
保守とリベラルの対立は世界的に大きな問題になっていますが、教育や子育てに関しても保守とリベラルは対立しています。
たとえばブラック校則を問題にするのはもっぱらリベラルで、保守派はまったく無関心です。
保守派は管理教育賛成で、リベラルは管理教育反対です。
昔、体罰賛成か反対かで世論が割れていたころ、保守派はほとんどが体罰賛成でした。戸塚ヨットスクールが問題になったとき、戸塚ヨットスクール支援者として名を連ねたのは保守派ばかりでした。
性教育に反対しているのはもっぱら保守派です。
家庭で虐待された少女を救う活動をしているColaboをバッシングしたのは保守派で、Colaboを支援したのはリベラルでした。
子育てや教育については科学的な研究が進んでいます。
ですから、保守とリベラルの対立についても科学が結論を出す日も近いでしょう。
すでに「しつけ」については科学的な結論が出ています。
これまで社会は親に対して、子どもをしつけるようにと強く要請してきました。
たとえばレストランなどで子どもが騒いでいると、「親が子どもを静かにさせるべきだ」ということと同時に「親が子どもをちゃんとしつけるべきだ」という声が上がります。
子どもをしつけることは親の義務とされているのです。
親が子どもを虐待して死亡させるような事件が起こると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
それに対してコメンテーターなどがなにか言うのを聞いたことがありません。
「しつけ」はよいこととされているので、言いようがないのです。
あえて言うとすれば、「しつけをするのはいいが、やりすぎはよくない」ということでしょうか。しかし、これでは「しつけは殺さない程度にやりなさい」と言っているみたいです。
「あれはしつけではない」と言うのはありそうです。しかし、そう言うと、「では、ほんとうのしつけはどこが違うのか」というふうに話が発展して、これに答えるのは困難です。
「しつけ」というのはもともと武士階級で子どもに礼儀作法などを教えることをいいました。
「躾」というのは日本でつくられた漢字です。この漢字をもとにして「躾というのは身を美しくすることだ」ということもよくいわれます。
「身を美しくする」ということは、逆にいえば心を美しくすることではないわけで、うわべだけということです。
子どもが騒がずに静かにしていれば「しつけができている」とされます。
しかし、子どもが騒いだり動き回ったりするのは自然なことで、発達に必要なことです。子どもをむりに静かにさせると、心身の発達に悪影響があります。
つまりしつけというのは、子どもの発達を無視して、うわべだけおとなの都合のいいようにすることです。
よく公共の場で子どもが騒いではいけないといわれますが、公共の場には子どもも老人も身体障害者もいる権利があり、肩身の狭い思いをする必要はありません。公共の場で子どもに騒ぐなと要求するおとなは、共生社会も子どもの発達も理解しない、ただのわがままなおとなです。子どものいない静かな環境はプライベートの場で求めるべきで、公共の場で求めるべきではありません。
ともかく、親は社会の要請に応えて子どもをしつけようとしますが、子どもの発達に反したことをしようとしているのですからうまくいきません。うまくいかないと親は子どもを叱ります。
そのため、親の子育ての悩み相談でよく見かけるのは「子どもが言うことを聞かない」という悩みと「毎日子どもを叱ってばかりいる。こんなに子どもを叱っていいのだろうか」という悩みです。
「子どもをしつけるべき」という社会の要請が親子関係を破壊していることがよくわかります。
「子どもをしつけるべき」という考え方のもとには、しつけしないと子どもは悪い人間になってしまうという認識があります。つまり「子ども性悪説」です。
性善説と性悪説とどちらが正しいかについて定説がないために、私たちは都合よく性善説と性悪説を使い分けているという話を前にしましたが、子どもに関しては性悪説を使っているわけです。
「子ども性悪説」ということは「おとな性善説」かということになりますが、誰もそんな論理的なことは考えません。その場限りで自分(おとな)にとって都合よく考えているだけです。
「子ども性悪説」は少なくとも西洋近代には一般的でした。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間は教育によってはじめて人間となることができる」と書いています。
