていました。それが世界的にエスカレートしているわけです。
なぜそうなるかというと、善、悪、正義、「べき」などの概念をひっくるめて「道徳」というと、道徳の基本構造が人を非難するものになっているからです。
「嘘をついてはいけない」という道徳があるために「嘘つき」という非難が生じ、「努力するべき」という道徳があるために「努力が足りない」という非難が生じます。
道徳は高いハードルなので、誰もが非難されることになります。

道徳のハードルが高いために、世の中には悪い人間がいっぱいいることになります。
「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」という考え方を正義といいます。
そのため誰かに「悪いやつ」というレッテル張りをして、攻撃するということが行われます。
しかし、このやり方はうまくいきません。

イスラエルは「ハマスを殲滅すれば世の中はよくなる」と思っていますし、アメリカは「テロリストをやっつければ世の中はよくなる」と思ってやってきましたが、そうはなりません。
親は子どもが「悪いこと」をすると叱ってやめさせようとしますが、そんなことをしても「よい子」にはならず、逆に親が幼児虐待をすることになってしまいます。
学校のいじめも、空気が読めない、成績が悪い、先生に嫌われているなどの子どもに「悪いやつ」というレッテル張りをしていじめるわけです。
善、悪、正義には定義がないため、誰でも適当に「悪いやつ」のレッテル張りができるのです。

したがって、道徳で社会をよくすることはできませんし、社会の秩序を維持することもできません(道徳教育でよい人間をつくることもできません)。
では、どうしているかというと、「法の支配」によって社会の秩序を維持しています。
法律は「悪いやつ」を具体的に定義づけるものです。
「法の支配」によって結果的に「悪いやつ」をやっつけることができます。
人類の歴史は、役に立たない道徳をお払い箱にし、法の支配を広げる歴史だったともいえます。

しかし、法の支配がまだ及ばない分野があります。
ひとつは国際社会です。国際法というのはありますが名ばかりで、実質的に無法状態です。互いに「悪いやつ」のレッテル張りをするので、戦争が絶えません。
もうひとつは家庭内です。愛情で結ばれた家族関係に法律は持ち込むべきでないと考えられているので、ここもほとんど無法状態です。そのため「悪妻」や「悪い子」のレッテル張りが行われ、暴力が絶えません。

あと、あえていえばテレビのワイドショーも法の支配よりも道徳の支配が行われている世界です。コメンテーターは犯罪者に対しては法定刑以上の厳罰を要求するのが常で、芸能人の不倫などもきびしく糾弾します。


そうしたところにインターネットが登場しました。
インターネットの世界も、法の支配よりも道徳の支配が行われています。悪いやつ、怠けるやつ、無責任なやつ、迷惑なやつ、マナーの悪いやつがつねに攻撃されています。
そうした攻撃がどんどんエスカレートして現在に至ります。

人を攻撃する人は「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」と思っているので、自分は「正義」だと思っています。
「誹謗中傷」という言葉がありますが、これは攻撃する人を外から見た言葉です。攻撃している本人は「誹謗中傷」と思っておらず、「正義」と思っています。

「誹謗中傷」という言葉が使われだしたのは、女子プロレスラーの木村花さんが自殺したころからではないかと思います。
木村花さんは「テラスハウス」という男女が共同生活する番組に出演しましたが、花さんはだいじなコスチュームを洗濯機の中に入れたまま外出し、その間にほかのメンバーが自分の服といっしょに洗濯機を回し、さらに乾燥機にかけたために、コスチュームが着られないぐらいに縮んでしまいました。
花さんは激怒しますが、「お前も悪い」という投稿が殺到し、それに対して花さんは「100対0で向こうが悪い」と言うなどしたために大炎上しました。
そして、花さんは自殺し、花さんの母親が誹謗中傷した人間を相手に損害賠償の訴訟を起こし、勝訴したことで、「誹謗中傷はよくない」という流れができました。

しかし、誹謗中傷する人間は誹謗中傷とは思っていないので、根本的な解決にはなりません。
たとえばオリンピックと並行して起きていた出来事ですが、フワちゃんがやす子さんに「死んでくださーい」と投稿したことがきっかけでフワちゃんが大炎上しました。フワちゃんがすぐに投稿を削除して謝罪したのに誹謗中傷が殺到し、ネットメディアもほとんどが誹謗中傷側に加担しました。フワちゃんのメンタルが強くなければ自殺してもおかしくありません。花さんのときからさらに事態は悪化しています。花さんのときは誹謗中傷はよくないと言っていた人間が、フワちゃんに対しては誹謗中傷をしているに違いありません。


