村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2025年06月

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中東で起きている争いはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の争いでもあります。
キリスト教・ユダヤ教勢力がイスラム教勢力圏の真ん中にイスラエルを建国し、以来、何度も戦争を繰り返しながらイスラエルは確固たる足場を築きました。
米軍は中東に20か所以上の基地・施設を有し、4万人以上を駐留させています。
十字軍の時代と同じことをしています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教で、同じヤハウェという神を信仰する宗教です(イスラム教のアッラーはヤハウェのことです)。
当然特徴も似ています。それは闘争的で独善的だということです。

ヤハウェは「人格神」といわれます。
ギリシャ神話の神も日本神話の神もそれぞれに擬人化されているので人格神といえなくもありませんが、一般に人格神といえばヤハウェのことです。神と思えないような、人間のいやな面を持っているために人格神といわれるのだと思います。
ヤハウェの人格が三つの一神教に大きな影響を与えています。

では、ヤハウェはどんな人格なのでしょうか。
『旧約聖書』の『創世記』にはこう書かれています(引用は「口語訳聖書 旧約:1955年版」より)。

主なる神は人をエデンの園に置き、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言いました。
そして、人が一人でいるのはよくないとして、人のあばら骨のひとつを取って、女をつくりました。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
神は二人が禁じられた実を食べたことを知り、へびに対して「おまえはすべての獣のうち最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言いました。
次に女に対して「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言いました。
そして、人に対しては「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」と言いました。

へびは人をだまし、人は神の言いつけにそむいたので神から罰されたということになっています。
しかし、へびは嘘をついていません。嘘をついたのは神です。「善悪を知る木から取って食べると、きっと死ぬであろう」と言ったのに、二人は死にませんでした。
嘘をついた神が真実を言ったへびを罰しました。正しい内部通報者が罰されたみたいなものです。

人は神のいいつけにそむいたので罰されるのは当然のようです。
しかし、善悪を知る木の実を食べた行為に対する罰としては重すぎるのではないでしょうか。神はその人だけでなく子々孫々まで不幸になるように呪いをかけました。


エデンの園を出たアダムは土を耕しました。エバはみごもり、カインを産み、さらにその弟アベルを産みました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」
二人の子どもを持つ親は、二人を平等に愛することはめったになく、たいていえこひいきするものです。主もアベルをえこひいきしたのでしょうか。
それにしても、主の「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう」という言葉は不可解です。
まるでカインが悪いことをしたみたいな言い方で、自分のえこひいきは棚に上げています。
いや、主がカインの供え物を顧みなかったことにはちゃんとした理由があるのかもしれません。だったら、その理由を言えばいいのです。そうすれば、カインもアベルを逆恨みするようなことはなかったはずです。
もちろんカインが弟のアベルを殺したのは、あまりにもひどい罪ですから、カインが主に罰されるのは当然でしょう。
しかし、神が全知全能なら、人間が罪を犯さないように導いてくれてもよさそうなものです。


その後、人は地上にはびこり、同時に人の悪もはびこりました。主は人をつくったことを後悔し、人も獣も、地をはうものも、空の鳥もすべて地表からぬぐい去ることを決心します。ただ、ノアは正しい人だったので、主はノアに箱舟をつくるように命じます。
結局、ノア一家と箱舟に乘れた動物以外のすべての地表の生き物は死んでしまいます。
自然災害で死んだのではありません。主が殺すために洪水を起こしたのです。
地表の生き物をことごとく殺すとはあまりにも残虐です。
しかも、そのときに「正しい人」と「悪い人」を選別しています。
人間はヤハウェの前では安心することができません。


ヤハウェは怒りで人間を罰する神です。
イエス・キリストはそうしたユダヤ教を愛の宗教に改革しようとしました。
キリストの教えといえば「汝の隣人を愛せよ」という言葉が思い浮かぶかもしれませんが、これは誤解です。
「隣人を愛し、敵を憎め」というのは当時の常識でしたが、キリストはそれは当たり前のことで、優れたことをしたことにならないと言いました。
キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言い、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言ったのです。
これがキリストの教えの核心でしょう。
しかし、改革は中途半端でした。今のキリスト教徒の口から「汝の敵を愛せよ」という言葉を聞くことはありません。

(イスラム教については詳しくないので省略します)


