村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2025年04月

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トランプ大統領は恐ろしい勢いでアメリカ社会の根幹を破壊しています。
その破壊を止める力がアメリカにはほとんどありません。

最初はUSAID(アメリカ合衆国国際開発庁)の実質的な解体でした。
USAIDは主に海外人道援助などをしていました。アメリカ・ファーストを支持する保守派は海外人道援助などむだとしか思わないのでしょう。
このときは日本のトランプ信者もUSAID解体に大喜びしていました(日本に相互関税をかけられてからトランプ信者はすっかりおとなしくなりました)。

「報道の自由」も攻撃されました。
トランプ大統領は「メキシコ湾」を「アメリカ湾」に変更するとした大統領令に署名しましたが、AP通信がそれに反しているとして、同社記者を大統領のイベント取材から締め出しました。
また、大統領を代表取材する場合、それまではホワイトハウス記者会が決めたメディアが交代で行っていましたが、これからは大統領府側がメディアを決めると宣言しました。。
放送免許などを司るFCC(連邦通信委員会)は、FCC監督下のすべての組織にDEI策排除を求めるとしました。

その次は司法への攻撃です。
トランプ政権は「敵性外国人法」を適用して約200人の不法移民をエルサルバドルの収容施設に送還しましたが、ワシントンの連邦地裁はこの法律は適用できないとして送還の差し止めを命じました。しかし、送還は実行されました。政権は地裁から「書面」で命令が出される前に飛行機は出発していたと主張しましたが、地裁は判事が「口頭」で飛行機の方向転換を指示したのに従わなかったとしています。
トランプ氏は送還差し止めを命じた判事は「オバマによって選ばれた過激な左翼だ。弾劾されるべき」と主張しましたが、ジョン・ロバーツ最高裁長官が異例の声明を出し「弾劾は司法の決定に対する意見の相違への適切な対応でない」と批判しました。このところ政権の政策を阻止する判決を出した裁判官への個人攻撃が目に余ることから、最高裁長官が異例の声明を出したようです。
その後、FBIはウィスコンシン州ミルウォーキーの裁判所のハンナ・ドゥガン判事を逮捕しました。裁判所に出廷した不法移民の男を移民税関捜査局の捜査官らが拘束しようとしたのをドゥガン判事が妨げたという公務執行妨害の疑いです。裁判官が逮捕されるのは異例です。
パム・ボンディ司法長官はこの件について「ミルウォーキー判事の逮捕は他の判事への警告」だと言いました。完全に政治的な意図で、行政が司法を支配下に置こうとしています。
トランプ政権は「法の支配」も「司法の独立」も「三権分立」も完全に破壊しようとしています。

大学も攻撃の対象になりました。
ハーバード大学ではイスラエルのガザ攻撃に対する学生の抗議活動が盛んだったことから、トランプ政権は学生の取り締まりやDEI策排除をハーバード大学に要求、大学がこれを拒否すると、助成金の一部を凍結すると発表しました。
トランプ政権はリベラルな大学に対して同じような要求をしており、「学問の自由」は危機に瀕しています。

「政教分離」も破壊されました。
政権はホワイトハウス信仰局を設置し、初代長官に福音派のテレビ宣教師ポーラ・ホワイト氏を任命しました。また、トランプ氏はこれまでキリスト教は不当に迫害されていたとし、反キリスト教的偏見を根絶するためにタスクフォースの設置も発表しました。


トランプ政権は、法の支配、報道の自由、学問の自由、表現の自由、政教分離、人道、人権といった近代的価値観をことごとく破壊しています。
トランプ政権は科学研究費も大幅に削減していますから、まるで中世ヨーロッパの国になろうとしているみたいです(実際のところは、アメリカの保守派は南北戦争以前のアメリカが理想なのでしょう。日本の保守派が戦前の日本を理想としているみたいなものです)。


問題はこうした政権の暴走を止める力がどこにもないことです。
というのは、法の支配、報道の自由、学問の自由といった価値観が、リベラルなエリートの価値観と見なされて、効力を失っているのです。

こうした傾向は日本でも同じです。
菅政権が日本学術会議の新会員6名の任命を拒否したとき、これは学問の自由の危機だといわれましたが、SNSなどでは学問の自由はほとんど評価されずに、それよりも「政府から金をもらっているんだから政府のいうことを聞け」といった声が優勢でした。
報道の自由に関する議論になったときも、“マスゴミ批判”の声で報道の自由を擁護する声はかき消されます。

今のところトランプ政権の暴走を止めるには、政策実行を差し止める訴訟が頼りですが、最高裁の判事は保守派が多数ですから、あまり期待はできません。


ただし、このところトランプ大統領の勢いがなくなりました。明らかに壁にぶつかっています。

トランプ大統領は4月2日、日本に24%、中国に34%などの相互関税を9日に発動すると発表し、これを「解放の日」とみずから称えました。
ところが、発表直後から世界的に株価が急落し、とりわけアメリカは株式・国債・ドルのトリプル安に見舞われました。
これにトランプ氏とその周辺はかなり動揺したようです。
トランプ氏は9日に相互関税の発動を90日間停止すると発表しました。
株価は急反発しましたが、トランプ氏の腰砕けに世の中はかなり驚きました。

