村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2025年02月

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トランプ氏が米大統領に就任して1か月と少しがたちましたが、トランプ氏とイーロン・マスク氏は目まぐるしく政策を打ち出し、物議をかもす発言を連発しています。
トランプ氏とマスク氏にはいろいろと批判はありますが、活動量の多さが常人の域を超えていることは認めなければなりません。

ただ、気になる情報もあります。
マスク氏は麻酔薬でうつ病治療にも用いられるケタミンを医師に処方してもらって常用しています。
うつ病治療薬ということは気分をハイにするものでしょう。彼にうつ病らしいところはまったくなく、むしろ万年躁病みたいですが、ケタミンのせいかもしれません。

ともかく、トランプ政権は次々となにかやらかすので、こちらの頭が混乱してしまいます。
そこで、トランプ政権のやっていることを整理してみました。

トランプ氏は就任演説で「常識の革命」と言いました。
意味不明の言葉なので、ほとんど無視されていますが、トランプ大統領のやっていることの多くは「常識」という言葉でとらえられます。
ただ、一般の人にとっては「昔の常識」です。
「今の常識」を打ち壊して「昔の常識」をよみがえらせることがトランプ氏の「常識の革命」です。


トランプ氏は「ガザ地区から住民を全員移住させてガザ地区はアメリカが所有する」と発言し、世界中の顰蹙を買いました。
これはイスラエル建国のときにアラブ人を追放した「ナクバ」と同じだという声が上がりました。
しかし、トランプ氏としては「ナクバ」という意識はなく、インディアンとの戦いで勝利したあと、生き残ったインディアンを居留地に移住させて、その土地にアメリカ人が入植したのと同じことを提案しただけです。
つまりそれがアメリカにとっての「常識」というわけです。

トランプ氏は「パナマ運河を取り戻す」と発言し、その際に軍事力行使の可能性も否定しませんでした。
むちゃくちゃな発言のようですが、トランプ氏にとっては「常識」です。
パナマは1903年にコロンビアから独立しましたが、そのときの憲法ではパナマ運河地帯の主権はアメリカに認めるという規定がありました。しかし、ナショナリズムの高まりによりパナマ政府はカーター政権と条約を結び、1979年に運河地帯の主権を獲得しました。
ですから、アメリカが運河を所有するのは「古い常識」なのです。

なお、アメリカは1989年、パナマに軍事侵攻し(麻薬犯罪対策と米国人保護が名目)、ノリエガ大統領を逮捕し、アメリカに連行して裁判にかけました(有罪となり刑務所で服役)。
私はアメリカが小国といえども他国の国家元首を逮捕して自国の裁判にかけたことにびっくりしましたが、当時の国際社会ではほとんど問題にされませんでした。
中南米は「アメリカの裏庭」というのが当時の「常識」だったからです。

トランプ氏はグリーンランド購入も主張しています。
この話も今に始まったことではありません。
1867年にアメリカがロシアからアラスカを購入した当時の国務長官ウィリアム・H・スワードは、次にグリーンランド購入も画策しました。グリーンランドを購入すれば、アラスカとグリーンランドの中間にあるカナダもアメリカのものにならざるをえないだろうとも指摘しています。

トランプ氏の主張はすべて「昔の常識」なのです。
ですから、保守派の人の共感を呼びます。


トランプ氏は「昔の常識」を復活させるとともに「正義」も利用しています。
トランプ氏は不法移民を犯罪者呼ばわりし、麻薬に関してメキシコ、カナダ、中国を非難しています。
また、ハマス、ヒズボラ、イランなどを敵視しています。
正義のヒーローが活躍するハリウッド映画には必ず「悪役」が存在します。悪いやつをやっつける「正義の快感」を描くのがこれらの映画の「常識」です。
トランプ氏も手ごろな「悪役」を仕立てて、それを攻撃することでアメリカ国民に「正義の快感」を味わわせています。

トランプ氏とマスク氏は連邦政府職員を次々とクビにしています。
トランプ氏がかつて司会を務めていたテレビ番組「アプレンティス」でトランプ氏が発する決めぜりふは「お前はクビだ!」でした。
無能な者や怠け者に対して「お前はクビだ!」と言うのは快感です。
トランプ支持者は今その快感を味わっています。

しかし、映画には終わりがありますが、現実に終わりはありません。
悪いやつをやっつけて「正義の快感」を味わっても、そのあと事態がよくなるとは限りません。
政府職員の仕事は、単純なものもありますが、高度に専門的なものも多く、誰をクビにするかは簡単には決められません。
トランプ政権が目先の快感を追求していると、やがてしっぺ返しを食らうでしょう。


