
結婚式のスピーチにはいくつかの定番ネタがあります。
たとえば「三つの袋」という話は、結婚したら月給袋、堪忍袋、お袋という「三つの袋」をたいせつにしなさいというものです。かなり時代遅れ感が強いですが、いまだに使われているようです。
「愛する─―それは互いに見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」というサン・テグジュペリの言葉もよく使われ、味わい深いものがあります。
私がいちばん役に立つのではないかと思うのが「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」という言葉です。
これは トーマス・フラーというイギリスの歴史家・聖職者の言葉であるそうです。
結婚前は相手をよく見きわめ、結婚したあとは相手の欠点に目をつむれという意味でしょう。
これを実践することができれば、かなり夫婦円満が期待できます。
しかし、実践する人は少ないでしょう。
片目を閉じろということは、自分で自分の判断力を信用するなということです。
たいていの人は自分を疑うということはしないものです。
人間は決して完全な存在ではありません。
私はそのことをここ2回連続で書いてきました。
「『性善説対性悪説』を終わらせる」
「アダム・スミスの倫理学と経済学」
人間性には善と悪の両面があり、人間は場面によって善人モードと悪人モードを使い分けています。
別の言葉でいえば、利他心モードと利己心モード、あるいは協調モードと闘争(競争)モードを使い分けているということです。
親族や共同体の親しい人間に対しては、人間は善人モードや協調モードで対応して仲良く暮らしています。
しかし、文明が発達し、遠くの人との交流が増え、扱う富が増えると、悪人モードになることが多くなり、不正をしてでも利益を得ようとします。
そうして文明社会では争いや不正が絶えないわけです。
ビジネスの世界では、ライバルに対して優位に立つために、機会あるごとにライバルの欠点や失敗を指摘し、また自分の実力を大きく見せて優位に立とうという闘争モードになっています。
家庭内では協調モードでなければなりませんが、多くの人はモードの切り替えができず、結婚生活に闘争モードを持ち込みます。
結婚して二人がいっしょに暮らすようになると、どうでもいい細かいことが気になるものです。
スルーすればいいのに、つい口にしてしまいます。
「電気消し忘れてたよ」
「ドア開けっ放しじゃないか」
失敗ともいえない“うっかりミス”といった程度のことです。
こうしたうっかりミスは、指摘されたからといって直ることはまずありません。
ですから、たいてい指摘してもむだなことに気づいて、そのうち指摘しなくなります。
しかし、中には指摘し続けて、「何度言ったらわかるんだ。電気代がもったいないじゃないか。地球環境のことも考えろ」のようにエスカレートしていく人もいます。そうすると当然、夫婦仲が悪くなります。
そうしたことを避けるために「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスはきわめて有効です。
食事中や洗い物をしているときに食器が割れることがあります。高価な食器やたいせつにしていた食器だと、つい割った人間を非難してしまいます。
「また割ったのか。いい加減にしろよ」
足を踏まれて痛いと、腹が立ちます。
「痛ッ。謝りなさいよ」
故意に食器を割るわけではありませんし、わざと足を踏むわけでもありません。
ですから、相手を非難しても改善されるわけではありません。
カントは、行為は結果ではなく動機で評価するべきだといっています。つまり高価な食器が割れたという結果で評価してはいけないというのです。
しかし、世の中では、まったく悪気はないのに過失によって重大な結果が生じると、罪に問われたり損害賠償を求められたりします。つまりカントの教えに反して、動機ではなく結果で評価するということが社会のルールになっています。
そのため、家庭内にもそのルールを持ち込んでしまうのでしょう。
しかし、そうすると、悪意のない相手を非難することになり、非難されたほうは納得がいかないので、そこから夫婦喧嘩に発展することもあります。
ここでも「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスが有効です。
ここで気づくべきは、社会のルールと家庭のルールは違うということです。
社会では、うっかりミスや悪意のない失敗を非難することが普通に行われています。
