村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 愛のある生活

26588838_m

動物は基本的に利己的ですが、社会性動物は利他的な行動もします。
利己的行動と利他的行動の見分けはむずかしく、とくに人間の場合は、「世のため人のため」とか「あなたのためだから」などと言いながら利己的行動をするので、見分けはいっそうむずかしくなります。
人間は利己的行動を利他的行動に見せかけているうちに、利他心が空洞化し、愛情や思いやりや寛容が次第に失われてきました。
その結果、世界には戦争を頂点とする争いが増え、ネットにはヘイトスピーチや誹謗中傷があふれ、家庭には暴力や強権的支配が蔓延しています。
「愛情過少社会」こそが人類の直面する最大の問題です。


この問題を解決するには、利己的行動と利他的行動をきちんと識別することです。ごまかしがなくなれば、本来の利他心や愛情が回復するはずです。

ただ、ここで障害になるのが家族関係です。
家族は愛情で結ばれているものだという思い込みがあるからです。
そのため家族関係の暴力は「愛のムチ」と呼ばれて正当化されてきました。
最近はさすがに「愛のムチ」という言葉は死語になりましたが、暴力がなくなったわけではありませんし、暴言は当たり前に存在します。
暴言を暴言として認識しなければなりません。

暴言といってもいっぱいありますが、会社で働いている男が「会社でいやなことがあっても家族のためにがまんして働いている」と言うケースを取り上げてみます。
「家族のために働いている」と言う男はいっぱいいて、暴言とは認識されていませんが、果たしてそうでしょうか。


朝日新聞に『(仮面夫婦:4)我慢してきたのに、突き放され 在宅勤務でほころび 妻「気持ち冷めたが、離婚しない」』という記事があったので(有料記事)、そこから要所を引用します。

「気持ちが冷めてしまった。でも、離婚する気はないから」

近畿地方の会社員の男性(61)はある日突然、50代の妻に告げられた。
共通の趣味を通じて出会った妻と結婚したのは約30年前。大手メーカーで働く男性は転勤が多く、大都市を転々とした。2人の息子が転校を嫌がるようになった後は、長らく単身赴任が続いた。

妻との関係にほころびが生じ始めたのは、新型コロナウイルス禍がきっかけだった。
2020年春。会社の方針で在宅勤務に切り替わったため、単身赴任先から近畿地方の自宅に戻った。久しぶりに一緒に暮らせることになり、妻は温かく迎えてくれた。
でも、肝心の在宅勤務になじめなかった。パソコンを使うのが苦手で、社内ネットワークの接続方法が分からず、四苦八苦した。やるべき仕事ができず、だんだんとストレスがたまっていった。
心療内科で適応障害と診断され、仕事を半年間休んだ。心身のバランスが崩れると、気が短くなり、怒りっぽくなる。この頃、男性は家の中で、ずっと不機嫌だった。妻には「私たち家族に当たり散らしている」と言われた。
(中略)
息子たちが家を出ると、妻は洗濯物の出し方など細かいルールを指図し始めた。寝室も一緒だったのに、妻は子ども部屋で一人で寝るようになった。妻との距離が離れていくような気がした。
関係を改善したい一心で、洗濯物を干したり、洗い終わった食器を拭くようにしたりした。それでも、何も変わらなかった。
「65歳で定年になったら、あなたが料理して」と妻に言われ、「こっちの意見も聞かず、どうして勝手に決めるんだ」と言い返して、そのまま口論になった。
(中略)
これまでの会社人生は、理不尽なことも多かった。人員が足りないという理由で突然、部署が異動になったり、上司にひどいことを言われたり。
息子たちの教育費を考えると「会社を辞めたい」とは言えなかった。家族のために歯を食いしばって我慢してきたつもりだ。
それなのに、そのがんばりを家族は全く理解していない。「何のために、自分は我慢してきたのだろう」。そんな疑問が拭えない。
(後略)

適応障害の診断を受けるぐらいなので、仕事ではつらい思いをしたのでしょう。
家族から同情され、慰められてもいいはずです。
しかし、そうなっていません。
そうならない理由は明白です。
この男性は適応障害と診断されたころ、気が短くなり、怒りっぽくなり、ずっと不機嫌だったのです。
妻からは「私たち家族に当たり散らしている」と言われました。
弱っている人間、落ち込んでいる人間には同情しますが、怒っている人間、自分に当たってくる人間に同情はしません。

男性は「妻は洗濯物の出し方など細かいルールを指図し始めた」と言いますが、これは「洗濯物の出し方などを教えてくれた」と認識すれば問題はありません。
「指図」という言葉を使うところに男性の不快感が表れています。

「関係を改善したい一心で、洗濯物を干したり、洗い終わった食器を拭くようにしたりした」と言いますが、家事をするのは、それが必要なことだからするのです。関係改善のためにするのでは、恩を着せていることになり、そういう気持ちが態度にも表れているのでしょう。

『「65歳で定年になったら、あなたが料理して」と妻に言われ、「こっちの意見も聞かず、どうして勝手に決めるんだ」と言い返して、そのまま口論になった』ということですが、意見はいつでも言えるのですから、要は料理をしたくないのでしょう。
「指図」とか「こっちの意見も聞かず」という言葉だけを見ると、妻の態度が不当なようですが、妻は普通のことをしているだけです。


そして、すべてのもとにあるのが男性の「家族のために歯を食いしばって我慢してきた」という認識です。
家族のためにがまんしたのに、家族は感謝してくれない。その不満が怒りとなって家族に向けられ、家族からはさらに冷たい態度が返ってくるのです。
二人の息子からも「いつも不機嫌で嫌だ」と言われ、就活中でもまったく相談されなかったということです。

会社勤めをしていれば理不尽な目にあうこともあるでしょう。そういうことも含めて給料をもらっているのです。
そのときのがんばりは、上司に認められなくても同僚や部下はわかってくれているはずです。
しかし、家族にはまったくわかりませんから、家族に感謝を求めてもむだです。
会社から給料をもらって、さらに家族に感謝を要求するのは余計です。
一人暮らしの独身者も家族持ちも同じように働いていることを考えればわかります。

妻が仕事しているか否かは記事に書いてありませんが、専業主婦のような感じです。
「夫は仕事、妻は家事」という性別役割分業で双方が納得しているなら、悪いとはいえません(家事育児だけをする妻に満足する男はどうかと思いますが)。
しかし、金を稼いでいるほうが上の立場になり、「権力は腐敗する」の言葉通りに夫が次第に横暴になるというのはありがちなことです。
横暴な夫の決め台詞は「食わしてやっている」で、これが暴言であることは明らかです。
「家族のために働いている」は暴言とはいえませんが、この認識によって家族に感謝を要求し、感謝が得られないと横暴になるので、実質的には暴言と同じです。


「自分のため」を「家族のため」とごまかすようなことはいたるところにあります。
たとえばアメリカは世界中に基地を設けて米軍を駐留させ、覇権国家となっています。覇権国家であることによってアメリカは利益を得ているわけです。日本はアメリカと繊維、農産物、自動車、半導体などで貿易摩擦を経験してきましたが、ことごとくアメリカに譲歩しました。アメリカが覇権国家だからです。
ところが、トランプ大統領は前から「アメリカは同盟国を守っているのに同盟国はアメリカになんの貢献もしない。われわれは食いものにされてきた」と主張し、9月14日にはSNSにイラン戦争について「われわれに何の助けも与えなかった世界の国々は、この詐欺のような戦争がすべて終わった時、米国に補償しなければならず、そうすることになる」と投稿しました。

家庭でも世界でも同じです。
利己的行動を利他的行動だと偽ることで、家族関係も国家関係も破壊されます。
利己的行動と利他的行動をきちんと認識することが家庭円満と世界平和の実現につながります。

34182509_m

男性俳優は美人女優とキスができてうらやましい――なんていう話をしたことのある男性は多いでしょう。
ベッドシーンの撮影になると、いつもよりたくさんの人がスタジオに集まるという話もよく聞きます。
映画やドラマには恋愛や性的な要素の入ることが多く、そのため一般の人は、演技の世界ではキスやボディタッチは当たり前のこととされていると思うかもしれません。
しかし、ストーリー上の必然性がないのに、相手のいやがるキスやボディタッチをすれば、それはセクハラです。一般の世界と同じです。

フジテレビのドラマ「夫婦別姓刑事」において、佐藤二朗氏が共演した橋本愛氏に対してハラスメント行為をしたと週刊文春が報道しましたが、佐藤氏の所属事務所は「専門家からも佐藤の言動がハラスメントにあたるものでないと、確認を得ています」とコメントし、佐藤氏も反論しました。
そのため、悪いのは佐藤氏か橋本氏かという議論が起き、さらにはフジテレビが悪いという三つ巴の議論になっています。
ここで問題を整理し、正しい結論を得たいと思います。