トランプ大統領の基本方針はもちろん「アメリカ・ファースト」です。
これはアメリカ人にとってはよいことであっても、世界にとっては不利益でしかありません。
今、世界はアメリカ・ファーストのアメリカにどう対処するか困惑しているところです。

アメリカ・ファーストに対してジャパン・ファーストで立ち向かうというのはだめです。利己主義と利己主義がぶつかると力のあるほうが勝つからです。
利己主義には「法の支配」を掲げて対抗するのが正しいやり方です。
日本一国ではだめですから、世界でトランプ包囲網をつくれるかどうかが今後の課題です。


ただ、トランプ氏は単純なアメリカ・ファーストではありません。
アメリカ・ファースト以上に「自分ファースト」だからです。
そのためにトランプ氏の外交はひじょうにわかりにくいものになっています。

トランプ氏はウクライナ戦争について、明らかにロシア寄りで停戦交渉をしようとしています。
アメリカはロシアに対して経済制裁をやり尽くして、もはやカードが残っていません。
そうすると停戦交渉をまとめるにはウクライナに譲歩させるしかありません。
トランプ氏が停戦交渉をまとめたいのは自分の手柄になるからです。

トランプ氏は他国にいろいろなことを要求し、関税をかけたりしていますが、中国にはまだきびしいことはしていません。
中国は手ごわいからです。
弱い国を相手にして早く成果を挙げようという考えです。

トランプ氏がほんとうにアメリカ・ファーストを考えるなら、アメリカが覇権国であり続けるように中国やロシアを抑え込まなければなりません。
それには同盟国との信頼関係を深め、途上国に援助して味方につけることです(ときにはCIAを使って反米政権を転覆します)。
ところがトランプ氏は同盟国にきびしい要求をつきつけ、主に途上国援助をしていたUSAIDの解体をいい、CIAの人員削減を進めています。
まるで覇権国でいることを諦めたみたいです。
NATO諸国もトランプ氏とプーチン氏の接近ぶりを見て、トランプ氏に距離を置き始めています。

トランプ氏は性格的に、他国に援助してアメリカの味方を増やすということができません。早急に成果を求めます。
そのため、本人は意図していないかもしれませんが、アメリカは覇権国の地位を失っていくでしょう。


トランプ氏はウクライナに対してレアアースの権益を要求していましたが、さらに「アメリカはウクライナに3500億ドル(約52兆円)支出したので、それに見合うものが、石油でもレアアースでもなんでもいいからほしい」と発言しました。
しかし、これまでにアメリカの議会が計上した支援予算は約1830億ドル(約27兆円)だということで、いつもながらトランプ氏の言うことはでたらめです。

それにしても、支援した分を取り返すというのはいかにもドライな、トランプ氏らしい発想です。
この調子では、もし日本周辺で戦争が起きて米兵が死亡したら、戦争の経費はもちろん死者一人あたりいくら払えといった要求を日本に突きつけてくるかもしれません。

日本はつねにアメリカとの信頼関係を重視してきましたが、トランプ氏との間に信頼関係を築こうとするのは八百屋で魚を求めるみたいなものです。
世界に法の支配を確立するにはどうすればいいかを考えるよい機会です。

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「失われた30年」で日本から失われたものは経済力だけではありません。
科学技術力は経済力以上に失われました。
科学技術の注目論文の数で日本は世界ランキングを落とし続けています。

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日本の科学技術力低下の原因として指摘されるのは、科学技術振興予算が少ないことです。
国の経済が成長しないと予算も増えないのは当然です。
しかし、科学技術力は経済力以上に衰退しています。これはどうしてでしょうか。

2004年に国立大学が法人化されました。それを契機に日本の科学技術力は低下し始めました。これは論文数の推移を見ても明らかです。

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国立大学法人化とはどういうものなのでしょう。
中屋敷均神戸大学大学院農学研究科教授の『日本の科学研究が衰退している「2つの理由」』から一部を引用します。

大学という現場にいると、この10年に限らず、2004年の国立大学法人化以降、研究環境は悪化の一途をたどっているというのが実感である。この期間に起こった変化の一つは、大学への競争原理、つまり淘汰圧の導入である。

以前の大学は、贅沢を言わなければ、大学から支給される研究費だけで、細々とではあってもなんとか研究を続けることができた。しかし、大学の法人化以降、「選択と集中」の掛け声の下に改革が進み、それが難しくなっている。運営費交付金と呼ばれる国からの基本給のようなお金がどんどん減り、営業成績に準じたボーナスのような競争的資金と言われる予算が増えた。

運営費交付金の大部分は、職員の給与やその他、大学運営に必須な部分に使われており、結局減らされたのは教員の研究費である。その代わりに競争的資金による研究費を増やすことで、やる気のある研究者は、競争に勝ち抜いて自分でお金を稼ぎなさいというのが政府の思想である。

