
世の中に性善説と性悪説があることは、孟子と荀子の説として中学か高校で習いましたが、こんな単純なことがわからないのかと思ったのを覚えています。
このことがわからないために、さまざまな混乱が生じています。
たとえば新型コロナに対する緊急経済対策として持続化給付金制度が実施されましたが、給付のスピードを優先して簡単に申請できる仕組みにしたことで不正が横行し、2022年6月1日時点で持続化給付金詐欺事件で摘発されたのは3655人、被害総額約31億8000万円となっています。ほかにも新型コロナワクチン接種事業における過大請求や無料PCR検査事業における検査数の水増しなども発覚しています。
こうしたことから「性善説を前提とした制度はだめだ」という声が高まりました。
しかし、性悪説に立って厳密な審査を行うと給付が遅くなります。単純に性悪説がよいとはいえません。世の中はある程度人を信用することで回っています。
現実には、人はみな場面によって性善説と性悪説を使い分けています。
ひろゆき氏はYouTubeで「個人は性善説、組織は性悪説」という説を述べていました(たぶん思いつきです)。
私が見るところ、多くの人は「他人は性悪説、自分は性善説」という説を採用して、自分のことを棚に上げて他人を批判しています。
要するに性善説か性悪説かという問題には、正解がないのをいいことにみんな適当なことを言っているのです。
このように混乱するのは、善か悪か、白か黒かという二分法に陥っているからです。
人間性に完全な善や完全な悪があるわけありません。その中間のはずです。
問題はどの程度善で、どの程度悪かです。
私の考えでは、人間性はおおむね善で、少し悪が入っているというところです。かなり白に近い灰色というイメージです。
別の言い方をすれば、人間性の根底は善で、表層に悪があります。
これは客観的に観察することができます。
私は20代の終わりごろ、東京都練馬区に引っ越しました。
周りにはけっこう畑があり、無人野菜販売所もありました。
私はそのとき初めて無人野菜販売所を見たので、衝撃を受けました。
何種類かの野菜が置かれていて、100円か150円かを箱に入れて好きな野菜を持っていくというシステムです。お金を入れなくても野菜を持っていくことができます。人の目はありませんし、監視カメラもありません。
私は自分が試されている気がしました。お金を入れずに野菜を持っていくのが“合理的”かもしれません。少なくともお金を入れる理由を考えなければなりませんでした(私はそのころから道徳を疑っていたので、道徳は行動の基準にしませんでした)。
私は「自分が信頼されている」と感じました。そうすると「信頼に応えなければ」という思いが生じました。
厳密には無人販売所の設置者は私という人間を信頼しているわけではありませんが、人を信頼することで成り立つ業態であるのは確かです。
それから私が考えたのは、私がお金を払わずに野菜を持っていって、ほかにも同じことをする人間が何人もいたら、この販売所はつぶれるだろうということです。
ここの野菜は、明らかに新鮮で、割安です。タダで少しの野菜を手にいれても、この販売所がなくなったのでは、トータルで自分の損になるだろうと判断し、お金を払うことにしました。
ともかく、無人販売所が成り立っているのは、多くの人が誰も見ていないのにちゃんとお金を払っているからです。そういう意味では性善説が正しそうです。
ただし、全員が払っているわけではありません。「無人野菜販売所 盗み」で検索すると、そういう事例が多数あることもわかります。
最近はコインを入れると野菜が取り出せるシステムになっているところもよく見かけますから、やはりある程度盗まれているのです。
このことからも「人間性はおおむね善で、少し悪が入っている」ということがいえると思います。
善と悪の比率については、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの共著)に出てくるベーグル売りの話が参考になります。
しかし、性悪説に立って厳密な審査を行うと給付が遅くなります。単純に性悪説がよいとはいえません。世の中はある程度人を信用することで回っています。
現実には、人はみな場面によって性善説と性悪説を使い分けています。
ひろゆき氏はYouTubeで「個人は性善説、組織は性悪説」という説を述べていました(たぶん思いつきです)。
