村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2024年12月

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滋賀医科大学の2人の男子学生が当時21歳の女子大学生に性的暴行をした罪に問われた裁判があり、大津地方裁判所は今年1月にそれぞれに懲役5年と懲役2年6か月の実刑判決を言い渡しました。
谷口真紀裁判長は「体格で勝る被告らが、複数人で暴行や脅迫を加えて繰り返し性的な行為に及んでいて、被害者の人格を踏みにじる卑劣で悪質な犯行だ。被害者の屈辱感や精神的苦痛は著しい」と指摘しました。

ところが12月18日、大阪高裁は大津地裁判決を破棄し、両被告に無罪を言い渡し、飯島健太郎裁判長は「女子大学生が同意していた疑いを払しょくできない」と述べました。

この逆転無罪判決に対して怒りの声が上がり、X上では「#飯島健太郎裁判長に抗議します」がトレンド入りし、「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します」というオンライン署名活動も行われました。

このときの性行為ではスマホによる動画撮影が行われていました。男2人と女1人で動画撮影が行われていたというだけで、異様な状況だということがわかります。
しかも、動画には女性が「やめてください」「絶対だめ」「嫌だ」と言っているのが映されていました。
しかし、判決では「拒否したとは言い切れない」とし、そもそも被告男性の家に入ったことを性的同意があったと見なしました。

いまだにこんな価値観があるのかと、信じられない思いです。
大津地裁の判決は女性裁判長でしたが、この大阪高裁の判決は男性裁判長だということが大きいでしょう。
それに、裁判官とか検察官は男女関係や親子関係についておかしな感覚の人が少なくありません。


大阪地検の元検事正・北川健太郎被告は「これでお前も俺の女だ」と言いながら部下の女性をレイプし、女性は「抵抗すると殺される」という恐怖を感じたそうです。
北川被告は初公判では容疑を認め、謝罪の言葉も口にしていましたが、その後否認に転じ、弁護士は「北川さんには、女性が抵抗できない状態だったとの認識はなく、同意があったと思っていた」と説明しました。
被害女性は記者会見で涙ながらの訴えをしましたが、北川被告には届かないようです。


2019年3月には、あまりにもひどいトンデモ判決があったので、私はこのブログで「裁判官を裁く」という記事で取り上げたことがあります。
その判決についてのNHKニュースを紹介します。

今回のケースでは、父親が当時19歳の実の娘に性的暴行をした罪に問われました。
裁判では、娘が同意していたかどうかや、娘が抵抗できない状態につけこんだかどうかが争われました。
 
ことし3月26日の判決で、名古屋地方裁判所岡崎支部の鵜飼祐充裁判長は娘が同意していなかったと認めました。
また、娘が中学2年生の頃から父親が性行為を繰り返し、拒んだら暴力を振るうなど立場を利用して性的虐待を続けていたことも認め「娘は抵抗する意思を奪われ、専門学校の学費の返済を求められていた負い目から精神的にも支配されていた」と指摘しました。
 
一方で、刑法の要件に基づいて「相手が抵抗できない状態につけこんだかどうか」を検討した結果、「娘と父親が強い支配による従属関係にあったとは言い難く、娘が、一時、弟らに相談して性的暴行を受けないような対策もしていたことなどから、心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」として無罪を言い渡しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/k10011914731000.html


論理的にもおかしいのは明らかです。 こういうひどい判決をなくしていくには、判決を出した裁判長個人を批判するしかないということを書きました。
ただ、当時は裁判官や検察官個人を批判するということはほとんど行われませんでした。
ですから、今回「#飯島健太郎裁判長に抗議します」というハッシュタグがトレンド入りしたのには時代の変化を感じます。


裁判官や検察官におかしな人が多いのには理由があります。
スポーツマンタイプという言葉があるように、スポーツ選手には活動的で陽気といった性格傾向があります。政治家や芸術家や学者などにもそれぞれ特徴的な性格傾向があり、これを社会的性格といいます。
法律家にも社会的性格があって、それは権威主義的パーソナリティであると考えられます。
権威主義的パーソナリティというのは、ウィキペディアによると「硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格(パーソナリティ)のこと」とされます。
つまり強者の側に立って弱者を攻撃する性格ということです。
裁判官や検察官というのは人を裁き罰する職業です。世の中には「人が人を裁くのはおかしい」と考える人もいて、そういう人は裁判官や検察官にはならないでしょう。ましてや日本では死刑制度があるのでなおさらです。
裁判官や検察官になるのは、人を裁き罰することが普通にできる人か、好んでする人です。
弁護士は人を裁くのではなく、どちらかというと人を助ける職業ですから、弁護士になるのはまた別のパーソナリティの人です。
このように職業によって性格の偏りがあり、それがおかしな判決の背景にあります。