雇用の形態も競争的になった。特に若い研究者を中心に雇用が任期付きになり、若手研究者は社会的に不安定な身分となってしまった。成果を出し続けないと、任期が切れた際に次の職がない。

大学教員は身分が安定しているので、ろくに研究もしない者がいるという批判が昔からありました。
毎年同じ講義をする教員がいるなどということもよくいわれます。
文科省としては、競争原理を導入することで研究者に仕事をさせようとしたのでしょう。

人を働かせるときに有効だと信じられている方法は、よく働いた者には昇給やボーナスで報い、働きの悪かった者には減給や降格で報いるというものです。つまり賞と罰、アメとムチで働かせるというやり方です。
このやり方は社会の基本となっています。
しかし、このやり方はどんな場合でも有効なわけではありません。むしろマイナスになることがあります。


心理学者のエドワード・L・デシは1970年代の初めにある心理実験を行いました。学生をふたつのグループに分け、どちらにもソマというパズルを解いてもらいます。ソマというのは、ルービックキューブを簡単にしたようなもので、知恵の輪に近いともいえます。デシ自身もソマにはまったことがあるそうです。ひとつのグループには、ソマのパズルがひとつ解けるごとに1ドルの報酬が与えられ、もうひとつのグループには報酬は与えられません。
30分パズルを解いたところで実験の監督者は実験の終了を告げ、なにをしてもいいのでしばらく部屋で待機しているように言います。部屋には雑誌などが置かれています。そうすると、報酬をもらっていたグループは、雑誌を読む者が多く、パズルを解き続ける者は少数でした。報酬のなかったグループは、多くの者がパズルを解き続けました。

パズルはもともとおもしろいものですから、報酬がなくてもやる人間がいるのは当然です。
ところが、報酬をもらった人間は、あまりおもしろさを感じなくなるようなのです。
この報酬のマイナス効果は、最初は心理学者にもあまり信じられなかったそうですが、デシは何度も実験を繰り返して、その結果「外的報酬の悪影響」(アンダーマイング効果)があることを明らかにしました。

アメとムチによる「外発的動機づけ」は、実は「内発的動機づけ」を阻害してしまいます。
内発的動機づけとはなにかというと、
・「よい仕事ができた」という喜び
・「よい仕事をしてくれた」と感謝される喜び
・前よりもよい仕事ができるようになったという成長の喜び
といったものです。
「やりがい」とか「働きがい」というとわかりやすいかもしれません(これに当たる言葉は外国にないという説があります)。
デシはその著書の中で「外から動機づけられるよりも自分で自分を動機づけるほうが、創造性、責任感、健康な行動、変化の持続性といった点で優れていたのである」と書いています。


内発的動機づけを高める上でたいせつなのは「自律性」です。つまり自分のことを自分でコントロールしているという感覚です。
アメとムチによる動機づけがだめなのは、他人にコントロールされているという感覚になるからです。
セールスマンが売り上げに応じて歩合給を得るというのはマイナスになりません。他人にコントロールされていないからです。

もっとも、単純作業の仕事というのは内発的動機づけがむずかしいとされます。
ピラミッドをつくる奴隷は、王の墓をつくりたいという動機がないので、文字通りムチによって働かせるしかありません。

『Humankind 希望の歴史 』(ルトガー・ブレグマン著)という本には、内発的動機づけの経営で成功したオランダの在宅ケア組織「ビュートゾルフ」が紹介されています。介護という仕事は、人を相手にする仕事で、直接感謝もされるので、比較的やりがいを感じやすい仕事だといえるでしょう。

もっぱら内発的動機づけによって仕事をしているのが芸術家です。芸術家にアメとムチで仕事をさせようとすると、かえって仕事の質が低下するでしょう。
利益を度外視して仕事をするような“こだわりの職人”も似たようなものです。


では、科学者はどうでしょうか。
科学者が研究をする動機はおそらく、真理を探究したいとか、人類の進歩に貢献したいとか、科学史に名前を刻みたいとか、世間から賞賛されたいといったことでしょう。
つまりもともと高い内発的動機づけがされているのです。
独創的な発想もそこから出てくるのでしょう。
そこにアメとムチで外発的動機づけを行うことにしたのが文科省です。


研究者は、研究計画書を提出して承認されなければなりませんが、これまではかなりいい加減であったようです。
それが厳密化されて、研究計画書を書くのに時間がかかって研究時間が少なくなるという弊害が生じています。