自分を正義と思っている人に「それは正義じゃないよ」と言っても、説得できないと思われます。正義の定義がないからです。

では、どうすればいいかというと、自分中心の考え方を脱することです。
「誤審」について述べたときに、自国中心主義を脱することがだいじだといいましたが、それとまったく同じです。
商売人は誰でも「客の立場に立って考える」ということができますが、「悪いやつ」というレッテル張りをした人間は、相手の立場に立って考えることができなくなります。これこそが「諸悪の根源」です。
「悪いやつ」の立場から自分を見ると、「正義の自分」も「悪いやつ」も同じ人間だということがわかります。
こういう発想になれば、誹謗中傷はもちろんあらゆる争いごとを解決する可能性が見えてきます。



法の支配によって駆逐されてきた、まったく役に立たない道徳を私は「天動説的倫理学」と呼んでいます。
「地動説的倫理学」への転換が必要です。

詳しくは「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

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8月11日、フワちゃんが芸能活動休止を発表しました。

フワちゃんがやす子さんにXで「死んでくださーい」と返信したことがきっかけで、強烈なフワちゃんバッシングが展開されました。フワちゃんが並みのメンタルの持ち主だったら、芸能活動休止ではすまず、自殺していたかもしれません。
幸いフワちゃんはかなりメンタルが強そうです。

反対にメンタルがきわめて弱そうなのがやす子さんです。
「やす子がフワちゃんを芸能活動休止に追い込んだ」ということで今度はやす子バッシングが展開されることがないようにしなければなりません。

そもそも今回の騒動が起こったのは、フワちゃんの不適切な言葉が直接の原因ですが、やす子さんのメンタルの弱さももうひとつの原因です。


始まりはやす子さんがXに次のポストをしたことです。
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これは明らかに明石家さんまさんの名言(?)「生きてるだけで丸もうけ」を踏まえたものです。
しかし、ここに大きな問題がありました。

さんまさんはあくまで自分の人生について言っています(しかもギャグになっています)。「人間は生きてるだけで丸もうけや」とは言っていません。
しかし、やす子さんは「皆」について言っています。
人間は誰でも優勝劣敗と序列争いの苛酷な人生レースをしている渦中なので、「皆優勝でーす」と言われてもぜんぜん心に響きません。
「生きてるだけで偉いので皆優勝でーす」というのはほとんど無意味な言葉なので、ボケとかギャグのたぐいです。
誰かが「そんなことあるかい」とか「そんな安い優勝はいらんわ」と突っ込むところです。


フワちゃんはこのポストを目にしたとき、当然突っ込みたくなりました。
それでこの返信をしました(現在は削除されているのでスクリーンショットです)。

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この言葉だけを取り上げて論じる人がいますが、それこそ「切り取り」です。
やす子さんのポストに対する「返信」なのですから、両方を見なければなりません。

要するにこれは「生きてるだけで偉いので皆優勝でーす」の逆を表現したものです。
「死んでくださーい」は「生きてるだけで偉い」という言葉の逆で、論理的な言葉遊びみたいなものです。
やす子さんに悪意を持って「死んでくださーい」と言ったわけではないと思われます。

とはいえ、「死んでくださーい」は不適切な言葉で、非難されるのは当然です。
突っ込むにしても、別の言葉でするべきでした。


フワちゃんはこの返信をした理由についてXで『投稿当時、私はアンチコメントについて話していて、偶然目にしたやす子さんの投稿に、「これにアンチコメントがつくなら。」といった趣旨で、本件の投稿の内容を記載し、その場にいた方に表示した画面を見せたところ、操作を誤って実際に投稿してしまいました』という弁明をしましたが、これが不自然な弁明だということでよけいに炎上しました。
確かに誤って投稿したならすぐに削除できるはずです。
「やす子さんの投稿に納得いかなかったので、すぐに突っ込みの返信をしましたが、そこで不適切な言葉を使ってしまいました」と弁明するべきでした。


フワちゃんの返信に対してやす子さんは「とっても悲しい」と投稿しました。
これはあまりにもストレートな反応で、お笑い芸人とは思えません。
「死んでくださーい」に対して「私は死にましぇーん」などと返していれば、たいした騒ぎにならずにすんだでしょう。
そういう意味ではフワちゃんにとっても災難です。
やす子さんを軽い気持ちでからかったら“地雷”を踏んでしまったわけです。