ということは、人間は教育されないと人間にならないということです。では、なにになるのかというと、カントはおそらく「動物」と言いたいのでしょう。それは、「訓練、あるいは訓育は動物性を人間性に変えて行くものです」とか「人間は訓練されねばなりません。訓練とは、個人の場合にしろ社会人の場合にしろ、動物性が人間性に害を与えることを防ぐように努力することをいいます」と述べていることからもわかります。つまり人間は生まれたときは動物であり、教育によって人間になっていくというのです。
この場合の人間と動物の関係は、進化論以前なので、人間は神に似せてつくられた特別な存在であるというキリスト教的な考え方です。つまり理性的な存在であるおとなが動物的な存在である子どもを導いて人間にしていくのが教育だということです。
ジョン・ロックは自由主義や人権思想の基礎をつくったとされますが、『教育に関する考察』において子どもを動物にたとえています。
彼は、しつけは小さいときからするのがたいせつであるといい、小さいときに甘やかした子どもが大きくなってから束縛しようとしてもうまくいかないとして、こう書いています。
「子どもをしつけるべき」という考え方のもとには、しつけしないと子どもは悪い人間になってしまうという認識があります。つまり「子ども性悪説」です。
性善説と性悪説とどちらが正しいかについて定説がないために、私たちは都合よく性善説と性悪説を使い分けているという話を前にしましたが、子どもに関しては性悪説を使っているわけです。
「子ども性悪説」ということは「おとな性善説」かということになりますが、誰もそんな論理的なことは考えません。その場限りで自分(おとな)にとって都合よく考えているだけです。
「子ども性悪説」は少なくとも西洋近代には一般的でした。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間は教育によってはじめて人間となることができる」と書いています。
ということは、人間は教育されないと人間にならないということです。では、なにになるのかというと、カントはおそらく「動物」と言いたいのでしょう。それは、「訓練、あるいは訓育は動物性を人間性に変えて行くものです」とか「人間は訓練されねばなりません。訓練とは、個人の場合にしろ社会人の場合にしろ、動物性が人間性に害を与えることを防ぐように努力することをいいます」と述べていることからもわかります。つまり人間は生まれたときは動物であり、教育によって人間になっていくというのです。
この場合の人間と動物の関係は、進化論以前なので、人間は神に似せてつくられた特別な存在であるというキリスト教的な考え方です。つまり理性的な存在であるおとなが動物的な存在である子どもを導いて人間にしていくのが教育だということです。
ジョン・ロックは自由主義や人権思想の基礎をつくったとされますが、『教育に関する考察』において子どもを動物にたとえています。
彼は、しつけは小さいときからするのがたいせつであるといい、小さいときに甘やかした子どもが大きくなってから束縛しようとしてもうまくいかないとして、こう書いています。
今や一人前になり、以前よりは力も強く、頭も働くようになって、なぜ、今突然に、彼は束縛を受け、拘束されねばならぬのでしょうか。七歳、十四歳、二十歳になって、いままで両親が甘やかして、大幅に許されていた特権を、なぜ彼は失わねばならぬのでしょうか。同じことを犬や、馬やあるいは他の動物にやってみて、その動物が若い間に習った、悪い、手に負えぬ癖が、引き締めたからといって、容易に改められるかご覧なさい。
ジグムント・フロイトの患者にシュレーバーという者がいましたが、その父親は何冊もの本を書いた高名な教育学者でした。シュレーバーの父親は子どもの教育はできるだけ早く、生後五か月には始めなければならないと主張していました。言葉もわからない子どもにどう教育するかというと、たとえば泣きわめいている赤ん坊をよく観察し、窮屈だとか痛い思いをしているわけではなく、病気でもないとなったら、泣きわめいているのは「わがままの最初の現れ」であることがはっきりするといいます。
「こうなったらもはやはじめのようにじっと待っていたりしてはならないので、なんらかの積極的な行動に出る必要がある。速やかに子どもの気を別のものに向けさせたり、厳しく言ってきかせたり、身振りで脅したり、ベッドを叩いたりして……、そういうことでは効き目がない場合には――もちろんそれほど強いことはできないにしても、赤ん坊が泣くのをやめるかもしくは眠り込むまで繰り返し、休むことなく、身体に感ずる形で警告を発し続けるのがよい……」(アリス・ミラー著『魂の殺人』より引用)