フジテレビは7月7日、約5300文字からなる声明を発表しました。フジテレビは弁護士も入れて橋本氏側と佐藤氏側の両方から聞き取りをしているので、事実関係はこの声明に基づいて書くことにします。


橋本氏は「夫婦別姓刑事」に出演するに当たり、過去の出来事のトラウマから男性との接触が苦手なので配慮してほしいとフジテレビに要望し、フジテレビは了解の上でキャスティングしました。フジテレビはこのことを佐藤氏に伝えるべきかと佐藤氏のマネージャーと話し合いましたが、佐藤氏のマネージャーからは佐藤氏の演技に悪い影響があるかもしれないので知らせないほうがいいとの意向が示され、フジテレビはそれを受け入れ、橋本氏側の事務所も了解しました。
ですから、橋本氏に身体接触について制限のあることは佐藤氏だけが知らないことになりました。
ここに最初のボタンの掛け違いがありました。

撮影中、車内において佐藤氏が橋本氏の顔に触れることがありました。これについては橋本氏側もセクハラ行為とはせず、問題視もしていませんが、これを機に橋本氏側事務所社長から佐藤氏本人にも配慮事項を伝えてほしいとの要請がありました。
これを受けてフジテレビのプロデューサーは佐藤氏本人に対して橋本氏側の要望を伝えました。

その後、橋本氏への身体接触はどの程度まで許容範囲なのか確認したいと佐藤氏から申し出があったので、プロデューサーは橋本氏の所属事務所社長も交えた形で協議することを提案しましたが、その協議の場が整う前に佐藤氏は橋本氏の楽屋を訪れました。その楽屋には佐藤氏と橋本氏のほかに橋本氏の現場マネージャーも同席していましたが、そのとき佐藤氏から橋本氏に対して「演技に制限があるのであれば事前に言うべきである」旨の発言がありました。

演技に制限のあることは最初からフジテレビに伝えられ、佐藤氏のマネージャーも知っていましたが、そうした事情を佐藤氏はこの時点でも理解していなかったわけです。
佐藤氏と佐藤氏のマネージャーの間のコミュニケーションに問題のあることは明らかです。

フジテレビは最初からすべてを佐藤氏に伝えるべきだったでしょう。その点でフジテレビが批判されるのはわかります。
ただ、佐藤氏のマネージャーは伝えるべきではないと判断しました。佐藤氏のことをもっとも熟知しているマネージャーの判断は無視できません。
なぜ佐藤氏のマネージャーは佐藤氏に伝えるべきでないと判断したのでしょうか。
おそらく佐藤氏に伝えると、面倒なことになるとの予感があったのでしょう。
果たせるかなその予感は的中しました。


佐藤氏による楽屋訪問があったあと、佐藤氏、橋本氏、橋本氏の所属事務所社長・現場マネージャー、プロデューサーによる話し合いの場が設けられ、事前の承諾が必要な身体的接触の範囲について確認し合い、合意に至りました。
その約2週間後の4月8日、佐藤氏は再び一人で橋本氏の楽屋を訪れ、そこには番組スタッフ一名もいました。佐藤氏は完成したドラマ映像を見て感動したと言いましたが、その一方で、相手役に対し身体的接触に関する一定の制約を設けるのであれば俳優の仕事を続けるべきではないし、夫婦役の出演の依頼があっても受けるべきではないと述べました。橋本氏はその発言の内容や口調の強さに激しく動揺し、しばらくの間、涙が止まらない状態になったということです。

週刊文春とフジテレビはこれをハラスメントと認定しました。
発言内容が橋本氏のキャリアと人格を否定するもので、佐藤氏は橋本氏より格上の俳優で、身体的力も上ですから、パワハラということになります。

ただ、「身体的接触に制約があるなら俳優を続けるべきではない」とか「夫婦役の仕事は受けるべきではない」というのは演技に関することです。
佐藤氏のようなキャリアのある俳優、とりわけコミカルな演技もでき、映画監督をして脚本も書くなど幅広く活躍している俳優が演技に関して強く主張すると、説得力があります。
それに、佐藤氏はアドリブが得意な俳優で、演技に制限があればアドリブ能力が十分に発揮できないという事情もあります。
そうしたことから佐藤氏擁護、橋本氏批判の声が多いのではないかと思います。

しかし、俳優としてそれなりの実績のある橋本氏に対して「俳優の仕事を続けるべきでない」というのは、キャリアと人格の否定であるのは明らかです。
「夫婦役の仕事は受けるべきではない」というのも余計な口出しです。夫婦といってもいろいろあり、小津安二郎監督の映画に出てくる夫婦なら身体的接触はほとんどありませんし、仮面夫婦の場合もあります。


では、なぜ佐藤氏は「俳優を続けるべきではない」というような強いことを言ったのでしょうか。
佐藤氏はXにおいて「ステレオタイプの『か弱い若い女性』と『典型的な昭和のパワハラオヤジ』を完全に創作してる」と週刊文春を批判しました。
しかし、そのあと「最大級の『注意』や『警戒』が必要と痛感していた僕が、そんな態度を取れる訳がない」と続けています。
つまり自分は「昭和のパワハラオヤジ」のようなことをしかねないという自覚があったのです。
佐藤氏のマネージャーもそれがわかっていたので、橋本氏側の要望を伝えたくなかったのでしょう。


男性が女性に身体的接触をするのは性的な意味もあります。
清純派の女優とかアイドルに対して身体的接触はやめてくれという要望なら、佐藤氏は受け入れたでしょう。それは芸能界の力学に従うことだからです。
しかし、橋本氏のトラウマに対して配慮するというのは橋本氏個人に対しての配慮です。
男尊女卑の「昭和パワハラオヤジ」が若い女性に配慮するのは下心のあるときだけです。

佐藤氏は橋本氏への配慮を求められてブチ切れたのです。
佐藤氏が言ったのは、「セクハラされるのがいやなら女優をやめろ」ということです。
こんな暴言が許されていいはずありません。

ただ、演技の世界のことなので「夫婦役では必要」とか「アドリブの妨げ」とか説明されると、そんなものかなと思う人もいるようです。
しかし、俳優の意見はほかの俳優に押しつけるものではありません。どうしてもほかの俳優に意見を言いたいなら、三谷幸喜氏が言ったように必ず演出家かプロデューサーを介して行うべきです。

佐藤氏は橋本氏に「俳優をやめろ」という暴言を吐き、橋本氏を傷つけましたが、それを橋本氏やフジテレビやマスコミのせいにしました。
それがこの混乱の原因です。


なお、佐藤氏の所属事務所フロム・ファーストプロダクションは、本木雅弘氏、山下真司氏、清水美砂氏らを擁する、少なくとも中堅以上の芸能事務所で、しかもバーニング系列です。
橋本氏の所属事務所は3人のタレントがいるだけの弱小芸能事務所です。
この力の差が芸能マスコミの論調に影響を与えていることにも注意する必要があります。
たとえば佐藤氏が自分のマネージャーとコミュニケーションがとれていないことなどはまったく指摘されていません。

guide04_02
首相公邸正面玄関

高市首相は昼間は首相として仕事をし、公邸に帰れば家事と夫の介護をしています。
どう考えてもむりがあるということを前回の「高市首相はいつまで『介護する嫁』を続けるのか」という記事に書きました。
そのことを補強する共同通信のニュースがあったので、紹介します。
首相「睡眠取りたい」と本音 甘利元幹事長に面会で漏らす
2026年04月23日 14時47分
 高市早苗首相は23日、甘利明・元自民党幹事長と官邸で面会し「睡眠をもうちょっと取りたい」と本音を漏らした。住居の公邸での暮らしに触れ「食事が大変」とも語った。面会後、甘利氏が記者団に明らかにした。

 首相は今月7日の参院予算委員会で、公邸生活に関し「家事に時間を取られ、睡眠は割と短い。それ以外の時間は仕事に充てる」と説明。食事については2月に「公邸は買い物に行っちゃ駄目、出前禁止。だから冷凍食品が尽きたら終わり」などと話していた。
https://www.47news.jp/14196060.html
それにしても、首相公邸での生活がそんなに不自由なのが不可解です。
夫の介護は夫自身が高市首相にしてほしいので外部の人に頼まないのだと思われます。
しかし、食事の用意は家政婦にやってもらえばいいのです。
もちろん家政婦は身元の確かな人でなければなりません。高市事務所の秘書という形にしてもいいでしょう。
食事の支度と後片付けをやってもらうだけでも助かります。

ただし、首相公邸には賓客を迎える和室・ダイニング・大ホールなどがあり、ときには首相主催の晩餐会なども行われ、接遇や準備を行うスタッフがいます。
もちろん広い公邸の掃除もスタッフが行っています。
ということは、首相一家の食事の用意もできるはずです。