ちなみに2021年のノーベル物理学賞に選ばれた真鍋淑郎氏は、日本生まれで東大卒ですが、アメリカに渡って気象をコンピュータによって解析する研究をし、現在は国籍を日本からアメリカに変更しています。
真鍋氏は受賞の記者会見で「私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありません」と発言し、日本の研究者をざわつかせました。

ともかく、研究計画が承認されるか否かが重大問題になり、また身分も不安定になったので、研究者は内発的動機づけが困難になりました。
それが日本の科学技術力が低下した大きな原因です。

なお、アメとムチによる動機づけは、怠けている研究者には有効でしょうが、価値ある研究成果を出しそうな優秀でやる気のある研究者にはマイナスでしかありません。


文科省はなぜこのような“改革”をしたのでしょうか。
自民党は新自由主義の政党なので、新自由主義の競争原理と成果主義を科学技術政策にも持ち込んだのでしょう。
大学法人化が失敗だということが明らかになっても改めようとしないのは、イデオロギーに固執しているからです。

さらに、自民党は科学者や学者に敵意を持っているようです。
それは日本学術会議に対する態度を見ればわかります。
科学者へのリスペクトのない政治家が国を治めては科学技術力が低下するのは当然です。


(内発的動機づけについてわかりやすく解説しているサイトはこちら)
「内発的動機付けとは|具体例をわかりやすく解説」

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ジャニー喜多川氏による性加害を告発した被害者の人たちは、「なぜそのときに声を上げなかったのか」「警察に被害届を出せ」「売名行為だ」「金目当てだ」などと誹謗中傷にさらされました。
最近では元フジテレビアナウンサーの渡邊渚氏がPTSDを公表したところ、「PTSDなのにパリ五輪観戦に行けるのか」「PTSDを利用している」「自己顕示欲の塊だ」などと、やはり誹謗中傷にさらされました(渡邊氏のPTSDの原因が性加害であるとは公表されていませんが、誰もが知っていることではあります)。

性加害の被害者が声を上げると、決まって批判する人が大勢現れます。昔はそうして被害者の声は封じられました(ジャニー喜多川氏を告発する声も数年前まで封じられていました)。最近少しずつ声を上げられるようになってきたというところです。
しかし、最近のアメリカでは、トランプ氏の当選もあってバックラッシュ(反動)の動きが強まっています。日本もそれに影響されて、昔に戻ってしまわないとも限りません。

ここで性加害が心理学によって「発見」されてからの歴史を振り返ってみたいと思います。発見されてからも一本道ではなく、少なくとも二度のバックラッシュがありました。
なお、性加害でいちばん深刻なのは、実の親による子どもへの性的虐待です。性加害発見の歴史は子どもへの性的虐待の発見の歴史であり、さらには幼児虐待発見の歴史でもあります。ですから、性的なことでなくても、自分の親は毒親だったという悩みをかかえている人などにも参考になるはずです。


性加害、性的虐待を最初に発見したのはジグムント・フロイトです。
フロイトは1856年、オーストリアに毛織物商人の息子として生まれました。フロイトの伝記を読んでも、彼が親から虐待されたという記述はありませんが、当時の子育ての常識からして虐待されていないはずがありません。少なくとも彼が権威主義的な父親との葛藤を抱えていたことは、彼の生き方や学説から十分にうかがえます。
フロイトはウィーン大学を卒業するとパリに留学して、神経学者ジャン=マルタン・シャルコーに師事してヒステリーの研究に取り組みました。
当時、ヒステリーの女性は詐病者であるとされ、治療は催眠術師や民間治療者にゆだねられていましたが、シャルコーはヒステリーの症状を注意深く観察し、記述し、分類しました。シャルコーの科学的な研究は医学界のみならず広く有名になり、彼のヒステリー研究の発表会には上流階級の名士が多数集まったといいます。
シャルコーのヒステリー研究がそれほど注目された背景には、1859年に出版された『種の起源』の影響がありました。進化論の影響で人間を科学的に研究しなければならないという機運が高まっていたのです。

シャルコーのもとには各国の俊秀が集っていて、その中にフロイトとともにピエール・ジャネがいました。この二人は、ヒステリーの原因を解明するにはヒステリー患者を観察しても分類してもだめで、患者たちと語り合わなければならないと考え、患者との話し合いに力を入れました。
フランスのジャネとウィーンのフロイトは、それぞれ独立に同じような結論に到達しました。耐えがたい外傷的な出来事が一種の変性意識を生み、この変性意識がヒステリー症状を生んでいるというものです。外傷的記憶とそれに伴う強烈な感情とをとり戻させ、それを言語化させればヒステリー症状は軽快するという治療法が、現代の精神療法の基礎となりました。

