村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2025年10月

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私はこれまでに多くの夫婦を見てきましたが、新婚夫婦を別にすれば、幸せそうな夫婦はほとんど見たことがありません。
結婚のときは「笑顔の絶えない明るい家庭を築きたい」と本気で思っていても、喧嘩を繰り返すうちに愛情が失われ、表面的なつきあいだけの仮面夫婦になるということが多いようです。
ほかに好きな人ができたというならしかたありませんが、二人ともうまくやっていきたいと思っているのにうまくやれないというのは悲劇です。

「冷凍餃子は手抜きか」という話題が2020年にX(当時はツイッター)でバズったことがありました。
ある女性が疲れて帰宅し、夕食に冷凍餃子を解凍して出したところ、子どもは喜びましたが、夫が「手抜きだよ、これは」と言ったというのです。
これには女性に同情する声が多く上がりました。
冷凍餃子のトップメーカーである味の素冷凍食品株式会社の公式アカウントが「冷凍餃子を使うことは、手抜きではなく、“手間抜き”です」と投稿すると、44万「いいね」がつき、テレビやネットメディアでも報道されました。

「手抜き」と「手間抜き」はどこが違うのでしょうか。
一見すると同じようですが、実は大きな違いがあります。

なお、「手間抜き」の代わりに、「時短」とか「省力」という言葉を使っても冷凍食品使用の正当性を表現することもできます。
つまり「手抜き」という言葉にだけ特別な意味があるのです。


国語辞典には「手抜き」は『しなければならない手続きや手間を故意に省くこと。「仕事を手抜きする」「手抜き工事」』と説明されています。
AI回答の補足説明には『「手抜き」は、多くの場合、労力を怠っているという批判や揶揄の目的で使われます。例えば、「手抜き工事」のように、品質や安全性を損なう行為を指すことがあります』と書かれています。
つまり「手抜き」には相手を非難する悪い意味があるのです(「手間抜き」には悪い意味はありません)。
ですから、夫が妻に料理を「手抜き」と言ったら妻を非難していることになり、妻は傷つきます。同じようなことが繰り返されると、夫婦関係はどんどん悪化していきます。

ところが、夫のほうは妻を非難しているつもりはありません。逆に妻にいいことをしているつもりです。
手抜き工事を発見したら、それを指摘して改めさせるのは正しいことです。これは工事業者のためでもあります。妻の手抜きを指摘するのもそれと同じと思っています。

もっとも、工事には法令によって基準が定められているので、手抜きかどうかははっきりします。
料理にはそういう基準がありません。
「冷凍餃子は手抜き」と言った夫は、「餃子は手づくりであるべき」とか「冷凍食品は手抜きだ」という基準を持っているのでしょうが、その基準に根拠はありません。
ただ、まったくでたらめというわけでもありません。

TBS系で放送中のドラマ「じゃあ、あんたが作ってみろよ」第1話では、勝男(竹内涼真)は同棲相手の鮎美(夏帆)のつくる筑前煮が好きなのですが、インスタントの顆粒だしは使うべきではないという考えの持ち主です。男の友人がめんつゆを使って肉じゃがをつくったと言うと、「めんつゆで料理は邪道」などと言います。
勝男と鮎美は同じ会社に勤めていて、共働きなのですが、家事はすべて鮎美がやっています。勝男の実家の両親もどうやらそういう役割分担になっているようです。
勝男は鮎美にプロポーズしますが、鮎美に断られ、同棲も解消されてしまいます。勝男は鮎美の気持ちを理解しようと自分で筑前煮をつくってみますが、カツオ節と昆布でだしを取ることがいかにたいへんかを知ります。

似たような話で、主婦がスーパーの総菜売り場でポテトサラダを買ったら、見知らぬおじさんから「母親ならポテトサラダぐらい自分でつくったらどうだ」と言われて傷ついたという話がやはりツイッターでバズったことがあります。ポテトサラダはつくるのがけっこうたいへんですし、副菜にしかならないので、そんなことを言われる筋合いはありません。


昔は性別役割分担がはっきりしていて、家事は妻がやるものと決まっていたので、料理を手づくりするのは当たり前でした(冷凍食品もありません)。「冷凍餃子は手抜きだ」と言った夫はそういう時代の価値観なのでしょう。
男はどんどん価値観をアップデートしていかなければなりません。

