
斎藤元彦兵庫県知事を巡る問題が連日ネットとワイドショーをにぎわしています。
おかげで裏金議員が喜んでいるということが「自民裏金議員は“斎藤騒動”の長期化を期待? 参院政倫審の開催目前、斎藤元彦知事を巡る公選法違反疑惑で霞む」という記事に書かれていました。
石破茂首相もすっかり影が薄くなって、話題になるのは、APECに出席したときトルドー首相と座ったまま握手したとか、習近平主席と握手するとき両手で握ったとか、おにぎりの食べ方がきたないとか、くだらないことばかりです。
もっとも、斎藤知事の問題もパワハラとか公選法違反といった、くだらないといえばくだらないことです。それに、あくまで兵庫県というローカルの問題です。
それなのに斎藤知事にこれほど話題が集中するのはどうしてでしょうか。
なによりも斎藤知事のキャラクターが際立っています。
内部告発文書でパワハラやおねだりが告発され、告発者が自殺するという事態になっても、テレビの前で表情ひとつ変えずに、告発文書は「誹謗中傷」「嘘八百」で、「告発者を処分したのは当然」と言い続けました。
失職して選挙で再選された直後に、公職選挙法違反の疑いがかけられると、今度は「公選法違反になるような事実はないと認識しています」とひたすら繰り返しました。
こういう態度から「鋼のメンタル」と言われます。
普通の人なら、なにか疑いをかけられて、自分でもやましい気持ちがあると、つい弁解してしまい、そのため墓穴を掘ってしまうものです。
そういう意味で、いっさい説明せず、否定の言葉だけ繰り返すというのはうまいやり方です。
もっとも、追及するほうはどんどん不満がたまっていくので、いつまでも追及が続きます。
それがこの問題が騒がれるひとつの理由です。
こういう状況は、安倍政権のときにモリカケ桜が追及されたときに似ています。
安倍首相は虚偽答弁や公文書偽造などを駆使する鉄壁の守りで追及をはねのけ続けましたが、そのためいつまでたっても問題が終わりませんでした。
菅政権も同じです。日本学術会議新会員任命拒否問題で、拒否した理由をいっさい説明せずに拒否を貫き続けました。
安倍首相とその路線を継承した菅首相は、強権的な体質を持っていて、いかにも権力者らしい権力者でした。
こういうタイプの政治家は、反発も受けますが、一方で支持もされます。
いや、むしろ支持する人のほうが多いでしょう。
誰でも強いものには憧れますし、弱いリーダーよりは強いリーダーにのほうがいいと思うからです。
強いリーダーの典型はヒトラーです。体はそんなに大きくありませんが、拳を振り上げながら激しい言葉で演説し、反対勢力は突撃隊を使って暴力で制圧し、党内の反対派も次々と粛清していきました。
このやり方は人を恐怖させますが、一方で人気も博して、権力を掌握するとともに圧倒的な人気となり、ドイツは国民すべてが「ハイル・ヒトラー」を叫ぶ個人崇拝国家になりました。
トランプ氏は体が大きく、威圧感があり、演説も得意ですが、暴言を吐きまくり、間違いを指摘されても絶対に訂正しません。
今後、権力を掌握し、強権を行使するとともにさらに人気が出るかもしれません。
安倍首相も体が大きく、党内も官僚も掌握し、新安保法制などでも反対を強引に押し切り、いかにも強い権力者でした。
菅首相は体が小さく、体格的な威圧感はありませんが、冷酷な人事で官僚を掌握し、一度決めたことは貫くことで権力者らしさを示しました。
安倍首相と菅首相は強権的なタイプでしたが、岸田首相はまったく違います。「聞く力」を発揮して、一度決めたことでも国民の反発が強いと見るとすぐに方針転換しました。
そのため野党やリベラルも攻撃の目標を失った感じで、その隙に防衛費GDP比2%を実現してしまいました。
石破首相はもともとタカ派で強権的なイメージでしたが、今は党内基盤が弱く、少数与党になったので、権力者らしいふるまいがまったくできません。
そういうところに久々に権力者らしい権力者として斎藤知事が登場したために、支持派と反対派が激突する展開となったわけです。
斎藤知事は菅首相と同じタイプで、体は細いですが、即座に告発者を処分するなど冷酷な人事で部下を支配していたと思われます。
パワハラがあったかなかったかは見解の分かれるところですが、斎藤知事本人もきびしい叱責をしたことは認めています。
いわばパワハラ体質で、この人の下では働きたくないと思えるような人です。
話は変わるようですが、松本人志氏が性加害で告発されたときも似た状況になりました。
松本氏は圧倒的な力で芸能界に君臨し、見た目もマッチョですし、安倍首相と会食するなど、実に権力者らしい権力者でした。
週刊文春が詳細な記事で告発している一方、松本氏は「事実無根なので闘いまーす」と言ったきりなにも発信しませんでした。