性加害、つまりレイプをする男というのは、どうしてそういうことをする人間になったのでしょうか。
相手が拒否したり苦痛を感じたりしているのがわかっていて、そこに性的興奮を覚えるというのはかなり異常なパーソナリティです。
昔は強い性欲があるからレイプするのだと考えられていましたが、今は相手を支配し攻撃する快楽のためにレイプするのだと考えられています。つまり性欲の問題ではなくパーソナリティの問題だということです。

殺人などの凶悪犯の脳を調べると、脳に異常の見つかることが多いことは知られています。
性犯罪者の脳にも異常の見つかることが多いとされます。
問題は、脳の異常が生まれつきのものか、生まれたのちに生じたものかです。
生まれつきのものなら更生は困難ですし、そもそも罰することに意味があるのかということにもなります。
しかし、最近は幼児期に虐待されると脳が委縮・変形することがわかってきました。
そうすると、犯罪者に見られる脳の異常は、幼児期の被虐待経験によってもたらされたものもあるに違いありません。

ジョナサン・H. ピンカス著『脳が殺す』という本は、神経内科医が150人の凶悪な殺人犯と面談し、動機を詳しく調査した本です。
それによると、ある人間を凶悪犯に仕立てる真の動機は「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の三つが複合したものだということです。
少なくとも11人の犯罪者の成育歴と犯行の実際が詳しく書かれていますが、どの事例も犯罪者は幼児期にすさまじい虐待を受けています。これを読んだ印象では、「脳の損傷」というのは虐待によってもたらされたものではないかと思えます。
『脳が殺す』がアメリカで出版されたのは2001年のことで、当時はまだ被虐待経験が脳の損傷を生むという因果関係がはっきりしていなかったようです。今となっては「幼児期の虐待」と「脳の損傷」は同じものと見なしていいのではないでしょうか。


人が権威主義的パーソナリティになることにも幼児虐待が関係しています。
「子どもは親に従うべきだ」という権威主義的な親に育てられると、子どもは権威主義的パーソナリティになりやすくなります(反抗して逆方向に行ってしまう場合もありますが)。
親が子どもを力で支配し、きびしい叱責をしたり体罰をしたりしていると、その子どもが親になったときに自分の子どもに同じことをするだけでなく、恋人や配偶者にDVをする可能性がありますし、もし裁判官になればレイプやDVに甘い判決を書く可能性もあります。

虐待の影響はさまざまな形となって現れます。
たとえば人がなぜ変態性欲を持つようになるのかはよくわかっていませんが、少なくともサドマゾヒズムについては幼児体験が影響していることが考えられます。洋物のSMのポルノでは激しいむち打ちでみみずばれができるようなものがいっぱいありますが、日本のAVのSMものは縛りが主体で、むち打ちはつけ足しのような感じです。これは西洋では子どもに対するむち打ちが広く行われてきた影響でしょう。


ところが、司法の世界では幼児虐待がきわめて軽視されています。
日本でも凶悪犯はおしなべて幼児期に虐待を経験しています。
しかし、弁護側が被告の幼児期の虐待を説明して情状酌量を求めても、判決にはほとんど反映されません。

『脳が殺す』は犯罪の動機を「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の複合であるとしています。
ところが、日本の司法では(日本の司法に限りませんが)、「自由意志」を主な犯罪の動機と見なしています。
まったく非科学的な態度です。これでは犯罪対策も立てられませんし、更生プログラムもつくれません。


今の世の中の最大の問題は、家庭の中がブラックボックスになっていることです。
そこには「男女平等」もなければ「子どもの人権」もなく、虐待があっても隠されます。
そのため家庭の中で暴力や強権的支配が再生産され続け、そこから凶悪犯やレイプ犯やおかしな判決を書く裁判官が出てきます。
社会改革と同時に家庭改革を進めなければなりません。

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「感動ポルノ」という言葉があります。
ウィキペディアによると「主に身体障害者が健常者に同情・感動をもたらすコンテンツとして消費されることを批判的に表した言葉」ということです。
障害者が努力して障害を乗り越えて困難な課題を達成するという感動的な物語が典型的な「感動ポルノ」です。
普通の障害者にそんな感動物語などめったにありませんから、「感動ポルノ」になるのは特殊なケースです。しかも、それはしばしば健常者を喜ばせるために脚色されています。

