村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2025年01月

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石破茂首相は1月24日の施政方針演説において、「楽しい日本」を目指すという基本方針を述べました。
聞くだけで脱力してしまいます。
演説ではこう言っています。
 故・堺屋太一先生の著書によれば、我が国は、明治維新の中央集権国家体制において「強い日本」を目指し、戦後の復興や高度経済成長の下で「豊かな日本」を目指しました。そして、これからは「楽しい日本」を目指すべきだと述べられております。
 私はこの考え方に共感するところであり、かつて国家が主導した「強い日本」、企業が主導した「豊かな日本」、加えてこれからは一人一人が主導する「楽しい日本」を目指していきたいと考えております。

具体的になにをするかというと、石破首相は『「楽しい日本」を実現するための政策の核心は、「地方創生2.0」です』と言いました。
なぜ「地方創生」をすれば「楽しい日本」が実現するのか意味不明です。
やはり脱力するしかありません。

ただ、「豊かな日本」を目指すことから「楽しい日本」を目指すことにシフトするべきだという堺屋太一氏の説は傾聴に値します。
というか、「豊かな日本」が実現不可能なら「楽しい日本」を目指すしかないわけです。

今、経済問題で議論されているのは「103万円の壁」とか「減税」といったことで、つまり「分配」の問題です。ということは、もうすでに多くの日本人は無意識のうちに経済成長を諦めているのです。
2024年の出生数は69万人程度となる見通しで、23年の72万7277人からさらに減少しました。少子化の流れも止められません。

経済成長が不可能だとしたら、「貧しくても幸せ」ということを目指すしかありません。
貧しくても「世界一幸せな国」といわれたブータンという国もあります。
世帯収入で沖縄県は全国で最低ですが、幸福度ランキングで沖縄県はずっと全国1位です。
つまり「貧しくても幸せ」ということは十分ありうるのです。

もっとも、石破首相はそういう意味で「楽しい日本」という目標を掲げたわけではありませんし、経済成長を諦めたわけでもありません。

「成長はすべてをいやす」という言葉があって、これまでは成長至上主義でやってきました。
成長のためには労働力人口が増えないといけないので、成長政策と少子化対策の二本立てでした。
そのため「国民の幸福度向上」という肝心のことが忘れられていたのです。
経済成長が困難に直面している今、「楽しい日本」ないし「幸せな日本」を考えるのは当然です。


現在の日本人の幸福度はどうなっているのでしょうか。
世界幸福度調査(World Happiness Report)の結果に基づき国連の持続可能開発ソリューションネットワーク(SDSN)が発表する「世界幸福度ランキング」というのがあります。2024年3月発表の結果によると、143か国中で日本は51位で、前年の47位から順位を下げました。先進国にしては低いといわねばなりません。
ただ、この調査はアジアの国の幸福度が低く出る傾向があるように思えます。

そこで、国ごとの自殺率を見てみます。
日本は自殺率の高さで世界5位で、G7の中ではトップです。

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平均寿命が長く、治安もよく、そこそこの福祉もある国で、自殺率が高いというのは、やはり国民の幸福度が低いからだといわねばなりません。

しかし、「国民の幸福度を上げる」というのは漠然としていて、どうすればいいかよくわからないでしょう。
そこで「子どもの幸福度」に注目してみます。
ユニセフ調査の「先進国の子どもの幸福度」によると、日本は38か国中、総合幸福度では20位ですが、分野別で見ると、身体的健康は 1 位でありながら精神的幸福度は 37 位と極端な違いがあります。つまり日本の子どもは、衣食住は十分足りて体はきわめて健康なのに、精神的にはきわめて不幸だということです。
15~24歳の自殺率は、日本が先進国でワーストワンです。
2024年の文科省調査によると、いじめの認知件数は732,568件(対前年で50,620件増)で、過去最高でした。
日本の子どもは世界で一番目か二番目ぐらいに不幸だといえるでしょう。

