
私がスーパーで買い物をするときによく思うのは、夫婦で買い物をする人をほとんど見かけないなということです。
夫が会社勤めをしているにしても、土日なら夫婦で買い物に行けるはずです。
私の場合、妻が会社勤めなので、土日はいつもいっしょに買い物に行きます。
ずっと家にいるよりも散歩がてら買い物に行ったほうが気分転換にもなります。
もう定年退職したような老夫婦はときどきスーパーで見かけます。
しかし、二人が会話していることはめったにありません。
たまに言葉を発しているのを聞くと、たいてい不機嫌なダメ出しの言葉で、会話になっていません。
なんのために二人でスーパーにきているのかと思ってしまいます。
そうした疑問を持っていたところ、『店員「レジで奥様を手伝わず突っ立ってるだけの人、なぜ?」意図が不明な謎行動に「本当に邪魔」「見かねて声をかけた」』という記事を見つけて、やはりそうなんだと思いました。
その記事を簡単に紹介すると、「スーパーに一緒に買い物に来て、奥さんが会計をしている時にぼーっとレジの横に立ったままの人が多い。邪魔なので、手伝わないのなら別の場所にいてほしい」というSNSの投稿がきっかけで、店員経験のある人などから「ほんとうによく見かける」「奥さんが重いカゴを移動させてるのに、横か後ろにくっついて動かない人がいる」「レジもそうだけど、サッカー台で何もせずに突っ立ってる人も多い」といった声が上がりました。
客からも「腕組みして見てるだけの人、本当に邪魔」「運転のために来ているのだとしても、車の中で待ってるか、普通に手伝えばいいのに」「ついてきているだけの人って無意識で通路をとうせんぼしがち」などの声がありました。
夫婦で買い物にきていても、夫は荷物持ち要員としてついてきているだけで、買い物には関与していないようです。
性別役割分業が徹底した夫婦だと思われます。
こういう夫婦は会話も乏しくなるでしょう。
一般論として夫婦はどんな会話をしているのでしょうか。
あるテレビ番組で新婚の男性が毎日会社帰りの電車の中で今日は妻とどんな会話をするか考えていると言っていて、それを聞いたスタジオの女性が「やさしい」とほめていました。
初めてのデートのときなどはどんな会話をするかあらかじめ考えた人も多いでしょう。しかし、そんなことは長くは続けられません。
新婚しばらくは、相手のことをよく知らないので、お互いに自分のことをしゃべっていれば意味のある会話になります。
それに、各家庭で生活習慣が違うので、掃除や洗濯のやり方、料理の味付けなどさまざまなことで“文化摩擦”が生じ、それも会話のネタになります。出身地が違うと地域の文化の違いもあります。
新婚の妻が初めておでんをつくったら、夫が「豆腐が入っていない」と文句を言って喧嘩になったという話を聞いたことがあります(豆腐は長く煮込むと固くなるので入れないこともあります)。
昔、大根がすごく高値になったとき、妻が迷った末にサンマの塩焼きに大根おろしをつけなかったら、夫が激怒したという話もあります。
こういう行き違いを防ぐためにも会話が必要になります。
何年かたつと会話もマンネリになってきますが、子どもができると、今度は子どものことでしゃべることがいっぱい出てきます。そうして多くの夫婦は会話を続けていくのでしょう。
私たち夫婦には子どもがいませんが、結婚してしばらくして猫を飼い始めました。
そうすると猫について話すことがけっこうあります。うちの猫は自由に戸外に出ていたので、しばしばネズミやスズメやセミなどを捕って家に持ち帰ってきて、そのたびに大騒ぎになります。
ペットは家族の会話を活発にさせる機能があります。
しかし、やがて子どもも巣立っていきます。そうすると夫婦に会話することはほとんどなくなります。
子どものいない夫婦はその前から会話することはないわけです。
「メシ、フロ、ネル」しか言わない戯画化された夫というのは、けっこう現実ではないかと思われます。
そもそも人間はなんのために会話をするのでしょうか。
イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーは『ことばの起源 -猿の毛づくろい、人のゴシップ』という本で、人間の会話はサルの毛づくろいと同じであるという説を述べました。
サルは互いに毛づくろいをすることで親しさを確認し、群れの結束を強めます。人間は毛がないので毛づくろいの代わりに会話をし、そのために人間は言語能力を発達させたというのです。
ですから、会話することそのものに意味があって、会話の内容にはたいして意味がないことになります。
人間の会話の内容を調べると7割はゴシップだといわれます。つまり周りの人間についての根拠のない噂話をしているのです。
私たちの日常会話も、近所の人についての噂話や、芸能人の不倫の話、石破首相やトランプ大統領の話などです。