やす子さんがなぜこんなまともな返しをしてしまったかというと、メンタルが弱っていたからでしょう。
8月31日には日テレの「 24時間テレビ」で「24時間チャリティーマラソン」をすることになっていて、そのプレッシャーはそうとうなものに違いありません。
それに、やす子さんは急に人気が出たためにほとんど休みなしに仕事をしていることが前から心配されていました。事務所に仕事をさせられている面もあるでしょうが、本人も月に3日休みがあると心配になるということで、心配性のようです。

こうしたメンタルの弱さは生い立ちも関係していると思われます。ウィキペディアの「やす子」の項目にはこう書かれています。

山口県宇部市出身。2歳で実父が実母と離婚したため実母に引き取られて成長する(実父とは芸能界デビュー後に22年ぶりに連絡があり再会した)。母子家庭のため生活が苦しく部費も家賃も払えない状態で、中学時代は妹と共に給食以外を食べられない日もざらであったとのことで、給食の無い夏休み中にはスーパーに安売りされていたパンの耳を大量に買い込んで飢えを凌いだ経験もある。高校生の時に児童養護施設で生活し、実母とは会わなかった。高校では柔道部に所属。高校時代は学校でも仲間外れにされていた。

こういう生い立ちの不幸からくるメンタルの弱さはなかなか克服できません。

やす子さんのメンタルが弱いとすると、「とっても悲しい」とストレートな返しをしたのもわかります。
「生きてるだけで偉いので皆優勝でーす」という言葉も、ボケやギャグではなく、人生の崖っぷちで自殺を考えているような人に向けた真剣な言葉なのでしょう。


やす子さんが精神的に弱っているとすれば、さんまさんの「生きてるだけで丸もうけ」みたいな言葉を真似してはいけません。
この言葉はスーパーポジティブなさんまさんだから言える言葉です。

やす子さんはその後、「明るい言葉を発すると楽しくなるよ」と投稿していますが、危うい考えです。
ブラックな会社で社員に「私はできる!」と叫ばせたり、販売目標を唱和させたりするというのがあり、戦前の日本では教育勅語を唱和させていましたが、それに似ています。
ポジティブな言葉を心に注入すれば心がポジティブになるということはありません。
心をポジティブにするには、ネガティブな考えをひとつずつ掘り出して成仏させるしかありません。

やす子さんはポジティブな言葉を追求していて、それがボケに見えたのでフワちゃんは突っ込みましたが、やす子さんはボケではなく真剣な思いを込めていたので、行き違いが生じました。それが問題の根本です。
やす子さんが芸人らしい返しをしなかったのが悪いと非難する声がありますが、やす子さんにもそれなりの考えがあるということも理解しなければなりません。


もともとフワちゃんは批判されやすいキャラクターでした。先輩や大物にもタメ口を利き、発言内容も奔放で、現場にはよく遅刻するそうです。
フワちゃん嫌いの感情がマグマのようにたまっていて、それが今回のことで一気に噴き出た感があります。
それに、フワちゃんは所属していたワタナベエンターテインメントを辞めてフリーになったので、芸能マスコミが批判しやすくなったということもあります。
しかし、タメ口はそれがおもしろがられている面がありますし、遅刻は関係者には迷惑ですが、迷惑をかけられていない一般人が批判することではありません。
フワちゃんたたきをしている人は“正義”のつもりなのでしょうが、ただの弱い者いじめです。


なお、メディアによっては「死んでくださーい」という言葉を伏せて報道しているところがいくつかありました。8月7日のTBS系「ゴゴスマ」もそうです。「禁止語」と思われているようです。
ネット上で「殺す」の書き込みは「殺害予告」や「脅迫」として警察が捜査することがあり、使ってはいけません。
しかし、「死ね」はなんの問題もありません。ただの悪口雑言です。
ところが、「殺す」と「死ね」の区別がつかない人がいるようで、言葉狩りがさらに拡大しています。
メディアから「死ね」を消すのは勘違いだということは確認しておきたいと思います。

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パリ五輪開会式を見ると、やはり世界史で重きをなした国は違うなあと思います。

2008年の北京五輪開会式は圧巻でした。紙、絹とシルクロード、陶磁器、茶、羅針盤など中国由来のものを次々と繰り出して、中国の文化がいかに世界に貢献したかを示しました。
ナショナリズムを前面に打ち出して成功したのですが、これは実際に中国文明が世界史の中で偉大だったからです。
次のロンドン五輪開会式も、北京に刺激を受けたのでしょう、イギリスの“偉大な歴史”を示して成功しました。蒸気機関と産業革命が世界を大きく変えたことは誰もが認めざるを得ません。

