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トランプ政権は9月2日にベネズエラ沖で米軍によって麻薬密輸船とされる船を攻撃し、乗組員11人を殺害しました。
それを皮切りに米軍は中南米海域で20件以上の麻薬密輸船とされる船に対する攻撃を行い、80人以上を殺害したとされます。

麻薬密輸船なら通常は警察か沿岸警備隊が拿捕し、逮捕するものです。
アメリカの法律が適用されないなら、当事国の警察に情報を提供して逮捕してもらうことになります。
船を攻撃して沈没させ、乗組員全員を殺せば、麻薬を積んでいたかもわかりませんし、彼らが犯罪者だったかもわかりません。それに、犯罪者だとしても殺していいことにはなりません。
これはただの殺人事件です。

9月2日の攻撃のとき、船の残骸につかまっている2人の生存者が発見され、2度目の攻撃によって全員が殺害されました。ヘグセス国防長官が「全員殺せ」と命令していたと報道されましたが、のちにヘグセス長官は命令していないと言い、ホワイトハウスのレヴィット報道官は、命令したのはブラッドリー提督だと言いました。また、ヘグセス長官は最初は「全部見ていた」と言っていましたが、あとで「爆発と煙で見えなかった」と言い直しました。
戦時国際法のジュネーヴ条約は、負傷した戦闘員を意図的に攻撃することを禁じ、負傷者らは捕らえて手当てすべきだと定めているので、2度目の攻撃は戦争犯罪に当たる可能性があるそうです。
つまりこれは法的には「戦争」であるようです。

実際にも戦争になりそうです。トランプ大統領は12月3日、「まもなくベネズエラに対して地上での作戦も始める」と述べました。
さらに「誰であれ我々に麻薬を売れば攻撃の対象になる。ベネズエラだけではない」とも述べました。
自分から戦争を始めたのでは、ノーベル平和賞どころではありません。


麻薬の密輸を防ぐための戦争といえばアヘン戦争がありました。当時のイギリスは清国に輸出するものがあまりなく貿易赤字だったので、インドでアヘンを製造し、清国政府が禁止するアヘンを密輸してもうけていたために戦争になったものです。戦争に勝ったイギリスは香港を獲得するなどしました。麻薬密輸でもうけて、戦争でももうけるという、むちゃくちゃな時代でした。

アヘン戦争のときは麻薬密輸をしていたのはイギリスだけでしたが、今のアメリカに麻薬を密輸している国は一国ではありません。
アメリカは昔からコロンビアやメキシコの麻薬犯罪組織と戦ってきましたが、トランプ氏はフェンタニルについてメキシコ、カナダ、中国を名指しして圧力を加えています。
ということは、アメリカ周辺国のほとんどが麻薬密輸国です。
したがって、ベネズエラとの麻薬戦争に勝ってもアメリカへの麻薬密輸が止まるわけではありません。
アメリカは麻薬の大消費地です。高値でも買いたいという消費者がいる限り、供給者が出てくるのは止められません。

麻薬犯罪組織はアメリカ国外にだけあるのではありません。アメリカに密輸された麻薬はアメリカ国内の麻薬犯罪組織が売りさばいているわけです。
アメリカは国内の麻薬犯罪組織をちゃんと取り締まればいいわけですが、それができないので外国のせいにしています。
一般の犯罪も移民のせいにしています。
こうしたアメリカの他責思考が世界を混乱させています。


なぜアメリカは国内の麻薬対策がうまくいかないのでしょうか。
ひとつには麻薬に対する感覚の違いがあると思われます。
アメリカの戦記ものを読んでいると、激戦の戦場での衛生兵の主な役割は負傷兵にモルヒネを打って回ることです。傷の手当よりもまずモルヒネという感じです。
日本軍もモルヒネは持っていましたが、手術のときに使うぐらいで、戦場の負傷兵に打つということはなかったと思います。
アメリカでは医者が患者に容易に痛み止めを処方し、患者のほうもそれを求めるようです。こうした痛み止め薬の総称をオピオイドといいます。
オピオイドの一種にオキシコンチンというのがあり、モルヒネ以上に鎮痛効果があるのですが、依存性があり、過剰摂取で死亡の危険性もあります。製薬会社はそうしたことを知りながらもうけ主義のためにオキシコンチンを売り、医師ももうけ主義のために処方しました。そのため大量の麻薬中毒者が合法的に生み出されたのです。
オキシコンチンが禁止されると、麻薬中毒者はフェンタニルに目をつけました。フェンタニルはモルヒネの100倍の効果を持つとされる鎮痛薬で、今も合法に使われていますし、アメリカ国内の製薬会社でつくられています。薄めて使いやすくしたり、コカインやヘロインに混ぜたりしたものは違法となり、そこが取り締まりのむずかしいところかもしれません。


