村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 日記

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3月11日、動画配信サービスで生配信をしていた、いわゆるライバーの女性(22歳)が東京・高田馬場の路上で白昼に刺殺されるという事件が起きました。
容疑者は配信中の動画を見て居場所を知り、ナイフで襲いかかり、十数秒にわたって「助けて」という叫びがあたりに響き、被害者の体には30か所に及ぶ刺し傷があったということです。
現行犯逮捕された職業不詳の高野健一容疑者(42歳)に最初は非難が集まりましたが、犯行に至る事情が報道されるとともに雲行きが変わってきました。

高野容疑者は2021年12月ごろ、被害女性の配信を見たのをきっかけに出会い、「財布を忘れてしまった」「生活費が足りない」といった理由でお金を求める被害女性にお金を貸し続けました。返済を求めても返してもらえないために高野容疑者は裁判に訴え、裁判所は約250万円を返済するよう被害女性に命じる判決を下しました。
しかし、被害女性は数万円を返しただけで、裁判所の命令を無視しました。こうした場合、債権者が返済してもらうには財産開示手続きをしなければならず、それでも債務者が無視すれば刑事事件化しなければならないというように、ひじょうに高いハードルがあります(司法制度の欠陥です。このため一般の人は裁判所に近づきません)。
高野容疑者は財産開示手続きを行い、警察にも借金トラブルの相談をした記録があるそうです。
女性の預金口座には800円しかなかったという報道もあり、だとすると女性は裁判所の命令を無視する作戦だったと思われます。
なお、高野容疑者は裁判所の認めた借金のほかに「投げ銭」もしていたようです。

42歳の男性が22歳の女性に入れあげるというのも愚かですが、その男性から多額の金を巻き上げる女性も問題です。
高野容疑者はある時点で自分が利用されているだけだと気づいたようで、貸した金の返済を求めますが、女性に無視されたため裁判に訴えるという正当な手続きをします。
しかし、この手続きは手間も時間もかかります。
高野容疑者はライバーの女性が楽しそうにライブ配信をしているのを見て、怒りや恨みの感情をつのらせ、ついに犯行に及んだのかと思われます。

ネットにはライバーの女性を非難する声があふれました。非モテ男性が容疑者に同情したということもありそうです。
「自業自得」とか「殺されて当然」とか「判決を無視することが許されてはいけない」などの意見は殺人肯定の意見と変わりません。


3月14日、東京・霞が関の財務省の前で行われていたデモのそばで、NHK党首の立花孝志氏が支持者と握手をしていたところ、いきなりナタで襲われ、耳と頭部をケガするという事件が起きました。
現行犯逮捕された無職の宮西詩音容疑者(30歳)は、「議員を自殺に追い込むようなやつだからやった」と供述し、殺意を認めています。
宮西容疑者の言う「議員」は1月に自殺した元兵庫県議会議員の竹内英明氏のことでしょう。立花氏の誹謗中傷により県議を辞職し、それでも家族が誹謗中傷にさらされることに悩んでいたということです。
ほかにも立花氏の“悪行”は数々あり、これまで逮捕されていないのが不思議です。

この事件についても、被害者の立花氏を非難する声が圧倒的多数で、容疑者を非難する声はほとんどありません。
そのため殺人(未遂)が肯定されているみたいです。
テレビのコメンテーターなどは「殺人はもちろん許されることではありませんが」と前置きしてから犯行の背景などを説明しますが、そうするといつの間にか殺人を肯定するような空気になってしまいます。


日本には死刑制度があります。悪いことをした人間は殺されるべきだとされているわけです。
もちろんそれは法によって裁かれた上でのことです。個人が死刑を執行するのは「私刑」ですから許されません。
しかし、法律にも不備があって、裁判所の力を借りてもなかなか借金が取り戻せないことがあります。
立花氏も、なぜか検察や警察が手を出さないため、やりたい放題をしています。
法が機能していないなら私刑も許されるという考えが出てきてもおかしくありません。
正義のヒーローが活躍する映画がそういう論理です。
テロリストやギャングに警察が無力なとき、正義のヒーローが登場してテロリストやギャングを殺しまくります。
国際社会も、法の支配がないので、軍事力のある国のやりたい放題になっています。


殺人などを肯定する論理は「正義」と呼ばれます。
死刑や正義のヒーローの殺人は「正義の殺人」です。

「正義」は一般に、悪と戦い、悪を滅ぼすものとされています。
しかし、それは大きな勘違いです。

殺人事件が起こり、被害者遺族が犯人に怒りを覚え、死刑にしてほしいと思ったとします。これはなにかというと、要するに「殺人の連鎖」あるいは「殺意の伝染」です。
昔は直接の復讐である仇討ちが許されていました。仇討ちを考えれば「殺人の連鎖」であることがはっきりします。

たとえばあなたが街中を歩いていて人とぶつかり、罵声を浴びせられたとします。あなたの心の中は不愉快な感情でいっぱいになり、そのためなにかのはずみで人に罵声を浴びせたりします。
反対に人に親切にしてもらったら、自分も人に親切にしないといけないなという気持ちになります。
つまり悪も連鎖するし、善も連鎖するのです。

映画の正義のヒーローは、ギャングやテロリストと同じことをしているだけです。
アメリカで多い銃犯罪の犯人も、自分は「正義の殺人」をしていると思っているはずです。
アメリカの警察官が安易に容疑者を射殺するのも同じです。


「相手が悪いことをしたから、こっちのすることは正義だ」と考えると、悪が連鎖して、どんどん悪が増大していきます。
女性ライバー殺人事件や立花氏襲撃事件について、殺人を肯定するような声が多いのも、悪の連鎖だと考えるとわかるでしょう。

善も悪も連鎖します。
世の中をよくするには、悪の連鎖を少しでも善の連鎖に変えていくことです。
もっとも、それは簡単なことではありません。
というのは、善・悪・正義については人によって理解が違うからです。
ですから、善・悪・正義を基準にものごとを考えると、かえって対立や争いが激化してしまいます。
むしろ善・悪・正義という概念を頭から消し去ったほうが現実をありのままにとらえることができて、うまくいきます。
たとえばヒトラー暗殺はよいか悪いかという問題は、善・悪・正義ではなくもっぱら功利主義(最大多数の最大幸福)から判断するとうまくいきます。

善・悪・正義を頭から消し去る方法については「道徳観のコペルニクス的転回」を読めばわかります。


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「失われた30年」で日本から失われたものは経済力だけではありません。
科学技術力は経済力以上に失われました。
科学技術の注目論文の数で日本は世界ランキングを落とし続けています。

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日本の科学技術力低下の原因として指摘されるのは、科学技術振興予算が少ないことです。
国の経済が成長しないと予算も増えないのは当然です。
しかし、科学技術力は経済力以上に衰退しています。これはどうしてでしょうか。

2004年に国立大学が法人化されました。それを契機に日本の科学技術力は低下し始めました。これは論文数の推移を見ても明らかです。

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国立大学法人化とはどういうものなのでしょう。
中屋敷均神戸大学大学院農学研究科教授の『日本の科学研究が衰退している「2つの理由」』から一部を引用します。

大学という現場にいると、この10年に限らず、2004年の国立大学法人化以降、研究環境は悪化の一途をたどっているというのが実感である。この期間に起こった変化の一つは、大学への競争原理、つまり淘汰圧の導入である。

以前の大学は、贅沢を言わなければ、大学から支給される研究費だけで、細々とではあってもなんとか研究を続けることができた。しかし、大学の法人化以降、「選択と集中」の掛け声の下に改革が進み、それが難しくなっている。運営費交付金と呼ばれる国からの基本給のようなお金がどんどん減り、営業成績に準じたボーナスのような競争的資金と言われる予算が増えた。

運営費交付金の大部分は、職員の給与やその他、大学運営に必須な部分に使われており、結局減らされたのは教員の研究費である。その代わりに競争的資金による研究費を増やすことで、やる気のある研究者は、競争に勝ち抜いて自分でお金を稼ぎなさいというのが政府の思想である。

雇用の形態も競争的になった。特に若い研究者を中心に雇用が任期付きになり、若手研究者は社会的に不安定な身分となってしまった。成果を出し続けないと、任期が切れた際に次の職がない。

大学教員は身分が安定しているので、ろくに研究もしない者がいるという批判が昔からありました。
毎年同じ講義をする教員がいるなどということもよくいわれます。
文科省としては、競争原理を導入することで研究者に仕事をさせようとしたのでしょう。

人を働かせるときに有効だと信じられている方法は、よく働いた者には昇給やボーナスで報い、働きの悪かった者には減給や降格で報いるというものです。つまり賞と罰、アメとムチで働かせるというやり方です。
このやり方は社会の基本となっています。
しかし、このやり方はどんな場合でも有効なわけではありません。むしろマイナスになることがあります。


心理学者のエドワード・L・デシは1970年代の初めにある心理実験を行いました。学生をふたつのグループに分け、どちらにもソマというパズルを解いてもらいます。ソマというのは、ルービックキューブを簡単にしたようなもので、知恵の輪に近いともいえます。デシ自身もソマにはまったことがあるそうです。ひとつのグループには、ソマのパズルがひとつ解けるごとに1ドルの報酬が与えられ、もうひとつのグループには報酬は与えられません。
30分パズルを解いたところで実験の監督者は実験の終了を告げ、なにをしてもいいのでしばらく部屋で待機しているように言います。部屋には雑誌などが置かれています。そうすると、報酬をもらっていたグループは、雑誌を読む者が多く、パズルを解き続ける者は少数でした。報酬のなかったグループは、多くの者がパズルを解き続けました。