会社の部下が失敗したとき、上司は部下を非難することで自分の優位を確認します。部下も失敗した引け目があるので、非難されても受け入れるしかありません。
取引先の失敗や不備も、見つけたらすかさず指摘します。そうすれば取引を有利に運ぶことができます。
ビジネスの世界では、うわべはビジネスマナーなどを駆使して友好的に見せかけていますが、水面下では激しい闘争が行われているわけです。
このやり方が当たり前だと思うと、家庭内でも同じことをやって、夫婦関係を壊してしまいます。
「こんなことも知らないのか」「こんなこともできないのか」と言って、相手の能力がないことを非難することもよく行われます。
そうする一方で、自分の知識や能力を誇示します。
これも相手をおとしめて自分が優位に立とうとする闘争モードです。
家庭内でこれをやるのはたいてい男です。夫婦間に上下関係をつくろうとするのです。
これはモラハラ、パワハラにつながって、かなり悪質ですが、もとをたどれば社会のルールと家庭のルールが違うことを理解していないだけかもしれません。
なお、「男は敷居をまたげば七人の敵あり」という言葉があります。
これも競争社会の苛酷さをいっているようですが、この言葉が使われるのは「男は外で苦労しているのだから、家庭ではわがままにふるまっても許されるべきだ」という意味の場合がほとんどなので、社会の闘争原理を家庭内に持ち込んでいるのと変わりません。
社会の闘争原理を家庭に持ち込んでしまうのは、そこに道徳がからんでいるからでもあります。
つまり相手を非難するのは道徳的行為だという粉飾がなされているのです。
道徳的行為なら家庭内でもやっていいということになります。
こういう道徳のとらえ方は常識と逆なので、とまどう人が多いかもしれません。
道徳は「人のよい生き方を示す指針」というのが普通のとらえ方です。
しかし、道徳の実際の使われ方は「お前はよい生き方の指針に反する悪いやつだ」というように人を攻撃する道具として使われます。道徳の規準に反すると「だらしない」「怠けている」「無責任だ」「自分勝手だ」など攻撃されます。
インターネット空間にはこうした人を攻撃する言葉があふれています。それらの言葉は道徳が生み出しているのです。
人を道徳で攻撃してもなかなか世の中はよくなりません。むしろ悪くなります。
ただ、道徳は便利な道具ではあるので、手離すことはできません。警察や検察が手を出さない悪徳政治家を攻撃するときは道徳や倫理を使うしかありません。
私たちは人を道徳的に評価することに慣れているので、つい配偶者も道徳的に評価してしまいがちです。
道徳的評価というのは、よいところと悪いところを分けるわけです。
よいも悪いもなく相手のすべてを受け入れるのが愛です。愛と道徳は根本的に違います。
相手が失敗してもバカなことをしても、すべて許して、むしろ笑いのネタにしていれば、結婚生活は幸せです。
ところで、私は熱いものは熱々で食べたいタイプです。
ところが、妻は猫舌ということもあって、結婚当初、熱い料理を出す気があまりないようでした。私がその料理はすぐに食べるべきだと言ってもあまり取り合ってくれません。料理ができてからまな板を洗ったりして、料理が冷めることに平気です。
妻の実家に行ったとき、妻が母(私の義母)といっしょに料理をして、大量の天ぷらを揚げました(家族が多いので)。当然最初のほうに揚げた天ぷらは冷めていて、全部が大皿で出てきます。「こちらが揚げたてですよ」ということもありません。
要するに熱い料理を出すということにこだわりのない家なのでした(義母も猫舌です)。
私は自分の要求が無視されることに不満を持っていましたが、妻は生家のやり方を踏襲しているだけだったのです。
ちなみに私の生家では、父が晩酌することもあって、料理ができたらすぐ持ってこいと母に要求していました。私はそれに影響されていたようです。
また、私は妻の言葉づかいに気になることがありました。その言葉を聞くと、なにかバカにされているような気がするのです。ただ、妻に私をバカにする様子はまったくないので、気にしないようにしていましたが、その言葉を聞くたびにもやもやしていました。
妻の実家に行くと、義父がまったく同じ言葉づかいをしていました。妻は義父の真似をしていただけで、私に対してなにか思っていたわけではないのでした。
ほかにも妻の言動の理解しがたいところが、妻の実家を観察することで理解できるということが多々ありました。
人間のかなりの部分は生まれた家庭環境によって決定され、それはすぐには変わりません(時間がたてば変わります。妻も今では熱い料理を出します)。