子どもの不幸の原因は家庭と学校にあるに決まっていますから、改善するのは容易です。
とりあえずバカげた校則を全部なくすだけでもぜんぜん違うはずです。
子どもには勉強の負担があるのですから、それ以外は好きなことをすることがたいせつです。習いごとも子どもがやりたいことをやるべきです。
また、学校の運営はすべて子どもの意見を聞きながら進めることです。
そうすれば「楽しい学校」ができます。

なお、教師の過重労働とか、心を病む教師が多いとか、教員志望者がへっているとか、教師についてさまざまな問題がありますが、根本的な問題として、教師の主な仕事が子どもの「管理」になっていることがあるのではないでしょうか。
自分の仕事が子どもの笑顔につながっているという実感があれば、教師はやりがいのある職業になります。


家庭の問題はそれぞれ違うので、学校のように簡単にはいきません。
最近は体罰はよくないという認識が広がって、身体的虐待はへってきましたが、心理的虐待はまだまだあります。
最近「教育虐待」という言葉も出てきましたが、これも心理的虐待の一種です。
心理的虐待は、やっている親が自覚していない場合がほとんどですが、国がキャンペーンを行うことなどで自覚をうながすことができます。
体罰がへってきたのも、厚労省の「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンの効果があったからでもあります。

ACジャパンは教育虐待についてのテレビCM を放映しています。



ところが、このCMについて『お受験界隈が中居正広に激怒!? ACの「教育虐待」CMに一部で批判が殺到している理由』という記事が、親から反発の声が上がっているということを伝えています。
「子どもは自分の意志で夢に向かって勉強を頑張っているのに」とか「今は中学受験のたいせつなときなのに」といった声です。
教育虐待をしている親が自分の非を認めず、逆にCMを非難するというのは十分にありうることです。
そのとき、メディアがその声に同調する形で伝えるか、批判的に伝えるかが問題です。
この記事は同調する形で伝えていますが、批判的に伝える記事が多くなれば、親の考え方も変わるでしょう。

「楽しい学校」と「楽しい家庭」ができれば、「楽しい日本」ももうすぐです。


学校のあり方は社会のあり方に直接に影響します。
ネットで横行する誹謗中傷は学校でのいじめと同じようなものです。
たとえば回転寿司店で醤油差しをペロペロとなめた少年が大バッシングを受けるということがありました。その行為の影響は微々たるものですし、そもそも過去の動画でしたから、少年を非難してもなにも得るところがありません。少年は高校を中退し、さらに寿司店が少年に損害賠償請求をしたというニュースがあると、快哉を叫ぶ人たちがいっぱいいました。学校でいじめられたことの仕返しをしている心理でしょうか。

バイト店員が悪ふざけをした動画を投稿し、それが炎上して、「バイトテロ」と呼ばれることもありました。若者が悪ふざけをするのは当たり前のことですし、無視しておいてなんの問題もありません。その行為を批判しても、また別の悪ふざけをする若者が出てくるだけです。これは「バイトテロ」ではなく「ネットリンチ」ないし「ネットいじめ」と呼ぶべきです。

最近も女性医師がグアムでの研修の際に、解剖する遺体の前でピースサインをする写真を投稿して炎上するということがありました。遺体は献体されたものであり、倫理的に問題ある行為だと指摘されましたが、これも悪ふざけで、しかもなんの実害もありません。放置しておけばいいことです。女性医師と所属クリニックを非難した人は、単に人を非難したいだけです。

このようなネット上の炎上や誹謗中傷は自殺者を生むこともあります。
炎上を避けるためにSNSに投稿する際には細心の注意を払わねばならず、心理的負担がたいへんです。


学校教育の影響とばかりはいえませんが、日本ではルール違反やマナー違反への風当たりが年々強くなっています。
それによって一見よい社会になったようですが、各人は窮屈な生き方を強いられています。
つまり「楽しい日本」とは逆方向に進んでいるのです。
「楽しい日本」を実現するには、「寛容」とか「いい加減」といった価値を見直す必要があります。