パズルはもともとおもしろいものですから、報酬がなくてもやる人間がいるのは当然です。
ところが、報酬をもらった人間は、あまりおもしろさを感じなくなるようなのです。
この報酬のマイナス効果は、最初は心理学者にもあまり信じられなかったそうですが、デシは何度も実験を繰り返して、その結果「外的報酬の悪影響」(アンダーマイング効果)があることを明らかにしました。

アメとムチによる「外発的動機づけ」は、実は「内発的動機づけ」を阻害してしまいます。
内発的動機づけとはなにかというと、
・「よい仕事ができた」という喜び
・「よい仕事をしてくれた」と感謝される喜び
・前よりもよい仕事ができるようになったという成長の喜び
といったものです。
「やりがい」とか「働きがい」というとわかりやすいかもしれません(これに当たる言葉は外国にないという説があります)。
デシはその著書の中で「外から動機づけられるよりも自分で自分を動機づけるほうが、創造性、責任感、健康な行動、変化の持続性といった点で優れていたのである」と書いています。


内発的動機づけを高める上でたいせつなのは「自律性」です。つまり自分のことを自分でコントロールしているという感覚です。
アメとムチによる動機づけがだめなのは、他人にコントロールされているという感覚になるからです。
セールスマンが売り上げに応じて歩合給を得るというのはマイナスになりません。他人にコントロールされていないからです。

もっとも、単純作業の仕事というのは内発的動機づけがむずかしいとされます。
ピラミッドをつくる奴隷は、王の墓をつくりたいという動機がないので、文字通りムチによって働かせるしかありません。

『Humankind 希望の歴史 』(ルトガー・ブレグマン著)という本には、内発的動機づけの経営で成功したオランダの在宅ケア組織「ビュートゾルフ」が紹介されています。介護という仕事は、人を相手にする仕事で、直接感謝もされるので、比較的やりがいを感じやすい仕事だといえるでしょう。

もっぱら内発的動機づけによって仕事をしているのが芸術家です。芸術家にアメとムチで仕事をさせようとすると、かえって仕事の質が低下するでしょう。
利益を度外視して仕事をするような“こだわりの職人”も似たようなものです。


では、科学者はどうでしょうか。
科学者が研究をする動機はおそらく、真理を探究したいとか、人類の進歩に貢献したいとか、科学史に名前を刻みたいとか、世間から賞賛されたいといったことでしょう。
つまりもともと高い内発的動機づけがされているのです。
独創的な発想もそこから出てくるのでしょう。
そこにアメとムチで外発的動機づけを行うことにしたのが文科省です。


研究者は、研究計画書を提出して承認されなければなりませんが、これまではかなりいい加減であったようです。
それが厳密化されて、研究計画書を書くのに時間がかかって研究時間が少なくなるという弊害が生じています。

ちなみに2021年のノーベル物理学賞に選ばれた真鍋淑郎氏は、日本生まれで東大卒ですが、アメリカに渡って気象をコンピュータによって解析する研究をし、現在は国籍を日本からアメリカに変更しています。
真鍋氏は受賞の記者会見で「私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありません」と発言し、日本の研究者をざわつかせました。

ともかく、研究計画が承認されるか否かが重大問題になり、また身分も不安定になったので、研究者は内発的動機づけが困難になりました。
それが日本の科学技術力が低下した大きな原因です。

なお、アメとムチによる動機づけは、怠けている研究者には有効でしょうが、価値ある研究成果を出しそうな優秀でやる気のある研究者にはマイナスでしかありません。


文科省はなぜこのような“改革”をしたのでしょうか。
自民党は新自由主義の政党なので、新自由主義の競争原理と成果主義を科学技術政策にも持ち込んだのでしょう。
大学法人化が失敗だということが明らかになっても改めようとしないのは、イデオロギーに固執しているからです。

さらに、自民党は科学者や学者に敵意を持っているようです。
それは日本学術会議に対する態度を見ればわかります。
科学者へのリスペクトのない政治家が国を治めては科学技術力が低下するのは当然です。


(内発的動機づけについてわかりやすく解説しているサイトはこちら)
「内発的動機付けとは|具体例をわかりやすく解説」

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熊本県の木村敬知事が「今後はAIが代行するから一般事務職はいらない」「(高校の)普通科なんかもいらない」と発言したというニュースがありました。
木村知事は発言を撤回して謝罪しましたが、そもそもなにを言いたかったのかよくわかりません。
いくつかのニュース記事を読んでやっとわかりましたが、そこには日本の教育制度につながる重大問題がありました。

8月20日、「くまもとで働こう」推進本部の初会合が開かれ、建築・土木・測量技術者や介護サービス職など幅広い分野で人手不足が生じている一方、一般事務職では求職者が余っているというデータが示されました。
これに対して木村知事は「私の心の中の長年の持論」として「逆をみると足りていてどうしようもないのが、一般事務とかは、要はいらないんですよ。そういう若者を育てちゃいけないんですよ、僕らは。教育長に過激な言い方だけど、普通科なんかいらないと僕は思っているのね」と言い、さらに「一般事務は全部AIが代行する。これから必要なのは、エッセンシャルワーカーだ」とも述べました。

要するに「技術職や介護職が必要で、一般事務職はいらないので、高校の普通科もいらない」ということです。
あまりにも極論ですから撤回したのは当然です。

木村知事は東大法学部卒業で、自治省(現総務省)の官僚となり、自民党と公明党の推薦で今年3月の熊本県知事選に出馬して当選しました。
高級官僚のエリート意識が生んだ暴言と見なす向きがあります。
ちなみにパワハラとおねだりで問題になっている兵庫県の
斎藤元彦知事も、東大経済学部卒で総務省に入っています。エリート意識で共通しているかもしれません。

ただし、「普通科なんかいらない」は単なる思いつきの暴言ではなく、「長年の持論」でもあったわけです。
実はこの考えは「ゆとり教育」と根が同じです。

ゆとり教育については私は最初のころ漠然と、詰め込み教育はよくないし、自由研究などを増やすと創造性が身についていいんじゃないか程度に思っていました。しかし、ゆとり教育とはそういうものではありませんでした。
ゆとり教育の答申をした教育課程審議会で当時会長をしていた作家の三浦朱門は、ジャーナリストの斉藤貴男氏のインタビューでこのように語っています。
 「学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審をやっていました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。・・・・・・ アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出ている。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが “ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどくいっただけの話だ。」
『機会不平等』斉藤貴男著 文芸春秋40㌻・41㌻

なにしろ会長をしていた人間の言葉だけに、これがゆとり教育の本質を表現しているに違いありません。
「できん者はできんままで結構」とか「できない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」という言葉には、ゆがんだエリート意識と、一般人を切り捨てる非情さが見えます。
三浦朱門は作家だけに誰も言わなかった政府の本音を言ったのでしょう。
なお、三浦朱門の妻の曽野綾子も中曽根臨時教育審議会(臨教審)のメンバーでした。

ゆとり教育は学力低下を招くとして圧倒的に批判され、たちまち捨てられてしまいました。
しかし、2008年の学習指導要領改訂の際には「生きる力」という意味不明の言葉がうたわれました。果たしてどういう方向に変わったのかよくわかりません。

2014年、文科省の有識者会議での
株式会社経営共創基盤CEOの冨山和彦氏の主張がネットで公開されると、議論を呼びました。
その主張というのは、今の大学を、グローバル人材を生み出す少数のグローバル大学と、その他のローカル大学に分けて、ローカル大学は職業訓練校になるべきだというものです。
職業訓練校化というのはたとえば
「文学部はシェイクスピア、文学概論ではなく、観光業で必要になる英語、地元の歴史、文化の名所説明力を身につける」「経済・経営学部は、マイケルポーター、戦略論ではなく、簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方を教える」といったものです。
この主張も「シェイクスピアはいらない」というところなどが反発を招いて、大いに批判されました。

木村熊本県知事の「普通科なんかいらない」も三浦朱門の「
非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」も冨山和彦氏の「ローカル大学は職業訓練校化するべき」も基本的にはみな同じ考え方です。
つまり少数のエリートがいれば、あとはただの労働力でいいという考えです。
こういう考え方は表面化すると批判されますが、政府内では底流としてずっと一貫しているのではないでしょうか。

しかし、こういう考え方は完全に失敗しています。
ただの労働力にされてしまう一般国民の反発を招くだけではありません。
エリートを育てるのに失敗しているのです。

エリートを育てるといっても、官僚や政治家を育てることではありません。
経済発展につながるようなイノベーションを起こせる創造力ある人間を育てることが期待されています。
しかし、日本の科学技術力は目に見えて低下しています。
文科省が8月9日に発表した
「科学技術指標2024」によると、引用数の多い「注目度の高い論文」数の世界ランキングは、かつては3位だったのが、現在は過去最低の13位になっています。
国立大学は2004年に独立行政法人化されましたが、
朝日新聞が国立大の全学長86人にアンケートを行い、20年前と比べた現状の評価を尋ねたところ、回答した79人の7割弱が、悪い方向に進んだと回答しました。
文科省は大学の運営にも「選択と集中」を適用し、研究費を競争して得る仕組みにしました。そのため研究者は安易に成果が得られそうな研究を目指し、申請書づくりに時間を奪われることになりました。それが論文の質の低下につながっています。

