村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 子どもの復権

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読売巨人軍の阿部慎之助監督が18歳の娘さんに暴力をふるい、警察に逮捕されたことで、監督を辞任しました。
警察の逮捕は行き過ぎではないかとか、阿部監督は辞任しなくてもいいのではないかという同情の声がけっこうあります。
阿部氏の監督復帰を求めるオンライン署名には10万を越える署名が集まったということです。
ところが、阿部監督の辞任会見を見ると、まったく反省した様子がありません。
反省しない人間を許すことができるでしょうか。

阿部監督は記者会見の冒頭でこのように語りました。
「私の家族のトラブルで多くのプロ野球ファンの方、プロ野球関係者の方、会社に多大なご心配とご迷惑をかけました。そして、伝統ある巨人軍の監督の名を汚してしまって、深く謝罪したい気持ちでいっぱいです」
いろいろな人へ謝罪していますが、娘さんに対しては謝罪していません。
阿部氏の行為のなにが悪いかといえば、娘さんに暴力をふるって、娘さんを傷つけたことです。
つまりこれは家庭内暴力、DVです。
ところが、阿部氏はそのことを「家族のトラブル」と表現しました。
DVと認めていないのです。

阿部氏は「謝罪」に続いて、このように語りました。
「あと、娘も高校三年生という年ごろな子ですので、どうか皆さま、暖かく見守っていただければ幸いです」
そして、代理人の弁護士が娘さんの手紙を読み上げました。
その手紙には「暴力に関しては、殴る蹴るなどといった事実はございませんでした」「父とはすでに仲直りしておりますゆえ、ご安心ください」という言葉がありました。

阿部氏は娘さんを盾に世の中の非難をかわそうとしたのです。
その作戦はうまくいって、世の中には「娘さんが許しているなら、これ以上追及するべきではない」という空気が生まれています。

このあと記者の質問がきっかけで、阿部氏が監督を辞任したということが明かされます。
そして、阿部氏は涙を流します。
この涙は自分が辞任することの悔しさからくる涙で、娘に対してすまなかったという涙ではありません。
それまでは「自分の娘に謝れるか」といった、DV男らしいふてぶてしい顔をしています。
阿部氏の表情については、実際の記者会見を見て判断してください。



阿部氏と娘さんの間になにがあったのでしょうか。
5月25日の夕方、阿部氏の自宅で姉妹が喧嘩し、阿部氏が「うるさい」などと言ったところ長女が言い返したために阿部氏はカッとなって、長女の襟をつかんで投げ倒した(胸を突いて押し倒したとも)というものです。
殴る蹴るでなくても、立派な暴力です。
長女の手紙には「ケガに対する心配などにつきましては、私の体が丈夫だったこともあり、心配はご無用ですので、ご安心ください」と書かれていて、もし体が丈夫でなかったらケガしていたかもしれない激しさだったことが暗示されています。

手紙には「父とのこのような大がかりな喧嘩というのは初めてのことであり、チャットGPTに相談した結果、匿名で相談できる児童相談所があるよという説明書きがなされ、それでお電話をさせていただきました」とあり、児童相談所が警察に通報し、駆けつけた警察に阿部氏が逮捕されたといういきさつです。

長女がチャットGPTに相談したことが問題視されています。
しかし、チャットGPTの対応は人間よりもまともです。もし長女が誰か人間に相談していたら、「あなたにも非があったんじゃないの」とか「お父さんは君のためを思ってやってくれたんだよ」などと言って、阿部氏の行為を正当化してしまうでしょう。

警察の逮捕は行き過ぎではないかという声もありますが、逮捕されたときの状況がわからないのですから、なんともいえないはずです。阿部氏の呼気からはアルコールが検出されました。警官に対する態度が悪かったのかもしれません。

長女の手紙は誰も批判しません。
混乱した状況で18歳の女子高生が書いたとは思えない冷静な文章です。これこそチャットGPTに相談して書いた文章ではないかと誰も指摘しないのは不思議です。
それはともかく、18歳の高校生は親の庇護がなくては生きていけない存在です。そんな人間が親を擁護したからといって、それを真に受けるわけにはいきません。

阿部氏や弁護士が長女に手紙を書かせて発表したのは大いに問題です。
単なる被害者だったのが、そのために世間からさまざまな非難を浴びる立場になったからです。


阿部氏は長女に暴力をふるったことをまったく反省していません。おそらく自分の行為が暴力とは思っていないのでしょう。
阿部氏は一応「謝罪」しましたが、「娘を傷つけた」とか「娘に申し訳ないことをした」という言葉はなく、なにについて謝罪したのかわかりません。

ところが、阿部氏がまったく反省していないということは誰も指摘していません。
巨人軍の監督がそれだけ権威だということもあるでしょうが、それよりも親によるDVを「体罰」や「しつけ」ととらえて正当化する考え方がまだまだ根強いのだと思われます。
「ただの親子喧嘩」ととらえる意見もありますが、阿部氏と娘さんではまったく体力が違うのですから、「喧嘩」と見なすことはできません。
ネットを見ていると、橋下徹氏、立川志らく氏、中畑清氏などが阿部氏を擁護する意見を述べています。
メディアも阿部氏の行為をDVと見なすことをためらっています。
DVをDVと認める世の中にならなければなりません。


なお、暴力的な子育てがなぜいけないのかについては、『てぃ先生 阿部監督騒動巡り“子育てのプロ”目線で新たな指摘 「これは響いた」「目から鱗」称賛の嵐』という記事が参考になります。


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私の若いころは、ルネ・デカルトの「我思う、故に我あり」は近代合理主義哲学の基礎をなすものとして、ひじょうに重要視されていました。
確か中学の教科書に載っていたと思いますし、小学校のころでも一応知っていました。

デカルトは方法的懐疑として、すべてのものの存在を疑ってみました。そうすると、疑っている自分自身の存在だけは疑うことができないことに気づき、こうして自分の存在を証明したとされます。
近代以前は、神が世界の存在を証明していたので、近代になると、神に代わって世界の存在を証明するものが必要になりました。そこにデカルトが自分の存在を証明したわけです。自分の存在が確かなら、自分が認識する世界も確かだろうということで、デカルトは演繹的に世界の存在を証明したわけです。
そういうことで「我思う、故に我あり」は近代合理主義哲学の基礎となりました。


しかし、いろいろとおかしいこともあります。
客観世界の中に個人が存在するという考え方から、個人の主観が世界の存在を証明するという考え方に変わったことを、カントは「コペルニクス的転回」と名づけました。しかし、個人の主観が世界の中心になるのですから、これはむしろ「逆コペルニクス的転回」というべきです。

「我思う、故に我あり」ということをささえるのは、人間の思考力であり理性です。そのためこの理論は、人間の理性に特別な価値を置くもので、女子どもは感情的な存在として見下されます。未開人や非文明国の人間も同様です。
白人成年男性が世界を支配するお墨付きを得たようなものです。
近代が大量殺戮と環境破壊の時代であったこととそのことが無関係だとはいえないでしょう。

世界の存在証明があろうがなかろうが、人間は同じように生活しています。ですから、「我思う、故に我あり」ということに価値を見いだすのは、哲学に興味のある人間だけです。
私自身はけっこう哲学に興味のある人間ですが、「我思う、故に我あり」はつまらないなと思いました。
というのは、私の関心は自分の存在の証明ではなくて、自分の考えが正しいと証明することだったからです。


たいていの人は自分の考えは正しいと思っているでしょうが、私は自分の考えを疑っていました。
たとえば私が急いで商店街の通りを歩いていると、横に広がっておしゃべりしながらゆっくり歩いている集団に行く手をさえぎられました。「横に広がって歩くのはマナー違反だ」と思って腹を立てました。
その数日後、同じ商店街の通りを、今度は急ぐこともなく普通に歩いていると、やはり横に広がっておしゃべりしながら歩いている集団がいました。しかし、今度はぜんぜん腹が立ちません。むしろ談笑しながら歩いている集団をほほえましい思いで見ているのです。
つまり自分が急いでいるときと急いでいないときとで、まったく見方が違うのです。

道を横に広がって歩くのはマナー違反でしょう。
しかし、ささいなことではあります。それに腹を立てるほうがより悪いかもしれません。
とくに問題なのは、自分が急いでいるときに道をふさがれたという「私憤」を、マナー違反に対する「公憤」にすり替えているところです。
世の中にはカスタマーハラスメントといって店員を怒鳴りつける人がいますが、こういう人はまさに「私憤」を「公憤」にすり替えているのでしょう。
天下国家を論じて悲憤慷慨している人も、そこに「私憤」をまぎれ込ませているかもしれません。