しかし、どの価値観が正しいかということは簡単には決められません。世の中の価値観はどんどん変わっていきますし、そこに個人の価値観も加わります。
「だしはカツオ節と昆布で取るべき」という価値観も間違っているわけではありません。そうしている人もいます。

問題は自分の価値観を相手に押しつけることです。
相手に「だしはカツオ節と昆布で取れ」なんて言うと、ドラマのタイトル通りに「じゃあ、あんたが作ってみろよ」という返しがぴったりです。
ただ、現実には二人の力関係があって、押しつけられてしまうこともあります。そうすると不満がたまり、愛情が冷めていくことになります。

なぜ人は自分の価値観を相手に押しつけるのでしょうか。
それはその価値観が「道徳」だと思うからです。

手抜きする妻、怠け者の妻、だらしない妻は、教え導いて「よい妻」にするべきである。そうすることは妻自身のためでもある。こういう考え方が道徳の基本です。
そうすると、「冷凍餃子は手抜きだ」と言って手抜きをやめさせることは妻自身のためでもあるということになります。
普通は自分の価値観を押しつけると相手は不満な態度を示しますから、ほどほどのところでやめるものです。
ところが、道徳の押しつけは相手のためだということなので、相手の不満を無視して押しつけることになります。そうすると夫婦関係は破綻していきます。


ですから、「夫婦関係に道徳を持ち込むな」というのが私の教える秘訣です。

夫婦関係から道徳を追い出すとどうなるでしょうか。

心理学的なコミュニケーションの技法に「アイメッセージとユーメッセージ」というのがあります。
アイメッセージとは「私」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(私は)連絡がなくてさみしい
(私は)そう言われると悲しい
(私は)少しイライラしています
(私は)その場所に行くのは心配だ

ユーメッセージとは「あなた」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(あなたは)遅刻しないでよ!
(あなたは)もっとできるでしょ!
(あなたは)メモを取ろうね!
(あなたは)連絡を細目にすべきだ!

ユーメッセージは相手の行動を制限することになりがちです。ユーメッセージを多用すると人間関係が悪くなります。
(「アイメッセージとは?意味と使い方,ユーメッセージとの違い」を参考にしました)

「僕は手づくりの餃子が食べたい」と言えばアイメッセージです。
「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」というのはユーメッセージです。
道徳の主張というのは必然的にユーメッセージになります。

「僕は手づくりの餃子が食べたい」という主張には、「今日は疲れてるから冷凍でがまんして」とか「冷凍もおいしいわよ」と言って、話し合いが可能です。
「冷凍餃子は手抜きだ」とか「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」という道徳的な考え方は、話し合いで説得するのは困難です。


「良妻賢母」や「夫唱婦随」という道徳があるように、もともと家父長制は道徳と一体となって存在してきました。
水田水脈衆院議員(当時)は2014年、衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です」と言いました。
この発言は男女平等を否定するものだとして批判されましたが、「男女平等は反道徳だ」という部分について論じた人はいませんでした。もしこの言い分が正しければ、男女平等を実現するには反道徳でなければならないことになります。
そして、私はこの部分については杉田氏と同意見です。
対等な夫婦関係をつくるには家庭から道徳をなくさなければなりません。

ただ、私は道徳すべてを否定しているわけではありません。
道徳は競争社会を生き抜くために必要なものです。
たとえば法の網をすり抜けている悪徳政治家には道徳的非難を浴びせなければなりません。
ライバルに対して優位に立とうとするとき、ライバルの非道徳的なふるまいを非難することは有力な手段です。
つまり道徳というのは他人を非難する道具なのです。
「人間は誠実であるべき」とか「嘘をついてはいけない」という道徳を設定しておけば、他人をいつでも嘘つきと非難することができます。これが道徳の使い方です(「人間は誠実であるべき」という道徳が誠実な人間をつくることはありません)。
私は「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」と言っています。

ただ、あくまで道徳は競争社会を生きるための道具なので、家庭に持ち込むものではありません。家庭に持ち込むと家庭が闘争の場になってしまいます。
相手のことを「だらしない」「怠けている」「無神経だ」などと道徳的に非難したくなったら、それは自分の愛情が欠けてきたからではないかと考えて、道徳を頭から排除し、自分の愛情を補充するようにしてください。



道徳を生存闘争の道具と見なすのは私独自のものかもしれません。
詳しくは「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」を読んでください。