神と人間の関係は、平行移動させると親と子の関係に重なります。
ヤハウェはまるで子どもを虐待する父親です。
西洋では一般家庭の親もヤハウェを真似て子どもを虐待しています。
カトリック教会では聖職者による子どもへの性的虐待が広範囲に行われていました。
幕末から維新にかけて日本にきた西洋の宣教師、外交官、商人たちは、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、日本が特別だったわけではなく、世界的に見れば、子どもを虐待する西洋のほうが特別だったのです。
しかし、日本は間違って西洋の文化を取り入れ、親が子どもに体罰をするのが当たり前の国になってしまいました。


最近は体罰はよくないこととされ、親子関係のあり方も変わってきました。
今の日本人ならヤハウェがそうとうにおかしな神であることが理解できるでしょう。

ともかく、今の中東の争いは不合理な宗教的かつ家族的感情によって動いていることを理解しなければなりません。


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ロシアのウクライナ侵攻に続いてイスラエルがガザやイランなどへの攻撃を強め、さらにアメリカも参戦しました。
各国の内政も、右派と左派、保守とリベラルの対立が激化し、移民排斥運動などが高まっています。
こうした動きのもとにあるのは「悪をなくせば世界はよくなる」という考え方です。

プーチン大統領は「ウクライナの非ナチ化」を掲げてウクライナに侵攻しました。つまりナチスという「悪」を排除することが目的です。
イスラエルは「ハマス殲滅」を掲げていました。ハマスはテロリストという「悪」です。
一方、ハマスなどはイスラエルのシオニズムという「悪」を攻撃しています。
トランプ大統領は不法移民のことをテロリスト、殺人者、精神異常者と呼び、「悪い遺伝子が流入している」と主張しました。

こうした考え方は「正義」とも「勧善懲悪」ともいわれますが、もっと広くいうと「道徳」です。
道徳は「悪いことをしてはいけない」ということを教えます。そして、悪いことをする者を罰し、矯正し、矯正できない場合は排除するように教えます。
こうした道徳が対立や争いを激化させ、戦争を起こしているのです。

道徳が世の中を悪くしている――ということは、冷静に世の中を観察すればわかることですが、誰もはっきりとは言いません。
なぜなら道徳はよいものとされているからです。道徳を悪くいうのはタブーです。
しかし、道徳が世の中を悪くしているのはまぎれもない事実です。
具体的に見ていけばわかります。


アルコール依存症になった人は、道徳的な観点からは、過度な飲酒という悪癖に陥った悪い人とされます。実際、本人が健康を害するだけでなく、家族など周りの人に迷惑をかけ、不利益を与えています。
周りの人はアルコール依存症の人を「意志が弱い」とか「家族に迷惑をかけた」とか「約束を破った」とか言って非難します。この非難は、その人を立ち直らせようという善意からのものです。しかし、アルコール依存症の人は非難されて立ち直ることはありません。逆に非難されることがさらなる飲酒の原因になり、症状の悪化を招きます。
覚醒剤などの薬物依存症の人は、犯罪者でもあるので、本物の悪人としてマスメディアからも盛大に非難されます。もちろんこの場合も、非難されて立ち直ることはなく、悪化するだけです。
ただ、ここ数年は、薬物依存症は病気であるという認識が広がってきて、マスメディアは以前のようには薬物依存症の人を非難しなくなりました。

依存症は病気なので、医学的・心理学的な治療が必要です。ところが、人々は道徳的観点からそれを「悪」と見なし、罰したり、矯正しようとしたりして治療を妨げ、症状を悪化させてきました。
道徳が「悪」を生み出しているということがわかるでしょう。


道徳は、子どもが悪いことをしたら叱るべきと教えています。
子どもが行儀の悪いことをしたり、乱暴をしたり、汚い言葉を使ったり、嘘をついたりしたら、親が叱らなければなりませんし、もし叱らないと子どもはどんどん悪くなってしまうとされます。
こういう考え方が幼児虐待を生んでいることは明らかです。
ちなみに未開社会では親が子どもを叱ることはありませんし、動物の世界でも親が子どもを叱ることはありません。

毎日子どもを叱っている親は、自分のしていることは虐待ではないかと悩むことがあります。
そんなとき、子どもは発達障害だったと診断されると親は救われます。子どもを叱らなくてよくなるからです。発達障害は遺伝的なものなので、叱って矯正できるものではありません。
もちろん叱られなくなった子どもも救われます。
ここでも道徳が事態を悪くしていることがわかります。