人間の幸福感には、家族や共同体の親密な人間関係が大きな要素を占めています。
貧しい途上国の幸福度が意外と高いことや、沖縄県の幸福度が高いことも、それで説明できます。
ですから、幸福度を上げるには家族や共同体の絆を回復するということも目指さなければなりませんが、これは難しい課題なので、ここではとても論じられません。

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アメリカでトランプ氏の大統領再選に伴ってバックラッシュ(反動)の動きが強まっています。
そのひとつが多様性目標の見直しです。

たとえばアメリカのマクドナルド社は、少なくとも片方の親がヒスパニックかラテン系であることを条件に大学生に最高10万ドル(約1500万円)を支給するという奨学金制度を設けていました。これが保守系団体から他人種への差別に当たるとして提訴され、そのこともあってかマクドナルド社は今月、多様性目標に関する方針を見直すと発表しました。

「多様性の実現」は、国連総会で採択されたSDGsの重要な柱です。
今は多様性(ダイバーシティ)、公平性(エクイティ)、包括性(インクルージョン)をまとめて「DEI」という言葉もよく使われます。
多様性実現を目指すやり方のひとつにクオーター制があります。男性の国会議員が多い場合、女性議員の比率を増やすとか、大学入学者に有色人種の比率を増やすといったやり方です。
しかし、これはものごとの原因はそのままにして結果だけ変えようとするようなものです。
マクドナルドのやり方も保守派につけ込まれるところがあったのではないでしょうか。


そもそも現実とは多様なものです。
たとえば人体を構成する細胞の数は37兆個とされ、一人の人体には100兆個を越える数の微生物が存在するとされます。
人間はそんなことは認識できません。つまり多様な現実の一部しか認識していないのです。
顕微鏡を使うことで微生物の存在が認識できるようになり、望遠鏡を使うことで月の表面に地球と同じように山や谷があることがわかり、地動説の正しいことが明らかになりました。
今では観測衛星とコンピュータを駆使することで複雑な気候の変化がかなり正確に予測できるようになっています。
とはいえ、人間に認識できる多様性は世界の多様性のごくごく一部にすぎません。

そして、人間は言葉を使って世界を認識するということをします。ここに問題があります。
人間は「宇宙」とか「太陽系」という言葉をつくることで認識を広げました。
さらに「神」や「神話」という虚構をつくることで人々は国家のような大きな集団をつくり、文明を発達させてきたとされます。このことは「認知革命」と呼ばれ、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』によって広く知られるところとなりました。

ここでは虚構の問題は関係ないので置いておき、現実と言葉の問題について述べます。

言葉で表現できるのは多様な現実のごく一部です。
たとえば「灰色」という言葉はひとつですが、実際の灰色は黒に近いものから白に近いものまで多様です。これを表現するには、グラデーションを数値で表現するというやり方しかなく、話し言葉では限界があります。
「虹色」は日本では七色ということになっていますが、実際の虹に色と色の境界はないので、国によって色の数は違います。ちなみにLGBTQを象徴する旗としてレインボー・フラッグがパレードなどで使われますが、これは六色になっています。
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つまり言葉は「ある」か「ない」か、「白」か「黒」かみたいな単純な表現になりがちで、「灰色」にあるような多様性はうまく表現できません。
人間の性のあり方は多様ですが、言葉は実質的に「男」と「女」しかなく、その中間の人は表現できませんでした。「白」と「黒」があって「灰色」がないみたいなものです。LGBTQという言葉ができることで性の多様性の認識が少し進んだといえます。