フロイトは1895年、ヨーゼフ・ブロイアーとの共著で『ヒステリー研究』を出版し、研究成果を発表しました。しかし、共著では十分に自説を展開できなかったので、翌年フロイトは単著で『ヒステリー病因論』を出版し、自分の扱った18の症例すべてにおいて子ども時代に性的暴行の体験があったと記しました。
18の症例というのは、男性6名、女性12名で、フロイトはそれを三つのグループに分けました。第一のグループは、見知らぬおとなの男性から、多くは女の子に対して加えられる一回きりの、あるいは何回かにわたる性加害です。第二のグループは、子どもたちの世話をするおとなたち――たとえば子守り女、乳母、住み込みの女家庭教師、先生、近しい親戚の人など――が、子どもたちと性的交渉を持ち、ときには数年にわたって続けるものです。第三のグループは、子どもだけの関係、多くは兄妹の間の性的関係です。これはしばしば思春期を過ぎるころまで継続されます。

第二のグループで「近しい親戚の人」とあるのは、実際は実の父親でした。フロイトはそれではあまりにも衝撃的なので、「父親」を「叔父」などに置き換えたのです。
しかし、そんなことをしても普通の家庭の子どもたちが性的な被害にあっているというのは十分に衝撃的で、当時の人々にはとうてい受け入れられるものではありませんでした。

フロイトは世の中の強い反発に直面して、すぐに自説を捨て去りました。
『ヒステリー病因論』を出版した翌年に、患者の語ったことはすべて患者の幻想だったとしたのです。そして、患者はなぜそういう幻想を持つに至ったのかという理論を考え出しました。それがエディプス・コンプレックスを中心とするフロイト心理学です。
性加害を認めれば心理療法はきわめて単純ですが、性加害を否定したばかりにフロイト心理学はきわめて複雑になりました。

フロイト心理学では、幼い男の子には性的欲求があり、母親に対する近親相姦願望を持つとされます。そうすると男の子と父親は母親を巡るライバル関係となり、父親は男の子を脅し、男の子は去勢されるのではないかという不安を持ちます。この複雑な心理がエディプス・コンプレックスです。
まったく奇妙な理論ですが、要するに男の子に母子相姦願望という大きな罪があるので、父親が男の子に暴力的なしつけをすることが正当化されます。つまりこれは親による幼児虐待を正当化する理論なのです。

普通の家庭(精神科医の治療を受けるのはある程度上流の家庭でした)で幼児の性的虐待が行われているというおぞましい事実は誰もが認めたくありません。フロイトがその主張を貫いていたとすれば、心理学者としては社会的に葬り去られていたでしょう。フロイトが自説を引っ込めたのは、自分自身のためでもありました。
フロイトのライバルだったジャネは、幼児期の心的外傷がヒステリーの原因であるという説を生涯捨てませんでした。その結果、彼は、『心的外傷と回復』(ジュディス・L.ハーマン著)の文章を借りると、「自分の業績が忘却され自分の発見が無視されるのを生きながらにして見る羽目となった」ということです。
師のシャルコーも、あれだけ評価されたヒステリー研究が次第に冷たい視線にさらされるようになり、ヒステリーと催眠の世界から手を引いてしまいました。最晩年にはこの研究領域を開拓したこと悔やんでいたといいます。
一時はもてはやされたヒステリーの科学的研究が、潮が引くように無視されるようになったのは、ダーウィン革命の熱気が時とともに冷めてしまったからではないかと思われます。


幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトの四つに分けられます。
当時のオーストリアでは、親がムチを使って子どもをきびしくしつけること、つまり身体的虐待は当たり前のことでした。
フロイトは性的虐待を隠蔽するとともに、身体的虐待、心理的虐待の正当化をはかったのです。
これによってフロイト心理学は一般社会に受け入れられ、フロイトは次第に偉大な心理学者として認められていきました。
しかし、フロイトの“転向”によって心理療法は少なくとも50年の遅れを余儀なくされました。


フロイト心理学の精神分析では、患者はなかなか治りません。
患者が親に虐待された記憶を回復し、分析医に苦痛を訴えても、分析医はその記憶は幻想だと思わせようとするからです。
しかし、臨床の現場では個々の分析医や心理療法家が真実を見いだしていきました。
精神分析医だったアーサー・ヤノフは、あるとき若い患者が心の奥底からの異様な叫び声を発したことに衝撃を受け、そのことから幼いときに親から傷つけられた体験が神経症の原因になっていることを突き止め、「原初療法」を創始しました。ジョン・レノンとオノ・ヨーコも原初療法のカウンセリングを受けたことで知られています。
心理学者で精神分析家のアリス・ミラーも、幼児虐待が神経症の原因になっていることに気づき、西洋社会に広がっている、子どもをきびしくしつける教育法を「闇教育」として告発しました。ミラーの著書の題名である「魂の殺人」という言葉は、性的虐待を指す言葉として使われています。