もともとのポルノは、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな表現」とされます。
たいていは男性向けなので、実際のセックスを描くのではなく、男性が興奮するようなセックスの描き方になっています。
たとえばモテない男がなぜだか美女とセックスする巡り合わせになり、その美女は男のテクニックとパワーに思いっきり興奮し、男のセックスのとりこになってしまうといった物語が典型です。
現実ではなく男の願望を描いたものです。

そこで私は考えたのですが、ハリウッド映画によくある、正義のヒーローが悪人をやっつける物語も、現実ではなく願望を描いたものですから、ポルノと呼んでもいいはずです。
これを「正義ポルノ」と名づけました。

正義のヒーローがギャングやテロリストをやっつけて、テロを防いだり人質を解放したりしてハッピーエンドになるというのが「正義ポルノ」の基本です。
正義のヒーローが悪人と戦うとき、敵が撃った銃弾が雨あられと降り注いでも、奇跡のように弾はヒーローに当たりませんし、爆発があっても奇跡のようにすり抜けます。
こうした映画の典型が1988年の「ダイ・ハード」(ジョン・マクティアナン監督)です。主演のブルース・ウィルスがたった一人で高層ビルを占拠した武装犯罪グループと戦い、やっつけますが、タイトル通りの不死身の活躍ぶりはスーパーマンやバットマンのような超人と同じで、もはやファンタジーの世界です。


こうした映画では、ヒーローが悪人を撃つと、悪人はあっさりと死にます。ときに崖やビルから落ちたり、爆発で吹き飛んだりしますが、みんなきれいに死んでくれます。
もしヒーローの撃った相手が血を流して苦痛でのたうち回ったのでは、観客は悪人をやっつける快感を味わうことができないので、必ずきれいに死ぬことになっています。

アメリカの戦争映画も同じ原理があると、町山智浩氏が「ビーチレッド戦記」(コーネル・ワイルド監督)の解説で言っていました。アメリカの映画業界では1934年から68年までヘイズ・コードといわれる自主検閲制度があって、人体がはっきりと破壊されるシーンを映すことが許されませんでした。体に弾が当たっても穴が空くだけで、血は流れなかったというのです。68年以降もそれほど変わらなくて、流血や腕がちぎれたりという本格的な残酷シーンが描かれたのはスピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」になってからだということです。
アメリカの戦争映画は派手な銃撃戦や爆発シーンに目を奪われてしまいますが、よく考えると人が死ぬシーンは「きれいな死」ばかりです。

ともかく、「正義ポルノ」は悪いやつをやっつける快感が最大になるようにつくられています。
「勧善懲悪」という言葉もありますが、ハリウッド映画には「勧善」の部分がないので、「正義ポルノ」という言い方が適切でしょう。

映画と現実は違うと考えるのが当たり前ですが、アメリカ人の場合、映画の中の「正義」は現実にも通用すると思っている節があります。


映画には必ず終わりがありますが、現実に終わりはありません。
「正義ポルノ」は悪いやつをやっつけてハッピーエンドになりますが、現実では、犯罪者をやっつけてもまた新しい犯罪者が現れますし、テロリストをやっつけてもまた新しいテロリストが現れます。
つまり犯罪者やテロリストの発生を防止することが根本的解決なのですが、「正義ポルノ」を見ていると、悪いやつをやっつけることで問題が解決したような錯覚に陥ってしまいます。

その結果、アメリカは犯罪防止ががまったくできず、犯罪は増大する一方です(ここ2、3年は減少傾向のようですが)。
それでもアメリカ人は「悪いやつをやっつける」というやり方を変えることができません。
トランプ氏などは不法移民が犯罪の原因だとして、不法移民をやっつけることに力を入れています。


日本でも正義のヒーローが悪人をカッコよくやっつける「正義ポルノ」は、「鞍馬天狗」や「月光仮面」や「水戸黄門」などいろいろありますが、アメリカほど盛んではありません。
こうした物語は登場人物が善人と悪人に単純に色分けされています。
現実の人間はそんなに単純に色分けできませんから、「正義ポルノ」と現実は別だと認識されてきました。