配偶者の言動に納得いかないところがあり、それがなかなか変わらないと、自分に対するいやがらせではないかと邪推しがちですが、そうした納得いかないところは配偶者の実家に行くとかなりの程度解明されます。
結婚してから閉じた片目は、配偶者の実家を観察するのに見開いて使うのが賢明です。
これは トーマス・フラーというイギリスの歴史家・聖職者の言葉であるそうです。
結婚前は相手をよく見きわめ、結婚したあとは相手の欠点に目をつむれという意味でしょう。
これを実践することができれば、かなり夫婦円満が期待できます。
しかし、実践する人は少ないでしょう。
片目を閉じろということは、自分で自分の判断力を信用するなということです。
たいていの人は自分を疑うということはしないものです。
人間は決して完全な存在ではありません。
私はそのことをここ2回連続で書いてきました。
「『性善説対性悪説』を終わらせる」
「アダム・スミスの倫理学と経済学」
人間性には善と悪の両面があり、人間は場面によって善人モードと悪人モードを使い分けています。
別の言葉でいえば、利他心モードと利己心モード、あるいは協調モードと闘争(競争)モードを使い分けているということです。
親族や共同体の親しい人間に対しては、人間は善人モードや協調モードで対応して仲良く暮らしています。
しかし、文明が発達し、遠くの人との交流が増え、扱う富が増えると、悪人モードになることが多くなり、不正をしてでも利益を得ようとします。
そうして文明社会では争いや不正が絶えないわけです。
ビジネスの世界では、ライバルに対して優位に立つために、機会あるごとにライバルの欠点や失敗を指摘し、また自分の実力を大きく見せて優位に立とうという闘争モードになっています。
家庭内では協調モードでなければなりませんが、多くの人はモードの切り替えができず、結婚生活に闘争モードを持ち込みます。
結婚して二人がいっしょに暮らすようになると、どうでもいい細かいことが気になるものです。
スルーすればいいのに、つい口にしてしまいます。
「電気消し忘れてたよ」
「ドア開けっ放しじゃないか」
失敗ともいえない“うっかりミス”といった程度のことです。
こうしたうっかりミスは、指摘されたからといって直ることはまずありません。
ですから、たいてい指摘してもむだなことに気づいて、そのうち指摘しなくなります。
しかし、中には指摘し続けて、「何度言ったらわかるんだ。電気代がもったいないじゃないか。地球環境のことも考えろ」のようにエスカレートしていく人もいます。そうすると当然、夫婦仲が悪くなります。
そうしたことを避けるために「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスはきわめて有効です。
食事中や洗い物をしているときに食器が割れることがあります。高価な食器やたいせつにしていた食器だと、つい割った人間を非難してしまいます。
「また割ったのか。いい加減にしろよ」
足を踏まれて痛いと、腹が立ちます。
「痛ッ。謝りなさいよ」
故意に食器を割るわけではありませんし、わざと足を踏むわけでもありません。
ですから、相手を非難しても改善されるわけではありません。
カントは、行為は結果ではなく動機で評価するべきだといっています。つまり高価な食器が割れたという結果で評価してはいけないというのです。
しかし、世の中では、まったく悪気はないのに過失によって重大な結果が生じると、罪に問われたり損害賠償を求められたりします。つまりカントの教えに反して、動機ではなく結果で評価するということが社会のルールになっています。
そのため、家庭内にもそのルールを持ち込んでしまうのでしょう。
しかし、そうすると、悪意のない相手を非難することになり、非難されたほうは納得がいかないので、そこから夫婦喧嘩に発展することもあります。
ここでも「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスが有効です。
ここで気づくべきは、社会のルールと家庭のルールは違うということです。
社会では、うっかりミスや悪意のない失敗を非難することが普通に行われています。
会社の部下が失敗したとき、上司は部下を非難することで自分の優位を確認します。部下も失敗した引け目があるので、非難されても受け入れるしかありません。
取引先の失敗や不備も、見つけたらすかさず指摘します。そうすれば取引を有利に運ぶことができます。
ビジネスの世界では、うわべはビジネスマナーなどを駆使して友好的に見せかけていますが、水面下では激しい闘争が行われているわけです。