人間の能力は多様で、これは言葉ではとうてい表現できません。しかし、表現しないわけにいかないので、大卒か高卒かとか、東大卒か三流大卒かとか、偏差値がいくらとか、単純化して表現することになります。
単純化すると重要なことがこぼれ落ちるので、ここにひとつ問題があります。
しかし、それよりももっと大きな問題があります。
それは「黒人は(白人より)能力が低い」というような偏見です。
多数の黒人をひとまとめにして一律に能力評価をするというのはむちゃくちゃですが、それがまさに偏見です。
あまりにも非論理的なのではっきりと口に出して言われることはまずありませんが、この認識は広く存在して、社会のあり方を規定しています。
「女性は(男性より)能力が低い」というのも同じです。
マイノリティの存在を無視するというのもやはり偏見です。
こうした偏見によって、もともとあった多様性が社会から消し去られてきました。

ですから、「多様性の実現」を目指すなら、偏見を消去することです。そうすれば、おのずと多様性が出現します。

ところが今は、偏見をそのままにして「多様性の実現」を目指そうとしています。
「偏見」に「多様性」を上書きすれば「偏見」がなくなると考えているようです。

しかし、そうはいきません。
「差別はよくない」というのは知識や理念として脳の表層に植えつけられたものなのに、偏見は幼児期から親や身近な人間の行動を見て学習したものなので、こちらのほうが強いからです。
いくら「多様性」を上書きしても、「偏見」は消えることはなく、個人は矛盾を抱え込みます。
矛盾を解消するために「偏見」を消すよりも「多様性」を消そうとする人のほうが多かったために、今回のバックラッシュが起きてしまったのでしょう。

ですから、偏見と戦って、これに打ち勝たないと、差別解消も多様性の実現もできません。
リベラルにはそういう戦う姿勢が欠けていたのではないでしょうか。
国連の目標も、きれいごとばかりが並んでいて、偏見や差別と戦うという姿勢が見られません。
そもそも「多様性」というのはもともとあるものですから、「多様性の実現」という目標がおかしなものです。
「差別・偏見の解消」を目標にしたほうがわかりやすかったでしょう。

ポリティカル・コレクトネスといって“言葉狩り”をしてきたのも同じ誤りでした。
言葉は表層にあるもので、問題は深層にある差別意識だからです。


差別と戦うには、ひとつは差別が歴史的にどう形成されたかを知ることです。
人種差別は、少なくとも古代ギリシャ・ローマ時代に周辺民族をバルバロイと呼んだことまでさかのぼれます。周辺民族を奴隷にし、植民地支配するためには、周辺民族は自分たちより劣等だと見なす必要がありました。これが人種差別です。これは近代の奴隷制と植民地支配の中でさらに強化されました。
現在、ヨーロッパで移民排斥運動が強まっていて、これをフランスやドイツの国内問題であるかのように報道されていますが、グローバルに見ると白人の人種差別運動が強まっているということです。

もうひとつは、個人の偏見がどう形成されるかを知ることです。
たとえば性差別は、幼児期に両親の関係を見て学習します。人種差別も、親や身近な人が黒人にどう接したかを見て学習します。ですから、こうした偏見をなくすには、家族関係の見直しが不可欠です。

リベラルは、歴史問題や家族関係の見直しという根本的な問題から逃げて、「多様性の実現」という表面的な成果を求めたために、結局保守派の反撃を受けてしまいました。

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中居正広氏が女性トラブルで解決金9000万円を支払ったことが明らかとなり、ほぼ芸能界から追放された状態となりました。
松本人志氏と似ています。

中居氏と松本氏は、最近では「まつもtoなかい」という番組で共演していましたが、最初の本格的な共演は、2000年の日本テレビ系「伝説の教師」という松本氏原案の学園ドラマでした。
これは松本氏と中居氏のダブル主演で、セリフの多くがアドリブであるというのが売りでしたから、そのころから二人は気心が通じ合っていたのでしょう。