ところが、最近は日本でも悪いやつをやっつける快感が求められるようになってきました。
いちばん最初は小泉政権が郵政改革に反対する勢力を守旧派と決めつけて攻撃したことでしょう。これは当時「劇場型政治」と呼ばれましたが、その原理は「正義ポルノ」であったわけです。
この傾向はどんどん強まってきて、石丸伸二氏は安芸高田市で議会を既得権益層と決めつけ、既得権益層をやっつける正義のヒーローとなって人気を博しました。
兵庫県知事選では、内部告発して自殺した元県民局長を立花孝志氏が不同意性交等罪を犯していた悪人と決めつけ、その背後に既得権益層があるとし、斎藤元彦知事を悪と戦うヒーローに仕立て上げました。
国政では財務省を悪と決めつけるのがはやっています。

つまり「感動ポルノ」と現実の区別がなくなりつつあるのです。
なぜそうなるかというと、やはりインターネットの影響でしょう。
言葉というのは善か悪かというように物事を単純化しますから、ネットの議論は「正義ポルノ」のような単純な方向に流れます。


アメリカはもともと「正義ポルノ」と現実の区別があまりない国でしたが、最近はもっとひどくなっているようです。
12月4日、ニューヨークの路上で米医療保険大手ユナイテッドヘルスケアのブライアン・トンプソンCEOが射殺されるという事件がありました。犯人は背後からトンプソン氏に近づき、冷静に拳銃を3発撃ったということです。逮捕、起訴されたルイジ・マンジオーニ被告(26歳)は、裕福な家庭で育ち、ペンシルベニア大学でコンピューターサイエンスを学び、マスター課程を卒業しています。卒業後はIT業界で働いていましたが、背中の痛みが悪化、手術を受けてもよくならなかったようです。医療保険への不満が犯行の引き金になったと見られています。被告は今のところ黙秘しているようですが、3ページに及ぶ医療保険業界を批判する文書を持っていて、「これらの寄生虫は当然の報いを受けた」といった言葉があったそうです。
この事件以降、アメリカのSNSでは医療保険やヘルスケア業界への不満が噴出しました。その背景には医療費が高額すぎて医療が受けられない人や、医療保険が下りずに支払いができない人の存在があります。保険会社が保険金請求を拒否した件数は、22年から24年にかけて31%増えたそうです。保険金の請求1件当たりの処理に担当者が行う電話もしくは電子メールの回数は、2018年には平均16回だったのが、今では27回になったということです。
事件から2日後、ユナイテッドヘルスケアはSNS上でCEOを追悼しましたが、それに対する人々のリアクションは冷酷で、「笑顔」の絵文字が大半を占め(同社によりコメント欄は制限)、「9万人以上が絵文字で嘲笑」と報じられました。
そして、マンジオーニ被告を英雄視する声もありました。
まさにリアル「ジョーカー」です。

マンジオーニ被告は殺人犯ないしはテロリストですが、「正義ポルノ」の論理では、医療保険会社を悪と見なせば正義のヒーローになります。
これが「正義ポルノ」のだめなところです。
悪のレッテルの張り方ひとつで、犯罪者やテロリストが正義のヒーローになってしまうのです。

こういうことを避けるには、法律に基づいて悪のレッテルを張らなければなりません。これが法の支配ということです。
したがって、「正義ポルノ」というのは、リンチの肯定にほかなりません。正義のヒーローは法の裁きもないのに悪人をやっつけます。
リンチが横行したら社会の秩序は壊れます。

もっとも、アメリカでは開拓途上の西部ではリンチが横行し、奴隷解放後の黒人もリンチの標的になりましたから、リンチに親和性がある国です。銃規制に反対が多いのも、銃はリンチに必要だからです。

ハマスの最高指導者ヤヒヤ・シンワル氏がイスラエル軍によって殺害されたとき、バイデン大統領は「世界にとって良い日だ」という声明を出し、ハリス副大統領は「正義が果たされ、世界はより良くなった」とコメントしました。
完全に「正義ポルノ」の論理です。
トランプ氏が掲げる「アメリカ・ファースト」も、法の支配を無視しています。
アメリカ式「正義ポルノ」が世界を支配しないように注意しなければなりません。



人が「正義ポルノ」にひたって夢見てしまうのは、善悪、正義について根本的に考え違いをしているからです。
正しい考え方は「道徳観のコペルニクス的転回」で。

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(立花孝志氏の選挙ポスター)