トランプ大統領はFRBは利下げするべきだと主張し、FRBのパウエル議長を「ひどい負け犬の遅すぎる男」とののしり、解任を示唆する発言を繰り返しました。
そうするとまたしても株式・国債・ドルのトリプル安になり、トランプ大統領はまたしても態度を豹変させて「解任するつもりはない」と述べました。
そうすると株価は反発しました。

また、中国への関税は現在145%となっていますが、トランプ大統領は「ゼロにはならないだろうが、大幅に下がるだろう」と述べました。
関税政策の根幹が崩れかけています。

トランプ大統領は「マーケットの壁」にぶつかったのです。
この壁はさすがのトランプ氏も突破できません。そのため迷走して、支持率も下がっています。

第一次トランプ政権のときは、コロナ対策がうまくいかずに支持率を下げました。
トランプ氏が再選に失敗したのは、ひとえにコロナウイルスのせいです。
なお、安倍政権が倒れたのも、菅政権が倒れたのも、コロナ対策がうまくいかなかったためです。


ともかく、トランプ大統領を止めたのは今のところウイルスとマーケットだけです。
ウイルスは自然界のもので、自然科学の対象です。関税政策などは経済学の対象です。
自然科学も経済学もまともな学問なので、トランプ氏のごまかしが通用しなかったのです。

法の支配、報道の自由、学問の自由といった概念は政治学や法学の対象ですが、政治学や法学はまともな学問ではありません。
そのため、リベラルと保守、左翼と右翼のどちらが正しいのかも明らかにすることができず、世の中の混乱を招いています。
トランプ氏の暴走を止めることができないのは、政治学や法学がまともな学問でないからです。

今、トランプ政権はマーケットの壁にぶつかっていますが、第二次政権は発足したばかりですから、そのうち経済政策を立て直すでしょう。
そのときトランプ氏の暴走を止めるものはなにかというと、結局は政治学と法学しかありません。
政治学と法学が経済学並みにまともな学問になることです。


政治学と法学をまともな学問にする方法については、「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています。

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最近はテロ組織に属さない個人のテロリスト、ローンオフェンダーが増えています。
ローンオフェンダーによるテロは発生の予測が困難なので、防止策が課題とされます。
テロにはなにかの政治的な主張があるものですが、ローンオフェンダーの場合は、そうした政治的主張よりも深層の動機に注目する必要があります。

この4月、アメリカでトランプ大統領暗殺計画が発覚しました。
17歳の高校生ニキータ・カサップ被告は2月11日ごろ、母親タティアナ・カサップさん(35)と継父ドナルド・メイヤーさん(51)を射殺し、車で逃亡しているところを逮捕されました。車内には拳銃のほかに両親のクレジットカード4枚、複数の宝石類、こじ開けられた金庫、現金1万4000ドル(約200万円)がありました。
被告の携帯電話からは、ネオナチ団体「ナイン・アングルズ教団」に関する資料や、ヒトラーへの賛辞が見つかりました。さらに、トランプ大統領暗殺計画をかなり詳しく書いていました。
両親を殺したのは、トランプ大統領暗殺計画のじゃまになるからで、また、爆薬やドローンを購入する資金を奪うためでもありました。
反ユダヤ主義や白人至上主義の信条も表明していて、政府転覆のためにトランプ大統領暗殺を呼びかけていました。

「ナイン・アングルズ教団(The Order of Nine Angles)」というのは、ナチ悪魔主義の団体ともいわれていて、カルトの一種のようです。
本来あるべきユダヤ・キリスト教の思想は何者かによって歪められているという教義が中心になっており、組織ではなく個人の行動により社会に騒乱をもたらし新世界秩序を再構築することを目的としているそうです。

計画段階で終わりましたが、この被告はまさにローンオフェンダーです。
ただ、動機が不可解です。
白人至上主義なのにトランプ氏暗殺を計画するというのも矛盾していますし、トランプ氏暗殺のために両親を殺害するというのも奇妙です。


私がこの事件から連想したのは、山上徹也容疑者(犯行当時41歳)による安倍晋三元首相暗殺事件です。
山上容疑者は親を殺すことはありませんでしたが、母親を恨んでいたはずです(父親は山上容疑者が幼いころに自殺)。それに、統一教会というカルトが関係しています。最終的に元首相暗殺計画を実行しました。「親・教祖・国家指導者」という三つの要素が共通しています。

山上容疑者の母親は統一教会にのめり込んで、家庭は崩壊状態になりました。また、統一教会に多額の寄付をし、そのために山上容疑者は大学進学がかないませんでした。
したがって、山上容疑者は母親を恨んでいいはずですが、誰でも自分の親を悪く思いたくないものです。そこで山上容疑者は「母親をだました統一教会が悪い」と考え、教団トップの韓鶴子総裁を狙おうとしましたが、日本にくる機会が少なく、警護も厳重でした。
そうしたところ安倍元首相が教団と深くつながっていることを知り、安倍元首相を狙うことにしたわけです。
親、教祖、元首相と標的は変遷していますが、共通点があります。
親は子どもの目から見れば超越的な存在です。教祖や神も超越的です。国家指導者も国民から見れば超越的です。
戦前までの天皇陛下は、国民は「天皇の赤子」といわれて、天皇と国民は親子の関係とされていました。天皇は現人神であり、国家元首でもありました。
つまり天皇は一身で「親・教祖・国家指導者」を体現していたわけです。
オウム真理教の麻原彰晃も教団を疑似国家にして、教祖兼国家指導者でした。そして、教団そのものがテロ組織となりました。


