教育はなんのためにあるのかと聞けば、ほとんどの親は「子どもの幸せのため」と答えるでしょう。
実際に子どもから「なんのために勉強するの」と聞かれたとき、「世の中に出たときに役に立つから」などと答えているはずです。
 
しかし、「教育の目的は子どもの幸せ」という考え方は教育界にはありません。
教育基本法にも「子どもの幸せ」とか「子どものため」という言葉は出てきません。
 
教育基本法
 
もともと日本の教育は「富国強兵」という目的のために始まりました。
ですから、「子どものため」ではなく「社会のため」です。
戦後教育も「社会のため」の教育であることは同じです。
教育基本法でも「教育の目的」として「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」をうたっています。
 
そもそも近代教育は古代ギリシャの教育を理想としています。古代ギリシャのスパルタの教育が軍国主義的なものであったことはよく知られています。アテナイの教育は文化的なものを重視したとされますが、スパルタとの戦いで敗北します。
 
国家や社会のための教育をする国家や社会が生き残り繁栄していくのは当然です。日本の富国強兵の教育もその流れにあるといえます。
そういう意味では、戦後教育は経済戦士をつくる教育と見ることができます。
学校の広告コピーに「明日の社会を担う人材を育成する」といったものをよく見ますが、これは「社会のための教育」をうたっているわけです。
「明日の社会を担いたい」と思っている若者がいるとは思えません。あの広告コピーはおとなにアピールするためのものでしょう。
次の世代が社会を担ってくれれば、親や教師の世代にも恩恵があります。
 
教育をするのはつねにおとなですから、教育がおとなのためのもの、つまり「社会のため」のものになるのは当然です。
親や教師は、教育は「子どものため」だといいますが、それは子どもに対していうだけです。
「社会に役立つ人間になれば結局自分のためになる」ともいいますが、目的の違いをごまかすための理屈です。
 
今の教育は「社会のため」の教育ですから、子どもにストレスがかかってもおかまいなしです。
つまらない勉強をすることも、将来つまらない労働をするときの役に立つという感覚です。
そんな学校には当然イジメが発生しますが、おとなはイジメを解決しようという気もなく、イジメの責任を子どもに負わせています。
 
親や教師は「社会のため」の教育をしているのに、子どもに対しては教育は「子どものため」だと嘘をいっています。
いつまでも嘘をいい続けるのか、それとも教育の大転換をするのか、今こそ考える必要があります。