ともかく、通行人に対する考え方ひとつとっても、私は自分の考え方が正しいという確信が持てません。
私は気の弱い人間で、あまり自己主張ができないので、自分の考えが客観的に正しいと証明できれば強く主張できるようになるだろうと考えました。
会社で上司の言い分が間違っていると思ったときも、自分の考えが正しいと確信できれば強く主張できますし、自分の考えがなぜ正しいかを論理的に説明できれば、上司も納得してくれるかもしれません。


人間が正しい判断ができないのは、おそらく自己認識の問題です。

私たちは他人を見て、「この人は善人、あの人は悪人」と判断しています。
ということは、自分も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。
もし自分が悪人であれば、自分の善悪の判断はどうなるでしょうか。
これは具体的に考えればわかります。
ナチスにおいては、ユダヤ人を収容所送りにするのがよいことで、ユダヤ人をかくまうのが悪いことです。
ヤクザ組織においては、親分に言われるままにライバルの組の人間を殺すのがよいヤクザで、殺すのを拒否するのが悪いヤクザです。
詐欺商法の会社においては、多くの人をだますのがよい社員で、あまりだまさないのは悪い社員です。
つまり「悪人においては善が悪で、悪が善」なのです。

人間は誰でも基本的に自分は悪人ではなく善人だと思っているので、悪人だった場合、善と悪の判断が逆になることになります。
これが人と人の争いの原因になりますし、世の中の混乱の原因になります。
したがって、誰もが正しい自己認識を持てば、世の中は平和になるはずです。

もともとは自分は気が弱いので自信を持って主張したいということから、自分の考えの正しさを証明しようとしたのですが、これは個人的なことではなくて、人類全体に及ぶ問題でした。


結局のところ、自分の考えが正しいと証明するには、自分が正しい人間(善人)にならねばなりません。
自分が正しい人間であれば、自分の考えも正しいわけです。
もっとも、全面的な善人も全面的な悪人もいません。たとえば政治的な問題や子育ての問題について論じるときは、その問題について正しい人間であればいいわけです。
あるいは、自分が正しい人間にならなくても、頭の中で「正しい人間」をイメージして、その人間になったつもりで考えればいいわけです。

世の中の価値観や基準に合わせれば正しい人間になれるかというと、そんなことはありません。世の中の価値観や基準が間違っているかもしれないからです。
SFでよくある設定ですが、第二次世界大戦でもし枢軸側が勝利していれば、ナチスや軍国主義の価値観が正しいとされているわけです。

正しい人間の真似をすればいいかというと、そうはいきません。
自分が正しい人間でないと、誰が正しい人間か判断できないからです。

世の中は善人と悪人が入り乱れています。いや、正確にいうとさまざまな種類の悪人が入り乱れています。
したがって、基準になるものがありません。
しかし、まったくないわけではありません。
生まれたばかりの赤ん坊は、無垢とか純粋というと違うかもしれませんが、少なくとも人間の原点であるのは確かです。
赤ん坊を基準にして人間を判断すればいいのです。

今の世の中は、おとなが子どもを「悪い子」でなく「よい子」にしようと教育やしつけをしていますが、赤ん坊に「よい赤ん坊」も「悪い赤ん坊」もいないのですから、おかしなことです。
一方、おとなには「よいおとな」と「悪いおとな」がいます。
悪いおとなの目には、普通の子どもが「悪い子」に見えます。これが虐待の原因です。


自分の理性を誇って子どもを見下すおとなは物事を正しく判断することができません。
つまり「我思う、故に間違う」です。
最近、「我思う、故に我あり」が顧みられなくなっているのは、そういう認識が広がっているからでしょう。

おとなが赤ん坊や子どもを基準にして考えるには、根本的な発想の転換が必要です。
それについては「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。

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厚生労働省の発表によると、2025年の自殺者数(確定値)は1万9188人で、統計を開始した78年以降で最少となりました。
一方、小中高生の自殺者数は538人で、前年から9人増加し、統計のある1980年以降で最多となりました。
おとなの自殺はへり、子どもの自殺は増えるという状況です。
主要7カ国(G7)のうち、10代と20代の死因の1位がともに自殺なのは日本だけです。

小中高生の自殺者数はコロナ禍に入った20年に急増し、以降も高止まりが続いています。特に女性の中高生で増加傾向が目立ち、19年と25年を比べると、中学生で2.0倍、高校生で2.2倍になりました。
原因・動機を見ると、小学生は家庭問題が最多。中学生では、男子は学校、女子は心の健康の問題が目立ちました。高校生は男女ともに心の健康問題が多く、特にうつ病の増加が確認されました。


最近の若者のメンタルについては、私も思うところがあります。
ここ数年、「一人じゃない」という歌詞の歌がやたら目につく(耳につく?)ことが多いのです。
要するに孤独な人間を励ます歌詞です。
作詞家として他人と同じ歌詞を使うのはどうかと思いますが、孤独感に悩んでいる人間がよほど多いということでしょう。

調べてみると、文字通り「ひとりじゃない」というタイトルの曲があります。DEENの曲で、「ドラゴンボールGT」のエンディングテーマです。
百足 & 韻マンの「 一人じゃない」という曲もあり、サビで「俺は1人じゃない もう1人じゃない」と繰り返されます。
後藤凌の「 一人じゃない」というのもあり、サビに「一人じゃない」とあります。
Little Glee Monster の「 足跡」という曲と、 Novelbright の「 さよならインベーダー」という曲にも「一人じゃない」という歌詞があります。
これらは比較的メジャーな曲ですが、メジャーでない曲まで入れるともっとあるに違いありません。

私の記憶では、昔は「一人じゃない」という歌詞の曲はなかったはずです。
天地真理の「ひとりじゃないの」という曲には「一人じゃないって素敵なことね」という歌詞がありますが、これは二人でいることの喜びを歌っているので、最近の孤独な人を励ます「一人じゃない」とは意味が逆です。

孤独感を抱えている人は、SNSで「いいね」を求めたり、人とのつながりを求めたりしてSNS依存症になったりしますが、それはSNSのせいというより、孤独感のせいというべきです。


それから、最近の小説や映画には、主人公が不幸な生い立ちで心に悩みを抱えているという設定がやたら多いと感じます。
調べてみると、それは「Sad Girl Novel(サッドガール小説)」や「トラウマ系主人公」といわれて、ブームになっているということです。

最近の小説には、不幸・孤独・トラウマを抱えた若い女性主人公を描く作品が急増していて、これが「Sad Girl Novel」です。
若い女性の自殺者が増加していることと符合します。

「トラウマ系主人公」は 機能不全家庭・ 幼少期の虐待・ 孤独な成長といった過去を抱えていて、物語とともに主人公がトラウマを克服していくという展開になっています。
映画にも「トラウマ系主人公」は多いと思います。

こうした主人公の物語が好まれるということは、トラウマを抱えた読者が増えているということでしょう。
ただ、心理学の知識が普及した影響もあるかもしれません。「毒親」「アダルトチルドレン」といった言葉を知ることで自分の生い立ちを見直す人が増えています。
とくに臨床心理士の信田さよ子氏が“母親と娘”の問題に光を当てて何冊もの本を出版したことの影響が大きいような気がします。
それまで親による子どもの虐待といえば、星一徹のような父親が息子に暴力をふるうというイメージでしたが、信田さよ子氏は母親が娘と密着することで娘を支配するという問題を取り上げました。
こうした母と娘は一見仲良さそうに見えるので、これまであまり認識されていませんでした。

このような家族関係のゆがみがトラウマとなり、自殺の原因にもなります。


心理学の知識によってトラウマが癒されるということはありますが、それはある程度年齢のいった人の場合でしょう。
現在進行形の問題を抱えている小中高校生には役立ちません。
では、小中高校生を救うためにはどうすればいいのでしょう。
ここは心理学ではなくて倫理学の出番です。

小中学校では道徳の授業が行われています。
この授業は、子どもに自分自身を見つめ直させ、道徳的に向上させようというものです。
しかし、子どもには改めるべきものはありません。
改めるべきものがあるのはおとなです。