「親・教祖・国家指導者」が似ているというのは理解できるでしょう。
問題はそこに殺人だの暗殺だの政府転覆だのがからんでくることです。
その原因は親子関係のゆがみにあります。親子関係はすべての人間関係の原点です。そこがゆがんでいると、さまざまな問題が出てきます。

ところが、人間は親子関係がゆがんでもゆがんでいるとはなかなか認識できません。
これはおそらく哺乳類としての本能のせいでしょう。
たとえばキツネの親は、天敵の接近を察知すると警告音を発して子どもを巣穴に追いやり、遅れた子どもは首筋をくわえて運びます。そのやり方が乱暴でも子どもは抵抗しません。子どもは親のすることは受け入れるように生まれついているのです。そうすることが生存に有利だからです。
人間の子どもも親から虐待されても、それを受け入れます。それを虐待と認識できないのです。
これは成長してもあまり変わりません。二十歳すぎて、親元を離れて何年かたってから、自分の親は毒親だったのではないかと気づくというのがひとつのパターンです。

ヒトラーも子ども時代に父親に虐待されていました。そのこととヒトラーのホロコーストなどの残虐行為とが関連していないはずがありません。ところが、ヒトラーが子ども時代に虐待されていたことはヒトラーの伝記にもあまり書かれていないのです。このことは「ヒトラーの子ども時代」という記事に書きました。

心理学は幼児虐待を発見しましたが、一方でそれを隠蔽し、混乱を招いてきました。この問題は『「性加害隠蔽」の心理学史』という記事に書きました。


不可解な事件が起こったとき、「そこに幼児虐待があったのではないか」と推測すると、さまざまなことが見えてきます。
たとえば冒頭の17歳高校生の両親殺しの事件ですが、高校生は両親から虐待されていたと推測できます。17歳の少年に凶悪な動機が芽生えるとしたら、それしか考えられません。しかし、本人は自分が虐待されているとは認識できないので、自分の中の凶悪な感情が理解できません。そこにナチ悪魔主義教団の教義を知り、トランプ氏暗殺肯定の主張を知ります。トランプ氏暗殺は自分の凶悪な感情にふさわしい行為に思えました。そして、トランプ氏暗殺のためには親殺しが必要だという理屈で親殺しをしたのです。

昨年7月に演説中のトランプ氏が銃撃され、耳を負傷するという事件がありました。
その場で射殺された犯人はトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性です。写真を見る限り、平凡でひ弱そうな若者です。共和党員として有権者登録を行っていました。親から虐待されていたという報道は見かけませんでしたが、20歳の平凡な若者に大統領候補暗殺という強烈な動機が生じたのは、やはり親から虐待されていた以外には考えられません。

2023年4月、選挙応援演説を行っていた岸田文雄首相にパイプ爆弾が投げつけられるという事件がありました。その場で逮捕された木村隆二被告(犯行当時24歳)は、被選挙権の年齢制限や供託金制度に不満を持ち、裁判を起こすなどしましたが、自分の主張が認められないため、岸田首相襲撃事件を起こしました。政治的な主張のテロですが、その主張と首相暗殺とは釣り合いがとれません(被告は殺意は否定)。
木村隆二被告については、父親から虐待されていたという報道がありました。
『「父親は株にハマっていた」「庭は雑草で荒れ果てていた」岸田首相襲撃犯・木村隆二容疑者の家族の内情』という記事には、近所の人の証言として「お父さんがよく母親や子どもたちを怒鳴りつけててね。夜中でも怒鳴り声が聞こえることがあって、外にまで聞こえるぐらい大きな声やったもんやから、近所でも話題になってましたね。ドン!という、なにかが落ちるものとか壊れる音を聞いたこともあった。家族は家の中では委縮していたんと違うかな」と書かれています。

親に虐待された人は生きづらさを感じたり、PTSDを発症したりします。そのときに親に虐待されたせいだと気づけばいいのですが、国家指導者のせいだと考えると、どんどん間違った方向に行って、最終的にテロ実行ということになります。
これがローンオフェンダーの心理です。

とくに政治的主張がなくて、世の中全体を恨むような人は、通り魔事件を起こします。
ですから、ローンオフェンダーと通り魔は根が共通しています。


したがって、ローンオフェンダー型テロや通り魔事件をなくすには、根本的な対策としては世の中から幼児虐待をなくすことです。そして、幼児虐待のためにPTSDを発症した人などへの支援を十分にすることです。
目先の対策などどうせうまくいかないので、こうした根本的な対策をするしかありません。

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専業主婦がいて、パートタイムで働く妻もいるので、夫婦の家事分担のあり方はさまざまです。
しかし、夫婦が同じように働いていれば、家事分担は平等であるのが当然です。
もし夫婦が同じように働いているのに、夫の家事分担が少なければ、それは夫がわがままを通しているということです。

「全国家庭動向調査」によると2022年の調査では、夫と妻の家事分担割合は妻80.6%、夫19.4%です。
もっとも、これは専業主婦も含めた数字です。
妻が正規労働の場合(たぶん夫も正規労働)、50.6%の夫婦で妻が家事の80%以上を担当していました。
ほぼ平等に家事を分担していると見られる夫婦の割合は約20%でした。
約20%というのは、けっこう多い数字のような気もしますが、本来なら100%であるはずです。