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高市早苗政権が発足しました。
内閣支持率は好調で、とくに若者の支持が高いそうです。
私などから見ると、安倍政権の二番煎じとしか見えませんが、第二次安倍政権の発足が2012年ですから、若い人には新鮮に見えるのかもしれません。
それに、石破茂前首相と高市早苗首相は政治的スタンスがまったく違いますから、自民党得意の「疑似政権交代」感が強く出たということもあるでしょう。ですから、裏金問題などがかすんでしまいました。

しかし、あくまで疑似政権交代であって、ずっと自民党中心政権が続いていくことになります。これが日本にとって最大の問題です。


アベノミクスは日本にとってよかったのか悪かったのかという基本的なことも検証されていません。
高市首相はサナエノミクスという言葉を使っていますが、これはアベノミクスと同じなのか違うのかもよくわかりません。
自民党においては安倍首相が神格化されて、批判が封じられているのです。
自民党だけでなく保守派全体も安倍首相とその政策を批判しません。

最近、在留外国人や訪日観光客の増加が問題になっていますが、これは安倍政権が「移民政策ではない」と言いながら外国人労働者を増やし続け、菅義偉官房長官が訪日観光客を増やす政策をやってきたからです。
ところが、外国人を増加させた安倍政権を批判しないので、現状に対する反省がありませんし、これから外国人政策をどうするのかもよくわかりません。
高市首相は所信表明演説で「一部の外国人による違法行為やルールからの逸脱に対し(中略)政府として毅然と対応します」と言う一方で、「人口減少に伴う人手不足の状況において、外国人材を必要とする分野があることは事実です。インバウンド観光も重要です」とも言っています。
外国人労働者の増加は財界の要請でもあるので、自民党は今後も応えていくのでしょう。


とはいえ、高市首相は元気ですし、高市応援団も元気です。
高市首相の所信表明演説のときに野党のヤジがうるさいという批判の声がSNSなどで上がりました。ほかにもNHKのニュースで高市首相を映すとき意図的に映像を揺らしているとか、時事通信の高市首相の写真に悪意が感じられるとか、よくわからないことまで批判しています。
国会の野党のヤジについては、石破首相や岸田首相のときは問題にならなかったのに、高市首相のときに問題になったのですから、高市首相に原因があることになります。少なくともヤジるほうとヤジられるほうの両方に原因があると見るべきですが、高市応援団は一方的な見方しかしません。

高市応援団がなぜうるさいかというと、基本にナショナリズムがあるからです。ナショナリズムは国家規模の利己主義です。
国家主義は愛国主義ともいい、「愛」という言葉が入っています。それに「国のため」という利他的な名分もあります。
人はみな日ごろ利己的な主張を抑えて生活しているので、その抑えられたものが「愛」や「利他的」という装いのもとに噴出するのです。

しかし、ナショナリズムの主張というのは、国内で言っている分にはあまり問題になりませんが、国際社会で主張すると他国と摩擦を起こしますし、へたをすると戦争になります。
ですから、対外的にはナショナリズムの主張は抑制せざるをえません。

これは安倍政権を振り返れば明らかです。
安倍氏は第一次政権のとき靖国参拝をしなかったことを「痛恨の極み」とし、第二次政権においては首相就任1年後に靖国参拝をしました。これは中国韓国の反発を招き、アメリカからも「失望」を表明されたために、もう二度と参拝しませんでした。

従軍慰安婦問題についても、安倍首相は「強制連行はなかった」と強硬に主張していましたが、結局日韓合意において「おわびと反省」を表明しました。
このときはオバマ政権の圧力に屈した形でしたが、そうでなくても軍国主義時代の蛮行を正当化しようとすれば、国際社会での日本の評価が下がるだけです。

きわめつけは、2020年に習近平主席を国賓として招待しようとしたことです。安倍首相はそれまで中国包囲網の外交をしていたので、安倍支持者は現実を受け止められない様子でした。結局、コロナ禍によって習近平主席の来日は中止となりました。
国内では「国益追求」などと勇ましいことを言っていても、国際社会では協調外交をせざるをえないのが現実です。


これは高市政権でも同じです。
高市首相は靖国神社の例大祭に毎年参拝しているのに、首相就任直前の今年は参拝を見送りました。

高市首相は就任記者会見で韓国人記者の質問に対して「韓国は日本にとって重要な隣国です」などと述べたあと「韓国のりは大好き。コスメも使っています。韓国ドラマも見ています」と笑顔で語りました。