週刊文春によると、中居氏は松本氏主催のホテルのスイートルームでの飲み会にも参加していたということです。
2015年9月、東京・六本木にあるグランドハイアット東京のゲストルーム「グランドエグゼクティブスイートキング」。取材班は、その日、お笑いコンビ「スピードワゴン」の小沢一敬やダウンタウンの松本人志と女性4人を交えた「部屋飲み」が行われたことを確認している。

 1泊約30万円の最高級のスイートルームには、松本、小沢の他、放送作家、そして中居の姿があった。

「週刊文春」取材班が、中居に対し飲み会について尋ねると、代理人を通じて次のように認めるのだった。

「その時期、その場所で女性と会食したことはあります」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7409512d7963602bbba7b55e79e8ef4fc18dead7

松本氏と中居氏は“上納友だち”だったようです。少なくとも中居氏は松本氏の行動を見て、やり方を学んだはずです。
そして、自分も同じように女性を“上納”させたのでしょう。
松本氏は後輩芸人を使って上納させましたが、中居氏はテレビ局の人間を使って女子アナを上納させたわけです。
芸能界のツートップが同じことをしていたのです。


スキャンダルへの対処法は、松本氏と中居氏では一見すると対照的です。
松本氏は最初に「事実無根なので闘いまーす」と言い、5億5000万円の損害賠償を求める裁判を起こすという強気の態度に出ました。
その後、和解して謝罪したようなふりをしましたが、「事実無根」という基本線は維持しているようです。

一方、中居氏は9000万円という巨額の解決金(示談金)を支払いました。
この時点では水面下のことでしたが、解決金を払ったという報道が出ると、中居氏は「お詫び」と題する声明文を出して、「トラブルがあったことは事実です」「今回のトラブルはすべて私の至らなさによるものであります」として、自分の非を認めました。

しかし、根本的なところで中居氏は松本氏と同様に反省していないのではないかと思われます。

中居氏の声明文に「なお、示談が成立したことにより、今後の芸能活動についても支障なく続けられることになりました」というくだりがあって、ここに批判が集中しました。
これは正しくは「示談が成立したことにより、今後の芸能活動について相手さまから異議が表明されることはありません」とするところです。つい自分の願望をまぎれこませてしまったのです。

私がそれよりも気になったのは、「このトラブルにおいて、一部報道にあるような手を上げる等の暴力は一切ございません」という部分です。
松本氏が訴えを取り下げることを表明したときの文章に「強制性の有無を直接に示す物的証拠はないこと等を含めて確認いたしました」とあるのと似ています。
何年も前のホテルの一室内の出来事に「物的証拠」がないのは当たり前のことで、それをわざわざ書いたところに松本氏の自己正当性を訴えたい気持ちが現れています。
中居氏の「手を上げる等の暴力は一切ございません」もそれと同じです。

男はほとんどの場合女よりも力が強いので、男は女を威圧するだけで、暴力をふるわなくても暴力をふるったのと同じ効果を得ることができます。
中居氏の場合、テレビ局に対して圧倒的な力があるので、女性がテレビ局の社員であれば、なおさら暴力をふるう必要はありません。
ですから、「暴力は一切ございません」というのはほとんど無意味で、自己正当性を訴えたいだけの言葉です。


松本氏はテレビ界への復帰が絶望的になり、「ダウンタウンチャンネル(仮称)」なるものを始めるようです。
なぜテレビ界への復帰が絶望的かというと、松本氏は性加害を否定していますが、世の中の人はそれに納得していないからです。
松本氏の性加害については週刊文春やその他のメディアが詳しく報道していますが、松本氏からは「事実無根なので闘いまーす」と「とうとう出たね」ぐらいしか発信していません。
松本氏は記者会見などて自分の言葉で語って世の中を納得させなければなりませんが、相手方との合意に基づく守秘義務があるということで、それはしません。
なぜ松本氏がそんな守秘義務を受け入れたかというと、性加害があったので、しゃべるとボロが出るからでしょう。
松本氏に性加害はなかったと思っているのは、松本氏の言うことを盲目的に信じる松本信者だけです。