次のリオデジャネイロ五輪開会式は、ブラジルには中国やイギリスに匹敵するすごい歴史がないのでどうするかと思っていたら、逆のやり方でした。植民地化されたりした苦難の多い歴史を描いて世界の共感を得ることに成功したと思います。そこにアマゾン流域の森林資源という環境問題を加え、一国の歴史とグローバルな問題を組み合わせるというのもうまいやり方でした。

そこで東京五輪開会式になるわけですが、安倍晋三前首相や森喜朗前東京五輪組織委会長の方針は「日本すごい」ということをアピールせよというものだったに違いありません。しかし、日本には中国やイギリスのように、世界にアピールできるすごいものはありません。戦後、焼け野原から世界第二の経済大国になったのはすごかったのですが、それは過去の栄光です。
そこでピクトグラムのパフォーマンス、ゲーム音楽の入場曲、市川海老蔵の歌舞伎、木遣り唄と大工のパフォーマンスなどがあったわけですが、これではたいして「日本すごい」をアピールできませんでした。
「イマジン」や「翼をください」やダイバーシティや復興も盛り込まれて、全体としてわけがわからないものになりました。
電通が編成した制作チームは、日ごろスポンサーの要望を取り入れることに長けているので、政治家からいろんなことを要望されるとみんな取り入れたのでしょう。

当時の週刊文春の報道によると、木遣り唄と大工の棟梁のパフォーマンスが取り入れられたのは、都知事選で火消し団体の支援を受けた小池百合子都知事の強い要望があったからだということです。
聖火リレーの最後の走者に長嶋茂雄氏、王貞治氏、松井秀喜氏が登場しましたが、世界の人にとってはわけのわからない人なので、国内受けをねらったものです。
ただ、長嶋茂雄氏と王貞治氏はプロ野球界のレジェンドですが、松井秀喜氏は年齢も若く、違和感があります。これは森喜朗前東京五輪組織委会長が同郷(石川県)の松井秀喜氏を押し込んだのだといわれました。
国のトップの人間が、最高の開会式で世界の人を感動させようとするのではなく、自分の利益を考えて開会式をねじ曲げているというところに、日本の劣化が現れています。


ともかく、東京五輪は「日本すごい」を打ち出そうとしたものの、日本にすごいところがなかったので失敗しました。
その点、フランスは違います。
フランス革命は世界に貢献しました。これはイギリスの産業革命にも匹敵します。
「世界の人が自由と人権を享受できているのはフランス革命のおかけだ」とフランスが主張してもおかしくありません。

開会式を演出した芸術監督のトマ・ジョリー氏がフランス革命を重視して演出したことは確かです。
そして、そのことが賛否両論を生みました。
産業革命を否定的にとらえる人はまずいないでしょうが、フランス革命はも現在の政治思想ともつながっているので、そう単純ではありません。

政治的立場を右翼と左翼というようになったのは、フランス革命のときの議会で、議長席から見て右側に王党派・貴族派がいて、左側に共和派・急進派がいたからだとされます。
保守派が右翼、改革派が左翼というのは今も同じです。

フランス革命の「自由・平等・友愛」を否定する人はあまりいないでしょうが、左翼的なものを嫌う人はいます。
フランス革命を描いたら左翼的にならざるをえないので、そのため右翼的、保守的な人が開会式の演出に拒否反応を示したのです。


最初に問題になったのは、名画「最後の晩餐」をパロディにしたような場面があったことです。これはキリスト教への冒涜だということになり、ローマ教皇庁(バチカン)も「全世界が共通の価値観の下に集うイベントで、宗教的信念を嘲笑するような暗示はあってはならない」という声明を発表しました。
しかし、芸術監督のトマ・ジョリー氏は、「最後の晩餐」とは無関係で、ギリシャ神話の異教徒の祝宴がアイデアにあったとしています。
ドラァグクイーンなどが出ているところから多様性を表現したものでしょうから、そうすると「最後の晩餐」ではなく「異教徒の祝宴」が正しいような気がします。