兵庫県知事選で斎藤元彦知事が当選して以来、「オールドメディアの敗北」ということが言われます。
メディア同士が対決したわけではありませんが、新聞、テレビなどのオールドメディアは圧倒的に斎藤知事に批判的な論調でしたし、斎藤知事支持派がもっぱらSNSを活用したことで、メディア対決の格好になりました。
そして、SNSの影響力が想像以上に大きいことが示されました。
そのためネット民は勝ち誇り、テレビのキャスターなどは沈鬱な表情をするということがあったようですし、泉房穂元明石市長は「今回の民意を見て、私自身も反省するところ多く、お詫び申し上げたい」と斎藤知事に直接謝罪しました。

しかし、民意が正しいとは限りません。
私は選挙結果に納得がいかなかったので、有権者に大きな影響を与えたであろう立花孝志氏のYouTubeを見てみました。そうすると、なんの根拠もなしに斎藤知事のパワハラはなかった、おねだりはなかったと主張していて、こんなものを信じる人がいるのかと驚いて、「立花孝志氏のYouTubeに愕然」という記事を書きました。
その後、いろいろな事実がわかってきて、SNSを信じた人の愚かさがますます明白になってきています。


私は立花氏のYouTubeを見るとき、強い心理的抵抗がありました。立花氏の活動歴について多少の知識があれば、誰でもそうでしょう。まともに相手にする人物ではありません。
とくに去る7月の都知事選ではN国党として24人を立候補させ、掲示板の枠を売るというビジネスをして批判を浴びました。兵庫県知事選では、自分の当選を目的としない立候補をして、選挙ポスターには自分のことを「正義の人間です」などと書いていました。

立花氏は斎藤知事のパワハラ、おねだりやその他の不正はなかったと主張する一方、内部告発をした元県民局長が自殺したのは斎藤知事のパワハラが理由ではなく、「自殺した元県民局長は10年間で10人以上もの女性県職員と不適切な関係を結んでおり、不同意性交等罪が発覚することを恐れての自殺だと思われる」と選挙ポスターに書きました。立花氏は同じことを街頭演説やYouTubeでも言いました。
しかし、この時点ではなんの証拠も示していません。「公用パソコンの中にはおびただしい数の不倫の証拠写真が保存されており」と言いますが、言葉だけで、証拠写真は示されません。怪しい人間が怪しいことを言っているだけです。
にもかかわらず多くの県民が立花氏の言葉を信じて、SNSを通じて拡散させ、それが斎藤知事を当選させる力になりました。

はっきり言って、こんなことを信じるとは愚かとしかいいようがありません。
そういう人が「オールドメディアは嘘ばっかり」などと言って勝ち誇っていたのです。

立花氏は選挙が終わってから11月29日にXに「県民局長の公用パソコンを公開します!」と投稿して、フォルダが並んだパソコン画面をアップしましたが、フォルダの中身は公開しません。
ただ、フォルダの名称を見れば個人的な情報が入っているようです。立花氏は「公用パソコンに入っていればプライバシーでも公表してかまわない」という勝手な理屈を述べていました。
しかし、個人的なフォルダの更新の日付を見るとみな同じで、それは片山安孝副知事(当時)が元県民局長の公用パソコンを押収した日で、実はその日に私用USBメモリも押収したという話があります。つまり私用USBメモリの情報を公用パソコンに入れた可能性があるのです。

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結局、元県民局長の女性関係はどうだったのでしょうか。
「週刊文春」12月12日号の「立花孝志と対決した!」という立花氏のインタビュー記事から、要点を紹介します。

立花氏はパソコンの中身を見て、元県民局長とA子さんの不倫が同意であると確認できたと言いました。
ということは、「10人以上もの女性県職員と不適切な関係」や「不同意性交等罪」というのは憶測なのかと問われると、立花氏は「いやいや憶測じゃないですよ。(片山氏が)『複数』って言っていたし、僕に来た情報に『十人くらい』という説があったから。そこは全然問題ない。それに政見放送でも『十年で十人』と言ってしまったし、もう十人ってことでいいかなと。そこは尾ひれ背びれの細かい部分だからこだわりません」と言いました。
もともと「不同意性交等罪」というのは、十年で十人と不倫できるわけがないので、地位を利用してむりやり性交したのだろうという憶測だったのです。

公用パソコンの中身は週刊文春の記者も入手しており、「公用パソコンの中にはおびただしい数の不倫の証拠写真が保存されており」というのも間違いで、「A子写真館」というフォルダにはA子さんの証明写真が3枚入っているだけだったということです。
さらに、元県民局長とA子さんの不倫の根拠というのも、立花氏いわく「パソコンの中身を確認すると、二人が親密なメールのやりとりをしている」というだけのことなのです。