どうして男は家事をしないのでしょうか。
私自身のことを振り返りながら、男が家事をしない理由を考えてみました。

私は20代半ばで結婚を考えるようになりました。
ただ、私は小さな出版社に勤めていて、きわめて薄給でした。
結婚するとなれば、相手に共働きしてくれるように頼まなければなりません。そうすると、自分も家事を半分ぐらいやらざるをえないと思いました。

私は当時、一人暮らしをしていましたから、掃除と洗濯はできました。しかし、食事はもっぱら外食で、料理はほとんどできません。
結婚したからといって急に料理ができるようになるとは思えません。
家事の分担はどうしようかと漠然と考えていましたが、もしそういう状態で結婚していたら、私もあまり家事をやらない夫になっていたかもしれません。
結婚してから少しずつ料理を覚えていけばいい理屈ですが、最初に妻に料理をしてもらえば、その状態に甘えてしまったかもしれません。

幸い(?)結婚相手は現れず、そのうち勤めていた会社が倒産しそうになったために私は会社を辞めました。
再就職も考えましたが、その前から作家になろうと思って小説を書いていたので、この際、就職せずに作家修行に専念することにしました。薄給でも少しは貯金がありました。

そうすると節約するために自炊をするのは当然です。まず自炊の本を買い、次にNHKの「きょうの料理」の定番料理の本を買いました。当時はインターネットもないので、本で料理を学ぶしかありません。
あるときスーパーでサバ丸ごと一匹を売っていて、ほかにサバの二枚おろしか三枚おろしもバックして売っていました。サバ丸ごと一匹のほうが断然安く、たぶんどちらも同じサバです。
私にはお金はなくても時間はいっぱいあります。私は魚をおろしたことはありませんでしたが、パックされたサバの半身を完成予想図として目に焼き付けて、サバ一匹を買って、そこから半身を切り出しました。
そのうちテレビの料理番組を見て、正しい魚のおろし方を学びました。
東京は新鮮なアジやイワシを安く売っているので、自分でさばけば安く刺身が食べられます。
そうしたことをしているうちにある程度料理ができるようになったので、結婚しても料理を分担することができました。

料理は奥が深いですが、生活のための料理に奥深さは必要ありません。ただ、バランスよく栄養をとるために幅広い料理ができる必要があります。野菜の切り方、野菜のゆで方から始まって、一通り習得するのはけっこうたいへんです。
たいていの男は料理をやったことがないので、当然料理ができません。
結婚してから妻から教わるというやり方もありますが、結婚した最初は人間関係を築いていく時期です。そのときに「教える・教えられる」という一方的な関係が入るのはどうなのでしょうか。

男女ともに、結婚するときには一通りの家事をこなせるようになっているのが好ましいといえます。
それを考えると、ずっと実家暮らしの男性というのは、料理はもちろん掃除も洗濯もやったことがない可能性が大です。
そういう男性と結婚した女性は、夫が家事無能力者であることを知って愕然とするに違いありません。


結婚前から家事のできない男性が圧倒的に多く、それが結婚後、家事分担が平等にならない大きな理由です。
したがって、若い男性は結婚前に料理などを学ぶ“花婿修行”をするべきだという考え方を世に広める必要があります。
これは未婚化対策にもつながります。


しかし、それだけではうまくいかないでしょう。
そもそも多くの男は家事のノウハウを知らないだけでなく、家事をやる気がありません。やるにしても「しかたなくやる」といった感じです。
多くの夫は「なんか手伝おうか」などと「手伝う」という言葉を使います。つまり当事者意識がないのです。
夫がもっともよくやる家事は「ゴミ出し」だということです。
ゴミ出しというのは、出勤するときにゴミ袋を持って家を出て、ゴミ置き場にそれを置くという作業です。クレーンゲームのアームがやっている作業と同じです。

男が家事にやる気がないのは、家事を下に見ているからです。
なぜ家事を下に見ているかというと、女性を下に見ているからです。
「男女平等」という理念があっても、男の意識はまだまだ「男尊女卑」です。
女は卑しいものであり、卑しい女がする家事もまた卑しいということになります。

これはインドのカースト制を考えるとよくわかるかもしれません。カースト制では身分と職業が結びついていて、卑しいカーストのする職業も卑しいことになり、ほかのカーストの者はその職業(仕事)には手を出しません。
男尊女卑の意識を持っている男も、「家事は女の仕事」と思っているので、家事には手を出しません。もちろん「分担する」という意識はなく、せいぜい「手伝う」程度です。


妻が熱を出して寝込んでいると、夫が「俺の飯は?」と言ったという話があります。
妻を看病するでもなく、妻の食事の心配をするでもなく、自分の食事のことしか考えない夫には言葉を失います。
弁護士ドットコムニュースの離婚事例としても載っているので、こういう夫がいることは事実なのでしょう。

これは「家事をやらない」とか「家事のノウハウがない」ということではなく、「人間としての思いやりがない」ということです。
この夫はひとつ間違えばDVをするでしょう。
DVをしなくても、離婚に至らなくても、夫婦関係は破綻しているも同然です。


思いやりの欠如した夫は珍しくありません。

私の両親は年取って二人で暮らしていましたが、父親は家事をまったくやりませんでした。
それではいずれ困ることになるぞと忠告していましたが、まったく聞き入れません。
案の定、母親が入院して、父親一人で生活していくことになりました。私は遠方に住んでいたので、どうなることかと心配していましたが、なんとか一人でやっていました。
「家事をやらない男」というのは、あくまでほかに家事をやる人間がいるから成立しているわけです。