発達障害は「遺伝」ですが、実は子どもが持っているさまざまな個性も「遺伝」です。
最近は「障害」という言葉を避けて、発達障害といわずに非定型発達と呼ぶことが増えています。
非定型発達と定型発達の間に線を引くことはできません。
発達障害の子を叱ることが無意味なら、発達障害でない普通の子を叱ることも同様に無意味なことです。
そのような認識が広まれば、親は子どもを叱らなくてもよくなり、親子は仲良くなり、もちろん幼児虐待などもなくなります。


もっとも、それに対しては「子どもが悪いことをしたときは叱るべきではないか」という反論があるかもしれません。
そういう反論はまさに道徳が生み出した思考です。

文明がいくら発達しても、赤ん坊はすべてリセットされて、原始時代と同じ状態で生まれてきます。そうすると文明化した親の意識が赤ん坊から乖離し、親は子どもに共感しにくくなり、子どもに対して「こんなことがわからないのか」「こんなことができないのか」という不満を募らせますし、中には子どもがかわいくないという親もいます。また、洗練された文化的な生活をしていると、子どもの自然なふるまいがおとなにとって都合が悪くなります。家の中の高価な品物を壊されては困りますし、家の中を汚されても困ります。また、家の中には子どもにとって危険なものもあります。
そうすると親は子どもに、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと言って、子どもの行動をコントロールせざるをえません。
そのとき子どもがしてはいけないことを「悪いこと」すなわち「悪」と名づけたのです。
一方、子どものするべきことは「よいこと」すなわち「善」と名づけ、親は子どもに「よいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」と主張しました。
親にとって都合の悪いことが「悪」で、都合のいいことが「善」です。つまり善悪の基準は親の利己心です。

子どもは昔と変わらず自然にふるまっているだけです。それが文明の進んだある時点から「悪」とされるようになりました。
「美は見る者の目に宿る」という言葉があるので、それにならっていうと「善悪は見る者の目に宿る」です。
つまり人間は「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、親は子どもの「悪いこと」をやめさせ、「悪い子」を「よい子」にしようとしてきましたが、まったく間違った努力です。
「悪」は子どもの中にあるのではなく、自分の目の中にあるからです。
私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。


40人の生徒がいるクラスで、教師はいつも騒いでいる「悪い子」を排除すれば「よいクラス」になると考え、「悪い子」を排除したとします。しかし、そうしてつくった「よいクラス」の中にも騒がしい子とおとなしい子がいます。騒がしい子は目障りなので、また排除します。こうしたやり方ではどこまでいっても「よいクラス」は実現できません。それに、この教師は排除された子どものことを無視しています。

今の世界も同じ排除の論理で、犯罪者、テロリスト、悪人、不法移民を排除して「よい世界」を実現しようとしていますが、排除された者がおとなしくしているわけがなく、このやり方はうまくいきません。
DEI(多様性、公平性、包括性)の論理でこそ平和で安定した社会をつくることができます。



人間は親(ないしは親の代理人)からたっぷりの愛情を受け、全面的に肯定されることでまともな人間に育ちます。
しかし、文明人の親は子どもの中の「悪」を排除しようとして、暴力や暴言でしつけをするので、排除の論理を身につけた暴力的な人間に育ってしまいます。
そうした人間が互いに争って混乱を招いているのが今の世界です。
世界を改革するには親子関係を見直すことから始めなければなりません。



今回の記事は「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」で述べたことをより具体的に述べたものです。
また、より詳しいことは別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。


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日本の昨年の出生数は初めて70万人を下回り、合計特殊出生率も1.15と過去最低となりました。
政府はあれやこれやと少子化対策をしてきましたが、まったくといっていいほど効果がありません。
それはしかたのないことで、先進国はどこも出生率は低いものです。

アメリカはずっと人口が増え続けてきましたが、それは移民を受け入れてきたからです。
アメリカの白人に限ってはずっと出生率2.0を下回っています。
ヒスパニックの出生率は高いとされてきましたが、最近は急速に低下して2.0を下回りました。
少子化は先進国病なのです。

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ですから、日本が少子化を克服しようというのはむりな話です。出生率をいくらか上げて、少子化の進行を少しでも遅らせることができれば上出来です。

先進国では少子化が進んでも、人類全体では人口は増え続けています。
現在は約80億人で、国連の「世界人口推計」によると2030年に約85億人、2050年に約97億人となり、2100年には約109億人でピークに達すると予測されています。

ですから、人類の存続を心配することはありません。
日本政府も人類のために少子化対策をしているのではありません。
では、なんのためにしているかというと、日本の経済、財政、年金のためです。
しかし、子どもをつくる人は日本の経済、財政、年金のことなど考えていません。自分と子どもの人生のことを考えています。
ここに政府と子づくり世代の齟齬があります。


