東京都が夏季オリンピック開催地に立候補することになりました。日本の復興を世界に示すという理由が挙げられていますが、それなら東京ではなくて仙台あたりで開催するべきでしょう。それでも、スポーツ関係者はこぞって賛成しています。日本は原発利権やスポーツ利権で動く国になってしまったようです。
私は日本で開催する必要はまったく感じませんが、オリンピックを見るのは好きです。しかし、昔はオリンピックを単純には楽しめませんでした。というのは、昔は東西冷戦という時代背景もあって、今よりもはるかに国威発揚の場になっていたからです。
それに加えて、アマチュアリズムというものがありました。これがひじょうに厄介なもので、オリンピックの楽しみをそいでいたのです。
アマチュアリズムというのは、オリンピックの出場者はアマチュアでなければいけないというものです。しかし、アマとプロというのは、もともと明快に区別できるものではありません。
まず、共産圏の選手は国から援助を受けていたのでステート・アマと呼ばれましたが、これは実質的にプロと同じだとして西側の国は批判しました。
しかし、西側の国も、たとえば日本では多くのアマチュア選手は企業か役所に属し、給料をもらいながら練習したり試合に出たりしていたので、これも実質的にプロに近いものでした。
そのため、ことあるごとにアマチュア規定に抵触するか否かが問題となり、多くの選手は窮屈な思いをしましたし、一般の人も不明瞭な線引きに納得いかない思いがしていました。
そして、価値観の転換が起きました。1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除され、プロ選手が参加する流れができ、1992年のバルセロナ大会でアメリカのバスケットチームは一流プロを集めてドリームチームと呼ばれ、大きな話題となりました。
今となってはアマチュアリズムは死語です。
アマチュアリズムをいいだしたのはオリンピック創始者のクーベルタンで、ウィキペディアによると、ブルジョアジーによる労働者階級排除を目的とする意味があったということです。
「オリンピック出場者はアマチュアであるべきだ」という考え方は、スポーツ界において、野球やボクシングなどプロが確立された種目を除いて、プロであることはいやしいことだという風潮を生みました。
今は、プロもアマも区別することなく、プレーするほうも見るほうもスポーツを楽しむことができています。
「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」という考え方がなくなったのはほんとうによいことでした。
今、「人間はこうあるべきだ」という考え方がいっぱいあって、私たちはそれに縛られています。しかし、それらは「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」とどこが違うのでしょう。
「人間はこうあるべきだ」という考え方がなくなったほうが私たちは幸せに生きられるのではないでしょうか。

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