「今年の漢字」が「絆」に決まり、清水寺の森清範貫主が恒例の揮毫をしました。
もちろん大震災で人と人との絆のたいせつさが認識されたということから決められたのでしょうが、災害があってもなくても絆のたいせつさは変わらないだろうという気がしないでもありません。
それに、絆をたいせつにするといっても、具体的にどうすればいいのかよくわからないでしょう。友だちをつくろうとしても、簡単に友だちがつくれないのと同じです。
大震災以前から、「孤独死」「無縁社会」「孤族」といった言葉で、絆が失われた現状に注目が集まっていました。つまり、これまでもみんな絆をたいせつにしようとしてきたのですが、にもかかわらず絆はどんどん失われてきたのです。
どうしてそんなことになるのでしょうか。
それは、絆には「よい絆」と「悪い絆」があるということがはっきりと認識されていないからです。
つまり、クソもミソもいっしょにして「絆」といっているので、多くの人はこれが絆なら絆なんかいらないと思って、どんどん人間関係から逃げ出しているのです。
たとえば、学校のクラス内でのイジメを考えてみます。多くの場合、イジメられっ子はイジメっ子との関係を断てないためにイジメられ続けます。そのため、ほかの人が見ると、友人関係のように見えたりします。ですから、イジメる・イジメられるという関係もひとつの絆、つまり「悪い絆」であるわけです。
また、夫や恋人から暴力をふるわれていても関係を断てない女性がいます。これも「悪い絆」です。
嫁と姑の関係もしばしば「悪い絆」になっています。
もちろん「よい絆」と「悪い絆」は単純に分けられるものではなく、ひとつの人間関係の中に「よい絆」と「悪い絆」が共存しているのが普通です。
たとえば、親が子どもを食べさせ、学費を出し、病気になれば看病する一方で、いつも子どもを叱って、子どもを傷つけるような言葉を吐いているというのは、ありふれた親子関係ですが、これも「よい絆」と「悪い絆」が共存している例です。
また、父親が普段はやさしいが、会社でいやなことがあると子どもに当たるとか、アルコールが入ると子どもに暴力をふるうとかも同じです。
このように「よい絆」と「悪い絆」は複雑に入り組んでいるので、これをきっちりと区別し、「悪い絆」を排し、「よい絆」をふやすようにしなければなりません。これは私たちの幸福に直結する重大事です。
しかし、世の中の学者、思想家、知識人のほとんどは、こうした問題に取り組もうとしません。問題意識すらないようです。
「今年の漢字」が「絆」に決まったことをきっかけに、「絆」についての考察を発表する知識人がどれだけいるか注目したいものですが、おそらくほとんどいないでしょう。これが学問や思想の世界の問題点です。

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