私が見るところ、多くの人は「他人は性悪説、自分は性善説」という説を採用して、自分のことを棚に上げて他人を批判しています。
要するに性善説か性悪説かという問題には、正解がないのをいいことにみんな適当なことを言っているのです。
このように混乱するのは、善か悪か、白か黒かという二分法に陥っているからです。
人間性に完全な善や完全な悪があるわけありません。その中間のはずです。
問題はどの程度善で、どの程度悪かです。
私の考えでは、人間性はおおむね善で、少し悪が入っているというところです。かなり白に近い灰色というイメージです。
別の言い方をすれば、人間性の根底は善で、表層に悪があります。
これは客観的に観察することができます。
私は20代の終わりごろ、東京都練馬区に引っ越しました。
周りにはけっこう畑があり、無人野菜販売所もありました。
私はそのとき初めて無人野菜販売所を見たので、衝撃を受けました。
何種類かの野菜が置かれていて、100円か150円かを箱に入れて好きな野菜を持っていくというシステムです。お金を入れなくても野菜を持っていくことができます。人の目はありませんし、監視カメラもありません。
私は自分が試されている気がしました。お金を入れずに野菜を持っていくのが“合理的”かもしれません。少なくともお金を入れる理由を考えなければなりませんでした(私はそのころから道徳を疑っていたので、道徳は行動の基準にしませんでした)。
私は「自分が信頼されている」と感じました。そうすると「信頼に応えなければ」という思いが生じました。
厳密には無人販売所の設置者は私という人間を信頼しているわけではありませんが、人を信頼することで成り立つ業態であるのは確かです。
それから私が考えたのは、私がお金を払わずに野菜を持っていって、ほかにも同じことをする人間が何人もいたら、この販売所はつぶれるだろうということです。
ここの野菜は、明らかに新鮮で、割安です。タダで少しの野菜を手にいれても、この販売所がなくなったのでは、トータルで自分の損になるだろうと判断し、お金を払うことにしました。
ともかく、無人販売所が成り立っているのは、多くの人が誰も見ていないのにちゃんとお金を払っているからです。そういう意味では性善説が正しそうです。
ただし、全員が払っているわけではありません。「無人野菜販売所 盗み」で検索すると、そういう事例が多数あることもわかります。
最近はコインを入れると野菜が取り出せるシステムになっているところもよく見かけますから、やはりある程度盗まれているのです。
このことからも「人間性はおおむね善で、少し悪が入っている」ということがいえると思います。
善と悪の比率については、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの共著)に出てくるベーグル売りの話が参考になります。
ワシントンでアメリカ海軍のために兵器購入費を分析する職についていたポール・フェルドマンは、ベーグルをつくるのが得意で、いい成績を上げた部下に自家製のベーグルをプレゼントしていました。すると、噂を聞きつけたほかの部署の社員もベーグルをくれとやってきたので、彼が持ってくるベーグルは週に15ダースにもなりました。コストを回収するために、代金入れのカゴと希望価格を書いた札を置きました。回収率は95%くらいでした。
研究所の経営陣が変わったのを機に、フェルドマンは退職してベーグルを売って暮らすことにしました。オフィス街を車で売り込みに回りました。彼のビジネスシステムは、彼が朝早くベーグルと代金入れを会社のカフェテリアに届け、ランチタイムの前にまたやってきて代金と売れ残りを回収するというものです。それがうまくいって、数年で配達するベーグルは週に8400個、客は140社になり、勤めていたとき以上の収入を得るようになりました。
フェルドマンは最初から商売の詳しいデータをとっていたので、どんな会社でどんな人間がどれぐらいベーグルを盗んでいるのかが明らかになりました。
彼が勤めていたときの職場での回収率は95%でしたが、これはみな顔見知りの人間だったからのようです。だいたいの会社は回収率が80%から90%でした。90%以上の会社は「正直者の会社」だと思いました。いつも80%を下回っているような会社には警告文のメモを張りました。
全体の回収率は87%でしたが、9.11テロが起こると2%はね上がりました。
小規模のオフィスのほうが大規模なオフィスよりも正直な傾向がありました。これは都会よりも田舎のほうが人口当たりの犯罪件数が少ないのと似ています。