高市首相が自由に外出できないのは当然でしょう。
夫は体が不自由なために外出が困難で、食事の支度もできないのであれば、助けるスタッフが必要なのは明らかです。
「冷凍食品が尽きたら終わり」というのはなにかが間違っています。


高市夫婦は公的サービスを受けるのが極端に嫌いなようです。
それは次のXへの投稿に表れています。
高市早苗
@takaichi_sanae
夫とともに公邸に引っ越して10日あまりとなりました。

私達の公邸への転居に関する報道を目にした夫は、落ち込んでいる様子でした。
それは、大手報道機関も含めて、「転居を前に公邸はバリアフリー対応の改修も実施された」という誤った報道を目にしたからです。
「僕のせいで、多額の公金が使われたのか」と。

仮に貴重な税金を使って改修工事をする必要があるのであれば、私達は公邸に引っ越しませんでした。

念のため、公邸の管理をしている官邸事務所に確認いたしました。

そうしましたところ、やはり、石破総理がお住まいになられていた時期から私の転居までの間に行われた作業は、室内清掃など、居住者が替わることに伴う通常の修繕であり、バリアフリー工事は一切含まれていないということでした。

夫にも伝えて、明るくリハビリに励んで全快して欲しいなと願っています。早く調理師資格を持つ夫の得意料理も食べたいし・・・。
午後8:32 · 2026年1月9日
·
ひじょうに奇妙な論理が展開されています。
「自分たちにはお金があるから、公費を使ってもらわなくてけっこう」と言いたいのかもしれませんが、公邸の必要な工事を公費でまかなうのは当然で、そこに私費を出すのはむしろおかしいことです。

いや、もっとおかしいのは「仮に貴重な税金を使って改修工事をする必要があるのであれば、私達は公邸に引っ越しませんでした」というところです。
これはバリアフリー化工事を否定していることになります。

れいわ新選組の重度障害者である木村英子参院議員は予算委員会で「バリアフリー改修に税金を使うことは『社会に迷惑をかける』という認識なのか」と質問し、高市首相は「Xでの投稿が木村委員を傷つけたとしたら申し訳ない」と述べましたが、投稿は撤回しませんでした。


高市首相の奇妙な論理が気になります。
夫の山本拓氏の病状からして(前回の記事に書きました)、バリアフリー化は必要ですし、介護のための人手も必要です。
そこで、山本氏の考えを聞いてみました。
高市氏が首相に就任した直後、マスコミ各社が共同で山本氏に電話インタビューをして、その30分ほどの音声が公開されています。



この中で山本氏は「半身不随」という言葉も「車椅子」という言葉も使っていません。
病院で転んで左足をねじったと言っています。
「食事はつくっているのか」と聞かれて、「夜食ぐらいは」と答えています。
山本氏は自分の病状はぜんぜんたいしたものではないと言いたいようです。
これは典型的な「正常性バイアス」です。
脳梗塞で半身不随と高次脳機能障害を発症したということを認めたくないので、普段と変わらないと思っているのです。

これは病人においてはありがちなことですが、問題は高市首相です。
高市首相も山本氏の正常性バイアスに染まっているようです。
Xの投稿で「全快」という言葉を使ったことで、そうではないかと察せられます。
この時点で脳梗塞を発症してから10か月がたっているので、そこから大幅に改善することは期待できず、ましてや「全快」はありえません。

高市首相は山本氏と結婚して山本姓となり(高市の通称使用)、離婚して、また山本氏と結婚して、今度は高市姓となりました。山本氏はよく料理をつくり、おしどり夫婦として知られています。夫婦の絆は想像以上に強いのかもしれません。
そのため、高市首相は夫の半身不随という現実が受け入れられなくて、「介護が必要である」という現実も受け入れられていないようです。

しかし、高市首相がワンオペで介護と家事をするのは、もう身体面で限界にきているようです。
ここまでくると、夫婦の絆が強いというよりも、心理的に癒着しているというべきかもしれません。
高市氏は心理的に山本氏から距離をとって、山本氏の病状と自身の仕事を客観的に見つめるべきです。


高市首相が睡眠不足を訴えたことについて、ネットでは「石破はそんなこと言わなかった」「働いて、働いてというのは嘘だったのか」といった批判があります。
しかし、こうした表面的な批判は無意味です。
家族関係にまでメスを入れなければなりません。



【付記】考えてみれば、高市首相が夫の介護をするのは必ずしも悪いことではありません。そういう観点から「高市首相はなぜ睡眠不足を解決できないのか」という記事を書きました。

27977543_m

高市政権が発足して4月21日で半年となりました。
内外ともに難題だらけですが、いちばんの難題は高市首相の家庭の中ではないでしょうか。

高市首相は4月10日、ロックバンド「ディープパープル」のメンバーと面会しました。
高市首相はかねてからディープパープルのファンで、中でもお気に入りの曲は「Burn」だということで、「夫と喧嘩したら『Burn』を叩いて、呪いをかけています」と語りました。

「呪い」という言葉が引っかかるかもしれません。「通訳がとまどった」という記事もありました。
私がそれよりも気になったのは、「喧嘩」という言葉です。
高市首相は夫と喧嘩することがあるのです。
これはただの夫婦喧嘩ではありません。

高市首相の夫である山本拓氏は昨年2月に脳梗塞を発症し、右半身不随になり、車椅子生活になりました。
今も夫婦は首相公邸で同居していて、高市首相が夫の介護をしています。
つまり介護する者と介護される者との喧嘩です。
これは対等の関係ではないので、喧嘩ではなく虐待になりかねません。
高市首相もそれはわかっていて、ドラムを叩いて感情を発散させているのでしょう。

首相の激務をこなしながら夫の介護もするというのは、どう考えてもむりがあります。
私はそのことに驚いて1月に「高市首相の信じられない介護生活」という記事を書きました。
その後状況が変わったかと調べてみると、まったく変わっていないようです。
高市首相は“ワンオペ”で夫の介護をしているということです。

朝は起床から着替え、食事まで高市首相が夫の世話をし、夜も食事の世話をします(首相が夜の会食をしないのはこのためかも)。ただ、夜は生協の冷凍宅配セットを利用しているそうです。
入浴介助もします。入浴介助は、重い夫を背負って風呂場に入り、全身を洗うということです。
昼ご飯は夫が一人で食べているようですが、高市首相が帰宅すると食べこぼしが散らばっているので、まずその掃除をします。


なぜヘルパーさんなどを頼まないのかというと、夫が拒否するからです。
首相公邸ゆえに外部の人間が入りにくいということもあるようです。
介護施設に入ることも夫は拒否していて、そのために高市首相のワンオペ介護となっています。
高市首相が外遊するときなどは、おそらくショートステイなどを利用しているのでしょう。

高市首相は公邸に戻ってからのすごし方について国会で質問され、「風呂入って、食事して。あと家事、割と時間を取られますが、それと睡眠は割と短いですが、それ以外の時間は仕事に当てております」と答弁しました。
「睡眠時間はだいたい2時間から、長い日で4時間」とも答弁しています。

高市首相は、普通の主婦がする家事をこなした上に夫の介護をして、さらに首相の仕事をしているのですから、どう考えてもむりがあります。
ストレスの多い生活なので「喧嘩」が起こるのではないでしょうか。
夫が高市首相に介護してほしいと言っても、高市首相は「私には首相の仕事があるのよ。介護施設に入ってちょうだい」と言えばいいのですから、これは高市首相が間違っています。


高市首相は「われに七難八苦を与えたまえ」と言った武将のように、苦しむことが自己目的化しているのではないでしょうか。
高市首相は「挑戦しない国に未来はない」とか「国論を二分するような政策に挑戦する」とか言いますが、具体的になにをするかは言いません。
「困難に挑む自分」に陶酔しているようです。
「働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります」も同じです。

高市首相は「一人で仕事を抱え込むタイプ」といわれます。
首相の仕事だけでなく家事、介護も抱え込んだわけです。


高市首相の支持率が高いのは女性首相だからという要素が大きいでしょう。
女性ならではの視点で世の中を変えてくれるのではないかという期待があると思われます。
ところが、高市首相は夫婦別姓問題でも皇室典範改正問題でも、男女平等を否定して男尊女卑の政策を目指しています。
そうした高市首相の姿勢の根本にあるのが、高市首相の家庭のあり方です。
「首相の激務をしながら家事と夫の介護をする」という、女性の誰もが絶対御免こうむりたい家庭が高市首相の家庭です。

かりに高市首相が夫の介護をするにしても、その介護の苦労などを世の中に発信すれば、同じ立場の女性の共感を得ることができますし、日本の介護の現状を改善することにつながるかもしれません。
ところが、高市首相は介護の苦労を一人で抱え込んでいます。
マスコミも、高市首相の家庭のことはほとんど取り上げません。
保守派は高市首相を「女の鑑」と思っているのかもしれませんが、進歩派がこの問題を追及しないのは不可解です。