高市首相が所信表明演説において中国を安全保障上の「深刻な懸念」としたことについて、中国外務省の副報道局長は「平和と安全において中国は最も実績ある大国だ」と反論し、さらに「日本側は侵略の歴史を真剣に反省し、安全保障分野で言動を慎むよう求める」と述べました。
日本側としてはちょっとカチンとくる言い方ですが、官房長官か誰かが言い返したということはありません。
こんなことで言い争いをして日中関係が悪化してはなんの利益にもならないので、当然です。


高市首相は所信表明演説で「強い」という言葉を乱発しましたが、外国に強く出ることはできず、“内弁慶”にならざるをえません。
高市支持者はそういう現実をどう受け止めるかです。
高市首相を「弱腰」と責めることはなさそうです。安倍首相のときもそうだったからです。

そこで懸念されるのは、国内の外国人に対する排斥や攻撃です。


鈴木馨祐前法相は7月の講演で「15年後の2040年ごろには外国人比率が10%まで上昇する可能性がある」と述べました。
参政党の神谷宗幣代表は、8月28日の配信番組で「緩やかに外国人を受け入れていくのは10%以下ではないか、との概算をわれわれはしている」と述べました。これまでの主張と違うのではないかと支持者は驚きました。
日本維新の会は9月19日に公表した外国人政策と「移民問題」に関する政策提言で「欧州の経験をみれば、10%を超えると地域社会でさまざまな社会問題が顕在化し、緊張が高まることは明白だ」としました。
どうやら外国人を10%程度まで増やすことはほぼ決まっているようです(背後には財界の要請があるはずです)。

現在の外国人は約3%ですから、3倍強に増えることになります。
そのとき、高市応援団は政権を非難できるでしょうか。外国人を非難するほうに行くのではないでしょうか。
国内の外国人を非難してもなんの国益にもなりません。ただの「弱い者いじめ」です。

安倍政権のときは「移民政策ではない」という言葉に安倍支持者はみんなだまされました。
高市支持者はとくに、高市政権の外国人政策を見きわめないといけません。


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高市早苗自民党総裁が日本初の女性首相になりそうです(これを書いているのは10月20日)。
共同通信が自民党総裁選直後(10月4~6日)に行なった世論調査では、高市氏に「期待する」という回答が68%にのぼり、女性首相の誕生についても「望ましい」と「どちらかといえば望ましい」を合わせると86.5%ありました。
「女性首相」は国民に歓迎されているようです。

しかし、上野千鶴子氏がXに「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない。来年は世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数で日本のランキングが上がるだろう。だからといって女性に優しい政治になるわけではない」と投稿するなど、フェミニストはこぞって高市氏の「女性首相」に否定的です。
「女性首相」の意義とはなんでしょうか。


高市氏はイギリスのサッチャー首相を尊敬しているそうです。
私はサッチャー氏が首相になった当時のことを覚えていますが、政治の世界が女性を受け入れるようになったとか、女性の地位が向上したとかはまったく思いませんでした。
というのは、サッチャー氏についての私の印象は「男以上に男らしい女」というものだったからです。つまり外側は女でも、中身はマッチョでタカ派です。
ギリシャ喜劇に『女の平和』というのがあるように、女性が政治をすれば平和になるというイメージがありますが、彼女についてはまったく当てはまりません。
実際、フォークランド紛争のときは強硬に軍事力で対処し、アルゼンチンを屈服させました。
彼女はまた、新自由主義的な弱者切り捨ての非情な政策を断行しました。
彼女がイギリス首相になることで、政治の世界はますます男の世界になったように思えました。
サッチャー首相のために、女性が政治の世界で成功するにはあそこまで男のようにならないといけないのかと思われて、むしろ女性の政治参加を遅らせたのではないかと私は思っています。


高市氏はタカ派的な言動はサッチャー首相に似ているようですが、実際はサッチャー首相とは真逆です。サッチャー首相は「男らしさ」を武器に政界で成功しましたが、高市氏は「女らしさ」を武器に政界で成り上がりました。

