「ガンジー自伝」を読むと、あの非暴力のガンジーも子どもに体罰をしたことがあると書かれています。
ガンジーは、恵まれない子どもたちのための教育施設を自分でつくって、そこで子どもを教育していたのですが、中に1人、ぜんぜん言いつけを聞かない子どもがいて、あるとき思わずその子どもをたたいてしまったのです。
ガンジーでも体罰をするぐらいだからと、自分の体罰を正当化する人もいるかもしれません。確かに、つい感情的になって子どもをたたいてしまうということは完全にはなくならないのかもしれません。
問題は、そのあとです。
ガンジーは罪の意識を覚え、反省し、二度と体罰をすることはありませんでした。
当然ですね。そうでないとガンジーではありません。
子どもをたたけば、ガンジーでなくても罪の意識を覚えます。良心の呵責を感じるといってもいいでしょう。これは人間に本来備わっているものです。いや、人間だけでなく、少なくとも哺乳類ならみな同じでしょう。子どもをたいせつにしない動物は絶滅してしまいます。つまり、子どもをたたいたときに感じる罪の意識や良心の呵責は本能的なものなのです。
罪の意識や良心の呵責を感じたら、ガンジーのように、もう二度とこんなことはしないでおこうと思うのが普通です。子どもをたたかなければ、罪の意識や良心の呵責を感じることはないからです。
しかし、別のやり方で罪の意識や良心の呵責から逃れることもできます。
それは、この子どもは「悪い子」で、それを「よい子」にするためにたたくことは「正しい」ことだと考えるのです。
「よい子」にするということは、その子どものためでもあります。つまり、子どもをたたくのはその子どものためだと考えると、罪の意識や良心の呵責から逃れられます。
こうした考え方を「道徳」といいます。つまり道徳は、善、悪、正義というトライアングルからできています。
人間は道徳をつくりだしたことで、罪の意識や良心の呵責という本能のくびきを脱し、文明をつくりあげました。そのため私たちは、飢えの心配もなく、冷暖房のある快適な生活を送ることができています。
しかし、子どもをたいせつにするという根本のところが道徳によって毀損されてしまいました。教育、しつけ、幼児虐待、これらすべてが子どもをたいせつにしない結果として行われています。
子どものありのままをたいせつにすれば、教育やしつけを行うことはできませんから。
このように道徳はもともと負の存在として誕生したのだと考えると、道徳のあり方が正しく見えてきます。これを私は「科学的倫理学」と名づけています。
現在の倫理学は善、悪、正義がトライアングルになっているということすら把握できていない、まったくデタラメな学問です。

コメント