
中東で起きている争いはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の争いでもあります。
キリスト教・ユダヤ教勢力がイスラム教勢力圏の真ん中にイスラエルを建国し、以来、何度も戦争を繰り返しながらイスラエルは確固たる足場を築きました。
米軍は中東に20か所以上の基地・施設を有し、4万人以上を駐留させています。
十字軍の時代と同じことをしています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教で、同じヤハウェという神を信仰する宗教です(イスラム教のアッラーはヤハウェのことです)。
当然特徴も似ています。それは闘争的で独善的だということです。
ヤハウェは「人格神」といわれます。
ギリシャ神話の神も日本神話の神もそれぞれに擬人化されているので人格神といえなくもありませんが、一般に人格神といえばヤハウェのことです。神と思えないような、人間のいやな面を持っているために人格神といわれるのだと思います。
ヤハウェの人格が三つの一神教に大きな影響を与えています。
では、ヤハウェはどんな人格なのでしょうか。
『旧約聖書』の『創世記』にはこう書かれています(引用は「口語訳聖書 旧約:1955年版」より)。
主なる神は人をエデンの園に置き、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言いました。
そして、人が一人でいるのはよくないとして、人のあばら骨のひとつを取って、女をつくりました。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。神は二人が禁じられた実を食べたことを知り、へびに対して「おまえはすべての獣のうち最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言いました。
次に女に対して「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言いました。
そして、人に対しては「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」と言いました。
へびは人をだまし、人は神の言いつけにそむいたので神から罰されたということになっています。
しかし、へびは嘘をついていません。嘘をついたのは神です。「善悪を知る木から取って食べると、きっと死ぬであろう」と言ったのに、二人は死にませんでした。
嘘をついた神が真実を言ったへびを罰しました。正しい内部通報者が罰されたみたいなものです。
人は神のいいつけにそむいたので罰されるのは当然のようです。
しかし、善悪を知る木の実を食べた行為に対する罰としては重すぎるのではないでしょうか。神はその人だけでなく子々孫々まで不幸になるように呪いをかけました。
エデンの園を出たアダムは土を耕しました。エバはみごもり、カインを産み、さらにその弟アベルを産みました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。
二人の子どもを持つ親は、二人を平等に愛することはめったになく、たいていえこひいきするものです。主もアベルをえこひいきしたのでしょうか。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」
それにしても、主の「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう」という言葉は不可解です。
まるでカインが悪いことをしたみたいな言い方で、自分のえこひいきは棚に上げています。
いや、主がカインの供え物を顧みなかったことにはちゃんとした理由があるのかもしれません。だったら、その理由を言えばいいのです。そうすれば、カインもアベルを逆恨みするようなことはなかったはずです。
もちろんカインが弟のアベルを殺したのは、あまりにもひどい罪ですから、カインが主に罰されるのは当然でしょう。
しかし、神が全知全能なら、人間が罪を犯さないように導いてくれてもよさそうなものです。
その後、人は地上にはびこり、同時に人の悪もはびこりました。主は人をつくったことを後悔し、人も獣も、地をはうものも、空の鳥もすべて地表からぬぐい去ることを決心します。ただ、ノアは正しい人だったので、主はノアに箱舟をつくるように命じます。
結局、ノア一家と箱舟に乘れた動物以外のすべての地表の生き物は死んでしまいます。
自然災害で死んだのではありません。主が殺すために洪水を起こしたのです。
地表の生き物をことごとく殺すとはあまりにも残虐です。
しかも、そのときに「正しい人」と「悪い人」を選別しています。
人間はヤハウェの前では安心することができません。
ヤハウェは怒りで人間を罰する神です。
イエス・キリストはそうしたユダヤ教を愛の宗教に改革しようとしました。
キリストの教えといえば「汝の隣人を愛せよ」という言葉が思い浮かぶかもしれませんが、これは誤解です。
「隣人を愛し、敵を憎め」というのは当時の常識でしたが、キリストはそれは当たり前のことで、優れたことをしたことにならないと言いました。
キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言い、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言ったのです。
これがキリストの教えの核心でしょう。
しかし、改革は中途半端でした。今のキリスト教徒の口から「汝の敵を愛せよ」という言葉を聞くことはありません。
(イスラム教については詳しくないので省略します)
神と人間の関係は、平行移動させると親と子の関係に重なります。
ヤハウェはまるで子どもを虐待する父親です。
西洋では一般家庭の親もヤハウェを真似て子どもを虐待しています。
カトリック教会では聖職者による子どもへの性的虐待が広範囲に行われていました。
幕末から維新にかけて日本にきた西洋の宣教師、外交官、商人たちは、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、日本が特別だったわけではなく、世界的に見れば、子どもを虐待する西洋のほうが特別だったのです。
しかし、日本は間違って西洋の文化を取り入れ、親が子どもに体罰をするのが当たり前の国になってしまいました。
最近は体罰はよくないこととされ、親子関係のあり方も変わってきました。
今の日本人ならヤハウェがそうとうにおかしな神であることが理解できるでしょう。
ともかく、今の中東の争いは不合理な宗教的かつ家族的感情によって動いていることを理解しなければなりません。