高市氏はテレビの女性キャスターで名前を売り、政界に進出しました。女性キャスターはルックスがよくて、「女らしい」女性と決まっています。
男だらけの政界において、魅力的な女性であることは大きな武器です。
ちなみに小池百合子東京都知事もテレビのキャスターから政界に転じた人ですし、蓮舫氏も同じです。
現在、自民党には女性のタレント議員として生稲晃子氏、森下千里氏、今井絵理子氏、三原じゅん子氏などがいます。自民党の偉い人は女性タレントが好きなのでしょう。

しかし、高市氏もいつまでも「女らしさ」を武器にすることはできません。
そこで、「保守派の女」として生きることにしたようです。
保守、右翼、タカ派というのはほとんどが男性なので、女性は希少価値があり、重宝されます。
たとえば櫻井よしこ氏は女性であることによって保守派の中で大きな存在感があります。
高市氏は昔はそんなに保守色はありませんでしたが、どんどん保守色を強めてきました。
そして、そのことが奏功して、たとえば選択的夫婦別姓問題について討論するというとき、決まって高市氏が出てきて、持論の通称使用拡大を述べながら夫婦同姓制度の維持を訴えます。
今は95%の夫婦が夫の姓を使用しており、夫婦同姓制度は男が一方的に得をする制度です。男性がこの制度を擁護したら「男だから言うんだろう」と思われるだけですが、女性である高市氏が擁護するとそういう反論は成立しません。
高市氏は孤軍奮闘して選択的夫婦別姓反対を訴えてきました。
もし高市氏がいなければ、世論は選択的夫婦別姓のほうに大きく傾いていたでしょう。

女性天皇についても高市氏は反対論を述べてきました。
女性天皇はだめと言いながら自分は女性首相になるのですから、おかしなものです。

高市氏は「保守派の女」として自民党内で存在感を持ち、政治家として成功したといえます。
しかし、実力でのし上がったというより、誰か男に引き上げてもらった形です。具体的にはずっと安倍首相に引き上げてもらっていました。
高市氏は総裁選に出るたびに推薦人20人を集めるのに苦労して、安倍氏の力を借りたりしていました。今回の総裁選でも立候補表明が最後になったのは、やはり推薦人集めに時間がかかったからだといわれます。
日本はジェンダーギャップ指数世界118位の国です。その中で政治の世界はとくに男性優位で、自民党はさらに男性優位です。
そこで女性が上に行くには、男性に引き上げてもらうのが現実的なやり方だったでしょう。


サッチャー首相は「男らしさ」を武器にし、高市氏は「女らしさ」を武器にしたということで、やり方は正反対です。
しかし、どちらのやり方も、男性優位の政治の世界は変えませんでした。
土俵はそのままにして、その上で戦っていたのです。
サッチャー首相以降、イギリス政界で女性が活躍するようになったかというと、そんなことはありません。

高市氏はまだ首相としての実績はありませんが、政界はもちろん一般社会もジェンダー平等に近づくということはなさそうです。
むしろマイナス効果があるかもしれません。
選択的夫婦別姓は高市氏が首相である限り実現しないでしょう。
「ワークライフバランスという言葉は捨てる」という発言も大いに問題です。
この発言は自分自身に関することだから問題発言ではないと擁護する声もありますが、自分自身のことなら黙っていればいいのです。「ワークライフバランスなどつまらない」という思いが言葉になって出たのでしょう。
「全員に馬車馬のように働いていただきます」とも発言しました。
この「全員」は全自民党議員ないし全閣僚という意味ですが、馬車馬のように働いたら、家に帰ってから家事などできません。つまり「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業を前提とした発言です。

高市氏は性別役割分業や家父長制といった保守イデオロギーの持ち主です。
「女性首相」に「男性首相」にない価値があるとすれば、それはジェンダー平等に貢献するということでしょう。
高市氏にそういう役割はまったく期待できません。

なお、野田聖子議員はかなりジェンダー平等に理解のある人のようですから、もし野田議員が首相になっていたら、まったく違っているでしょう。
つまり女性なら誰でもいいのではなく、誰が首相になるかが問題です。

しかし、野田議員のような人は、自民党内でまったく評価されません。
選挙制度を改革して、新しい人がどんどん政界に入ってくるようにしないと、日本は変われません。

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自民党総裁に大方の予想に反して高市早苗氏が選ばれました。党員票を予想以上に獲得したことが議員票も動かしました。
ここでも参政党を押し上げたのと同じ草の根の保守パワーがありました。