文科省は、研究者の好きにさせるとろくに働かないだろうから、監視して、アメとムチで働かせなければならないと考えているのです。
しかし、工場での単純労働ならこのやり方で成果が出るかもしれませんが、創造性が求められる仕事にはむりです。
創造性というのは、心の深いところから、本人もわからない形で出てくるものです。

では、どうやればいいかというと、うまくいっているのがアメリカです。アメリカのやり方が参考になるでしょう。

2021年のノーベル物理学賞に選ばれた
真鍋淑郎氏は、日本生まれで東大卒ですが、アメリカに渡って気象をコンピュータによって解析する研究をし、現在は国籍を日本からアメリカに変更しています。
真鍋氏は受賞の記者会見で「私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありません」と発言し、日本の研究者の心をざわつかせました。日本の研究者は研究計画書をうまく書かないと研究費が下りないので、必死で書いているからです。

NHKニュースの「日本に帰りたくない? ノーベル賞受賞真鍋さんのメッセージ」という記事によると、真鍋氏の気候変動の研究は当時はほとんどその価値が認識されていませんでしたが、真鍋氏には潤沢な資金が供給され、希望する設備はすべて整備されたといいます。
これはもちろん真鍋氏の周りに真鍋氏の研究の価値を理解する人がいたからです。
アメリカには
政府などに対して科学や技術に関する専門的な助言を行う科学アカデミーという組織があります。
各国にも同じような組織があり、イギリスは「王立協会」、日本は「日本学術会議」です。

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しかし、日本学術会議は予算規模がまったく違いますし、学術界と政府の関係も違います。
真鍋氏は日本に関して「政治家と科学者のコミュニケーションがうまくいっていないのが問題だと思います」と語っています。

ご存じのように日本では菅政権が日本学術会議の6名の新会員の任命を拒否するということがあり、政府と学術会議が対立しています。
政府は学術会議を支配下に置こうとしているのです。
安倍首相と菅首相は私立大学出で、学歴コンプレックスから学術会議を敵視しているのだという説がありましたが、これは
安倍首相と菅首相に限った問題ではなく、前から文科省の基本的な方針ではないかと思います。


教育に関しては、自由放任教育と管理教育というやり方がありますが、日本は徹底して管理教育をしてきました。
アメリカでも高校以下は基本的に管理教育ですが、大学以上になると、とくにエリートに関しては自由放任というか、かなり好き勝手にすることが許されます。
そういうエリートが科学や経済界でイノベーションを起こし、アメリカの発展に寄与してきました。
日本でもエリートを育てようという方針はあって、たとえば
政府は10兆円規模の大学ファンドを設立し、その収益金で一部の大学を世界最高レベルに高めるという計画です。つまりグローバル大学をつくろうとしているのです。

しかし、それを仕切っているのは文科省の官僚です。
ファンドの収益金を受け取れる
「国際卓越研究大学」になるには、文科省の官僚に認められなければなりません(第一弾として東北大学が選ばれましたが、その理由が示されないので、なぜ東大や京大でないのかという疑問の声が上がっています)。

各研究者も研究費を受け取るには研究計画書を書いて官僚に認められなければなりません。
文科省の官僚が型破りの斬新な発想を評価できるでしょうか。おそらくそういう研究計画ははじかれて、認められるのは評価しやすい無難な研究計画ばかりになるのではないかと思われます。
つまり日本の学術は文科省の官僚の頭のレベルに抑えられ、そうして日本の
「注目度の高い論文」は減少の一途をたどっているのです。


最後に真鍋氏の言葉を紹介しておきます。

「最近、日本における研究は好奇心に駆られた研究が少なくなってきています。どうしたら日本の教育がよくなるか考えてほしいと心から願っています。
若い人にはやはり自分の好奇心を満たすような、好きな研究をしてほしい。不得意なことはやらないで得意なことをしてほしい。格好のいい研究、格好のいい分野を選ぶことは必ずしも考えないで、自分が本当にやりたい研究をやってほしい。そうすると研究が楽しくてやめられなくなります。一生楽しい人生が過ごせるので、これから、ぜひそういう具合に研究してもらいたい」

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「哀れなるものたち」(ヨルゴス・ランティモス監督)を観ました。

ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ゴールデングローブ賞でも複数の受賞を果たし、アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞を含む11部門にノミネートされるという作品です。R18+指定。

スコットランドの作家アラスター・グレイの小説が原作ですが、物語の骨格がひじょうによくできています。

ビクトリア朝のロンドンで、天才外科医のゴドウィン・バクスター博士は自殺した若い女性の死体に胎児の脳を移植して蘇生させることに成功します。つまり成人女性の体に幼児の心があるという人間をつくりだしたのです。
『フランケンシュタイン』が連想されます。博士の特殊メイクはユニバーサル映画でフランケンシュタインの怪物を演じたボリス・カーロフそっくりです。博士はゴッドの愛称で呼ばれていて、マッドサイエンティストです。実は博士の父親もマッドサイエンティストで、息子の体を使って数々の人体実験をしていました。

ベラと呼ばれる幼児の心を持った女性は予測しがたい奔放なふるまいをします。ベラの心は急速に成長しますが、性的な欲望の制御ができません。遊び人の弁護士ダンカンに誘惑され、ベラも世界を見たくなって、二人でヨーロッパ各国を旅行します。

美術がひじょうに凝っていて、ビクトリア朝の雰囲気がよく出ていますが、ヨーロッパの都市には飛行船が浮かび、ロープウェイの乗り物が動いています。つまりリアルではなく、ファンタジーの要素がかなり入っています。ダークファンタジーともいわれますし、スチームパンクと評する人もいました。ゴールデングローブ賞ではミュージカル・コメディ部門で作品賞を受賞しています。実際、かなり笑える映画です。ウィキペディアには「SFラブコメ映画」と書かれています。


いろんな観方のできる映画ですが、やはり一本の軸となるのはフェミニズムです。
未熟な女性を男が育てるということでは、バーナード・ショーの『ピグマリオン』が連想されます。
最初は未熟だった女性がやがて性的に成熟して男を振り回すということでは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』が似ています。
しかし、このふたつの作品は最後まで男の視点です。
この「哀れなるものたち」は、最初は男の視点でベラが描かれますが、やがてベラの視点で物語が展開するようになります。
ベラは性を通じて自立し、社会主義運動に関わって社会問題にも目覚めます。

このあたりで物語の三分の二ぐらいになります。しかし、ベラの身体になった自殺した女性は誰なのか、なぜ自殺したのか、脳を移植された胎児はどこの子なのかといった疑問がそのままなので、ずっともやもやした気分です。
しかし、ここから疾風怒濤の展開になります。説明するわけにはいきませんが、私は「パラサイト半地下の家族」の後半に似ているなと思いました。格差や差別は、下には下があります。
最後に“究極の差別男”とでもいうべき人間が登場します。偏見で凝り固まっていて、人間らしさがまったくない男です。この男と比べれば、ダンカンなど十分に人間らしく思えます。
こういう男とは戦って勝つしかありません。


ベラはやたら性に解放的です。「性の解放」が人間の解放につながるというメッセージがありそうです。

「クリトリス切除」という話が出てきます。これは「女子割礼」ともいわれ、アフリカを中心に広く行われているということは知っていましたが、私にとってはまるで実感のない話でした。
しかし、この映画の中で出てきたことで、急に実感できました。クリトリス切除は人間性の根源的な部分の剥奪です。

「纏足」も似ています。女性の身体を改変して、男性が支配しやすくするわけです。
マッドサイエンティストが登場する以前から人体改変は行われていました。


この映画は「エログロ」の映画でもあります。
観て感動するには、エログロ耐性が必要かもしれません。

グロテスクなものについての耐性は政治的立場と密接に関係しているという科学的研究があります。
「グロ画像を見た時の脳の反応で政治的傾向が右なのか左なのかがわかる?(米研究)」という記事によると、ウジ虫やバラバラ死体、キッチンの流しのヌメっとした汚れやツブツブが密集したものなどのグロ画像を見たときの反応を脳スキャンすると、右寄りの人のほうが強く反応したということです。右寄りの人と左寄りの人の脳スキャンは、あまりにも違っていたため、わずか1枚のグロ画像に対する脳の反応を見るだけで、95%の確率でその人の政治的傾向を言い当てることができたそうです。

中沢啓治のマンガ『はだしのゲン』は、政治的思想以上にグロい絵の印象が強く、右寄りの人はこの絵で拒絶反応を起こしているに違いありません。

エロについても政治的立場が強く関係しています。
昔から国家権力はわいせつなどのエロを取り締まろうとし、それに抵抗してきたのはつねに左翼でした。
保守派は学校での性教育が過激化しているとして騒ぎ立て、そのために日本の性教育はひどく後退してしまいました。