それにしても、先進国で少子化が進むのはなぜでしょうか。
一応の説明として、先進国では女性の社会進出が進み、結婚や出産のタイミングが遅れること、家族よりも個人の自由や自己実現を優先する価値観が広がることなどが挙げられます。
低収入や雇用の不安定などの経済的理由も挙げられますが、貧しい途上国で出生率が高いのですから、経済的なことは理由にならないのではないでしょうか。
子育てのための補助金などもあまり効果はないはずです。

では、先進国で少子化が進む原因はなにかというと、文明が発達するほど人間が一人前になるのが困難になることです。

狩猟採集社会では、子どもは遊びの中で狩猟や採集のやり方をみずから学んで一人前になりました。ですから、親はなにも教える必要はありませんでした。
しかし、文明が発達して社会が複雑化するとともに一人前になるために学ぶべきことが増えてきますし、親などのおとなが教えるべきことも増えてきます。
人間はしゃべることは自然に覚えますが、読み書きは誰か教える人がいないと覚えることはできません。そのため近代になると義務教育が始まります。
文明の発達は加速度的に速くなり、義務教育の年限は延長され、今では義務教育は中学校までとされますが、高校まで行くのは最低限に必要とされます。大学に行くのも普通となり、より有利な立場を求める人は大学院に行きます。
江戸時代には多くの人は寺子屋にも行かなかったのですから、短期間に大きく変わりました。

子どもに高度な教育を受けさせるにはお金がかかりますが、負担はそれだけではありません。親は子どもに対して「勉強しなさい」などと言って圧力を加えなければなりませんが、その心理的な負担もあります。
子どもにはみずから学ぶ意欲が備わっていますが、自発的な学習だけでは今の社会には適応できないと考えられています。そのため、どこの国でも同じですが、親は子どもに勉強を強制しなければなりません。
勉強させたい親と勉強したくない子どもが争うことになります。
子どもが学校に行きたがらないという事態も起こります。日本では中学までは教育を受けさせる義務が親にありますから、親はむりをしても学校に行かせようとして、ここでも親子が争うことになります。

学校教育以外に、音楽やスポーツなどの習い事というのもあります。今の日本には習い事をまったくやっていない子どもはひじょうに少ないでしょう。
ピアニストになるつもりもないのにピアノを習って意味があるのかと思うのですが、ピアノの技量を伸ばした経験がほかのことをやるときにも役立つと考えられているのでしょう。
しかし、子どもがみずからやりたがっているならいいのですが、やる気がないのにやらされているのでは、子どもにとっても負担ですし、親にとっても負担です。

ともかく、先進国では「一人前」になるためのハードルがひじょうに高いので、親が子どもを一人前に育てるまでの負担がたいへんです。
しかも、先進国は核家族制なので、その負担はほとんど親だけにかかります。
途上国では親族や共同体の人間が周りにいて、子育てを手伝ってくれるので、その違いは大きいといえます。


一人前になることは、子どもにとってもたいへんです。
江戸時代には寺子屋に通っていない子どもは「勉強しなさい」と言われることもなく、親の仕事ぶりを見て覚えるだけで一人前になれました。
今は二十歳前後までずっと勉強の連続です。
どこの国でも学校にいじめがつきものなのは、勉強がストレスだからでしょう。

1972年、ローマクラブは「成長の限界」と題するレポートを出し、資源の枯渇や環境汚染によって人類の経済成長はいずれ限界に達するだろうと警告し、世界に衝撃を与えました。
しかし、人類の経済成長を制約するものは、資源と環境のほかにもうひとつあります。それは「能力の限界」です。
人間の能力は生まれつき決まっています。これは原始時代からほとんど進化していません。
文明が発達して社会が複雑化すると人間の能力が追いつきません。
これまでは教育を強化することで補ってきましたが、それも限界です。
日本の出生率は1.15ですが、韓国は0.75で、中国は1.00(2023年国連推計)です。儒教文化圏は受験競争が激烈です。自分の子どもを受験競争に駆り立てたくないという人が子どもをつくらないのでしょう。


先進国はどこも出生率2.0を下回っているのを見ると、文明の水準はすでに人間の能力を超えてしまっていると思われます。
少子化を克服しようとすれば、文明社会のあり方を根本的に変革するしかありません。
今の社会は知的能力の高い人が勝ち組になって、知的能力の低い人が負け組になる社会です。
自分の子どもが負け組になるのは誰でもいやですから、それも少子化の大きな原因です。
競争社会から転換して、知的能力の低い人もそれなりに幸せになれる社会を目指すべきです。