これはどう見ても幼児虐待の勧めです。フロイトの時代に神経症患者の研究が進んだのにはこうした背景があったからかもしれません。
ともかく、赤ん坊に「わがまま」があるという考えは「子ども性悪説」そのものです。
なお、中世には「教育」というのは金持ちが家庭教師を雇ってすることで、庶民には無縁のことでした。
「子ども」という概念もなく、子どもは「小さなおとな」と見なされていたとされます。
近代になって庶民も教育やしつけをするようになって、ロックやカントの教育論が出てきたのです。
日本でも江戸時代にしつけをしていたのは武士階級だけです。
幕末から明治の初めに欧米から日本にきた人たちはみな、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、明治政府は富国強兵のために欧米式のしつけを日本に広めました(たとえば国定教科書に乃木希典大将の幼年時代のエピソードを掲載したことなどです。詳しくはこちら)。
西洋式のしつけは、子どもを動物のように調教するというもので、体罰を使うのは当たり前です。
もっとも、日本では子どもを動物と見なすような考え方はないので、しつけをする親はつねに葛藤していたと思われます。
このような時代の流れによって、「しつけのためにやった」と言う幼児虐待の加害者が出現するようになったのです。
しかし、「科学」がこうした子育てのあり方を変えました。
その具体的な始まりは1946年出版のベンジャミン・スポック著『スポック博士の育児書』だったでしょう。この本は世界的ベストセラーになって、1997年版の「編集後記」によると、39か国に翻訳され、世界で4000万部発行されたということです。聖書の次に売れた本という説もあります。
この本の基本的な姿勢を示す部分を引用します。
過去五十年のあいだ、教育者、精神分析学者、小児精神科医、児童心理学者、小児科医などが、いろいろとこどもの心理について研究してきました。その結果が、新聞や雑誌に発表されるたびに、世の親たちは熱心にそれを読んだものです。こうして私たちは、だんだんにいろいろなことを学んできました。たとえば、こどもは、親の愛情を、なによりも必要とするということ、また、けっこう自分から、大人のように責任をもって、ものごとをしようと努力するものだということ、よく問題をおこす子は、罰が足りないのではなくて、愛情が足りないのが原因だということ、また、年齢に応じた教材を、理解のある先生に教えられさえすれば、すすんで勉強するものだということ、自分の兄弟姉妹に対して、多少やきもちをやいたり、たまには親に腹をたてたりするのも、ごく自然な感情であって、これをいちいちとがめだてする必要はどこにもないということ、生命の真実を知ろうと、こどもなりに興味を持ち、性への関心が出てくるのは、ごく自然なことだということ、闘争心とか、性への興味を、あまり強くおさえつけると、こどもをノイローゼにしてしまうこともあるということ、親がしらずしらずにやっていることも、こどもにとっては、親がそうしようと思ってやっていることとおなじように大きい影響を与えるものだということ、こどもは、めいめい独立した人間だから、そのように扱ってやらなければならないということ、などです。こういった考え方は、今でこそ、もうあたり前のことになっていますが、発表された当時は、驚くべきことだったのです。というのは、それまで何百年ものあいだ、みんなが考えていたこととは、まるで正反対だったからで、そのために、こどもの本性はどういうものか、とかこどもにはどんなことをしてやらなければならないか、ということで、頭の切りかえができず、とまどってしまった親もたくさんありました。
これは「子ども性悪説」の否定であり、子どもをおとなと同じ人間と見ています。
日本では小児科医で児童心理学者の平井信義(1919年―2006年)が「しつけ無用論」と「叱らない教育」を提唱し、中でも『「心の基地」はおかあさん』という本は140万部のベストセラーになりました。
このような科学的な子育て論によって大きく変わったのが「抱きぐせ」についての考え方です。
昔は、赤ん坊が泣いたからといってすぐ抱きあげると抱きぐせがつくのでよくないとされていました(もっと昔は親子は川の字で寝て、母親や上の子がずっと赤ん坊をおぶっていたので、そんな考え方はありませんでした)。
赤ん坊の要求にすぐ応えると、赤ん坊はどんどん要求をエスカレートさせると考えられていたのです。赤ん坊を敵対的な交渉相手と見なして、駆け引きをしているようなものです。
