イジメというのは、当たり前のことですが、強い者が弱い者をイジメることです。弱い者が強い者をイジメることは不可能です。下請けイジメはありますが、元請けイジメや親会社イジメはありません。
 
強い者が弱い者をイジメるのは、どこの世界にもあることです。大津市の事件に関連して、自分もイジメられたことがあると語る人が有名人にも一般人にも実にたくさんいます。いかに学校内でのイジメが広範囲に行われていたかがわかります。
 
会社でも上司が部下をイジメるのは当たり前のことです。“パワハラ”という言葉が出てきたのはごく最近のことです。上司が部下をイジメるのは一般に“鍛える”といいます。
 
学校の運動部や相撲部屋などでのイジメは“シゴキ”や“かわいがり”といいます。
 
兵士の訓練はイジメなしにはありえません。旧日本軍の兵営でのイジメはすさまじく、おかげで日本軍は兵卒レベルではきわめて優秀といわれました。ロシア軍のイジメも相当なもののようですし、アメリカ軍でのイジメは映画「フルメタル・ジャケット」でリアルに描かれています。
 
学校で教師が生徒をイジメるのは“体罰”といいます。最近、体罰ができなくなったために教師が指導しにくくなったなどといいますが、実際はまだまだ体罰は行われています。
 
家庭で親が子をイジメることは“しつけ”と言います。子どもを殺したりケガさせた場合だけ“虐待”と言われますが、子どもが死んでも親は「しつけのためにやった」と言って罪の意識がないのが普通です。
 
つまりイジメというのは体制の秩序の一部であって、実際は普通に容認されているのです。学校で教師がイジメに気づかないというのも、イジメは秩序を乱すものではないからです。むしろイジメられっ子が逆らったりすると、それは“事件”になります。
 
イジメはむしろ必要なものという認識すらあります。人は多少のイジメを経験することで精神的に強くなり、一人前になれるというわけです。
ですから、子どもが親に学校でイジメられていると相談しても、親は助けないことがよいことだと思っている場合もあると思われます。
 
 
今回、大津市のイジメ事件が世間の注目を集めているのは、「自殺の練習」というショッキングな報道が引き金となり、それからイジメの隠蔽が次々と明らかになるという展開が人々を引きつけたからです。
この事件で騒いでいる人々はイジメをなくそうとしている人々かというと、疑問があります。むしろ「バスに乗り遅れるな」ではありませんが、自分もイジメの側に加わろうとしている人々かもしれません。
つまり“イジメの連鎖”です。
世の中にはイジメられてきた人がいっぱいいます。そういう人の中には、機会があればやり返してやりたいと思う人がいても不思議ではありません。
大津市教委や学校や教師や加害少年やその保護者にはたいした権力はありません。集団の力によって大津市教委や学校や教師や加害少年やその保護者を批判する側のほうが明らかに強者でしょう。つまり集団で弱い者をイジメているという構図です。
また、今回の事件に関して日教組を批判する人はいますが、文部科学省を批判する人はほとんどいません。これは文部科学省がいまだに権威だからでしょう。
 
ただ、大津市教委と学校側はイジメを隠蔽したという点で批判されてもしかたがありませんが、便乗して弱い者をイジメようとする人もいます。
たとえば、片山さつき議員は自身のブログに、「少年法、この件をもって廃止しろとまでは言いませんが、前回の改正だけでは抑止力にはなっていないのではないか、と言う点から再検討が必要ではないでしょうか」と書いています。
 
少年法の前回の改正というのは、少年犯罪は増加して凶悪化しているというマスコミのミスリードの中で行われたもので、実際のところは統計的には少年犯罪は減少していたのです。そのことに対する反省もなしにまた少年への厳罰化を言うのは、まさに子どもへのイジメです。
 
また、実業家でブロガーの北村隆司氏は自身のブログで『幼児が「火」や「熱湯」に近ついたら、理屈無しに厳しく叱り、子供に物心がついたら、真っ先に「善悪」の区別を教えるのが親としての最低の義務である』と書き、「勧善懲悪」を勧めています。
 
「懲悪」というのは、「悪い子」を懲らしめろということで、まさに子どもへのイジメです。こうして親からイジメられた子どもが学校でイジメっ子になったりイジメられっ子になったりするのです。
 
ところで、学校でのイジメにはそれなりの理由がつけられます。たとえば、あいつは汚い、臭い、トロい、バカだ、変わっている、といったことです。
ですから、イジメっ子にすれば、向こうが悪いからイジメられるのだということで、自分が悪いという認識はないのが普通です。
今、イジメ事件に関していろいろなものを批判している人たちも同じでしょう。
 
しかし、イジメというのは誰かを批判して解決できることではありません。
批判はむしろ“イジメの連鎖”によって生じているのです。
イジメを解決するには、批判ではなく、愛情、温情、寛容が必要です。
これはイジメとはベクトルが180度違うので、心の切り替えが必要です。