子どもの周りには悪いおとながいっぱいいます。
「知らないおじさんについていってはいけません」と教えねばなりません。
たとえ家族であっても、性的なことをされたら拒否しなければなりません。
親や教師でも、暴力をふるわれたら逃げて助けを求めなければなりません。
世の中には詐欺商法、ブラック企業などがあります。
こうしたことの対処法を教える授業なら大いに意味があります。
それは子どもの自殺を防ぐことにもつながるでしょう。

悪いおとなが悪くない子どもに道徳教育をしているのが今の世の中です。
親は「悪い子」を「よい子」にしようとして子どもを叱りますが、それがすなわち虐待です。
子どもは悪くなくて、悪いのは親だからです。
このような新しい倫理学の考え方が広まれば、子どもは救われ、幼児期にトラウマを受けるようなこともなくなるでしょう。


私はこのブログでいろいろなことを書いていますが、その根底にあるのがこの新しい倫理学です。
新しい倫理学を理解してもらうためにいろいろなことを書いているといっても過言ではありません。
倫理学はすべての思想の土台になるものです。

新しい倫理学を知るには「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。
本一冊の分量になりますが、要点だけ読んでも役に立つと思います。

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教師や学校に対して理不尽な要求をする親をモンスターペアレントといいます。
客が店や企業に対して理不尽な要求をすることをカスタマーハラスメントといいますが、それの学校版です。
ただ、違うところもあります。
客は店や企業に対して支払いに対するサービスを要求する権利があり、客が優位に立っています。
しかし、親と教師の関係では、教師が親よりも優位に立っています。公立学校はほぽ無償で教育を提供してくれているので、親は教師に頭が上がりません。
とくに昔は、教師はたいてい親よりも高学歴者でしたから、その意味でも親は教師に頭が上がりませんでした。
モンスターペアレント、モンペという言葉が出てきたのは、教師と親の力関係が変わってきたからでもあるでしょう。

モンスターペアレントという言葉は、2007年に向山洋一氏(日本教育技術学会会長)が初めて使ったものとされます。私は尾木直樹氏がテレビでよく言っていたので世の中に広まったという印象を持っています。
ただ、モンスターペアレントの実態は意外と知られていないのではないでしょうか。カスハラについては、たとえばコンビニや飲食店などで目撃することがありますし、企業のカスタマーセンターに理不尽なクレームを入れる客も容易に想像することができます。しかし、モンスターペアレントが出現するのは学校の中ですから、一般の人はほとんど目にすることができません。
ですから、モンスターペアレントのイメージというのは、ほとんど教師の言い分によってつくられています。
一方の言い分しかないというのは不公平です。

「ピクシブ百科事典」に書かれている具体例を引用します。

・自分の子供がほかの子供に対するいじめや、窃盗(万引き)、器物損壊などの罪を犯しても、それを咎めない
・子供同士の喧嘩に介入した上に相手の子供を一方的に悪いと決めつける。さらに「なぜ喧嘩になる前に仲裁しなかったんだ」と学校側に訴える
・「自分の子どもがお遊戯会や運動会で活躍の場が与えられない」と文句をつける
・給食が無償のサービスに含まれていると考え、給食費を払わない(経済的な事情で「払えない」のではなく「払わない」。近い事例に「給食費を払っているのだから、感謝するべきことではない」として「いただきます/ごちそうさま」を子供に言わせないでほしいと訴える親がいるという噂が広まったことがある)
・子供が持ち込みが禁止されている携帯電話を持ってきたため没収すると「没収している間の電話などの料金を払え」と要求する
・教師に朝、子どもを起こしてくれるように頼む
・修学旅行など学外行事に無理やりついていこうとする

「給食費を払わない」とか『「自分の子どもがお遊戯会や運動会で活躍の場が与えられない」と文句をつける』とか「教師に朝、子どもを起こしてくれるように頼む」とかは、明らかに理不尽な要求です。こういう要求の対応に苦しむというのは、教師の対応能力に問題があるというべきでしょう。
とにかく、教師と親の双方の言い分を聞かないと判断できません。
ところが、「私はモンスターペアレント扱いされた者ですが、実際はこういうことなんです」と言う人はいないので、世の中には教師の言い分しか存在しません。


お笑い芸人の吉田敬氏(ブラックマヨネーズ)と粗品氏(霜降り明星)が視聴者の悩みに答える日テレの「吉田と粗品と」という番組に「モンスターペアレンツの増加に悩む32歳小学校教師」という回がありました。冒頭でこの男性教師の言い分が紹介されます。

私は小学校で教師をしているのですが、ここ最近モンスターペアレンツが増えてきたことを強く感じています。ダメなことをした児童を注意したら「うちの子が理不尽に怒られた!」と保護者が怒鳴り込んできたことも。子どもたちが将来きちんとした大人になっていくためにも「ダメなことをしたら叱られる」という経験は必要だと思います。ですが、強く指導するとクレームにつながってしまうのではないかとためらってしまうことがあり、時代の難しさを感じています。児童や保護者とはある程度距離をもって接するべきなのか? それとも「自分の正義」を貫くべきなのか? 教師としてのあり方について日々葛藤しています。吉田さん、粗品さんの率直なご意見を聞かせてください。

電話での会話で、この先生は「モンスターペアレンツは今も増えています。諸先輩方に聞いても昔と比較して多くなったとみんな口々におっしゃいますね」と言います。
吉田氏に「今まででいちばん怒ったのはどんなことですか」と聞かれると、「やっぱりいじめですかね。たとえば物を隠すとか。誰がやったかもわからへんみたいなことでも、問題がおっきくなっていく前にきびしく指導したりはします」と答えました。
状況がよくわかりませんが、誰がやったかわらないのにきびしく指導されたら、やっていない子どもは納得いかないでしょう。
この時点で私はこの先生の指導に疑問を感じました。

吉田氏「きびしく怒っただけでクレームがくるんですか」
先生「そうですね。子どもとしても『こんなん言われた』っていう風にしか伝えていないのか、子ども自身に落ち度があることは隠したまま、言われたことだけを言うとか、そういうことがあるのかもしれないですね」
これは、きびしく指導してもなにも伝わっていないということだとしか思えません。

吉田氏「怒ってくれて僕らは助かりますけどね。僕らはありがたいと思いますよ、そうやって強く」
先生「そう言っていただけるとありがたいんですけど、家庭でもあんまり叱ることが少なくなってきているのか、叱られるということに対してのキャパシティが大人も小さくなっていっているのかなって感じます」

「近ごろの子ども(若者)は叱られていないからだめだ」というのはよく言われることです。
先生と吉田氏と粗品氏は“叱る派”として一致します。

吉田氏「いじめって結構重罪ですやん。心に傷はずっとつくかもわからへんし、直接的な後遺症とかになるかもわからへんし、暴力なんかあった場合。そんなんて今どうやって止めるんですか」
先生「諭すようにとか、厳しい言葉は使わないようにっていうふうに、管理職であるとか教育委員会であるとかは言いますね」
粗品氏「えーっ、無理無茶言いますね」
吉田氏「だってアホやからそんなアホみたいなことをしてるんやから、そんなアホを諭すっていうのはなかなかむずかしいやん。強烈な電気ショックとか、そういう一時的なきつさを味わわせたいとこですよね?」
先生「電気ショックまでは思わないですけど。先生に怒られるからやめとこうという子どもなりのリスクヘッジも、それで守られる子どもがいるなら、それはそれでいいんちゃうかとは思います」
粗品氏「いいですね」

「電気ショック」というのはブラックな笑いが持ち味の吉田氏の芸風ですが、体罰肯定論は前から言っていました。『黒いマヨネーズ』(2019年刊)という著書にも書いたアイデアだそうですが、「体罰棒」というのを教師に渡して、それを使えば子どもをたたいてもいいことにする。ただし、その棒にたたいた回数が表示されるので、あとでどんな状況で体罰棒を使ったかを教師同士で話し合う。そうすれば行きすぎた体罰もなくなるというものです。
お笑い芸人らしいアイデアですが、結局は体罰肯定論です。

昔は体罰肯定論を言う文化人などがテレビでもいっぱいいましたが、どんどん少なくなって、2017年にトランペット奏者の日野皓正氏が演奏中の中学生をビンタするという事件があったとき、松本人志氏がテレビで体罰肯定論を言ったのが最後でした。
しかし、今回の吉田氏の発言で記録が更新されました。