もっとも、そういう根本的な社会変革はいつできるかわかりません。
手っ取り早い方法もあります。

今の社会はおとな本位の社会で、子どもが不当に迫害されています。
たとえば赤ん坊の泣き声がうるさいと主張するおとなが多くて、赤ん坊を連れた親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがありますが、今のおとなは泣く子に勝とうとしているのです。
公共の場で子どもが騒いだり走り回ったりするのも非難されます。
公共の場にはおとなも老人も子どももいていいはずですが、子どもは排除されているのです。
そして、子どもが騒ぐと、「親のしつけがなっていない」と親が非難されます。
こうした「しつけ」の負担が親に押しつけられていることも少子化の原因です。

そもそも子どもが騒いだり走り回ったりするのは子どもの発達に必要な行為ですから、おとなの身勝手な理由で止めることは許されません。
子どもがもっとたいせつにされる社会になれば、少子化はいくらか改善するはずです。

とはいえ、21世紀中は人類の人口は増え続けるわけですから、日本は少子化対策をしなければならないわけではありません。
少子化を前提に経済、財政、年金を考えるべきです。


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学術会議法案が国会で採択されようとしていますが、学者は反対運動をしても、一般の人を巻き込むまでにはなっていません。
アカデミズムや科学、学問に対する一般人の価値観が変わってきているのです。
こうした傾向は日本よりもアメリカで顕著に見られます。

第二次トランプ政権は、発足当初から科学予算の大幅削減に着手しました。
NASAの科学予算は約半分に削減される予定です。米国立衛生研究所(NIH)の助成金も削減され、この影響でとくに医学や気候変動分野の研究が打撃を受けています。
これに対し世界の科学者約2000人が「科学界は壊滅的な打撃を受けている」と警告する書簡を公開しました。
「Nature」誌が3月に実施したアンケートによると、アメリカの科学者の約75%がアメリカを離れることを検討しているということです。

トランプ政権はハーバード大学やコロンビア大学を攻撃しているので、リベラルな大学を攻撃しているように見えますが、最初から大学、科学、学術を攻撃しているのです。
トランプ政権は反科学です。
保健福祉長官に就任したロバート・ケネディ・ジュニア氏は有名な反ワクチン活動家で、さまざまな陰謀論を述べてきました。保健福祉長官はアメリカ食品医薬品局(FDA)、アメリカ国立衛生研究所(NIH)、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)を監督する立場です。

なぜトランプ政権が反科学なのかというと、聖書の記述を絶対視するキリスト教福音派に寄せたのかなと思います。
キリスト教はもともと反科学的なところがあります。
ガリレオ・ガリレイの時代に戻っていきそうな感じです。

しかし、キリスト教との関係だけでは説明しきれないものがあります。
世の中全体に反科学ないしは反アカデミズムの気分が広がっています。
トランプ政権がハーバード大学を攻撃しても、それをいい気味だと思っている人たちがかなりいるようです。


この傾向は日本でも同じです。
この背景にはもちろんインターネットの普及があります。
オールドメディア対ニューメディアということが言われましたが、それにならっていうとオールドアカデミズム対ニューアカデミズムという状況が生まれているのです(かつて浅田彰氏が登場したころニューアカデミズム=ニューアカという言葉がありましたが、それとは別の言葉です)。

新聞、雑誌、テレビがオールドメディアで、SNSを中心としたインターネットがニューメディアです。
新聞には右から左までさまざまな論調がありますし、インターネットにも多様な意見があるので、メディアによる意見の偏りはほとんどないはずです(ニューメディアには新聞、テレビのようなチェック機能がないので、陰謀論がはびこりやすいという傾向はあります)。
ただ、新聞、雑誌、テレビには権威があり、既得権益もありそうですから、ニューメディアに拠る人々は“マスゴミ”という言葉を使ったりしてなにかとオールドメディアを攻撃します。

オールドメディア対ニューメディアの対立が極端に表れたのが斉藤元彦兵庫県知事をめぐる問題です。
オールドメディアは圧倒的に斎藤知事を批判しましたが、ニューメディアにおいて急速に斎藤知事支持の論調が高まり、オールドメディアに拠る人たちとニューメディアに拠る人たちの対決という形になりました。
なぜメディアによって論調が変わるかというと、やはりニューメディアには陰謀論が多いということがありました。それに、ニューメディアの人はオールドメディアを批判するのに、オールドメディアはニューメディアをほとんど批判しないということがあります。たとえばオールドメディアが「告発者のプライバシーを言うべきではない」とか「告発者のプライバシーに問題があっても、告発内容とは関係ない」といったことを主張していれば、かなり変わっていたでしょう。