右寄りの人は当然フェミニズムが嫌いですが、それ以前にエログロという点でこの映画を嫌うでしょう。
しかし、エログロは現実に必ず存在するものですから、それを嫌っていたのでは認知がゆがんでしまいます。
右寄りの人は思想的なことよりもまずエログロ耐性を身につけるべきでしょう。


主演のエマ・ストーンはプロデューサーの一員としてもこの映画に参加していて、それだけ気合が入っているのでしょう。ひじょうにむずかしい役を演じ切りました。
奇妙な設定の、カルト映画になりそうな物語を、メジャーな映画に仕上げて、多くの映画賞を獲得したのに感心します。

ちょっと疑問に思ったのは、「性の解放」といっても、女性は妊娠の可能性があるのでそう簡単にはいかないということです(ベラは娼館で働いたりします)。
今の時代はピルなどの避妊法が開発されて、「性の解放」が可能になりました。
避妊法だけでなく妊娠中絶の権利もたいせつです。
今アメリカで保守派が中絶禁止を強く主張しているのは、女性の自己決定権の問題だからでしょう。

この映画は世界的にヒットしていますが、日本では公開第一週の興行成績は9位でした。
ジェンダーギャップ指数125位の国だからでしょうか。

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(「週刊文春」1月18日号より)

1月8日、吉本興業は松本人志氏の芸能活動休止を発表しました。
あくまで「活動休止」であって、「活動自粛」でも「謹慎」でもありません。つまり悪いことはしていないというスタンスです。

吉本興業としては、松本氏へのスポンサーや国民の風当たりが強いので、松本氏に謝罪の言葉を述べさせてしばらく謹慎させたかったでしょう。そうすれば半年ぐらいで復帰できるかもしれません。
しかし、松本氏は「謝罪しない人」です(杉田水脈議員もそうです)。これまで謝罪するべき場面でも笑いを混ぜてごまかしてきました。
今回は「自分は悪くない」という態度を貫いていて、活動休止発表と同じ日にXへ「事実無根なので闘いまーす。それも含めてワイドナショー出まーす」と投稿しました。

吉本興業は松本氏の意向を尊重して、「裁判に注力するため」という理由をつけて「活動休止」としました。
裁判といっても実務は全部弁護士がやるので、松本氏は裁判しながら芸能活動をすることは十分に可能です。「裁判に注力するため」というのはあくまで口実です。

週刊文春編集部もその日のうちに「一連の報道には十分に自信を持っており、現在も小誌には情報提供が多数寄せられています。今後も報じるべき事柄があれば、慎重に取材を尽くしたうえで報じてまいります」というコメントを発表しています。
そして、次号に掲載される記事の見出しが明らかになりました。それがこの冒頭に掲げたものです。
それによると、新たに3人の被害女性が証言しています。

これから起きる裁判は、松本氏が名誉棄損で週刊文春を訴えるものになると思われますが、被害女性の証言の信憑性が問題になります。写真や録音の証拠がないのが弱みでしたが、何人もの証言がだいたい一致していれば、それが信憑性を保証することになります。
裁判はどう考えても松本氏が不利です。


松本氏は世の中の変化がまるで見えていなくて、ドン・キホーテのように世の中に向かって突進しています。
Xへの「事実無根なので闘いまーす。それも含めてワイドナショー出まーす」という投稿にも、世間の風は完全に逆風です。「ワイドナショーで後輩芸人相手にしゃべっても意味はない。記者会見をしろ」「フジテレビは公共の電波を一人の男の弁解のために使わせるつもりか」などの声が上がっています。
「事実無根なら記者会見で説明しろ」という声はもっともなもので、松本氏の欺瞞を浮き彫りにしています。

なお、松本氏はXを更新して、「ワイドナショー出演は休業前のファンの皆さん(いないかもしれんが💦)へのご挨拶のため。顔見せ程度ですよ」とトーンダウンしました。
「事実無根」であることをテレビで説明できないのであれば、裁判闘争もまともにできるとは思えません。


松本氏はまた、1月5日にXに「とうとう出たね。。。」というコメントとともにあるLINEの画像を貼り付けました。
その画像は「週刊女性PRIM」が報じたもので、被害女性A子さんが小沢一敬氏に宛てたものとされます。文面は「小沢さん、今日は幻みたいに稀少な会をありがとうございました。会えて嬉しかったです。松本さんも本当に本当に素敵で、●●さんも最後までとても優しくて小沢さんから頂けたご縁に感謝します。もう皆それぞれ帰宅しました ありがとうございました」というものです。
性加害にあった女性がこんなLINEをするはずがないと松本氏は主張したいのでしょう。
しかし、レイプされた被害者が加害者に迎合するのはよくあることです。

伊藤詩織さんが山口敬之氏にレイプされた事件において、伊藤さんはレイプされた日の3日後に山口氏にあてて「山口さん、お疲れ様です。無事ワシントンへ戻られましたでしょうか?VISAのことについてどのような対応を検討していただいているのか案を教えていただけると幸いです」というメールを送っていました。
山口氏はこれを性行為に合意があった証拠だとし、山口氏の応援団もこぞって、「レイプされた人間がこんなメールを送るはずがない。伊藤詩織はうそつきだ」と言い立てました。
しかし、人間の心理として、あまりにも衝撃的な出来事があって、心がそれを受け止められないとき、あたかもそれがなかったかのようにふるまうということがあるものです。これがひどくなると、解離性障害といって、記憶が飛んだり、人格が変わったりします。
東京地裁は2019年12月の判決で、このメールに関して「同意のない性交渉をされた者が、その事実をにわかに受け入れられず、それ以前の日常生活と変わらない振る舞いをすることは十分にあり得る」「メールも、被告と性交渉を行ったという事実を受け入れられず、従前の就職活動に係るやり取りの延長として送られたものとみて不自然ではない」と明快に判断しました。
私はこの判決を見て、ほっとしたのを覚えています。当時の常識からは、このメールがレイプのなかった証拠とされることもありそうだったからです。

当時は伊藤詩織さんへの誹謗中傷が激しく、伊藤さんは日本を脱出してイギリスに移住せざるをえませんでした。
しかし、伊藤さんの奮闘のあと、#MeToo運動が起こり、自衛官の五ノ井里奈さんの告発があり、ジャニー喜多川氏の性加害の被害者が声を上げて、世の中の価値観が変わってきました。
ところが、松本氏はこうした世の中の変化を理解していなかったようです。
松本氏から性加害を受けたという女性が次々と出てきたのは誤算だったでしょう。


松本氏は時代が読めないドン・キホーテであるだけではありません。

松本氏の周りの芸人たちは、この問題に関してほとんどコメントしていません。
12月29日の「ワイドナショー」で、東野幸治氏は「ちょっとびっくりしましたけど」と言い、今田耕司氏は「僕が知ってる松本さん、小沢君がとても言うとは思えないです、記事に書かれているようなコメントを。合コンとかしたこと、何度もありますけど」と言い、あと、ほんこん氏は自分のYouTubeチャンネルで「俺の子を産めとか言うかな?」「俺は相当、(松本氏は)自信があるのではないかなと思いますけどね」と言いましたが、3人とも松本氏と直接話はしていないわけです。
親しい関係なら「文春の記事、ほんまでっか?」と聞いて、その返事をみんなに伝えます。
おそらく松本氏は周りの芸人からも超越的な存在なので、おそれ多くて誰もなにも聞けないのでしょう。


吉本興業の経営陣も同じです。
活動休止を発表した前日、日本テレビ「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」の放映があり、冒頭でダークスーツ姿の藤原寛吉本興業副社長が「番組を始める前にわたくしのほうから謝罪とお知らせをさせていただきたいと思います」と切り出し、「2023年、弊社所属芸人が皆様に多大なご迷惑、ご心配をおかけしまして、本当に申し訳ございませんでした」と頭を下げましたが、なにについて謝罪しているのかは言いません。
隣の松本氏が「誰のことやねん。いっぱいいるからわからへん」などと突っ込んでいました。

松本氏の性加害問題を笑いにしてごまかすのかと驚きましたが、どうやらこの番組が収録されたのは文春が性加害を報道する以前のことだったようです。ですから、謝罪の対象は“当て逃げ”の藤本敏史氏のことだったと思われます(ほかに浜田雅功氏の“パパ活”などもありました)。
しかし、冒頭場面をカットするか撮り直しすることもできたはずです。そのまま放映したのは、吉本興業はやはり松本氏の性加害問題を笑いでごまかしたかったのでしょう。

吉本興業の岡本昭彦社長も藤原寛副社長も、今は万博催事検討会議共同座長をやっている大崎洋前会長も、みんなダウンタウンのマネージャーだった人です。つまりダウンタウンのマネージャーをやることで出世して経営の中枢に上り詰めたのです。
経営陣と松本氏は一体です。
経営陣も「事実無根」という主張は無理筋だと思っていても、松本氏にはなにも言えないのでしょう。

松本氏はお笑い芸人として圧倒的権威となり、吉本興業においても稼ぎ頭となったことから、誰も意見できない「裸の王様」になりました。


裸の王様はいずれ恥をかくことになりますが、このままでは吉本興業もいっしょに恥をかいてしまいます。
裁判のゆくえ以前に、吉本興業と松本氏の関係に注目です。

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ジャニーズ事務所は10月2日、性加害問題への対応について2回目の記者会見を行いましたが、NG記者リストの存在が明らかとなって、事態は反転しました。