相談者の先生は体罰をしたとは言っていませんが(放送上カットされたかもしれません)、「きびしく指導」とか「自分の正義」を貫くといった言葉から、体罰をしているのかもしれません。
かりに体罰をしていなくても、「きびしい指導」は子どもを傷つけます。
いじめから子どもを守るためには怒ることも必要ではないかというのが先生や吉田氏や粗品氏の意見ですが、子どもを守るために別の子どもを傷つけていたら意味がありません。

吉田氏「この先生は、クレーム上等で必要な場面ではしっかり怒るべきだと思いますけどね。モンスターペアレンツが怖いからなにもしない。じゃあそこで終わってしまいまもんね」
粗品氏「先生は間違ったことはおっしゃっていないので、期待できますよね。この時代に珍しい真っ直ぐな教師として」
吉田氏「生徒の成長のためにも、先生の成長のためにも、怒ったほうがいいんじゃないのというのがこの番組の結論になりますけど」
「影響力のあるお二人からそう言っていただけると、すごいそれが自信になります」


こんなことが世の中の結論になっては困ります。
子どもを叱る教師が増えたら、傷つく子どもも増えます。
「吉田と粗品と」という番組の制作者も社会的責任を考えないといけません。

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先生は「ダメなことをしたら叱られるという経験は必要」だと言いますが、ダメなことをしたときは、教育委員会が言うように、それがなぜダメであるかをさとすように教えるしかありません、。
叱っても理解しません。つるかめ算のわからない子どもを叱ったり怒ったりしてもわかるようにならないのと同じです。
叱るのは教師が感情を発散させているだけです。

吉田氏は中学時代、すごく怖い先生がいて、ほかの先生の授業では先生を無視して暴れるヤンキーも、その怖い先生の授業ではおとなしくしていたという思い出を語って、「恐怖ということも必要やと思った」と言いましたが、「恐怖」は教室に秩序をもたらしただけで、なにかの教育的効果をもたらしたわけではありません。
怖い教師のいる教室でおとなしくしている分、ほかの教室で暴れるのかもしれませんし、そもそもヤンキーは怖い教師を見て暴力を学んだのかもしれません。


戦前は、帝国憲法には義務教育の規定はありませんでしたが、「教育勅語」があり、学校には御真影が飾られていて、教師は天皇の権威を背負っていましたから、モンスターペアレントなど出現しようもありません。
戦後もそれほど変わりません。教師は体罰、暴言などやりたい放題でした。親もそれを歓迎する風潮がありました。親と教師が一体となって子どもを管理しようとしていたのです。吉田氏が「怒ってくれて僕らは助かりますけどね」と言ったのもそれです。
教師に不満を持つ親もいましたが、「子どもを人質にとられている」という認識があって、教師にはなにも言えませんでした。

今もその傾向はあると思います。
この相談をしてきた先生も、小学生相手に自分勝手な指導をしてきたのですが、だんだんと親からクレームを言われるようになったのでしょう。
そのときに、自分の指導を見直すのではなく、「モンスターペアレンツが増えてきた」と認識したのです。

戦後、1969年ごろから自民党と文部省は子どもの人権を無視して管理教育を強化してきました。
反抗する子どもが校内暴力を起こすと力で抑え込み、学級崩壊が起こるとこれも抑え込みました。
つまりモンスターティーチャーを増やしてきたのです。
その結果、不登校、いじめ、自殺が増え続けています(このことは「自民党教育が日本をだめにした」という記事に書きました)。
吉田氏も粗品氏もそうした教育の犠牲者です。

教育界は「モンスターペアレントが増えてきた」と言うのはやめて、「これまでの教師はモンスターティーチャーだった」と認めるべきではないでしょうか。

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保守対リベラルの分断は深刻です。
両者は話し合いをしても決して交わることがありません。
両者は思想が違う以前に、“思考のくせ”みたいなものが違う気がします。
それはなにかということをいろいろ考察してきました。その考察はカテゴリー「右翼思想を解体する」の中に入っています。

今回、『保守派の人々は「滑り坂論法」に陥りやすいという研究結果』という記事が興味深かったので、取り上げてみました。
イギリス・リーズ大学のラジェン・A・アンダーソン氏らの研究チームは、典型的な「滑り坂論法」の文章をいくつも用意して被験者に読ませ、どれだけ「筋が通っている」と思うかを評価してもらいました。そうすると保守的な立場の人ほど「滑り坂論法」の形をした文章を「筋が通っている」と感じやすい傾向のあることがわかりました。

「滑り坂論法」とはなにかというと、「Aを認めるとBを認めることになり、Bを認めるとCを認めることになり……」という形で段階を踏み、最後に「だからAを認めるべきではない」と結論づける論法のことです。
私は、これは「ドミノ理論」のことだなと思いました。
ベトナム戦争当時、アメリカは「ベトナムが共産化されると周辺のラオスやカンボジアなどが次々とドミノ倒しのように共産化されるので、ベトナムの共産化を阻止しなければならない」と主張して、反戦の声の高まりに反してベトナム戦争を続けました。

この論法は今もあちこちで見られます。
ロシアがウクライナ戦争に勝利すると、ロシアはフィンランドやポーランドにも手を出すだろうということがいわれます。
中国が尖閣諸島を手に入れると、次は沖縄を手に入れようとし、さらには日本全土を手にいれようとするだろうともいわれますし、日本が竹島の領有権を放棄すると、韓国は次に対馬の領有権を主張するようになるだろうともいわれます。

この論法を認めると、尖閣諸島を守ることと日本全土を守ることが同じくらい重要だということになるので、明らかにおかしいといえます。
しかし、この論法が正しいと思われるようなこともありました。

ナチスドイツは1933年に国際連盟を脱退し、35年に再軍備を宣言、36年にはヴェルサイユ条約とロカルノ条約を無視してラインラントに進駐しました。このときヒトラーは戦争も覚悟していたといいますが、英仏は抗議しただけでした。
これで自信をつけたヒトラーは38年にオーストリアを併合し、さらにチェコスロヴァキアに対してズデーテン地方の割譲を迫りました。これに対してイギリスのチェンバレン首相は弱腰で、ヒトラーがこれ以上領土の要求はしないと言明したこともあって、ミュンヘン会議でズデーテン併合が認められました。
その後、ヒトラーはチェコ、ポーランドへと侵攻し、世界大戦へと突き進みます。
チェンバレン首相の弱腰によってまさに“滑り坂”になってしまったわけです。

しかし、早い段階できびしく対応していればうまくいくとは限りません。
日本は日清戦争によって遼東半島を獲得しましたが、フランス、ドイツ、ロシアによるいわゆる三国干渉により、日本は遼東半島を清国に返還させられます。
これによって日本は領土への野心を失ったかというと、そうではありません。「臥薪嘗胆」をスローガンにして軍拡を進め、日露戦争、日中戦争へと突き進んでいきます。
きびしい対応が逆効果だったかもしれません。
チェンバレン首相が最初にきびしく対応していれば、ヒトラーとドイツ国民は屈辱を感じて、ドイツ流臥薪嘗胆でより強力な軍事国家になって悲劇をもたらしたかもしれません。

タカ派が「滑り坂論法」を用いる傾向があることを見ても、「保守派の人々は『滑り坂論法』に陥りやすい」というのは事実であるように思えます。

「滑り坂論法」は戦争に関して用いられるだけではなく、日常的にも用いられます。
詳しくはリンク先の記事を読んでもらえばわかりますが、「滑り坂論法」の具体例をいつくか引用します。
・赤ちゃんが泣くたびに言うことを聞いていたら、欲しいものを手に入れるためにいつも大泣きするようになり、しつけの線引きをしなかったせいで、最後は刑務所に入ることになる。
・サイモンの両親が、今日の皿洗いをサボらせたら、来週にはゴミ出しもしなくなり、月末には掃除をまったくしなくなる。
・今日、マークが仕事に1分遅れて来るのを許したら、明日は5分遅刻し、気付けばいつも最後に来る人になる。
・誰にも甘くしてはいけない。甘くすると、相手は付け込んでくる。
・今日、マークが仕事に1分遅れて来るのを許したら、明日は5分遅刻し、気付けばいつも最後に来る人になる。
・ビルがリビングを片付けないと、他の部屋も気にしなくなる。他の部屋も気にしなくなったら、気付けば家じゅうが崩壊してしまう。

これらは、相手の要求を受け入れたり、相手に甘くしたりすると、相手はどんどん要求をエスカレートしてくるだろうという認識で共通しています。
そして、こうした認識でもっともよく見かけるのが、「子どもの要求を受け入れたら、子どもはどんどんわがままになる」というものです。

戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が逮捕起訴され、裁判が始まったころ、政治家や文化人が連名で戸塚宏校長を支持する声明を出したことがあります。石原慎太郎氏を筆頭にして、ずらりと保守派やタカ派の人間が並んでいるのを見て、政治的立場と子育ての方針は関連しているのだということに私は初めて気づきました。
そのとき声明を出したのはどんな人たちだったか忘れてしまいましたが、ウィキペディアで戸塚宏校長の支持者を探すと、西村眞悟氏、小室直樹氏、村松剛氏、田母神俊雄氏、野口健氏などがいます。


「子どもを甘やかすと子どもはわがままになる」というのは昔は一般的な考え方でしたし、今でも子育ての現場ではよく聞きます。
しかし、今は子育ての専門家はほとんどがその考え方を否定しています。
たとえば教育評論家の親野智可等氏はXにこのように投稿しました。
親野智可等
@oyanochikara
·2月4日
「抱っこ」と言ったら「歩けるでしょ」と言わずに抱っこする。「読んで」と言ったら読んであげる。このように子供の願いに応えるのは、親の愛情の発露でありごく自然なことです。願いを受け入れてもらえることで子供は親の愛情を実感します。でも、以前はそれが素直にできない親が多かったのです。というのも、「子供の言うことを聞いてばかりいるとわがままになる。がまんできない子になる」などという迷信が蔓延していたからです。発達心理学の研究で、それが迷信であることがはっきりわかりました。
親野智可等
@oyanochikara
·2月14日
子どものわがままや要求にブレブレの対応をしてしまうママパパに朗報です。
↓↓↓
・決めたルールは絶対に守らせる
・子どものわがままや要求は全て門前払いで交渉の余地もない
・「あとちょっと」「もう一回」「今日だけ」には一切応じない

という親だと、子どもは「自分が願いや夢を持ってもムダ。自分には叶える力がない」という自己無力感にとらわれるようになります。

ちょっとブレてしまうくらいでちょうどいいと思います。もちろん、何の方針もルールもないままブレすぎというのもよくありませんけどね。

親は子どもの要求を聞き、親も子どもに「静かにして」とか「お手伝いして」などと要求を聞いてもらう。そうすることで互いに思いやりや愛情で結びついた親子関係が築けるわけです。

子どもの要求を聞くと子どもがわがままになると思っている親は、子どもを力で支配しているのです。力を少しでもゆるめるとすかさず押し返してくるので、どこまでも押してこられるのではないかという恐怖に駆られるのですが、実際は両者の中間地点、対等の関係のところで止まります。そこが愛情で結ばれる正しい関係の地点です。

子どもを力で支配している親は、子どもを信じることができません。
わが子を信じることができない人間は誰を信じることもできないでしょう。

日本国憲法前文にある「日本国民は、(中略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というくだりは、保守派にきわめて評判が悪いようです(確かに石原慎太郎氏がいうように助詞「に」の使い方は間違っています)。
しかし、北朝鮮政府は信頼できなくても、北朝鮮人民は平和を愛していると信頼することはできるのではないでしょうか。


「滑り坂論法」というのは、要するに相手の要求をひとつも認めたくないときに採用される論法です。
このような論法を使う人間は相手と適切な関係をつくることができないので、結局力に頼るしかありません。
保守派が戦争を好む理由がわかります。

ということは、子どもと正しい関係を持ち、それを世の中に広めていくことは、平和運動にもなるということです。

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日本はかつて一人当たりGDPが世界2位でしたが、今では40位になり、韓国にも抜かれました。
日本は貧しくなっただけではありません。元気もなくなりました。
年寄りに元気がないのは当たり前ですが、若者に元気がありません。
若者にチャレンジ精神がなく、創造性がありません。それが日本経済がだめになった大きな理由ではないかと思います。

なぜ若者に元気がないのかというと、主に学校教育のせいです。
1960年代末、大学で全共闘運動が盛んだったころ、高校でも政治活動が盛んになり、校内で集会を開いたり授業妨害をしたりなどが相次いだため、文部省は1969年に高校生の政治活動を全面的に禁止する通知を出しました。
ここから文部省はどんどん管理教育を強めていきます。その背後には高校生が左翼的になることを警戒する自民党がありました。

70年代後半から主に中学校で「校内暴力」が吹き荒れました。
80年代半ばには校内暴力は収まってきましたが、そのころから小学校で「学級崩壊」が始まりました。子どもが教室内で動き回ったり私語をしたりして授業が成立しない状況が生まれたのです。
しかし、「学級崩壊」もやがて沈静化しました。

文部省が管理教育を強化すると、生徒は反抗します。文部省はさらに管理を強化して、反抗を制圧しました。高校生、中学生、小学生と反抗を制圧し、今は管理教育がうまくいっているように見えます。

しかし、学校内のいじめの件数は増え続けました。2024年の文科省調査によると、いじめの認知件数は73万2568件(対前年で5万620件増)となり、過去最多となりました。
また、不登校も増え続けています。文部科学省の2024年度調査によると、小・中学校における不登校児童生徒数は過去最多の35万3970人(対前年で7488人増)となり、やはり過去最多でした。
2025年の日本の自殺者総数(暫定値)は1万9097人で、1978年の統計開始以来、最少でした。しかし、小中高生は532人で、過去最多を更新しました。
子どもの数はへり続けているのに、いじめ件数、不登校児童生徒数、小中高生の自殺者数は増え続けるという異常事態です。


少なくとも近代学校教育が始まってから、おとなはつねに子どもに抑圧的で、子どもはつねにおとなに反抗的でした。
抑圧されれば反抗するのは当たり前です。
ところが、最近の日本の子どもはほとんど反抗しません。
日本の学校には理不尽な校則がいっぱいありますが、子どもは理不尽な校則に従っています。
よほど抑圧の力が強いのです。

抑圧が強まった主な原因は入試制度の改革です。高校受験と大学受験で内申書重視が行われ、推薦入学枠が拡大しました。そのため教師の権限が拡大したのです。昔は教師ににらまれても入学試験でいい点を取りさえすれば希望するところに進学できましたが、今は教師ににらまれると進学が不利になるので、教師に反抗的な態度を取ることができません。
その結果、子どもの中にストレスがたまって、いじめ、不登校、自殺が蔓延したのです。
こんな学校生活を送ったら、チャレンジ精神も創造性もなくなってしまうのは当然です。


文科省と自民党の教育思想はどんなものでしょうか。
それは道徳の教科書に表れています。
道徳の教科化は、小学校で2018年度、中学校で2019年度から実施され、教科書会社が道徳の教科書をつくるようになりました。
それ以前は、道徳の授業で使われるのは教科書ではなく副読本という位置づけでした。そして、文科省が『私たちの道徳』という副読本をつくり、全国に配布していました。これは「文科省のつくった教科書」というべきもので、そこに文科省の教育思想が表れています。

「私たちの道徳 小学校5・6年」を取り上げてみました。

「(3)自律的で責任ある行動を」という項目にはこんなことが書かれています。
自由とは、何もしないで
楽をするということだろうか。

「自分で考えるのは面倒だから、
だれかがやるのを待っていよう」
「毎日好きなことだけをして過ごそう」
「家の手伝いをしないで、
お世話をしてもらって楽をしよう」

だれかがしてくれることにあまえて、
楽をする。
それが、自由ということだろうか。
   ※
好きな物を
好きなときに
食べる。

買いたい物を
買いたいだけ
買う。

したいことをして
楽しく遊ぶ。

自由って
こういうこと
なのだろうか。
   ※
その自由は、
自分自身を駄目にしていないか。
その自由は、
他人のめいわくになっていないか。
まるで自由がよくないことのように書かれています。
人間は自由になると、食べすぎたり、買いすぎたり、他人に迷惑をかけたり、家の手伝いをしなくなったりするのではないかという不信感が表現されています。
したがって、管理教育が肯定されるわけです。

このあと「自由だからこそ大切にしなければならないことがある」として、「責任」や「自律」について書かれています。
これを読んだ子どもは「自由というのは面倒なものだなあ」という感想を持つのではないでしょうか。
子どもが「自由を我らに」などと言い出さないように工夫されているのです。