高市首相はわがままな夫にNOを言って、まず自分の生活を取り戻すことから始めるべきです。


【付記】続編に当たる「高市夫婦はなぜ公的サービスを拒むのか」も書きました。

marriage-1530232_1280

私はこれまでに多くの夫婦を見てきましたが、新婚夫婦を別にすれば、幸せそうな夫婦はほとんど見たことがありません。
結婚のときは「笑顔の絶えない明るい家庭を築きたい」と本気で思っていても、喧嘩を繰り返すうちに愛情が失われ、表面的なつきあいだけの仮面夫婦になるということが多いようです。
ほかに好きな人ができたというならしかたありませんが、二人ともうまくやっていきたいと思っているのにうまくやれないというのは悲劇です。

「冷凍餃子は手抜きか」という話題が2020年にX(当時はツイッター)でバズったことがありました。
ある女性が疲れて帰宅し、夕食に冷凍餃子を解凍して出したところ、子どもは喜びましたが、夫が「手抜きだよ、これは」と言ったというのです。
これには女性に同情する声が多く上がりました。
冷凍餃子のトップメーカーである味の素冷凍食品株式会社の公式アカウントが「冷凍餃子を使うことは、手抜きではなく、“手間抜き”です」と投稿すると、44万「いいね」がつき、テレビやネットメディアでも報道されました。

「手抜き」と「手間抜き」はどこが違うのでしょうか。
一見すると同じようですが、実は大きな違いがあります。

なお、「手間抜き」の代わりに、「時短」とか「省力」という言葉を使っても冷凍食品使用の正当性を表現することもできます。
つまり「手抜き」という言葉にだけ特別な意味があるのです。


国語辞典には「手抜き」は『しなければならない手続きや手間を故意に省くこと。「仕事を手抜きする」「手抜き工事」』と説明されています。
AI回答の補足説明には『「手抜き」は、多くの場合、労力を怠っているという批判や揶揄の目的で使われます。例えば、「手抜き工事」のように、品質や安全性を損なう行為を指すことがあります』と書かれています。
つまり「手抜き」には相手を非難する悪い意味があるのです(「手間抜き」には悪い意味はありません)。
ですから、夫が妻に料理を「手抜き」と言ったら妻を非難していることになり、妻は傷つきます。同じようなことが繰り返されると、夫婦関係はどんどん悪化していきます。

ところが、夫のほうは妻を非難しているつもりはありません。逆に妻にいいことをしているつもりです。
手抜き工事を発見したら、それを指摘して改めさせるのは正しいことです。これは工事業者のためでもあります。妻の手抜きを指摘するのもそれと同じと思っています。

もっとも、工事には法令によって基準が定められているので、手抜きかどうかははっきりします。
料理にはそういう基準がありません。
「冷凍餃子は手抜き」と言った夫は、「餃子は手づくりであるべき」とか「冷凍食品は手抜きだ」という基準を持っているのでしょうが、その基準に根拠はありません。
ただ、まったくでたらめというわけでもありません。

TBS系で放送中のドラマ「じゃあ、あんたが作ってみろよ」第1話では、勝男(竹内涼真)は同棲相手の鮎美(夏帆)のつくる筑前煮が好きなのですが、インスタントの顆粒だしは使うべきではないという考えの持ち主です。男の友人がめんつゆを使って肉じゃがをつくったと言うと、「めんつゆで料理は邪道」などと言います。
勝男と鮎美は同じ会社に勤めていて、共働きなのですが、家事はすべて鮎美がやっています。勝男の実家の両親もどうやらそういう役割分担になっているようです。
勝男は鮎美にプロポーズしますが、鮎美に断られ、同棲も解消されてしまいます。勝男は鮎美の気持ちを理解しようと自分で筑前煮をつくってみますが、カツオ節と昆布でだしを取ることがいかにたいへんかを知ります。

似たような話で、主婦がスーパーの総菜売り場でポテトサラダを買ったら、見知らぬおじさんから「母親ならポテトサラダぐらい自分でつくったらどうだ」と言われて傷ついたという話がやはりツイッターでバズったことがあります。ポテトサラダはつくるのがけっこうたいへんですし、副菜にしかならないので、そんなことを言われる筋合いはありません。


昔は性別役割分担がはっきりしていて、家事は妻がやるものと決まっていたので、料理を手づくりするのは当たり前でした(冷凍食品もありません)。「冷凍餃子は手抜きだ」と言った夫はそういう時代の価値観なのでしょう。
男はどんどん価値観をアップデートしていかなければなりません。

しかし、どの価値観が正しいかということは簡単には決められません。世の中の価値観はどんどん変わっていきますし、そこに個人の価値観も加わります。
「だしはカツオ節と昆布で取るべき」という価値観も間違っているわけではありません。そうしている人もいます。

問題は自分の価値観を相手に押しつけることです。
相手に「だしはカツオ節と昆布で取れ」なんて言うと、ドラマのタイトル通りに「じゃあ、あんたが作ってみろよ」という返しがぴったりです。
ただ、現実には二人の力関係があって、押しつけられてしまうこともあります。そうすると不満がたまり、愛情が冷めていくことになります。

なぜ人は自分の価値観を相手に押しつけるのでしょうか。
それはその価値観が「道徳」だと思うからです。

手抜きする妻、怠け者の妻、だらしない妻は、教え導いて「よい妻」にするべきである。そうすることは妻自身のためでもある。こういう考え方が道徳の基本です。
そうすると、「冷凍餃子は手抜きだ」と言って手抜きをやめさせることは妻自身のためでもあるということになります。
普通は自分の価値観を押しつけると相手は不満な態度を示しますから、ほどほどのところでやめるものです。
ところが、道徳の押しつけは相手のためだということなので、相手の不満を無視して押しつけることになります。そうすると夫婦関係は破綻していきます。


ですから、「夫婦関係に道徳を持ち込むな」というのが私の教える秘訣です。

夫婦関係から道徳を追い出すとどうなるでしょうか。

心理学的なコミュニケーションの技法に「アイメッセージとユーメッセージ」というのがあります。
アイメッセージとは「私」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(私は)連絡がなくてさみしい
(私は)そう言われると悲しい
(私は)少しイライラしています
(私は)その場所に行くのは心配だ

ユーメッセージとは「あなた」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(あなたは)遅刻しないでよ!
(あなたは)もっとできるでしょ!
(あなたは)メモを取ろうね!
(あなたは)連絡を細目にすべきだ!

ユーメッセージは相手の行動を制限することになりがちです。ユーメッセージを多用すると人間関係が悪くなります。
(「アイメッセージとは?意味と使い方,ユーメッセージとの違い」を参考にしました)

「僕は手づくりの餃子が食べたい」と言えばアイメッセージです。
「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」というのはユーメッセージです。
道徳の主張というのは必然的にユーメッセージになります。

「僕は手づくりの餃子が食べたい」という主張には、「今日は疲れてるから冷凍でがまんして」とか「冷凍もおいしいわよ」と言って、話し合いが可能です。
「冷凍餃子は手抜きだ」とか「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」という道徳的な考え方は、話し合いで説得するのは困難です。


「良妻賢母」や「夫唱婦随」という道徳があるように、もともと家父長制は道徳と一体となって存在してきました。
水田水脈衆院議員(当時)は2014年、衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です」と言いました。
この発言は男女平等を否定するものだとして批判されましたが、「男女平等は反道徳だ」という部分について論じた人はいませんでした。もしこの言い分が正しければ、男女平等を実現するには反道徳でなければならないことになります。
そして、私はこの部分については杉田氏と同意見です。
対等な夫婦関係をつくるには家庭から道徳をなくさなければなりません。

ただ、私は道徳すべてを否定しているわけではありません。
道徳は競争社会を生き抜くために必要なものです。
たとえば法の網をすり抜けている悪徳政治家には道徳的非難を浴びせなければなりません。
ライバルに対して優位に立とうとするとき、ライバルの非道徳的なふるまいを非難することは有力な手段です。
つまり道徳というのは他人を非難する道具なのです。
「人間は誠実であるべき」とか「嘘をついてはいけない」という道徳を設定しておけば、他人をいつでも嘘つきと非難することができます。これが道徳の使い方です(「人間は誠実であるべき」という道徳が誠実な人間をつくることはありません)。
私は「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」と言っています。

ただ、あくまで道徳は競争社会を生きるための道具なので、家庭に持ち込むものではありません。家庭に持ち込むと家庭が闘争の場になってしまいます。
相手のことを「だらしない」「怠けている」「無神経だ」などと道徳的に非難したくなったら、それは自分の愛情が欠けてきたからではないかと考えて、道徳を頭から排除し、自分の愛情を補充するようにしてください。



道徳を生存闘争の道具と見なすのは私独自のものかもしれません。
詳しくは「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」を読んでください。