このやり方が当たり前だと思うと、家庭内でも同じことをやって、夫婦関係を壊してしまいます。
「こんなことも知らないのか」「こんなこともできないのか」と言って、相手の能力がないことを非難することもよく行われます。
そうする一方で、自分の知識や能力を誇示します。
これも相手をおとしめて自分が優位に立とうとする闘争モードです。
家庭内でこれをやるのはたいてい男です。夫婦間に上下関係をつくろうとするのです。
これはモラハラ、パワハラにつながって、かなり悪質ですが、もとをたどれば社会のルールと家庭のルールが違うことを理解していないだけかもしれません。
なお、「男は敷居をまたげば七人の敵あり」という言葉があります。
これも競争社会の苛酷さをいっているようですが、この言葉が使われるのは「男は外で苦労しているのだから、家庭ではわがままにふるまっても許されるべきだ」という意味の場合がほとんどなので、社会の闘争原理を家庭内に持ち込んでいるのと変わりません。
社会の闘争原理を家庭に持ち込んでしまうのは、そこに道徳がからんでいるからでもあります。
つまり相手を非難するのは道徳的行為だという粉飾がなされているのです。
道徳的行為なら家庭内でもやっていいということになります。
こういう道徳のとらえ方は常識と逆なので、とまどう人が多いかもしれません。
道徳は「人のよい生き方を示す指針」というのが普通のとらえ方です。
しかし、道徳の実際の使われ方は「お前はよい生き方の指針に反する悪いやつだ」というように人を攻撃する道具として使われます。道徳の規準に反すると「だらしない」「怠けている」「無責任だ」「自分勝手だ」など攻撃されます。
インターネット空間にはこうした人を攻撃する言葉があふれています。それらの言葉は道徳が生み出しているのです。
人を道徳で攻撃してもなかなか世の中はよくなりません。むしろ悪くなります。
ただ、道徳は便利な道具ではあるので、手離すことはできません。警察や検察が手を出さない悪徳政治家を攻撃するときは道徳や倫理を使うしかありません。
私たちは人を道徳的に評価することに慣れているので、つい配偶者も道徳的に評価してしまいがちです。
道徳的評価というのは、よいところと悪いところを分けるわけです。
よいも悪いもなく相手のすべてを受け入れるのが愛です。愛と道徳は根本的に違います。
相手が失敗してもバカなことをしても、すべて許して、むしろ笑いのネタにしていれば、結婚生活は幸せです。
ところで、私は熱いものは熱々で食べたいタイプです。
ところが、妻は猫舌ということもあって、結婚当初、熱い料理を出す気があまりないようでした。私がその料理はすぐに食べるべきだと言ってもあまり取り合ってくれません。料理ができてからまな板を洗ったりして、料理が冷めることに平気です。
妻の実家に行ったとき、妻が母(私の義母)といっしょに料理をして、大量の天ぷらを揚げました(家族が多いので)。当然最初のほうに揚げた天ぷらは冷めていて、全部が大皿で出てきます。「こちらが揚げたてですよ」ということもありません。
要するに熱い料理を出すということにこだわりのない家なのでした(義母も猫舌です)。
私は自分の要求が無視されることに不満を持っていましたが、妻は生家のやり方を踏襲しているだけだったのです。
ちなみに私の生家では、父が晩酌することもあって、料理ができたらすぐ持ってこいと母に要求していました。私はそれに影響されていたようです。
また、私は妻の言葉づかいに気になることがありました。その言葉を聞くと、なにかバカにされているような気がするのです。ただ、妻に私をバカにする様子はまったくないので、気にしないようにしていましたが、その言葉を聞くたびにもやもやしていました。
妻の実家に行くと、義父がまったく同じ言葉づかいをしていました。妻は義父の真似をしていただけで、私に対してなにか思っていたわけではないのでした。
ほかにも妻の言動の理解しがたいところが、妻の実家を観察することで理解できるということが多々ありました。
人間のかなりの部分は生まれた家庭環境によって決定され、それはすぐには変わりません(時間がたてば変わります。妻も今では熱い料理を出します)。
配偶者の言動に納得いかないところがあり、それがなかなか変わらないと、自分に対するいやがらせではないかと邪推しがちですが、そうした納得いかないところは配偶者の実家に行くとかなりの程度解明されます。
結婚してから閉じた片目は、配偶者の実家を観察するのに見開いて使うのが賢明です。
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