ここには「人間は自由になると堕落する」という人間性悪説があります。
こういう教育を受けた子どもは、自分で自分が信じられなくなります。
各国の子どもを比較した調査によると、日本の子どもは自己肯定感が低いという結果が出ています(「日本の子ども・若者の幸福度と自己肯定感~データで見る現状と課題~」)。
これではチャレンジ精神も創造性も出てきません。

子どもの自己肯定感を高めるには、子どもを信じた教育をすればいいのです。
子どもを管理せず、自由に好きなことをさせます。そうすれば積極性も創造性も出てきます。
子どもを信じないということは自分を信じないということで、論理的な矛盾があり、間違った考えです。


道徳が教科化されてから、『私たちの道徳』は廃止され、教科書会社のつくった検定済みの教科書が採択されるようになりました。
しかし、その内容は基本的に変わりません。
小学校の道徳の教科書すべてに採用された「かぼちゃのつる」という話があります。どんな話かと調べてみると、まさに子どもの元気をなくすような話でした。このことは『「かぼちゃのつる」の指導法』という記事に書きました。


長年の自民党の教育によって、日本の若者はすっかりスポイルされてしまいました。
自分が理不尽な校則を守らされてきたので、ルールを守らない他人が許せず、互いに細かいことで束縛し合います。そのため、日本人はマナーがいいなどと外国人からほめられたりしますが、自由な発想ができないという弱点があります。
日本を立て直すには、教育改革と同時に日本人の意識改革もしなければなりません。



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オーストラリアでは12月10日から16歳未満SNS利用禁止法が施行されました。
対象はInstagram、TikTok、X(旧Twitter)、YouTubeなど10のサービスで、運営企業に年齢確認の義務が課されます。
運営企業が違反すると最大約51億円の罰金が科されますが、若者や保護者に対する罰則はありません。
年齢を偽ってアカウントをつくればいいともいわれていますが、今後年齢確認の方法が厳格化されるのかもしれません。

ひところ「ゲーム脳」ということがいわれ、「スマホ脳」ということもいわれました。ほとんど科学的根拠がありません。
その流れで「SNS脳」という考え方があるのかもしれません。
一応禁止の理由としては、ネットいじめや犯罪から子どもを守るということと、SNS依存症の防止ということが挙げられています。

昔、『テレビに子守りをさせないで』という本がベストセラーになったことがあります。
今も日本小児科医会が「スマホに子守りをさせないで」というキャンペーンをやっています。
新しいメディアが出現すると、メディアの子どもへの影響は未知数ですから、おとなは不安を感じるもののようです。

私の世代は子どものときからテレビ漬けになっていました。その悪影響はあるのでしょうか。
昔と比べると、世の中の人間関係は希薄になっています。そこにテレビの影響はあるかもしれませんが、「悪影響」といえるかは疑問です。

SNSをすることでいじめにあったり、犯罪に巻き込まれたりすることはあるでしょう。しかし、それは一般社会にもあるのですから、SNS禁止に意味があるとは思えません。
SNSを使わないでいると、SNSを使うスキルも向上しません。16歳になって初めてSNSに触れると、かえって危険かもしれません。たとえば詐欺で金を取られるにしても、年齢がいっていると金額も大きくなる理屈です。
禁止するのではなく、正しい使い方を教えるべきです。
今後はパソコンやスマホを使いこなす能力は、仕事をする上でも必須です。若いうちからパソコンやスマホになじんでいたほうがいいに決まっています。


子どもがSNSに夢中になり、SNS依存症になるという懸念はあるでしょう。
依存症にならないまでも、SNSに時間を取られるとその分、親子のふれ合いの時間が少なくなります。
これはデータでも示されています。
子どものインターネットの利用時間が親子関係に与える影響をみるために、平日一日のインターネットの利用時間を、「3時間以上」(「4時間以上」「3時間〜4時間未満」)、「1時間〜3時間未満」(「2時間〜3時間未満」「1時間〜2時間未満」)、「1時間未満」(「1時間未満」「ほとんどしない」)という3つのグループに分け、親子関係に関する項目とクロス集計しています。

その結果、日本、アメリカ、中国、韓国の4か国とも、インターネットの利用時間が長いほど、親との会話が少なく、親と話すことや一緒にいることが「好き」と回答する割合も、親と一緒にいるのが「とても楽しい」と回答する割合も低くなっていました。

また4か国とも、インターネットの利用時間が長いほど、親は真剣に自分の話を聞いてくれることが「よくある」という回答の割合が低く、逆に「家族が一緒にいてもそれぞれが携帯電話やスマートフォンを操作している」ことが「よくある」と回答する割合や、「家族と食事や団らんのときでもよく携帯電話を操作する」の肯定率が高かったのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/32fbe7796a76f8667389f93a9ef295cd863f4460?page=1
オーストラリアのアルバニージー首相は16歳未満SNS禁止法が施行された日に、「若者にとって重要な改革だ。子供は子供らしく過ごし、親は安心感を持てるようになってほしい」「巨大IT企業から豪州の家庭が力を取り戻して復権する日だ」などと語りました。
要するに子どもにSNSを禁止すれば、それだけ親子の対話や家族団らんが増えるだろうと期待していて、これが法律の狙いのようです。

しかし、それは考え違いです。
SNSを禁止すれば、その代わりにゲームやテレビに費やす時間が増えるだけかもしれません。

SNSは誰がアクセスしても同じですが、家庭のあり方はすべて違います。
SNSに多くの時間を費やして家族との対話が少ない子どもと、SNSはあまりやらずに家族との対話が多い子どもとなにが違うかというと、SNSは同じなのですから、家族のあり方の違いしかありません。
親との関わりにうんざりしている子どもは、SNSにはまったり、ゲームにはまったり、不良仲間と繁華街をうろついたりして家庭から逃避します。つまりSNSは逃避先のひとつです。
SNSを禁止すれば別の逃避先を見つけるでしょう。親と関わる時間が増えるとは限りません。

最近は依存症に対する見方が変わってきました。
たとえばアルコール依存症や薬物依存症の人は、アルコールや薬物のおかげでここまで生き延びてこられたと考えるのです。
依存することはその人にとって必然だったのであり、単純に依存する対象を取り上げればいいというものではありません。


親が子どもとの会話を増やしたければ、親子の人間関係を改善するしかありません。それが「家庭復権」ということです。
親子が普通に会話を始めても、次第に親が子どもに説教、ダメ出し、叱責をするようになり、そういう会話が繰り返されると、子どもは最初から会話を拒むようになります。そういう家庭が多いのではないでしょうか。
子どもが原因で親子の会話がうまくできないということはありえません。親は子どもより視野が広いので、子どもに問題があっても、親はそれをカバーできるはずだからです。
うまくいかなくて悩んでいる親は、周りの家庭を見て、親子関係がうまくいっている家庭の親はどう子どもに対処しているかを観察すればいいのです。

親子のコミュニケーション法である「親業訓練」を学ぶという方法もあります。

『「親業」に学ぶ 子どもと心を通わせる言葉かけのヒント5選』


SNS禁止というのは、親は変わらずに子どもを変えようという発想です。
しかも、子どもの選択肢を奪っています。これは子どもの権利の侵害です。
こういうことをパターナリズム(父権主義)といいます。「お前は自分にとってなにがよいか判断できないので、私が代わりに判断してやる」ということで、子どもを見下しています。
親が子どもと会話しているうちに説教、ダメ出し、叱責をするようになるのもパターナリズムがあるからです。

もしどこかの家庭で親が子どものSNSを禁止したり、スマホを取り上げたりしたら、子どもは親に反発して、親子関係は悪化します。
オーストラリアはそれを国家規模でやったわけです。


「子どもの権利」ということを理解すれば、こんなおかしな法律をつくることはありません。
オーストラリアの若者には、みずからの権利を守るために戦ってほしいものです。

国全体でSNSを禁止したのはオーストラリアが初めてですが、ニュージーランド、ギリシャ、ルーマニア、フランスなどが同様の措置を検討中だそうです。
バカな国はオーストラリアだけにしてほしいものです。

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人間は自分中心に社会を見ています。天文学の天動説と同じなので、ものごとを深く考えていくとわけがわからなくなります(むずかしい哲学がそれです)。
自分中心を脱した正しい視点から社会を見ていくブログです。


世の中にはさまざまな対立軸があります。
保守対リベラル、男性対女性、富裕層対貧困層、知識人対大衆、先進国対途上国などです。
このほかに、きわめて重要なのにほとんど認識されていない対立軸があります。
それは「おとな対子ども」です。