最終的にはアメリカ人が麻薬を求めることが問題です。
アメリカでは薬物過剰摂取による死者がだいたい年間10万人ぐらいいます。
体に悪いとわかっている薬物になぜ手を出すかというと、PTSDが大きな原因であることがわかっています。
ベトナム戦争でトラウマを負った帰還兵が多く薬物依存症になったことでそのことが知られるようになりました。
トラウマの原因は戦争だけでなく災害や事故などもありますが、いちばん多いのは幼児期に親から虐待されたことです。
PTSDは薬物依存症だけでなく、アルコール依存症、ギャンブル依存症などさまざまな依存症の原因になります。
アメリカは肥満も深刻ですが、肥満は糖質依存症と見なすことができます。

最近は逆境的小児期体験(Adverse Childhood Experiences)、略してACE(エース)といわれる概念が使われるようになっています。
ACEは虐待だけでなく、幼児期における家族の精神疾患、家族の自殺、養護施設での生活なども含まれます。崩壊家庭における苦しい体験といっていいでしょう。
ACEは依存症の原因になるだけでなく、うつ病、糖尿病、心筋梗塞、脳卒中、肺炎、腰痛・頭痛、がんなどになる可能性を高めます。
人間は精密機械のようなものです。幼児期から長期にわたって正しく調整しないと正しく機能しません。

アメリカは先進国なのに平均寿命がきわめて低い国です。

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とくに健康寿命の低さが目立ちます。これはやはりACEが原因ではないでしょうか。

メキシコのオブラドール前大統領はフェンタニルが問題視されることに対して、「アメリカの過剰摂取危機は麻薬の問題よりも家族や道徳的価値観の崩壊に関係している」と主張しましたが、当たっているでしょう。


PTSDやACEは、過去の体験が今に影響しているということですが、未来のことも今に影響しています。
アメリカは薬物依存症だけでなくアルコール依存症による死者も多く、さらに自殺者も多くいます。
ノーベル賞経済学者のアンガス・ディートンとアン・ケースはこれらの死亡を「絶望死」と名づけて『絶望死のアメリカ』という著作で分析しました。
1990年代末から、世界的には死亡率が低下している中でアメリカの中年白人・低学歴層では死亡率が上昇する現象が見られました。その背景には雇用の不安定化、家庭崩壊、社会的孤立があるとされました。黒人などはもっと悪い状況に置かれていますが、改善の方向にあります。白人の低学歴層では悪化の方向にあり、それが絶望を強めているようです。

アメリカでは低学歴で低収入になると、そこから浮かび上がることはきわめて困難です。
日本でも似たようなものかもしれませんが、日本では地道に働く人生にも価値があるという考え方があります。しかし、アメリカではアメリカン・ドリームという言葉があるように、夢をつかんだ人間や高所得層だけが成功者で、成功者でない人間は敗残者と見なされる文化があるような気がします。そうなると、貧困層は現実逃避をするためにドラッグやアルコールにおぼれ、犯罪に走りがちになります。

白人の低学歴層というのは、トランプ氏を支持したラストベルトの白人労働者層と重なります。
彼らはトランプ氏に希望を託しましたが、トランプ氏の政策は富裕層を豊かにするばかりで、低所得層はますますきびしい状況に置かれています。


PTSDやACEはもっぱら心理学的なアプローチによる概念で、絶望死は主に経済的・社会的なアプローチによる概念です。
両方からのアプローチによって、アメリカ社会の根本的な問題は格差社会と家庭崩壊であることが明らかになりました。
しかし、トランプ政権に限らずアメリカの政治は、格差解消の方向に動きそうにありません。
また、保守派はマッチョな男が強権的・暴力的に女子どもを支配するという家庭を肯定しているので、家庭を立て直すことも困難です。
しかし、アメリカ人の健康度を改善し、麻薬依存症を治していくには、地道に格差解消と家庭の立て直しに取り組むしかありません。
麻薬犯罪組織に対して派手な軍事行動をするのは、これもまた現実逃避にほかなりません。