では、中居氏はどうかというと、トラブルがあったことは認めて、「今回のトラブルはすべて私の至らなさによるものであります」とコメントしていますが、それだけです。
「先方との解決に伴う守秘義務がある」としているので、今後も反省の弁を述べることはなさそうです。
松本氏と同じやり方です。
しかし、こちらのほうが問題は深刻です。
というのは、こちらは刑事事件になるべき問題だからです(松本氏の件は時効の壁があって刑事事件にするのは困難でした)。

被害者についてはかなりわかってきています。
フジテレビアナウンサーの渡邊渚氏は、2023年7月ごろ体調を崩して入院したと報道され、その後PTSDを発症していたとか、フジテレビを退社したとかいう報道がありました。どれも小さな扱いのニュースでしたが、憧れて入社したはずのフジテレビをPTSDで退社するというのは尋常なことではないので(渡邊氏は2020年の入社)、どんなことがあったのだろうかと気になりました。
そうしたところ、中居氏がトラブルで9000万円を払った相手が渡邊氏ではないかという報道があり、疑問が氷解しました。
もっとも、被害女性が渡邊氏だと確定したわけではありませんが、まず確実だと思えます。

週刊文春の記事では被害女性を「X子」と表記しています(「A氏」というのは「フジテレビの編成幹部」)。
X子さんの知人が打ち明ける。

「あの日、X子は中居さん、A氏を含めた大人数で食事をしようと誘われていました。多忙な日々に疲弊していた彼女は乗り気ではなかったのですが、『Aさんに言われたからには断れないよね』と、参加することにしたのです」

 なぜなら、X子さんにとってA氏は仕事上の決定権を握る、いわば上位の立場にあった。そして、悪夢のような出来事が起こる。

「飲み会の直前になって彼女と中居さんを除く全員が、なんとドタキャン。結局、密室で2人きりにさせられ、意に沿わない性的行為を受けた。『A氏に仕組まれた』と感じた彼女は、翌日、女性を含む3名のフジ幹部に“被害”を訴えているのです」(同前)

 その頃、芸能関係者が利用するフジテレビ内の更衣室では、異様な光景が目撃されている。

「彼女が鍵のかかった個室に入った後、室内からすすり泣く声が漏れていた。人前では気丈に振る舞っていましたが、彼女のメンタルの不調は、誰が見ても明らかでした」(フジ関係者)
https://bunshun.jp/articles/76186?page=2

これはどう考えても「不同意性交等罪」であると考えられます。今は親告罪ではないので、警察が捜査に入ってもおかしくありません。
とすると、9000万円という巨額の解決金が支払われたのもわかります。
慰謝料などではなく、被害者を口止めして事件をもみ消すためのお金だったのです。

フジテレビは、フジテレビ社員が中居氏と女性を引き合わせたとする報道について「内容については事実でないことが含まれており、記事中にある食事会に関しても、当該社員は会の設定を含め一切関与しておりません。 会の存在自体も認識しておらず、当日、突然欠席した事実もございません」と否定しています。
中居氏も「お詫び」と題する声明文で「このトラブルについては、当事者以外の者の関与といった事実はございません」と否定しています。
そうすると、中居氏と被害女性(渡邊氏)が互いに連絡を取り合って会食したということになり、まったく話が変わってきます。
これはやはりフジテレビと中居氏が口裏を合わせているとしか思えません。
今後の報道によってはフジテレビは大ピンチになります。


中居氏も松本氏も被害女性との間で話をつければ芸能界に復帰できると思ったのかもしれませんが、そうはいきません。世の中の多数の人が納得する必要があります。
中居氏も松本氏も主にバラエティ番組で活躍する人間です。
バラエティ番組では、恋愛話が大きなウエイトを占めますし、「飲み会」だの「ホテル」だのという言葉も出てきます。そんなときに気まずい雰囲気になったのでは、バラエティ番組が成立しません。
そういう意味で松本氏は徹底的に謝罪して反省の態度を示すべきでした。