なお、 FRIDAYデジタルの『「元県民局長のPC公開」NHK党・立花孝志氏に透ける本心「バカな人たちをどう上手く利用するか」』という記事にはこう書かれています。
立花氏は元県民局長の不倫相手と指摘するT子(文春ではA子)さんの名前が付いたファイルの中身を公開した。確かにそこにはワードで書かれた文章があったのだ。“文章”なのだ。確かに生々しい描写がある文章だが、なにか“官能小説”のように見えてしまったのは私だけではないだろう。
こうなるとA子さんとの不倫すらあやしくなります。
元県民局長が自殺したのは、まったく個人的な恥ずかしい文章を暴露すると脅かされたせいではないでしょうか。


結局、立花氏の言っていたことはほとんどでたらめでした。
多くの有権者はそれにだまされてしまったのです。
選挙期間中はまだでたらめとはわかっていませんでしたが、確かであるという証拠もありません。それなのに立花氏のような怪しい人物の言うことを真に受けてしまったのです。

有権者がだまされたのには、三つほど理由が考えられます。

新聞、テレビなどのオールドメディアは、ちゃんと裏付けをとってから報道するので、基本的には信じられます。
しかし、SNSで個人が発する情報は、証拠が示されていない限り、あるいはよほど信用できる人物でない限り、みな不確かだと思わなければいけません。
これはネットを使うときの基本ですが、そういうメディアリテラシーのない人たちが意外とたくさんいたということです。
オールドメディアを批判する人はニューメディアを使いこなしているかというと、ぜんぜんそんなことはありませんでした。

それから、新聞、テレビは個人のプライバシーは報道しませんし、選挙期間中は特定の候補者を有利ないし不利にする報道はしません。
ところが、そのことを知らない人がやはり意外とたくさんいたようです。
元県民局長の公用パソコンの中身になにがあったかということは個人のプライバシーに関わるので報道しませんが、それを「マスコミが報道しないのは真実を隠すためだ」と誤解して、勝手に盛り上がっていました。

それから、新聞、テレビは横並びで一斉に同じことを報道する傾向があります。
たとえば斎藤知事の「おねだり」についての報道もそうでした。
こういう報道に対する不快感がオールドメディアに対する反発につながったかもしれません。
しかし、横並びで一斉にというのはむしろSNSのほうが強くて、しょっちゅうなにかの“お祭り”が起こっています。
そして、そうした“お祭り”は「正義」の意識と関係していることが多いものです。つまり「悪いやつをやっつける」というときに人は熱狂します。
立花氏は「正義か悪か」というキャッチコピーをつけて元県民局長、既得権益勢力、百条委員会の奥谷謙一委員長、マスコミを悪者に仕立てて盛り上げました。


そうして斎藤知事が当選したわけですが、斎藤知事は知事にふさわしいのでしょうか。
片山副知事は元県民局長が自殺した5日後に辞職を表明する記者会見を開きました。片山副知事は元県民局長のパソコンを押収し、その後もなにかの交渉をしていたはずで、自殺に対する責任を痛感したものと思われます。
会見のときに片山副知事は、斎藤知事に5回にわたり辞職を進言したが聞き入れられなかったと語りました。
斎藤知事は片山副知事と違って元県民局長の自殺に対する責任は感じなかったのでしょう。倫理観に問題のある人と思われます。
斎藤知事は、選挙戦のSNS戦略全般を担当したと称するPR会社の折田楓代表を冷酷にも切り捨てています。

立花氏はXの新しい動画でぬけぬけと「すみません。斎藤さんはパワハラしてました。僕の調べ不足でした」などと言っています。

斎藤知事の仕事ぶりを評価したという有権者もいたでしょう。
しかし、斎藤陣営は選挙中に「公約を98.8%着手・達成した」と言っていましたが、選挙後にオールドメディアは実際の達成率は27.7%だと報道しています。
選挙戦の中で斎藤陣営と立花陣営は連携していたという報道もあります。

嘘にまみれた選挙戦をやって、その責任を追及されてもごまかし続ける斎藤知事。
SNSに踊らされて斎藤知事を当選させた有権者の責任は大きいといわねばなりません。

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斎藤元彦兵庫県知事を巡る問題が連日ネットとワイドショーをにぎわしています。
おかげで裏金議員が喜んでいるということが「自民裏金議員は“斎藤騒動”の長期化を期待? 参院政倫審の開催目前、斎藤元彦知事を巡る公選法違反疑惑で霞む」という記事に書かれていました。
石破茂首相もすっかり影が薄くなって、話題になるのは、APECに出席したときトルドー首相と座ったまま握手したとか、習近平主席と握手するとき両手で握ったとか、おにぎりの食べ方がきたないとか、くだらないことばかりです。
もっとも、斎藤知事の問題もパワハラとか公選法違反といった、くだらないといえばくだらないことです。それに、あくまで兵庫県というローカルの問題です。
それなのに斎藤知事にこれほど話題が集中するのはどうしてでしょうか。