おとなと子どもはそんな対立する関係ではないと思う人もいるでしょう。
しかし、男性対女性も昔はそう思われていました。フェミニズムが登場して初めて男性対女性という対立が可視化されたのです。

世代間対立があることは誰もが認めるでしょう。
今ならZ世代、氷河期世代、バブル世代、団塊世代などに分かれて対立しています。
しかし、世代をいう場合は20歳前後の「若者」までです。それ以下の年齢の「子ども」世代は無視されています。

日本では1946年の総選挙において女性参政権が認められ、初めての「普通選挙」が行われたとされています。
しかし、このときは20歳以下に参政権はなかったので、実際は年齢制限選挙でした。年齢制限選挙を普通選挙と偽ったのです。

同じことは前にもありました。
1925年に選挙権の納税要件を撤廃した「普通選挙法案」が成立しました。男子のみの制限選挙であったのに普通選挙と偽ったのです。女性は無視されていました。
今は18歳以下に投票権のない年齢制限選挙ですが、メディアは「年齢制限選挙」という言葉を使わずに普通選挙に見せかけています。


どんなに高度に発達した文明社会でも、生まれてくる赤ん坊は原始時代と同じです。
原始時代にはおとなも子どもも似たような意識状態だったでしょう。
しかし、文明社会では、文明化したおとなの意識と子どもの意識が乖離します。
共感性の乏しい親は子どもに愛情を持ちにくくなるかもしれません。
文明社会では礼儀や行儀が重視されるので、親は小さな子どもにむりやり礼儀や行儀を教えなければなりません。これが「しつけ」ですが、このときにしばしば暴力が伴います。
子どもは文明社会に適応するために多くのことを学習しなければなりません。
江戸時代には寺子屋に通わない子どもも十分に生きていけましたが、近代になると社会が急速に複雑化するので、中学までが義務教育になり、高校を出るのは最低限のことになり、大学、さらには大学院に行くことが求められるようになりました。
そうすると、子どもは小さいときから勉強しなければなりません。人間には好奇心や学習意欲が備わっていますが、それだけでは足りないと考えられていて、家庭でも学校でも勉強が強制されます。

つまり文明社会では、子どもに強制的・暴力的な教育としつけが行われているのです。
このようなおとなと子どもの関係は「対立」というのが当然です。
強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは傷つきます。つまり子どもはみな被虐待児です。
これはおとなになっても尾を引くので、おとなはみなアダルトチルドレンです。DV、依存症、自傷行為、自殺につながることもあります。

このような強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは、おとなになると子どもに対して同じことをするので、そのやり方は次の世代に受け継がれていきます。学校の運動部で上級生から暴力的な指導を受けた一年生が、二年生になると一年生に対して同じような暴力的な指導をするのと同じです。


大人と子どもの対立関係はその他の対立関係にも影響します。
たとえば古代ローマ帝国や近代列強は、文明の遅れた地域を植民地化し、そこの人間を奴隷化しました。子どもを暴力的に支配する人間は、文明の遅れた人間を暴力的に支配することが平気でできるからです。
男性が女性を暴力的に支配することも同様です。

私はおとなが子どもを暴力的に支配することを「子ども差別」と呼んでいます。
そうすると、子ども差別、性差別、人種差別が三大差別ということになります。
今は性差別と人種差別をなくそうと努力していますが、子ども差別を放置しているのでうまくいきません。

保守対リベラルの対立のもとにも、おとな対子どもの対立があります。
リベラルは社会体制を改革しようという立場なので、親に反抗する子どもと心情的に共通します。
一方、保守は反抗する子どもを力で抑えつける父親と心情的に共通しています。
アメリカで保守対リベラルの対立が先鋭化しているのは、家庭内で親子関係の暴力的な傾向が強まっているからでしょう。


ところが、このようなおとなと子どもの対立関係は、ほとんど認識されてきませんでした。
おとなは子どもに強制的・暴力的な教育としつけをしていても、子どもはそれを喜んで受け入れているとごまかしてきたのです。女性をレイプした男性が、相手も喜んでいたと主張するのと同じです。
レイプのたとえは決して行きすぎではありません。今の世の中、親から虐待されて殺される子どもが毎年何十人もいます。

おとなの視点からだけ見ていては、おとなと子どもの関係は正しく把握できません。
子どもの視点あるいは神の視点から見て初めて全体像が把握できます。
そうした視点を確立するには次の記事が役に立つはずです。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」

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近ごろ「自己肯定感」という言葉をよく聞きます。
「承認欲求」という言葉もよく聞きますが、このふたつの言葉は表裏一体です。
自己肯定感が低い人は承認欲求が強くなるという関係です。

自己肯定感という言葉が注目されるようになったきっかけは、国際的な調査でアメリカ、中国、韓国の若者と比較して日本の若者の自己肯定感が有意に低かったことです。以来、教育界で問題にされ、教育再生実行会議は「自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓く子供を育む教育」を提言したことがあります。実際、日本の子どもの自殺率はひじょうに高いので、問題になって当然です。

自己肯定感とは「ありのままの自分を肯定する感覚」などと説明されますが、もうひとつよくわからないかもしれません。
「自信」というのは、「いつも数学の成績はよいので数学には自信がある」のように、ある分野で具体的な根拠によって形成されるものです。
自己肯定感は「自分全体についての漠然とした根拠のない自信」といえます。

「自己肯定感」の反対語は「自己否定感」になるはずですが、「自己否定感」という言葉はまず使われません。
代わりに「自分に自信がない」ということがよくいわれます。
「自分に自信がない」は論理的にちょっとおかしい感じがしますが、「自分全体について漠然と自信のない感じ」を表現しています。

アメリカの「交流分析」という心理療法では、人生の基本的な立場は「幼児期における主に養育者とのふれあいの過程で形成される」とし、その立場を「私はOKである」ないし「私はOKでない」であるとします。この「私はOKである」が自己肯定感に当たると考えられます。
「私はOKである」を日本語でいうと「私は大丈夫である」ということになるでしょう。
赤塚不二夫氏は「これでいいのだ」という言葉を座右の銘にしていましたが、「これでいいのだ」も自己肯定感を表現しています。
つまり「これでいいのだ」とか「私は大丈夫だ」という認識が自己肯定感です。


こうした自己肯定感はどうして形成されるかというと、交流分析が「幼児期における主に養育者とのふれあいの過程で形成される」と指摘するように、ほとんどの場合、親によって形成されます。
学校の先生はその子どもの成績については肯定できますし、サッカーのコーチはサッカーの技量については肯定できますが、子どもを丸ごと肯定するのは、普通は親か親の代理人しかできません。

しかし、「『愛情不足』という根本問題」という記事で書きましたが、今の世の中は決定的に愛情が不足しています。とくに不足しているのが親の愛情です。


最近、親は子どもを叱りすぎているのではないかという認識が広がっていて、子どもの自己肯定感を育むためにも親は子どもをほめようということがよくいわれます。
ネットの子育て相談でも、「叱るのはよくない。子どもをほめよう」ということが盛んにいわれています。
教育評論家の親野智可等氏も「子どもをほめていると、子どもの自己肯定感だけでなく親の自己肯定感も高まります。子どもを叱っていると、子どもの自己肯定感だけでなく親の自己肯定感も下がります」とXに投稿しています。


「叱る」と「ほめる」の関係はどうなっているのでしょうか。
「ほめる」の反対語は「叱る」ではありません。
「ほめる」の反対語は「けなす」です。
もともと親は「ほめる」と「けなす」をアメとムチのように使って子どもをコントロールしてきました。
そして、よりコントロールを強化するために「けなす」をエスカレートさせて「叱る」にし、さらに体罰なども加えてきました。そのほうが子どもの行動をより直接的に支配できるからです。
アメは無視されるかもしれませんが、ムチは無視するわけにいきません。


叱りすぎるのはよくないですが、ほめればいいというものでもありません。
そもそもほめるというのは、ほめると叱る(けなす)で子どもをコントロールしようということですから、動物の調教師がやっていることと同じです。子どもを愛することとは違います。

それに、「ほめる」ということには評価が入ります。つまりいいところがあるからほめるのです。
そうすると、よいときにはほめるが、よくないときにはほめないということになります。
子どもは親の評価を気にして自分を見失うかもしれません。
たとえば絵を描くのが好きな子どもがいて、親がほめたりほめなかったりしていると、子どもは親の価値観に影響されてしまいます。
子どもの才能は、外からよけいな力を加えずに、真っ直ぐに伸ばさないといけません。