記者会見直後は、指名されないことに不満を言う記者や、指名されないのに発言する記者がいるなど記者のマナーの悪さが指摘され、井ノ原快彦副社長が「落ち着きましょうよ。子どもたちも見ています」などと言って記者たちをいさめたときには会場から拍手が起きるなど、「一部の記者が悪、ジャニーズ事務所が正義」みたいな図式でした。
ところが、NG記者リストがあるとなると、指名されなくて不満を言った記者のほうが正義ということになり、オセロゲームのようにすべてがひっくり返りました。
さらに、ジャニーズ事務所は指名OKの記者リストをつくっていたことも判明しました。
つまりジャニーズ事務所に批判的な記者は指名しない一方、ジャニーズ事務所に都合のいいことを言いそうな記者を指名して、記者会見をしゃんしゃん大会ならぬ“しゃんしゃん記者会見”にするつもりだったようなのです。

おそらく官房長官や首相の記者会見で指名される記者も質問内容も最初から決まっているのを見て、真似したのでしょう。


私は念のためにYouTubeで約2時間の記者会見をすべて見てみました。

司会者は記者を指名するとき、決まって20秒から30秒ぐらい時間をかけます。勢いよく手を挙げた、いちばん目立つ記者を指名すれば時間はかからないはずです。NGリストとOKリストの顔写真と、手を挙げている記者の顔を脳内で照合しているから、指名するのに時間がかかるのでしょう。

それから、井ノ原副社長が「落ち着きましょうよ。子どもも見ています」と言った場面をニュース番組で見て、会場が騒然としたから、それを収めるために井ノ原副社長がそう言ったのかと思っていましたが、実際は多少騒然としたときがあって、それが収まったタイミングで言っていました。
つまり必ずしも言う必要はない場面でした。
実は井ノ原副社長は質疑応答が始まって25分ほどしたところでも、「落ち着きましょう。落ち着きましょう」と言っていました。
どうやら井ノ原副社長はそういう役回りをすると最初から決まっていたようです。

最初はNG記者を指名しないことでしゃんしゃん会見にするつもりだったかもしれませんが、指名されない記者が騒ぐに違いないと思い直して、「騒ぐ記者対冷静なジャニーズ経営陣」という図式を描く作戦にしたのでしょう。

NG記者リストに入っていた鈴木エイト氏がX(旧ツイッター)に次のような投稿をして、その手口の一端をあばいています。

鈴木エイト ジャーナリスト/作家
ジャニーズ事務所会見当日、私が抱いた最も大きな違和感は”客席”上手側の後ろの方に座っていた男性の存在とその言動だ。大柄なこの男性は質疑応答の際も手を挙げることなく、NGリストの記者が質問者指名選別に異論を唱えていた時、被せるように「捌けよ、司会がぁ!」「司会がちゃんと回せよ!」などと罵声を浴びせていた。私の直感だが、この男性はメディア関係者ではない。各報道において「指名されない記者からの不満の声が~」「加熱する記者に~」というイントロダクションでこの怒号が流れるのは当日の会見場で起こっていたこととは反する。本日の日本テレビの報道では『ジャニーズがコンサル会社に相談「会見が荒れないように手立てを考えて」』とあった。敢えて主催者側が場を荒れさせ、それを“回収”していた疑惑も浮上する。この男性の人物特定が“謎”解明のポイントになるのではないか

ジャニーズ事務所は「騒ぐ記者」まで仕込んでいたようです。
これはかなり悪質です。
これが事実と認定されれば、ジャニーズ事務所の名誉回復は困難です。


ジャニーズ事務所がちゃんと反省していれば、記者会見でなにを質問されても対応できるはずです。
NG記者リストをつくるのは、なにかやましいところがあるからです。

記者会見を聞いていると、いろいろお粗末なところがありました。たとえば被害者への補償のやり方が具体的にはまったく決まっていないようでした。質問したのがきびしい記者でなくて幸いでした。
しかし、その程度のことなら、批判されても低姿勢で切り抜けられるでしょう。

ジャニーズ事務所がいちばん追及されたくないことはなにかと考えると、ジャニー喜多川氏の性加害を東山紀之社長以下の新しい経営陣が知らなかったはずはないだろうということです。このことはこれまで一応否定されてきましたが、あいまいでした。

ジャニーズ事務所の「外部専門家による再発防止特別チーム」の調査報告書によると、「ジャニー氏の性加害は、1950年代から2010年代半ばまでの間にほぼ万遍なく認められた」とされ、その間の被害者の数は「少なく見積もっても数百人がいるという複数の証言が得られた」ということです。

被害者が多数であれば、そのことは隠しようがないはずです。
文春オンラインの記事がその状況を描いています。

 ジュニア時代は豊川誕やJOHNNY'S ジュニア・スペシャルなどのバックダンサーを務めていたという杉浦氏。朝早い番組収録がある日には、麻布十番にあったジャニー氏の自宅兼合宿所のマンション「ドミ麻布」に泊まりに行っていた。150平米ほどの広さで、デビューしたタレントの部屋に加えて、大勢のジュニアが雑魚寝する部屋があった。

 杉浦氏はそこで被害に遭った。

「(雑魚寝部屋で寝ていると)大好きな麻雀を終えたジャニーさんが夜中に帰ってくる。そしてみんなが寝ている場所にやってくる。まず真ん中に入ってきて、そこから右に行くか、左に行くかはわからない。真ん中は基本的に(何も知らない)新しい奴。俺は(被害に遭わないように)端っこで壁にへばりついていました。それでも普通に(パンツの中に)手をいれてくる」(杉浦氏)
(中略)
「『トイレ行ってきます』と言って、朝まで出てこない奴もいました。ジャニーさんがいるから怖くて戻って来られない。そいつはその後すぐ辞めていました」(同前)

 ジュニアたちは皆、ジャニー氏の性加害を怖れていた。しかし、我慢してやり過ごしていたという。

「ジャニーさんに嫌われたら、その先がない。そう考えたら、もうそれしかないわけです。ジャニーさんのやりたいようにやらせるしかない。だって、みんなデビューして名を馳せたいんです。だから逆らえない。一切逆らえない。実力社会じゃなく、やっぱりそこはおかしいよね」(同前)

ジュニアのほとんどは性被害にあっていたようです。

このあたりのことは東京新聞がいくつもの記事を「【ジャニーズ性加害問題まとめ】元Jr.ら、次々と勇気ある告白…社名変更、廃業へ」というサイトでまとめています。

性被害にあわなかった人でも、仲間が性被害にあっていたことはわからないはずはありません。
そうすると、今活躍しているジャニーズ事務所のほとんどのタレントは、ジャニー氏による性加害の被害者か、そうでなくてもジャニー氏による性加害が事務所内で広く行われていたことを知っている人です。

もちろん東山社長や井ノ原副社長も例外ではありません。
そのことをはっきりさせなければ再出発もないはずです。

記者会見でそのことをずばり質問した記者がいました。
NG記者リストに入っていた佐藤章氏です。どうやら司会者が間違って指名してしまったようです。
佐藤氏は、東山社長はジャニー氏の性加害を知っていたのではないか、カウアン・オカモト氏が当時合宿所にいた100人から200人のほぼ全員が被害にあったと証言しているので知らないはずはない、知っていて防止策を講じなかったなら児童福祉法違反の共犯や幇助犯になるのではないかと追及しました。
東山社長は知らなかったと言いましたが、「当時は16,7歳だったので、性加害について理解するのがむずかしかった」とも言ったので、かなり微妙です。
なお、木目田裕弁護士は、東山社長が性加害をかりに知っていたとしても共犯や幇助犯にはならないと言いました。

こういう本質をつく質問をする記者がいるので、ジャニーズ事務所はNG記者リストをつくったのでしょう。


東山社長は社長という立場なのでこのような追及を受けましたが、本来は被害者なので(被害を受けていればですが)、同情されていいはずです。
問題は、経営には関わらない多数の所属タレントたちです。
再発防止特別チームの報告書や被害者の証言からすると、タレントのほとんどは性被害を受けているはずです(本人は被害を受けていなくても、DVを身近に目撃するだけで面前DVとされるように、身近な人間が性被害を受けているのを知っただけで被害者と見なすことができます)。

つまり東山社長以下、多数の所属タレントが性加害の被害者であるにもかかわらずそのことをごまかしていることこそ、ジャニーズ事務所がかかえる最大の問題です。


おそらくファンたちも、自分の“推し”が被害者かもしれないと思って、もやもやした気持ちをかかえているはずです。
日本全国で大量のタレントとファンの関係がおかしなことになっているのです。
この関係を正常化することが、被害者補償の次になされるべきことです。

まず東山社長、井ノ原副社長が自分自身の性被害を告白するべきです。もし自分が被害にあっていなければ、周りの人たちの被害について語るべきです。
それから元SMAPのメンバーあたりが告白すれば、若い人たちも告白しやすくなるでしょう(森且行氏がSMAPを抜けたのもジャニー氏の性加害が関係しているに違いありません)。
芸能活動を続けるにはジャニー氏の性加害を受け入れるしかなかったので、そのことは決して批判されることではありません。
告白すればトラウマの解消にも役立ちます。


