11月14日の党首討論において、野田首相は16日の衆院解散を表明しました。12月4日公示、16日投票に決まったという報道もあります。
しかし、なにが争点になるのかよくわかりません。いわゆる第三極というのも、どういうふうにまとまるのかわかりません。こういうグズグズの状況で選挙をするというのが野田首相のねらいなのでしょうか。
党首討論には「国民の生活が第一」の小沢一郎代表も質問に立ちましたが、首相の解散表明のあとなので、その存在はかすんでしまいました。
小沢氏については12日に控訴審判決があり、無罪となりましたが、これも遅すぎる無罪判決と言えるかもしれません。
小沢氏は民主党代表であった2008年、「総選挙に勝てば嫌でもやらなければいけない」と述べ、首相に就任する考えを示していましたが、翌年検察の強制捜査を受け、代表を辞任しました。検察の動きさえなければ、政権交代とともに“小沢首相”が実現していたわけで、そうなれば“政権交代の果実”を手にすることができたのではないかなどと考えてしまいます。
小沢氏の無罪判決について、さまざまな政治家がコメントをしていますが、中でいちばんまともに感じたのが日本維新の会の橋下徹代表のコメントです。
「今回のメディアの論調は推定無罪もへったくれもなかった。あそこまで心証有罪を築く報道をやっていいのか。戦後メディア史上の大失態ではないか」(朝日新聞11月12日夕刊)
しかし、橋下氏がそんな立派な見識のある人であるはずがありません。考えてみると、橋下氏は光市母子殺害事件の弁護団に対して懲戒請求をするようにテレビで呼びかけて、問題を起こしたことがあります。直接には弁護団を標的としていますが、その根底にあるのは被告を死刑にするのが当然という考えで、橋下氏の言動こそまさに「推定無罪もへったくれもない」ものです。
結局、橋下氏のやっていることは、マスコミや死刑反対派弁護団を非難すると大衆に受けるだろうということで非難しているだけで、一貫した思想があるわけではありません。
非難するなら、なによりも検察を非難するべきですが、検察非難はあまり大衆受けしないでしょうし、リアクションが怖いという打算もあるのでしょう。
私は小沢氏の裁判については検察やマスコミに大いに問題があったと思っていますが、だからといって、小沢氏を支持しているわけではありません。小沢氏は、たとえば自民党幹事長時代に大いに力を発揮して政治を動かしましたが、いい方向に動かしたという印象はありません。
一方が悪だと、それと戦っているもう一方は正義だとついつい考えてしまいがちですが、それはエンターテインメント映画などに影響されすぎです。現実には、暴力団同士の抗争を考えてもわかるように、悪と悪が戦っている場合がほとんどです。北野映画のキャッチフレーズを使うと、「全員悪人」です。
検察もマスコミも政治家も「全員悪人」というのが私の認識です。
で、それを見ている一般国民も「全員悪人」です。ただ、権力がないので検察やマスコミや政治家ほど悪いことができないだけです。
「全員悪人」の世界では、誰もが批判される要素を持っているので、たいていの批判はそれなりに当たっています。ですから、先に批判したほうが有利になるので、この世界ではつねに批判が飛び交っています。その最たるものが政治の世界です。
橋下徹氏はこの状況にうまく適応している人間です。そのため多くの支持を集めることに成功しています。
一方、小沢氏はあまり誰かを批判するということはありません。というか、そもそもあまり公にコメントを発表するということがありません。水面下の工作で力を発揮するタイプの政治家でしょう。
しかし、こうした政治家は、テレビやインターネットなどのメディアが発達した現在では時代遅れと言わざるをえません。
アメリカ大統領選挙を見ていると、テレビ討論会の出来不出来で支持率が大きく変動します。こうした傾向はケネディ大統領時代から始まっています。日本ではかなり遅れて始まったということでしょう。
テレビのトーク番組によく出演してディベート力を鍛えた橋下氏がその点で有利な態勢を築いています。
しかし、結局これは「全員悪人」の世界で優位に立っているだけのことです。
「全員悪人」の世界を根本から批判するような大きな思想が出てこないことには世の中はよくなりません。
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