それでも松本擁護派がいっぱい出現して、にぎやかな論争になりました。
松本氏のようないかにも権力者らしい権力者には、やはり多くの支持者がつくものです。
ですから、斎藤知事に関しても、マスコミに圧倒的に批判されていたので表面化しませんでしたが、潜在的な支持者はかなりいたと思われます。
そこに立花孝志氏とPR会社の折田楓氏の活躍で潜在的支持者が掘り起こされたのです。
斎藤知事の問題に関しては、政策はほとんど関係ありません。
斎藤知事の対立候補であった稲村和美氏は、選挙戦の序盤は「極左」呼ばわりされていたが、終盤になると「既得権益の代表」みたいに言われたと語っています。
兵庫県民以外、選挙戦でどんな政策が争われたか知る人はほとんどいないでしょう。
パワハラ体質で、権力者らしい権力者である斎藤知事を見て、好ましく思う人と嫌う人がいる。それが対立の根源です。
ここで保守とリベラルの問題が出てきます。
斎藤知事を支持する人が保守で、支持しない人がリベラルです。
私はこのところ保守とリベラルを考察する記事を書いてきましたが、保守というのはホッブスの思想に起源を持ち、「人間性は悪、権力は善」というもので、リベラルというのはルソーの思想に起源を持ち、「人間性は善、権力は悪」というものです。
ですから、保守派にとっては斎藤知事のようなパワハラ体質の権力者はむしろ善で、内部告発者は悪ということになります。
リベラルにとっては、パワハラ体質の権力者は悪で、内部告発者は善です。
もちろん実際に判断するには事実を調べなければなりませんが、直観的な判断としてはそういうことになります。
そして、人間はおうおうにして自分の直観的な判断を補強するために“証拠”集めをして、最初の思い込みをさらに強化するものです。
そうして保守とリベラルの対立は泥沼化します。
この対立をなんとかするには権力について知らねばなりません。
ホッブスは権力をもっぱら国家権力としてとらえていました。
しかし、ミシェル・フーコーは「権力はあらゆる関係に存在する」と言いました。明らかにフーコーの思想が進んでいます。
人間は生まれてすぐ親と対峙します。親は子どもにしつけをし、教育します。これがすでに権力関係です。
男と女も権力関係ですし、先生と生徒、会社の上司と部下、先輩と後輩、実力のある者と実力のない者、気の強い者と気の弱い者、金持ちと貧乏人など、あらゆる人間関係に権力があります。
会社の部下は命令してくる上司に不満を持つものですが、上司も部下の働きに不満を持ちます。
ですから、権力関係には不満がつきもので、多くの人は不満をため込んでいます。
権力は上から下への一方通行ですが、民主主義は違います。下の者が投票によって上の者を支配することができます。そのためここに下の者の日ごろの不満が集中します。
しかし、権力者に肩入れする者もいるので、感情的な争いが勃発します。これが政治的対立の根源です。
なお、最近はセクハラ、パワハラ、性加害の告発が行われるようになり、これも下から上への権力行使ですから、ここでも感情的な争いが生じます。これは政治の世界の争いとほとんど同じです。
昔は若者は反権力で、年齢が行くと権力側になる、つまり保守化したものですが、最近は革新勢力が古くさくなって、そう単純なものではなくなりました。
ある人がなぜ保守になるのか、リベラルになるのかというのはむずかしい問題です。
人がサディストになったりマゾヒストになったり、あるいは脚フェチになったりおっぱいフェチになったりするのと近いものがあると思います。つまり生まれてからのさまざまな経験によって決定されるのです。
しかし、保守とリベラルとどちらが正しいかというと、リベラルだということができます。
もともと人間は多くて150人程度の共同体で暮らしていました。それが人間にとっての自然な生活です。
ところが、人間は強大な国家をつくり上げました。これは人間の自然に反します。
保守はこの国家をさらに強大にしようというものなので、人間はますます自然に反した生活を強いられることになります。
今後は国家権力を解体して、共同体のよさを取り戻す方向へと舵を切るべきです。
私は最近、保守とリベラルについて「保守とリベラルはどちらが正しいのか」と「リベラルはなぜ負けたのか」というふたつの記事を書いて、それを踏まえて今回の記事があるので、前の記事も参考にしてください。
斎藤元彦知事については「立花孝志氏のYouTubeに愕然」という記事も書いています。
また、私は「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっているので、それもぜひお読みください。
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