29395809_m

近ごろ「自己肯定感」という言葉をよく聞きます。
「承認欲求」という言葉もよく聞きますが、このふたつの言葉は表裏一体です。
自己肯定感が低い人は承認欲求が強くなるという関係です。

自己肯定感という言葉が注目されるようになったきっかけは、国際的な調査でアメリカ、中国、韓国の若者と比較して日本の若者の自己肯定感が有意に低かったことです。以来、教育界で問題にされ、教育再生実行会議は「自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓く子供を育む教育」を提言したことがあります。実際、日本の子どもの自殺率はひじょうに高いので、問題になって当然です。

自己肯定感とは「ありのままの自分を肯定する感覚」などと説明されますが、もうひとつよくわからないかもしれません。
「自信」というのは、「いつも数学の成績はよいので数学には自信がある」のように、ある分野で具体的な根拠によって形成されるものです。
自己肯定感は「自分全体についての漠然とした根拠のない自信」といえます。

「自己肯定感」の反対語は「自己否定感」になるはずですが、「自己否定感」という言葉はまず使われません。
代わりに「自分に自信がない」ということがよくいわれます。
「自分に自信がない」は論理的にちょっとおかしい感じがしますが、「自分全体について漠然と自信のない感じ」を表現しています。

アメリカの「交流分析」という心理療法では、人生の基本的な立場は「幼児期における主に養育者とのふれあいの過程で形成される」とし、その立場を「私はOKである」ないし「私はOKでない」であるとします。この「私はOKである」が自己肯定感に当たると考えられます。
「私はOKである」を日本語でいうと「私は大丈夫である」ということになるでしょう。
赤塚不二夫氏は「これでいいのだ」という言葉を座右の銘にしていましたが、「これでいいのだ」も自己肯定感を表現しています。
つまり「これでいいのだ」とか「私は大丈夫だ」という認識が自己肯定感です。


こうした自己肯定感はどうして形成されるかというと、交流分析が「幼児期における主に養育者とのふれあいの過程で形成される」と指摘するように、ほとんどの場合、親によって形成されます。
学校の先生はその子どもの成績については肯定できますし、サッカーのコーチはサッカーの技量については肯定できますが、子どもを丸ごと肯定するのは、普通は親か親の代理人しかできません。

しかし、「『愛情不足』という根本問題」という記事で書きましたが、今の世の中は決定的に愛情が不足しています。とくに不足しているのが親の愛情です。


最近、親は子どもを叱りすぎているのではないかという認識が広がっていて、子どもの自己肯定感を育むためにも親は子どもをほめようということがよくいわれます。
ネットの子育て相談でも、「叱るのはよくない。子どもをほめよう」ということが盛んにいわれています。
教育評論家の親野智可等氏も「子どもをほめていると、子どもの自己肯定感だけでなく親の自己肯定感も高まります。子どもを叱っていると、子どもの自己肯定感だけでなく親の自己肯定感も下がります」とXに投稿しています。


「叱る」と「ほめる」の関係はどうなっているのでしょうか。
「ほめる」の反対語は「叱る」ではありません。
「ほめる」の反対語は「けなす」です。
もともと親は「ほめる」と「けなす」をアメとムチのように使って子どもをコントロールしてきました。
そして、よりコントロールを強化するために「けなす」をエスカレートさせて「叱る」にし、さらに体罰なども加えてきました。そのほうが子どもの行動をより直接的に支配できるからです。
アメは無視されるかもしれませんが、ムチは無視するわけにいきません。


叱りすぎるのはよくないですが、ほめればいいというものでもありません。
そもそもほめるというのは、ほめると叱る(けなす)で子どもをコントロールしようということですから、動物の調教師がやっていることと同じです。子どもを愛することとは違います。

それに、「ほめる」ということには評価が入ります。つまりいいところがあるからほめるのです。
そうすると、よいときにはほめるが、よくないときにはほめないということになります。
子どもは親の評価を気にして自分を見失うかもしれません。
たとえば絵を描くのが好きな子どもがいて、親がほめたりほめなかったりしていると、子どもは親の価値観に影響されてしまいます。
子どもの才能は、外からよけいな力を加えずに、真っ直ぐに伸ばさないといけません。


子どもを叱るのはだめですが、子どもをほめるのも同じようなものです。
では、親はどうすればいいかというと、「あなたがいるだけでうれしい」という態度で子どもに接することです。
そして、子どものすることを見守って、後ろから応援していればいいのです。それ以上のことは必要ではありません。
これが子どもを丸ごと肯定するということです。


子どもの自己肯定感が失われるのは文明の必然でもあります。
文明人のおとなは子どもの自然なふるまいを不愉快に思うので、たとえば公共の場で大声を出したり動き回ったりする子どもがいると、親に対して子どもの行動をコントロールするように圧力をかけます。そうすると、子どもは自然にふるまっているのに親に叱られることになり、自己肯定感を失います。
また、競争社会で劣等感を覚えている親は、子どもに対して優越を示し、自己回復をはかろうとしますが、ここでも子どもは自己肯定感を失います。
ちゃんと自己肯定感が持てている人は、よい親に恵まれた人だけです。


では、自己肯定感が持てなくて悩んでいる人はどうすればいいかというと、自分を愛してくれる人に出会うことです。恋愛は大きなチャンスになります。また、仕事が評価されることで承認欲求が満たされるということもあります。ただ、それらには運も必要です。

もうひとつの方法は、文明社会で自己肯定感が失われるメカニズムを理解し、親ガチャが外れた、自分の親はろくでもない親だったと思うことです。
心の中で親を徹底的に否定すれば、「親を否定することで自己を肯定する」ことができます。


family-5489291_1280


今、世界におけるいちばんの問題はなにかといえば、「愛情不足」です。
「愛情」というのは、ここでは愛、友情、温情、思いやり、親切心なども含めた、人の幸せを願う気持ちの総称ということにします。
人間の心を利己心と利他心に分けると、利他心のことでもあります。

人間は原始時代は親族と共同体の人々といっしょに暮らし、愛情でつながって生きていました。
しかし、文明が発達するとともに富が増大し、親しくない人との交流が増えると、争うことも増えます。今の資本主義社会は激烈な競争社会なので、誰もが利己心を全開にして生きていて、その分利他心が少なくなっています。
人はみな肩肘張って生きていて、ささいなことでいがみ合い、親切や思いやりと出会うことはめったにありません。
これがつまり「愛情不足」社会です。

人体の働きを制御する自律神経には交感神経と副交感神経があります。
交感神経は外の世界に対応するときに働き、副交感神経は体を休めるときに働くもので、アクセルとブレーキにたとえられます。
交感神経と副交感神経はバランスを保っているものですが、競争社会で生きる現代人は交感神経を働かせすぎて、自律神経失調に陥りがちです。
したがって、瞑想やヨガなどで副交感神経の働きを強めてバランスを回復させることが必要になります。

利己心と利他心のバランスも同じです。
現代人は利己心偏重になっているので、利他心つまり愛情を回復させることが、本人にとっても社会にとっても必要です。


ところが、世の中に「愛情不足」という問題があることはほとんど認識されていません。
ただし、誰もが無意識のうちに愛情不足を感じているので、それを補うために映画、小説、音楽の中には「愛」があふれています。
それらは創作された愛ですから、現実の愛とは違います。たとえば白血病の少女と夢を追う青年の恋愛で、青年は少女との約束を果たすために命がけでがんばる――といった物語があると、そこに描かれた愛は純粋で、崇高なものになります。
キリスト教では、神の人間への愛を「アガペー」といって、無償で不変なものとしています。
ロマン主義では恋愛至上主義があって、やはり愛を純粋なものとして描きました。
そのため、愛や愛情というのは非現実的なものというイメージになっています。


その影響か、政治家が「愛」を口にすることはありません。唯一の例外は「友愛」を掲げた鳩山由紀夫元首相です。
もっとも、鳩山元首相の評価とともに「友愛」の評価も下がってしまいました。

政治の世界で例外的に「愛」という言葉が使われているのが「愛国心」です。
ただ、愛国心の「愛」は通常考えられている「愛」ではありません。
愛国心は「自国を愛する心」と「他国を憎む心」が一体となったものです。
戦争するときは国内の結束を固め、他国への敵意を高めなければなりませんが、それは急にやっても間に合わないので、普段からやっておかなければなりません。ですから、どの国でも愛国心は奨励されたり強要されたりしています。
「他国も自国と同じように愛しています」というような態度は愛国心の観点からはきびしく批判されます。

なお、ひところは「愛のムチ」という言葉もよく語られましたが、この「愛」も愛国心の「愛」に似ています。


フィクションの中の愛は現実的でないので、すべて頭の中から消去すると、ほんとうの愛が見えてきます。
それは動物的、本能的なものです。哺乳類の親が子どもの世話をしている様子を思い浮かべればわかります。そこに本来の親の愛情があります。
この愛情は子どもが生きていく上で必要なものです。それは人間でも同じです。
体が成長するには栄養が必要ですが、心が成長するには愛情が必要です。

