
滋賀医科大学の2人の男子学生が当時21歳の女子大学生に性的暴行をした罪に問われた裁判があり、大津地方裁判所は今年1月にそれぞれに懲役5年と懲役2年6か月の実刑判決を言い渡しました。
谷口真紀裁判長は「体格で勝る被告らが、複数人で暴行や脅迫を加えて繰り返し性的な行為に及んでいて、被害者の人格を踏みにじる卑劣で悪質な犯行だ。被害者の屈辱感や精神的苦痛は著しい」と指摘しました。
ところが12月18日、大阪高裁は大津地裁判決を破棄し、両被告に無罪を言い渡し、飯島健太郎裁判長は「女子大学生が同意していた疑いを払しょくできない」と述べました。
この逆転無罪判決に対して怒りの声が上がり、X上では「#飯島健太郎裁判長に抗議します」がトレンド入りし、「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します」というオンライン署名活動も行われました。
このときの性行為ではスマホによる動画撮影が行われていました。男2人と女1人で動画撮影が行われていたというだけで、異様な状況だということがわかります。
しかも、動画には女性が「やめてください」「絶対だめ」「嫌だ」と言っているのが映されていました。
しかし、判決では「拒否したとは言い切れない」とし、そもそも被告男性の家に入ったことを性的同意があったと見なしました。
いまだにこんな価値観があるのかと、信じられない思いです。
大津地裁の判決は女性裁判長でしたが、この大阪高裁の判決は男性裁判長だということが大きいでしょう。
それに、裁判官とか検察官は男女関係や親子関係についておかしな感覚の人が少なくありません。
大阪地検の元検事正・北川健太郎被告は「これでお前も俺の女だ」と言いながら部下の女性をレイプし、女性は「抵抗すると殺される」という恐怖を感じたそうです。
北川被告は初公判では容疑を認め、謝罪の言葉も口にしていましたが、その後否認に転じ、弁護士は「北川さんには、女性が抵抗できない状態だったとの認識はなく、同意があったと思っていた」と説明しました。
被害女性は記者会見で涙ながらの訴えをしましたが、北川被告には届かないようです。
2019年3月には、あまりにもひどいトンデモ判決があったので、私はこのブログで「裁判官を裁く」という記事で取り上げたことがあります。
その判決についてのNHKニュースを紹介します。
今回のケースでは、父親が当時19歳の実の娘に性的暴行をした罪に問われました。
裁判では、娘が同意していたかどうかや、娘が抵抗できない状態につけこんだかどうかが争われました。
ことし3月26日の判決で、名古屋地方裁判所岡崎支部の鵜飼祐充裁判長は娘が同意していなかったと認めました。
また、娘が中学2年生の頃から父親が性行為を繰り返し、拒んだら暴力を振るうなど立場を利用して性的虐待を続けていたことも認め「娘は抵抗する意思を奪われ、専門学校の学費の返済を求められていた負い目から精神的にも支配されていた」と指摘しました。
一方で、刑法の要件に基づいて「相手が抵抗できない状態につけこんだかどうか」を検討した結果、「娘と父親が強い支配による従属関係にあったとは言い難く、娘が、一時、弟らに相談して性的暴行を受けないような対策もしていたことなどから、心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」として無罪を言い渡しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/k10011914731000.html
論理的にもおかしいのは明らかです。 こういうひどい判決をなくしていくには、判決を出した裁判長個人を批判するしかないということを書きました。
ただ、当時は裁判官や検察官個人を批判するということはほとんど行われませんでした。
ですから、今回「#飯島健太郎裁判長に抗議します」というハッシュタグがトレンド入りしたのには時代の変化を感じます。
裁判官や検察官におかしな人が多いのには理由があります。
スポーツマンタイプという言葉があるように、スポーツ選手には活動的で陽気といった性格傾向があります。政治家や芸術家や学者などにもそれぞれ特徴的な性格傾向があり、これを社会的性格といいます。
法律家にも社会的性格があって、それは権威主義的パーソナリティであると考えられます。
権威主義的パーソナリティというのは、ウィキペディアによると「硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格(パーソナリティ)のこと」とされます。
つまり強者の側に立って弱者を攻撃する性格ということです。