保守、右派、極右といわれる勢力がヨーロッパで急速に伸長しています。アメリカのトランプ政権はそれに先行していました。日本は少し遅れて追随しているわけです。

こうした勢力はナショナリズム、排外主義などを掲げていて、これらの主張は衆愚に受けるので、右派ポピュリズムとも呼ばれます。
この調子で各国で右派ポピュリズム勢力が伸びて政権を取るようになると、世界は破滅に向かいます。
ナショナリズム、愛国主義、自国ファースト、排外主義は、要するに国家規模の利己主義ですから、利己主義と利己主義は当然ぶつかります。
これは子どもでもわかる理屈です。

アメリカは自国ファーストでやっていますが、これはアメリカが世界一の大国だからできることです(とはいえ各国は不満なので、水面下でアメリカ離れをしつつあります)。
小国は自国ファーストの外交なんかできません。そうすると、国内の支持者が離反して、政権は長く持たないでしょう。
国内の支持者の期待に応えようとすると、他国と衝突します。


自国ファーストはうまくいかないということがなぜわからないかというと、視野が狭くて国内のことしか見ていないからです。
実際、毎日のニュースのほとんどは国内のことです。海外のニュースもありますが、興味がない人には頭の中を通り抜けていきます。

それから、先ほど「子どもでもわかる理屈」といいましたが、子どもはいつも「自分さえよければいいというのはだめだ」とか「利己主義はよくない」とか言われているので、わかるはずです。

しかし、実はここに問題があります。
「利己主義はよくない」と説くおとな自身が利己主義者です。人間は基本的に利己主義者だからです。
そうすると、「利己主義はよくないと利己主義者は言った」ということになり、これは「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」という有名なパラドックスと同じです。
「利己主義はよくない」という言葉には偽善があり、人はみな子どものときからこの偽善にうんざりしています。
そうしたところに「自国ファースト」の主張に出会うと、これまで抑えていた自分の中の利己主義が引き出されてしまうのです。
「自国ファースト」は、国内に限定すれば利他主義に見えるので、本人は自分は利他的な主張をしていると思って、どんどん主張を強めていきます。


人間は基本的に利己的です。
公平の基準を越えて利己的にふるまう傾向があります。
いつもなわばり争いをしている動物と同じです。
ただ、動物のなわばり争いは本能の歯止めがあるのでほどほどのところで止まりますが、人間はそうはいきません。
そこで人間は、争いを回避するために「法の支配」という方法を考え出しました。法律によって公平の基準を客観的に決めれば、争うことはかなり回避できます。
しかし、まだ国際社会には法の支配が行き届いていないので、ここでの争いは深刻化し、戦争になる可能性があります。
そういうことを考えると、「自国ファースト」の主張はあまりにも無神経です。


しかし、「人間は利己的である」ということは常識になっていません。
人間は自分は利己的であると認めたくないようです。
しかし、他人についてはしばしば利己的だと非難します。
つまり「自分は利己的でないが他人は利己的だ」ということになります。
私はこれを「天動説的倫理学」と呼んでいます。
「天動説的倫理学」はまったく非論理的なので、「ナショナリズムは国家規模の利己主義である」ということすらはっきりとは認識されていません。

自分も含めて「人間は少し利己的である」というのが正しい認識です。
したがって、自分の判断を少し利他的な方向に補正すれば、公平な判断ができることになり、むだな争いは避けられます。


結局のところたいせつなのは、私がかねて主張しているように、自分中心の発想から抜け出すことです。
安全保障についても、自国の安全ばかり考えていてはだめです。
習近平主席や金正恩委員長の立場になって考え、そして日本の立場になって考え、そうして第三者の視点から日本の安全保障や国益を考えればうまくいきます。

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人間は自分中心に社会を見ています。天文学の天動説と同じなので、ものごとを深く考えていくとわけがわからなくなります(むずかしい哲学がそれです)。
自分中心を脱した正しい視点から社会を見ていくブログです。


世の中にはさまざまな対立軸があります。
保守対リベラル、男性対女性、富裕層対貧困層、知識人対大衆、先進国対途上国などです。
このほかに、きわめて重要なのにほとんど認識されていない対立軸があります。
それは「おとな対子ども」です。

おとなと子どもはそんな対立する関係ではないと思う人もいるでしょう。
しかし、男性対女性も昔はそう思われていました。フェミニズムが登場して初めて男性対女性という対立が可視化されたのです。