みんなが告白すれば、ジャニー氏がとんでもない異常性癖を持った人間だということが明らかになり、ジャニーズ事務所についての見方も変わるでしょう。
ジャニーズ帝国が解体して消滅すれば、それは好ましいことです。

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ジャニーズ事務所の名前を変えるべきか否かが議論になっています。
この名前のままではジャニー喜多川氏による性加害が想起され、被害者が傷つくというのです。
しかし、ジャニーズ事務所はジャニー氏がつくったもので、所属タレントもほとんどはジャニー氏が採用して育成したわけですから、全体がジャニー氏の色に染まっています。名前だけ変えてもたいした意味はありません。

世の中には、ツイッター(現X)で「#ジャニーズ事務所を応援します」というハッシュタグが一時トレンド入りするなど、ジャニーズ事務所やその所属タレントを応援する人がたくさんいます。
一方、ジャニー氏の性加害を告発した被害者を誹謗中傷する人もいて、応援する人との区別がつきにくくなっています。
ジャニー氏のしたことをすべて否定するから、こうした混乱が生じるのです。
ジャニー氏のしたことを、よいことと悪いことに区別しないといけません。

ジャニー氏の性加害はもちろん悪いことです。芸能事務所の社長という圧倒的な権力を背景に、12,3歳という若い子も含まれる少年たちを自身の欲望の犠牲にしたわけで、少年の心に深い傷を残したのは確実です。
しかし、その一方で多数の男性アイドルを育てて、「ジャニーズ帝国」と言われるほどの一大勢力を築き上げました。
このように多数の男性アイドルを育てたのはジャニー氏の功績として評価するべきでしょう。

ジャニー氏が巧みだったのは、フォーリーブスを皮切りに、シブがき隊、少年隊などのようにグループとして売り出したことです。
このグループ戦略は、モーニング娘。やAKB48、さらには韓国アイドルにも広がりました。
おそらく芸能界を一人で生き抜いているアイドルは、若いファンには身近に思えないのでしょう。グループ活動をしているアイドルなら、中学生や高校生にとって親しみがあります。

それから、歌と踊りだけでなく、しゃべりの技術を向上させて、バラエティ番組に進出させたのも成功しました。今ではバラエティ番組はジャニーズのタレントだらけです。

そのような売り出し方もだいじですが、やはりいちばんだいじなのはそのアイドル自身の魅力です。
ほとんどはジャニー氏が選んだのでしょうから、その目利きがすごいといえます。

ジャニーズのアイドルはそれぞれ個性的で、多様な人間が集まっていますが、全体として一定の傾向があります。
学校のクラスでいえば、優等生タイプはいません。あまりイケメンでない、ひょうきん者はいます。不良っぽいのもいますが、ほんとうの不良みたいなのはいません。
そしてなによりも、体の大きい筋肉質の男、つまりマッチョはいません。これがなによりの特徴です。
つまり「男くさい」のはいなくて、全員が「少年っぽい」のです。
これはEXILEと比べてみれば歴然とします。EXILEは全員マッチョで、「男くさい」のがそろっています。ジャニーズと好対照です。
なお、不思議なことにジャニーズのアイドルは何歳になっても「少年っぽい」ままで、「貫禄」がつきません。

こうした特徴は、おそらくジャニー氏の好みによるのでしょう。
ジャニー氏は、好みの少年を事務所に入れて、ハーレムを形成しました。ハーレムからその日の気分に合わせて少年を選び出して、夜の相手をさせていたわけです。
ジャニー氏の性癖は、同性愛でかつ小児性愛ということになるでしょう。
同性愛自体は問題ではありませんが、小児性愛は、その欲望を実行に移すと犯罪になってしまいますから、めったに満たされることはありません。
ところが、ジャニー氏は自由にその欲望を満たしていたわけです。
世界広しといえども、現代にこのように欲望を満たしていた人間はほかにいなかったのではないでしょうか。


ジャニーズ事務所のアイドルが芸能界を席巻したことで、世の中の価値観が変わりました。
ジャニーズのアイドルのような「少年っぽい」男がいい男、もてる男ということになりました。
「男くさい」男、マッチョな男は人気がなくなりました。
若い男性は女性にもてるために、ジャニーズのアイドルのような男を目指したので、日本の若い男性全体がジャニー氏のハーレムの方向にシフトしたことになります。

ジャニーズ事務所の社名を変えるより前に、日本はジャニー氏によって変えられていたのです。

もっとも、「男くさい」男から「少年っぽい」男へのシフトは、平和な時代が長く続いたことが主な原因です。ただ、ジャニー氏がその変化を加速したということはいえるでしょう。
この変化がよいか悪いかといえば、私自身はよいと思っています。軟弱な男が増えたということで、それだけ戦争しにくくなるからです。


なお、秋元康氏プロデュースのAKBグループ、坂道グループのアイドルにも一定の傾向があります。
学校のクラスでいえば、不良、ギャル、ヤンキーっぽいのはまったくいなくて、優等生っぽいのばかりです。
おそらくこれは秋元氏の好みなのでしょう。
日本のアイドル文化は、2人の男の個人的な好みによって決定されているのです。

そして、このアイドル文化は日本社会のあり方にも影響を与えているに違いありません。


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ジャニー喜多川氏の性加害問題に関する「外部専門家による再発防止特別チーム」が8月29日、調査報告書を公表し、ジャニー氏の性加害について「長期間にわたって広範に未成年者に対して性加害を繰り返していた事実が認められた」としてかなり具体的に記述し、さらに藤島ジュリー社長の辞任を求めました。
この「特別チーム」はジャニーズ事務所が設置したものなので、ジャニーズ事務所に対して甘い内容の報告書になるのではないかと見られていましたが、意外なきびしさでした。

ジャニー氏の性加害問題は、1999年に「週刊文春」が本格的に追及し、ジャニーズ事務所が「週刊文春」を名誉棄損で訴えますが、「その重要な部分について真実」とする判決が2004年に確定しました。
ところが、新聞もテレビ局もこの問題をほとんど報じず、ジャニーズファンや国民も関心を示さないので、まるで問題がないようなことになっていました。
ジャニーズ事務所の力が圧倒的に強いのでテレビ局は批判などできず、ファンもアイドルのイメージを傷つけたくなかったのでしょう。

ところが今回、イギリスのBBCの報道をきっかけに少しずつ日本のメディアも報道するようになり、さらに国連人権理事会の調査チームが来日して国際問題化し、世論も関心を高めていました。
そうした流れがあったので、「特別チーム」の報告書もきびしいものになったのでしょう。

こうした流れを形成するのに力があったのは、ジャニー氏による性加害の被害者が次々と顔出しして被害を訴えたことです。
こうなるとニュース番組も報道しないではいられません。
ジャニーズ事務所としては「性加害はなかった」あるいは「性加害のことはわからない」としたいところでしたが、被害者が出てきたのではそうもいきません。


セクハラ被害者が顔出しして被害を訴えたということでは、自衛隊員の五ノ井里奈さんがそうでした。
五ノ井さんは訓練中に男性隊員からセクハラ被害にあったことを自衛隊に訴えますが、黙殺されたので、やむなく顔と実名を出してマスコミに訴えました。たった一人で自衛隊を相手に戦ったのですが、昨年12月に加害者の隊員5人が懲戒免職になるなどの処分が発表され、戦った成果がありました。

こうしたことの元祖は、ジャーナリストの山口敬之氏にレイプされたと訴えた伊藤詩織さんです。
伊藤さんは就活中の学生時代に山口氏にレイプされましたが、山口氏は安倍首相のお友だちであったため警察が逮捕状を執行せず、顔出しして被害を訴えました。警察と検察を動かすことはできませんでしたが、民事訴訟では最高裁まで行ってほぼ完勝に近い結果でした。


今の時代、「被害者の感情」というものがひじょうに重視されます。

もともと悪を罰するのは「正義」の論理によっていました。
ところが、今は「正義」の価値がはなはだしく下落しています。なにかを主張するとき「正義」を名目にすると、絶対反論されるはずです。
法務省が死刑制度を正当化するときも、アンケートで死刑賛成が多数であるという「国民感情」を理由にします。
なにか凶悪な殺人事件が起こったときも、決まって被害者遺族がテレビのインタビューで「死刑を望みます」と語る場面が流されます。
テレビのコメンテーターなども、事件や迷惑行為や不倫などについてなにか主張するときは最終的に「被害者の感情」に結びつけます。

今や「被害者(遺族)の感情」が「正義」に代わって社会を動かす原理になっています。

「被害者の感情」を世の中に訴える場合、被害者の顔が見えるのと見えないのとでは大違いです。
それに、被害者本人がいると、間違った主張にすぐに反論できます。

韓国の人気女性DJであるDJ SODAさんが8月13日、大阪の音楽フェスティバルで複数の人間から胸を触られるという痴漢被害にあい、X(旧ツイッター)で公表しました。
その中に「公演中にこんなことをされたことは人生で初めてです」とあり、これは日本人批判だということで反発が強まりました。
そして、海外の公演で体に触られている動画とともに「海外でも痴漢にあっている。DJ SODAは嘘つきだ」という主張が拡散しました。しかし、これにはDJ SODAさんがすぐに「その触っている人物は私のボディガードです」と反論して、収まりました。
また、「露出の多い服装をしているから痴漢にあうのだ」という批判も山ほど発生しましたが、DJ SODAさんは「服装と性犯罪の被害は絶対に関係がない」「原因はセクシーな服装ではなく、加害者」と反論しました。