会社で地位の高い人のほうが低い人よりもごまかす傾向がありました。フロアが三つあって、いちばん上が役員のフロア、下二つが営業、サービス、管理などに携わる従業員のフロアとなっている会社では、上のフロアのほうが盗みが多かったのです。
金持ちや権力者ほど悪いことをする傾向は、ほかの科学的研究でも明らかになっていて、「お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究」という記事にも書かれています。
研究所の経営陣が変わったのを機に、フェルドマンは退職してベーグルを売って暮らすことにしました。オフィス街を車で売り込みに回りました。彼のビジネスシステムは、彼が朝早くベーグルと代金入れを会社のカフェテリアに届け、ランチタイムの前にまたやってきて代金と売れ残りを回収するというものです。それがうまくいって、数年で配達するベーグルは週に8400個、客は140社になり、勤めていたとき以上の収入を得るようになりました。
フェルドマンは最初から商売の詳しいデータをとっていたので、どんな会社でどんな人間がどれぐらいベーグルを盗んでいるのかが明らかになりました。
彼が勤めていたときの職場での回収率は95%でしたが、これはみな顔見知りの人間だったからのようです。だいたいの会社は回収率が80%から90%でした。90%以上の会社は「正直者の会社」だと思いました。いつも80%を下回っているような会社には警告文のメモを張りました。
全体の回収率は87%でしたが、9.11テロが起こると2%はね上がりました。
小規模のオフィスのほうが大規模なオフィスよりも正直な傾向がありました。これは都会よりも田舎のほうが人口当たりの犯罪件数が少ないのと似ています。
会社で地位の高い人のほうが低い人よりもごまかす傾向がありました。フロアが三つあって、いちばん上が役員のフロア、下二つが営業、サービス、管理などに携わる従業員のフロアとなっている会社では、上のフロアのほうが盗みが多かったのです。
金持ちや権力者ほど悪いことをする傾向は、ほかの科学的研究でも明らかになっていて、「お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究」という記事にも書かれています。
つまり性善説を前提にしたビジネスが成り立ったのです。
もっとも、これはワシントンのオフィス街のまともな会社が舞台です。
そのへんのストリートの一角にベーグルと代金入れを置いたら、たちまちベーグルもお金も盗まれてしまうに違いありません。
なお、フェルドマンは最初、カゴに代金を入れるようにしていましたが、代金を盗まれることがけっこうありました。そこで木箱の上に細い穴を空けたものを代金入れとしました。そうすると木箱が盗まれるのは年間一個ぐらいでした。カゴからお金は盗めても、木箱まるごとは盗みにくいようです。
もっとも、木箱の中に大金が入っていれば別です。
ベーグルも野菜も単価が安いので成り立つ商売です。宝石の無人販売所はありえません。
それから、フェルドマンはベーグルの配達と代金の回収と一日に二回会社を訪問していますから、そこの会社の人間ともある程度関係ができているでしょう。顔を合わさなくとも「ベーグルを持ってくる人」と認識されているはずです。
人間は親しい関係の人間に損を与えるのは心理的抵抗があります。いわゆる“良心の呵責”です。
これは進化生物学で説明がつきます。
血縁者への利他行動は包括適応度として、血縁のない者への利他行動は互恵的利他行動として理論化されています。
血縁者へ利他行動をするのは当たり前ですが、互恵的利他行動というのは、そのときは損でも、相手がお返しをしてくれることで双方が得をするような行動です。
ただし、互恵的利他行動が成り立つのは、ある程度持続的な関係のある場合です。行きずりの関係では「旅の恥はかき捨て」のようなことになります(もっとも行きずりの他人でも人間的な親しみを感じると無償の利他行動をすることもあります)。
無人野菜販売所も狭いコミュニティの中で存在しています。多くの人が通るようなところではできないでしょう。
スーパーマーケットではよく万引きが起きます。万引きしても被害者の顔が想像できないので、良心の呵責がほとんどないからです。
個人経営の商店から万引きするのは、被害者の顔がわかっているので、良心の呵責があります。