第二次世界大戦後、多くの戦災孤児が施設に収容されましたが、衛生状態も栄養状態もいいのにも関わらず子どもの死亡率が高く、ホスピタリズム(施設病)と呼ばれました。そして、それぞれの子どもに担当の看護婦をつけて世話をするようにすると死亡率が改善したことから、ホスピタリズムの原因は母子分離による愛情不足であると判断されました。
家庭の中で育った子どもでも、愛情不足であればホスピタリズムになりえます。


人間は小さいときに子どもの立場で親子愛を経験し、成長すると異性愛を経験し、子どもができると親の立場で親子愛を経験します。
これが人生を貫く太い愛情の線です。
これと比べると友情などは小さいものです。

親子愛と異性愛は人間の本質的な部分ですが、競争社会の原理がそこまで侵食してきました。
夫婦は互いに家事を押しつけ、親は子どもを競争社会に適応させるためにむりやり勉強させているので、親子愛も異性愛も空洞化しています。

親子愛と異性愛はつながっています。親子愛がうまくいっていないと、異性愛もなかなかうまくいきません。子どものときに親から殴られていると異性にDVをしたりします。また、親から十分に愛されていないと自己肯定感が低いので、異性に告白する勇気が出ませんし、嫉妬や束縛が激しくなったりします。少子化の原因に未婚化・晩婚化がありますから、「愛情不足」は少子化の原因でもあります。
親に十分に依存できないと、のちのアルコール依存や薬物依存やギャンブル依存の原因になります。

「愛情不足」は社会全体の問題ですが、その中心は親子愛と異性愛です。ここを改善すれば社会全体も改善されるはずです。


2023年4月にこども家庭庁が発足しました。
こども家庭庁が第一に取り組むべきは「家庭再生」でしょう。家族関係を本来の姿にすることです。

教育界では「教育再生」が重要課題とされていて、政府の設置した教育再生実行会議もあります。「家庭再生」も当然あるべきです。

こども家庭庁は「こどもまんなか社会」というスローガンを掲げています。これは子どもの位置を隅からまんなかへ変えるだけの意味しかなく、人間関係を変える意味はありません。愛情は人間関係のあり方です。

こども家庭庁は「オレンジリボン・児童虐待防止推進キャンペーン」というのをやっています。これはもちろんいいことですが、児童虐待というのは愛情不足の極端なもので、いわばピラミッドの頂点です。ピラミッドの底辺から正していかなければいけません。それこそが子ども家庭庁の取り組むべきことです。

「愛情あふれる家庭キャンペーン」でもやって、よい親子関係、よい夫婦関係とはこのようなものだということを啓蒙していくべきです。
今は人間関係の科学的研究が進んでいるので、そんなにむずかしいことではありません。

家族関係が変われば世界が変わります。
子どものときに親から十分に愛されると、自己肯定感が育まれるとともに、世界は信頼に足るものだという感覚が持てるようになり、それを「基本的信頼感」といいます。
基本的信頼感のある人は周りの人とよい関係をつくることができます。
基本的信頼感のない人間が安全保障政策を担当すると、隣国を信用することができず、最終的に軍事力に頼る結論を導くことになります。

映画や小説の中と同じようにリアルでも「愛」という言葉が普通に語られるようになってほしいものです。


polarization-1201698_1280

「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは名言です。
戦いに勝った者は「自分は正義で、相手は悪だ」と主張し、負けた者はその主張を否定する力がないので、勝った者の主張が社会に広がります。

「勝てば官軍」に当たる言葉は英語にもあります。
「Might is right(力が正義である)」及び
「Losers are always in the wrong(敗者はつねに間違った側になる)」です。
なお、パスカルも「力なき正義は無効である」と言っています。

つまり「正義」というのは、強い者が決めているのです。
最近はそのことが理解されてきて、正義の価値が下落し、正義を主張する人はあまり見かけなくなりました。

そうすると、「悪」の価値も見直されていいはずです。
「悪」も強い者が決めているからです。

さらにいうと、「善」も強い者が決めています。
「善」とはなにかというと、「悪」の対照群です。
テロ行為が「悪」だとすれば、テロ行為をしないのが「善」です。

「正義」も「善」も「悪」もすべて定義がないので、力のある者が恣意的に決めています。
したがって、正義、善、悪で世の中を動かそうとするとうまくいきません。
ハリウッド映画では、正義のヒーローが善人を救うために悪人をやっつけてハッピーエンドになりますが、これはフィクションだからです。

世の中を支配する者は善と悪を恣意的に決めることができます。
そうすると、力のない者はいつ悪人に仕立てられて罰されるかわからないので、安心して暮らせません。
そこで、人を罰することは法律によって厳密に決めることになっています。これが法の支配ないし法治主義といわれるものです。
犯罪者(悪人)と認定するまでの法的手続きは煩雑ですが、どうしても必要な手続きです。
この手続きを省略すると「リンチ」になりますが、リンチが横行すると世の中の秩序が乱れます。


社会は法の支配によって秩序が保たれていますが、法の支配の及ばない領域がふたつあります。
ひとつは国際政治の世界です。ここではロシア、イスラエル、アメリカといった軍事力のある国が好き勝手にふるまっています。
もうひとつは家庭内です。家族は愛情で結びついているので、法律が入り込むべきでないとされてきました。そのためここでも力のある者が好き勝手にふるまっています。


家庭内を見ると、善と悪がどのようにして決められるのかがよくわかります。
小さな子どもは動き回り、大声を出し、物を壊したり、部屋の中を汚したりします。それは子どもとして自然なふるまいですが、親は子どもにおとなしくしてほしい。高度な文明生活と子どもの自然なふるまいはどうしても合わないのです。
そこで、親と子で妥協点を探らねばなりませんが、親は子どもよりも圧倒的な強者です。そのため親は自分勝手にふるまうことができますし、善と悪も自分勝手に決めることができます。
たとえば、おとなしいのは「よい子」で、うるさく騒ぐのは「悪い子」、親の言うことを素直に聞くのは「よい子」で、親の言うことを聞かないのは「悪い子」、好き嫌いを言わないのは「よい子」で、好き嫌いを言うのは「悪い子」、かたづけをするのは「よい子」で、散らかすのは「悪い子」といった具合です。
このように善悪の基準は親の利己心です。したがって、よいとされることが子どもにとってよいこととは限りません。
たとえば親は子どもに「おとなしくしなさい」と言いますが、「おとなしい」を漢字で書くと「大人しい」です。つまり子どもにおとなのようにふるまえと言っているのですが、これは正常な発達の妨げになることは明らかです。

子どもを「よい子」にしつけることは親の義務とされ、しつけを怠る親は非難されます。
こうしたことが幼児虐待を生んでいます。幼児虐待で逮捕された親が判で押したように「しつけのためにやった」と言うのを見てもわかります。

家父長制家族においては、夫は妻に対して圧倒的な強者ですから、夫が善と悪を決めます。
夫に従うのが「よい妻」で、夫に従わないのは「悪い妻」、家事を完璧にこなすのが「よい妻」で、家事の下手なのが「悪い妻」という具合です。
夫にとって都合のよい妻を「良妻賢母」ともいいます。
妻の側からも「よい夫」と「悪い夫」というように夫を評価したいところですが、妻は弱い立場なので、そうした評価が社会的に認知されることはありません。そのため、「悪妻」という言葉はあっても、「悪夫」という言葉はありません。


「よい子」と「悪い子」、「良妻」と「悪妻」という言葉を思い浮かべれば、善と悪は強者が自分に都合よく決めているということがわかります。
ところが、倫理学は善を絶対的な基準と見なしてきました。
アリストテレスは、人間は「最高善」を目指すべきであるとし、カントも「最高善」について論じています。
「よい子」や「よい妻」の最高の状態を目指すべきだということです。そんなことをしても、本人は少しも幸福ではなく、親や夫が喜ぶだけです。
こんな倫理学が顧みられなくなったのは当然です。


善、悪、正義、「べき」などを総称して道徳というとすると、道徳はすべて人間がつくったものですから、そこに必ず人間の下心があります。
道徳は、人間の心を縛る透明な鎖です。
鎖を断ち切ってこそ自由な生き方ができます。