科学に関することでも、オールドメディアとニューメディアで論調が違いました。
地球温暖化問題では、化石燃料を今まで通りに燃やしたいというのが一般の人の素朴な思いですから、どうしても温暖化を否定する説を信じたくなり、陰謀論も信じてしまいます。その代表的なものが、「気温の低下を隠す策略(trick)を終えたところだ」という気象研究者のメールが流出したことです(このメールは切り取られたために意味が違うとされています)。
新型コロナのワクチンが問題になったときも、できたばかりのワクチンの注射なんか打ちたくないというのが人々の素朴な思いですから、陰謀論でもいいので反ワクチンの説を信じてしまいます。

そうしてネットの中に、アカデミズムの大勢とは別の説がはびこります。この説はもっともらしい科学の体裁を整えているので、反科学ではなく疑似科学かニセ科学というべきものです。
ですから、オールドアカデミズム対ニューアカデミズムと表現することにしました。

科学界隈のことでは、「政府はUFOの存在を隠している」とか「古代史には宇宙人の痕跡がある」とか「異星からきたヒト型爬虫類が人類を支配している」といったものから「〇〇は健康にいい」とか「〇〇で運気を上げる」といったものまで、さまざまあります。バカバカしいような説でも、ネットでは同じ考えの人が集まって、エコーチェンバー効果でどんどん確信を強めていきます。


ニューアカデミズムを信じる人は、オールドアカデミズムは既得権益のために古い説にしがみつく科学者に支配されていると見なすので、科学者へのリスペクトもありませんし、アカデミズムの権威も認めません。
そういう気分は一般社会にも広がっているので、たとえば学術会議法案に反対する人が「学問の自由」を守れと主張しても、学者が特権を守ろうとしていると受け止められてしまいます。
これはマスコミが「報道の自由」を主張すると、自分たちの特権を守ろうとしていると思われるのと同じです。
ですから、「学問の自由」がなぜたいせつなのかから説明しないといけません。


日本学術会議法案とはどういうものでしょうか。
『【学者が猛反対】菅政権の任命拒否から5年、今度は法人化ゴリ押し、国が「日本学術会議」を狙い撃ちする理由を探る』が詳しく説明しています。

なにがいちばんの問題かというと、学術会議の独立性が損なわれて、政府の管理下に置かれてしまうのではないかということです。
ひじょうに複雑な仕組みになっていて、要約するのがむずかしいので、直接引用します。
2026年10月の新法人発足時とその3年後の会員選定では、特別に設置された選考委員会が候補者を選ぶ。この委員会のメンバーは、会長が首相の指定する学識経験者と協議して決めなければならない。
 その後は会員で構成された委員会が候補者を選ぶが、その際、会員以外で構成される「選定助言委員会」に意見を聞くことが半ば義務付けられている。
活動に関しても外部から目を光らせる仕組みができる。いずれも会員以外で構成される「運営助言委員会」、「監事」、「評価委員会」が新たに設置されるのだ。監事と評価委員会のメンバーは首相が任命する。

坂井学・内閣府特命担当大臣は5月9日の衆議院内閣委員会で「特定のイデオロギーや党派的主張を繰り返す会員は今度の法案で解任できる」と答弁しました。法案の本質を表現しています。

この法案に反対してもらうには、学術会議の独立性のたいせつさを理解してもらうことから始めねばなりません。

今の日本は民主主義ですが、国政選挙は数年に一度しかなく、民意を政治に反映させるには不十分です。
政府は膨大な情報を管理しているので、意図的な操作が可能です。国民に真実が知らされないのでは、選挙も意味がなく、容易に独裁国になってしまいます。
そこで重要になるのはジャーナリズムによる調査報道です。その意味で「報道の自由」は絶対に必要です。
同様に必要なのが「学問の自由」です。学問や科学は政府に不都合なことを示すことがあります。政府が学問を支配しようとするのは独裁化の兆候です。
そもそも菅内閣が新会員として任命を拒否した6人も、政府批判の意見を述べたことのある人たちです。