現在、カウンセリングと称するものの多くは、カール・ロジャーズ創始の「来談者中心療法」を採用しています。来談者中心療法というのは、カウンセラーは来談者の話をよく聞き、受容し、共感するというものです。カウンセラーは来談者の話を評価したり解釈したりすることはせず、生き方を指示することもしません。そんなことで治るのかと疑問に思う人もいるでしょうが、人間はもともと自分で自分を治す力を持っているので、悩みを人に理解してもらい、共感してもらうだけで治るという理論です。
そうして来談者の話を聞いていれば、当然親から虐待されたという話も出てきます(その話を受容できるかどうかでカウンセラーの力量が試されます)。

最近では「毒親」や「アダルトチルドレン」や「愛着障害」という言葉が普通に語られるようになり、親子関係にゆがみのあることが広く認識されてきました。
ジャニー喜多川氏の性加害が告発されたのもその流れです。ジャニー喜多川氏が若いタレントに性加害をしたのは、親が子どもに性的虐待をしたのとほとんど同じです。


アメリカでは1980年代から、性的虐待の記憶を取り戻した人たちが加害者――多くは父親――を告発し、裁判に持ち込む事例が相次ぎました。性的虐待は多くは家庭内のことであり、かつ昔のことであるので、ほとんどの場合、明白な証拠はありません。困難な裁判にならざるをえないので、日本なら訴えるのをためらうところですが、そこは訴訟大国のアメリカです。フェミニスト団体やセラピストが被害者の訴訟を支援するという動きもありました。

こうした動きに危機感を抱いたのが保守派です。
保守派は、夫が妻を支配し、親が子を支配するという家父長制の家族を理想としています。
普通の家庭の中に性的虐待があるということが明らかになると、理想の家族像が崩壊してしまいます。

保守派は性的虐待の訴訟を起こした人たちへの反撃を始めました。その主役を演じたのが心理学者のエリザベス・ロフタスです。
ロフタスは記憶に関する専門家で、目撃証言の確かさや不確かさについて法廷で数百回も証言してきたといいます。性的虐待を告発する裁判が増えるとともに、ロフタスのもとに、幼児期の性的虐待の記憶の確かさについて、とりわけカウンセリングによって回復されたという幼児期の性的虐待の記憶の確かさについての問い合わせが急増しました。ロフタスは性的虐待の専門家ではないので、どう対応するか困惑し、そこで注目したのがアメリカ心理学会の年次大会で行われたエモリー大学の精神医学の教授であるジョージ・ガナウェイの「悪魔儀式による虐待の記憶に関する、もうひとつの仮説」という講演です。ロフタスはガナウェイに影響され、カウンセラーが偽の記憶を患者に植えつけた可能性があると考えました。ちなみにガナウェイはフロイト派の心理学者です。

ロフタスは被験者に偽の記憶を植えつける心理実験をしました。
18歳から53歳までの24人の被験者それぞれに、四つの出来事が書かれた冊子が渡されます。三つの出来事は、被験者の家族や親戚から聞いた、被験者が5歳のころに実際にあった出来事です。あとのひとつは、ショッピングセンターか広い施設などで迷子になり、泣いていると老婦人に助けられ、最終的に家族と再会できたという架空の出来事です。被験者はこの四つの出来事について思い出したことを書くように言われます。その後、二度面接を行い、被験者がどの程度思い出したかを確かめました。
その結果、25%、四人に一人に架空の出来事の記憶を植えつけることができたとしました。

ショッピングセンターで迷子になったことと、父親にレイプされたことではあまりにも違いますが、ともかく四人に一人とはいえ偽の記憶を植えつけることが可能だと立証されたことは、裁判においては武器になりました。保守派はこの武器を手にして逆襲に転じました。「偽りの記憶症候群」という言葉がつくられ、「偽りの記憶症候群基金(FMS基金)」なる団体が組織され、寄付が集められて、被告の法廷闘争を理論面と資金面から支援しました。そして、金目当てや家族制度の解体をねらう左翼思想のカウンセラーが被暗示性の高い神経症の患者に対して催眠や薬物を使って巧妙に偽の記憶を植えつけたと主張したのです。
マスメディアは最初のうちは、性的虐待の加害者に批判的な報道をしていましたが、「偽りの記憶」の可能性が出てからは一転して「子ども時代の性的虐待に関する根拠のない告発により多くの家族が引き裂かれている」「カウンセラーがヒステリーを作りだしている」というように、カウンセラーを悪者と見なす報道をするようになりました。
つまりバックラッシュが起こったのです。裁判は性的虐待で訴えられた側が次々と勝訴し、さらに今度は逆に、訴えられた者が訴えた者とカウンセラーに対して損害賠償請求の訴えを起こして、その結果、高額の損害賠償を認める判決が相次ぎました。保守派の仕掛けた裁判闘争は保守派の勝利に終わったのです。その後、性的虐待被害を裁判に訴えるということはほとんどなくなりました。