世代間対立があることは誰もが認めるでしょう。
今ならZ世代、氷河期世代、バブル世代、団塊世代などに分かれて対立しています。
しかし、世代をいう場合は20歳前後の「若者」までです。それ以下の年齢の「子ども」世代は無視されています。

日本では1946年の総選挙において女性参政権が認められ、初めての「普通選挙」が行われたとされています。
しかし、このときは20歳以下に参政権はなかったので、実際は年齢制限選挙でした。年齢制限選挙を普通選挙と偽ったのです。

同じことは前にもありました。
1925年に選挙権の納税要件を撤廃した「普通選挙法案」が成立しました。男子のみの制限選挙であったのに普通選挙と偽ったのです。女性は無視されていました。
今は18歳以下に投票権のない年齢制限選挙ですが、メディアは「年齢制限選挙」という言葉を使わずに普通選挙に見せかけています。


どんなに高度に発達した文明社会でも、生まれてくる赤ん坊は原始時代と同じです。
原始時代にはおとなも子どもも似たような意識状態だったでしょう。
しかし、文明社会では、文明化したおとなの意識と子どもの意識が乖離します。
共感性の乏しい親は子どもに愛情を持ちにくくなるかもしれません。
文明社会では礼儀や行儀が重視されるので、親は小さな子どもにむりやり礼儀や行儀を教えなければなりません。これが「しつけ」ですが、このときにしばしば暴力が伴います。
子どもは文明社会に適応するために多くのことを学習しなければなりません。
江戸時代には寺子屋に通わない子どもも十分に生きていけましたが、近代になると社会が急速に複雑化するので、中学までが義務教育になり、高校を出るのは最低限のことになり、大学、さらには大学院に行くことが求められるようになりました。
そうすると、子どもは小さいときから勉強しなければなりません。人間には好奇心や学習意欲が備わっていますが、それだけでは足りないと考えられていて、家庭でも学校でも勉強が強制されます。

つまり文明社会では、子どもに強制的・暴力的な教育としつけが行われているのです。
このようなおとなと子どもの関係は「対立」というのが当然です。
強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは傷つきます。つまり子どもはみな被虐待児です。
これはおとなになっても尾を引くので、おとなはみなアダルトチルドレンです。DV、依存症、自傷行為、自殺につながることもあります。

このような強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは、おとなになると子どもに対して同じことをするので、そのやり方は次の世代に受け継がれていきます。学校の運動部で上級生から暴力的な指導を受けた一年生が、二年生になると一年生に対して同じような暴力的な指導をするのと同じです。


大人と子どもの対立関係はその他の対立関係にも影響します。
たとえば古代ローマ帝国や近代列強は、文明の遅れた地域を植民地化し、そこの人間を奴隷化しました。子どもを暴力的に支配する人間は、文明の遅れた人間を暴力的に支配することが平気でできるからです。
男性が女性を暴力的に支配することも同様です。

私はおとなが子どもを暴力的に支配することを「子ども差別」と呼んでいます。
そうすると、子ども差別、性差別、人種差別が三大差別ということになります。
今は性差別と人種差別をなくそうと努力していますが、子ども差別を放置しているのでうまくいきません。

保守対リベラルの対立のもとにも、おとな対子どもの対立があります。
リベラルは社会体制を改革しようという立場なので、親に反抗する子どもと心情的に共通します。
一方、保守は反抗する子どもを力で抑えつける父親と心情的に共通しています。
アメリカで保守対リベラルの対立が先鋭化しているのは、家庭内で親子関係の暴力的な傾向が強まっているからでしょう。


ところが、このようなおとなと子どもの対立関係は、ほとんど認識されてきませんでした。
おとなは子どもに強制的・暴力的な教育としつけをしていても、子どもはそれを喜んで受け入れているとごまかしてきたのです。女性をレイプした男性が、相手も喜んでいたと主張するのと同じです。
レイプのたとえは決して行きすぎではありません。今の世の中、親から虐待されて殺される子どもが毎年何十人もいます。

おとなの視点からだけ見ていては、おとなと子どもの関係は正しく把握できません。
子どもの視点あるいは神の視点から見て初めて全体像が把握できます。
そうした視点を確立するには次の記事が役に立つはずです。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」

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7月に日本版Netflixで配信され、8月に7年ぶりに地上波で放映されたアニメ「火垂るの墓」(高畑勲監督、野坂昭如原作)が、ガザやウクライナの惨状などと重ね合わされて、改めて注目されています。