SNSでも根拠のない話がどんどん広がっています。話を通じて誰かと共感することが目的なので、その話に根拠があるかどうかはあまり関係がないからです。
必要な情報の伝達とか、認識を深めるための議論などもありますが、それらは会話全体からみればごくわずかです。
夫婦でいえば、家計のこととか親の介護のこととか、まじめに話し合わないといけないこともありますが、それも全体から見ればごくわずかです。
夫婦は同じ家で暮らしているからといって、いつもいっしょにいるのはよくないのではないかと思います。
この前、ある女性芸能人(誰だったか忘れた)がテレビで「仲のよい夫婦は寝室をいっしょにしていない」と語っているのを聞いて、そういうこともあるかもしれないと思いました。
長くやっている漫才師はたいてい楽屋でもほとんど言葉を交わさないといいます。
いくら仲がよくても、同じ人間といつも顔を合わせていると嫌気がさすものです。
私たちの場合、妻は会社勤めですが、私は文筆業で昼ごろ起きるので、必然的に寝室は最初から別でした。
夫婦がいっしょにすごすのは、夕方妻が会社から帰ってきてから食事の片づけをするまでの間で、そのあとはそれぞれの部屋ですごします。
寝る前に二人いっしょに紅茶を飲むこともあります。そのときはテレビのニュース番組やトーク番組を見て、それをもとに会話します。テレビを見なければ会話のきっかけがありません。
夫婦の会話などなんの意味もなくて当たり前です。
ただ、意味のある会話もあります。それは家事についてです。サラリーマンが同僚と仕事の話をするのと同じで、これは夫婦にとって必要な会話です。
私たち夫婦の場合、掃除は平等に分担しています。洗濯は妻がやって、私は洗濯物を干したり取り込んだりするのを手伝う程度です。料理は基本的に妻がやりますが、私はご飯を炊くのとみそ汁をつくるのを担当し、ときどき一品をつくり、妻が残業のときは私が全部つくります。
家事分担の割合としては、6対4とまではいきませんが、7対3よりはやっているはずです。
なお、買い物は、妻が帰宅前にしますが、私も昼間することがあります。
いつも別々ですから、土日にいっしょに「キャベツが安くなってきたね」とか「コーヒー豆がまた高くなった」などと話し合いながら買い物するのは楽しいことです。
ですから、冒頭でも書いたように、いっしょに買い物をする夫婦をほとんど見かけないのが不思議です。
おそらく多くの夫婦は妻だけが料理をしているのでしょう。いっしょに料理をしていればいっしょに買い物もするはずです。
誕生日や結婚記念日などに夫婦で外食をすることがありますが、そんなときどんな会話をしているかというと、半分ぐらいは料理のことです。というか、それ以外にあまり話すことがないというのが実際です。
そうすると、ほかの夫婦は外食のときにテーブルで向かい合ってどんな話をしているのでしょうか。黙って食べていたのではせっかくの外食が楽しくありません。
会話のない夫婦は、二人で家事をするようにすれば会話が増えるはずです。
ともかく、夫婦の会話というのはどうせ価値のないものなので、楽しくバカ話をしていればいいというのが私の考えです。
逆に価値のある会話をしようとするのはたいへん危険です。
たとえば相手になにかを教えて知的に向上させようという人がいます。
これは相手を見下した行為ですから、教えられる側は不愉快です。
これを男がやるのは「マンスプレイニング」といわれます。
相手を道徳的に向上させようというのも夫婦関係を破壊します。
以前、妻が冷凍餃子を食卓に出したところ夫から「冷凍餃子は手抜きだ」と言われたというツイッターの投稿が話題になったことがありました。この夫は手抜きをする妻を手抜きをしない立派な妻にしようとしたのでしょう。
夫が妻を「だらしない」「気が利かない」と言ったり、妻が夫を「思いやりがない」「自分勝手」と言ったりするのも、相手を道徳的に向上させようとしているわけです。ですから、言うほうはいいことを言っているつもりです。
しかし、言われるほうは不愉快です。
こうしたことが繰り返されると、会話自体がなくなってしまいます。
その結果、離婚に至るか仮面夫婦になるしかありません。
なぜこういうことが起こるかというと、道徳について根本的な勘違いをしているからです。
今、小中学校では道徳の授業が行われていますが、これが可能なのは、子どもが弱いためにおとなしく聞いているからです。
配偶者に対して道徳を説いたら、うまくいかないに決まっています。
そのことを理解せず、夫婦関係に道徳を持ち込んで、そのために多くの夫婦の関係が冷え切っているのは悲しいことです。
家庭に道徳を持ち込まないようにすれば楽しい夫婦関係になると思います。
道徳についての根本的な勘違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。
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