なによりも斎藤知事のキャラクターが際立っています。
内部告発文書でパワハラやおねだりが告発され、告発者が自殺するという事態になっても、テレビの前で表情ひとつ変えずに、告発文書は「誹謗中傷」「嘘八百」で、「告発者を処分したのは当然」と言い続けました。
失職して選挙で再選された直後に、公職選挙法違反の疑いがかけられると、今度は「公選法違反になるような事実はないと認識しています」とひたすら繰り返しました。
こういう態度から「鋼のメンタル」と言われます。

普通の人なら、なにか疑いをかけられて、自分でもやましい気持ちがあると、つい弁解してしまい、そのため墓穴を掘ってしまうものです。
そういう意味で、いっさい説明せず、否定の言葉だけ繰り返すというのはうまいやり方です。
もっとも、追及するほうはどんどん不満がたまっていくので、いつまでも追及が続きます。
それがこの問題が騒がれるひとつの理由です。

こういう状況は、安倍政権のときにモリカケ桜が追及されたときに似ています。
安倍首相は虚偽答弁や公文書偽造などを駆使する鉄壁の守りで追及をはねのけ続けましたが、そのためいつまでたっても問題が終わりませんでした。
菅政権も同じです。日本学術会議新会員任命拒否問題で、拒否した理由をいっさい説明せずに拒否を貫き続けました。
安倍首相とその路線を継承した菅首相は、強権的な体質を持っていて、いかにも権力者らしい権力者でした。
こういうタイプの政治家は、反発も受けますが、一方で支持もされます。
いや、むしろ支持する人のほうが多いでしょう。
誰でも強いものには憧れますし、弱いリーダーよりは強いリーダーにのほうがいいと思うからです。

強いリーダーの典型はヒトラーです。体はそんなに大きくありませんが、拳を振り上げながら激しい言葉で演説し、反対勢力は突撃隊を使って暴力で制圧し、党内の反対派も次々と粛清していきました。
このやり方は人を恐怖させますが、一方で人気も博して、権力を掌握するとともに圧倒的な人気となり、ドイツは国民すべてが「ハイル・ヒトラー」を叫ぶ個人崇拝国家になりました。

トランプ氏は体が大きく、威圧感があり、演説も得意ですが、暴言を吐きまくり、間違いを指摘されても絶対に訂正しません。
今後、権力を掌握し、強権を行使するとともにさらに人気が出るかもしれません。

安倍首相も体が大きく、党内も官僚も掌握し、新安保法制などでも反対を強引に押し切り、いかにも強い権力者でした。
菅首相は体が小さく、体格的な威圧感はありませんが、冷酷な人事で官僚を掌握し、一度決めたことは貫くことで権力者らしさを示しました。

安倍首相と菅首相は強権的なタイプでしたが、岸田首相はまったく違います。「聞く力」を発揮して、一度決めたことでも国民の反発が強いと見るとすぐに方針転換しました。
そのため野党やリベラルも攻撃の目標を失った感じで、その隙に防衛費GDP比2%を実現してしまいました。
石破首相はもともとタカ派で強権的なイメージでしたが、今は党内基盤が弱く、少数与党になったので、権力者らしいふるまいがまったくできません。

そういうところに久々に権力者らしい権力者として斎藤知事が登場したために、支持派と反対派が激突する展開となったわけです。
斎藤知事は菅首相と同じタイプで、体は細いですが、即座に告発者を処分するなど冷酷な人事で部下を支配していたと思われます。
パワハラがあったかなかったかは見解の分かれるところですが、斎藤知事本人もきびしい叱責をしたことは認めています。
いわばパワハラ体質で、この人の下では働きたくないと思えるような人です。


話は変わるようですが、松本人志氏が性加害で告発されたときも似た状況になりました。
松本氏は圧倒的な力で芸能界に君臨し、見た目もマッチョですし、安倍首相と会食するなど、実に権力者らしい権力者でした。
週刊文春が詳細な記事で告発している一方、松本氏は「事実無根なので闘いまーす」と言ったきりなにも発信しませんでした。
それでも松本擁護派がいっぱい出現して、にぎやかな論争になりました。
松本氏のようないかにも権力者らしい権力者には、やはり多くの支持者がつくものです。