その中で、9月24日付朝日新聞が「火垂るの墓自己責任論語る若者」という記事で、最近の若者は妹の節子が死んだのは兄の清太のせいだとか、自業自得だとか考える者が多いと書いていました。
昨秋、Netflixで「火垂るの墓」の世界配信が始まったころ、「妹はクズな兄貴のせいで……」という歌詞のラップ曲がティックトックに投稿され、約5万の「いいね」を集めたということです。

「火垂るの墓」のストーリーを簡単に説明しておくと、清太と妹の節子は第二次世界大戦末期、米軍の空襲で神戸の実家が焼失し、母親を亡くします(父親はおそらく戦死)。親戚のおばさん宅に住まわせてもらいますが、食事の量を少なくされたり、「疫病神」などと嫌みを言われたりすることに耐えられず、近くの防空壕で暮らし始めます。当初は自由な生活を楽しんでいましたが、食料が尽き、終戦直後に節子が栄養失調で亡くなり、その後清太も亡くなります。

1988年に公開された当時は、清太に同情的な観客が多かったということです。
しかし、朝日新聞の記事によると、神戸市外国語大学で作品を学生に見せたあと「清太自身の行動に責任があったと思うか」というアンケートを行ったところ、「あった」と「少しあった」が9割超、「あまりなかった」と「なかった」が1割弱でした。
2回生の女性(19)は「おばあさんは意地悪でも、最低限の食事は出していた。清太は見通しが甘く、同情できない」と言いました。中学生で初めて見た際は、かわいそうな兄妹と思いましたが、今回見て「清太の破滅的な無計画さ」にいらだったということです。

このような若者の反応に、新自由主義的な自己責任論の蔓延が感じられます。
しかし、「新自由主義的な自己責任論」という一言で片付けるのも安易です。
「火垂るの墓」という具体例があるので、自己責任論の中身を掘り下げてみたいと思います。


「火垂るの墓」の兄妹に対する評価が変わってきたのは、世の中の子どもに対する評価が変わってきたことが影響していると思われます。
近ごろは赤ん坊の泣き声がうるさいとか、公園で遊ぶ子どもの声がうるさいとか、公共の場で子どもが騒がないように親はしつけをちゃんとするべきだとか、とにかく子どもに対する風当たりが強くなっています。
そのため、「おとな対子ども」という状況では、子どもよりおとなに味方する人が多くなっています。
そうすると、「おとなの責任」は不問にされて、「子どもの責任」ばかりが問われることになります。
このような責任のアンバランスから自己責任論が生まれます。

親を亡くした14歳の清太と4歳の節子は親戚のおばさんの家に引き取られますが、おばさんから受ける仕打ちは虐待です。
食糧難の時代に二人の子どもの世話をするのはたいへんでしょうが、子どもを引き受けた以上は、できる限りの世話をするのが親代わりとしての責任です。
ところが、おばさんの責任を不問にする人がいます。そういう人は清太にすべての責任を負わせ、自己責任論を言います。

清太が感情的になって家を出て、将来の見通しもなかったことも非難されていますが、14歳なのですから、おとなのように判断できなくて当然です。
子どもにおとなのような判断力を求めることも自己責任論につながります。

それから、自己責任論は戦争という大状況を無視しています。
これは戦争という大きな悲劇の中の物語です。したがって、清太と節子はもちろん、虐待をしたおばさんも戦争の被害者だといえます。
清太の責任を言う人は戦争責任を不問にしています。

戦争責任というと、天皇とか東条英機とか軍部とかが想起されますが、これは子どもの視点の物語ですから、やはり「おとなの戦争責任」ということになるでしょう。
おとなが起こした戦争のために子どもが不幸になったのです。
したがって、このアニメのおとなの観客は、戦争の悲惨さとともにみずからの罪深さについて考えざるをえないはずです。
しかし、みずからの戦争責任について考えたくない人もいます。そういう人は子どもの清太に責任をかぶせます。


高畑勲監督は公開当時に「もし再び時代が逆転したとしたら、果たして私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。(中略)未亡人(親戚のおばさん)以上に清太を指弾することにはならないでしょうか。ぼくはおそろしい気がします」と語っています。
時代は逆転しつつあるのでしょうか。

ともかく、自己責任論は、強者が弱者に責任を押しつけるところに生じるものです。

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