ここは大きな分水嶺だったと思います。
家族のもっともみにくい部分が守られたのです。
ここから保守派の反撃が始まって、リベラルが後退し、トランプ大統領の誕生にまで至ったのではないかと私は見ています。


幼児期に虐待されたことの記憶はしばしば抑圧され、意識から排除されます。しかし、そのことの影響はさまざまな形で現れます。
アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存などの依存症はトラウマが原因であることがわかっています。
アメリカでは肥満が社会問題になっていますが、肥満は糖質依存症と見なすこともできます。

アメリカでは犯罪と麻薬汚染が深刻ですが、その根本原因は病んだ家族にあります。
ところが、保守派は家族が原因であることを認めず、犯罪は移民のせい、麻薬は外国のせいにしています。
そのためアメリカの病理はどんどん進行していきます。


幼児虐待は誰でも目をそむけたいものですが、とりわけ性的虐待からは目をそむけたくなります。
性的虐待の被害者の声をどれだけ受け止められるかでその社会の健全度がわかります。
アメリカは他山の石としなければなりません。



今回の記事は別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」『第3章の4「心理学」(フロイトの発見と隠蔽)』を要約したものが中心になっています。詳しく知りたい人はそちらを読んでください。

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厚労省の発表によると、昨年の小中高生の自殺者数は527人で、前の年から14人増え、1980年以降で最多となりました。
一方、自殺者の総数は2万268人で、前の年より1569人減り、1978年の統計開始以降2番目に少なくなりました。
自殺者総数はへっているのに、少子化が進む中で子どもの自殺数は増え続けているわけです。

中日スポーツの記事によると、1月30日のTBS系「THE TIME,」で安住紳一郎アナウンサーが「あまり勝手なことは言えませんが、1人の大人として、やっぱり死にたくなったら逃げるしかないと思います。恥ずかしいことではないので、とにかく状況から逃げてください。それしか方法はないと思います。せっかくの命ですから、どうぞ自分の命は大事にしてください」と呼びかけました。
これはXで話題になり、賛同の声が多く上がったということです。

こういうところに価値観の変化を感じます。
ひと昔前なら、「逃げても問題は解決しない」「現実逃避はよくない」「死ぬ気になったらなんでもできる」などと言われたものです。

ところで、安住アナはなにから逃げろと言ったのでしょうか。
安住アナはその少し前に「(自殺の)原因はやはり学校の問題が一番ということのようですけれども」と言っているので、学校から逃げろということのようです。
死にたい理由が、学校でいじめられているとか、先生から差別されているとか、学校生活が合わないとかなら、学校から逃げるのが正解です。

自殺の原因が家庭つまり家族関係にある場合はどうでしょうか。
次の表は文科省が2021年にまとめた「コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について」という資料です。令和元年はコロナ以前、令和2年はコロナ発生後ということです。
自殺原因というのは遺書がない限り推測になりますが、これは自殺直後に警察が遺族などに聞き取り調査をした結果に基づいています。
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いじめは「その他学友との不和」に含まれますが、そんなに多くありません。

「学業不振」と「その他進路に関する悩み」は学校問題に分類されていますが、成績が悪いからといって、それだけで自殺する子どもがいるでしょうか。
親からよい成績を取ることを期待され、子どもがその期待に応えられないとき、子どもは悩むのです。
「進路に関する悩み」も同じです。親は一流校に進むことを期待し、子どもはその実力がないか別の学校に進みたいというとき、子どもは悩みます。
こういうケースは、最近できた言葉で「教育虐待」といえるでしょう。

「親子関係の不和」とか「家族からのしつけ・叱責」というのは、そのまま子どもへの虐待です。
ということは、子どもの自殺の理由としてもっとも大きいのは、学校でのいじめなどではなく、親による虐待です。


家庭で虐待されたら家庭から逃げなければなりませんが、ここにふたつの困難があります。
ひとつは、子どもは自分が親から虐待されているという認識が持てないことです。
医者などが子どもの体にアザがあるのを見つけて「どうしたの?」と聞いても、子どもは決して「親にたたかれた」などとは言いません。「自分で転んだ」などと言って、必ず親をかばいます。
なぜそうするのかというと、本能としかいいようがありません。哺乳類の子どもは親に絶対的に依存するように生まれついているのです。