母親が退院してきて、ゆっくりお風呂に入りたいと、父親にお風呂を入れてくれるように頼みました。そして、風呂がわいたというので、母親が服を脱いでいざ入ろうとすると、冷たい水だったそうです。母親はそれがずいぶんとショックだったようで、私に嘆きました。
私が父親にどういうことかと聞いたら、風呂の表面が熱かったので沸いたと思ったと答えました。
その風呂は、水を張ってガスで沸かす方式です。表面が熱くなっても下は水です。父親もそんなことがわからないはずがありません。なぜ沸いていない風呂を沸いていると言ったのか、わけがわかりませんでした。
あとになって考えたのですが、それまで一方的に世話される立場だった父親は、逆の立場になったことが不満で、無意識のいやがらせをしたのでしょう。母親は初めて世話される立場になって喜んでいたので、いっそう傷ついたのです。
前からそういう心理的な暗闘をしている夫婦でした。


 夫が妻にやさしさを示さないのは、「男尊女卑」や「性差別」によって、女性を男性より下の存在と見ているからです。
もちろんすべての男がそうだということはありません。
人間は基本的に自分の両親のあり方を見て男女関係や夫婦関係のあり方を学ぶので、その影響が大きいでしょう。

それから、親子関係のあり方も影響します。
妻が寝込んでいるのに「俺の飯は?」と言った夫は、もしかすると子どものころ病気になっても母親からろくに看病してもらえなかったのかもしれません。いつも「男の子でしょ」と言われてやさしくされたことがなければ、人にやさしくできないのは当然です。
私の父親も、生まれてすぐ母親を亡くして親戚の家に引き取られて、不幸な子ども時代だったようです。


不公平な家事分担は、男がわがままを通しているからです(まれに女がわがままな場合もあります)。
家事を相手に押しつけている分、楽ができますが、思いやりのある夫婦関係はなくなります。
思いやりのある夫婦関係のほうが幸せなはずです。


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私がスーパーで買い物をするときによく思うのは、夫婦で買い物をする人をほとんど見かけないなということです。
夫が会社勤めをしているにしても、土日なら夫婦で買い物に行けるはずです。
私の場合、妻が会社勤めなので、土日はいつもいっしょに買い物に行きます。
ずっと家にいるよりも散歩がてら買い物に行ったほうが気分転換にもなります。

もう定年退職したような老夫婦はときどきスーパーで見かけます。
しかし、二人が会話していることはめったにありません。
たまに言葉を発しているのを聞くと、たいてい不機嫌なダメ出しの言葉で、会話になっていません。
なんのために二人でスーパーにきているのかと思ってしまいます。

そうした疑問を持っていたところ、『店員「レジで奥様を手伝わず突っ立ってるだけの人、なぜ?」意図が不明な謎行動に「本当に邪魔」「見かねて声をかけた」』という記事を見つけて、やはりそうなんだと思いました。

その記事を簡単に紹介すると、「スーパーに一緒に買い物に来て、奥さんが会計をしている時にぼーっとレジの横に立ったままの人が多い。邪魔なので、手伝わないのなら別の場所にいてほしい」というSNSの投稿がきっかけで、店員経験のある人などから「ほんとうによく見かける」「奥さんが重いカゴを移動させてるのに、横か後ろにくっついて動かない人がいる」「レジもそうだけど、サッカー台で何もせずに突っ立ってる人も多い」といった声が上がりました。
客からも「腕組みして見てるだけの人、本当に邪魔」「運転のために来ているのだとしても、車の中で待ってるか、普通に手伝えばいいのに」「ついてきているだけの人って無意識で通路をとうせんぼしがち」などの声がありました。

夫婦で買い物にきていても、夫は荷物持ち要員としてついてきているだけで、買い物には関与していないようです。
性別役割分業が徹底した夫婦だと思われます。
こういう夫婦は会話も乏しくなるでしょう。


一般論として夫婦はどんな会話をしているのでしょうか。
あるテレビ番組で新婚の男性が毎日会社帰りの電車の中で今日は妻とどんな会話をするか考えていると言っていて、それを聞いたスタジオの女性が「やさしい」とほめていました。
初めてのデートのときなどはどんな会話をするかあらかじめ考えた人も多いでしょう。しかし、そんなことは長くは続けられません。

新婚しばらくは、相手のことをよく知らないので、お互いに自分のことをしゃべっていれば意味のある会話になります。
それに、各家庭で生活習慣が違うので、掃除や洗濯のやり方、料理の味付けなどさまざまなことで“文化摩擦”が生じ、それも会話のネタになります。出身地が違うと地域の文化の違いもあります。
新婚の妻が初めておでんをつくったら、夫が「豆腐が入っていない」と文句を言って喧嘩になったという話を聞いたことがあります(豆腐は長く煮込むと固くなるので入れないこともあります)。
昔、大根がすごく高値になったとき、妻が迷った末にサンマの塩焼きに大根おろしをつけなかったら、夫が激怒したという話もあります。
こういう行き違いを防ぐためにも会話が必要になります。

何年かたつと会話もマンネリになってきますが、子どもができると、今度は子どものことでしゃべることがいっぱい出てきます。そうして多くの夫婦は会話を続けていくのでしょう。