したがって、学術会議を政府の管理下に置くのはあってはならないことですが、世の中には政府から金をもらっているのだから、政府が口出しするのは当然だという意見もあります。
たとえば橋下徹氏は5月11日、フジテレビ系「日曜報道THE PRIME」において「公金が入るなら公のチェックが入るのは当たり前じゃないですか」「そもそも、お金をもらって、後は全部自由にさせてくれというのは、仕送りをもらっているろくでもない学生と同じですよ」などと言って、法案に反対する学者を非難しました。
公金が不正に使われていないかをチェックするのは当たり前ですが、使いみちにまで口を出すのは政府の役割ではありません。子どもに仕送りして、金の使いみちにまで口を出す親がろくな親ではないのと同じです。


インターネットの普及によって、学者もアカデミズムの権威の上にあぐらをかいていられなくなりました。
さまざまな陰謀論や橋下氏のような愚論とも戦っていかねばなりません。

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私は30代前半に究極の思想ともいうべき「地動説的倫理学」を思いつきました。
これは人類史においてコペルニクスによる地動説の発見に匹敵するぐらい重大な発見です。
そんなことを言うと頭のおかしいやつと思われますが、どう思われようと、この重大な発見を世の中に伝えないわけにいきません。
発見したことの重大さに比べて、私の能力があまりにも過小であるという困難を乗り越えて、なんとか一冊の本になる形に原稿をまとめて、別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」で公開しました。

しかし、あまり理解されません。
どうやらむずかしく考えすぎたようです。
私が「地動説的倫理学」を思いついたとき、これは常識とあまりにも違うのでなかなか理解されないだろうと思いました。そこで、思いついた過程を丁寧に説明し、また、科学としても認められるようにしようと配慮しましたが、そのため読みにくくなったかもしれません。

しかし、世の中の価値観はその当時とは大きく変わりました。今ではすんなりと理解する人も少なくないでしょう。「なぜもっと早く教えてくれなかったのだ」と文句を言われるかもしれません。

「地動説的倫理学」そのものはきわめて単純です。
天文学の地動説は小学生でも理解しますが、それに近いものがあります。
考えてみれば、コペルニクスがどうやって地動説を思いついたかなんていうことは、地動説を理解する上ではどうでもいいことです。

ということで、ここでは「地動説的倫理学」をもっとも単純な形で紹介したいと思います。



人類は霊長類の一種で、優れた言語能力を有することが特徴です。
人類が使う多様な言語の中に「よい」と「悪い」があります。「よい天気」と「悪い天気」、「よい匂い」と「悪い臭い」、「よい味」と「悪い味」、「よい出来事」と「悪い出来事」など、あらゆる物事に「よい」と「悪い」は冠せられます。
「よい」とは人間の生存に有利なもので、「悪い」とは人間の生存に不利なものです。新鮮な肉は「よい肉」で、腐った肉は「悪い肉」です。これは「良性腫瘍」と「悪性腫瘍」、「善玉菌」と「悪玉菌」という言葉を見てもわかるでしょう。
人間は森羅万象を「よい」と「悪い」と「どちらでもない」に見分けながら生きています。

この「よい」と「悪い」を人間の行為に当てはめたのが道徳です。
自分が困っているときに助けてくれる他人の行為は「よい行為」であり、それをするのは「よい人」です。
自分にとって不利益になる他人の行為は「悪い行為」であり、それをするのは「悪い人」です。
こうして「善」と「悪」すなわち道徳ができました。
そうして人は「よいことをするべきだ。悪いことをしてはいけない」と主張して、相手を自分の利益のために動かそうとしてきました。

ここで注意するべきは、腐った肉は誰にとっても「悪い肉」ですが、人間の行為はある人にとっては利益になる「よい行為」となり、別の人にとっては不利益になる「悪い行為」になるということです。つまり道徳には普遍性がありません。
そのため、強者が自分に都合のいい道徳を弱者に押しつけることになりました。


動物は同種間で殺し合うことはめったにないのに、人間は数えきれないほど戦争をしてきました。また、奴隷制や植民地支配によって人間が人間を支配してきました。
人間は道徳をつくりだしたためにかえって悪くなったのではないでしょうか。
それを確かめるには「道徳をつくりだす以前の人間」と「道徳をつくりだした以降の人間」を比較する必要があります。
この比較は簡単なことです。赤ん坊や小さな子どもは道徳のない世界に生きているので、子どもとおとなを比較すればいいのです。

道徳のない世界では、子どもは自由にふるまって、親はそれを見守るだけでした。これは哺乳類の親子と同じです。動物の親は子どもにしつけも教育もしません。
未開社会でも親は子どもに教育もしつけもしません。
納得いかない人は、次の本を参考にしてください。