ですから、斎藤知事に関しても、マスコミに圧倒的に批判されていたので表面化しませんでしたが、潜在的な支持者はかなりいたと思われます。
そこに立花孝志氏とPR会社の折田楓氏の活躍で潜在的支持者が掘り起こされたのです。

斎藤知事の問題に関しては、政策はほとんど関係ありません。
斎藤知事の対立候補であった稲村和美氏は、選挙戦の序盤は「極左」呼ばわりされていたが、終盤になると「既得権益の代表」みたいに言われたと語っています。
兵庫県民以外、選挙戦でどんな政策が争われたか知る人はほとんどいないでしょう。
パワハラ体質で、権力者らしい権力者である斎藤知事を見て、好ましく思う人と嫌う人がいる。それが対立の根源です。


ここで保守とリベラルの問題が出てきます。
斎藤知事を支持する人が保守で、支持しない人がリベラルです。

私はこのところ保守とリベラルを考察する記事を書いてきましたが、保守というのはホッブスの思想に起源を持ち、「人間性は悪、権力は善」というもので、リベラルというのはルソーの思想に起源を持ち、「人間性は善、権力は悪」というものです。
ですから、保守派にとっては斎藤知事のようなパワハラ体質の権力者はむしろ善で、内部告発者は悪ということになります。
リベラルにとっては、パワハラ体質の権力者は悪で、内部告発者は善です。
もちろん実際に判断するには事実を調べなければなりませんが、直観的な判断としてはそういうことになります。
そして、人間はおうおうにして自分の直観的な判断を補強するために“証拠”集めをして、最初の思い込みをさらに強化するものです。
そうして保守とリベラルの対立は泥沼化します。


この対立をなんとかするには権力について知らねばなりません。
ホッブスは権力をもっぱら国家権力としてとらえていました。
しかし、ミシェル・フーコーは「権力はあらゆる関係に存在する」と言いました。明らかにフーコーの思想が進んでいます。
人間は生まれてすぐ親と対峙します。親は子どもにしつけをし、教育します。これがすでに権力関係です。
男と女も権力関係ですし、先生と生徒、会社の上司と部下、先輩と後輩、実力のある者と実力のない者、気の強い者と気の弱い者、金持ちと貧乏人など、あらゆる人間関係に権力があります。
会社の部下は命令してくる上司に不満を持つものですが、上司も部下の働きに不満を持ちます。
ですから、権力関係には不満がつきもので、多くの人は不満をため込んでいます。

権力は上から下への一方通行ですが、民主主義は違います。下の者が投票によって上の者を支配することができます。そのためここに下の者の日ごろの不満が集中します。
しかし、権力者に肩入れする者もいるので、感情的な争いが勃発します。これが政治的対立の根源です。

なお、最近はセクハラ、パワハラ、性加害の告発が行われるようになり、これも下から上への権力行使ですから、ここでも感情的な争いが生じます。これは政治の世界の争いとほとんど同じです。

昔は若者は反権力で、年齢が行くと権力側になる、つまり保守化したものですが、最近は革新勢力が古くさくなって、そう単純なものではなくなりました。
ある人がなぜ保守になるのか、リベラルになるのかというのはむずかしい問題です。
人がサディストになったりマゾヒストになったり、あるいは脚フェチになったりおっぱいフェチになったりするのと近いものがあると思います。つまり生まれてからのさまざまな経験によって決定されるのです。


しかし、保守とリベラルとどちらが正しいかというと、リベラルだということができます。
もともと人間は多くて150人程度の共同体で暮らしていました。それが人間にとっての自然な生活です。
ところが、人間は強大な国家をつくり上げました。これは人間の自然に反します。
保守はこの国家をさらに強大にしようというものなので、人間はますます自然に反した生活を強いられることになります。
今後は国家権力を解体して、共同体のよさを取り戻す方向へと舵を切るべきです。




私は最近、保守とリベラルについて「保守とリベラルはどちらが正しいのか」「リベラルはなぜ負けたのか」というふたつの記事を書いて、それを踏まえて今回の記事があるので、前の記事も参考にしてください。
斎藤元彦知事については「立花孝志氏のYouTubeに愕然」という記事も書いています。
また、私は「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっているので、それもぜひお読みください。

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