もっとも、キリスト教会の立場からは「異教徒の祝宴」でも不愉快です。
右翼・保守派の立場からはLGBTQが出てくること自体が不愉快です。


次に問題になったのは、マリー・アントワネットの生首です。
『レ・ミゼラブル』の「民衆の歌」が流れる中、街頭で蜂起する民衆の姿が描かれ、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のような場面も出てきます(この場面があることを思うとやはり「最後の晩餐」なのかもしれません)。
そして、マリーアントワネットが幽閉されていたという建物が出てきて、首を斬られたマリー・アントワネットが自分の首を持っていて、その首が歌を歌います。
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それからヘビメタのバンド演奏があり、曲の最後に多くの窓から血しぶきを思わせる赤いテープが一斉に飛び出します。

これが「グロテスクだ」「気持ち悪い」という批判を浴びました。
しかし、マリー・アントワネットとルイ16世の処刑はフランス革命の中核をなす事実です。
ギロチンもフランス革命と切っても切り離せません。
ロベスピエールなどの急進派はギロチンで反対派を大量に粛清し、恐怖政治といわれ、これがテロリズムの語源となりました。
フランス革命が血なまぐさかったのは事実ですから、そこをごまかすわけにはいきません。
ギロチンでの処刑シーンはさすがに表現できないでしょうから、ブラックユーモアでうまく表現したというところです。

グロテスクなものに関しては、個人的な好き嫌いがあります。スプラッターホラー映画が好きな人もいれば嫌いな人もいます。
そして、グロテスクなものの好き嫌いには政治的立場が関係しています。
グロテスクな画像を見た人の脳をMRIスキャンすると、右翼的な人の脳は強い拒絶反応を示し、左翼的な人の脳はそうでもないという科学的研究があります。一枚のグロ画像を見せるだけで95%の 確率でその人の思想傾向が当てられたそうです。
私はこれをもとに「右翼思考の謎が解けた!」という記事を書きました。
たとえば戦争の悲惨さを強調するのはつねに左翼で、戦争における英雄的行為を強調するのは右翼です。悲惨でグロテスクな現実は右翼の脳内で美しいものに変換されるようです。

したがって、開会式の演出が「グロテスクで不愉快だ」と批判する人はほんど右翼だと見なしても間違いありません。
開会式の演出は人々の政治的傾向もあぶり出したのです。


「最後の晩餐」のパロディではないかと議論を呼んだ場面ですが、「最後の晩餐」のパロディであってはいけないのでしょうか。
「名画のパロディはよくない」という人はいないでしょう。モナリザはいっぱいパロディになっているからです。
「キリストが描かれた宗教画をパロディにするのはよくない」ということでしょうが、宗教をパロディにしてはいけないということはありません。
風刺誌「シャルリー・エブド」がムハンマドを冒涜したマンガを載せてイスラム諸国から批判の声が上がったとき、マクロン大統領は「フランスには表現の自由がある」と言って批判をはねのけました。
今回、バチカンの批判を受けてパリ五輪組織委は「奇抜な開会式で不快な思いをした人がいるなら申し訳なく思う」と謝罪しました。
イスラムへの態度とバチカンへの態度が違いすぎます。
もっとも、これは組織委の腰が引けているだけかもしれません。マクロン大統領は「フランスのありのままを示した開会式をフランス人は誇りに思っている」と言いました。

「最後の晩餐」のパロディが(だとすればですが)なにを風刺したかというと、キリストと12人の使徒の全員が男性であることでしょう。
キリスト教会はほぼ完全といってもいいぐらいに男性支配の世界です。しかも同性愛嫌悪、LGBTQ嫌悪が強烈です。
ドラァグクイーンやわけのわからない男や女や子どもが並んでいたのは、そうしたキリスト教会を批判したものと思われます。

それだけにキリスト教会や信者の反発も強く、ジョリー芸術監督に対する殺害予告があったために検察当局が捜査していますし、出演したドラァグクイーンなどにもSNS上で中傷があったとして捜査しています。

ジョリー芸術監督は同性愛者であることを公表しています。
ですからこの対立は、多様性を否定するキリスト教勢力と多様性を肯定する左翼勢力との闘争と見ることができます。


右翼と宗教はきわめて近い関係で、アメリカの保守派はキリスト教勢力と変わりませんし、日本の保守派も国家神道や統一教会とつながっています。
開会式の演出はキリスト教批判だからけしからんという人は右翼ですし、グロテスクだからけしからんという人もほぼ右翼です。

フランス革命当時、議場の右側に座っていた勢力と左側に座っていた勢力との争いは今も続いていて、フランス革命はいまだ未完です。
バリ五輪開会式はそのことを浮き彫りにしました。

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