前回の「一神教の神は怖すぎる」という記事で、エデンの園でアダムとイブが神の言いつけにそむいて善悪の知識の木から食べたために楽園を追放されて不幸になったということを書きました。
人間は善悪の知識を持ったために不幸になったという話は暗示的です。
それまで親子は一体で、子どもはなにをしても親から愛されていましたが、親が「よい子」と「悪い子」という認識を持ったときから子どもは行動を束縛され、愛の楽園から追放されたのです。
子ども時代の不幸は人生全体をおおい、さらに世界全体をおおっています。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」では、善と悪についてさらに詳しく書いています。


woman-1281651_1280

専業主婦がいて、パートタイムで働く妻もいるので、夫婦の家事分担のあり方はさまざまです。
しかし、夫婦が同じように働いていれば、家事分担は平等であるのが当然です。
もし夫婦が同じように働いているのに、夫の家事分担が少なければ、それは夫がわがままを通しているということです。

「全国家庭動向調査」によると2022年の調査では、夫と妻の家事分担割合は妻80.6%、夫19.4%です。
もっとも、これは専業主婦も含めた数字です。
妻が正規労働の場合(たぶん夫も正規労働)、50.6%の夫婦で妻が家事の80%以上を担当していました。
ほぼ平等に家事を分担していると見られる夫婦の割合は約20%でした。
約20%というのは、けっこう多い数字のような気もしますが、本来なら100%であるはずです。


どうして男は家事をしないのでしょうか。
私自身のことを振り返りながら、男が家事をしない理由を考えてみました。

私は20代半ばで結婚を考えるようになりました。
ただ、私は小さな出版社に勤めていて、きわめて薄給でした。
結婚するとなれば、相手に共働きしてくれるように頼まなければなりません。そうすると、自分も家事を半分ぐらいやらざるをえないと思いました。

私は当時、一人暮らしをしていましたから、掃除と洗濯はできました。しかし、食事はもっぱら外食で、料理はほとんどできません。
結婚したからといって急に料理ができるようになるとは思えません。
家事の分担はどうしようかと漠然と考えていましたが、もしそういう状態で結婚していたら、私もあまり家事をやらない夫になっていたかもしれません。
結婚してから少しずつ料理を覚えていけばいい理屈ですが、最初に妻に料理をしてもらえば、その状態に甘えてしまったかもしれません。

幸い(?)結婚相手は現れず、そのうち勤めていた会社が倒産しそうになったために私は会社を辞めました。
再就職も考えましたが、その前から作家になろうと思って小説を書いていたので、この際、就職せずに作家修行に専念することにしました。薄給でも少しは貯金がありました。

そうすると節約するために自炊をするのは当然です。まず自炊の本を買い、次にNHKの「きょうの料理」の定番料理の本を買いました。当時はインターネットもないので、本で料理を学ぶしかありません。
あるときスーパーでサバ丸ごと一匹を売っていて、ほかにサバの二枚おろしか三枚おろしもバックして売っていました。サバ丸ごと一匹のほうが断然安く、たぶんどちらも同じサバです。
私にはお金はなくても時間はいっぱいあります。私は魚をおろしたことはありませんでしたが、パックされたサバの半身を完成予想図として目に焼き付けて、サバ一匹を買って、そこから半身を切り出しました。
そのうちテレビの料理番組を見て、正しい魚のおろし方を学びました。
東京は新鮮なアジやイワシを安く売っているので、自分でさばけば安く刺身が食べられます。
そうしたことをしているうちにある程度料理ができるようになったので、結婚しても料理を分担することができました。

料理は奥が深いですが、生活のための料理に奥深さは必要ありません。ただ、バランスよく栄養をとるために幅広い料理ができる必要があります。野菜の切り方、野菜のゆで方から始まって、一通り習得するのはけっこうたいへんです。
たいていの男は料理をやったことがないので、当然料理ができません。
結婚してから妻から教わるというやり方もありますが、結婚した最初は人間関係を築いていく時期です。そのときに「教える・教えられる」という一方的な関係が入るのはどうなのでしょうか。

男女ともに、結婚するときには一通りの家事をこなせるようになっているのが好ましいといえます。
それを考えると、ずっと実家暮らしの男性というのは、料理はもちろん掃除も洗濯もやったことがない可能性が大です。
そういう男性と結婚した女性は、夫が家事無能力者であることを知って愕然とするに違いありません。


結婚前から家事のできない男性が圧倒的に多く、それが結婚後、家事分担が平等にならない大きな理由です。
したがって、若い男性は結婚前に料理などを学ぶ“花婿修行”をするべきだという考え方を世に広める必要があります。
これは未婚化対策にもつながります。


しかし、それだけではうまくいかないでしょう。
そもそも多くの男は家事のノウハウを知らないだけでなく、家事をやる気がありません。やるにしても「しかたなくやる」といった感じです。
多くの夫は「なんか手伝おうか」などと「手伝う」という言葉を使います。つまり当事者意識がないのです。
夫がもっともよくやる家事は「ゴミ出し」だということです。
ゴミ出しというのは、出勤するときにゴミ袋を持って家を出て、ゴミ置き場にそれを置くという作業です。クレーンゲームのアームがやっている作業と同じです。

男が家事にやる気がないのは、家事を下に見ているからです。
なぜ家事を下に見ているかというと、女性を下に見ているからです。
「男女平等」という理念があっても、男の意識はまだまだ「男尊女卑」です。
女は卑しいものであり、卑しい女がする家事もまた卑しいということになります。

これはインドのカースト制を考えるとよくわかるかもしれません。カースト制では身分と職業が結びついていて、卑しいカーストのする職業も卑しいことになり、ほかのカーストの者はその職業(仕事)には手を出しません。
男尊女卑の意識を持っている男も、「家事は女の仕事」と思っているので、家事には手を出しません。もちろん「分担する」という意識はなく、せいぜい「手伝う」程度です。


妻が熱を出して寝込んでいると、夫が「俺の飯は?」と言ったという話があります。
妻を看病するでもなく、妻の食事の心配をするでもなく、自分の食事のことしか考えない夫には言葉を失います。
弁護士ドットコムニュースの離婚事例としても載っているので、こういう夫がいることは事実なのでしょう。

これは「家事をやらない」とか「家事のノウハウがない」ということではなく、「人間としての思いやりがない」ということです。
この夫はひとつ間違えばDVをするでしょう。
DVをしなくても、離婚に至らなくても、夫婦関係は破綻しているも同然です。


思いやりの欠如した夫は珍しくありません。

私の両親は年取って二人で暮らしていましたが、父親は家事をまったくやりませんでした。
それではいずれ困ることになるぞと忠告していましたが、まったく聞き入れません。
案の定、母親が入院して、父親一人で生活していくことになりました。私は遠方に住んでいたので、どうなることかと心配していましたが、なんとか一人でやっていました。
「家事をやらない男」というのは、あくまでほかに家事をやる人間がいるから成立しているわけです。

母親が退院してきて、ゆっくりお風呂に入りたいと、父親にお風呂を入れてくれるように頼みました。そして、風呂がわいたというので、母親が服を脱いでいざ入ろうとすると、冷たい水だったそうです。母親はそれがずいぶんとショックだったようで、私に嘆きました。
私が父親にどういうことかと聞いたら、風呂の表面が熱かったので沸いたと思ったと答えました。
その風呂は、水を張ってガスで沸かす方式です。表面が熱くなっても下は水です。父親もそんなことがわからないはずがありません。なぜ沸いていない風呂を沸いていると言ったのか、わけがわかりませんでした。
あとになって考えたのですが、それまで一方的に世話される立場だった父親は、逆の立場になったことが不満で、無意識のいやがらせをしたのでしょう。母親は初めて世話される立場になって喜んでいたので、いっそう傷ついたのです。
前からそういう心理的な暗闘をしている夫婦でした。


 夫が妻にやさしさを示さないのは、「男尊女卑」や「性差別」によって、女性を男性より下の存在と見ているからです。
もちろんすべての男がそうだということはありません。
人間は基本的に自分の両親のあり方を見て男女関係や夫婦関係のあり方を学ぶので、その影響が大きいでしょう。

それから、親子関係のあり方も影響します。
妻が寝込んでいるのに「俺の飯は?」と言った夫は、もしかすると子どものころ病気になっても母親からろくに看病してもらえなかったのかもしれません。いつも「男の子でしょ」と言われてやさしくされたことがなければ、人にやさしくできないのは当然です。
私の父親も、生まれてすぐ母親を亡くして親戚の家に引き取られて、不幸な子ども時代だったようです。


不公平な家事分担は、男がわがままを通しているからです(まれに女がわがままな場合もあります)。
家事を相手に押しつけている分、楽ができますが、思いやりのある夫婦関係はなくなります。
思いやりのある夫婦関係のほうが幸せなはずです。


argue-3767380_1280

私がスーパーで買い物をするときによく思うのは、夫婦で買い物をする人をほとんど見かけないなということです。
夫が会社勤めをしているにしても、土日なら夫婦で買い物に行けるはずです。
私の場合、妻が会社勤めなので、土日はいつもいっしょに買い物に行きます。
ずっと家にいるよりも散歩がてら買い物に行ったほうが気分転換にもなります。