脱税は立派な犯罪ですが、これも被害者の顔が見えない犯罪なので、良心の呵責はほぼありません。もし税務署に絶対見つからない脱税方法があるとすれば、脱税の誘惑から逃れられる人はほとんどいないでしょう。
狩猟採集生活をしていたころの人類は、多くて150人程度の集団で暮らしていたと思われます。つまりみんな親族か親密な仲間で、完全な共同体です。
そういう社会では性善説が通用していました。
しかし、経済が発達し、扱う富が増え、人との交流も増えると、不正をして利益を得たくなる機会も多くなります。
今でも田舎では昼間家に鍵をかけないことが多いのではないでしょうか。都会では怪しいセールスや宗教の勧誘などが多いのでほとんどの家は鍵をかけています。
つまり親密な人間関係の中では人間は善人として生きていけるので、性善説が通用しますが、文明化と都市化が進むとともに性悪説を採用せざるをえなくなります。
そういうことを考えると、持続化給付金制度は中小企業に200万円、個人事業主には100万円を給付するという制度で、金額が大きく、しかも不正給付を受けたときの被害者は国なので、良心の呵責もないので、不正したくなる条件がそろっています。
ですから、この制度を始めるときに、給付のスピードを重視して審査を甘くしたのはいいとしても、不正が起きやすいことを見越して、「のちほど厳密な審査をして不正は必ず発見して厳罰に処する」という広報もするべきでした。そうすればある程度不正は防げたでしょう。
ここまで「性善説対性悪説」というテーマを論じてきましたが、実は論じてきたのはもっぱら損か得かでした。
善か悪かというのは、どうやっても論理的に論じることはできません。
ですから、善か悪かは、損か得か、利他か利己かに置き換えて論じるのが賢明なやり方です。
損か得かなら、話し合いで解決できますし、第三者の視点を入れるということもできます。
善か悪かとしてしまうと、話し合いで解決することはできないので、最終的に戦争になったり夫婦喧嘩になったりします。
「善と悪」は「損と得」とつながっていて、関係式で結ばれています。
このことは「究極の思想」であるところの「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すればわかります。
別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。
しかし、経済が発達し、扱う富が増え、人との交流も増えると、不正をして利益を得たくなる機会も多くなります。
今でも田舎では昼間家に鍵をかけないことが多いのではないでしょうか。都会では怪しいセールスや宗教の勧誘などが多いのでほとんどの家は鍵をかけています。
つまり親密な人間関係の中では人間は善人として生きていけるので、性善説が通用しますが、文明化と都市化が進むとともに性悪説を採用せざるをえなくなります。
そういうことを考えると、持続化給付金制度は中小企業に200万円、個人事業主には100万円を給付するという制度で、金額が大きく、しかも不正給付を受けたときの被害者は国なので、良心の呵責もないので、不正したくなる条件がそろっています。
ですから、この制度を始めるときに、給付のスピードを重視して審査を甘くしたのはいいとしても、不正が起きやすいことを見越して、「のちほど厳密な審査をして不正は必ず発見して厳罰に処する」という広報もするべきでした。そうすればある程度不正は防げたでしょう。
ここまで「性善説対性悪説」というテーマを論じてきましたが、実は論じてきたのはもっぱら損か得かでした。
善か悪かというのは、どうやっても論理的に論じることはできません。
ですから、善か悪かは、損か得か、利他か利己かに置き換えて論じるのが賢明なやり方です。
損か得かなら、話し合いで解決できますし、第三者の視点を入れるということもできます。
善か悪かとしてしまうと、話し合いで解決することはできないので、最終的に戦争になったり夫婦喧嘩になったりします。
「善と悪」は「損と得」とつながっていて、関係式で結ばれています。
このことは「究極の思想」であるところの「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すればわかります。
別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。
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