新国立競技場建設計画は白紙になりましたが、東京オリンピックについてもうひとつ気になることがあります。それは日程です。
2020年の東京オリンピックは、開会式が7月24日、閉会式が8月9日となっています。ちょうど今の時期です。こんな暑いときにやるのは殺人的です。
 
前の東京オリンピックは1010日が開会式でした。オリンピックをやるのにいちばん気候のいい時期を選んだのです。
今回はなぜこんな暑い時期になったのか調べてみると、秋はサッカーやアメフトなどの大きなイベントとぶつかり、またアメリカのテレビは9月から10月に新番組がスタートするので、この時期が好都合だったようです。日本は立候補した最初からこの時期の開催をうたっていたので、これは公約みたいなものです。ちなみに10月開催をうたっていたドーハは一次選考で落選しました。
 
結局、テレビ放映権の問題で、とりわけアメリカの力が強いわけです。アスリートの健康などそっちのけです。
 
今はまだ先のことですから、あまり真剣には考えられていませんが、開催時期が近づくにつれて問題化しそうな気がします。
「喉元すぎれば熱さ忘れる」という言葉とは逆に、これから喉元が近づくにつれ、忘れていた熱さ(暑さ)がだんだん思い出されてくる格好です。
 
新国立競技場建設計画も公約みたいなものでしたが、結局白紙になりました。開催時期も変更できないはずがありません。どうせ変更するなら早い目に手を打ったほうがいいと思うのですが。
 
 
ところで、新国立競技場問題では今のところ誰も責任を取らないようです。いつもながらの無責任体制ですが、責任追及にはマスコミの役割がたいせつです。
朝日新聞の次の記事はいろいろなことを考えさせてくれました。
 
 
(日曜に想う)肥満のトカゲ、垂れたカキ 特別編集委員・山中季広
 
「白紙撤回にどう臨む」「再コンペに挑む気は」。新国立競技場問題で局面が動くたび、ロンドンのザハ・ハディド建築事務所に問い合わせをした。
 
 返事らしい返事はもらえなかった。代わりに別の建築家から、ハディド事務所幹部がフェイスブックに投じた謎の一文を教えられた。「槇と伊東はこの件で記憶されるだろう」
 
 捨てゼリフらしい。名指しされた建築家、槇文彦氏と伊東豊雄氏についてはハディド氏当人が昨年暮れ、英デザイン専門サイトに怒りをぶちまけている。両氏ら5人を日本の「偽善者」と呼び「自分たちは海外で盛んに仕事しながら、東京の国立競技場は外国人に建てさせようとしない」と非難した。
 
 槇氏は2年前の夏、競技場事業の進め方に疑問を投げかける論考を発表した。東京都豊島区の多児貞子さん(69)は深く共鳴した。槇氏の講演を聴いた知人らと「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」を立ち上げた。
 
 多児さんはかつて東京駅赤レンガ駅舎保存に黒衣として携わった。「日本では歴史ある建物を深く考えずに壊してしまう。保存を求めて担当者にかけ合うと困った顔をされる。『もう決まったこと』『上が決めたこと』。国立競技場問題でも似た顔をされました」
 
 「手わたす会」は旧競技場を改修して使うことを目標にすえた。解体された後は、ハディド案の見直しを訴え、勉強会を開いた。「これから先が大切。やり直しコンペで、同じお偉方が市民の声を吸い上げないまま同じ感覚で選ぶとしたら大問題です」
 
 たしかにイチからやり直すというのに、混迷を招いたお偉方はだれも退場していない。「明確な責任者が誰かわからないまま来てしまった」と文科相が言えば、「誰に責任があるとかそもそも論は言わない」と首相がかばう。60億円近い大金をムダにされた下々には納得しがたい展開である。
 
 大艦巨砲、干拓、ダム、五輪。戦前から日本では国策となるとお上がブレーキを失う。破綻(はたん)するや「内心は反対だった」と言い訳する。あげく「状況が変わった」「誰も悪くない」とかばい合う。これを無責任の体系と呼ぶ。
 
    *
 
 改めて調べてみると、ハディド作品は海外でも盛んに物議を醸していた。
 
 たとえばスイスの古都バーゼルでは音楽堂だった。コンペで選ばれたハディド案に「宇宙船みたい」と批判が噴出。有志が4千人の署名を集めて住民投票に持ち込んだ。反対が6割を超え着工は見送られた。8年前のことだ。
 
 有志代表のアレクサンドラ・ステヘリンさんは「奇怪な設計を見て立ち上がった。中世以来の街並みが台無しにされるところでした」と振りかえる。進むも引くもお上が決めてしまう日本とは好対照ではないか。
 
 お隣韓国では、ハディド建築に対し完成後も不満が尾を引く。東大門デザインプラザという公共施設だ。
 
 現地を見た。曲線がうねうねと波打ち、巨体が周囲を圧する。住民たちは「不時着した宇宙船」と酷評した。私の目には「肥満のトカゲ」と映った。
 
 「外観だけなら天下一品。でも建築士たちは曲面ばかりの難工事に泣き、館内で働く人々は使い勝手の悪さに泣いています」。建築家の兪ヒョン準・弘益大学教授(45)は容赦ない。
 
 そんなハディド作品が数々の国際コンペを制するのはなぜか。「流線形のデザインがお偉方の功名心を刺激するからです。斬新な建物を自分の治績にしたい、後世に名を残したいと思う政治家が飛びつく外観なのです」
 
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 さて森喜朗・元首相はあさって28日、マレーシアで始まる国際オリンピック委員会(IOC)の会合に出席する。2020年の本番に向け進捗(しんちょく)や意気込みを語る晴れ舞台である。だがその場でなぜハディド案をほごにしたか説明を求められるのは必至だ。
 
 「ドロッと垂れた生ガキのよう」「実は好きじゃなかった」。稚拙な言い訳は切に控えていただきたい。
 
 
責任問題を考える上で参考になりそうな情報がいろいろあって、なかなかいい記事だなと思って読んでいましたが、最後のところでズッコケてしまいました。
 
『「ドロッと垂れた生ガキのよう」「実は好きじゃなかった」。稚拙な言い訳は切に控えていただきたい』というのが記事の締めくくりですが、ということは、巧みな言い訳をしろということでしょうか。
私などは、森元首相がIOCの会合でも例の調子でしゃべってくれたら、日本のオリンピック組織の問題点が浮き彫りになって、かえって好都合だと思うのですが。
 
国際的会合でへんな発言をされると国の恥になるからという理屈かもしれませんが、「国の恥」なんていうことを考えているようでは、責任の追及はできません。むしろ恥をさらけだす覚悟が必要です。
 
そもそも森元首相は、いちばん責任がありそうな人間です。その人間に対してアドバイスをしようという発想が理解できません。
要するにこの特別編集委員の山中季広という人は、森元首相に同じ支配階級としての仲間意識を持っているのでしょう。だから、うまくやってくれとアドバイスするのです。
 
日本の無責任体制は、マスコミもその一翼を担っているのだなということを改めて感じました。