大阪府で国歌斉唱時に教職員に起立を義務づける条例が成立して、また日の丸君が代が問題になってきました。この問題はさまざまなとらえ方ができるので議論が迷走しがちです。とりあえず問題を整理してみましょう。
 
まずこれは政治の問題、とりわけナショナリズムの問題としてとらえられます。ナショナリズムを強化するべきだという立場と、反ナショナリズムの立場とでは、当然賛否が別れます。
また、一般的な国旗国歌の問題としてとらえる人もいれば、過去に軍国主義に利用された日の丸君が代の問題としてとらえる人もいます。この両者が議論すれば、当然議論はかみ合わなくなってしまいます。
それからこれは教育の問題であり、とりわけ規律の問題です。学校では規律はきびしくあるべきだという立場と、学校は自由であるべきだという立場とでも、賛否が変わってきます。
そして、これは入学式・卒業式の構成演出の問題です。国歌斉唱は通常、入学式・卒業式でしか行われないからです。入学式・卒業式はどうあるべきかということと密接に結びついています。
 
というわけで、本格的に論じるのはたいへんなので、今回は入学式・卒業式の構成演出の問題から考えてみます。
 
 
入学式・卒業式は厳粛であるべきだという考えの人が多いようですが、いったい誰がそんなことを決めたのでしょう。まったくバカバカしいことです。
生徒たちは厳粛な式を望んでいるでしょうか。そんなことはありません。楽しくて、感動的な式を望んでいるのです。
実は厳粛な式を望んでいるのは、教育委員会や校長や来賓などの偉い人たちです。彼らは壇上であいさつするとき、生徒や保護者や教員がかしこまって聞いてくれることを望んでいるのです。それをつまり厳粛な雰囲気というのです。
彼らの壇上でのあいさつの内容がすばらしくて、おのずと聞き手が厳粛な雰囲気をかもしだすというのならけっこうなことですが、もちろんそんなことはありません。私は自分の人生で何度も入学式・卒業式を経験して、壇上のあいさつをたくさん聞いていますが、その内容を覚えている話はひとつもありません。まったく時間のむだだったといっても過言ではありません。おそらくこれは私だけのことではないでしょう。
 
偉い人たちの話がつまらないのはわかりきった話です。これは成人式でも同じことで、さすがに二十歳になるとこのつまらなさにつきあいきれないので、“荒れる成人式”なるものが出現することになります。
 
で、国旗国歌は、このつまらない入学式・卒業式をなんとか格好づけするために使われているというわけです。東京都教委が国旗を壇上正面に張るよう指導しているのも、偉い人たちをより偉く見せかけるためです(これらの背後には、教育とはおとなが子どもを一方的に思い通りにすることだという思想があります)
ただ、こうしたつまらない式の中でも、卒業式の送辞や答辞はしばしば感動的であることは付け加えておきたいと思います。
 
では、どんな入学式・卒業式がいいのかということになりますが、当然、偉い人が喜ぶものではなく、生徒が喜ぶものにするべきです。
生徒はどんなものを喜ぶかというのは、おとなにはなかなかわかりません。おとながやると、またおとなに都合のいいものになってしまう可能性があります。
ですから、生徒自身に式の構成演出をしてもらいます。
入学式は新入生が主人公で、卒業式は卒業生が主人公です。彼らの一生の思い出になるような素晴らしい式をつくりだすことは、つくりだす側の生徒にとってもよい経験になります。
どんな式を生徒たちが考えるかわかりませんが、私としては東京ディズニーランド精神で新入生を迎え、卒業生を送り出すようなものを想像しています。
その中に多分国旗国歌の出番はないでしょう。出番があるのはむしろ万国旗でしょうか。
どうしても国旗を張っておきたいというのなら、保護者席の後ろがいいでしょう。当然そこが正しい位置になります。
 
入学式・卒業式ひとつとっても、その人が教育をどう考えているかわかります。
おとなのための教育か、子どものための教育か。あなたはどっちですか。