中居氏はどうすればいいのか、よくわかりません。
ありのままを話して反省の態度を示すと、罪に問われる可能性がありますし、フジテレビも巻き込んでしまいます。
芸能界引退しかないのかなと思います。


なお、渡邊渚氏は近くフォトエッセイを出版するということで、かなり元気になられたようです。
犯罪行為があったなら告発するべきだと考える人もいるかもしれませんが、中居氏を有罪にしたところでなにもいいことはないので、渡邊氏の判断は批判されるべきではありません。

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2024年でいちばん大きな出来事は、トランプ氏の米大統領再選だったでしょう。
トランプ氏はタイム誌の「今年の人」にも選ばれています。

トランプ氏については、戦争を止めて世界を平和にしてくれると期待する向きもありますが、「アメリカ・ファースト」はアメリカの利己主義ですから、必然的に世界は利己主義と利己主義のぶつかり合いになります。現にトランプ氏は大統領就任前からもうすでにカナダ、メキシコ、パナマ、グリーンランドと軋轢を生んでいます。

トランプ氏のような政治家が人気になる現象は世界中で見られます。
いちばん最初はフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ元大統領です。トランプ氏が一期目の当選をした2016年にドゥテルテ氏もフィリピンの大統領選に立候補し、その主張がトランプ氏に似ていることから「フィリピンのトランプ」と呼ばれました。ドゥテルテ氏が主に訴えたのは犯罪対策ですが、そのやり方は人権上問題があると指摘されると、「人権に関する法律など忘れてしまえ。私が大統領になった暁には市長時代と同じようにやる。麻薬密売人や強盗、それから怠け者共、お前らは逃げた方がいい。市長として私はお前らのような連中を殺してきたんだ」と言いました。
2019年にイギリス首相に就任したボリス・ジョンソン氏も暴言を連発する人なので、「イギリスのトランプ」と呼ばれました。
チェコのアンドレイ・バビシュ前首相も反移民政策を掲げて「チェコのトランプ」と呼ばれましたし、
ブラジルのジャイル・ボルソナロ前大統領は「ブラジルのトランプ」と呼ばれ、アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領は「アルゼンチンのトランプ」と呼ばれています。

彼らは要するにポピュリズムが生んだポピュリスト政治家です。
その主張には移民排斥、強硬な犯罪対策、人権軽視、環境問題軽視といった傾向があり、暴言、差別発言を平気でするという特徴があります。
こうしたポピュリスト政治家が表に出てきたのは、インターネットあるいはSNSのおかげです。いわゆるオールドメディアは差別発言をする政治家を排除してきました。

去年、兵庫県知事選で再選された斎藤元彦知事や都知事選で旋風を巻き起こした石丸伸二氏は、きわめて攻撃的な言動をする政治家で、SNSによって人気になったということでは「ミニ・トランプ」ともいえるポピュリスト政治家です。


日本ではこうした政治家の人気をきっかけに「オールドメディアの敗北」ということがいわれました。
しかし、ニューメディアによって形成された民意はひどいものでした。
兵庫県知事選の場合、立花孝志氏の根拠の定かでない主張を信じる人が大勢いて、それが斎藤知事当選の原動力になりました。
新聞、テレビ局の情報はある程度信用できますが、SNS、掲示板の情報は基本的に信用できないので、必ずソースを確かめないといけないという常識すらない人が大勢いたのです。

匿名で情報発信のできるインターネットの世界はもともと差別、デマ、誹謗中傷の吹き荒れる世界でしたが、昔の人はそのことを前提として参加していました。それに、PCを持ってネットに書き込みのできる人は少数派でしたから、学歴もある程度高かったといえます。
しかし、スマホの普及でネット人口が爆発的に増えて、今ではネット民は国民平均とほとんど同じです。
では、SNSで形成される民意は国民の平均的な民意と見なしていいかというと、そんなことはありません。