伊藤詩織さん、五ノ井里奈さん、ジャニー氏の性加害の被害者たちが勇気ある告発をしたことで、世の中の空気も変わってきましたが、これらの人たちは猛烈な誹謗中傷にさらされました。
伊藤さんは日本にいられずイギリスに移住しましたし、五ノ井さんはあまりの誹謗中傷に昨年10月、ツイッターに「人を中傷する人生なんて何が楽しいのか分からない。誰かの悪い所10個探すより人の良いところを10個探した方が楽しい。早く笑って過ごしたい。もう耐えるのも疲れてきた」と心情を吐露したことがあります。
ジャニー氏の性加害の被害者たちも「売名行為だ」「カネ目的だ」と批判され、「『死ね』っていうメールが毎日来た」(橋田康氏)というぐあいです。


顔を出してセクハラなどを告発する人間がなぜこれほどに誹謗中傷にさらされるのでしょうか。
それはセクハラなどの被害者が顔を出して告発することがきわめて効果的だからです。
しかも、これまでの告発は性的な問題にとどまらず、安倍政権、自衛隊、大手芸能事務所という権力構造を標的にするものでした(実は権力構造がセクハラの温床だったわけです)。
ですから、保守的な人たちは「小娘や若僧が権力の根幹を揺るがしている」といういら立ち覚えて、誹謗中傷を浴びせているのでしょう。

今後も勇気ある告発をした被害者は、こうした誹謗中傷にさらされるでしょうが、セクハラ、性加害、レイプが悪いという認識の広がりを止められるはずがありません。

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オリエンタルラジオの中田敦彦氏がYouTubeで松本人志氏を批判したことが波紋を広げています。
その広がり方が尋常でなく、しかも、みんなの言っていることが明らかに的外れです。
お笑い界の人間はみんな松本氏にこびているから的外れなことしか言えないのだろうと推測しましたが、推測していても始まらないので、問題の発端である「中田敦彦のYouTube大学」の〈【松本人志氏への提言】審査員という権力〉という動画を見てみました。



まず思ったのは、中田氏の松本氏批判は想像以上に辛辣だということです。
今の世の中、名前を挙げてここまで直球に人を批判するのはめったに見られません。
そのために波紋が尋常でない広がりを見せているのでしょう。

ただ、43分もある動画です。内容をわかりやすく文章でまとめたものがあればいいのですが、探しても見当たらないので、自分で書くことにしました。

私自身はというと、かなりお笑いが好きで、バラエティ番組をよく見ています。松本氏はキャラクターとしては好きではありませんが、お笑いの才能は高く評価しています。


中田氏の話は、「THE SECOND」という漫才大会のことから始まります。
「M-1グランプリ」という漫才大会は出場資格が結成15年以内の漫才師となっていますが、「THE SECOND」は結成16年以上の漫才師を対象として今年から始まりました。これによってすべてのキャリアの漫才師が賞レースに参加できることになったわけです。
昔から関西のお笑い界では賞の出る大会がいくつもあって、吉本興業は受賞した芸人のギャラを高くするなどして、受賞歴が高く評価されていましたが、東京にそうした大会はなかったそうです。
そこにM-1が始まって、優勝者や準優勝者が売れるようになると、東京にも賞レース至上主義、漫才至上主義のようなものが広がります。
それまでは「ボキャブラ天国」とか「エンタの神様」のような、テレビのバラエティ向きの笑いがいくつもあり、漫才はその中のひとつでしたが、今は漫才の格式が高くなっているということです。

このようにお笑い界における賞レースの位置づけが語られます。これはお笑いに興味のない人にはどうでもいいことですが、これは重要な前振りです。

中田氏が言うには、M-1は審査員に特別に光が当たる大会です。とろサーモンの久保田氏が審査員の上沼恵美子氏と起こした騒動もありましたが、昔は島田紳助氏の言葉が注目され、最近は松本氏の言葉が注目されます。松本氏が「もっと点数入ってもよかったと思いますけどね」と言うと、言われた漫才師はすごくフィーチャーされます。
そして、中田氏は「松本さんがあらゆる大会にいるんですよ」と言います。
ここからはできるだけ中田氏の言葉で伝えることにします。

「松本さんはなんだかんだで若手を審査する仕事がめっちゃ多い。第一人者だから、カリスマだからという意見もあるかもしれませんが、カリスマ的芸人でもたけしさんやさんまさんはそんなに審査員はいっぱいやらない。ここが松本さんの特筆すべきところで、松本さんはあらゆる大会を主催して、あらゆる大会の顔役になっていったんです」
「審査員って権力なんです。この権力が分散していたらまだいいんですけど、集中してるんですね。松本さんは漫才(M-1)にもいて、コント(キングオブコント)にもいて、大喜利(IPPONグランプリ)にもいて、漫談(すべらない話)にもいる。全部のジャンルの審査委員長が松本人志さんというとんでもない状況なんです」
「これでどうなるかというと、松本さんが『おもしろい』と言うか言わないかで、新人のキャリアが変わるんです」
「この権力集中っていうことは、松本さんがそれだけ偉大な人だから求められているんだともいえるけど、求められていることと実際にやるのは違うことなんです。求められたとしても、実際にやることがその業界のためになるかというと、僕の意見としてはあまりためにならないと思う。なんでかっていうと、その人の理解できないお笑いっていうのは全部こぼれ落ちるから」
「だから、新しい大会で新しい審査委員長が出てくればいいけど、新しく始まったTHE SECONDのアンバサダーという役割は松本さんだった」

ここまでは松本氏が審査員をやりすぎていることに対する批判です。
ここから松本氏個人に対する批判になります。

「お笑いって芸術じゃなくて、徹底的に大衆演芸で、受けたほうが勝ち、より多くの笑いを取ったほうが勝ちなんですよ。ところが、松本さんって価値観に介入する人なんです。M-1の審査のときでも、『もっと受けてもよかったな』とか『もっと点数入ってもよかったな』とか言う。大衆の反応よりも審査員の好みとか思想が優先されるんですよ。テツandトモはリズムネタですごい受けたけど、『あれは漫才じゃない』という理由で落とされてしまう」
「松本さんが『あれおもしろいな』って言うのはいいと思うんです。しかし、『あれおもしろくないな』って言うのは業界全体にとって悲劇なんですよ。受けてない人は世に出てこないから、ほっとくじゃないですか。松本さんが『あれおもしろくないな』ってことさら言うときって、売れてる者に対して言うわけですよ。その最初が『遺書』っていうすごい売れた本で、めちゃくちゃ売れてるナインティナインさんをめちゃくちゃこき下ろしてるんですよ。それって必要ないことじゃないですか。そういう『あれおもしろくないな』を何度かやるんですよ」

「松本さんに対してなにもものが言えない空気ってすごくあるんですよ。ジャニー喜多川さんの件にしても、ジャニーさんが生きてる間に言いなよっていう意見があったりするけど、生きてる間に言えなかったんだろ。それがいちばんの問題なんじゃねえの」
「松本さんの映画がおもしろいかおもしろくないかって、芸人が誰も言わないんだよ。観てないはずがないのに。みんな『松本さん、審査員ちょっとやりすぎじゃないですか』ってどっかで思ってるけど、言えないんだよ」
「みんなの代わりに言っちゃおうかなって。松本さんは審査員をやりすぎちゃってる。何個か辞めてもらえないですか。M-1だけに絞られるのがよろしいんじゃないですか」


中田氏はずっと松本氏からディスられてきて、今は吉本興業を辞めて、登録者数500万人のユーチューバーになったので、松本氏に言いたいことが言える立場になったということです。

中田氏の主張で、いまだに松本氏を超える芸人が出てこないのは今までの審査体制がよくないからだというのがありますが、これについては必ずしも賛同できません。松本氏を超える才能が存在していなかっただけかもしれません。

ただ、松本氏が審査員をやりすぎているのはよくないという主張には全面的に賛同します。
なにごとであれ、権力が集中するのはよくありません。そのために独占禁止法があり、三権分立があり、民主主義があるのです。
松本氏が実力と人格を兼ね備えた人であっても、長く権力の座にいると次第にわがままで傲慢になっていきます。
「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉の通りです。
松本氏が「もっと点数入ってもよかった」と言うのは、松本氏が“審査員の審査員”という立場にあることを意味し、すでに独裁化しているといえます。


松本氏が審査員をやりすぎているために日本のお笑いが広がりを欠いているかどうかはむずかしい問題ですが、たとえば、とにかく明るい安村氏はイギリスのオーディション番組「ブリテンズ・ゴッド・タレント」で決勝進出という快挙を成し遂げました。こういうお笑いは漫才至上主義から出てこないことは確かです。
また、「有吉の壁」はショートコント中心の番組で、斬新な発想に満ちていて感心しますが、こういうのも松本氏の発想の外かもしれません。


中田氏の提言に対して、松本氏はツイッターで名前は挙げずに「テレビとかYouTubeとか関係なく2人だけで話せばいいじゃん。連絡待ってる!」と投稿しました。
公開での提言に対して「2人だけで話せばいいじゃん」と返すのはどうなのでしょう。自分なりの答えを示してほしいものです。