子どもを叱るのはだめですが、子どもをほめるのも同じようなものです。
では、親はどうすればいいかというと、「あなたがいるだけでうれしい」という態度で子どもに接することです。
そして、子どものすることを見守って、後ろから応援していればいいのです。それ以上のことは必要ではありません。
これが子どもを丸ごと肯定するということです。


子どもの自己肯定感が失われるのは文明の必然でもあります。
文明人のおとなは子どもの自然なふるまいを不愉快に思うので、たとえば公共の場で大声を出したり動き回ったりする子どもがいると、親に対して子どもの行動をコントロールするように圧力をかけます。そうすると、子どもは自然にふるまっているのに親に叱られることになり、自己肯定感を失います。
また、競争社会で劣等感を覚えている親は、子どもに対して優越を示し、自己回復をはかろうとしますが、ここでも子どもは自己肯定感を失います。
ちゃんと自己肯定感が持てている人は、よい親に恵まれた人だけです。


では、自己肯定感が持てなくて悩んでいる人はどうすればいいかというと、自分を愛してくれる人に出会うことです。恋愛は大きなチャンスになります。また、仕事が評価されることで承認欲求が満たされるということもあります。ただ、それらには運も必要です。

もうひとつの方法は、文明社会で自己肯定感が失われるメカニズムを理解し、親ガチャが外れた、自分の親はろくでもない親だったと思うことです。
心の中で親を徹底的に否定すれば、「親を否定することで自己を肯定する」ことができます。


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日本の昨年の出生数は初めて70万人を下回り、合計特殊出生率も1.15と過去最低となりました。
政府はあれやこれやと少子化対策をしてきましたが、まったくといっていいほど効果がありません。
それはしかたのないことで、先進国はどこも出生率は低いものです。

アメリカはずっと人口が増え続けてきましたが、それは移民を受け入れてきたからです。
アメリカの白人に限ってはずっと出生率2.0を下回っています。
ヒスパニックの出生率は高いとされてきましたが、最近は急速に低下して2.0を下回りました。
少子化は先進国病なのです。

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ですから、日本が少子化を克服しようというのはむりな話です。出生率をいくらか上げて、少子化の進行を少しでも遅らせることができれば上出来です。

先進国では少子化が進んでも、人類全体では人口は増え続けています。
現在は約80億人で、国連の「世界人口推計」によると2030年に約85億人、2050年に約97億人となり、2100年には約109億人でピークに達すると予測されています。

ですから、人類の存続を心配することはありません。
日本政府も人類のために少子化対策をしているのではありません。
では、なんのためにしているかというと、日本の経済、財政、年金のためです。
しかし、子どもをつくる人は日本の経済、財政、年金のことなど考えていません。自分と子どもの人生のことを考えています。
ここに政府と子づくり世代の齟齬があります。


それにしても、先進国で少子化が進むのはなぜでしょうか。
一応の説明として、先進国では女性の社会進出が進み、結婚や出産のタイミングが遅れること、家族よりも個人の自由や自己実現を優先する価値観が広がることなどが挙げられます。
低収入や雇用の不安定などの経済的理由も挙げられますが、貧しい途上国で出生率が高いのですから、経済的なことは理由にならないのではないでしょうか。
子育てのための補助金などもあまり効果はないはずです。

では、先進国で少子化が進む原因はなにかというと、文明が発達するほど人間が一人前になるのが困難になることです。

狩猟採集社会では、子どもは遊びの中で狩猟や採集のやり方をみずから学んで一人前になりました。ですから、親はなにも教える必要はありませんでした。
しかし、文明が発達して社会が複雑化するとともに一人前になるために学ぶべきことが増えてきますし、親などのおとなが教えるべきことも増えてきます。
人間はしゃべることは自然に覚えますが、読み書きは誰か教える人がいないと覚えることはできません。そのため近代になると義務教育が始まります。
文明の発達は加速度的に速くなり、義務教育の年限は延長され、今では義務教育は中学校までとされますが、高校まで行くのは最低限に必要とされます。大学に行くのも普通となり、より有利な立場を求める人は大学院に行きます。
江戸時代には多くの人は寺子屋にも行かなかったのですから、短期間に大きく変わりました。

子どもに高度な教育を受けさせるにはお金がかかりますが、負担はそれだけではありません。親は子どもに対して「勉強しなさい」などと言って圧力を加えなければなりませんが、その心理的な負担もあります。
子どもにはみずから学ぶ意欲が備わっていますが、自発的な学習だけでは今の社会には適応できないと考えられています。そのため、どこの国でも同じですが、親は子どもに勉強を強制しなければなりません。
勉強させたい親と勉強したくない子どもが争うことになります。
子どもが学校に行きたがらないという事態も起こります。日本では中学までは教育を受けさせる義務が親にありますから、親はむりをしても学校に行かせようとして、ここでも親子が争うことになります。

学校教育以外に、音楽やスポーツなどの習い事というのもあります。今の日本には習い事をまったくやっていない子どもはひじょうに少ないでしょう。
ピアニストになるつもりもないのにピアノを習って意味があるのかと思うのですが、ピアノの技量を伸ばした経験がほかのことをやるときにも役立つと考えられているのでしょう。
しかし、子どもがみずからやりたがっているならいいのですが、やる気がないのにやらされているのでは、子どもにとっても負担ですし、親にとっても負担です。

ともかく、先進国では「一人前」になるためのハードルがひじょうに高いので、親が子どもを一人前に育てるまでの負担がたいへんです。
しかも、先進国は核家族制なので、その負担はほとんど親だけにかかります。
途上国では親族や共同体の人間が周りにいて、子育てを手伝ってくれるので、その違いは大きいといえます。


一人前になることは、子どもにとってもたいへんです。
江戸時代には寺子屋に通っていない子どもは「勉強しなさい」と言われることもなく、親の仕事ぶりを見て覚えるだけで一人前になれました。
今は二十歳前後までずっと勉強の連続です。
どこの国でも学校にいじめがつきものなのは、勉強がストレスだからでしょう。

1972年、ローマクラブは「成長の限界」と題するレポートを出し、資源の枯渇や環境汚染によって人類の経済成長はいずれ限界に達するだろうと警告し、世界に衝撃を与えました。
しかし、人類の経済成長を制約するものは、資源と環境のほかにもうひとつあります。それは「能力の限界」です。
人間の能力は生まれつき決まっています。これは原始時代からほとんど進化していません。
文明が発達して社会が複雑化すると人間の能力が追いつきません。
これまでは教育を強化することで補ってきましたが、それも限界です。
日本の出生率は1.15ですが、韓国は0.75で、中国は1.00(2023年国連推計)です。儒教文化圏は受験競争が激烈です。自分の子どもを受験競争に駆り立てたくないという人が子どもをつくらないのでしょう。


先進国はどこも出生率2.0を下回っているのを見ると、文明の水準はすでに人間の能力を超えてしまっていると思われます。
少子化を克服しようとすれば、文明社会のあり方を根本的に変革するしかありません。
今の社会は知的能力の高い人が勝ち組になって、知的能力の低い人が負け組になる社会です。
自分の子どもが負け組になるのは誰でもいやですから、それも少子化の大きな原因です。
競争社会から転換して、知的能力の低い人もそれなりに幸せになれる社会を目指すべきです。

もっとも、そういう根本的な社会変革はいつできるかわかりません。
手っ取り早い方法もあります。

今の社会はおとな本位の社会で、子どもが不当に迫害されています。
たとえば赤ん坊の泣き声がうるさいと主張するおとなが多くて、赤ん坊を連れた親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがありますが、今のおとなは泣く子に勝とうとしているのです。
公共の場で子どもが騒いだり走り回ったりするのも非難されます。
公共の場にはおとなも老人も子どももいていいはずですが、子どもは排除されているのです。
そして、子どもが騒ぐと、「親のしつけがなっていない」と親が非難されます。
こうした「しつけ」の負担が親に押しつけられていることも少子化の原因です。

そもそも子どもが騒いだり走り回ったりするのは子どもの発達に必要な行為ですから、おとなの身勝手な理由で止めることは許されません。
子どもがもっとたいせつにされる社会になれば、少子化はいくらか改善するはずです。

とはいえ、21世紀中は人類の人口は増え続けるわけですから、日本は少子化対策をしなければならないわけではありません。
少子化を前提に経済、財政、年金を考えるべきです。


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