私たち夫婦には子どもがいませんが、結婚してしばらくして猫を飼い始めました。
そうすると猫について話すことがけっこうあります。うちの猫は自由に戸外に出ていたので、しばしばネズミやスズメやセミなどを捕って家に持ち帰ってきて、そのたびに大騒ぎになります。
ペットは家族の会話を活発にさせる機能があります。

しかし、やがて子どもも巣立っていきます。そうすると夫婦に会話することはほとんどなくなります。
子どものいない夫婦はその前から会話することはないわけです。
「メシ、フロ、ネル」しか言わない戯画化された夫というのは、けっこう現実ではないかと思われます。


そもそも人間はなんのために会話をするのでしょうか。
イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーは『ことばの起源 -猿の毛づくろい、人のゴシップ』という本で、人間の会話はサルの毛づくろいと同じであるという説を述べました。
サルは互いに毛づくろいをすることで親しさを確認し、群れの結束を強めます。人間は毛がないので毛づくろいの代わりに会話をし、そのために人間は言語能力を発達させたというのです。
ですから、会話することそのものに意味があって、会話の内容にはたいして意味がないことになります。

人間の会話の内容を調べると7割はゴシップだといわれます。つまり周りの人間についての根拠のない噂話をしているのです。
私たちの日常会話も、近所の人についての噂話や、芸能人の不倫の話、石破首相やトランプ大統領の話などです。
SNSでも根拠のない話がどんどん広がっています。話を通じて誰かと共感することが目的なので、その話に根拠があるかどうかはあまり関係がないからです。
必要な情報の伝達とか、認識を深めるための議論などもありますが、それらは会話全体からみればごくわずかです。
夫婦でいえば、家計のこととか親の介護のこととか、まじめに話し合わないといけないこともありますが、それも全体から見ればごくわずかです。


夫婦は同じ家で暮らしているからといって、いつもいっしょにいるのはよくないのではないかと思います。
この前、ある女性芸能人(誰だったか忘れた)がテレビで「仲のよい夫婦は寝室をいっしょにしていない」と語っているのを聞いて、そういうこともあるかもしれないと思いました。
長くやっている漫才師はたいてい楽屋でもほとんど言葉を交わさないといいます。
いくら仲がよくても、同じ人間といつも顔を合わせていると嫌気がさすものです。

私たちの場合、妻は会社勤めですが、私は文筆業で昼ごろ起きるので、必然的に寝室は最初から別でした。
夫婦がいっしょにすごすのは、夕方妻が会社から帰ってきてから食事の片づけをするまでの間で、そのあとはそれぞれの部屋ですごします。
寝る前に二人いっしょに紅茶を飲むこともあります。そのときはテレビのニュース番組やトーク番組を見て、それをもとに会話します。テレビを見なければ会話のきっかけがありません。

夫婦の会話などなんの意味もなくて当たり前です。
ただ、意味のある会話もあります。それは家事についてです。サラリーマンが同僚と仕事の話をするのと同じで、これは夫婦にとって必要な会話です。

私たち夫婦の場合、掃除は平等に分担しています。洗濯は妻がやって、私は洗濯物を干したり取り込んだりするのを手伝う程度です。料理は基本的に妻がやりますが、私はご飯を炊くのとみそ汁をつくるのを担当し、ときどき一品をつくり、妻が残業のときは私が全部つくります。
家事分担の割合としては、6対4とまではいきませんが、7対3よりはやっているはずです。

なお、買い物は、妻が帰宅前にしますが、私も昼間することがあります。
いつも別々ですから、土日にいっしょに「キャベツが安くなってきたね」とか「コーヒー豆がまた高くなった」などと話し合いながら買い物するのは楽しいことです。
ですから、冒頭でも書いたように、いっしょに買い物をする夫婦をほとんど見かけないのが不思議です。
おそらく多くの夫婦は妻だけが料理をしているのでしょう。いっしょに料理をしていればいっしょに買い物もするはずです。

誕生日や結婚記念日などに夫婦で外食をすることがありますが、そんなときどんな会話をしているかというと、半分ぐらいは料理のことです。というか、それ以外にあまり話すことがないというのが実際です。
そうすると、ほかの夫婦は外食のときにテーブルで向かい合ってどんな話をしているのでしょうか。黙って食べていたのではせっかくの外食が楽しくありません。

会話のない夫婦は、二人で家事をするようにすれば会話が増えるはずです。



ともかく、夫婦の会話というのはどうせ価値のないものなので、楽しくバカ話をしていればいいというのが私の考えです。
逆に価値のある会話をしようとするのはたいへん危険です。

たとえば相手になにかを教えて知的に向上させようという人がいます。
これは相手を見下した行為ですから、教えられる側は不愉快です。
これを男がやるのは「マンスプレイニング」といわれます。

相手を道徳的に向上させようというのも夫婦関係を破壊します。
以前、妻が冷凍餃子を食卓に出したところ夫から「冷凍餃子は手抜きだ」と言われたというツイッターの投稿が話題になったことがありました。この夫は手抜きをする妻を手抜きをしない立派な妻にしようとしたのでしょう。
夫が妻を「だらしない」「気が利かない」と言ったり、妻が夫を「思いやりがない」「自分勝手」と言ったりするのも、相手を道徳的に向上させようとしているわけです。ですから、言うほうはいいことを言っているつもりです。
しかし、言われるほうは不愉快です。
こうしたことが繰り返されると、会話自体がなくなってしまいます。
その結果、離婚に至るか仮面夫婦になるしかありません。