騒ぐ子どもを静かにさせろというおとなも、そうしないと子どもはどんどんわがままになると考えているのでしょう。実際は、子どもが騒ぐのは今だけで、少し成長すれば騒がなくなります。
今は百八十度考え方が変わって、赤ん坊が泣けばすぐ抱くのがよいとされます。そうすることで赤ん坊は「基本的信頼感」を身につけることができるというのです。基本的信頼感があると、赤ん坊はよく探索行動をし、好奇心を発揮して、次第に親から自立していきます。
基本的信頼感がないと、赤ん坊はいつまでも親に依存し、自立が遅れることになります。
基本的信頼感のもとには、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンの分泌があります。赤ん坊は授乳のときや母親と見つめ合うときや触れ合うときにオキシトシンの分泌が盛んになります。
こうしたことから、泣くとすぐ抱くと抱きぐせがつくのでよくないという説は“科学的”に否定されたといえます。
今ではこの“抱きぐせ”説を言うのは、子育てに口出しする祖父母の世代くらいではないでしょうか。
日本では小児科医で児童心理学者の平井信義(1919年―2006年)が「しつけ無用論」と「叱らない教育」を提唱し、中でも『「心の基地」はおかあさん』という本は140万部のベストセラーになりました。
このような科学的な子育て論によって大きく変わったのが「抱きぐせ」についての考え方です。
昔は、赤ん坊が泣いたからといってすぐ抱きあげると抱きぐせがつくのでよくないとされていました(もっと昔は親子は川の字で寝て、母親や上の子がずっと赤ん坊をおぶっていたので、そんな考え方はありませんでした)。
赤ん坊の要求にすぐ応えると、赤ん坊はどんどん要求をエスカレートさせると考えられていたのです。赤ん坊を敵対的な交渉相手と見なして、駆け引きをしているようなものです。
騒ぐ子どもを静かにさせろというおとなも、そうしないと子どもはどんどんわがままになると考えているのでしょう。実際は、子どもが騒ぐのは今だけで、少し成長すれば騒がなくなります。
今は百八十度考え方が変わって、赤ん坊が泣けばすぐ抱くのがよいとされます。そうすることで赤ん坊は「基本的信頼感」を身につけることができるというのです。基本的信頼感があると、赤ん坊はよく探索行動をし、好奇心を発揮して、次第に親から自立していきます。
基本的信頼感がないと、赤ん坊はいつまでも親に依存し、自立が遅れることになります。
基本的信頼感のもとには、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンの分泌があります。赤ん坊は授乳のときや母親と見つめ合うときや触れ合うときにオキシトシンの分泌が盛んになります。
こうしたことから、泣くとすぐ抱くと抱きぐせがつくのでよくないという説は“科学的”に否定されたといえます。
今ではこの“抱きぐせ”説を言うのは、子育てに口出しする祖父母の世代くらいではないでしょうか。
科学的に否定されたといえば、体罰肯定論もそうです。
厚生労働省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っていて、そこにおいて「厳しい体罰により、前頭前野(社会生活に極めて重要な脳部位)の容積が19.1%減少」「言葉の暴力により、聴覚野(声や音を知覚する脳部位)が変形」といった科学的研究を示し、「体罰・暴言は子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼします」と明言しています。
これによって少なくとも社会の表面から体罰肯定論はなくなりました。
ここでは体罰とともに暴言も挙がっていますから、当然子どもをきびしく叱ることも脳にダメージを与えます。
「叱らない教育」への転換が求められます。
しつけ、体罰、叱責は子育てから排除されなければなりません。
そうすると家族のあり方も変わります。
保守派は家父長制、つまり父親が威厳をもって家族を支配するという家族を理想としていますが、父親の威厳はしつけ、体罰、叱責と不可分です。
父親が妻や子どもと対等の人間になれば保守思想は崩壊するといっても過言ではありません。
なお、「子どもを愛すること」と「子どもを甘やかすこと」の違いとか、子どもが悪いことをしたときに叱らなくていいのかといった疑問については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。
コメント