裁判官や検察官というのは人を裁き罰する職業です。世の中には「人が人を裁くのはおかしい」と考える人もいて、そういう人は裁判官や検察官にはならないでしょう。ましてや日本では死刑制度があるのでなおさらです。
裁判官や検察官になるのは、人を裁き罰することが普通にできる人か、好んでする人です。
弁護士は人を裁くのではなく、どちらかというと人を助ける職業ですから、弁護士になるのはまた別のパーソナリティの人です。
このように職業によって性格の偏りがあり、それがおかしな判決の背景にあります。
性加害、つまりレイプをする男というのは、どうしてそういうことをする人間になったのでしょうか。
相手が拒否したり苦痛を感じたりしているのがわかっていて、そこに性的興奮を覚えるというのはかなり異常なパーソナリティです。
昔は強い性欲があるからレイプするのだと考えられていましたが、今は相手を支配し攻撃する快楽のためにレイプするのだと考えられています。つまり性欲の問題ではなくパーソナリティの問題だということです。
殺人などの凶悪犯の脳を調べると、脳に異常の見つかることが多いことは知られています。
性犯罪者の脳にも異常の見つかることが多いとされます。
問題は、脳の異常が生まれつきのものか、生まれたのちに生じたものかです。
生まれつきのものなら更生は困難ですし、そもそも罰することに意味があるのかということにもなります。
しかし、最近は幼児期に虐待されると脳が委縮・変形することがわかってきました。
そうすると、犯罪者に見られる脳の異常は、幼児期の被虐待経験によってもたらされたものもあるに違いありません。
ジョナサン・H. ピンカス著『脳が殺す』という本は、神経内科医が150人の凶悪な殺人犯と面談し、動機を詳しく調査した本です。
それによると、ある人間を凶悪犯に仕立てる真の動機は「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の三つが複合したものだということです。
少なくとも11人の犯罪者の成育歴と犯行の実際が詳しく書かれていますが、どの事例も犯罪者は幼児期にすさまじい虐待を受けています。これを読んだ印象では、「脳の損傷」というのは虐待によってもたらされたものではないかと思えます。
『脳が殺す』がアメリカで出版されたのは2001年のことで、当時はまだ被虐待経験が脳の損傷を生むという因果関係がはっきりしていなかったようです。今となっては「幼児期の虐待」と「脳の損傷」は同じものと見なしていいのではないでしょうか。
人が権威主義的パーソナリティになることにも幼児虐待が関係しています。
「子どもは親に従うべきだ」という権威主義的な親に育てられると、子どもは権威主義的パーソナリティになりやすくなります(反抗して逆方向に行ってしまう場合もありますが)。
親が子どもを力で支配し、きびしい叱責をしたり体罰をしたりしていると、その子どもが親になったときに自分の子どもに同じことをするだけでなく、恋人や配偶者にDVをする可能性がありますし、もし裁判官になればレイプやDVに甘い判決を書く可能性もあります。
虐待の影響はさまざまな形となって現れます。
たとえば人がなぜ変態性欲を持つようになるのかはよくわかっていませんが、少なくともサドマゾヒズムについては幼児体験が影響していることが考えられます。洋物のSMのポルノでは激しいむち打ちでみみずばれができるようなものがいっぱいありますが、日本のAVのSMものは縛りが主体で、むち打ちはつけ足しのような感じです。これは西洋では子どもに対するむち打ちが広く行われてきた影響でしょう。
ところが、司法の世界では幼児虐待がきわめて軽視されています。
日本でも凶悪犯はおしなべて幼児期に虐待を経験しています。
しかし、弁護側が被告の幼児期の虐待を説明して情状酌量を求めても、判決にはほとんど反映されません。
『脳が殺す』は犯罪の動機を「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の複合であるとしています。
ところが、日本の司法では(日本の司法に限りませんが)、「自由意志」を主な犯罪の動機と見なしています。
まったく非科学的な態度です。これでは犯罪対策も立てられませんし、更生プログラムもつくれません。
今の世の中の最大の問題は、家庭の中がブラックボックスになっていることです。
そこには「男女平等」もなければ「子どもの人権」もなく、虐待があっても隠されます。
そのため家庭の中で暴力や強権的支配が再生産され続け、そこから凶悪犯やレイプ犯やおかしな判決を書く裁判官が出てきます。
社会改革と同時に家庭改革を進めなければなりません。