なぜこういうことが起こるかというと、道徳について根本的な勘違いをしているからです。
今、小中学校では道徳の授業が行われていますが、これが可能なのは、子どもが弱いためにおとなしく聞いているからです。
配偶者に対して道徳を説いたら、うまくいかないに決まっています。
そのことを理解せず、夫婦関係に道徳を持ち込んで、そのために多くの夫婦の関係が冷え切っているのは悲しいことです。
家庭に道徳を持ち込まないようにすれば楽しい夫婦関係になると思います。


道徳についての根本的な勘違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。


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トランプ大統領は周りをイエスマンで固め、独裁者への道をひた走っています。
プーチン大統領、習近平主席もどんどん独裁色を強めています。
国家のリーダーは独裁色を強めるほど国民に人気となります。
なぜ国家の指導者は独裁者になり、国民は独裁者を支持するのでしょうか。

独裁者の中の独裁者、アドルフ・ヒトラーはどうして独裁者になり、当時のドイツ国民はどうしてヒトラーを熱狂的に支持したのでしょうか。
ドイツでは何冊もヒトラーの伝記が出ていますが、ヒトラーの子ども時代については、どれもヒトラーは普通の家庭で育ったというふうに書かれているようです。
そんなはずがありません。

猟奇殺人のような凶悪犯罪をした人間は、決まって異常な家庭で育ち、親から虐待を受けています。ところが、メディアはそうしたことはほとんど報じません(最近ようやく週刊誌が報じるようになってきました)。それと同じことがヒトラーの伝記にもあります。

心理学界で最初に幼児虐待を発見したのはフロイトです。
フロイトは1896年に『ヒステリー病因論』を出版し、自分の扱った18の症例すべてにおいて子ども時代に性的暴行の体験があったと記しました。
つまり幼児虐待の中でももっとも認識しにくい性的虐待の存在を認めたのです。
ところが、フロイトは1年後に、性的暴行の体験はすべて患者の幻想だったとして、『ヒステリー病因論』の内容を全面否定しました。フロイト心理学は、幼児虐待をいったん認めたあとで否定するというふたつの土台の上に築かれたのです(これについては「『性加害隠蔽』の心理学史」で述べました)。

アリス・ミラーはフロイト派の精神分析家でしたが、フロイト心理学の欠陥に気づき、批判者に転じました。
ミラーは『魂の殺人』において、ヒトラーの子ども時代について書かれた多くの文章を比較し分析しました。一部ウィキペディアで補足しながらミラーの説を紹介したいと思います。


1837年、オーストリアのシュトローネ村で未婚の娘マリア・アンナ・シックルグルーバーは男児を出産し、その子はアロイスと名づけられました。このアロイスがアドルフ・ヒトラーの父親です。
村役場の出生簿にはアロイスの父親の欄は空白のままです。
マリアはアロイス出産後5年たって粉ひき職人ヨーハン・ゲオルク・ヒートラーと結婚し、同年にアロイスを夫の弟の農夫ヨーハン・ネポムク・ヒュットラーに譲り渡しました(兄弟で名字が異なるのは読み方の違いだという)。
この兄弟のどちらかがアロイスの父親ではないかと見られています。
しかし、第三の説もあります。マリアはフランケンベルガーというユダヤ人の家に奉公していたことがあり、そのときにアロイスを身ごもったという話があるのです。
ヒトラーは1930年に異母兄からゆすりめいた手紙を受け取り、そこにヒトラー家の来歴について「かなりはっきりした事情」のあることがほのめかしてあったということで、ヒトラーは弁護士のハンス・フランクに調べさせたことがあります。しかし、はっきりした証拠はなかったようです。
その後、この説についてはさまざまに調べられましたが、今ではほとんど否定されています。
しかし、ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人かもしれないという疑惑を持っていたに違いありません。


ヒトラーの父アロイスは小学校を出ると靴職人になりましたが、その境遇に満足せず、独学で勉強して19歳で税務署の採用試験に合格して公務員になり、そして、順調に昇進を重ね、最終的に彼の学歴でなれる最高位の上級税関事務官になりました。好んで官憲の代表となり、公式の会合などにもよく姿を現し、正式な官名で呼びかけられることを好みました。
彼は昇進のたびに肖像写真を撮らせ、どの写真も尊大で気むずかしそうな顔をした男が写っています。
彼は3度結婚し、8人の子どもをもうけましたが、多くは早死にしました。

ある伝記によると、アロイスは喧嘩好きで怒りっぽく、長男とよく争いました。長男は「情容赦もなく河馬皮の鞭で殴られた」と証言しています。長男が玩具の船をつくるのに夢中になって3日間学校をサボったときなど、それをつくるように勧めたのは父親であったにもかかわらず、父親は息子に鞭を食らわせ、息子が意識を失って倒れるまで殴り続けたといいます。アドルフも兄ほどではなかったにせよ、鞭でしつけられました。犬もこの一家の主人の手で打たれ続けて、「とうとう体をくねらせて床を汚してしまった」ことがあるそうです。長男の証言によれば、父親の暴力は妻クララにまで及んでいました。