しかし、文明が発達すると、子どもの自然なふるまいが親にとって不利益になってきます。
定住生活をするようになると、家の中を清潔にするために子どもの排泄をコントロールしなければなりません。子どもに土器を壊されてはいけませんし、保存食を食べ散らかされてもいけません。
それに、文明人の親は多くの知識を持ち、複雑な思考ができますが、赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきますから、親の意識と子どもの意識が乖離します。共感性の乏しい親は子どもに対して「こんなことがわからないのか」とか「こんなことができないのか」という不満を募らせ、子どもに怒りの感情を向けるようになります。
そうした親は道徳を利用しました。親にとって不利益な子どもの行為を「悪」と認定し、その行為をすると叱ったり罰したりしたのです。こうすると子どもを親の利益になるように動かせるので、このやり方は広まりました。「悪い子」を「よい子」にすることは、その子ども自身のためでもあるとされたので、叱ることをやましく思うこともありませんでした。

これは子どもにとっては理不尽なことです。これまでと同じように自然にふるまっているのに、あるときから「悪」と認定され、叱られるようになったのです。
この「悪」は子どもの行為にあるのではありません。親の認識の中にあるのです。
「美は見る者の目に宿る」という言葉がありますが、それと同じで「善悪は見る者の目に宿る」のです。
いわば人間は「善悪メガネ」あるいは「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、人間はなんとかしてこの世から「悪」をなくそうと力を尽くしてきましたが、まったく間違った努力です。「悪」は見る対象にあるのではなく、自分自身の目の中にあるからです。

私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
これまで世の中を支配してきたのは、自己中心的で非論理的な「天動説的倫理学」だったのです。

「天動説的倫理学」の支配する世界でいちばん苦しんでいるのは子どもです。親は「子どもは親の言うことを聞くべき」とか「行儀よくするべき」とか「好き嫌いを言ってはいけない」とかの道徳を押しつけ、親の言うことを聞かないと「わがまま」であるとして叱ったり罰したりします。これはすなわち「幼児虐待」です。
私がこの理論を思いついたとき、これはなかなか世の中に受け入れられないだろうと思ったのは、まさにそこにあります。
当時は、幼児虐待は社会的に隠蔽されていました。ごくまれに親が子どもを殺したという事件がベタ記事として新聞の片隅に載るぐらいです。この理論は幼児虐待をあぶりだすので、社会から無視されるに違いないと思ったのです。

しかし、今では多くの人が幼児虐待に関心を持っているので、幼児虐待を人類史の中に位置づけたこの理論はむしろ歓迎されるかもしれません。
この理論は幼児虐待の克服に大いに役立つはずです。

今の世の中は「親は子どもに善悪のけじめを教えなければならない。教えないと子どもは悪くなってしまう」と考えられています。
しかし、子どもには「よい子」も「悪い子」もいませんが、親には子どもを愛する「よい親」と子どもを虐待する「悪い親」がいます。
おとなの中にはテロリスト、ファシスト、差別主義者、殺人犯、レイプ犯、強盗、詐欺師、DV男、利己主義者などさまざまな「悪人」がいます。そうした「悪人」が子どもを「よい子」にしようとして教育やしつけを行っているのが今の「天動説的倫理学」の世界です。

こうした状況をおとなの目から見ているとわけがわかりませんが、子どもの目から見ると、すっきりと理解できます。
複雑な惑星の動きが太陽を中心に置くとすっきりと理解できるのと同じです。
しかし、これはおとなにとっては認めたくないことかもしれません。それも私がこの理論はなかなか理解されないだろうと思った理由です。


道徳は強者が弱者に押しつけるものであるというとらえ方は、マルクス主義とフェミニズムも同じです。マルクス主義は資本家階級が労働者階級に押しつけ、フェミニズムは男性が女性に押しつけるとしました。私は親が子どもに押しつけるとしたのです。
ここまで踏み込むことで善と悪の定義ができました。.これは画期的なことです(これまで善と悪の定義はありませんでした)。
道徳は強者が弱者に押しつけるものだということを知るだけで、道徳にとらわれない自由な生き方ができるはずです。

私はさらに、この理論と進化生物学を結びつけました。これが正しければ、この理論は「科学的」と称してもいいはずです。
マルクス主義は「科学的社会主義」を称して一時はたいへんな勢いでしたが、結局「科学的」というのは認められませんでした。
「地動説的倫理学」は「科学的」と認められるでしょうか。



これを読んだだけでは、いろいろな疑問がわいてくるでしょう。
「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく書いているので、そちらをお読みください。


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