子ども時代だけではありません。成長しておとなになっても、自分が虐待されたという認識がないために、理由のない生きづらさを感じているという人が少なくありません。自身の被虐待経験を自覚するには、なんらかの心理学の手助けが必要なようです。「毒親」とか「アダルトチルドレン」などの言葉を知ったことで自分は親にひどいことをされていたのだと気づいたということはよく聞きます。

今は世の中全体が幼児虐待の存在から目をそむけています。「学業不振」という項目があるのも、子どもが成績の悪いことを悩んでいたという話を聞いたとき、そのまま信じてしまったのでしょう。その背後に親の過度の期待や圧力があったのではないかと探れば、また別の結果が出たに違いありません。

もうひとつの困難は、子どもが家から逃げたくなったとしても、どこに逃げたらいいかわからないということです。
親に虐待された子どもは児童相談所が対応し、場合によっては一時保護所で保護し、さらには児童養護施設に移すということになりますが、子どもが一人で行ったら、親の言い分も聞いてから判断するので、子どもより親の言い分を信じる可能性が高いでしょう。
警察に行っても、たいていは家出した子どもとして家に送り返されてしまいますし、うまくいっても児童相談所に送られるだけです。

最初から子どもを救おうという意志を持っているNPO法人などの民間組織のほうが頼りになりますが、活動は限定的です。一般社団法人Colaboは、対象が女の子限定ですが、家出少女に住む家を提供するなど幅広い活動をしてきました。しかし、反対勢力の攻撃を受けて、東京都の資金援助が絶たれてしまっています。

そこで、家で虐待された子どもはトー横やグリ下などに集まってきます。そこには似た境遇の仲間がいるからです。犯罪に巻き込まれることが懸念されますが、家にいることができず、行くところもないことによる必然の結果です。

こども家庭庁は「こどもまんなか社会」というスローガンを掲げていますが、今の社会の実態は「おとなまんなか社会」で、はみ出た子どもの存在は無視されます。


子どもが自殺したくなったとき、その原因が親の虐待にあるということが認識しにくいことと、認識できても逃げていく先がないという、ふたつの困難があるわけですが、これは実は一体のものです。誰もが幼児虐待を認識しにくいので、その対策も講じられていないのです。

今は幼児虐待というのは、子どもを殺したり大ケガをさせたりして新聞ネタになるようなことだと認識されています。つまり特殊な家庭で起こる特殊なことだというわけです。
虐待を認識しないだけでなく、積極的に否認したいという心理も存在します。自分が親から虐待されたトラウマをかかえていて、それを意識下に抑圧している人にそういう心理があります。


しかし、新聞ネタになるようなことは氷山の一角で、水面下に虐待は広範囲に存在します。
そのため子どもの自殺も多いのです。
私は「子ども食堂」みたいに「子ども宿泊所」を多数つくって、家庭から逃げ出した子どもをいつでも受け入れるようにすればいいと考えましたが、実はそういうものはすでにありました。児童相談所内の一時保護所が慢性的に不足していることから、民間の運営する「子どもシェルター」というものがつくられていたのです。
ところが、これは数がもともと少ない上に、行政からの補助金が減額されたり打ち切られたりし、また人手不足などから休止しているところも多いそうです。
これでは「子ども宿泊所」をつくっても同じことかもしれません。


多くの親が子どもを虐待していることはおとなにとって“不都合な真実”なので、これまでないことにされてきました。
子どもの自殺をなくすには、“不都合な真実”を直視しないといけません。

最近は男女関係の見直しが進んでいます。
昔は当たり前とされたことが今ではセクハラや性加害として告発されます。
これと同じことが親子関係でも起こらなければなりません。
少し前まで子どもへの体罰は当たり前のこととして行われていましたが、今では身体的虐待として告発されます。
今も子どもを叱ることが当たり前に行われていますし、子どもに勉強を強いることや習い事を強制することも当たり前に行われています。
しかし、このために子どもは傷ついています。
こうしたことも今後は変わらなければなりません。

今は子どもの発達の科学的研究が進んでいるので、教育やしつけのあり方も科学的なやり方が示せるようになっています。
こども家庭庁はなんの役割も果たしていないと批判されがちですが、ここはこども家庭庁の出番です。

とりあえずスローガンから見直してほしいものです。
「おとなまんなか社会」はだめですが、「こどもまんなか社会」も同様にだめです。
おとなも子どもも同じように存在が認められる「おとなと子ども平等社会」を目指すべきです。


前回の「石破首相の『楽しい日本』をまじめに考える」という記事で、「楽しい家庭」と「楽しい学校」をつくることが必要だと述べました。今回の記事はそれを発展させたものです。
家庭のあり方は社会のいちばん根底の部分ですから、なによりも優先して取り組まねばなりません。

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