オールドメディアは、事実の報道には裏付けを求めますし、差別語は排除し、個人のプライバシーも尊重します。つまり情報の質の低下に一定の歯止めがあります。
しかし、SNSにそうした歯止めはほとんどないので、虚実入り混じった情報があふれています。
そうした情報に触れると、人は真偽を見きわめるという厄介な作業をするよりも、心地よい情報を選択したくなります。
そして、一度ある種の情報を選択すると、SNSのプラットフォームはそれに類似する情報を提供するように仕組まれているので、いっそう深くその種の心地よい情報にはまっていくことになります。


人間が心地よく思う情報には一定の傾向があります。
ひとつは「単純化された情報」です。
『サピエンス全史』を書いた歴史家のユヴァル・ノア・ハラリは、人類は複雑な現実を単純に説明する「物語」をつくって、集団で共有することで文明を発展させてきたといいます。
ネットでもそういう「物語」を語れる人がネットの世論をリードします。専門家は複雑な現実を複雑なまま語ろうとするので、ほとんど無視されます。

それから、人に好まれるのは「不満のはけ口を教えてくれる情報」です。
人々は日常生活の中で不満をため込んで生きているので、どこかでそれを吐き出したいと思っています。そこに悪徳政治家とか、不倫芸能人とか、車内のマナーが悪い乗客とか、家事育児を手伝わない夫とかの情報が与えられると、ネットで書き込みをして攻撃するか、書き込みはしなくても心の中で彼らをバカにして、溜飲を下げることができます。

「単純化された情報」と「不満のはけ口を教えてくれる情報」の組み合わせは最強です。
複雑な政治の世界を既得権益層対改革派の対立というふうに単純化し、既得権益層を悪者として攻撃すると多くの人を引きつけることができます。

陰謀論というのも基本的に「単純化された情報」と「不満のはけ口を教えてくれる情報」から成っています。
世の中に解決困難なさまざまな問題があるのはディープステートが陰で政府を支配しているからだという説は、きわめて単純ですし、攻撃すべき対象も示されます。
コロナワクチンを打つべきかどうかというのもむずかしい問題ですが、ワクチンに関する陰謀論は単純に説明してくれ、製薬会社などの悪者も示してくれます。

それから好まれるのは「利己主義を肯定してくれる情報」です。
人間は誰でも利己主義者ですが、他人と協調するためにつねに自分の利己主義を抑えて生活しています。
ナショナリズム、つまり「自国ファースト」の考え方は、国家規模の利己主義ですが、国内で主張する分には声高に主張しても許されるので、日ごろ抑えつけた利己主義をナショナリズムとして吐き出すと気持ちがすっきりします。
また、地球環境のために温室効果ガス排出削減をしなければならないとされていますが、経済のことを考えれば削減なんかしたくない。そこで、地球温暖化だの気候変動などはフェイクだという情報に飛びつきます。ポピュリスト政治家はおしなべて地球環境問題を軽視します。

SNS内の論調はナショナリズムが優勢で、ポピュリスト政治家はみな右派、保守派です。
これは実は深刻な問題です。
ナショナリズム、自国ファーストは最終的に戦争につながるからです。
ですから、SNSにはびこるナショナリズム、自国ファーストはきびしく批判されなければなりません。


ところが、日本では兵庫県知事選で斎藤知事が再選されたとき、テレビのキャスターなどは反省の態度を示していました。
反応があべこべです。
民主主義においては「民意」は絶対だという誤解があるのでしょうか。
しかし、民意は間違うことがありますし、とりわけいい加減な情報があふれるSNSではおかしな民意が形勢されがちです。
ニューメディアを批判することはオールドメディアの重要な役割です。

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