もう定年退職したような老夫婦はときどきスーパーで見かけます。
しかし、二人が会話していることはめったにありません。
たまに言葉を発しているのを聞くと、たいてい不機嫌なダメ出しの言葉で、会話になっていません。
なんのために二人でスーパーにきているのかと思ってしまいます。

そうした疑問を持っていたところ、『店員「レジで奥様を手伝わず突っ立ってるだけの人、なぜ?」意図が不明な謎行動に「本当に邪魔」「見かねて声をかけた」』という記事を見つけて、やはりそうなんだと思いました。

その記事を簡単に紹介すると、「スーパーに一緒に買い物に来て、奥さんが会計をしている時にぼーっとレジの横に立ったままの人が多い。邪魔なので、手伝わないのなら別の場所にいてほしい」というSNSの投稿がきっかけで、店員経験のある人などから「ほんとうによく見かける」「奥さんが重いカゴを移動させてるのに、横か後ろにくっついて動かない人がいる」「レジもそうだけど、サッカー台で何もせずに突っ立ってる人も多い」といった声が上がりました。
客からも「腕組みして見てるだけの人、本当に邪魔」「運転のために来ているのだとしても、車の中で待ってるか、普通に手伝えばいいのに」「ついてきているだけの人って無意識で通路をとうせんぼしがち」などの声がありました。

夫婦で買い物にきていても、夫は荷物持ち要員としてついてきているだけで、買い物には関与していないようです。
性別役割分業が徹底した夫婦だと思われます。
こういう夫婦は会話も乏しくなるでしょう。


一般論として夫婦はどんな会話をしているのでしょうか。
あるテレビ番組で新婚の男性が毎日会社帰りの電車の中で今日は妻とどんな会話をするか考えていると言っていて、それを聞いたスタジオの女性が「やさしい」とほめていました。
初めてのデートのときなどはどんな会話をするかあらかじめ考えた人も多いでしょう。しかし、そんなことは長くは続けられません。

新婚しばらくは、相手のことをよく知らないので、お互いに自分のことをしゃべっていれば意味のある会話になります。
それに、各家庭で生活習慣が違うので、掃除や洗濯のやり方、料理の味付けなどさまざまなことで“文化摩擦”が生じ、それも会話のネタになります。出身地が違うと地域の文化の違いもあります。
新婚の妻が初めておでんをつくったら、夫が「豆腐が入っていない」と文句を言って喧嘩になったという話を聞いたことがあります(豆腐は長く煮込むと固くなるので入れないこともあります)。
昔、大根がすごく高値になったとき、妻が迷った末にサンマの塩焼きに大根おろしをつけなかったら、夫が激怒したという話もあります。
こういう行き違いを防ぐためにも会話が必要になります。

何年かたつと会話もマンネリになってきますが、子どもができると、今度は子どものことでしゃべることがいっぱい出てきます。そうして多くの夫婦は会話を続けていくのでしょう。

私たち夫婦には子どもがいませんが、結婚してしばらくして猫を飼い始めました。
そうすると猫について話すことがけっこうあります。うちの猫は自由に戸外に出ていたので、しばしばネズミやスズメやセミなどを捕って家に持ち帰ってきて、そのたびに大騒ぎになります。
ペットは家族の会話を活発にさせる機能があります。

しかし、やがて子どもも巣立っていきます。そうすると夫婦に会話することはほとんどなくなります。
子どものいない夫婦はその前から会話することはないわけです。
「メシ、フロ、ネル」しか言わない戯画化された夫というのは、けっこう現実ではないかと思われます。


そもそも人間はなんのために会話をするのでしょうか。
イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーは『ことばの起源 -猿の毛づくろい、人のゴシップ』という本で、人間の会話はサルの毛づくろいと同じであるという説を述べました。
サルは互いに毛づくろいをすることで親しさを確認し、群れの結束を強めます。人間は毛がないので毛づくろいの代わりに会話をし、そのために人間は言語能力を発達させたというのです。
ですから、会話することそのものに意味があって、会話の内容にはたいして意味がないことになります。

人間の会話の内容を調べると7割はゴシップだといわれます。つまり周りの人間についての根拠のない噂話をしているのです。
私たちの日常会話も、近所の人についての噂話や、芸能人の不倫の話、石破首相やトランプ大統領の話などです。
SNSでも根拠のない話がどんどん広がっています。話を通じて誰かと共感することが目的なので、その話に根拠があるかどうかはあまり関係がないからです。
必要な情報の伝達とか、認識を深めるための議論などもありますが、それらは会話全体からみればごくわずかです。
夫婦でいえば、家計のこととか親の介護のこととか、まじめに話し合わないといけないこともありますが、それも全体から見ればごくわずかです。


夫婦は同じ家で暮らしているからといって、いつもいっしょにいるのはよくないのではないかと思います。
この前、ある女性芸能人(誰だったか忘れた)がテレビで「仲のよい夫婦は寝室をいっしょにしていない」と語っているのを聞いて、そういうこともあるかもしれないと思いました。
長くやっている漫才師はたいてい楽屋でもほとんど言葉を交わさないといいます。
いくら仲がよくても、同じ人間といつも顔を合わせていると嫌気がさすものです。

私たちの場合、妻は会社勤めですが、私は文筆業で昼ごろ起きるので、必然的に寝室は最初から別でした。
夫婦がいっしょにすごすのは、夕方妻が会社から帰ってきてから食事の片づけをするまでの間で、そのあとはそれぞれの部屋ですごします。
寝る前に二人いっしょに紅茶を飲むこともあります。そのときはテレビのニュース番組やトーク番組を見て、それをもとに会話します。テレビを見なければ会話のきっかけがありません。

夫婦の会話などなんの意味もなくて当たり前です。
ただ、意味のある会話もあります。それは家事についてです。サラリーマンが同僚と仕事の話をするのと同じで、これは夫婦にとって必要な会話です。

私たち夫婦の場合、掃除は平等に分担しています。洗濯は妻がやって、私は洗濯物を干したり取り込んだりするのを手伝う程度です。料理は基本的に妻がやりますが、私はご飯を炊くのとみそ汁をつくるのを担当し、ときどき一品をつくり、妻が残業のときは私が全部つくります。
家事分担の割合としては、6対4とまではいきませんが、7対3よりはやっているはずです。

なお、買い物は、妻が帰宅前にしますが、私も昼間することがあります。
いつも別々ですから、土日にいっしょに「キャベツが安くなってきたね」とか「コーヒー豆がまた高くなった」などと話し合いながら買い物するのは楽しいことです。
ですから、冒頭でも書いたように、いっしょに買い物をする夫婦をほとんど見かけないのが不思議です。
おそらく多くの夫婦は妻だけが料理をしているのでしょう。いっしょに料理をしていればいっしょに買い物もするはずです。

誕生日や結婚記念日などに夫婦で外食をすることがありますが、そんなときどんな会話をしているかというと、半分ぐらいは料理のことです。というか、それ以外にあまり話すことがないというのが実際です。
そうすると、ほかの夫婦は外食のときにテーブルで向かい合ってどんな話をしているのでしょうか。黙って食べていたのではせっかくの外食が楽しくありません。

会話のない夫婦は、二人で家事をするようにすれば会話が増えるはずです。



ともかく、夫婦の会話というのはどうせ価値のないものなので、楽しくバカ話をしていればいいというのが私の考えです。
逆に価値のある会話をしようとするのはたいへん危険です。

たとえば相手になにかを教えて知的に向上させようという人がいます。
これは相手を見下した行為ですから、教えられる側は不愉快です。
これを男がやるのは「マンスプレイニング」といわれます。

相手を道徳的に向上させようというのも夫婦関係を破壊します。
以前、妻が冷凍餃子を食卓に出したところ夫から「冷凍餃子は手抜きだ」と言われたというツイッターの投稿が話題になったことがありました。この夫は手抜きをする妻を手抜きをしない立派な妻にしようとしたのでしょう。
夫が妻を「だらしない」「気が利かない」と言ったり、妻が夫を「思いやりがない」「自分勝手」と言ったりするのも、相手を道徳的に向上させようとしているわけです。ですから、言うほうはいいことを言っているつもりです。
しかし、言われるほうは不愉快です。
こうしたことが繰り返されると、会話自体がなくなってしまいます。
その結果、離婚に至るか仮面夫婦になるしかありません。

なぜこういうことが起こるかというと、道徳について根本的な勘違いをしているからです。
今、小中学校では道徳の授業が行われていますが、これが可能なのは、子どもが弱いためにおとなしく聞いているからです。
配偶者に対して道徳を説いたら、うまくいかないに決まっています。
そのことを理解せず、夫婦関係に道徳を持ち込んで、そのために多くの夫婦の関係が冷え切っているのは悲しいことです。
家庭に道徳を持ち込まないようにすれば楽しい夫婦関係になると思います。


道徳についての根本的な勘違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。


このページのトップヘ