アドルフの妹パウラは、父親の暴力にさらされたのは長男よりもアドルフだと証言しています。
その証言は次の通りです。
「アドルフ兄は誰よりも父に叱られることが多く、毎日相当ぶたれていました。兄はなんというかちょっと汚らしいいたずら小僧といったところで、父親がいくら躍起になって性悪根性を鞭で叩き出し、国家公務員の職に就くようにさせようとしても、全部無駄でした」

これらの証言から、ヒトラー家は父親の暴力が吹き荒れる家庭で、中でもアドルフは被害にあっていたと思われます。
しかし、伝記作家などはこうした証言を疑い、しばしば嘘と決めつけます。

アドルフの姉アンゲラは「アドルフ、考えてごらんなさい、お父さんがあんたをぶとうとした時お母さんと私がお父さんの制服の上着にしがみついて止めたじゃないの」と言ったという記録があります。父親が暴力的であったことを示す証拠です。
しかし、ある伝記作家は、その当時父親は制服を着ていなかったのでこれはつくり話だと決めつけました。
しかし、これは当時父親が制服を着ていなかったというのが正しいとしても、アンゲラが上着について思い違いをしていただけでしょう。上着が違うから全部が嘘だとするのはむりがあります。

また、「総統」は女秘書たちに、父親は自分の背をピンと伸ばさせておいてそこに30発鞭を食らわせたと語ったことがあります。
これについても伝記作家は、彼は女秘書たちにバカ話をするのが好きで、彼の話したことであとで正しくないことが証明されたことも多いので、この話の信憑性は薄いと判断しました。
このような判断の繰り返しで、父親の暴力は当時の常識の範囲内のもので、ヒトラー家は普通の家庭であったという印象に導かれます。


親が子どもを虐待することはあまりにも悲惨なので、虐待の存在そのものを認めたくないという心理が誰においても働きます。そのためにフロイトの『ヒステリー病因論』は世の中の圧倒的な反発を招き、フロイトはその説を捨ててしまいました。
同じ力学は今も働いています。幼児虐待の通報があって児相や警察がその家庭を訪問しても、親の言い分を真に受けて子どもの保護をせず、その後子どもが殺されて、児相や警察の対応が非難されるということがよくありますが、児相や警察の人間も虐待を認めたくない心理があるのです。


ヒトラーの父親の虐待は暴力だけではありません。
ヒトラーは家出をしようとしたことがありましたが、父親に気づかれ、彼は天井に近い部屋に閉じ込められました。夜になって天窓から逃げ出そうとしましたが、隙間が狭かったので着物を全部脱ぎました。ちょうどそこに父親が階段を上がってくる足音がしたので、彼はテーブルかけで裸の体を隠しました。父親は今回は鞭に手を伸ばさず、大声で妻を呼んで「このローマ人みたいな格好をした子を見てごらん」と言って大笑いしました。このあざけりはヒトラーにとって体罰よりもこたえました。のちに友人に「この出来事を忘れるのにかなり時間がかかった」と打ち明けています。

父親はまた、用があって子どもを呼ぶとき、二本の指で指笛を鳴らしました。

私は子どもを笛で呼ぶということから、映画「サウンド・オブ・ミュージック」を思い出しました。
冒頭で修道女見習いのマリア(ジュリー・アンドリュース)が家庭教師としてトラップ家を訪れると、トラップ大佐が笛を吹いて子どもたちを集め、子どもを軍隊式に整列させて行進させます。この家庭内の軍国教育をマリアが人間教育に変えていく過程と、オーストリア国内でナチスが勃興していく過程とがクロスして物語が進行していきます。

当時、ヨーロッパでは子どもに鞭を使うことが多く、とくにオーストリアやドイツではごく幼いうちから親への服従を教え込むべきだという教育法が蔓延していたとミラーは指摘します。そのためのちにヒステリー症状(今でいうPTSD)を発症する人が多く、それがフロイト心理学の出発点になりました。


ヒトラーが優れた(?)独裁者になれたのは、それなりの資質があったからですが、それに加えて父親に虐待された経験があったからでしょう。
ヒトラーは父親を憎み恐れていましたが、やがて自分を父親と同一化し、権威主義的で暴力的な父親のようにふるまうようになります。国民の目からはそれが優れた国家指導者の姿に見えたのです。
子どもから見た父親と、国民から見た国家指導者は、スライドさせれば重なります。

ほとんどの国民もまた暴力的で権威主義的な父親に育てられてきたので、ヒトラーに父親の姿を見ました。
ヒトラーは怒りや憎しみを込めた激しい演説をしましたが、その一方で笑顔で子どもに話しかけたりなでたりする姿も見せました。
厳父と慈父の両面を見せることで、ヒトラーは国民の圧倒的な支持を得たのです。

ヒトラーは父親から学んだ残忍さで政敵を容赦なく攻撃して権力を掌握しました。
またミラーは、ヒトラーは父親への憎しみをとくにユダヤ人に向けたのではないかと推測しています。


その人がどんな人間かを知るには、幼児期までさかのぼって知ることが重要です。
最近はそのことが少しずつ理解されてきて、たとえばトランプ大統領を描いた映画「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」は、20代のトランプ氏が悪名高い弁護士ロイ・コーンの教えを受けて成功の階段を上っていくという物語です。
しかし、20代では遅すぎます。
重要なのは幼児期です。
不動産業者だった父親とトランプ少年との関係にこそトランプ大統領の人間性を知るカギがあります。

政治は政策論議がたいせつだといわれますが、人間論議のほうがもっとたいせつです。


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