オリラジの相方の藤森慎吾氏はYouTubeで「やってくれたなという言葉に尽きますね」と言い、松本氏が審査員を多く務めていることについても「松本さんって方がいらっしゃるからこそ、大会の価値もものすごい上がっていると思う」と中田氏と立場の違いを示しました。

明石家さんま氏は週刊誌記者に聞かれて「松ちゃんがいっぱい審査員してるのどうってか?『ええなあ仕事あって』と思ってるよ」と答えました。この問題には関わらないつもりのようです。

お笑い界の人は基本的に松本擁護、中田批判です。
「実力があるから審査員をやっている」「松本さんに審査されたいし、ほめられたい」といった芸人の声は、一応中田氏の提言を受け止めていますが、わけのわからない返しをする人もいます。
ほんこん氏は「松本さんが審査員全部辞めるわってなったら、どないすんの?」と言い、上沼恵美子氏は「松本さんご本人は責任を果たしてるだけやと私は思う。いっぺんやってみ、審査員。大変やで」と言い、トミーズ雅氏は「土俵がちゃうねん。日本背負っている人と、500万人のYouTube背負ってる人やろ。一緒な訳ないやないかい」と言いました。
理屈になっていないのは、松本氏の圧倒的な力にひれ伏しているからでしょう。

吉本興業の大崎洋会長と岡本昭彦社長はともにダウンタウンのマネージャ―だったところから出世した人で、おそらく松本氏は会長や社長とも対等に口が利けるのでしょう(大崎会長は近く退社して大阪万博組織のトップに就任する予定)。
松本氏の権威と権力が日本のお笑い界を重苦しくしていると感じられてなりません。

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長野市の青木島遊園地という公園が近隣から「子どもの声がうるさい」という苦情があったために来年3月に廃止されるという報道があると、さまざまな反応があって、大きな話題となりました。

子どもが公園で遊べばさまざまな声を出すのは当然です。昔から子どもはそうしてきました。家の近くの道路や空き地でも同じです。
「子どもの声がうるさい」という苦情がふえているのは、子どもの声は変わらないのですから、不寛容なおとながふえてきたということです。
ですから、問題を解決するには、不寛容なおとなを寛容なおとなに変えていくしかありません。
ところが、この公園廃止問題を追及することがさらに不寛容なおとなをふやす方向にいっています。


日刊スポーツの記事によると、お笑い芸人の千原せいじ氏は自身のインスタグラムにおいて、長野市の青木島遊園地が来年3月に廃止されるというネットニュースのスクリーンショットを載せ、『「変な街」とつづり、「#千原せいじ #変な街 #住みたくない街 #市議会議員どないしたんや #恥ずかしい」とタグを並べた』ということです。

行政や市会議員を批判するのはわかりますが、「変な街」とか「住みたくない街」という発想には驚きました。
私は日本人全体の傾向がたまたまこの街に強く出ただけと思いましたが、千原せいじ氏は街を悪者にしています。こういう発想が日本の分断を招くのだなと、ある意味感心しました。

やがて「子どもの声がうるさい」という苦情は一件だけだったという情報があり、行政の対応に批判が集まりましたが、さらにその一件は信州大学の名誉教授だという情報が出て、今度は名誉教授にも批判が集まりました。

ひろゆき氏は「子供の公園を許容出来ない人は名誉教授に相応しいですか?」とツイートするとともに、信州大学名誉教授称号授与規程として「第7条 名誉教授にふさわしくない行為を行った場合は,教育研究評議会の議を経て,名誉教授の称号を取り消すことができる」という文を引用しました。
名誉教授の称号を取り消せと言わんばかりです。
このように個人攻撃をあおるのは、いかにも2ちゃんねる創始者のひろゆき氏らしいやり方です。

「子どもの声がうるさい」と言うクレーマーに対して、「クレーマーの声がうるさい」と反応するのは「不寛容の連鎖」です。これでは事態はどんどん悪くなります。
クレーマーの心を解きほぐすような対応が必要です。

スポニチの記事によると、モデルでタレントのトリンドル玲奈さんは12月9日、コメンテーターを務めるTBS系「ひるおび!」において、クレーマーの名誉教授に対して「その人も子供の時代があったわけじゃないですか。きっと子供の時は声を上げて遊んでいただろうし、今の子供たちも声というのを騒音と捉えるのはちょっと違うんじゃないかなと思います」と発言しました。

「自分も子ども時代は声を上げて遊んでいただろう」とクレーマーに指摘することは、自分を見つめ直し、寛容な心を取り戻すきっかけになることがあります。
しかし、そうならないことのほうが多いでしょう。というのは、クレーマーは子ども時代に「うるさい」と親や周りのおとなから叱られていた可能性が大きいからです。つまり「不寛容の世代連鎖」があると想像できます。そういう人は子ども時代のことを回想しても効果はなく、逆効果になるかもしれません。


ところで、騒音問題というのは、音の大きさだけで決まるのではありません。
人間は風の音、川のせせらぎ、波の音、小鳥のさえずりなどの自然音は不快には感じません。むしろ癒されます。
子どもの遊ぶ声というのは小鳥のさえずりと同じ自然音ととらえてもいいはずです。
少なくとも昔の人間はそのような感覚だったのではないでしょうか。
文明社会は激しい競争社会なので、おとなに強いストレスがかかり、それがいちばん弱い子どもに向かって発散される傾向があります。

近所のピアノの音がうるさいという問題もありますが、これも決して音だけの問題ではなくて、ピアノを弾く人と聞く人の人間関係に左右されます。
ピアノを弾く人に好感を持っていれば、へたなピアノの音も不快に感じません。「前よりちょっとうまくなったな」などとほほえましく思ったりします。しかし、ピアノを弾く人を嫌っていると、かりにピアノがすごくうまくても、その音が不快に感じるものです。

ですから、「子どもの声がうるさい」というのも、決して音量の問題ではないのです。


現在の公園廃止の議論は、子どもを無視して行われています。
たとえばスポニチの記事によると、お笑いコンビ「ロザン」がYouTubeチャンネルにおいてこの問題を取り上げ、「“子供は宝、子供は天使”とみんなが思うってのは違う。全部許容すべきだという論調でいっても解決しない」「例えば、何曜日の何時から何時までは使っていいよ、とか、“グレー”を探したのかなと」「当事者同士でやってた時のような、中間を取った答えを出した方がいい。第三者が入ったら、“子供は禁止”か“子供は宝”のどっちかのジャッジしかなくなる」といった議論をしました。
つまり「子どもの声がうるさい」という人と「子どもを遊ばせたい」という人が話し合って、中間の結論を出すのがいいというわけです。

誰からも批判されない無難な意見のようですが、根本的な問題は、子どもが排除されているところです。おとなの意見を平均すると、その着地点は子どもからは遠いところになってしまいます。


日本は子どもの意見がまったく排除されているところが異常です。
意見だけでなく子どもの存在感もありません。

昔は地域社会のつながりがあって、おとなが近所の子どもを見ると、「山田さんちの下の子だ」といった認識があって、声をかけたりしていました。
そうするとおとなも自然と子どもに寛容になったはずです。
今は都会ではそうしたつながりはきわめて薄くなりました。

ここはメディアの出番です。
青木島遊園地の問題がこれだけ騒がれたのですから、テレビが近所の子どもたちにインタビューして、公園廃止についてどう思うかと聞けばいいのです。
「公園をなくさないでほしい」とか「遊ぶ場所がなくなって不便」といった切実な声が上がれば、「子どもの声がうるさい」という声を打ち消すことになるかもしれません。
もうすでに公園で遊ぶ子どもは少なくなっていたということですから、案外「公園なんかなくてもかまわない」という意見が多いかもしれませんが、それはそれでいいことです。
要は当事者である子どもの意見を聞くことがたいせつです。
子どもが顔を出して意見を言うことで、おとなも子どもの存在を意識して、配慮するようになるはずです。

ところが、「子どもが意見を言う」ということが日本では異常に嫌われます。
たとえば14歳のYouTuber「少年革命家」のゆたぼんさんは「不登校の自由」などを主張して年中炎上していますし、現在21歳の女優の春名風花さんは、9歳からツイッターを始めて政治社会の問題にも発言して数々の炎上を引き起こしましたし、現在19歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんは、15歳のときに「気候のための学校ストライキ」を行い、国連で演説するなどして世界的な注目を浴びましたが、日本では「生意気」「親のあやつり人形」など非難の嵐でした。

子どもの意見表明権は子どもの権利条約でも認められています。
第12条
1.締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

しかし、メディアだけでなく学校でも子どもの意見はまったく無視されています。
おそらく子どもの意見を聞くと、「なぜ勉強しなきゃいけないの」「なぜ学校に行かなきゃいけないの」などと面倒なことを言うのを恐れているのでしょうが、こういう意見に向き合うことでおとなも成長します。

なお、子どもの権利条約には子どもの「遊ぶ権利」も規定されています。
第31条
1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。

代替措置もせずに子どもの遊び場を廃止することは、子どもの遊ぶ権利の侵害です。


考えてみれば、「子どもの声がうるさい」という不寛容なおとなを寛容なおとなに変えるのは、人間の内面の問題ですから、けっこうたいへんです。
それよりも「子どもの権利」を押し立てて社会を表面から変えていくほうが簡単かもしれません。

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