相手の立場に立って考える――とよくいいますが、実際はむずかしいものです。

ヤフーのトップページの「あなたは知ってる?Twitterをにぎわす話題」に出ていたツイートを読んで、そのことを改めて感じました。

 
早く抱っこして欲しいもんね
道端でギャン泣きしてる2歳ぐらいの男の子の手を引くお母さんを見て、「ああ…わかる…大変…」って呟いたら、末っ子が「わかるわかる。大変…足の裏が痛くなっちゃうのよね〜あと、早く抱っこして欲しいもんね、ずっと抱っこして欲しいからね…」って、そっち目線!(って、そりゃそっち目線か)
とけいまわり(1085才三姉妹母)
 
私は教育問題などについて子どもの側に立って考えるということを重視していますが、この発想はありませんでした。
2歳の子どもの気持ちになるのはたいへんです。
たいていのおとなは、母親に同情するか、子どもを泣かす母親を非難するかのどちらかでしょう。
 
もっとも、子どもの気持ちがわかったとしても、母親を非難することはできません。荷物を持っていたら子どもをだっこするわけにいきませんし、急いでいればむりをしても子どもを引っ張らなければなりません。
泣く子どもにも事情があり、泣かせる母親にも事情があります。
 
 
このツイートを見たのとほぼ同じときに、朝日新聞の「かあさんのせなか」というコーナーに加藤登紀子さんのインタビューが載っていました。加藤さんは幼児期に満州から引き揚げてきた体験があります。
 
 母と一緒に、中国東北部は何度か訪れています。95年、引き揚げ時に通ったであろう線路を2人で歩きました。その線路の上で母も私も言葉が出なくて。母は荷物もあり、2歳8カ月の私を線路におろして「歩きなさい。歩かないと死ぬことになるのよ!」と言ったと、幼い頃から何度も聞いていました。
 兄と姉、私の3人の子を連れての引き揚げ。「限界は超えるもの。超えられない時は死ぬ時」「人間ってすごいのよ。生き延びるためには何でも超えられる」とよく言っていました。
 
 
幼い子どもにむりやり歩かせるというのは、その場面だけ見ると幼児虐待です。
もちろんそうする事情があるので、虐待とはいえません。子ども(加藤さん)ものちにその事情を理解するので、虐待とは受け止めません。
 
とはいえ、このような場面が子どもにとって不幸であるのは事実です。こうした不幸は人間特有、あるいは文明特有のものです。
たとえば、旧約聖書によるとユダヤ人は民族ごとエジプトを脱出してパレスチナに移住したとされますが、そのとき少しでも歩ける子どもはむりやり歩かされたに違いありません。
原始時代なら子育てしやすい環境が優先されたでしょうが、文明が進むと“おとなの事情”が優先され、そのため子どもが犠牲になります。
 
 
ともかく、冒頭の子どもがギャン泣きしているシーンでいえば、母親が悪いわけでも子どもが悪いわけでもありませんが、悪知恵のあるおとなは、子どもが悪いと主張します。泣いて母親を困らせるのは子どものわがままで、わがままを放置すると子どもは限りなくわがままになるので、きびしく叱らなければならないというわけです。
 
子どものほうもおとなが悪いと主張したいところですが、残念ながらそういう言語能力がないので、おとなが一方的に主張することになります。
そうして今は、「子どもは本質的にわがままであり、おとなが叱らないとまともな人間にならない」というおとな本位の考え方が主流になっています。
 
しかし、動物の子育てを見ればわかりますが、親が叱らないと子どもが限りなくわがままになるということはありません。
 
子どもは本質的にわがままなので叱ってまともな人間にしなければならないという考え方は、幼児虐待の原因にもなります。
また、道徳教育の根拠にもなっています。
 
道徳教育をするべきなのは、悪知恵を発揮するおとなに対してです。